#145 I Heard It Through the Grapevine

前回の最後において驚愕の事実に気づいてしまった訳ですが(オメエが忘れてただけだ (´∀` ) )、
それは今年もあと五~六週しかないという事です。
年初からブラックミュージック特集を始めてこのネタで半年持てばイイかな?程度に考えていましたが、
一年経ってしまいました・・・まさしく好淫 … もとい、光陰矢の如しというやつです。
スティーヴィー・ワンダー回で、最後はスティーヴィーにしようかと予定していたという事は既述ですが、
ラストを飾るのはスティーヴィーかそれともこの人か、と考えていたミュージシャンです。
それはマーヴィン・ゲイ。モータウンのトップスターとして君臨し、70年代からは社会的・思索的な
作風へ転換しニューソウルのリーダー的存在となり、また波乱に満ちた私生活でタブロイドメディアを
沸かせ、最後は悲劇的な死を遂げてしまったソウルシンガー。駆け足になってはしまいますが、
マーヴィン・ゲイというシンガー・コンポーザー・エンターテイナーである、このソウル界における
稀代のスーパースターを取り上げ、ブラックミュージック特集の最後を締めくくりたいと思います。

マーヴィンの記念すべきデビューアルバム「The Soulful Moods of Marvin Gaye」(61年)の
オープニング曲が上の「(I’m Afraid) The Masquerade Is Over」。60年代中期以降のマーヴィンから
すると想像できませんが、デビューはコテコテのジャズでした、しかもムードジャズとでも呼ぶべきもの。
しかしこれは不思議なものでは決してなく、マーヴィンの音楽的興味はまずドゥーワップから、
そしてR&Bへ。しかし最も大きな影響を受けたのはフランク・シナトラのジャズであり、
ヴォーカルスタイルについてはナット・キング・コールなどの歌い方でした。
モータウンレコード側とは本作の方向性について衝突があったようです。モータウンはティーンエージャー
向けのR&Bを、しかしマーヴィンはアダルトなジャズを演りたいと。彼のコメントにおいて
” ダンスや腰を振るよりも、椅子に座って口ずさむように歌いたいんだ ” というものがあったそうです。
一般的に知られる(私も勿論そのイメージでした)男性的魅力・セックスアピールに溢れたその後の
マーヴィンとはすぐには結び付かないものです。しかし本作はセールス的には失敗してしまいます。

前作の反省から方向転換を迫られました。マーヴィンはそれでもR&B路線には抵抗を示していたと
言われていますが、モータウンの創業者 ベリー・ゴーディーはそれを要求しました。
納得しかねるマーヴィンでしたが、「プリーズ・ミスター・ポストマン」で知られる同社の
マーヴェレッツへマーヴィンが共作者として提供した楽曲で成功した事を受け(実はマーヴィンの
最初の成功はマーヴェレッツのヒット曲の作曲者という形でした)、その志を変えたとされています。
そうした経緯からレコーディングされたのが上の「Stubborn Kind of Fellow」(62年)です。
我々が持つ、その後のマーヴィンのイメージは本曲の様なものでしょう。歌についてはだいぶ粗い個所も
ありますが、それもワイルドな魅力と捉えることも出来ます(あばたもえくぼというやつでしょうか … )。
本曲はR&Bチャートで8位の大ヒットを記録します。ここでのマーヴィンはハスキーで力強い歌唱で、
それは成功を収めてやるという強い決意、つまりソフトジャズ路線に決別し、一般黒人層へ
訴えやすいR&Bスタイルを受け入れた始まりとなったのです。余談ですが本曲のバッキングヴォーカルには
マーサ・リーヴスが参加しており、その年の末におけるマーサ&ザ・ヴァンデラスの結成へと繋がります。

アルバムとして最初の成功を収めたのは65年の「How Sweet It Is to Be Loved by You」で、
R&Bチャートで4位の大ヒットとなります。上はそのタイトル曲。この時期モータウンお抱えの
ソングライティングチームであったホーランド=ドジャー=ホーランドのペンによる、
初期におけるマーヴィンの代表曲の一つです。本作からもう一曲「Baby Don’t You Do It」。
同じくホーランド=ドジャー=ホーランドによる本曲は、ボ・ディドリー風ジャングルビートに
乗せ、レイ・チャールズ的R&Bとして完成させました。初期はジャズ志向であったマーヴィンでは
ありますが、勿論レイを尊敬していたのは言わずもがな。

飛ぶ鳥を落とす勢いであったマーヴィンの最初における頂点が上の「I’ll Be Doggone」(65年)。
彼にとって初のR&Bチャート1位及びミリオンセラーとなった本曲は、モータウンの先輩 スモーキー・
ロビンソン他による楽曲。余談ですが、二人は同学年です(日本の4-3月とした場合)。
てっきりスモーキーの方が年上と思っていましたが、むしろマーヴィンの方が生まれは早いのでした。

「I’ll Be Doggone」が収録されたアルバム「Moods of Marvin Gaye」(66年)にはもう一曲の
R&BチャートNo.1ヒットが収められています、それが上の「Ain’t That Peculiar」。
本曲もスモーキー他のペンによるもの。

マーヴィンのポップミュージック界におけるステイタスを決定づけたのは本曲によると言って
差支えないでしょう、それは「I Heard It Through the Grapevine」(68年)。
ポップス・R&B双方のチャートでNo.1となり、さらに全英でも1位を記録。
特に英では40万枚以上を売り上げるという異例の大ヒットとなります。
モータウン所属の複数人達によってレコーディングされた本曲は、録音順ではミラクルズ、
マーヴィン、グラディス・ナイト&ピップスですが、世に出たのはピップスが先で全米2位の
大ヒットとなりました。アレンジの違いを聴き比べる事を是非お勧めしますが、
マーヴィンはミラクルズ版を踏襲したものです。エレクトリックピアノまで一緒ですが、
マーヴィン版はさらにストリングスを加えています。
白人ミュージシャン(特に英国の)がブラックミュージックに影響された楽曲を創ると、
80年代までは ” 黒っぽい ” という表現をよくしました。最近はこういう表現をあまり
聞かない気がしますね。イチャモンを付ける輩でもいるんですかね(コンコン!おや、誰か来た?… )
本曲は黒っぽいフィーリングの王道ではないかと私は思っています。本家本元達が演っているんだから
当たり前ですが、ローリング・ストーンズはもとより、ビートルズの中期「ドライブ・マイ・カー」
「タックスマン」など、ブラックミュージックに心酔した英国白人ミュージシャン達が夢中に
なったのが本曲のようなフィーリングだったのではないでしょうか。

シングルとしての本曲に先立ってリリースされた同名アルバム(発売時は別タイトル)もR&Bチャートで
2位の大ヒットとなりました。本作には既出のシングル曲も収録されています。オープニングを
飾る「You」ですが、バッキングヴォーカルにはグラディス・ナイト&ピップス参加がしています。
後の「I Want You」に繋がる様な、胸が張り裂ける程の切々としたヴォーカルです。
ちなみに「I Heard It Through the Grapevine」の邦題である「悲しいうわさ」について。
なぜブドウで噂?と、昔はナゾでしたが、ネット時代になってようやく意味がわかりました。
興味がある人は自分でググってください。

翌69年にも「Too Busy Thinking About My Baby」(ポップス4位・R&B1位)、
「That’s the Way Love Is」(ポップス7位・R&B2位)と大ヒットを連発。
マーヴィン人気ここに極まれりといった感じです。

60年代のマーヴィンについて一回で書き切ろうと思っていましたが、やはり無理なようです。
えっ?!69年までいったじゃん!と思われる方はごもっとも。しかし、わかってる人には
全然書いてない部分があるだろ!とのツッコミもごもっとも。次回はその辺について・・・

#144 The Dock of the Bay

オーティス・レディングのレコード・CDの発売元を見るとその殆どがヴォルト(Volt)とあり、
これはスタックス(Stax)の子レーベルです。サザンソウルの首都メンフィス(テネシー州)を
代表してかつては一世風靡したレコード会社ですが、オーティス回の最初で書いた事ですけれども、
オーティスはアトランティックソウルの代表格とされています。昔はこれが理解出来ませんでした。
スタックス?アトランティック?キッチリしなさい ( ゚Д゚)!! と叫びだしたくなる衝動に駆られますが
(それほどの問題じゃないだろ・・・)、ネット時代になってその謎が解けました。
スタックスはやはり米南部の一レーベルに過ぎず、その音源を全米及び世界に配給していたのが
大手アトランティックだったという訳です。今回は興味の無い人にはどうでもイイようなこの枕から …

オーティスは26歳という若さでこの世を去ります、原因は飛行機事故。67年12月10日に悪天候の
中その飛行機は飛び立ち、そして墜落してしまいました。
「ドック・オブ・ベイ」の歌詞が自身の死を予言しているとかいうオカルトめいた噂が
昔からまことしやかに一部で囁かれているのですが、これは全くナンセンスなものです。
上は翌68年1月にリリースされたシングル「(Sittin’ On) The Dock of the Bay」。
死の直前に録音された本曲は結果的にオーティス最大のヒットとなり、ポップス・R&B双方の
チャートで1位を記録、全英でも3位に入り代表曲の一つとなります。
67年6月のモントレー・ポップ・フェスティバル出演の直後オーティスは喉の不調を感じ、
それはポリープによるものでした。あまりにも激しいシャウトなどにより喉を酷使した為ですが、
手術をする事になり彼はその後の歌唱法を変えざるを得ないようになります。
「ドック・オブ・ベイ」がこの様な背景から生まれた曲であるのは有名です。発売は死後ですが、
シングル化するのは彼の意志であったと言われています。淡々と語りかけるようなスタイルの本曲に、
周囲はこれまでと違い過ぎる曲調・歌唱に戸惑いを覚えたとされていますが、オーティスは
本曲に自信を持っていたそうです。
勿論若すぎる不慮の死という事実がそのセールスを後押ししたのは否めませんし、私もこれが
オーティスのベストトラックかと問われれば決してそうではありませんけれども、
熱い歌も、淡々としたヴォーカルスタイルも、どちらもオーティスなのだと思っています。
翌2月にはアルバム「The Dock of the Bay」が発売され、ポップス4位・R&B1位・全英1位という
これまた大ヒットを収めます。

ソウルシンガーの真骨頂はライヴによってであると私は思っています。70年に有名なモントレーに
おけるステージがA面ジミヘン・B面オーティスという抱き合わせの形でリリースされゴールドディスクの
大ヒットとなりましたが、単独のライヴ盤で有名なのは生前唯一の「Live in Europe」(67年)と
68年にリリースされた「In Person at the Whisky a Go Go」でしょう。
上は「~ヨーロッパ」から言わずと知れたローリング・ストーンズの「Satisfaction」。
恥をしのんで白状しますが、その盛り上がり方からこれはロンドン公演を収録したものと
永い事思っていましたが、今回調べてみると本作は全曲67年3月のパリ公演を収録したものでした・・・
それはさておき(何が ” さておき ” だ … )、ロンドンの若者たちが米ブラックミュージックに
憧れて創った曲を、本場の黒人シンガーが本曲をレパートリーにして欧州で大歓声を浴びる、
何とも素敵な関係性ではありませんか。以前にも同じ事を書いた様な気がしますが、
政治的にアメリカとイギリス・フランスといった欧州諸国の関係が必ずしも良好ではないかも
しれませんが、ことポップミュージックの分野においては幸せな関係を築いていると思います。

「~ウィスキー・ア・ゴーゴー」は白人ミュージシャンの聖地とされていた当ライヴハウスに
黒人として初めてステージに立ったのがオーティスである事でも有名。
上は言うまでもないジェームス・ブラウンの「Papa’s Got a Brand New Bag」。
二枚のライヴ盤はリリース順は「~ヨーロッパ」の方が「~ウィスキー・ア・ゴーゴー」よりも
先ですが、収録はその逆。「~ウィスキー・ア・ゴーゴー」は66年4月、「~ヨーロッパ」は
先述の通り67年3月であり、つまり「~ヨーロッパ」はモントレーの直前です。
聴き比べると「~ヨーロッパ」の方が苦しそうな歌い方をする個所があります。この時から
喉の不調は始まっていたのかもしれません。

ボクシングでファイタータイプのボクサーというのがいます。漫画でいうと「〇〇〇の一歩」
みたいな。自分がダメージを受けてもそれを物ともせず前に出て戦う、それは決して
良いスタイルではなく、基本は ” 打たせずに打つ ” が理想なのだそうですが、人はそんな自らの
選手生命を縮めてでもその瞬間を生きる様なタイプのボクサーに思い入れします。
突拍子もない喩えですが、私はオーティスにファイタータイプのボクサーを重ねてしまいます。
声楽・ボイストレーニングには無知な私ですが、オーティスの歌唱スタイルは決してシンガー生命を
永く持続させる様なものではなかったと何かで読んだ記憶があります。しかしそれでも、
喉を潰すことも厭わずに全身全霊を振り絞って歌う彼の姿に人々は心を震わされたのだと思います。
ポリープの手術後、「ドック・オブ・ベイ」の様な路線で歌い続ける事となったのか、それとも
また激しいシャウトで聴かせることとなったのか、亡くなってしまった後の事を妄想しても
仕様もないことですが、それでもファンはそれに思いを馳せてしまうものなのです・・・・・・
それも残された者の特権ですからね。

最後に印象的な動画を一つ。66年にイギリスのテレビ番組にアニマルズのエリック・バードン達と
出演したもの。「シェイク」から途中で「ダンス天国」へ、ちょうどウィルソン・ピケット版が
大ヒットしていた頃ですから。イギリス人のブラックミュージック好きは折に触れ述べてきましたが、
黒人音楽に心酔仕切ったバードンらと共に盛り上がるその姿は観ていて清々しいです。
私は世界平和とか、人類みなナントカとかは土台無理だと思っている人間です。どうしたって
分かりあえない、利害の相反する事が先立っていがみ合う国や民族は存在します(どこの国とは
言ってませんよ・・・)。それでも少なくともポップミュージックの分野においては、
米国黒人と英国白人達がこんなにも溶け合っている姿は好ましいと思ってしまいます。

オーティス・レディングは今回で終わりです。もう11月も半ばですね ………………
アレ!!ってコトは!!今年もあと少しじゃね ( ゚Д゚)!! ・・・・・・・・・・・・・・・・

#143 Try a Little Tenderness

前回「I’ve Been Loving You Too Long(愛しすぎて)」をあげた際にさらりと述べましたが、
モントレー・ポップ・フェスティバルという67年に行われた有名なコンサートに
オーティス・レディングも出演しました。ジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンの回でも
当コンサートについては触れました。それまで無名の存在であったジミヘンとジャニスを
一夜にしてスターダムにのし上げた伝説的なステージ。二人のパフォーマンスが聴衆の度肝を
抜いた事に間違いはないのですが、実は最もオーディエンスを熱狂させたステージは
オーティスのものであったと、コアな音楽ファンの間では語り草となっています。

黒人層においては不動の人気を固めていたオーティスですが、こと一般白人リスナーの間では
まだまだその知名度は低いものでした。時代背景が全く違うので、私が経験した80年代以降では
考えられないことですが、白人層はソウルを聴くなど以ての外(一部のファンを除いて)、
という風潮だったそうです。しかしオーティスのステージはそれを見事に吹き飛ばしてしまいました。
上はその中の一曲「Try a Little Tenderness」。一聴瞭然です、このステージで熱くならない
音楽ファンなどいないでしょうから。

時系列的には少し遡りますが、66年には4thアルバム「The Soul Album」をリリース。
上はオープニング曲である「Just One More Day」。静かなギターのアルペジオから
徐々に盛りあがりを見せるスタイルはオーティス及び演奏とソングライティングを担った
スティーヴ・クロッパーの十八番と言えるでしょう。

同年10月にもアルバムを発表します。「Complete & Unbelievable: The Otis Redding
Dictionary of Soul(ソウル辞典)」のオープニング曲「Fa-Fa-Fa-Fa-Fa (Sad Song)」は
代表曲の一つであり、本曲もオーティスとクロッパーの共作です。

これも有名なやつですがビートルズ「Day Tripper」。ジョンやポールが黒人音楽に熱中していた事は
あまりにも有名ですけれども、「デイ・トリッパー」は本来「ラバー・ソウル」に
収録されるはずだったとかでないとか … ビートルズファンや洋楽通には今更なエピソードですが、
「Rubber Soul」とは紛い物のソウルミュージックという意味を含めたもの。紛い物の意味では
” plastic ” が普通だそうなのですが、プラスティックならゴム(rubber)も一緒、そして
” rubber sole(ゴム底靴)” とかけてジョンがタイトル付けしたというのは有名な話し。
英国人気質を実によく表した逸話ですが(特にジョンの)、所詮我々のソウルはなんちゃって
ソウル、という自嘲的な意味も勿論あったのでしょう。しかし、私はある意味ジョン達の何でも自分達なりの
音楽に取り込んで見せる、という自負の意味合いもあったのではないかと勝手に思っています。
古くはケルト音楽やブリティッシュトラッドフォークなど英国固有の音楽が有ることには有りますが、
北米のソウル・ブルース・カントリー、そしてそこから派生したR&Rや、中南米音楽などに
憧憬を抱いていたイギリス人ミュージシャン達は、イギリスには固有の音楽がない(これは他人の
芝生はナントカだと思いますがね … )、だからこそ他国の文化でも取り込めるものは何でも取り込もうと
いった姿勢の裏返しだったのではないかと思うのです … あれ?ビートルズ回じゃないよね?・・・
いずれにしても面白いのは、逆輸入の形で本場のオーティスがビートルズやストーンズを
カヴァーしたのは誠に興味深い事です。当然の事ながらポップスチャートを賑わせているヒット曲を
取り上げれば一般にウケが良い、という目論見があった事は否定出来ませんが、しかしオーティスや
ブッカー・T&ザ・MG’sの面々にとっては、それらイギリス勢が自分達なりに消化(昇華)した
ブリティッシュソウル・R&Bとでも呼ぶべきものに並々ならぬ関心を抱いたのではないかと
思うのです。特にMG’sは黒人・白人二人ずつの混成バンドなので余計に触発されたのでは?

67年3月には6thアルバムである「King & Queen」(カーラ・トーマスと共作名義)をリリース。
上はオープニング曲である「Knock on Wood」。R&Bチャートで5位、ポップスチャートでも
36位と初めてTOP40入りします。

オーティスは64年1月のデビューアルバムから上記の「King & Queen」まで、わずか3年あまりで
6枚のアルバムを出した事になります。ちょっと異常とも言えるペースです。それはまるで、
生き急いでいるかの様にも思えてしまいます・・・・・・・・・・続きは次回にて。

#142 Otis Blue

オーティス・レディングを語る上で欠かせないのは、その演奏及びソングライティングを務めた
ブッカー・T&ザ・MG’sの存在です。彼らについてあまり詳しく言及するときりがないので、
以降ではオーティスに関わる点のみに絞り折に触れ述べていきます。

チャートアクション的に代表作と言えば、遺作となった「The Dock of the Bay」(68年)なのですが、
オーティス及びソウルファンが彼の最高傑作と口を揃えるのが65年発表の
3rdアルバムである「Otis Blue/Otis Redding Sings Soul」です。
おそらくは最高に脂がのっていて、後に触れる事ですが喉を傷める前の状態で録音が出来た、
歌・楽曲・演奏と三拍子が揃ったソウル史に残る大傑作です。上はブッカー・T&ザ・MG’sの
ギタリスト スティーヴ・クロッパーのペンによるオープニング曲「Ole Man Trouble」。

アレサ・フランクリンの大ヒットで有名な「Respect」はオーティスのオリジナル。
裏話として、自分の曲で吹き込みも先であったのに、アレサ版が大ヒットした事に
かなりの嫉妬を抱いていたようです。しかしどちらも名唱である事に異論はないでしょう。

サム・クックのA-③「A Change Is Gonna Come」も素晴らしい事この上ないのですが
涙をのんで割愛。
上はオーティスによる代表曲の一つである「I’ve Been Loving You Too Long
(愛しすぎて)」。67年のライヴとしか動画の記述はありませんが、言うまでもなく
あまりにも有名なモントレー・ポップ・フェスティバルにおける歌唱です。
オーティスやアレサ、ロイ・オービソンにコニー・フランシスといった、
持って生まれた声・歌唱能力というものに対して、凡人は抗えないのではないかと
思わされてしまいます。私はシンガーでなくて良かった(でも器楽演奏も天賦の才が
左右するという事は30年以上楽器を演ってきてイヤという程思い知らされましたがね … )。

41年ジョージア州生まれ。六人兄弟の四番目にして長男。黒人シンガーの多くがそうである様に
幼少の頃から教会の聖歌隊で歌い始めます。10歳にて歌とドラムを習い始め、高校時代には
バンドでヴォーカルを務めます。毎週日曜日には地元のラジオ局でゴスペルを歌って6ドルを
得ていたそうです。影響を受けたのはリトル・リチャードとサム・クック。特にリトル・リチャードに
心酔しており、” リチャードがいなかったら今の自分はない ” と語っている程です。動的で
激しいシャウトはリトル・リチャードにインスパイアされたものでしょう。
15歳の時に父親が病気になり、家計を支えるために高校を辞めて建設現場・ガソリンスタンド店員、
そしてミュージシャンとして働き始めます。
陽の目を見るきっかけは58年に行われた地元のコンテストにて。15週連続でそのコンテストを
勝ち抜け5ドル(現在の価値で43ドル)を手にしました。ちなみにジョニー・ジェンキンスが
その場におり、後に彼のバンドでバッキングヴォーカル兼運転手を務めるのは前回述べた通りです。

サム・クックのナンバー「Shake」はリズミックな所謂 ” ハネる ” ナンバー。オーティスの歌は
勿論の事、アル・ジャクソンのドラムも絶品。アルは決して技巧派のドラマーではなく、
むしろどれだけ音数を減らし、その中で表現が出来るかを追求したドラマーです。
本年一発目のテーマであるアル・グリーン「Let’s Stay Together」(
#101ご参照)などは
その極地と言われています。本曲は比較的音数が多い方ですが、3連符の中に16分音符の
フレーズを入れる所などが ” 味なプレイ ” です。

本作のB面は「Shake」を皮切りに全てがカヴァー曲。テンプテーションズ「My Girl」、
これまたサム・クックの「Wonderful World」、そしてローリング・ストーンズ「Satisfaction」と
目白押しですが、なんとこの曲も取り上げています。泣く子も黙るB.B.キング「Rock Me Baby」。
ブルースを歌わせても天下一品です。ソウルもブルースも根っこは演歌と一緒だと私は思っています
(ソウル・ブルースファン、演歌ファン、どちらにも誤解を招きそうな表現かもしれませんが、
人の感情の根源を揺さぶる歌唱・演奏という点ではどちらも共通しているものがある、という意味です)。

エンディング曲はウィリアム・ベルによる61年のヒット「You Don’t Miss Your Water
(恋を大切に)」。ウィリアム・ベルはオーティスと同じスタックスレーベルの所属でした。

本作は米R&BチャートでNo.1となります(ポップスでは75位)。面白いのはイギリスでは
最高位6位でシルバーディスクを獲得します。実は本国において奮わなかったデビューアルバムから
英ではTOP40入りしており、イギリス人のブラックミュージック好きが顕著に表れています。
ソウル・R&Bにかぶれたストーンズは勿論、ジョン・レノンやポール・マッカートニー、
ピート・タウンゼント、キンクスのデイヴィズ兄弟といったブリティッシュ・インヴェイションの
面々たちは挙って、この突拍子もない天才ソウルシンガーに夢中になったと言われています。

この様に米ソウル界及び海を隔てた英国では不動の人気を固めていったオーティスでしたが、
米ポップスチャートを見ればわかる通り、白人層への浸透度はまだ十分とは言えませんでした。
60年代中期ではまだまだ白人のロック・ポップス、黒人の為のソウル・R&B・ファンクと、
音楽も訳隔てられていたのです。そんな状況に転機が訪れるのは・・・
その辺りはまた次回にて。