#180 Say Goodbye to Hollywood

ビリー・ジョエル四枚目のアルバムである「Turnstiles」(76年)。
” Turnstiles ” とは回転式のバーなどで通過する者を一方通行で通す改札口・出札口の意。
つまりそこを出たら(入った場合も同じですが)二度と逆戻りは出来ないという事です。
当時におけるビリーの決意を表したものだったのでしょう。

「Say Goodbye to Hollywood」はオープニングナンバーであり本作を象徴する楽曲。
所謂フィル・スペクターサウンドのリスペクト・オマージュとして、ウォーカー・ブラザーズ
「太陽はもう輝かない」などと共によく引き合いとして出される定番です。
日本では勿論大滝詠一さんの「君は天然色」「恋するカレン」がウォールオブサウンドの決定版。
余談ですけれども、最近放送された深夜アニメの『かくしごと』(久米田康治原作)で「君天」が
テーマ曲に使われてました。良いセンスですね。

本曲の歌詞は意外に訳詞・解釈が難しいらしく、人によって多少異なります。
折に触れ書いてきましたが、私はポップミュージックにおいて歌詞の内容というものにあまり重きを
置いていません。大事なのは韻の踏み方やトータルなイメージであって、あまり深読みするべきものでは
ないと思っています。深読みの極地がボブ・ディランやジョン・レノンの歌詞を徹底追及し掘り下げている
人達だと認識しています(ディランやジョンは本当にそんな事考えて詩を書いたのかな?という程に … )。
勿論好きでやっている事にケチを付ける気は毛頭ありません(でもケンカ売ってねえか?)

それでも彼の転換点となった本曲における歌詞の内容はビリー・ジョエルというミュージシャンの
軌跡を語る上で重要かと思いますので今回はそれについて取り上げます。

街の中を、ボビーは車を走らせて行く、
新しいレンタカーで、街灯の下を走るのさ。
この機械に恋人を乗せるのさ。
サンセット大通りじゃお馴染みの風景さ。
ハリウッドにサヨナラするのさ。
俺のベイビーにもサヨナラするのさ。
ハリウッドにサヨナラするのさ。
俺のベイビーにもサヨナラするのさ。
ジョニーは色んな事を気にかけてくれてた。

彼のやり方は吟遊詩人みたいなものさ。
彼をドアに背を向けて座らせたけど、
俺はもう彼の世話になる事は無いだろう。
ハリウッドにサヨナラ・・・
一緒にいようとして、移り住むのは、

どうなるか分からないものなんだぜ。
思い上がったような事を言うと、
君の友達なんて永遠にいなくなるんだぜ。
永遠に。
沢山の奴らと会い、別れて来た。
何人かはこれからも会うだろうし、
何人かはこれっきりになるだろう。
人生なんて出会いと別れの連続なんだぜ。
これが別れにならなきゃ良いんだが。
ハリウッドにサヨナラ・・・

決してL.A. に辟易して脱出した訳では無い事がこの歌詞から伺えます。愛着が湧かなかったのではない、
イイヤツとの出会いもあった、でもお別れさ、といった感じでしょうか。

上はビリー初のライヴアルバムである「Songs in the Attic」(81年)に収録されたもの。
「グラスハウス」プロモーションツアー(80年)における際の一曲という事で、もう少し具体的に言うと、
「ストレンジャー」「52番街」そして「グラスハウス」とお化けの様な超特大ヒット作を連発した直後で、ビリーが最もノリに乗っていた時期のライヴヴァージョンであるのでそのテンション感も凄まじいです。
「Songs in the Attic」については勿論後で(だいぶ後の回で)取り上げます。

今度は動いてる動画を(動くから動画って言うんだけどね … )。77年のスタジオライヴという情報だけで
いつのものかは不明ですが、本演奏を含めた30分超の完全版もあがっており、それには「ストレンジャー」のナンバーも含まれているので、「ストレンジャー」のリリース(9月)直前ないし直後の様な気がします。
本演奏ではこれからの快進撃を予感させる高揚感が感じられます。

また長くなってしまったので、本曲以外の「Turnstiles」収録曲については次回にて。

#179 The Entertainer

前回に引き続きビリー・ジョエル74年のアルバム「ストリートライフ・セレナーデ」について。
日本版ウィキの揚げ足を取る様でナンですが、本作も「ピアノマン」と同じくゴールドディスクを
獲得している、とあるのですが、ゴールドに認定されたのは80年12月の事です。
つまり77年における「ストレンジャー」の大ブレイクによって遡及的に売れたのであり、
発売当時はそれ程のヒットとは言えませんでした。全米最高位35位と、もし無名の新人で
あればTOP40入りしたと十分な健闘ですが、「ピアノマン」の後を受けてのリリースの割には
いまひとつ奮わなかったというのが実際の所でしょう。
その「ピアノマン」についても、ウィキを参考にすれば4☓プラチナ(400万枚以上)という
凄い数字ですが、ゴールドに認定されたのは75年11月。発売から二年後の事でした。
ちなみにプラチナ認定が86年で4☓プラチナになったのが99年です。
プラチナはやはり「ストレンジャー」の超特大ヒットによるものである事は否めませんが、
しかしゴールドはそれより前なので、じわじわとセールスを伸ばしていき、二年の月日を経て
ゴールドディスクを獲得したのです。本当に良い作品とはこういう売れ方をするのでは。

本作で最も有名な曲である「The Entertainer」。シングルカットされ全米最高位34位、
85年の二枚組ベストにも収められています。多くの人の初聴はそちらでしょう(勿論私も)。
ヒットを飛ばした ” エンターテイナー ” 及び彼が置かれた状況についてかなり自嘲と皮肉を込めて
歌っています。まさに当時のビリーの心情を歌ったもので、ピンク・フロイドの「葉巻はいかが」に
通じるものです(#27ご参照)。

上はB-②「Last of the Big Time Spenders」ですが、前から何かの曲に雰囲気が似ているな?
と思っていました。エルトン・ジョン73年の歴史的名盤「
グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」に
収録されている「Sweet Painted Lady」に似ているんだ、と最近になって気づきました。
後に何かと比較される事となる二人ですが、この時点においてはビリーはTOP40ヒットを
二曲出しただけ、それに対してエルトンは70年の「ユアソング」以降大ヒットを連発し、
スターダムを駆け上がっている最中でした。「ストリートライフ・セレナーデ」制作の頃には
「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」は大ヒットしていたので、おそらく耳にしていたのでは
ないかと勝手に想像したりします。

「Weekend Song」は一転してエッジの効いたロックチューン。ロックンローラーとしての
一面は健在です。

「Souvenir」は「コールド・スプリング・ハーバー」や「ピアノマン」に収録されていても
違和感のないナンバー。作風はそう簡単には変えられないといった所でしょうか。

アルバムラストである「The Mexican Connection」はインストゥルメンタルナンバー。
ラテンタッチのノリは初期からビリーの中に在りました。人種のるつぼで産湯をつかったのだから当然か。

率直に私見を言うと「ストリートライフ・セレナーデ」は1stと2ndのクオリティーには
及ばないものと思っています。ビリーの中でのストックが尽きてきたこと、制作期間の短さなどの
理由があるので致し方ないとは思います。彼のディスコグラフィー中ではイマひとつ埋没しがちな
作品であるのは否めませんが、やはりそこはビリー・ジョエル。駄作などは決して生みませんでした。
80年代前半に出版されたロックアルバム名鑑(二千円以上という中学生の私からして大枚をはたきました)
には ”「ピアノマン」のヒットを受けて次の成功を気負うあまりプレッシャーに負けた感がある ” などと
レコード評が載っていましたが、今ならこれが全くの見当違いである事が自信を持って言えます。
成功したいと思わないミュージシャンはいないですし、勿論当時のビリーもそうだったでしょう。
しかし気負い・焦りの様なものは全く感じられません。全てのナンバーがビリー・ジョエル印です。
「エンターテイナー」の歌詞から当時の彼が極めて冷静に自分の置かれた状況を客観視出来ていたことが
明白です。だからと言ってコロムビアレコードを責めるのも酷です。営利企業なのですから儲ける事が
至上命題であるのは当然ですし、生き馬の目を抜くポップミュージック界ではあっという間に
世間から忘れられてしまうのが常ですので、次作の制作を急かしたのもある意味致し方ないかと。
しかしこの経験が後におけるビリーの大ブレイク後に重要な意味を持ってきます。
この話はだいぶ後の回になると思いますが・・・・・・・・・・・

#178 Streetlife Serenade

その人に定着したイメージと実際が異なるという場合が往々にしてあります。
上方漫才、というより日本漫才界の最高峰と言うべき夢路いとし・喜味こいし師匠。
実は東京生まれだそうです。あの関西弁による漫才の筆頭格としか思えないお二方が
東京出身者だったというのは驚きです。…………… あっ!これ、漫才のブログじゃないですよ。
昔の洋楽についてばかり書いている誰も見ていないブログです・・・・・

「ピアノマン」のヒットにより世間に認知される事となったビリー・ジョエルですが、
最初の契約先であるファミリープロダクションからバックレる様にL.A. へ移ったのは
前回で既述の事です。そして「ピアノマン」はL.A. で創られた作品です。
今日においてはN.Y. の象徴という存在であるビリー・ジョエルのブレークは
故郷の東海岸ではなく西において始まったのです。
こんなビリーの経緯をいとし・こいし師匠とだぶらせられるんじゃないかなと思って
上の枕を書きましたが、読めば読むほど見当違いの様な気がしてきました …(じゃあ書くな)。

「ピアノマン」の次作である「Streetlife Serenade」(74年)。そのA-①が上の
「Streetlife Serenader」です。恥を忍んで言いますと、ずっとタイトルソングとして
同じ ” Serenade ” だと思っていました・・・・・・・・・・・
「セレナーデ」は愛する女性に対して、彼女の部屋の窓下で歌う愛の歌を指すそうです
(勿論現在では通報されます)。「セレナーダー」はそれを歌う(詠う)歌い手・詩人といった
所でしょうか。吟遊詩人と訳したブログもありました。
ここでのストリートは間違いなくN.Y. ではなくL.A. の街角です。

A-③「The Great Suburban Showdown」は前二作に収められていてもおかしくない曲調ですが、
一点だけ決定的に異なるのがシンセサイザーの使用。本作からビリーはムーグを取り入れます。

ある時期ビリーのコンサートでは定番のナンバーであったA-④「Root Beer Rag」。
ジャズ、ブルーグラス、そしてクラシックの要素をも取り入れながらのピアノテクニックを
存分に披露するための様な曲です。タイトルのラグはラグタイムを指します。
私は決して詳しくないのですがそれはジャズの前身とされる音楽スタイルと言われています。
ちなみに「ピアノマン」のヒットを受けて急いで次作に取り掛からなければ
ならなかったが、
曲のストックが無く苦肉の策としてビリーにとっては
指慣らし的な演奏を収録するに至ったという話も。

A面ラストの「Roberta」は地味な楽曲ですが、「ニューヨーク52番街」の「ロザリンダの瞳」に
繋がるものと思っています。人種のるつぼであるN.Y. で育ったビリーならではで、英仏独以外の
欧州をルーツに持つ女性(イタリアやスペインなど)、あるいは中南米の女性を題材としたナンバーの
はしりです。勿論実際にそういった女性たちとも星の数ほど付き合ったことでしょう。

中途半端な長さですけれども、アルバム丸ごと取り上げるとやはりかなりのボリュームになるので、
本作についても二回に分けます。なので次回も「ストリートライフ・セレナーデ」について。

#177 Captain Jack

ビリー・ジョエルのアルバム「Piano Man」(73年)に収録されている
「The Ballad of Billy the Kid」。西部劇において伝説化された人物をモチーフにした本曲は、
ビリーがこの人物について目にしたものを基に創り上げたストーリーであり、
実際のビリー・ザ・キッドについて史実通りかどうかは不正確であると本人も認めています。
歴史上の人物なんてこんなものでしょう。忠臣蔵なんかお上から任された指南役としての
仕事を忠実にこなしていたいただけなのに、仕事が出来ず癇癪持ちの指導相手に切りつけられ、
さらにそれを逆恨みした部下たちによって一方的に押し入られ殺害された、というのが
実際の所であると現在では定説になっています(話が横道に逸れたかな・・・・・)。

ビリーの父親がユダヤ系ドイツ人というのは前回触れましたが、宝石商を営みかなり裕福で、
しかもかなりのピアノの腕前であったそうです。ビリーはこの父親によって英才教育を受けました。
彼の音楽的ルーツはここにあります。
ちなみにビリーの本名はウィリアム・マーティン・ジョエル。私昔はビリーというステージネームは
上記のビリー・ザ・キッドから付けられたものと思っていましたが、後にウィリアム(William)を
短縮した愛称が ” Bill(Billy)” であると知りました。つまり、ビリー・ザ・キッドも本名は
ウィリアムという事です。

「The Ballad of Billy the Kid」は後にビリーお得意のスタイルとなる小物語的楽曲創りです。
「ストレンジャー」に収録された名曲「イタリアン・レストランで」に代表される様な、
ちょっとした短編映画を観ている様な感覚にさせてくれます(音だけですが)。
もろ西部劇といったイントロから、良い意味で大仰なアレンジ構成に移るといった、複数パートからなる
曲創りは本ナンバーから始まったものでしょう。特にオーケストラが素晴らしい効果を挙げています。

2ndシングルである「Worse Comes to Worst」。ある評論家曰く ” 少しカントリー、少しロック、
そして少しゴスペル ” だそうです。そんな気もしないではありません。

「Stop in Nevada」は前作に収録されていても違和感の無いナンバーです。ですがやはりここでも
オーケストラアレンジが一際際立っており、やっぱり大手のレコード会社と契約したからこそ
贅沢な作りが出来たのでしょう。スティールギターも素晴らしい(前作とは違うギタリスト)。

スケール感溢れるナンバー「If I Only Had the Words (To Tell You)」。ビリーは決して
美声の持ち主という訳ではありませんが、朗々とした歌いっぷりが素晴らしい。

「Somewhere Along the Line」はゆったりとした中にもリズミックでなおかつゴスペルの
香りもするダイナミックなナンバー。
余談ですが本作にはラリー・カールトンが参加しています。しかしラリーを含めて三人の
ギタリストがクレジットされており(ペダルスティールは更に別)、正直どれがラリーの
演奏であるかは判別出来ません。

良いものが必ずしも世間に認められるとは限りません。何度か同様の事は書いていますが、
存命中は見向きもされず死後になって評価されるなどという事もありますし、
いまだに埋もれている名曲などは沢山ある事でしょう。
これだけ逆を張ってから言いますが、「Captain Jack」は認められるべくして認められた曲だったのだと
私は思っています。
FMでかかっていたのをコロムビア・レコードの重役がたまたま耳にし契約のキッカケとなったのは
既述ですが、この話にはもっと深い流れがあります。フィラデルフィアのWMMRというFM局に
よってそのスタジオライヴの模様は72年4月にオンエアされたました。前作から7曲未収録曲が5曲という
セットリストで、「Captain Jack」は未収録曲の一つでした。それが上記2曲のうち下の方です。
本演奏はすぐにWMMRのオーディエンスによって絶賛され、その後一年以上に渡って
レギュラーローテーションとなり放送されました。そしてこの曲は何のアルバムに入っているんだろう?
と、皆が求めるようになったのです。その後更にN.Y. におけるいくつかのFM局でもオンエアされ
世間に浸透していく事となります。
たった一度だけ地方のラジオ局で放送された演奏がたまたまコロムビアの重役の耳に留まった、
というのであれば運命論なども信じたくなりますが、実際はローカルであれども評判が高まり
オンエアされる頻度も上がっていった中においてコロムビアに知られる所となったのです。
この経緯にかなりの必然的要素があった事は否めない事実なのです。

現在殆どのリスナーがアルバムに収録された「Captain Jack」を先ず耳にし、その後に
11年に発売された「Piano Man」のレガシーエディションによって(先のスタジオライヴが
ボーナスディスクとして付いている)、あるいはユーチューブにて72年のライヴ版を
遡って聴いたことでしょう。勿論私もそうです。なのでアルバム版の印象が刷り込まれて
しまっていてライヴ版をまっさらな耳で聴くことが困難なのですが、アルバム版は
コロムビア契約前からビリーが持っていた本曲のイメージ通りだったのではないでしょうか。
先にも書いた通り大手と契約した事によってオーケストラなど贅沢なアレンジが実現しましたが、
最初からビリーの中にはアルバム版の様な形があったのではないかと思えるのです。
勿論先述した様にアルバム版を先に聴いた故の刷り込みによるものかもしれませんが・・・・・

アルバム「Piano Man」に収録された楽曲も基本的には前作と同系統の素材であると思います。
それがコロムビア・レコードの力によって贅沢かつ華がある創りとなり、よりエンターテインメント音楽
として完成されたものになりました。個人的にはどちらも甲乙つけがたい内容なのですが、
上の様な理由から商業的に成功したのではないでしょうか。
当然の事ながら、コロムビアによる強いプロモーション
も大きかったのでしょうけれども。