#201 The Nylon Curtain

今回の記事をアップするのが12月21日であり、クリスマスの直近回です。
昨年は番外編のクリスマスソング特集などやりましたが(#149)、もうネタはないと思っていた所、
これは狙った訳でも何でもなく偶然この回になりました。
上はビリー・ジョエル唯一のクリスマスソングと言える「She’s Right on Time」。
82年におけるアルバム「The Nylon Curtain」のB面トップを飾る本曲は、
自分にとって最高のタイミングで現れてくれる彼女を称えた内容。別れと再会を歌っていますが、
本作の中では珍しく基本的にポジティブな歌詞です。でもビリーの事だからウラの意味が・・・・・

” ふたりには別々の部屋が必要なんだ ” という内容の「A Room of Our Own」。男女が、
というよりも人間がその関係を保っていくためにはある程度の節度を持った距離が必要である。
至極まともな事実です。でも結局は妻 エリザベスと離婚するのですが・・・・・

エリザベスとの離婚後においても、彼女の実兄と義弟はそのままビリーのスタッフとして
就いていたそうです。これが後に大問題へとなるのですが、それはいずれまた・・・・・
上は本作で最も地味な曲ですが、結構な佳曲である「Surprises」。

アルバムラストの「Where’s the Orchestra?」。幕が降りた舞台での虚無感、
とでもいった感じでしょうか。メッセージ性の強い作品であった「ナイロンカーテン」でしたが、
とどのつまりはただのエンターテインメント、ただの演目に過ぎない。
いかにもビリーらしい自虐的な最後です。「アレンタウン」のリフレインが流れてアルバムは幕を閉じます。

「ナイロンカーテン」はゴールドディスクにこそなりましたが(最終的にはダブルプラチナ)、
プラチナ以上が当たり前であった当時のビリー・ジョエルとしては決してヒットとは呼べない
結果に終わりました。
私は本アルバムが失敗作とは微塵も思いません。「ストレンジャー」~「イノセントマン」までの
五作中では評価が低いのは事実ですが、そのクオリティーにおいて劣っているとは全く思いません。
これがあと10年遅く世に出ていたならば、結果は少し違ったものになったかもしれません。
82年という、米も日も浮かれていた時代において、世間には受け入れられなかったのです。
90年代であったならひょっとして・・・・・ タラレバは意味がないですけどね。

#200 Goodnight Saigon

” 変わらないでおくれ、僕はそのままの君が好きなんだから ”
あまりにも有名な一節を含むビリー・ジョエルの名曲「素顔のままで(Just the Way You Are)」が
妻であるエリザベスに対して書いた曲であるというのは#183
で触れました。
しかしながら悲しい事に永遠の愛というものはなかなか存在せず、ビリーとエリザベスの仲にも
やがて終焉が訪れます。しかもかなり面倒な事になるのです・・・・・

エリザベスが妻であると同時に優秀なマネージャーでもあったという事は既述ですが、その優秀さは
良からぬ方向へも発揮されます。
80年頃にビリーの弁護士として実の兄、自分の後任マネージャーとして義理の弟を就けます。
ビリーは元々裕福な生まれのせいか、銭金勘定には疎かったらしくその点に関してはエリザベスまかせ
だったと言われています。
この頃から二人の間に亀裂が生じ始めたとも言われます。そして前回も触れた通り「The Nylon Curtain」
リリース直前にバイク事故を起こす訳です。
上はA-③の「Pressure」ですが、当時におけるビリーの状況でしょうか?・・・・・

82年の末に二人は離婚したそうですが、事故で入院中に離婚の書類やら財産分与に関する書類やらを
ギプスをはめた手でサインさせられたとかなんとか ……… 清々しい話です・・・・・・・・・・

A面ラストの「Goodnight Saigon」。言うまでもなくベトナム戦争について歌っています。
私はポップミュージックに政治的・社会的メッセージを込める事はあまり好ましく思えないので、
歌詞の内容についてはあまり興味が無いのですけれども、戦地へ赴いた名もなき兵士たちの事を
歌ったものです。興味がある方は検索してみてください。
楽曲についても、戦争反対を高らかに歌うより戦地における若者たちの同志愛を描いたものなので、
悲しみの中にも優しさがそこはかとなく感じられる曲調です。
「キャプテン・ジャック」や「イタリアンレストランにて」の様な物語的楽曲がビリーの十八番と
以前に書きましたが、これもビリー流物語の一つなのかもしれません。

あと一つ、何か書こうと思っていたのですが、それがどうしても思い出せません ………………
二百という数字が関係していたような、いないような ・・・・・・・・
思い出せないという事は大したことではないという事ですよね! ………………………………………

#199 Laura

自分にとっての「サージェント・ペパーズ(ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド)」を創る。
ビリー・ジョエルは「The Nylon Curtain」(82年)を上の様な想いから制作に取り掛かりました。
「サージェント・ペパーズ」は言うまでもなくビートルズが67年にリリースしたアルバム。
よく言われるのは3分間ポップソングでしかなかったロックを新たな高みまで引き上げた作品である、
という事。私は「サージェント・ペパーズ」が一番好きなアルバムという訳ではなく、また3分間ポップスも
悪いとは全く思いませんが、従来のロックミュージックとは一線を画した作品である事に異論はありません。
その辺は#3で触れていますので宜しければ。

82年の4月15日にビリーはバイク事故を起こします。かなりの重傷で、しかもピアニストにとって命である
指と手首にかなりの損傷を負いました。この事故により6月にリリース予定であったアルバムが
9月まで伸びることとなりました。
「The Nylon Curtain」は全体を内省的な雰囲気が覆っている作品ですが、まるでバイク事故によって
ビリーのスター人生に影を落とす事を予見していた様だ、とオカルト信者は言い出しそうですけれども、
事故はあくまでたまたまの出来事でしょう。もっともその前から妻であるエリザベスからバイク禁止令が
出されており、そのストレスが事故に繋がったという見方もあるので全く関係ないとは言い切れないかも …

上はA-②「Laura」。ビートルズファンや洋楽にある程度精通している人なら ” まるでジョン(レノン)
みたいだ ” と感じることでしょう。ビリーはそのメロディメーカーとしての世間的イメージから
ポールとよく比較されるところですが、精神的・音楽的にはジョンの影響が強いと思われます。
多分「レット・イット・ビー」や「ロング・アンド・ワインディングロード」の映像でピアノを
弾きながら歌うポールのイメージが強すぎての事だと思いますが、ポールは言うまでもなく卓越した
ベーシストであり、またギタリストとしても非常に優れたプレイヤーでした。ビートルズ初期において、
最もギターが上手かったのはポールだと言われています(ピアノが下手と言う訳ではなく)。
「Laura」から感じられるのはジョンの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」や
「アイ・ウォント・ユー」において感じられる ” 粘っこさ ” です。
歌詞においてもかなり難解な面があり、やはりジョンの影響かな?と思われる所があります。

自分にとっての「サージェント・ペパーズ(ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド)」を創る、
というのは唐突に思い立った事ではなく、言うまでもなく80年12月におけるジョンの悲劇的な死を
受けての事だったと思われます。エド・サリヴァンショーにおけるビリーを観てロックンロールの洗礼を
受けたビリーにとって当然ジョンはヒーローの一人でした。
ジョンの死、及び周囲との確執(妻 エリザベスやその親族)などがビリーの中で徐々に黒い影を
落とし始め、そして82年4月の大事故が起きてしまいます。
周囲との確執って何? というのは次回以降にてまた。

ところでこのブログを書いているのは12月7日。明日はジョンの命日です。ビリー・ジョエルに
関する記事なのですが、ジョンの話に繋がったところで何か一曲。これもビリーは相当好きだったのでは
ないかな? と思うものです。厭世的な歌詞などが特にビリー好みだったのでは・・・