#129 Killing Me Softly with His Song

ロバータ・フラック回の初めから当たり前のようにその名があがっている人がいます。
言わずと知れたダニー・ハサウェイなのですが、皆がダニーについて言わずとも
知れているという訳ではないでしょうから、ここで彼について触れておくべきでしょう。
勿論本気で書くと収拾が付かなくなるので、あくまでロバータにまつわる事柄のみを。

45年生まれであるダニー・ハサウェイは37年のロバータとは八歳も違うわけですが、
二人の出会いはハワード大学であったとされています。その歳の差からして当然に
ダニーが入学した18歳時にロバータは二十代半ばなので、彼女はその時既に大学院に
進んでいたでしょう(大学院の研究生・助手のような立場だったかも)。
前回述べましたがロバータは15歳で大学に入学した程の秀才、そしてダニーも神童とされる程の
才能を発揮していたと言われていますので、お互いがその音楽的才能に興味を持ち合ったとしても
不思議ではありません。ただしダニーは卒業を待たず、中退してプロデビューしてしまいました。
デビュー作「First Take」からロバータの音楽制作にダニーは関わっています。上の
「Our Ages or Our Hearts」を含む二曲において作曲に参加していました。
そして71年のデュエット「You’ve Got a Friend」、翌年における「Where Is the Love」の
大ヒットについては前回既述の事です。

ここからは前回の続き、72年の名盤「Roberta Flack & Donny Hathaway」についてです。
上はオープニングナンバーである「I (Who Have Nothing)」。原曲はイタリアの楽曲ですが、
それをエルヴィス・プレスリーにおける数多の名曲や「スタンド・バイ・ミー」などで
有名なジェリー・リーバー&マイク・ストーラーが英語詩を付け、ベン・E・キングが
63年にレコーディング。さすがイタリアだけあってカンツォーネ風の劇的な曲調です。
トム・ジョーンズ版もよく知られるところ。
少しでも興味があれば上のタイトルの部分をコピペしてユーチューブで聴いてみてください。
ベン・E・キングやトム・ジョーンズ版が見事なのは勿論ですが、ロバータ&ダニー版の
アレンジには目からウロコ的なものを感じざるを得ません。
全曲取り上げたいのですが長くなるので涙をのんで曲を絞ります。ちなみに2曲目は既述である
ところの「You’ve Got a Friend」。

ロバータとダニー(他一名)による共作「Be Real Black for Me」。地味ながらもゴスペル
フィーリングを醸し出し、心に染み入るソウルナンバー。本作からアリフ・マーディンが
プロデューサーとして参加(前作迄においてもアレンジャーとしてクレジットされている)。
出しゃばり過ぎない絶妙なホーン&ストリングスアレンジはマーディンならではのもの。
エリック・ゲイル(g)、チャック・レイニー(b)、そしてバーナード・パーディ(ds)の
超一流リズムセクション。弾きまくるだけが楽器ではないんだなあ、と改めて考えさせてくれる
見事な演奏。

私にとって、シングルヒット「Where Is the Love」と双璧をなす本作のベストトラックである
「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’(ふられた気持)」。ライチャス・ブラザーズの
全米No.1ヒットであり、私の世代ではホール&オーツ版の方で馴染みがある名曲(#57ご参照)。
ブルーアイドソウルの名曲を本家黒人ソウルシンガーがカヴァーするというのが興味深い所ですが、
本曲についてはとにかくアレンジの妙という一点に尽きます(勿論、歌と演奏も見事です)。
予備知識なしで聴くと、サビでタイトルが歌われる箇所までは「ふられた気持」だと全く
気づきませんでした。この様な解釈があるのかとまたまた目からウロコの楽曲です。
もっとも目にウロコがある人は見たことないですが ……… <○> <○>・・・・・・(((((゚Å゚;)))))
ジャズ界では「ジャズに名曲なし、あるのは名演のみ」などという言葉があるようですけれども、
それも少しわかるかな?というカヴァーです(「ふられた気持」は名曲ですよ!)。

B面トップのスタンダードナンバー「For All We Know」。ダニーによる独唱である本曲は、
中盤からのフルート&ストリングスアレンジと共に、彼のあまりにも素晴らしいヴォーカルが
エモーショナルであるという一言に尽きます。

「Where Is the Love」と共にラルフ・マクドナルドのペンによる楽曲である
「When Love Has Grown」。恋を歌った内容や曲調と共に、「Where Is the Love」と
対をなす楽曲なのかも?と思うのは私だけ?二人のデュエットはやはり見事です。

聖歌である「Come Ye Disconsolate」。ダニーの父親は牧師であったと昔何かで
読んだことがあります。であれば当然慣れ親しんだ楽曲でしょう。

ようやく今回のテーマである「Killing Me Softly with His Song(やさしく歌って)」です。
ロバータの代表曲にて、40代半ば以上の日本人ならネスカフェのTVコマーシャルで
絶対に聴いている楽曲。ただしそれはロバータのヴァージョンではなくCM用に歌詞が
変えられ、シンガーも別の人。『ネスカフェ~、ネスカフェ~、エクセラ~』という
歌詞でしたので、子供のころは当然ネスカフェコーヒーの為に書かれたCMソングと思ってました。

本曲もロバータのオリジナルではありません。ロリ・リーバーマンという白人女性フォークシンガーの
録音が初出です。ロリ版はヒットしませんでしたが、ロバータは飛行機の中でたまたま本曲を
耳にします。すぐさまこの曲について調べ、クインシー・ジョーンズへ電話してから彼の家へ行き、
「やさしく歌って」という曲を作ったチャールズ・フォックスに会いたいのだけれど
どうしたらイイ?と頼み込み、その二日後には会えたとか。
その後まもなく、ロバータは本曲をバンドとリハーサルしてみますが、その時は録音しませんでした。
72年9月、ロバータはギリシャでマーヴィン・ゲイのオープニングアクトを務めていました。
マーヴィンから ”新しい曲はないかい?” と問われ、「Killing Me Softly … 」という温めている
曲はあるのだけれど … と言うと、マーヴィンは ”それ演りなよ!” と即答しました。
そのプレイはギリシャの聴衆を熱狂させ、マーヴィンはというとロバータの下に駆け寄り、
”いいか!レコーディングするまでその曲は人前で演るな!!” と言い放ったとか。
(マーヴィンのお墨付きをもらった?)73年1月にリリースされたロバータの「やさしく歌って」は、
全米No.1ヒットとなり先述したようにロバータにとって代表曲の一つとなります。

またまた長くなってしまいましたので、次に跨ぎます。次回は本曲にまつわるあれやこれやの続きと、
本曲が収録された ”アルバムとしての”「やさしく歌って」についてです。

#128 Where Is the Love

ロバータ・フラックは37年生まれ(39年説も有)、ディオンヌ・ワーウィックが40年生まれ、
アレサ・フランクリンが42年という順番です。
ディオンヌ同様音楽一家に生まれ、9歳の時からピアノに興味を持ち始めました。
ワシントンD.C. にある名門ハワード大学へ15歳で入学します。これは登録されている中では
最も若い入学者だったそうです。大学に入った後、その専攻をピアノから声楽に移していきました。
19歳で卒業し大学院へ進学するのですが、父親の突然の死によって、音楽及び英語教師の
職に就く事を余儀なくされました。

話の時系列は飛び飛びになりますが、前回の続きである3rdアルバム「Quiet Fire」(71年)より
「Will You Love Me Tomorrow」。米ガールグループ シュレルズによる60年のNo.1ヒット。
言わずと知れたキャロル・キングと(当時の夫)ジェリー・ゴフィンのペンによる名曲。
前回と同じ事を書いて誠に芸が無いのですが、ロバータの手にかかると何でもロバータ色に
染まってしまいます。

ビージーズによる67年のTOP20ヒット「To Love Somebody」。私の初聴はジャニス・ジョプリン版
でした。ジャニスは見事なまでのソウル風アレンジですが、原曲の方はというと如何にもこの時代らしい
ポップ&サイケなアレンジでした。ビージーズも60年代後半は時代の色に染まっていたんですね。
ロバータ版はロバータワールドとしか言いようがありません。リチャード・ティーのオルガン、
バーナード・パーディによるブラシワーク(ドラム)、どちらもただただ素晴らしいの一言。
ずっと後になってからの評価ですが、評論家によっては3rdがロバータのベストとするほどの傑作。
ただしリアルタイムで全然売れなかったのは1st・2ndと同様です。

「Quiet Fire」のリリースは71年11月ですが、それより半年ほど前の5月に一枚のシングルが
出ています、それがロバータ・フラック&ダニー・ハサウェイ「You’ve Got a Friend」。
今更説明不要な程の超有名曲ですが、キャロル・キングの作にて自身の超特大ヒット「つづれおり」に
収録されており、
それをジェームス・テイラーがシングルとしてリリースし、全米No.1ヒットと
なったのはあまりにも有名。

実はロバータ&ダニー版もテイラーと同日発売でした、テイラー版の陰にかくれてしまってはいますが、
ポップス29位・R&B8位と、ロバータとダニー両方にとって初の全米TOP40ヒットでした。
ドラム教室のブログらしく(当然みんな忘れてますよね!(*゚▽゚) … )ドラムの話。この頃における
ロバータの作品ではバーナード・パーディやグラディ・テイトがプレイしていましたが、本セッションでは
マハビシュヌ・オーケストラなどで知られる元祖超絶技巧ドラマー ビリー・コブハムが叩いています。
怒涛のような高速かつ複雑・難解なプレイのイメージがあるコブハムですが、歌ものを演っても
やはり超一流です。エンディングに近づくにつれ音数が増える所が彼らしいとも言えるでしょうか。

前回、69年のデビュー作「First Take」がチャートで首位となるのは72年になってから、
という事は既に述べました。これにはある映画が関係しています、その映画とはクリント・イーストウッド
初監督作『Play Misty for Me(恐怖のメロディ)』。71年11月封切の本映画において、
「The First Time Ever I Saw Your Face(愛は面影の中に)」が使用されたのです。
私は映画オンチなので当然観たことはないのですが、その内容をググってみました。
イーストウッド扮するDJの番組へ執拗に「ミスティ」(エロール・ガーナー作の超有名
ジャズスタンダード)をリクエストするリスナーがいました。イーストウッドはある女性と一夜限りの
関係を持ちますが、実はその女性がリスナーだったのです。それから徐々に女性の行動が
エスカレートして行き、結末はと言うと・・・・・言いませんけど・・・・・・・
まだストーカーという言葉・概念さえ無い時代の映画ですが、なかなかに背筋が寒くなる内容です。
・・・・・・ |ω・`)チラッ・・・・・・・・・・・(((((゚Å゚;)))))
イーストウッドがロバータを起用したキッカケを調べてみましたが判りませんでした。スマッシュヒットの
「You’ve Got a Friend」で知ったのか(時期的にはぎりぎりかな?)、はたまたそれ以外でか?
イーストウッドはジャズの偉人 チャーリー・パーカーの伝記的映画『バード』(88年)を
製作したりもしていますので、音楽にもかなり造詣が深い人だと思われます。
いずれにしろ映画のヒットと共に「愛は面影の中に」もチャートをあれよあれよと駆け上がって
全米No.1ヒットとなり、1stアルバム「First Take」も200万枚近くを売り上げ1位となります。
イーストウッドは使用料として2,000ドルを支払ったそうです(360円時代だから70万円位?)。
それが高いのか安いのかピンとはきませんが、以降も二人は良好な関係を続けていることから
当時としては十分な額だったのでしょう。83年のダーティハリーではエンディングテーマを担当しています。
「愛は面影の中に」は72年における年間シングルチャートの1位となり、翌年のグラミー賞にて
レコード・オブ・ジ・イヤーを獲得します。

72年5月、一枚のアルバムをリリースします。それが「Roberta Flack & Donny Hathaway」。
マーヴィン・ゲイ「ホワッツ・ゴーイン・オン」、スティーヴィー・ワンダー「インナーヴィジョンズ」、
カーティス・メイフィールド「スーパーフライ」などと並ぶ、ニューソウルにおける名盤です。
録音は71年5月から10月となっていますので、決して「愛は面影の中に」のヒットを受けて、
急かされながら創ったものではないでしょう。
本作からのシングル「Where Is the Love」はポップス5位・R&B1位と大ヒットを記録します。
その後、数多くのミュージシャンによってカヴァーされ続けている不朽の名曲の一つです。
ちなみにパーカッショニスト ラルフ・マクドナルドのペンによる楽曲。彼にはソングライターとしての
一面もあり、本曲やグローヴァー・ワシントン・ジュニア「Just the Two of Us」などが有名。
勿論ロバータの作品にはパーカッションでも参加しています。

またまただいぶ長くなってしまいました。本作及びそれ以降については次回にて。

#127 Roberta Flack

前回までのディオンヌ・ワーウィック回でもその名があがりましたが、ディオンヌと同世代の
黒人女性シンガーの中で、ロバータ・フラックは絶対に外せない人です。
アレサ・フランクリンは圧倒的なまでにパワフルでソウルフルであり、ディオンヌは
アレサと比べればソフィスティケートされ、良い意味での白人志向とも呼べるスタイルでした。
そしてロバータは、パワフルな歌を持ち合わせながら、非常にアカデミックでもあり、
どんな楽曲を取り上げてもロバータ・フラックの世界に染め上げてしまうシンガーでした。

上の「The First Time Ever I Saw Your Face(愛は面影の中に)」と同曲が収録された
デビューアルバム「First Take」(69年)は、彼女のディスコグラフィーを参考にする限りでは
どちらも全米1位を記録しています。デビュー作とそこからのシングルがいきなりNo.1ヒットと
なるとは初めから順風満帆のキャリアであったと思ってしまいますが、よく見るとそのチャート
アクションは72年においてとなっています。数年かけてじわじわとヒットする作品は決して
他に無い訳ではありませんが、ロバータの場合はどうであったのでしょうか。

ロバータの出自や音楽的バックボーンなどは追い追い触れていきますが、デビューのきっかけは
ワシントンのレストランやナイトクラブで演奏している彼女を観たある人物が、アトランティック
レコードのオーディションをセッティングしてあげた事でした。
69年初頭、伝えられるところによるとわずか10時間でデビュー作のレコーディングを終えたと
されています。ロバータ曰くそのセッションは ”とても素朴かつ美しいアプローチ” であったとの事。
「First Take」は全くコマーシャリズムとはかけ離れていると言って良いほどに、質が高くて
濃密な音楽性を持った作品です。ジャズ・R&B・フォーク・ゴスペル・ラテン等、様々なジャンルの
ごった煮の様なアルバムですが、全てがロバータ色に染まっており、とても新人のデビュー作とは
思えない程に、神々しいほどの傑作です。あまりに神々し過ぎて気楽に聴くのが憚られるほどです
(これって褒め言葉かな?・・・・・)。ちなみに本作ではロン・カーターが参加しています。

ロバータは自身で曲を書く事は極めて少ないです。その代わりに先述の通りどんな楽曲でも
自分のカラーに染め上げることが出来るミュージシャンです。上は2ndアルバム「Chapter Two」の
オープニングナンバー「Reverend Lee」。黒っぽさがプンプン匂い立つナンバーです。

フィフス・ディメンション「ビートでジャンプ」などで知られるジミー・ウェップ作の
「Do What You Gotta Do」。ロバータよりもさらに先達である黒人女性シンガー ニーナ・シモン達に
よってレコーディングされていたナンバー。タイトルは ”やるっきゃないよ” の様な意だそうです。

B面のオープニング「Gone Away」。ダニー・ハサウェイやカーティス・メイフィールドといった
当時におけるニューソウルの旗手達による名曲です。ギターはエリック・ゲイル。ジャズ・フュージョン、
AORからポップスまで、ありとあらゆるジャンルを弾きこなす達人ですが、その根っこにはブルースが
あるのが本曲のプレイでありありとわかります。

ミュージカルで有名な「The impossible dream(見果てぬ夢)」。ロバータ色に染められたとしか
言いようが無いアレンジであり、ただただ素晴らしいの一言。

今回は「愛は面影の中に」が世に認められる辺りまで書こうかと思っていたのですが、ムリそうです …
次回は3rdアルバムの発売から、ロバータがブレイクする時期くらい迄でしょうか?
予め言っときます、スティーヴィー・ワンダーは10回に渡りましたが、ロバータもかなり
長くなりそうです。忙しい人はちゃっちゃと読み飛ばして頂いても結構です・・・・・・
でも少しは読んで欲しいかな  … ・・・・・・・ |ω・`)チラ

#126 Dionne Warwick

70年代に入るとディオンヌ・ワーウィックはそれまで所属していたセプター・レコードから
ワーナーへ移籍します。移籍当初はバート・バカラック&ハル・デヴィッドのペンによる楽曲を
レコーディングしていましたが、やがてバカラック達とも袂を分かちました。
その後70年代末までの約十年間、ディオンヌは不遇の時代を過ごす事となります。

その不遇の時代における唯一のヒットが上の「Then Came You」(74年)。スピナーズとの
共演による本曲は全米No.1ヒットとなります。プロデュースはスピナーズ、
スタイリスティックス等を手掛けたフィラデルフィア・ソウルの立役者であるトム・ベル。

79年、アリスタ・レコードへ移籍しアルバム「Dionne」をリリース。これがミリオンセラーを
記録しディオンヌ復活と相成ります。バリー・マニロウ、アイザック・ヘイズといった多彩な
ソングライター陣を迎え、ディスコ・ポップバラード・ブラックコンテンポラリーと、
この時代における粋を集めた様な音楽性が受け入れられたことがヒットの要因かと。
上はアイザック・ヘイズによる「Déjà Vu」。印象的なベースはウィル・リーのプレイです。

翌80年には基本的に前作の音楽性を踏襲した「No Night So Long」をリリース。前作ほどの
ヒットとはなりませんでしたが、ブラコン路線に活路を見出したのかな?という流れです。
もっともこの当時はディオンヌに限らず黒人シンガーの多くがこの様な方向性へ向かっていましたから。
上は本作に収録の「Reaching for the Sky」。ディズニーアニメの主題歌で有名な
ピーボ・ブライソンの作です。

82年にはバリー・マン、トム・ベル、デヴィッド・フォスター、そしてスティーヴィー・ワンダーと、
全てが本作用の書き下ろしではありませんが、豪華ソングライター陣の楽曲から成る
「Friends in Love」をリリース。演奏陣もスティーブ・ガッド、ジェフ・ポーカロやスティーブ・
ルカサー達TOTOの面々、そしてスティーヴィーと贅沢三昧のラインナップです。
お世辞にもヒットしたとは言えませんが個人的には良いアルバムだと思っています。
同年にもう一枚アルバムを出します、それがヒット作「Heartbreaker」。バリー・ロビン・モーリスの
ギブ三兄弟、つまりビージーズの全面協力による本作は、当然の如くディオンヌ✕ビージーズという点で
話題にならない訳がありませんでした。上はシングルヒットしたタイトル曲。
語弊のある言い方かもしれませんが、良くも悪くもビージーズです(ビージーズ嫌いな訳じゃないですよ)。
流石に82年であったのでディスコ調の楽曲はありませんが、ソフト&ポップ路線の作品になっています。
もしあと5年早かったら、ディオンヌ版『サタデーナイト・フィーバー』が出来ていたかもしれません
(それはそれで興味がありますけど・・・)。

本作で唯一ギブ三兄弟によらないカヴァー曲「Our Day Will Come」。ルビー&ザ・ロマンティックス
による63年のNo.1ヒットである本曲は、フランキー・ヴァリをはじめとして数多くのヴァージョンが
存在します。ドラムはスティーブ・ガッド、キーボードは複数人クレジットされていますが、
このエレピはたぶんリチャード・ティーでしょう。

85年の大ヒット曲「That’s What Friends Are For(愛のハーモニー)」に関しては#124
スティーヴィー・ワンダー回で言及しましたので詳細は割愛しますが、本曲が収録された
同年のアルバム「Friends」にて、再びバート・バカラックの楽曲を歌う様になります。
これ以降ヒット作と呼べるものはありませんが、現在においてもその活動を続けています。

年初のアル・グリーン回(#101)にて、現役で活動している黒人シンガーの一人としてディオンヌの
名を挙げました。ティナ・ターナーや昨年惜しくも他界したアレサ・フランクリンが
躍動感溢れるパワフルなスタイルだとすれば、ディオンヌは洗練されたアカデミックなフィーリングが
持ち味だったと言えるでしょう(勿論ディオンヌにソウルスピリットが無いとか、アレサとティナが
野暮ったいとかいう意味ではありません)。ロバータ・フラックはジャズ寄りの面がありましたので、
更にスタイルが異なります。全員聴き比べてみるのもこれまた御一興。
前回も触れた60年代におけるバカラックのコメントである ”彼女は途方もなく強い面と、ソフトに歌った時はとても優美な一面も持ち合わせている” という言葉に全てが集約されている様な気がします。
これは全くの私見ですが、ディオンヌ・ワーウィックというシンガーは、我々日本人の感覚で
言う所の、古き良き昭和のシンガー・歌い手というフィーリングに近いのではないかと思っています。
過度にリズミックあるいはエキサイティングな所は無く、朗々と、切々と、しかし時には
エモーショナルに歌い上げるその歌唱スタイルは、私たちの日本語でいう ”歌手・歌い手” という
呼び名がとても良く当てはまるシンガーではないのでしょうか。

#125 Alfie

スティーヴィー・ワンダー回の最後の方にてディオンヌ・ワーウィックの名があがりましたが、
ふと考えてみるとこれ程の大物シンガーについて、そのキャリアや音楽的バックグラウンド等について
意外にもちゃんとした知識を持ち合わせていない事に気付きました。折角ですからこの機会にて、
ディオンヌについて取り上げてみようかと思います。ただし本気で彼女の全キャリアについて
述べると大変な事になるので、あくまでざっくりと、今回と次回だけですが・・・

音楽一家に育ち、自身もその道に進むべくハートフォード大学音楽学部に進学し、在学中から
セッションシンガーとして活動を始めました。転機が訪れたのは62年、ベン・E・キングも
在籍したことで知られるコーラスグループ ザ・ドリフターズのセッションにおいて。
ディオンヌを語る上で欠かせない人物、アメリカを代表するソングライター バート・バカラックの
目に留まりました。バカラックまで語るととんでもないことになるので今回はあくまでディオンヌに
まつわる事柄だけ。バカラックはタイム誌において ”彼女は途方もなく強い面と、ソフトに歌った時は
とても優美な一面も持ち合わせている” とディオンヌについて語っています。
同年秋にバカラック作の「Don’t Make Me Over」でレコードデビュー。ポップスチャート21位・
R&B5位という順調な滑り出しを見せます。
最初のブレイクが翌年における上の「Anyone Who Had a Heart」。初の全米TOP10ヒットと
なり一躍スターダムの仲間入りを果たします。ちなみにこの曲は翌64年、60年代から70年代初頭に
かけてイギリスにおいて絶大な人気を誇った女性シンガー シラ・ブラックのヴァージョンが
100万枚近いセールスを記録し、そちらの方が有名になってしまいました。
64年には初期における彼女の代表曲とも言える「Walk On By」が大ヒット(ポップス6位・
R&B1位)。バカラックによる代表曲の一つとされる本曲は、余りにも多くのシンガーに
カヴァーされていますのでそれらは割愛。

ディオンヌにとって最初のゴールドディスクが言わずと知れた「I Say a Little Prayer」(67年)。
更に言うまでもなくアレサ・フランクリンのヴァージョンも大ヒットを記録する訳ですが、
リリースはディオンヌが9ヵ月程先でした。
”粘り気” の様なものがあるパワフルなアレサ版に対して、ディオンヌ版はアカデミックで洗練された
感があります、聴き比べもまたご一興。当然本曲も数限りないカヴァーが存在します。
上は翌68年のこれまた全米TOP10ヒットである「Do You Know the Way to San Jose
(サン・ホセへの道)」。バカラックは当時かなりボサノヴァに傾倒していたとも言われており、
ほぼ同世代であるボサノヴァの創始者 アントニオ・カルロス・ジョビンをかなり意識していた
のではないでしょうか。北米・南米と海を隔ててはいましたが両人とも大作曲家であるのは同様です。
ラテンフィール(二拍子)の曲ですが、ディオンヌはどんなタイプの曲でも歌いこなしてしまっています。

バカラックの代表曲として挙げられるものの一つとして「Alfie」は鉄板ですが、数えるのがイヤに
なるほど数多くのレコーディングが存在するスタンダードナンバーです。ですが、誰のヴァージョンが
最もポピュラリティーがあるかと問われれば、ディオンヌ版であると言って差し支えないのでは。
本曲について述べると本が一冊書けるのではないかという位に色々あるのですが、三行・・・・・
ではムリですが、なるべく簡潔に。
パラマウントピクチャーズより同名映画の音楽を依頼されていたバカラックとコンビを組んでいた
作詞家 ハル・デヴィッドは、当初その仕事に乗り気ではありませんでした。しかしラフカットを
観せてもらったりしているうちにイメージが湧き本曲が出来上がります。
バカラック達はディオンヌに歌わせるのが良いと考えていましたが、パラマウント側は先にも
触れた、当時イギリスで人気のあったシラ・ブラックを推していました。
色々とあったのですが、65年秋にバカラックが渡英しアビーロードスタジオでレコーディングが
行われました。ちなみにシラ版のプロデュースはジョージ・マーティン。シラは当時マーティンの
秘蔵っ子であったそうです。
シラ版は英でこそヒットしたものの、イギリスのみの映画プロモーション用だったものなので、
正式なテーマ曲という扱いではありませんでした。サウンドトラックに収められたのは、
その後夫婦デュオ ソニー&シェールとして人気を博すシェールのヴァージョンとなります。
ディオンヌは66年のアルバム「Here Where There Is Love」にて既に本曲を収録していましたが、
同アルバムからのシングルカット曲のB面に収められ、その時はあまりヒットしませんでした。
しかし一部のディスクジョッキー達がB面である「アルフィー」をラジオで推す事で世に広まり始め、
決定的だったのが67年4月に行われたアカデミー賞のテレビ中継におけるディオンヌの生歌でした。
それから本シングルはチャートを駆け上がりポップス15位・R&B5位を記録します。
本曲の40以上あるヴァージョンの中でもディオンヌのものが決定版とされています。人によって
感じ方は様々ではあると思いますが、やはりバカラックの楽曲を最も豊かに歌い上げる事が
出来るシンガーの一人がディオンヌに他ならないということではないのでしょうか。