#163 Phil Collins_2

フィル・コリンズは51年、旧ミドルセックス州(現在のロンドン地区)に生まれます。
五歳のクリスマスプレゼントにドラムセットが与えられ、そこからドラムとの付き合いが始まります。
やがてドラムにのめり込み、ルーディメントと呼ばれるドラミングの基礎を徹底的に練習します。
しかし当時は譜面を読む事をないがしろにしており、後年これは良くなかったと回顧しています。

フィルのドラムサウンドについてはとにもかくにもゲートリバーヴについて取り沙汰されがちですが、
決してそれだけではありません。上はジェネシスの「A Trick of the Tail」(76年)に収録された「Squonk」。ドラミング自体はさほどテクニカルなものではありませんが、淡々としたパターンが
続く中にゆったりとした、もしくはスピーディーなフィルインが緩急を付けて織り交ぜられており、
この曲の形容しようがない高揚感を後押ししています。さらに特筆すべきはそのサウンドであり、
スタジオの自然なエコーなのか、電気的なものなのか、はたまたその双方をミックスしたものなのか、
この広がりのあるドラムの音色や鳴りは何十年も聴いていますが、今でも感嘆してしまいます。

当然の如くビートルズのインパクトをティーンエージャー時に受けており、前回も述べたリンゴ・スターの
影響はそれに因ります。さらにドラミングに関しては元祖スピードキング バディ・リッチに
傾倒したとの事で、前述した通り基礎を徹底的に練習した事と併せてあの様なテクニカルなプレイが
可能になったのだと思われます。
音楽的にはモータウンやスタックスといったソウルミュージックにも夢中になった様であり、この辺りは
ピーター・ガブリエルと共通します。もっとも折に触れ書いている事ですが、英国人のブラック
ミュージック好きは本国以上であり、米白人が ” 黒人のソウルとかR&Bなんて … ” と言っていた頃に、
海を隔てたイギリスの若者はその虜になっていたのです。
上はこれまた大ヒットしたフィルの2ndアルバム「Hello, I Must Be Going!(心の扉)」(82年)からの
シングルカットである「You Can’t Hurry Love(恋はあせらず)」。言うまでもなく初出は
シュープリームスによるモータウンの大ヒットであり、フィルをはじめとして多くのミュージシャンに
カヴァーされ続けているスタンダードナンバーです。私の世代(昭和45年生まれ)にはフィル版が
本曲の原体験であります。役者でハマり役という表現がありますが、フィルにとっての本曲は
まさに ” ハマり曲 ” であったと思います。ちなみに以前にも書きましたが、この大ヒットを皮切りに
80年代前半から中頃にかけて本曲に代表されるモータウンビートのリバイバルが興ります。
ホール&オーツ「マンイーター」、ビリー・ジョエル「あの娘にアタック」、カトリーナ&ザ・ウェイブス
「ウォーキング・オン・サンシャイン」、そして本家本元であるスティーヴィー・ワンダーによる
「パートタイム・ラヴァー」など。日本においては桑田佳祐さん作で原由子さんによる
「恋は、ご多忙申し上げます」が極めつけでしょう。

前回フィルのキャリアはジェネシスのドラマーとして始まる、と書きましたが実を言うとこれは
正確ではありません。ジェネシスの前にフレイミング・ユースというバンドに在籍し、一枚だけですが
アルバムも残しています。そのバンドの名前は昔から知っていましたが、白状すると聴いたのは
今回が初めてです。もっとも80年代はとても手に入りませんでしたからね。
今はこんなレアな映像も容易に観る事が出来るのでとても良い時代です。上のフレイミング・ユースの
動画は当然口パク・当て振りでしょうが、若きフィルを、髪の毛がふさふさのフィルを見る事が
出来る貴重なものです・・・━(# ゚Д゚)━ 謝れ!フィルに、全国の〇ゲに謝れ!!(オマエもな … )
ドラマー、もしくはある程度音楽に詳しい方は気が付かれたかもしれませんが、フィルのドラムセットは
通常と左右が逆、つまり左利きです。ディープ・パープルのイアン・ペイスと共に左利きドラマーの
代表とも言えるフィルですが、私は左利き用セットがそのプレイに与える影響は全くないと
思っていますのでこれには言及しません。それよりも興味深いのは、本動画においてライドシンバルを
シンバル面に対して垂直に(上下の往復で)叩かず、斜め45度位から左右に振り子の如く叩くショットが
確認できる事です。これはリンゴ・スターがよく演っていたプレイスタイルであり、決してドラムの
教科書的には良い奏法ではないのですが、リンゴ独特のグルーヴを醸し出す一因なのではないかと
私は思っています。フィルのリンゴへ対するリスペクト具合が伺い知れる映像です。

ピーター・ガブリエルがジェネシスを離れた後、当然バンドはピーターに代わるヴォーカリストを
探します。ところがピーターの離脱が世間にアナウンスされたのと実質的な脱退時期にはタイムラグがあり、
バンドはピーターが抜けた事を伏せながら新ヴォーカリストを募集しました。新聞広告も打ったそうであり、
そこでは ” 当方ジェネシスタイプのバンド、ヴォーカル求む ” としたとの事。
何人かオーディションをしましたが、これは!という人材に当たる事はなく、結局は以前からヴォーカルを
取っていたフィルで良いだろう、という消去法的な決まり方だったそうです。人生というのは全く
何が起こるかわかりません。それが彼らを世界的なバンドへ押し上げる要因の一つとなったのですから。
上は最初の動画である「Squonk」と同じくピーター脱退後初となるアルバム「A Trick of the Tail」より
「Mad Man Moon」。「月影の騎士」あたりに収録されてピーターが歌っていてもおかしくはない
楽曲ですが、これはフィルの方が適役であったでしょう。前回取り上げた「モア・フール・ミー」と
同様に、彼のソフトな歌唱によってバンドの新境地を切り開いています。新生ジェネシスの到来を告げ、
新しきメインヴォーカリスト フィル・コリンズの魅力を余すことなく伝える名曲です。
余談ですが、ピーターが抜けた事によって「A Trick of the Tail」からバンドのセンチメンタリズムが
増したと言うのは正確ではなく、「月影の騎士」ではピーター以外のメンバー(特にトニー・バンクス)の
発言力が強くなって「月影の騎士」はあの様に洗練されたものに一旦なったのですが、
「幻惑のブロードウェイ」でピーターが独走してしまった為、かくの如く「幻惑のブロードウェイ」は
シュールな作風に戻り、そしてピーターが去って「月影の騎士」を踏襲、というよりも更にロマンティックな
側面を推し進めた作品が「A Trick of the Tail」である、というのが正確な所です。

次回、フィル・コリンズその3へ。

#162 Phil Collins

前回の最後にてフィル・コリンズについて触れました。ピーター・ガブリエル特集のラストなのに
何故フィルの事を?と思われた方もいるかもしれません。そう、貴方は鋭い。今回からの伏線でした。
一人くらいは気づいた方いますよね? … いるんじゃないかな … いたらイイな …… イテクダサイ ………
あなたバカなの~?誰もこんなブログ見てないわよ~!おーほっほっほーーー!!! J( ゚∀゚)しo彡゚
イヤーーー!!!ヤメテーーー!!! 0(*>д<*)0=・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

という訳で、これからしばらくはフィル・コリンズ特集です。ただしフィルの場合はシンガー・
コンポーザーとして、
またドラマーとしての側面と大きく分けて二つについて論じる必要があります。
どちらかに的を絞ろうかと思いましたが、せっかくなので両面について書いていきます。
であるからして、本特集もかなり長くなります。
フィル・コリンズなのに何故にいきなりシュールな動画のサムネが?と思われる方もおられるでしょうが
別に間違ってはいません。フィルのミュージシャンとしてのキャリアはジェネシスにドラマーとして
加入したところから始まります。ジェネシス回#22~24にて触れた事ですが、ジェネシスは貴族の子弟が
作ったバンドです。しかしそれはオリジナルメンバーの事。後から入ったフィルとギターのスティーヴ・
ハケットは一般階級の出でした。
80年代における彼のドラミングしか知らない層にとって、この頃のプレイはかなり刺激的でしょう。
当時の英プログレッシブロックの多くがそうであった様に、ジェネシスの音楽もかなり複雑で尚且つ
テクニカルです。当然フィルのプレイもそれに沿ったものであり、彼はそれを表現できる卓越した
技術を持つドラマーでした。#22で書いた事ですが、80年代の人気絶頂期に来日公演にて
女子大生風の(おそらく)にわかファンが ” フィルってドラムも叩けるのね~www ” と
のたわまったのは都市伝説、と思いきや、難波弘之さんが彼女達の隣で聞いていたという事も
#22で述べた話。”ドラムも ” ではなく ” ドラムが ” 本職のミュージシャンなのです。
上は初期ジェネシスの名盤「Foxtrot」(72年)におけるオープニング曲「Watcher of the Skies」。
出だしにおけるメロトロンの音色でノックアウトされてしまいますが、続いてフェイドインしてくる
一転してリズミックな6/4拍子のフレーズがとんでもないことこの上ない。ちなみにこの6/4の
パートはモールス信号をイメージしたとか。そして普通の四拍子に移ってからもフィルのプレイは
圧倒的です。おそらく80年代以降のフィルしか知らない方たちは” フィルってこんなに
ドラム巧かったんだ ” と思う事でしょう。そうです、彼は凄腕のドラマーなのです。速く細かく動く手足、極小のピアニッシモから特大のフォルテシモまで叩き分けるダイナミクスレンジの広さ、
フロントのプレイに対して打てば響くといった様な見事なレスポンス及びそのセンスなど、
当時のイギリスにおいてもトップクラスの技巧・センスを誇るドラマーでした。

フィルがジェネシスのメインヴォーカルを担当するようになったのは当然の如くピーター脱退後、
アルバムで言えば76年の「A Trick of the Tail」からですが、実はピーター在籍時にもリードヴォーカルを
取っています。加入後初の作品「Nursery Cryme(怪奇骨董音楽箱)」(71年)に収録された
「For Absent Friends」にて既にその歌声を披露しており、うっかりするとピーターかと
思ってしまう程に二人の声質は似ています。
上は73年の名作「Selling England by the Pound(月影の騎士)」より「More Fool Me」。
本作からジェネシスの音楽性はより叙情味を増し甘いものへと変化していきましたが、
本曲は収録曲中最も甘くハートウォーミングな楽曲。多分ピーターが歌っていたならその少しくぐもった
鼻にかかる声にてクセのあるものになっていたのでしょうが、これはフィルが歌って大正解。
あまり取り上げられる事がない楽曲ですが、フィルの歌唱において隠れた良曲です。

フィルの名声を世界的なものにしたのは言うまでもなく初ソロアルバム「Face Value(夜の囁き)」及び
本作からの1stシングル「In the Air Tonight」(81年)です。参考までにシングルの各国における
チャートアクションを列挙すると、独・仏・蘭・スウェーデン・スイス・オーストリア・NZでNo.1、
本国英と加で2位、豪で3位という特大ヒットを記録。アルバムも前述の国々及び米においても1位から
7位というこれまたトンデモないもの。
「In the Air Tonight」は一聴するとお世辞にも耳馴染みの良いポップソングではありません。
しかしながらこれほどの大ヒットとなったのは、それまでの徐々に高まりつつあったジェネシス人気の
流れにおける上で満を持してのソロデビューという効果があったのは否めませんが、やはり本曲の
特にサウンド面における先進性がアンテナの鋭い層へ訴えかけたのだと思います。
サウンド、言い替えると音色面という事ではピーター・ガブリエル回でも言及したドラムにおける
ゲートリバーブについて触れる事が必須ですけれども、今回もだいぶ長くなってしまったので
その点については次回以降で折に触れ述べてみたいと思います。

今回の最後は「夜の囁き」におけるエンディング曲である「Tomorrow Never Knows」。
言うまでもなくビートルズナンバーですが、あまりにも多くの要素が詰め込まれています。
実はフィルは幼少期に子役として活動しており、映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』
にエキストラ出演しています(ほんのちょっと映っている程度らしいですが)。
フィルのドラミングには間違いなくリンゴ・スターのエッセンスが反映されています(それは本曲のみならず
全てにおけるドラミングにて)。「Tomorrow Never Knows」ではイントロにおいて無機質な
リズムマシンでフェイドインしてきたかと思えば、いきなりエコーの効いたハイピッチなドラム
(特にタムタム)が始まります。勿論原曲におけるリンゴのプレイ・音色を尊重しての事でしょう。
テクニックという点では大変失礼ながらフィルの方がリンゴよりも圧倒的に勝っていますが、
そのフレーズのセンスや先進的なアイデアという点において、二人には近いものを感じるのです。

続きはまた次回にて。

#161 Peter Gabriel

86年のアルバム「So」にて大成功を収めたピーター・ガブリエルは、92年に「Us」を発表します。
上はオープニング曲である「Come Talk to Me」。パーカッションなどには相変わらずの
アフリカン・ラテンのテイストが感じられますが、本曲ではバグパイプなど欧州独自の楽器も
使われており、もはや多国籍を通り越して無国籍といった感じです。原点回帰であるのかも。

厳密には「So」と「Us」の間にはサントラである「Passion」(89年)と、ベスト盤の
「Shaking the Tree: Sixteen Golden Greats」(90年)がリリースされています。
「Passion」はマーティン・スコセッシ監督という映画オンチの私でもその名を聞いた事が
ある人による『最後の誘惑』という作品の為のもの。映画の内容も物議を醸しだしたそうですが、
「Passion」の方もかなり難解な音楽性です。それでも一度火が付いた人気というのは凄いもので、
その様な内容にも関わらず米でゴールドディスクを獲得しています。
ベスト盤の方は選曲に関して無難な内容であると個人的には思っています。そのせいか否かは
分かりませんがこれまた大ヒットし、米でのダブルプラチナ(200万枚以上)をはじめとして
各国でプラチナ・ゴールドに認定されました。
上の動画は94年のライヴアルバム「Secret World Live」における「Digging in the Dirt」
(アルバム「Us」より)です。ジェネシス時代からその独創的なステージアクトによりコンサートにおいて
カルトな人気を誇っていたピーターでしたが、それはやはり大多数による支持ではありませんでした。
本作においてようやく永い年月をかけてピーターのパフォーマンスが世に認められました。
ジェネシス時代やソロ初期におけるシュールなメイク・コスチュームなどは影を潜めましたが、
その精神は間違いなく本作でも息づいています。百聞は一見に如かずなので上の動画はもとより、
全ての映像がユーチューブで上がっていますので興味のある方は是非。
本作はレコード・CDとしても米でゴールドに認定されていますが、映像パッケージ(VHS・LD・
DVD等)で98年にゴールド、06年にはプラチナを獲得しています。私は音楽の映像モノというのには
あまり詳しくないのですが、プラチナに認定される作品というのは決して多くないようです。
マイケル・ジャクソンやマドンナといった人達なら普通にそれくらい売っているのでしょうが、
ピーターのライヴ映像がここまで世に受け入れられるというのは永年のファンとしては感慨深いものです。
本作からもう一曲。4thアルバムに収録されている「San Jacinto」。アルバムには未収録です。

夢は必ず叶うとか努力はきっと報われるといった無責任な物言いを私は全く信じていません。
そしてピーターもこれだけの才能に恵まれながら世間に認められないまま終わっていたとしても
おかしくなかった一人であるという事は前回も書きました。またジェネシス初期やソロ活動の
当初におけるあまりにも独創的な音楽性やステージアクトが、決して理解されなくても構わないという
自己満足的なものではなく、むしろ自分の創造精神を理解して欲しいが為に行った故の事であるという事も
これまで述べてきました(子供時代における彼独自の ” サービス精神 ” など)。
キワモノ的扱いを受けてきたピーターは、ジェネシスでのデビューから86年の「So」における
世界的成功まで15年以上に渡って栄華とは無縁の存在でした。それが「So」以降は独創的ミュージシャン、
ワンアンドオンリーの創造者という180度変わった評価を受ける事となります、世間は勝手ですね …
ありきたりな言い方になりますがこの成功は決して信念を曲げなかったからでしょう。多少のポップ化、
悪く言えば世間への迎合はありましたが(それでも「スレッジハンマー」の ” あのPV ” ですが …)、
世間を・時代を自分の方へ引き寄せた稀有なミュージシャンです。

ピーター・ガブリエルは勿論の事、ジェネシスも三人で一応存続しています。あと#158でうっかり
書き忘れたのですが、86年におけるピーターとジェネシスによる同時期の大ヒットの陰で
忘れ去られがちですが、ジェネシスの元ギタリスト スティーヴ・ハケットもこれまたプログレ界の
スーパーギタリスト スティーヴ・ハウと共に結成したバンド「GTR」(アルバムタイトルも同)が
これまた同年にアルバム・シングルともにTOP20入りするという、まさしくこの年は
” ジェネシス年 ” だった訳です。ハケットも現役で活動しています。
上でジェネシスが  ”一応 ” 存続と書きましたが、洋楽通ならご存じでしょうけれどもフィル・コリンズが
かなり前から心身ともにあまり良い状態ではなくなっています。脊髄をおかしくし、そのせいで手が
思うように動かずミュージシャンとしては致命的な身体の状態となってしまいます。
また80年代は世界一忙しい男との異名を取った程ワーカホリックな人でしたが、その反動や病気が
影響したのか老年性の鬱病を発症してしまいます。これまで何度も引退とカムバックを繰り返して宣言し、
口の悪い輩からはビリー・ジョエルと共に引退するする詐欺などと失礼な言われ方をされてきました。

以上でピーター・ガブリエル特集は終わりです。9回にも渡ってしまいましたが、思い入れのある
ミュージシャンなのでこれでも書き足りない程です。出来るだけ客観的に綴ったつもりですが、
ピーター・ガブリエルをよく知らない方々にはどう映ったでしょうか?
本ブログにて多少でも興味を持って頂ければ幸いです。

#160 Big Time

その表現方法が独特な人、言い替えれば傍から見ると我が道を行くクリエーターというのは、
ともすれば売れる事を拒否しているのかと捉えられがちです。しかし当人にすれば、いたって真面目に
それが世の中に受け入れられるはずだ!という信念のもとに行っている事が少なくありません。
ベクトルが一般人とはちょこっとズレているだけで・・・・・

大成功(Big Time)が間近に迫っているピーター・ガブリエルはやる気にみなぎっていました。
3rdアルバムこそ全英1位を獲得したものの世界的な成功とはまだまだ言えず、古巣のジェネシスと
大きく差を開けられていたというのは#157で述べた事ですが、83年頃を境にピーターの中では
メンタルにおける変化が起こっていて前向きな方向へ向かっていたそうです(躁鬱ともいえます … )。
上の「Big Time」は「スレッジハンマー」に続く全米TOP10ヒット。” もう少しだ、もう少しで
成功出来る所なんだ! ” という、まるでこの後のピーターを予言している歌の様にも取れますが、
その歌詞の中身は成功を切望している人物を自嘲的に描いたもの。
とは言え、ピーターの中に何らかの変化があった事は周囲の人物からのコメント等で伺い知れます。
その直前には離婚の危機にあった妻ジルは ” 成功したいんだ!突き抜けてやる!何でもやってやる!” と
ピーターが語っていたと述べており(この頃は夫婦関係も良好になっていた)、3rdから参加している
ギタリスト デヴィッド・ローズもピーターには功名心が溢れていたと証言しています。
4thアルバムまでは全てが「Peter Gabriel」というタイトルであったのを、86年の「So」から
タイトルを付けたのもその辺りが理由だそうです。ピーターはアルバムに名前を冠する事を
無意味だとその時点でも思っていた様ですが、レコード会社サイドからせめてタイトルは付けてくれ、
という要請に対し仕方なく応じたそうです。これだけでも彼にとっては大きな妥協です。
さらにはアルバムジャケットにもその変化が伺えます。1stはフロントガラス越しに車内にいる
心霊写真の如き顔。2ndは正面を見据えて指で何かを引っ掻いているもの。3rdは顔が解けており、
そして4thに至ってはアフリカの部族が儀式に使う人形の様にカリカチュアされた顔です。
どれ一つを取っても ” まともな ” ジャケットが無かったピーターでしたが、「So」においては
” フツウ ” になります。元々男前なのですからはじめからそうすれば良かったのでしょうが、
本人の中では何か許せないものがあったのでしょう。本作では80年代風に短く整えられた髪型と
シックな黒服という ” 洒落乙 ” なものとなりました。
ちなみに「So」に全く作品との関連性は無く、ただ単に言葉の響きが良かっただけ、との事。

「Big Time」のドラムはポリスのスチュワート・コープランドで、ベースは言うまでもなく
トニー・レヴィンです。本曲にはちょっとしたウラ話があり、初期から参加している
ジェリー・マロッタが当初ドラムトラックを録音したのですが、結果的にはコープランド版が
採用されました。#156で触れましたが、「So」以前はバンドのギャラも工面できない程に
金銭面で苦労していました。しかしジェリーをはじめとするバンドのメンバーは正式な契約も
交わさずに、ピーターの仕事の為には他のスケジュールも押しのけて参加していました。
「So」の製作段階ではジェリーはポール・マッカートニーのツアーに加わっており、
ピーターからお呼びがかかった事で散々苦労してポールに一週間のお暇を頂きレコーディングに
参加したそうです。そこで「Big Time」のジェリーによるドラムが録られたのですが、
前述の通りそれはボツになります。ジェリーはこのプレイを自身でも指折りのプレイと
思っており、ピーターに対して何とか考えなおしてもらえないか?と頼んだそうです。
ピーターは決して結果の為には血も涙も無く全てを切り捨てられる人ではありません。
生まれが良いのと典型的な英国人気質で、言いたいこともなかなか言えないタイプです。
実際はじめてジェリーを迎えに行った道中で、ピーターは何か話題を見つけてジェリーを
話しでもてなそうとしているのに上手く話せずにいました。ジェリーはサバサバしたこれまた
ティピカルな米国人であるので、” 気を使うなよ!ピーター! ” と慰めたそうです。
そんなイイ奴のジェリーを切ってまでコープランドヴァージョンを使ったのですから、
ピーターの葛藤は相当なものだったでしょう。裏を返せば、例え気弱でも譲れない所は
テコでも譲らない創造主としての精神が表れています。でもジェリー版も聴いてみたい …
付け加えると1stから参加しているキーボードのラリー・ファーストとも袂を分かっています。

「Mercy Street」はピーターが以前から好んでいた米女流詩人にインスパイアされた曲。
その歌詞同様に曲調もメランコリックなものですが、リズムはラテンチックなのが興味深いです。
元のタイトルは「フォロ」であったとの事。昔ブラジルに出稼ぎへ行っていた英・アイルランドの
建設従事者は現地でハチャメチャなパーティーをしていたらしく、そのうちにブラジル人でも
誰でもその宴に迎え入れる様になる ” For All(誰でも大歓迎)” がブラジル流の発音では
” フォロ ” になり、その時に演奏されていた音楽のリズムそのものを指す言葉になったそうです。
勿論本曲におけるリズムはそのフォロを基にしているのは言わずもがな。

発売当初、プレスの評価は従前の作品同様に賛否両論、両論極端なものだったそうです。
ある者は ” 永遠に希望が湧き出る地球的メッセージ ” と絶賛し、またある者は ” 退屈・わざとらしい ” と
酷評しました。リリース前後にプロモーションを行いますが、あるコンサートのために
発売月の86年5月末に一旦そのプロモーションを中断、その後11月から米でソロツアーを開始します。
この頃には「スレッジハンマー」の大ヒットもあり客層は広がっていました。
アメリカ・カナダにおける約一年のツアーは当初あまり話題になっていなかったそうです。
オーディエンスも「So」で初めてピーター・ガブリエルを知った人が多く、昔の曲をよく知らないという
状態でした。しかしその内容の素晴らしさが徐々に広まり、プレスの評価も高いものとなっていきます。
奇抜なメイク・コスチュームといったものはなくなりましたが演劇的要素は健在で観客を惹きつけます。
そうして87年6月、カナダでの日程を終えてアメリカに戻ってきた一発目のニュージャージー州の
スタジアム公演では五万人以上を動員するという記録を打ち立てました。

本アルバムが傑作であることは揺るぎない事実ですが、あえて唯一難点を挙げるとすればエンディング曲で
ある上の「We Do What We’re Told (Milgram’s 37)」です。これは市井のリスナーや評論家筋の
多くが言っている事で、これに関しては私も同感です。一応本曲についての説明をすると、副題である
『ミルグラムの37(%)』というある実験が基になっています。詳しく説明するスペースも無いので
興味がある方はミルグラムで検索を。5秒で説明すれば ” 人は権威の指示によりどれだけ残酷になれるか ”
といったもの。” We Do What We’re Told=言われた通りにやっただけだ ” 、という事です。
歌詞の内容もあまりピンと来ませんし、楽曲にもあまり秀でたものが感じられません。
それでも好意的に捉えるならのなら、商業的成功を狙いに行った本作でもなお、トライアル精神を
失わなかったという点くらいでしょうか・・・・・

ピーター・ガブリエルの代表作にて最大のヒット作となった本アルバムは米だけで500万枚以上、
英ではトリプルプラチナ(英プラチナディスクは30万枚以上なので、約100万枚といった
ところでしょうか)。その他ドイツとオランダでプラチナ、フランスでゴールドディスクに認定されます。

夢は必ず叶うとか、努力は必ず報われるといった無責任な物言いを私は全く信じていません。
実際にあることを願い、当人としては寝食を忘れ精進を続けたのに全く世に認められなかった人は
大勢います。いや、むしろそういう人の方が圧倒的に多いでしょう。
ピーター・ガブリエルもそういう人生を送っていたとしてもおかしくはありませんでした。
その特異な才能は、ある程度音楽に精通した人間であれば認めざるを得ないものです(好む好まないは
別として)。ですが、才能があっても商業的結果を残せなかったクリエーターはたくさんいます。
時代にそぐわなかった、宣伝広告が行き届かなかった、業界の大物に嫌われた等々 … 。
ピーターもそれで終わっていたかもしれないミュージシャンの一人です。私は運命論など毛ほどにも
信じていない人間ですが、それでもやはり運命の様なもので、天が結果をもたらしてあげたのでは?
と思わざるを得ない人がいます。ピーター・ガブリエルもその一人なのです。
余りにも独特な音楽性、歌詞の世界観、そしてステージングアクト。これまでコマーシャルな意味では
デメリットでしかなかった事柄が全て正の方向で結実します。そしてそれはこの後の活動においても。
本作で味を占めて「So」第二弾をまた作っていたならそれはなかったかも・・・・・
おっと、また長くなりすぎました。続きはまた次回にて。

#159 In Your Eyes

今日では有名なワールドミュージックの祭典であるWOMADがピーター・ガブリエルを中心に
始められたという事は前々回述べました。3rdアルバムの「Biko」などに象徴される通り、
80年代に入ってからのピーターはアフリカ等の第三世界、及びそれらの国々で未だ解決されていない
人権問題などに着目しました。後に世界的シンガーとなるユッスー・ンドゥールや、
フランス国籍の黒人ドラマー マヌ・カチェなどは86年のアルバム「So」にて世間の注目を
浴びる事となった訳ですが、ピーターが彼らを起用した背景は前述の活動が下地としてありました。

前回に続き「So」について。上はA面三曲目に収録されている「Don’t Give Up」。
本曲はイギリスにおける失業問題を歌っています。00年代以降イギリスは景気を取り戻して
いきましたが、80年代中頃は ” 英国病 ” とも言われる、過去に行われた過度な福祉政策
(ゆりかごから墓場まで。というやつ)によってまだまだ永く続いた不景気の真っ只中でした。
特に若者の失業は70年代から続く深刻な問題だったそうです。
デュエットの相手は言わずと知れたケイト・ブッシュ。ケイトの唯一無二の歌声が素晴らしいのは
言うまでもないのですが、ピーターの歌唱も筆舌に尽くしがたいものです。
その独特な音楽性や歌詞、時に奇抜とも言えるメイクやステージアクトによって見過ごされがちですが、
シンガーとしての実力は並々ならぬものです。ケイトのパートが終わってピーターの歌に戻る
3:20過ぎからの歌には鳥肌が立ちます。
本曲はそもそものイメージとしてはカントリーバラードがあったそうですが、出来上がったものは
ゴスペルの要素をも含んでいる様に思えます。いずれにしても素晴らしい楽曲に変わりはなし。

A-④の「That Voice Again」はオープニングの「Red Rain」同様に快活なリズムトラックの上で
哀愁感漂うピーターの歌及び世界観が展開されます。本作よりかなり前に、映画の構想と共に
創られたという点においても「Red Rain」と共通しています。マヌ・カチェのドラムが秀逸過ぎます。
ちなみにピーターとマヌは反アパルトヘイトに関するコンサートで知り合ったとの事。

後半で聴く事が出来るユッスー・ンドゥールの歌が印象的である「In Your Eyes」ですが、
実は他にもコーラスでシンプル・マインズのジム・カーや、ピアノにリチャード・ティーの名前も
クレジットされています。
ンドゥールが世界的歌手となるキッカケとなった事は先述の通りですが、これはピーターの方から
ンドゥールへラブコールを送ったのがはじまりだそうです。ンドゥールとコンタクトを取るためには
直接セネガルまで出向かねばならず(何故ならンドゥールの家には電話がなかったから)、
そこでンドゥールのステージを観る事となりました。彼はその時点ではセネガルの国民的歌手と
なっており、そのライヴにピーターは大変感銘を受けたとの事。余談ですがこの時まで
ンドゥールはピーター・ガブリエルというミュージシャンを知らなかったそうです。
「So」への参加の約束を取り付け、いざそのレコーディングの時がやって来ます。
当初ンドゥールは英語で歌おうとしたのですが、セネガルの言葉であるウォロフ語にそれを訳して
即興で歌い始めました。あまりの素晴らしさにピーターがそれに加わり、とてつもなくエキサイティングな
瞬間が生まれたそうです。
86年の後半から翌年まで約一年の間、ンドゥールはピーターのツアーに同行しました。
ピーターはンドゥールを紹介する際に ” 素晴らしいミュージシャンを紹介します。彼はアフリカから
最高の音楽を持ってきてくれました ” という言葉を用いました。ンドゥールはこれに
大変感激しました。観客は最初のうちこそ ” 誰だこのアフリカ人は? ” という反応でしたが、
彼の歌を聴くうちに ” もっと演ってくれ! ” 
となっていったそうです。
本曲はラテンフィール、アフリカン、そしてゴスペル等の要素が良い意味でごった煮になった様な
まさしく ” ワールドワイド ” な名曲です。

本曲を皮切りにンドゥールは西欧で知名度を上げ、ポール・サイモンのヒット曲などにも参加し
スター街道を突き進みます。上はンドゥールのソロアルバムにおけるピーターとのデュエット曲である
「Shaking The Tree」(89年)。翌90年におけるピーターの初となるベストアルバム
「Shaking the Tree: Sixteen Golden Greats」のタイトルともなり再録されています。

ピーター・ガブリエルの「So」についてはまたまた次回まで続きます。