#9 Layla

クリーム解散後、ブラインド・フェイス、ジョン・レノン・バンド、デラニー&ボニー、その他一曲~数曲のみのセッションワークを含めると、挙げ切れない程、60年代末から70年初頭にかけてクラプトンはスタジオ及びライブで精力的に活動しています…いや、精力的というよりは、正しくは”やけくそ”、じっとしてはいられない、決して充実した音楽活動とは言い難い、満たされない思いを埋めるため、ドラッグとアルコールと共にやみくもに突っ走っていた、という表現の方が適当なのではないかと私は思っています(ただし、結果的に素晴らしい演奏として昇華されているものも少なくありません)。
その根底には、言うまでもなく、パティ・ボイドの存在があったからです。もし初めて知った方の為にざっくりと(後はご自身で検索を)、公私ともに、尊敬するミュージシャン、そして親友でもあったジョージ・ハリスンの妻を愛してしまったのです。親友の妻に対する、許されざる愛の葛藤から生まれた名曲「Layla」。これを全く否定するつもりは毛頭ありませんが、この三角関係に関しては、かなり美化して語られていることが多いように見受けられる為、若干、天邪鬼的な心持ちも込めて、知り得る限り客観的事実を。

ジョージとパティの結婚は66年、しかし天下のビートルズ ジョージ・ハリスン。女性にモテない訳がない、結婚後も他の女性との関係はあったそうです。一方、クラプトンもとにかくハンパなくモテる、当然本人もキライな方ではない、というか人一倍女性が好きな健全な男性でした(ひどい書き方だな…)。そして、パティも当時、ツイッギーと並ぶトップファッションモデルの中の一人で、当然、女性としての自意識は高かったでしょう。「アタシの旦那は、天下のジョージ・ハリスン。でも天才ギタリスト エリック・クラプトンもこのアタシに惚の字なのよ♡」といった気持ちがなかった訳ではないと思います。要は三者三様、異性関係にルーズだった、という側面は決して否定出来ないと思います。以前BSで、「Layla」が作られた経緯、その周辺のドキュメンタリー番組があったのですが、当時周りにいた関係者の証言によれば、最初にモーション(表現が古いな…)をかけたのはパティの方と言われています。ジョージが女性関係やその他で、最近自分に振り向いてくれなくなった、の様な相談を持ち掛けたのが始まりとか何とか。
クラプトンも後に率直に語っていますが、ジョージは大親友であったと同時に、大きな家、高級車、そして美しい妻を持っている、男として対抗心を燃やす対象でもあったようです。ある日クラプトンは、ついに意を決して、君の妻を好きになってしまった、と告白したそうです。当然ジョージは憤然として、その場を立ち去ったそうです(当たり前だ(´・ω・`))。
一方、パティの方はと言うと、自分で”色目”を使っておいたものの、タイミングが良いと言うべきか、悪いと言うべきか、クラプトンから”告白”された時は、ジョージとの関係が修復されてていた時期であったこともあって、その時は”ごめんなさい<(_ _)>”したそうです。

「Layla」や「Bell bottom blues」は、その様な時期に作られた曲です。さらに70年は、ジミヘンドリックス及び”父”であった祖父の死、と彼の周りで不幸が続きます。人間誰しも、肉親や近しい友人との別れ、また思い通りにならない事は、程度の差はあれ避けられない事なので、これらをもってクラプトンの麻薬や酒に対するのめり込みを、仕方のない事などと言うつもりは毛頭ありません。端的に言って、メンタルが弱かった、と言われてしまえばそれまでの事です。
また「Layla」を語る際、この三角関係を、”親友の妻を愛してしまった男が、苦しみの中から創り上げた狂おしいほどのラブソング”の様な、かなり美化されて紹介されているのがしばしば見受けられますが、(当たり前ですが)実際はそんな物語のような話ではなかった様です。

ここまでこんな書き方をしてきて言うのもなんですが、この曲が、ここまで多くの人々を現在に至るまで魅了してきたのは、やはりクラプトンのパティに対する想いだと思います。「オマエ、さっきまで随分、幻滅させる様なことばかり書いてこなかったか?( ゜д゜)」
と言われても無理ないことなのですが、しかし、やはり、この曲には何か言いようもない、得体の知れない力が宿っているのではないでしょうか
。勿論、楽曲が優れていることは言わずもがなです。非常にキャッチーで、それでいて思わず拳に力が入ってしまう様な、あの印象的なリフが何より、と思えば、歌のパートに入ると転調するといった、一筋縄ではない構成になっており、そして後半のピアノから始まるパートへと、異なる曲をつなぎ合わせたアレンジなど。ただの凡庸なR&Rやブルースに終始してはいません。
しかし(本当に私、この曲をdisってる訳じゃないんですよ、鼻血が出るほど好きです(´・ω・`;))、スティービー・ワンダーやエルトン・ジョンなどの数多の名曲と比べて、単純に、音楽的に楽曲だけを取り上げた場合、同列に挙がる曲かと言われると、残念ながらそうではないと思うのです。じゃあ、何故、この曲を聴くたび血沸き肉躍り、随分長い事聴いてきたにも関わらず、時にはこんなオッサンの涙腺を崩壊させるのか、月並みな言葉になりますが、やはり、この曲にはHEART、そしてSOULがあるから、という一言に尽きると思うのです。
さらにタイミングが良かった。クラプトン自身のコンディション、出会えた仲間たちなど。自身も後に語っていますが、ギタリストとして一番ノっていた時期が、デレク&ザ・ドミノスの頃であった。歌は、ドラッグとアルコールでかなり苦しいそうな歌い方に聴こえなくもないですが、ギリギリの感じで、より切なさが増すような声になっていると思います。あと1~2年遅かったら、酷い状態になっていました。実際72年は全く活動をせず、未成年の少女と隠遁生活に陥っていました。デラニー&ボニーから”引き抜いた”、ウィットロック、レイドル、ゴードンという、素晴らしいリズムセクション。名プロデューサー トム・ダウドが関わったこと、そして何よりも、本アルバム「Layla and Other Assorted Love Song」の楽曲の殆どに参加し、クラプトンと共に素晴らしいプレイを繰り広げたデュアン・オールマンの存在があります。

”三角関係”等の経緯の話でスペースを費やしてしまい、本作の音楽的部分等にはあまり触れることが出来ませんでした。で、二回に分けます。ちなみに少しだけ「Layla」以降の話を。ジョージとパティの間はまた冷え込んでいき、パティはロン・ウッドと浮気を、ジョージはリンゴの奥さんとこれまた関係を、結局二人は74年に離婚。クラプトンは徐々にパティにアプローチしていき、離婚後に同棲を始め、79年に遂に結婚。しかしクラプトンもその間、パティ一筋だったかというと、”当然”そんなことはなく、星の数ほどの女性と付き合っていたそうです(もう何がなんやら…(´Д`))。

やはり一回でこの話を書き切るのは無理でした
(だから言ったでしょ、長くなるって・・・( ̄m ̄*))

次回、その2へ。次は本作の音楽的部分・制作経緯等を。
(二回で終わるかな~… (´・ω・`))

#8 Crossroads

ロンドンのやや南に位置するリプリーという町に、1945年3月30日、一人の男の子が誕生しました。母親が十代半ばという若さでの出産だった故、祖父母を両親、母を姉、そして叔父を兄として、少年はある時期まで育てられました。”兄”エイドリアンが音楽好きだったため、ベニー・グッドマンなどのジャズ、初期のR&Rといったアメリカ音楽を、その少年は”兄”の影響あって聴き育ち、やがてその中の一つである” ブルース ”に少年は魅せられてしまいます。中古で買ってもらったギターで、ひたすら寝食を忘れて練習する日々が続きました。少年の名はエリック・パトリック・クラプトン。言わずと知れた”ギターの神様” エリック・クラプトンその人です。

クラプトンの公式な音源として最も古いものは、63年12月にアメリカのブルースマンサニー・ボーイ・ウィリアムソンのバックをヤードバーズの一員として務めたものです。ここでのプレイは決してその後の様なものではなく、クラプトンだと知っていて聴けば、その後の片鱗を見い出せるかな、といったプレイであり、知らずに聴いたら、言い方は本当に申し訳ないですが、凡庸なブルースギタリスト、といった印象を個人的には受けるものです。実際、ウィリアムソンは「ロンドンでブルースを演っているという若い連中とプレイしてきたが、退屈な演奏だった」の様な旨を後に語っていたそうです。(余談ですが、その語った相手は後にクラプトンにも多大な影響を与える「ザ・バンド」のメンバーでした)。ところが翌64年3月、「Five Live Yardbirds」においては、技術面・フィーリング等において、クラプトンのスタイルは基本的に完成されています。このたった三ヶ月ほどの間に何があったのか?ある著書で述べられていたことですが、”まさしく「十字路」で悪魔に魂を売り渡す契約をしてしまったのではないか?それ程までに驚くべき進歩だ” とでも思わざるを得ないほどの劇的な成長なのです。

”ポップ化”していくヤードバーズに嫌気が差し、当時イギリスにおいては、希代のブルースコレクターでもあった、”ブルースの師匠” ジョン・メイオールのバンドに参加し、ここでレスポール&マーシャルアンプという、その後のロックギターサウンドに多大な影響を与えるトーンを創り出します(クラプトンの使用機材遍歴については、語っているとそれだけで一冊本が書けてしまうので、今回はあまり詳しくは記さないこととします)。その後、”最強のロックトリオ” クリームを結成し、大きな話題を集めます。
このバンドの様な長い即興演奏は、人によって好みが分かれる所でしょうが、ロックにおいて、ブルースをベースに各メンバーの力量を思う存分振るう、といったスタイルの音楽は当時としてはかなり斬新であり、また衝撃的だったことでしょう。

ロバート・ジョンソン 作の「Crossroads」。アルバム「Wheels of Fire」に収められているこのライブ演奏は、50年近く経った現在でも、クラプトンの、というよりロック史に燦然と輝く名演として取り上げられるプレイです。この時期の本曲の演奏はブートレグを含めて、幾つか聴くことが出来ますが、本作収録の68年3月10日ウィンターランドでの演奏が白眉です(だからこそ収録されたのでしょうけれども)。
ヘヴィメタル・ハードロックを好んで聴く方達からすると、”そんなに速く弾いてないじゃん”と思う向きもあるかもしれませんが、このフレーズセンス、音色、そしてグルーヴの素晴らしさが、半世紀を経た今の世でも語り継がれる理由でしょう。ジミ・ヘンドリックスのような革新的なプレイではありませんが、流麗で艶っぽく、時に泣き叫ぶ(またはむせび泣く=ウーマントーン)様なクラプトンのプレイが、多くの人たちの心を掴んで離さないのでしょう。
この当時でも、クラプトンがロックギタリストの中で最も上手かった(速く、複雑、かつ正確に演奏する、という意味における技術において)かというと、必ずしもそうではないと思います。既にデビューしていた中では、例えばイエスのスティーヴ・ハウ、テンイヤーズ・アフターのアルヴィン・リーなどは、その意味のテクニックにおいてはクラプトンより上だったかもしれません。また先述したザ・バンドのロビー・ロバートソンもかなりの技巧派だったようです。
なぜクラプトンが同時期に活躍していた彼らよりも突出して注目を浴びるようになったのか?私見ですが、”分かり易さ”だと思っています。シンプルであるが、それでいて人間の根源的な感情に訴えかけてくる様なマイナーペンタトニックスケールに根ざしたフレーズ(演歌民謡に通じる様な)、うっとりするほど綺麗なチョーキングビブラートなどは、かなり長い年月を聴いてきた現在でも今だに惚れ惚れしてしまいます。スティーヴ・ハウはバリバリにクラシックを、アルヴィン・リーはジャズをかじっていた人なので、テクニックのバックボーンはクラプトンとは異なる、というか上であったと言っても良いでしょう。Charさんが以前テレビにて、「自分がどうして少年時代、あれほどクラプトンに魅かれたのか、それはフレーズが全部口で歌えた、からではないかと思う。当時はまだよく分からなかったが、クラプトン自身もシンガーであることに起因していたのではないか」の様なことを仰っていました。口で歌える、言い換えれば「歌心があるギター」と言えるでしょうか。
ハウやアルヴィンのクラシック・ジャズ的要素は、ポップミュージックにおいては、時に容易な音楽的理解を妨げる、有体に言えば、分かりずらい・難しい、という側面も持ち合わせしまっています。さらにもう一つ、これを言ったら身も蓋も無い事なのですが、クラプトンは見た目が良かった、という点もあったと思います。あのルックスで、あのギターの腕前で、人気が出ない方がどうかしてしている、と言って良い程でしょう。ハウやアルヴィンがもっとイケメンだったら、少しロック史が違っていたかもしれません(お二人とも、本当すいません <(_ _)><(_ _)><(_ _)>)。

人間関係等からバンドが長続きせず、またザ・バンドの様に歌と音楽に心を注ぐ方向を目指したくても、テクニック面のみに注目が集まってしまい、音楽そのものに対する評価が得られない状況などにストレスを抱え、クラプトンはドラッグとアルコールに溺れていきます・・・・・それだけではないですね。当然ご存じの方は「一番大きな問題があっただろう!」とツッコミが入るでしょう。
それは次回のネタですので……… あまりにも有名なエピソードですので、普通に語られているのとは、ちょっと変わった切り口でその件については書いてみたいと思っています。

もっと簡潔に書くつもりだったのですが、随分長い文章になってしまいました。おじさん、クラプトンの事になると筆が止まらなくなっちゃうんです。
(´・ω・`)
次はもっと長いかもしれません。覚悟していなさい。

#7 There and Back

78年暮からヤン・ハマーと共にレコ-ディングに取り掛かった、本作「There and Back」は、一度制作が中断され、79年6月からジェフは再びツアーに出ることとなります。ウィキ等では、その仕上がりに満足がいかなかった為と述べられている所ですけれども、真偽の程は不明ですが、実はヤンが他のメンバーの彼女に手を出したことで、人間関係に亀裂が生じたことによる、という話もあります。いずれにしろツアー終了後に、共演したトニー・ハイマス(key)、サイモン・フィリップス(ds)そしてモー・フォスター(b)というオール英国人の布陣で制作が再開されました。ハイマスは王立音楽院卒のエリート、フォスターはイギリスのジャズロックシーンにおいて名うてのセッションベーシスト、そしてサイモンは70年代後半から、イギリスプログレ界のスター達が集結した「801 Live」や、マイク・オールドフィールドのアルバムなどで、めきめき頭角を現しつつあった新進気鋭の若手セッションドラマーでした。

 

 

 


①~③がヤン加入時、④~⑧がその後、と曲順の並びで分かり易くなっています。しかしそれによって、ガラッと楽曲・サウンドの印象が変わっているという事はなく、本作全体に”孤高のギタリスト ジェフ・ベックが紡ぎ出す宇宙的音世界”とでも呼ぶにふさわしい、独特で一貫した印象の素晴らしいアルバムに仕上がっています。ジェフは、全く出来ないというわけではないでしょうが、アレンジ・プロデュースといった能力にはあまり長けていない、根っからの”ギター職人”の様な人なので、本作の統一感は、ハイマスが、ヤンの作って行った楽曲・サウンドのコンセプトを踏襲した、またプロデューサー ケン・スコットによるものかと思われます。スコットは、ビートルズのエンジニアとして有名なジェフ·エメリックとともに、アビーロードスタジオで仕事をしていました。エメリックと同様、特に後期ビートルズのサウンドメイキングに関わった人物です。
「Star Cycle」は、私を含めたオッサン世代は耳にしたことがあるはず、プロレスがまだゴールデンタイムでテレビ放映されていた頃、新日本プロレスのオープニングテーマに使われた曲。ちなみにこの曲、ドラムはヤンによるプレイ。前作でも叩いていますが、それはとても上手いのですが、やはり本職ではない人、特有の感じがありました。(もっとも、S・ワンダーなどもそうですが、本職でないプレイヤーは目からうろこ的な、大胆でシンプルなフレーズをいともあっさりとプレイしてしまったりして、非常に驚かされることがあります。また、ヤンもスティーヴィーも、そのグルーヴは素晴らしいものです。)しかし、本曲におけるドラムは上手過ぎます。恥ずかしながら、かなり長い間、サイモンのプレイだと信じて疑わなかった程です。ただ、それ以外の曲とは少しドラムの音色が違うな、と感じてはいましたが。
「Space Boogie」におけるサイモンの怒涛のプレイが有名ですが、「The Pump」「The Golden Road」などでのセンシティブなプレイも必聴ものです。サイモンのドラミングに関しては、ここで語り尽くすにはスペースが足りないので、是非また別の機会に。

R&R、ブルース、R&B、ファンク、そしてジャズ・フュージョンと、様々なスタイルを経てきたジェフですが、本作にてその後のサウンドが確立された様に思います。全編インストゥルメンタルであるのは前2作同様ですが、本作はジャズ・フュージョンとはカテゴライズ仕切れない、まさしく、”ジェフ・ベック・サウンド”としか言いようのない音楽が成立しています。
エリック・クラプトンと同じく、ジェフのプレイが、ブルースにそのルーツがあることは間違いないのですが、オーソドックスな、ペンタトニック・スケールに根ざしたブルースを追及するクラプトンに対して、ジェフは(クラプトンに比べれば)トリッキーで、革新的なサウンド・奏法(機材の扱いを含め)を追い求めてきた、と言えるでしょう。ジミ・ヘンドリックスと共にロックギターに革命を起こした、と常々評されるのは衆目の一致するところです。
つい先日、来日公演を果たし、その際のインタビューにて「尊敬する友人であり、勿論最高のギタリストであるが、エリック(・クラプトン)みたいに同じスタイルの音楽(ブルース)を延々とやり続けるのは自分には出来ない、音楽で実験することを楽しむタイプなんだ」と語っていました。無論どちらが良い悪いということではありません。ですが、72歳で” まだ新しいことやるんすか!! (゜ロ゜) ”というのは驚愕です。
顔のシワこそ深く刻まれてはきていますが、まだまだ”ロック”しているジェフを見ていると、自分もこんな年寄りになれれば良いなと、少しでも近づくことが出来ればと思い、日々練習に励むようにしております。

3回に渡り、ジェフ・ベックについて書いてきましたが、具体的な奏法・テクニック面についてあまり触れることが出来ませんでした。その辺は是非また別の機会にて、という事でジェフ・ベック編はひとまず終了です。

#6 Wired

ジェフ・ベックが「Blow by Blow」を制作するに至ったのは、その当時、マハヴィシュヌ・オーケストラなどのジャズロックに傾倒していた為で、G・マーティンにプロデュースを依頼したのも、彼が当時、マハヴィシュヌの最新アルバムを手がけたことが理由と言われています。そして、本家マハヴィシュヌのオリジナルメンバーヤン・ハマーもプロデューサーに迎えて作り上げたのがこの「Wired」。
前作よりも、アグレッシブな”バトル”色が強まった感があるのは、ヤンの加入があったことによるものかと思われます。オープニング曲「 Led Boots」のドラミングを聴いて、「何じゃ、こりゃ~!Σ(゚◇゚;)」と、かなりの方がぶっ飛んだのでは。その後80年代からは、ホイットニー・ヒューストンなどのプロデュースで有名になるナラダ・マイケル・ウォルデン。ミュージシャンとしてのキャリアのスタートはあくまでドラマー。当時、マハヴィシュヌにいたナラダをヤンが引っ張って来たのでしょう。
前作から引き続き、マックス・ミドルトン(key)もほぼ全編に渡りプレイしています。
本作ではクラヴィネット・エレピにて殆どバッキングに徹していて、シンセでの目立つソロはヤンによるものと思われますが、二人のプレイスタイルを聴き比べるのも、また一興です。(一例として「Play With Me」にて、クラビネットによるイントロ~バッキングがミドルトン、シンセでのソロがヤン)ヤンは「Blue Wind」にてドラムもプレイしており、これが結構上手い、天は二物をうんちゃら…ってのは絶対ウソです。

 

 

 


本作中、唯一のカバー曲「Goodbye Pork Pie Hat」はジャズベーシストチャールズ・ミンガス作のものですが、他の曲における派手なプレイに耳を奪われがちですけれども、本曲中でのジェフのプレイ、とりわけ音色、場面場面におけるそのトーンセレクションは素晴らしいの一言に尽きます。ジェフの多彩なトーンコントロール、そのチョイスの巧みさは、彼の特徴としてよく挙げられる所ですが、本曲におけるそれは、個人的にはジェフの全プレイ中でも一二を争うものだと思っています。ドラムは更に、これも前作から引き続きのR・ベイリー、LAのセッションドラマー エド・グリーンも参加していて、非常に贅沢なリズムセクションのラインアップとなっています。

ロック畑のプレイヤーが、ジャズ・フュージョンの人たちと組むと、そのテクニックに”喰われて”しまうこともあるのですが、ジェフの凄い所は、それをものともしない堂々っぷりではないでしょうか。速く、複雑に、かつ正確な演奏をする、という技術の点においては、ジェフはヤンやナラダより、率直に言って明らかに劣っています。しかし全くそんなことに気後れもせず、”これが俺の音だー!”と彼にしか弾けない唯一無二のプレイを、これらの猛者に対しても何の躊躇いもなく演奏しているように聞こえます。(ただ意外にも、G・マーティンのコメントによると、ジェフは案外、自分のプレイに「これで良かったのだろうか?」と後から悩む一面もあったとの事)更に言えば、ジェフは音楽面にて「俺が!俺が!」的な性格では決してなく、例えば「Play With Me」において、ジェフはテーマを弾く以外はカッティングに回っていて、ヤンのソロの方がフィーチャーされています。これはコメントなどの裏付けがあるわけでなく、あくまで私の憶測なのですが、この曲において、ジェフは決して”喰われて”しまった訳ではなく、制作段階にて、「この曲は君(ヤン)のシンセのプレイを際立たせた方が良い、俺はバッキングに徹した方が良いと思う。」の様なやり取りがなされたのでは、と勝手に思っています。そしてそれは見事な演奏として成功しております。我が強いと言われているジェフですが、
前回の記事で記した通り、マーティンの提案をあっさりと受け入れたエピソードなどからも、ジェフはそれが良い結果をもたらす事なら、全く意に介せず、引くところは引くような人なのではないでしょうか。
「それがどうした?グッドサウンド・グッドミュージックならイイじゃん!」
の様な感じで。ただし、自分が(音楽面、それ以外でも)納得いかない事は、テコでも譲らない性格故に、周囲との衝突も多かったので、と思うのです。