#212 Burn Down the Mission

エルトン・ジョンの成功に携わった人間として作詞家のバーニー・トーピンの名は既に挙げましたが、
プロデューサー ガス・ダッジョンも同様である事は言うまでもありません。

バーニーと同じく、その経歴まで言及するときりがないので、それは割愛します。
ググればデヴィッド・ボウイなどの仕事が出てくることでしょう。
上はB-③「Amoreena」。本曲にてディー・マレイ(b)及びナイジェル・オルソン(ds)が
初めて参加します。

3rdアルバム「Tumbleweed Connection(エルトン・ジョン3)」において、カントリー色が
強いことは既述ですが、それは時代背景もあったのだと考えられます。
エリック・クラプトンがアメリカに渡ってデラニー&ボニーのツアーに同行し、その後
デレク・アンド・ザ・ドミノスを結成したのも、ビートルズ解散後にジョージ・ハリスンが
「オール・シングス・マスト・パス」をリリースしたのもこの時期です。
エルトンがホテルのラウンジピアニストをしていた頃に、好んでカントリー&ウェスタンを演奏していた
という事は既述ですが、70年頃にイギリス勢ミュージシャンの内でカントリー志向があったのも事実です。
クラプトンはクリーム時代の激しいインタープレイに嫌気が差し、もっと歌心にあふれたサザンロック、
スワンプロックに傾倒していき(#10ご参照)、ジョージもビートルズとは違う音楽的方向性を
米南部の音楽に見出しました。
そもそもカントリーミュージックとは、はるか昔に米南部に住み着いたイギリスおよびアイルランド人に
よる音楽がルーツと言われており(この辺りは ” ヒルビリー ” で検索すると出てきます)、
そこにはブリティッシュないしアイリッシュトラッドフォークの血が流れているとも言えるのです。
ある意味、それは原点回帰と呼べるものではなかったのでしょうか。

本作にて、私がベストトラックだと思うのが上の「Burn Down the Mission」。
静かな導入部から、やがて劇的なパートへと移行していく楽曲構成は、その後におけるエルトンの
十八番と呼ぶべきスタイルとなりました。
エルトンの楽曲、バーニーの歌詞、ダッジョンのアレンジ、そして鉄壁な演奏。
これは73年の歴史的名盤「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」へとつながる系譜の萌芽です。

#211 Tumbleweed Connection

エルトン・ジョンの三枚目となるアルバム「Tumbleweed Connection」は70年10月30日に
リリースされました。時系列がややこしいのですが、アメリカツアーの成功を受けてシングルカット
された「Your Song」が10月26日です。その数週間後には英米共にヒットチャートの上位に昇ります。
前回述べた通り、米ツアーが8月から始まったのですから、いくら急いでもそれから創ったのでは
間に合いません。当然すでにレコーディングはなされていたものでした。ベーシックトラックの
多くは2ndと同時に録られており、つまりこれはエルトンのストックがどれだけ膨大にあったか、
という事を物語っています。上はオープニング曲である「Ballad of a Well-Known Gun」。

2ndアルバムの成功後、エルトンの内向的な性格に徐々に変化が見られるようになりました。
ステージにおいて特にそれが顕著であり、そのステージ衣装はどんどん派手になっていきました。
シルクハット、ベルベットのマント、星をちりばめたシルバーのロングブーツを身に着け、
パフォーマンスと言えば、ピアノの椅子をけ飛ばす、ジェリー・リー・ルイス張りに鍵盤の上で
逆立ち
など。過激なものになっていきました。
本国DJMレーベルのスタッフは送られてくるその様子に驚きましたが、ただ一人、宣伝部長だけは
エルトンの中に潜むエンターテイナーとしての素質を予見していたらしく、特に驚かなかったそうです。

エルトンは十代の頃にジェリー・リー・ルイスやリトル・リチャードといったロックンローラーに
憧れていました。ピアノを叩きつける様に弾きながらシャウトするスタイルは彼らへのリスペクトであり、
言わば当然のことだったのでしょう。

オープニングナンバーを聴けばわかる通り、本作はカントリー色が強いです。アメリカでの成功を受けて
米マーケットを意識した結果だとする向きがあるのですが、先述した通りアメリカツアーの前に
録られたものであるからして、それはちょっと考えにくいでしょう。
以前に書きましたが、ホテルのラウンジピアニストをしていた頃にもよくカントリー&ウェスタンを
演奏していたそうなので、エルトンの嗜好に基づくものだったのではないでしょうか。