#100 I’ll Remember the 80s

あの … 多分 … 誰も覚えていないと思うのですが ……… このブログ、年初から80年代をテーマに
書いてきました(#51ご参照)。そりゃ、覚えてませんよね。アハハ!…………… ゜:(つд⊂):゜。。

これまたどなたも覚えてらっしゃらないでしょうが、本ブログは何かしら前回から関連するテーマを
引き継いで書いております(#5ご参照)。なので、取り上げようと思っていたのですが、関連付け
出来ずに結局ご紹介出来なかったミュージシャンが結構います。ですので、今回は80年代特集番外編
として、それらを取り上げていきたいと思います。

はじめは80年代初期、オーストラリアから突如ブレイクしたバンド メン・アット・ワーク。
上はデビューシングル「Who Can It Be Now?(ノックは夜中に)」。81年6月に本国でリリースされ
最高位2位を記録、やがて各国で発売され次々とヒットし、それが米でのリリースに拍車をかける事となり、
翌82年10月、遂に全米No.1ヒットとなります。2ndシングル「Down Under」も全米1位に輝き、
これらを含むデビューアルバム「Business as Usual(ワーク・ソングス)」(豪81年11月・
米82年6月)は本国は勿論の事、米・英・ニュージーランド・ノルウェーで軒並み1位を記録。全米だけでも
”6 プラチナ” (600万枚)の大セールスを記録します。ちなみに「ダウン・アンダー」とは、世界地図で
オーストラリアは下側に位置する事を自虐的に表現したもの。自分たちが世界の中心だとか国名で表している
所よりは(あっ!これ、私の想像上の国ですよ。実在はしません)、シャレがわかる人たちですね。

2ndアルバム「Cargo(カーゴ)」(83年)も大ヒットし、本作からは上の「Overkill」を含めて2枚の
TOP10シングルを生み出しました。
ボーカル コリン・ヘイの飄々としながら、どこか哀愁の漂う歌声は、日本人の琴線に触れるものがあったのでしょう。我が国でもメン・アット・ワークは大ヒットを記録しました。
失礼を承知で言うと、彼らは究極のB級バンドでした。良くも悪くもシンプルな演奏、ゴージャス・重厚さとは対極にあるチープなサウンド、これらが支持された一番の理由だと思います。決して貶す訳ではなく、
彼らのそれはあまり難しい事を考えずに済む音楽であり、米のウェストコーストサウンドに近い感覚なので
心地よく、ですが少し切なさも感じさせる様な楽曲と歌が、多くの人々の心に響いたのでしょう。
音楽性が似ているという訳ではありませんが、#52で取り上げたカーズに通ずる様な気が私はします。

お次はティアーズ・フォー・フィアーズ。2ndアルバム「Songs from the Big Chair(シャウト)」
(85年)のモンスターヒットは私の世代の洋楽ファンなら記憶に残っている事でしょう。「Shout」及び
上の「Everybody Wants to Rule the World」が全米No.1ヒットとなり、一躍世界的バンドと
なります。サウンド的には如何にも80年代的な煌びやかな音色のシンセサイザーを多用したものでした。
この辺りに関しては#54でご紹介したスクリッティ・ポリッティと同系譜とも言えます。ところが彼ら、
実は内省的な部分をかなり抱えており、その歌詞や、ソフトマシーン ロバート・ワイアットへ捧げた
楽曲など、バンド名も含めてなかなか ”闇” を抱えたバンドだった様です。

70年代末からイギリスで興ったニューウェイヴに関しては#87以降にて触れてきましたが、個人的に
思い入れのあるバンドがいます。ザ・フィックスです。その音楽性はデュラン・デュランを地味にした、
言い換えればザ・フィックスをダンサンブルかつ、ポップでキャッチーに、ナウなヤングでオシャレな
イマイ音にすればデュラン・デュランになる・・・・・・クドイわ!! ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ
(おめでとうございます!いま並べ立てたヨコ文字に違和感が無ければあなたは立派なオッサンです!!)
2ndアルバム「Reach the Beach」(83年)がダブルプラチナの大ヒットを上げ、上のシングル
「One Thing Leads to Another」も全米で最高4位を記録します。率直に言うとヴォーカリスト
シー・カーニンのルックスの良さもあったとは思いますが、同時期に流行ったデュラン・デュラン、
スパンダー・バレエ、リマール率いるカジャグーグーといった、当時で言う ”ニューロマンティクス” の
バンドたちと同系統ではあれども、どこか一線を画したその硬派なポストニューウェイヴ的
ブリティッシュポップスは私の印象に残りました。

次に取り上げるのはユーリズミックス。英国王立音楽院出身のアン・レノックス(日本版のウィキでは
中退とありますが、英語版にはそんな記述はありません。どっちでしょう?…)と、デイヴ・スチュワート
から成るデュオ。今回調べるまでは、アンという人はイイとこのお嬢様で英才教育を受けてきたのだと
勝手に思っていましたが、実はそうではなく、労働者階級に生まれ、幼少期において神童ぶりを発揮し、
やがて王立音楽院への進学と相成ったそうです。しかし決して裕福ではない出自ゆえに、ウェイトレス、
バーテンダー、販売員、そしてクラブでのシンガーなど、働きながら学費と生活費を捻出していたそうです。
83年、2ndアルバム「Sweet Dreams (Are Made of This)」からタイトル曲が全英2位・全米1位の
大ヒット。ポストニューウェイヴのエレクトリックポップに、アンによるR&B・ソウルといったブラック
ミュージック志向が加わり、当時のイギリス勢の中でも異彩を放っていました。短髪でビシッと決めた
アンはとんでもなく迫力がありました(道で会ったら間違いなく避けます・・・(((;゚Д;゚;))) )

日本ではこちらの方が馴染みがあるかもしれません。85年のヒット「There Must Be An Angel」。
「スウィート・ドリームス」から比べるとすっかり明るく洗練された楽曲と歌。アンのシンガーとしての
引き出しの多さには脱帽です。ちなみに後半のハーモニカソロはスティーヴィー・ワンダー。聴けば
一発でスティーヴィーとわかるそのプレイは今更ながら見事です。

都会的感のあるアン・レノックスですが、彼女実はスコットランドの出身です(スコットランドに謝れ!)。
同じくスコットランド出身である女性シンガーを擁したバンドと言えば、私にとってはフェアーグラウンド・
アトラクションです。エディ・リーダーをフィーチャーした本バンドは88年に上のシングル「Perfect」にて
デビューし、本国イギリス、アイルランド、オーストラリアで1位を記録。独・スイス・スウェーデン・
ベルギー・ニュージーランドでもTOP10ヒットとなりました。
エディはバンド結成以前に、セッションシンガーとしてユーリズミックスやアリソン・モイエットの
バックで歌っていました。アンとはその頃に接点があったようです。
80年代半ばまで流行ったブリティッシュエレクトリックポップの反動とも言える、そのアコースティック
サウンドは、ヨーロッパ圏をはじめとして受け入れられました。デビューアルバムにして、バンドとしては
唯一のオリジナルアルバム「The First of a Million Kisses」(88年)も全英2位の大ヒット。私は
90年代に興ったアコースティック(アンプラグド)ブームの予兆であったのではないかと思っています。
昔、村上 “ポンタ” 秀一さんがホストを務めていたBSの音楽番組で、ル・クプルの藤田恵美さんをゲストに
迎えた回があり、その番組で藤田さんはフェアーグラウンド・アトラクションを取り上げていました。
だいぶ以前の番組なので、ひょっとしたら記憶違いがあるかもしれませんが、藤田さん達は80年代の
エレクトリックかつダンサンブルな音楽は自分たちが演るものではないと考えていましたが、しかし
どの様な音楽を目指せば良いのか、具体的には見つからなかったそうです。そんな折、彼女達の音楽を
耳にし、” 私達が目指していたのはこれだ!先を越された!!” と思ったそうです。やはり世の中には
シンクロニシティ(共時性)と言うのでしょうか、同時期に同じ事を考えている人達がいるようです。

#96のシンプリー・レッド回にて、ラジオでユーミンがミック・ハックネルの事を、その声だけで惚れて
しまった人、と語っていたと書きましたが、エディもユーミンが惚れたシンガーの一人だったはずです。
上の「The Moon Is Mine」はスウィング調の楽曲に乗せて、「Perfect」同様にエディの多彩な歌唱を
堪能する事が可能です。ちなみにバンドメンバーも、本作においては決して超絶技巧を披露している訳では
ありませんが、実は皆かなりのテクニシャンであり、端々にそれらを聴き取る事が出来ます。

豪のメン・アット・ワーク、後は全てイギリス勢と、図らずも自分の好みが出てしまいました。
別にアメリカンロックが嫌いという訳ではないのですが… なので最後くらいは米のミュージシャンを。

言わずと知れたドン・ヘンリーによる85年のヒット「The Boys of Summer」。イーグルス
活動休止後における2作目のソロアルバムに収録。夏にフェイスブックの方でも書きましたが、
暑い時期に聴いていた記憶があったのですが、調べてみるとシングルカットされたのは10月26日、
チャートを賑わしていたのは12月頃でしょう。人間の記憶が如何に当てにならないかという好例です。

ドン・ヘンリーが出たのでお次はグレン・フライ。同じく85年のソロ「The Heat Is On」。
エディ・マーフィ主演の大ヒット映画『ビバリーヒルズ・コップ』のサウンドトラックへ
提供された楽曲。白状しますと映画を観た事はありませんが、その雰囲気が伝わってくるような、
良い意味でグレンらしい西海岸的なサウンドだと思いました。ところがどっこいこの映画、
物語の舞台はデトロイトらしいですね … こちらも長年勘違いしてました … バカですね …(´・ω・`)

今までご紹介した音楽を聴いてノスタルジアを感じるのは、40代半ばから60歳位までの方々でしょうか。
それ以外の世代の人たちには刺さらないかもしれませんが、ジェネレーションというのはそういうもの
でしょう。私もこの時代の全てが素晴らしかったと思う訳ではありません。正直くだらないと思う
音楽もありました(※あくまで個人の感想です)。ただしこれはどの時代の音楽にも言えることであり、
エルヴィスやビートルズなどの時代を超越した存在は例外として、それぞれの世代の人間にとって、
それぞれの時代の音楽というものはあるのです。私の場合はたまたま80年代であったという訳ですが、
別の時代のものを殊更否定したりするつもりは毛頭ありません。たまに、いつの時代の音楽こそが
至高であるとか、いついつ以降のロックは死んだ、とか言っている輩を見かけますが、どの時代にも
良い音楽はあるし、くだらないものもあるのです(それも個々人の主観ですがね・・・)。
文章力の無さから、なんか話の主題が定まりませんが、皆さん、自分がイイと思ったものを聴きましょう。
俗にいうマスメディア、自称音楽評論家などの話を鵜呑みにする必要はありません。現在はインターネットが
あるので、昔から比べると、能動的に調べるのにはとてつもなく良い時代です。

オッサンの昔話ですが、洋楽を聴き始めた中学生の頃の事(80年代前半)。貸レコード屋でレンタル料が
1泊2日で500円(当日なら450円だったかな)、46分テープ(TDK-ADとか)が300円位で、
つまり、アルバム1枚ダビングするのに合計で800円程でした。月の小遣いが二千円とかの身にとっては、
ひと月に借りられるのは2~3枚くらいのもの。ましてやLPレコードを買うなんて年に数枚の一大イベント
だったのです。ですから、借りてきたLPのライナーノーツを隅から隅まで読み(コピーサービスがまだ
近所になかった)、曲目等を丁寧にカセットレーベルに書き写して、それはそれは一本一本を慈しむように
聴いたものです。
あとは専らエアチェックでした。知ってます?お部屋の芳香剤とか空気清浄機じゃないですよ・・・
わかっとるがな!!( °∀ °c彡))Д´)FM雑誌というものが昔はありまして、2週間分のかなり詳細な
ラジオ番組表が載っているので、
どの番組で、どの様なミュージシャンの曲がかかるのかを事前に
把握することが出来ました。
勿論タイマー録音など出来ないので、リアルタイム録音です。
カセットテープを少しでも活かすために
DJの喋りを極力排除して、曲のみを録音するように努めました
(DJさんゴメンナサイ <(_ _)>)。

あとこれは、長年私だけかと思っていたのですが、テレビの前にラジカセを据え置き(昔のラジカセは
マイクが内蔵されていた)、テレビから発せられる音を直にテープに録音する(専らベストヒットUSA)という荒業をやっていました。大体そういう時に限ってオフクロが起きだしてきて、『ガラッ!オメェ、
ナニヤッテンダぁ~ J(´・ω・`)し』『うわぁぁぁぁぁぁぁ!ババァ!!今録音してんだよ~~~ (゚Д゚#) 』となるのがオチでした・・・ 
ところがネット時代になって、同じことをしていた人が結構いるのを知り、
ウレシイやらカナシイやら ………

それが今ではユーチューブで幾らでも聴く事が出来る … ( ;∀;) イイジダイダナー …
以上は全てオッサンの戯言です。ちゃっちゃと読み飛ばしてください … でもちょっとは時代の雰囲気だけ
でも伝わりましたかね?

ところで今日って、何かの日でしたよね?カレンダーで言えば最後にある日。「お」で始まって「か」で
終わる呼び方の、何だったかな?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思い出せないって事は大した日ではないってことですよね。では皆さん、年越しそば、紅白歌合戦、二年参りなど、思い思いの大みそかをお過ごしくだ … わかってんじゃねえかよ! ! !ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ
来年もヨロシク・・・

#99 Simply Red

91年10月、シンプリー・レッドはアルバム「Stars」を発表します。一般的には彼らの代表作とされる
全曲オリジナルから成る本作は、本国を含むヨーロッパ各国で驚異的大ヒットを記録します。

本国イギリスではBPI(英国レコード産業協会。米におけるRIAAの様な組織)が ”12 プラチナ” と
認定しました。30万枚×12=360万枚以上という事で、現在でも破られてなければ、英国で最も売れた
音楽アルバムとして記録されているはずです。
本作では日本人ドラマー屋敷豪太さんが参加しており、生ドラムによるプレイと、ドラムプログラミングの
両方にて活躍しています。上はタイトル曲である「スターズ」。ピックアップ(曲の冒頭部でキッカケとなる
ドラムフレーズ)や歌が入る直前のスプラッシュシンバル(小さめのクラッシュシンバル。 ”パシャッ” と
いう感じの音色)の鳴らし方など、屋敷さん特有のフレーズ・センスが素晴らしい。

95年9月、5thアルバム「Life」をリリース。上は第一弾シングル「Fairground」。意外にも全英チャートで1位を記録したのは本曲が初めて、かつ唯一です。全米1位の「Holding Back the Years」と
「二人の絆」は本国においては2位止まりでした。本作にて1stから在籍し、キーボードと歌で貢献してきた
フリッツ・マッキンタイヤーがバンドを離れます。

98年5月、アルバム「Blue」を発表し、同郷マンチェスターの大先輩であるホリーズのヒット(74年)で
有名な「The Air That I Breathe(安らぎの世界へ)」を取り上げました。

四作目である「スターズ」からその作風は変わってきました。90年代以降にR&Bと呼ばれる様になった
音楽を取り入れます。それはあまり抑揚のないビートに、これまた抑制の効いた歌。50~80年代の
R&B・ソウルを聴いてきた人達からすると違和感があるものですが、時代がこういう音楽を求めていたの
でしょう。ミックは時代の流れに敏感だったようです。またシンプリー・レッド自身がそれらを演ったと
いう訳ではないのですが、ラップ、ヒップホップ、ダンスビートといった、やはり90年代以降のトレンドに
多少なりとも影響は受けているようです。

03年リリースのアルバム「Home」。本作に収録されている上の「Sunrise」は、80年代の洋楽を
くぐり抜けてきた人なら気が付くはず、ダリル・ホール&ジョン・オーツによる81年の全米No.1ヒット
「I Can’t Go for That (No Can Do)」(#58ご参照)をモチーフとしています。
#58でも書いたことですが、いち早くドラムマシンを駆使したそのリズムは、それまでのR&B・ソウルとは
グルーヴ・サウンドを異にするものであり、90年代以降のブラックミュージックにおける一里塚とでも
呼ぶべき楽曲でした。アメリカにおけるブルーアイドソウルの代表格であるホール&オーツの名作を、
20年余を経て英国ブルーアイドソウルの雄であるシンプリー・レッドが、所謂 ”オマージュ” したのは
興味深い事です。

「Home」ではこの曲も取り上げています、「You Make Me Feel Brand New」。トム・ベル作にて、
スタイリスティックスのヒットで説明不要な程の本曲は、フィラデルフィア・ソウルにおいてある意味
最も重要な楽曲。と、確か山下達郎さんが以前どこかで書かれていた記憶があります(多分・・・)。
原曲は低音部と高音部(ファルセット)を二人で歌い分けていますが、ミックは一人で歌っています。
男性としてはかなり声の高いミックは高音部でもファルセットは使いません(というよりもミックの
ファルセットなぞ聴いたことありませんが…)。サビに至ってもコーラスは入れずに独唱で通しています。
抑制の効いた原曲に対して絶唱タイプのミックによる本曲は、人によって好みは分かれる所でしょうが、
ミックはこれで良いのです、異論は認めない  ( ・`ω・´) キリッ! … いえ、認めますけどね(気が弱いので…)
ちなみに達郎さんも全編アカペラアルバム「オン・ザ・ストリート・コーナー2」(86年)にて本曲を
取り上げていますが、達郎さんバージョンの方が原曲に忠実です。要はミックも達郎さんも両方イイのです。

シンプリー・レッドはメンバーの入れ替わりが激しく、実質的にミック・ハックネルとそのバックバンドと
いう捉え方をよくされがちで、ミック自身もその様な発言をした事があり、その際は物議を醸しました。
初期から在籍して音楽的にもかなり深い部分まで関わった前述のフリッツ・マッキンタイヤーや、前回触れた
3rdから4thにて加入したエイトルT.P.など、彼ら無くしてはその時におけるシンプリー・レッドの音楽は
無かったとも言えます。しかし、それがバンドの形態であれ、セッションミュージシャンとしての参加で
あったとしても、全くの私見ですが、シンプリー・レッドに関してはその音楽性に殆ど差異は無かった
のでは、と思っています・・・異論、大いに認めますよぉ~ (((i;・´ω`・;i)))・・・(チキン…)

09~10年にかけてのツアーを最後に、ミックはバンドを解散するというアナウンスメントをします。
しかしながら、15年には結成30周年として新作を発表し、再結成ツアーも行いました。16年から
17年にかけては、「スターズ」発売25周年として “25 Years of Stars Live” を行っています。

初期のインタビューにて、ミックは影響を受けたミュージシャンとして、ジェームス・ブラウン、
スライ&ザ・ファミリー・ストーン、アレサ・フランクリンなどの名を挙げ、ブラックミュージックが
自身のバックボーンである事を語っています。しかしそれと同時にこの様な旨も述べています
『所詮僕らはマンチェスターの人間なんだよ』、と。私はこの言葉が最も端的にシンプリー・レッドと
いう存在を言い表していると思っています。R&B・ソウル・ファンクはとても好きではあるが、やはり
自分は英国白人、黒人音楽を追っかけているだけではただの猿真似で終わり、本家の彼らにはかなう訳が
ない、というよりもミック・ハックネルという人は初めから所謂ブルーアイドソウルシンガーとして
終始するつもりなどさらさらなかったのだと思います。デビュー当時は時代の波とは真逆を行くような
地味な音楽性でしたが、90年代はいち早くトレンドを取り入れました。また、他人のカヴァーにしても、
意表を突くような楽曲・アレンジで演ったかと思えば、ベタと言われる程の超有名曲を何の気なしに
歌ってしまう。ミックはその時々で、演りたい・歌いたい音楽に取り組んでいるだけなのだと思うのです。
私個人的な好みですが、男性シンガーの中でもミックとダリル・ホールは、その歌声だけで無条件に
許せてしまう人なので、ファンのひいき目かもしれませんが、ミックはこれで良いのです。

先述の15年に再結成した際に発表したアルバム「Big Love」。アルバムリリースに際してミックは、
『かつて一度は、「Stay」(07年、解散前としては最後のアルバム)の制作中にバンドの音楽に
疑問を持ち、シンプリー・レッドから離れてもしまったが、今はブルーアイドソウルグループとしての
存在が心地よい。』の様な旨を語っています。一度は行き詰まりを感じて解散し、一人になりましたが、
冷却期間を置いてリフレッシュさを取り戻したかのようです。これは他の物事にも当てはまる事でしょう
(男女の関係とか・・・)。最後はタイトル曲の「Big Love」。本作に関しては多くが70~80年代の
音楽に揺り戻されたかのような楽曲によって構成されています。リフレッシュしたミックが、この時点に
おいてシンプリー・レッドで演りたいと思った音楽がこれだったのでしょう。私のような信者はこれを
受け入れますし、一方で否定する人もいるでしょう。ただ一つ言えるのは、ミックがとても伸び伸びと
歌っている、それに関しては間違い無いのです。

#98 A New Flame

音楽に限らず、傑作が誕生する時というものは、それが生み出される環境が整ったから傑作が
生まれるのか、傑作を生み出そうとする力がそれに必要な環境を呼び寄せてしまうのか、
『鶏が先か卵が先か』という永遠に解決しない問題に迷い込んでしまうのですが、シンプリー・レッドの
3rdアルバム「A New Flame(ニュー・フレイム)」を傑作たらしめたのは、前者に因るものの様でした。

89年3月にリリースされた「ニュー・フレイム」。上の「It’s Only Love」から始まる本作は、
全曲素晴らしいクオリティーを誇りながら、アルバム全体に漂うカラーがしっかりとした統一感を持つ、
ポップミュージック史に残る名盤です。

タイトル曲の「A New Flame」。ミック作の本曲は、彼独自のソングライティングセンスが伺えます。

前作に引き続き、ラモント・ドジャーが共作者としてクレジットされています。上はその中の一曲
「You’ve Got It」。ミックのメロウな歌が素晴らしい。

本作から新しいブラジル人ギタリスト エイトル・ペレイラ(エイトルT.P.)が参加しています。
1stから2ndにて参加していた黒人ギタリスト シルバン・リチャードソンも素晴らしいプレイを
残しましたが、「ニュー・フレイム」ではエイトルが全編に渡り、その見事なギタープレイにて
本作の楽曲群をより印象的なものへと昇華せしめています。

私が本作のベストトラックと思うのが上の「Turn It Up」。ミックと(多分)キーボードの
フリッツ・マッキンタイヤーによる歌、鉄壁のホーンセクション、そしてエイトルのプレイがあまりにも
見事です。私が今までに聴いた、ギターにおける16ビートカッティングの中でも一二を争う名演です。

本作からもNo.1ヒットが生まれました。上の「If You Don’t Know Me by Now(二人の絆)」です。
ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツによる72年の大ヒット。フィラデルフィアソウルの
立役者であるソングライターチーム ケニー・ギャンブル&レオン・ハフ(ギャンブル&ハフ)による
この名曲を取り上げ、見事全米1位を記録します。毎度の如く売れ線狙いなどという批判はあった様ですが、
言いたい輩には言わせとけば良いのです。殆どのリスナーはそんな事はお構いなしにこの曲を支持したから
こその大ヒットなのですから。勿論オリジナルも素晴らしいですので、ユーチューブで聴いてみてください。
リードヴォーカル テディ・ペンダーグラスの名唱が堪能できます。全くの余談ですが、ペンダーグラスと
言えば、我々オッサン世代なら間違いなく知っているドリフターズ『ヒゲダンス』の原曲が、79年のソロ作
「Do Me」と知ったのはだいぶ後になってからの事でした。

本作のエンディングを飾る「Enough」。クルセイダーズのジョー・サンプルとミックの共作である本曲は、
当時で言う所のコンテンポラリージャズ的な楽曲。上は92年のモントルー・ジャズ・フェスティバルに
おける演奏。本作では殆どリズムギターに徹していたエイトルによる、素晴らしいソロプレイを後半にて
聴くことが出来ます。

本作を端的に評するならば、1st・2ndのイイとこ取りをし(1stは地味・暗めではあるが内容が非常に
質実剛健とでも呼ぶべき充実したもの。2ndはコマーシャルにはなったもののやや1stより軽くなった。
それでも当時の他の音楽よりはだいぶ硬派であったが…)、より洗練され、ミックの歌が最もノッていた
時期に録音された、全てが好循環で回っていた時に生まれた作品。2ndの時ほど準備期間のタイトさはなく、
発表まで丁度良い期間であったのかと思われます。勿論短すぎてもダメですが、やたら長い時間をかければ
良い音楽が生まれるかというと、そういうものでもないでしょう。プロデュースは1stと同じく再び
スチュワート・レヴィンを起用、先述の通りラモント・ドジャーやジョー・サンプルといった大物陣が
参加し、そしてエイトルの加入といった人的な巡り合わせの良さもありました。
「ニュー・フレイム」は質の高さとエンターテインメント性が高い次元で両立しているという、ポップ
ミュージックにおいて理想的な作品となっているのです。

本作はイギリスで ”7 プラチナ” (英でのプラチナディスクは30万枚なので210万枚以上)を
記録し、他の欧州諸国やカナダでも軒並みプラチナ・ゴールドを獲得しました。米でも1stの様に
ミリオンセラーにこそ至らなかったものの、ゴールドディスク(50万枚)に認定されました。
私個人的には、80年代における名盤ベスト3の内の一つだと思っています。
セールス的にはやや伸び悩んだ2ndの分を取り返したかの様に、本作の大ヒットによって、シンプリー・
レッドの人気は揺るぎないものとなり、その実力も評論家筋がイヤでも認める事となりました。
まさに、名実ともにトップバンドの仲間入りを果たしたのです。

#97 Men and Women

新人がヒットを飛ばした場合、当然レコード会社やマネージメントサイドはその勢いがある内に
次作の制作を急かす、これは致し方ない事だと思います。デビューアルバムが米でミリオンセラーを
記録したシンプリー・レッドもその例外ではありませんでした。

前回も述べた事ですが、シングルでのレコードデビューが85年3月、1stアルバム「Picture Book」が
同年10月。そして「Holding Back the Years」が全米1位となったのは86年7月でした。おそらくは
バンドの周囲が慌ただしく動き始めたのもこの頃からでしょう。2ndアルバム「Men and Women」が
リリースされたのは87年3月の事でした。

全く次作の準備をしていなかったという事は無いかとは思いますが、「Holding Back the Years」が
全米チャートの頂点を極めた時点から起算すると、新作の発売までわずか9ヵ月という期間です。
本作のオープニングナンバーにして第一弾シングルであるのが上の「The Right Thing」。私が思うに、
本作を象徴している楽曲であり、ベストトラックだと思っています。あせり・気負い・やっつけ感などは
全く感じられない、むしろ余裕と、ともすればすでに円熟味さえ感じさせるミックのヴォーカルです。
ちなみに快活なソウルナンバーという印象の曲ですが、歌詞はとんでもなく性的なもの。「もう真夜中、
さあ、ヤ〇う!僕の×××がどんどん△△△△△くるよ。君の◇◇◇に僕の×××を◆◆◆するよ。
さあ、ヤ〇う!今すぐ@@@しよう!」… 伏せ字ばかりでワカランわ!!!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ

本作の一般的な評価としては、前作にあった内省的な印象が薄れ、よりソウル色を増し、明るくなった、
というポジティブな論調が一つ。これは私も全く同感です。一方、否定的な論調として、先ほどの意見が
反転した
もの、というか常にこういう論評は相反するものなのですが、売れ線に走った、特にアメリカ市場に
おもねった作りになった、というものです。否定的な意見として言われる最たるものは、ジャズスタンダード
ナンバーの「Ev’ry Time We Say Goodbye」を取り上げた事。偉大なる大作曲家 コール・ポーターに
よるあまりにも有名な本曲は、 ”ベタ過ぎる” という点でネガティブに評価されがちです。
人それぞれ意見は様々で良いかとは思いますが、カヴァーした楽曲が超有名曲だからといって売れ線と
批判するのは、木を見て森を見ず的な、全く本質を理解していないものです。

本作ではラモント・ドジャーがソングライターとして参加しています。ホーランド=ドジャー=ホーランド
名義でシュープリームズの「恋はあせらず」「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ」をはじめ、
モータウンの数ある名曲を手掛けた大物作曲家。おそらくはレコード会社側が準備期間の短さや、
話題作りの為にあてがった人事だと思われますが、上の「Infidelity」はミックとドジャーの共作です。

R&B、ソウル、ファンク、ジャズバラード、はたまた上の「Love Fire」の様なレゲエまで。
本作は何でも有り、無いのは節操(失礼<(_ _)>)というくらいにバラエティーに富んだ音楽性です。
前作の様な内省的な雰囲気、トーキング・ヘッズ「ヘブン」における見事なカヴァーアレンジといった
意外性、などを期待していた聴衆からは不評を買ったようです。
アメリカでは前作のようなヒットには結び付きませんでした。ひょっとしたらですが、米で前作を
支持した層は、既存のアメリカ的ソウルミュージックに飽きていた聴衆が、イギリスの若者が
創りあげた新しい英国流ソウルに惹かれたためであり、表面上はアメリカナイズされてしまったと
される本作は、彼らにはいまいち響かなかったのかもしれません。

しかし本国イギリスをはじめ、ヨーロッパ各国では前作同様にプラチナ・ゴールドディスクを
獲得しており、この辺りがアメリカと違って面白い所です。基本的に中身(音楽)が良ければ、
ベタな選曲をしようが、意外性が無かろうが構いはしないのでしょう。
そして何より素晴らしいのは、当のミック・ハックネル本人が伸び伸びと歌っているという点。

ミックに売れなくても構わないなどという意思があったとは到底思いませんし、米市場を全く
意識しなかった、という事も考えにくいでしょう。しかしながら、インタビューでのコメントなどの
裏付けがある訳では無い全くの私見なのですが、ミックという人はその時その時で自分が良いと
思ったものを、縛りを科す事なく、自由に創っていくミュージシャンだと思うのです。
デビュー作は社会派な歌詞、派手さよりも実質本位(音楽本位)という内容が、時間は若干かかったものの、
米をはじめとして、世界中の多くのリスナーに受け入れられました。
しかし2ndである本作制作時には、本人の創作に対する方向性が前作とは変わっていただけの様な
気がするのです。勿論ベースにソウルミュージックがあるのは揺るぎない事なのですが、
失礼を承知で言うと、自らのスタイル、バンドのコンセプトよりも、 ”うっせえな!今オレが創りたいものを創るんだよ!!” 的な、あまり難しい事を考えない人だったのでは・・・
かと言って、ミックが唯々諾々と、「ねえミック♡ 売れるレコードを作ろうよ♡♡ ヘラヘラヘラ~…」
という周囲の甘言に乗ったとも思いません(レコード会社に失礼だな… 会社の名誉の為にマジメに
言うと、英エレクトラはシンプリー・レッドをかなり買っていて、デビュー作に米大物プロデューサー
スチュワート・レヴィンを起用したり、彼らをしっかりサポートしていた様です)。B面トップを飾る上の
「Let Me Have It All」は米ファンクバンドの雄 スライ&ザ・ファミリー・ストーンの
カヴァーですが、スライの曲としては決してメジャーな方ではなく、その選曲眼、そしてオリジナルに
負けるとも劣らないヘヴィーなファンク感は素晴らしく、売れ線などと言う輩の気が知れません。
また先述の1stシングルである「The Right Thing」はその ”あまりな” 歌詞のせいで幾つかの国では
当時放送禁止とされたそうです。売上最優先であるならばもっと無難な曲を選ぶでしょう。
ミックは元々セックス・ピストルズに感銘を受け、音楽の道を志したと語っており、パンクの反骨精神を
持ち合わせている人です。「The Right Thing」の過激な歌詞は、前作の成功によって、
露骨に手のひらを返してきた世間や、俗にマスコミと呼ばれるプレス連中に対しての、
”テメエら!これでも喰らえ!!” 的な皮肉、アンチテーゼだった様な気がするのです。

#96 Picture Book

ポリスが活動休止した84年頃には、ニューウェイヴシーンも一服し、ポップミュージックの
メインストリームは、煌びやかで、かつダンサンブルな華々しい(=軽佻浮薄とも言う)音楽が
主流となっていきました。しかしながら、イギリスの若手ミューシャンによって、地味では
ありながらも、ある音楽的ムーヴメントが興りつつありました。#54のスクリッティ・ポリッティ、
#55のスタイル・カウンシル、エヴリシング・バット・ザ・ガール、またアイドル的扱いをされていた
バンドにおいても、#53のカルチャー・クラブのように、R&B、ソウル、ジャズなどを自分達なりに
消化した、英国流ブルーアイドソウルとでも呼ぶべき動きです。その中でも世界的な成功を
収めた代表的バンドがシャーデーと、今回から取り上げるシンプリー・レッドでしょう。

予備知識を一切与えられずに、その歌声だけを聴けば、十中八九、シンガーは黒人女性と思うのでは
ないでしょうか。その正体は、赤毛の英国白人男性であるその人、ミック・ハックネルです。
唯一無二の声を持つシンガー。ユーミンは以前ラジオで、「その声だけで惚れてしまった人の一人」、
の様な旨を語っていた記憶があります。
リリースしてすぐに、という訳ではありませんでしたが、デビューアルバムは米でミリオンセラーを
記録し、そこからNo.1シングルも生み出しました。結果だけを見ればイギリスの新人バンドとしては
申し分ないデビューを飾った、といって過言ではないのでしょうけれども、実はそこに至るまでは
それ程トントン拍子という道のりではありませんでした。

ミック・ハックネルは60年、マンチェスター生まれ。ミュージシャンとしてのキャリアの出発点は
70年代後半にバンドを結成した事から始まります。フランティック・エレヴェイターズ (The Frantic Elevators) という名のそのバンドは、パンク&サイケとでも言えるような音楽性でした。
昔は入手困難で耳にする事が出来ませんでしたが、現在はユーチューブで幾つかの音源を聴く事が
可能です。興味のある人は聴いてみたら良いかと思いますが、失礼を重々承知で言わせてもらうと、
「これじゃ、売れないわな…」というもの。パンクは当時の流行りですから致し方ないのですが、
とにかく演奏が稚拙(特にギター)。そして何より、ミックの歌が、曲にもよりますが、
「えっ、これがミック・ハックネル?…」というものなのです。
ミックの歌唱技術が発展途上であったのか、その歌声を生かし切れるバンドでなかったのか、
多分その両方なのでしょうけれども、その後のミック、シンプリー・レッドの芽を見出す事が
難しい程です。このバンドは7年程で解散します。

85年にシンプリー・レッドを結成。セッションミュージシャンを集めて組んだバンドなので、
演奏力はしっかりとしたものでした。それはミックとマネージャーによる人選だったらしいのですが、
賢明な選択だったと言えるでしょう。
同年3月、上のシングル曲「Money’s Too Tight」でレコードデビュー。本曲はオリジナルでは
ありませんが、全英13位・全米28位という、新人バンドとしては十分なチャートアクションを
記録します。しかし、その後翌年にかけて三枚のシングルをリリースし、85年10月には1stアルバム
「Picture Book」を発表するものの、今一つヒットには結び付きませんでした。

流れが変わったのは86年に入ってから。5枚目のシングルとして上の「Holding Back the Years」を
リリースします。実は3rdシングルとして85年中に一度シングルカットしていたのですが、その時は
全英51位とお世辞にもヒットと呼べるものではありませんでした。どの様な経緯で再発に至ったのかは
わからないのですが、これがヒットチャートを駆け上がり全米1位・全英2位の大ヒットとなります。
アルバムリリース時に、NHK-FMの洋楽番組で彼らを取り上げているのを聴き、興味を持った私は
地元の貸レコード店へと足を運びました(買えよ!、と言われても、中学生にとっては2800円の
アルバムを買うというのは年に数枚だけの一大イベントだったのです…)。まだブレークする前だったにも
関わらず、そのレンタル店には「ピクチャー・ブック」がありました。今考えるとセンスの良いお店でした。
カセットテープにダビングし、毎日の様に聴いていましたが、やがてそのお気に入りのバンドが
みるみるうちにスターダムへとのし上がっていったのです。リアルタイムでそういう事を経験出来るのは
なかなか無い事だと思います。本曲が86年になってから、アメリカのTVコマーシャルで使用されたとか、
ヒット映画のサントラに組み入れられたなどという事実は、現在になって調べてみても見当たりません。
純粋に楽曲の良さ、ミックの歌が世間に認められていったという事に間違いないでしょう。
余談ですが本曲はフランティック・エレヴェイターズ時代の曲。試しにご一聴を。メロディ(=歌)は
殆ど同じですが、曲の印象はここまで違うのか、というもの。曲はアレンジ次第、という典型です。

上の「Come To My Aid」をオープニングナンバーとして始まる本アルバムは、R&B、ソウル、ファンク、ゴスペル、ジャズ、そして若干ではありますがニューウェイヴの香りも漂せながら、シンプリー・レッドの
音楽として、この時点で既に完成されています。

2曲目である「Sad Old Red」。思いっきりジャズのスウィングナンバー。デビューアルバムに収録する
のをよくぞマネージメントサイドが許したものです。ですがこれは大英断でしょう、並みのジャズシンガー
など太刀打ち出来ない程の名唱です。

「No Direction」。スピード感が絶品です。

全曲素晴らしい完成度を誇る本作ですが、その中でも「Holding Back the Years」と並んで私が
ベストトラックと思う楽曲が上記の「Heaven」。原曲は#88~90にて取り上げたトーキング・ヘッズの
3rdアルバム「Fear of Music」に収録されている楽曲。参考までに原曲を張りますが、この原曲を
よくぞかくの如くアレンジしたものです(決して原曲が悪いといった意味ではなく)。

エイトビートのポップソングを、R&B・ゴスペルスタイルにアレンジしたシンプリー・レッド版「ヘブン」。
ミックの歌、アレンジ、演奏と三拍子そろった名演です。あえて元ネタを探すとするならば、ビートルズ
「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」のジョー・コッカー版(#36ご参照)の様な
イメージかな、とも思いますが。

「ピクチャー・ブック」は決して、一聴して世間一般の耳目を集めるようなアルバムではありませんでした。
快活なポップナンバーなどはなく、悪く言えば非常に地味で暗い音楽です。ですから先述の通り、
発売後すぐにヒットした訳ではなく、これまた先述した「Holding Back the Years」と共に、
時間をかけてその素晴らしさが世間に認められていってのブレークだったのです。
そして特筆すべきは、ミックの歌がこの時点で既に完成されているという点。無理くりアラを探し出せば、
次作以降よりも若干キンキンした感じはあるかな、とも思いますが、それはデビュー作なのですから、
若さとエネルギッシュさ、に満ち溢れていると捉えるべきでしょう。

デビューアルバムで傑作を創ってしまったミュージシャンというのは、次作以降、前作以上のものを
求められるプレッシャー、生みの苦しみなどから、トーンダウンしてしまう事が少なくないのですが、
彼らの場合はどうなったのか。その辺りはまた次回にて。