#73 Sea of Love

エイジアやフォリナー回にて何気にスーパーグループという言葉を使いましたが、
調べてみると現在では死語になっているそうです。…知らなかった… (゚Å゚;)━?!
既に実績・知名度のあるミュージシャンやバンドに在籍していた人たちが結成したバンド、
というような意味合いで、私のようなオッサン世代では普通に使っていた言葉ですが、
80年代辺りを境にこの呼称はあまり好ましい言い方としては使われなくなっていったとの事です。
古くはクリーム(エリック・クラプトン回#8ご参照)、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング、
そしてエイジアあたりが最も有名なところだったかと思います。

私のリアルタイムだった80年代、エイジア以外でもスーパーグループと呼ばれたバンドはありました。
まずはパワー・ステーション。飛ぶ鳥を落とす勢いだったデュラン・デュランのジョン・テイラー(b)と、
アンディ・テイラー(g)が長年尊敬していたシンガー ロバート・パーマーと結成したバンド。
当時アイドルバンド的な扱いをされる感が否めなかったデュラン・デュランですが、ジョンとアンディは
それを嫌っていたのか、もっと硬派なロック・ファンクを演りたいと願ったのがきっかけとか。
プロデュースは「Le Freak(おしゃれフリーク)」(←しかしこの邦題は何とかならなかったのか…)等の
ヒットで知られるシックのバーナード・エドワーズ。そのつながりでドラムはトニー・トンプソンに。

それ以前は所謂”Musician’s Musician”、玄人受けの存在であったロバート・パーマーを表舞台へ
引っ張り出したジョンとアンディの目論見は見事に当たりました。上記の1stシングル
「Some Like It Hot」を含むアルバム「The Power Station」(85年)は米で6位の大ヒット。
2曲のTOP10シングルを輩出し大成功を収めます。またアイズレー・ブラザーズの
「Harvest ForThe World」やT・レックス「Get It On」のカヴァーも話題となりました。
”大人の男のフェロモン”がプンプンするような苦み走ったパーマーのヴォーカルは今聴いても
惹きつけられます。その後にリリースしたソロアルバム「Riptide」(85年)からは全米No.1
シングル「Addicted To Love(恋におぼれて)」を生み出し、その印象的なPVも含めて大ヒットし、
グラミー賞を受賞する事となります。
トニー・トンプソンのドラムも一度聴いたら忘れられないグルーヴと音色です。黒人のうねるリズムと
言うのはこういうビートを指すのでしょう。念の為言っときますが生音でこんなドラムの音はしません。
サウンドエフェクトがあってはじめてあの様な音になります。具体的にはゲートリバーヴと
フランジャー、あとは気合(?)でしょうか… 本作からもう一曲「Communication」。

エイジア以降で最も話題になった大物同士の組み合わせと言えばこれに尽きるのではないでしょうか。
ハニードリッパーズ「Volume One」(84年)。レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジとロバート・
プラント、ジェフ・ベック、シックのナイル・ロジャースという顔ぶれで、よくぞこれだけの面子を
揃えたものだと思いますが、それもそのはず、このバンドは当時のアトランティックレコードの社長が
自身の好きな50’sの曲でレコードを作りたいと企んだのが始まり。ハニードリッパーズというのは
元々はプラントがツェッペリン解散以降に率いていたバンド名だったのですが、このバンドが50’sの
スタンダードを演っているのを知っていた社長が、これだけのビッグネームを集めて企画モノとして
プラントのバンド名義にてミニアルバムを作らせた、という事情だったようです。
ツェッペリンやジェフ・ベックらしい音楽を期待して聴いたら肩透かしを喰います。コンセプトが
オールディーズを楽しんで演ろう、という様なものなので当然でしょう。
奇しくも最初のパワー・ステーションと同様にシックのメンバーが関わっていますが、70年代における
ファンク・ディスコミュージックの立役者であった彼らが、80年代に入って一世を風靡したヒップホップ、
ダンサンブルな音楽の形成に最前線で寄与した事が、特に80年代前半~半ばにかけて皆がこぞって
彼らの力を借りようとした為のようです。もっともハニードリッパーズは決してファンクやヒップホップの
要素があるとは思えませんが、それが時代の流れだったのでしょう。

フィル・フィリップスによる59年の大ヒットナンバー「Sea of Love」。ハニードリッパーズ版も
85年に全米3位の大ヒットを記録します。プラントのツェッペリン解散後における最大のヒットと
なったのですが、実はこれが彼にとってジレンマだったようです。本曲の様な甘い曲を得意とする
シンガー、とイメージが定着することを恐れたとのことです。
意外と目立たない事ですが、実は本作に参加しているドラマーは現在ではジャズ・フュージョンドラマーの
大御所デイヴ・ウェックルです。当時は新進気鋭のN.Y.若手セッションドラマーとして、オマー・ハキム、
デニス・チェンバース達と共に、スティーヴ・ガッドなどの次世代を担うドラマーの一人でした。
先述の通りオールディーズのカヴァーなので、超絶テクニックなどを聴くことは出来ませんが、
シンプルながらツボを押さえた演奏は見事。一流の人はシンプルなのをプレイしてもやはり一流です。

エイジア回でも述べた事ですが、スーパーグループというのは企画モノの側面があり、またビッグネーム
同士でエゴのぶつかり合いになる事が少なくない為、短命で終わることが常です。
ハニードリッパーズは始めから単発の企画だった様なので当然ですが、パワー・ステーションも上記の
アルバム1枚でいったん解散してしまいます(96年に再結成し、アルバムをリリース)。
演奏者の力量に因る部分が大きい即興演奏主体のジャズ・フュージョンは別として、それ以外の
ポピュラーミュージックについては演奏技術に秀でたメンバー同士が集まったから優れた音楽が
出来るとは限りませんし、また卓越した作曲・編曲能力を持つものが組んで曲を作れば必ず名曲が
作られるかという訳でもありません。スティーヴィー・ワンダーとエルトン・ジョンが共に作曲すれば
この世のものとは思えない素晴らしい楽曲が生まれるものでもないでしょう。むしろ”船頭多くして
船山に登る”になってしまう事の方が多いのかも。スーパーグループがやがてロック・ポップス界から
姿を消していったのも、そのような理由からだったのかもしれません。

#72 John Wetton_2

ジョン・ウェットン回その2。ウェットンの性格はポジティブで人当たりの良いものだったと
言われています。前々回でも書きましたが、仕事を断るという事を知らない、というか頼まれると
イヤと言えない性格であったそうです。勿論仕事好きというのが一番の理由でしょうが、前回述べた
バンド遍歴(70年代だけであの量…)はそれらに起因するものかと思われます。
しかしウラを返すとその性格はルーズで大雑把、ともいえるものです。アルコール依存症のため
厳格な性格のスティーヴ・ハウとソリが合わずエイジアを一時離脱した事は書きましたが、
U.K.においてもビル・ブラッフォードとアラン・ホールズワースの”神経質組”とはアルバム1枚で
袂を分かっています。もっともU.K.の場合は目指す音楽性の違いが大きな原因でしたが。
また後年はだいぶ太っていましたが、これも自己管理の甘さからくるものだったのかもしれません。

シンガーとしてのウェットンにスポットが当てられる機会は意外になかったと思います。
先ずは親しみやすい方から。エイジアのアルバム「Alpha」(83年)から、全米34位を記録した
同アルバムからの2ndシングル「The Smile Has Left Your Eyes(偽りの微笑み)」。
ドラマティックでハートウォーミングなバラードである本曲は、1~2枚目のアルバムを通じて
唯一彼が作詞作曲全てを手掛けたもの、つまりウェットン成分100%の曲なのです。
彼は美声という訳ではなく、割と野太い声で朗々かつ朴訥と歌う男性的な歌唱スタイルです。
私見ですが本曲の様なバラードは彼の様な歌い方で丁度バランスが取れているのではないかと思います。
つまり、あまり過度な感情表現と所謂”美声”で歌われると『クドさ』が前面に立ってしまうのです。
オフィシャルPVは妻子と別れた男性のストーリー仕立てのもの。母親に引き取られた娘が途中で
車を降り、パリの街中で誤って川(セーヌ川?)に転落してしまい両親は娘にこの様な行動を取らせて
しまった自分達を責め嘆いて終幕、と思いきや娘は最後にエイジアのメンバー達の前に現れる、というオチ。
オフィシャルプロモなので歌詞もその様な内容なのだろうと信じて疑わなかったのですが、今回本曲の
和訳を色々な方がされているのを調べて改めて気付いたのですが、ビデオの内容と歌詞があまり合ってない
ようです。”父さん母さんのせいで君(娘)に辛い思いをさせた、その瞳から笑顔が消えてしまった”の様な
歌詞かと思い込んでましたが、多分PVを観ていなくて純粋に訳だけをした方なのでしょうけれど、
”一度は僕の元を去ったのに、また戻ってくるなんて…” 勿論娘に対してという訳ではなく恋愛の対象
(元妻or元カノ)
に向けた言葉です。拙い英語力で挑んでみましたが挫折しました………(´Д`)
ホール&オーツ回の#61で書きましたが、MTVの申し子のように思われていたホール&オーツが
実は当時それを快く思っていなかった。あまりに忙しすぎたというのもあったのでしょうが、
指定された日に撮影の為スタジオに行くと、本人たちの意図していなかった愕然とするような
ひどい内容のPVを撮られ作られてしまった、という事があったそうです。
本曲はそこまで酷くはないと思いますが、作詞者ウェットンの意図する所と異なるものに仕上がって
しまったという可能性も考えられます。

お次は”親しみにくい方”を。やはり何と言ってもこれでしょう、キング・クリムゾン「Red」の
エンディングナンバー「Starless」。クリムゾン回の#17で取り上げましたが、クリムゾン時代に
おける彼のヴォーカルでいずれか一つと言われたらこれに尽きます。本曲については#17を
ご参照の程(お願いです、ちょっとでイイですから読んでください…。゜:(つд⊂):゜。)。
まるで葬送曲を思わせるこの歌は、ウェットンのヴォーカルがあったればこそ。感情を抑えた
淡々とした歌唱が本曲をより引き立てます。12分30秒の内、ヴォーカルパートは冒頭の4分半ほど
ですが、是非とも最後まで聴いてみて下さい。インストゥルメンタルパートまでを全て含めて「スターレス」なのです。感動的なまでの絶望感という言葉があるならば、それは本曲の為にある言葉だと思います。

イエスのクリス・スクワイア、グレッグ・レイク、そしてキース・エマーソンと、ブリティッシュロックの
巨人達が相次いで亡くなる中、昨年1月にジョン・ウェットンもこの世を去りました、享年67歳。
勿論これらの事に因果関係などがある訳ではなく、皆そのような年齢だったので致し方ない事なのですが、
やはり自分が長年聴いてきた人達がいなくなってしまうのは寂しいものです。

上の写真はウェットンが亡くなる直前(16年12月らしいです)、リサ夫人と一緒にロバート・フリップを
訪ねた時のもの。ウェブ上の日記にウェットンへの追悼の言葉と共に上記を含む写真があげられています。
その激やせぶりから分かる通り、病状も思わしくなかったでしょう。おそらく会えるのはこれが最期と
フリップを訪ねたのでしょう。クリムゾン回でも書いたことですが、失礼を承知で言うと、フリップは決して
人間味溢れる温かい人柄という訳ではないと言われています。クリムゾン解散時は非常に険悪な人間関係
だったというのも既に述べた通りです。しかしどうでしょう、特に右側の二人で写っている写真での笑顔は。
一緒に組んでいた時期ははるか昔であり、また二人とも歳を取った事なども勿論あるのでしょうが、
性格的相性などはともかくとして、やはり根底にあるのは音楽家として互いに認め合っていた仲だからこそ、
最期はこのように笑って一緒にいることが出来たのではないでしょうか。

最後にご紹介するのはベーシスト、シンガー、そしてコンポーザーとして、全てを含めた音楽家としての
ジョン・ウェットンを最も知る事が出来ると私が思う曲。彼はプログレ然とした変拍子などのテクニカルな
プレイから、エイジアやソロアルバムでのポップな面まで、様々な顔を持ち合わせている、一筋縄では
その音楽性を括る事が出来ないミュージシャンです。その間を取ったなどと言うと中途半端な感じに
聞こえてしまうかもしれませんが、難解と言われるプログレッシヴロックからポピュラリティを
得たポップミュージックへの移行期とも言えるU.K.の2ndアルバム「Danger Money」(79年)から
「The Only Thing She Needs」。今聴くと難しい、と思われるかもしれませんが、これでもまだ
当時はポップなプログレを目指して作った方なのです。展開が劇的に変わるアレンジの素晴らしさと、
超絶技巧を尽くした演奏でありながら、エンターテインメントとしての音楽性も失わない本曲は、
エディ・ジョブソンとテリー・ボジオという圧倒的な技術・音楽的素養を持ったプレイヤー達と共に、
この時点でウェットンが思い描いていた音楽が見事に具現化されたものだと思います。
商業的には決して振るわなかった本作ですが、これらは後のエイジアにおける成功の布石となったのです。
本曲だけのいい動画がないので、どうせならアルバム丸ごと上げます。「The Only Thing She Needs」は
13:14~21:07ですが、どうせなら全部聴いてみて下さい。その価値がある作品です。

#71 John Wetton

前回取り上げたエイジアの中心メンバーであったジョン・ウェットン。私も中学生の頃から
長年に渡ってキング・クリムゾンやエイジアなどでその歌とベースを聴いてきたのですが、
ミュージシャンとして、また人間として能動的に詳しく知ろうとした事はありませんでした。
ベースとドラムはリズムセクションとしてどうしても裏方に回る役割ですが、自分がドラマーなので
ドラムについてはそれなりの知識は持ち合わせていますけれども、同じ裏方のベーシストには
なかなか意識が向かなかったというのが事実です。昨年1月に惜しくも亡くなってしまいましたが、
今回からジョン・ウェットンの音楽、及びその人間性などについても書いてみたいと思います。

49年、英国ウィリングトン生まれ(ウィリングトンというのはイングランドの丁度ど真ん中辺りに
位置する町のようです)。ブリティッシュロック、特にプログレッシヴロックと呼ばれるカテゴリーに
おいて様々なバンドに在籍、またはサポートメンバーとして参加した英国ロックの生き字引的な人でした。
彼のキャリアをデビューした70年頃から前回のエイジア、つまり80年代前半位までだけでもちゃっちゃと
述べてみますが、それでもかなりのボリュームになります。どれだけ節操ない…もとい仕事好きだった
人なのかが垣間見えるのではないでしょうか。忙しい人はザックリとだけ読んで頂ければ・・・

初めてその名が世間に認知されるようになったのはファミリーに参加した事によって(71~72年)。
米では全く売れなかったようですが、本国イギリスではアルバムがTOP10内に入るほどの人気バンド
でした。ウェットンはアルバム2枚にてプレイしています。72年にキング・クリムゾンへ加入。ロバート・
フリップらしく(?)3年間で解散、その後ロキシー・ミュージックへ参加しますがツアーのみで
スタジオ盤は残していません。直後にユーライア・ヒープへ加わり2枚のアルバムを。そして超絶
ハイテクバンド U.K.を結成しますがこちらもスタジオアルバムは2枚のみと短命で終わります。その後も
ジェスロ・タルのサポートをしたり、自身の初ソロアルバムもリリース。80年、一時だけウィッシュボーン・アッシュに在籍しアルバム1枚を、そして前回取り上げたエイジアで世界的な成功を収める事となります。
約10年間だけでこのバンドの変遷と仕事量です。実際彼を”ベースを持った渡り鳥”と呼ぶ人もいます。

彼の名を一躍有名にしたのはキング・クリムゾンに参加した事だと一般には言われています(72~74年)。
実際そうだとも思うのですが、しかしチャートアクションだけを見ると、この時期のクリムゾンにおいては
3枚のスタジオ盤とライヴ盤1枚を残していますけども、「太陽と戦慄」(73年)が英でぎりぎり20位、
米ではどれもTOP40に入る事は無かったのです。無論レコードセールスが全てだ、などと言う気は
毛頭ありませんですし、むしろその逆で、売上的には決して振るわなかったクリムゾンが50年経った
今日でも語り継がれているのは商業的成功だけが全てではないという事を物語っているという証拠です。
しかしリアルタイムの70年代前半において、米や日本において彼の知名度は如何ほどだったのかと?…

#15~17でキング・クリムゾンは取り上げましたが、彼のベースプレイでまず真っ先に浮かんでくるのは
何と言ってもこの曲「Red」。当時におけるウェットンの使用機材はフェンダー・プレシジョンベースと
ハイワット製アンプ、そしてエフェクターを使って歪ませることもあったとの事。本曲における波のように
押し寄せる重低音は35年以上聴き続けていますがいまだに圧倒されます。

その奏法はツーフィンガー・スリーフィンガー・ピック弾きと多彩で、時に所謂”チョッパー”(これは
和製英語で、欧米ではスラッピング(slapping)と言うそうです)とは異なる、人差し指から薬指までの
3本ないし2本を弦に叩きつけるような奏法を用いる事もあったそうです。
ロキシー・ミュージックへ参加時の下記の演奏「Out of the Blue」にて、ベースとドラムによる
ブレイクが2回ありますが、この時に低音弦がビビり・割れている音がそうではないかと思っています。

60年代風ソウルミュージックをさらにテクニカルにしたようなプレイは圧巻。先述のブレイク時に
おけるエフェクターのかけ方も非常に効果的でインパクトがあります。

最後にもう一曲、U.K.から。本バンドはどれを取っても凄まじいプレイですが、来日時のライヴアルバム
「Night After Night 」(79年)より「Presto Vivace and Reprise~In The Dead of Night」。
1stアルバムの
曲ですが、結成メンバーである超絶技巧ギタリスト アラン・ホールズワースの脱退により
トリオ編成となり、
ドラムもブル・ブラッフォード(#20~21ご参照)からテリー・ボジオに代わりました。
ウェットンのプレイのみならず全員(といっても3人、それでこの演奏…)が圧巻ですが、特筆すべきは
この変拍子の難曲を歌いながら演奏しているという事。スタジオ盤では別々に録っているのでしょうが
(ひょっとしたら弾きながら歌っていたりして…)、この辺りがウェットンの地味に凄い所です。

次回はウェットンのシンガーとしての側面、またその人生についても書いてみたいと思います。

#70 Heat Of The Moment

前回までのフォリナー回における枕の話は82年の年間シングルチャートがきっかけでしたが、
同年の年間アルバムチャートに目をやると、3位がフォリナーの「4」、2位がゴーゴーズの
「Beauty and the Beat」(ガールズバンドのはしりの様な存在。ベリンダ・カーライルを
中心とした5人組で、ベリンダは解散後ソロでも活躍)、そして1位が今回のテーマであり、
この年のロックシーンを席巻したスーパーグループ エイジアです。

 

 

 


#15~17で取り上げたキング・クリムゾン、#18~19でのイエス、そしてエマーソン・レイク・
アンド・パーマー(EL&P)といった英国プログレッシヴロックを代表するバンドの
メンバー達が集結したバンド。プログレというものは難解で冗長な音楽、と感じる人達が
少なくなかったのですが、エイジアはそれを解消して、語弊はありますがあえて言うと
”わかりやすく聴きやすいプログレ”を目指したと言えば良いでしょうか。

82年3月、1stアルバム「Asia(詠時感〜時へのロマン)」をリリース。上記の1stシングル
「Heat Of The Moment」と共に大ヒットを記録。前述の通り同年最大のヒット作となります。
世間一般に受け入れられたという事は、昔ながらのコアなファンが好む重厚なプログレでは
なくなったという事。実際かなり批判的な評価もあったようですが、80年代という時代が
そうさせたのでしょうか、#22~24で取り上げたジェネシス、83年にイエスが発表した「90125
(ロンリー・ハート)」などと共に、80年代になってよりコンパクトかつポップになった音楽は、
それぞれ彼らがそれまでに発表したどの作品よりも好セールスを上げる事となりました。
私も鼻血が出るほどプログレが好きな人間であり、好んで聴くのは70年代の彼らの音楽ではありますが、
80年代のそれらもそれなりにちゃんと好きです(なんか変な言い方ではありますが…)。

本作にて、というよりエイジアで私が1,2を争うベストトラックと思っているのが、上記の
「Wildest Dreams」。後半にかけてのスティーヴ・ハウのギターとカール・パーマーのドラムによる
テンション感が見事です。特にエンディング近くにおけるカールのドラムは完全にハシっていますが
これは意図的なものでしょう(カールはもともとハシるタイプのドラマーですが・・・)。

83年7月、2ndアルバム「Alpha」を発表。本作もプラチナディスクを獲得し、普通であれば十分な
ヒットなのですが、前作があまりにも売れ、また話題になり過ぎてしまった為、過小評価されている
きらいがあるように思われます。先に述べた1,2を争うベストトラックと思うもう一つが本作に
収録の「The Heat Goes On」。中間部のキーボードソロはバグルス~イエスと在籍していた
ジェフ・ダウンズによるものですが、まるでナイスやEL&Pにおけるキース・エマーソンのプレイを
彷彿させる様な熱く素晴らしいソロです。エマーソンを意識したのかな?と思わせるほどの…

ユーチューブにて本曲を検索すると83年の武道館公演が出てきます(当時はビデオ・レーザーで発売)。
オープニングナンバーだったらしく、MCの後に本曲の演奏が始まります。ちなみにこの時は
ジョン・ウェットン(vo、b)が一時的にバンドを離れていたため、グレッグ・レイクが参加しています。

ウェットンが離脱していたのはハウと確執が深まったためと言われています。実はウェットンが重度の
アルコール依存症であって、神経質な性格であったハウとは衝突が避けられなかったのでしょう。
しかし今度はウェットンとダウンズがイニシアティブを取り出し、ハウが蚊帳の外に置かれ始める様になり、
やがて脱退に至ります。85年発表の3rdアルバム「Astra」は新ギタリストを迎えて制作されましたが、
以前ほどのセールス・評価は得られずに、やがてバンドは活動を休止する事となります。

エイジアというバンドはイエス、EL&Pが共に解散状態であった隙間の時期に、これまたフリーの
状態であったウェットンを(ウェットンはもともと仕事を断ることを知らないのか、というくらい
色々なバンド、セッションへ参加する人でしたが…)、マネージメントサイドが上手く引き合わせ、
まとめ上げた。言い方に少し語弊はあるかもしれませんが、企画ものバンドの側面があったように思います。短命に終わったのもある意味必然だったのかもしれません。その後ダウンズ主導にて再結成がなされ、
流動的ではありますが結成メンバーが集まる機会もあったようです。しかし17年1月、ウェットンが
亡くなりオリジナルメンバーでの演奏を聴くことは二度と叶わなくなりました。

重厚なプログレッシヴロックを軽い音楽へと貶めた、いや、この難解な音楽をポピュラリティを
得るまでに昇華せしめた。評価は分かれるところですが、世にプログレという音楽への門戸を
広く開いた立役者である、という事は間違いないと思います。