#104 Once You Get Started

ティナ・ターナーの「What’s Love Got to Do with It(愛の魔力)」が全米1位の大ヒットと
なっていた頃(84年の9月に三週連続1位)、ある黒人女性シンガーの楽曲もチャートを急上昇
し始めました。チャカ・カーン「I Feel for You」。チャカにとって最大のシングルヒットとなる
その曲は、11月から12月にかけて最高位3位を記録します。圧倒的な歌唱力を誇り、ソウル・R&Bに
留まらず、ジャズ・フュージョンまで幅広くこなすその歌唱テクニックは、歴代女性シンガーの中でも
トップクラスのものではないでしょうか。

53年シカゴに生まれる。親はボヘミアン(定住しない人々)でビートニク(所謂 ”ヒッピー” )だった
そうです(括弧の定義はあくまで私の思う所なのでツッコミはご勘弁)。つまりかなりフリーキーな
環境で育ったという事。祖母の影響でジャズを聴き始め、やがてR&Bに傾倒していき、10代前半には
音楽活動を始めていました。地元シカゴでいくつかのバンドを経た後、同じく地元のバンド ルーファスに
加入します。言うまでもなくこれが彼女を名を全米に知らしめるキッカケとなります。
2ndアルバム「Rags to Rufus」(74年)からの第一弾シングルである、スティービー・ワンダー作の
上記「Tell Me Something Good」がポップス・R&B共に全米チャートにて3位の大ヒットを記録。
如何にもこの時期のスティービーらしい粘っこいファンクナンバーで、バンドはグラミー賞を受賞し、
アルバムもゴールドディスクを獲得します。

2ndシングルである「You Got The Love」も大ヒット(ポップス11位・R&B1位)。
上は『ソウル・トレイン』に出演した際のもの。本曲はチャカとレイ・パーカー, Jr. による共作。
レイ・パーカーは84年の大ヒット映画『ゴーストバスターズ』のテーマ曲で有名ですが、実は非常に
卓越したテクニックを持ったギタリスト・コンポーザーであります。

同年には早くも3rdアルバム「Rufusized」をリリース(凄いペース…)。1stシングルが上の
「Once You Get Started」(ポップス10位・R&B4位)。ベイエリアの超絶技巧ファンクバンド
タワー・オブ・パワーのブラス陣を従え、素晴らしいジャンプナンバーとなっています。
話は逸れますが、吉田美奈子さんのライヴアルバム「Minako Ⅱ」(75年)で本曲をオープニングナンバーに演っており、そちらも素晴らしいものです。松木恒秀さん(g)、佐藤博さん(key)、村上秀一さん(ds)、そしてコーラスで山下達郎さんと、その後大御所となるミュージシャン達がまだ若かりし頃の、
エネルギーに溢れた歌と演奏が堪能できる名盤です。(他にもビッグネームが参加していますが
書き切れないので割愛。こちらの方のブログに詳しく記載されています。)

その後もチャカが在籍したルーファスのアルバムは殆どがゴールド・プラチナを獲得し、それは彼女の
人気に因るものと衆目が一致するところでした。しかし、バンドと彼女との関係にはやがて暗雲が
立ち込み始め(特にドラムのアンディと)、作品毎にメンバーが変わる事態となりました。
チャカはバンドに在籍しながら、ソロとしてのデビューをワーナーと契約します。
ソロ活動で多忙になった為、バンドはチャカ抜きでレコーディングする機会が多くなりました。
それでも彼女は完全にバンドから離れる事はせず、ソロワークの傍らでルーファスに参加し続けます。

ミリオンセラーとなった79年のアルバム「Masterjam」からの1stシングル「Do You Love What
You Feel」。本作のプロデュースはクインシー・ジョーンズ。とにかく70年代半ば以降の
ミュージックシーンは、クインシーかヴァン・マッコイか、というくらいにディスコ・ダンスミュージックの時代だったようです。あのローリング・ストーンズでさえディスコを取り入れたほどでしたから。

チャカの1stソロアルバム「Chaka」(78年)はポップス12位・R&B2位という大ヒットを記録します。
とにかくワーナーの力の入れ様がありありと伺えます。プロデュースはアリフ・マーディン。参加
ミュージシャンを以下に列挙しますが名前だけ。詳しく知りたい人はコピペして自分で調べて下さい。
如何に物凄いメンツかが判ると思いますから。スティーヴ・フェローン、ウィル・リー、フィル・
アップチャーチ、リチャード・ティー、アンソニー・ジャクソン、マイケル・ブレッカー、ランディ・
ブレッカー、コーネル・デュプリー、ジョージ・ベンソン、デイヴィッド・サンボーン etc.・・・
念のため言っときますけど、復活の呪文とかじゃないですよ … わかっとるがな!!( °∀ °c彡))Д´)・・・
ジャズ・フュージョンに興味のある方なら、この人達がどれほどのビッグネームかがおわかりでしょう。
ワーナーの期待を裏切る事無く、アルバムはゴールドディスクを獲得。上は本作からの第一弾シングル
「I’m Every Woman」(ポップス21位・R&B1位)。一般的にはホイットニー・ヒューストンによる
93年のレコーディングの方が有名かとは思いますが、ホイットニーファンの方々には本当に申し訳
ありませんけども、この曲に関しては、その他のカヴァーを含めても圧倒的にチャカのヴァージョンが
白眉だと思っています(※あくまで個人の感想です)。もっともホイットニーもきちんと敬意を表して、
エンディングの方でチャカの名を上げてますけれども。

チャカのソロワークによる多忙さから、ルーファスが彼女抜きでの活動を余儀なくされたのは
前述した通りですが、83年のアルバム「Seal in Red」(チャカは参加せず)が最後のスタジオアルバムと
なりました。ただし、同年10月にリリースされたライヴ盤「Stompin’ at the Savoy – Live」には
スタジオ録音の新曲も含まれており、シングルカットされた「Ain’t Nobody」は最後のヒット曲と
なり(ポップス22位・R&B1位)、また二度目のグラミー賞の受賞をもたらしました。
この曲の成功をもって、ルーファスとチャカは別々の道を歩み始めます。良好な袂の分かち方だったと
言えるでしょう。そしてチャカは、最初の方でも触れた「I Feel for You」による世界的成功を収める事と
なるのですが、その辺りはまた次回以降にて。

#103 Private Dancer

アイク&ティナ・ターナーの解散による興行中止などから生じた負債を引き受けたティナは、
ラスベガスのキャバレーを巡業するようになります。ラスベガスでのキャバレーにおけるショーと
いうものが、日本で言う所の ”ドサ回り” と同じとは言えないかしれませんが、かつて全米TOP10
ヒットを出し、アルバムもミリオンセラーとなったシンガーとしては、やはりなりふり構わない仕事の
選び方だったのではないかと思われます。

 

 

 


ティナは当時マネージャーであった人物に対し、ロッド・スチュワートやローリング・ストーンズの様に、
アリーナを満席に出来るようになりたいとの思いを語りました。彼はティナに対し、バンドを今風のロック的に再構築するようアドバイスしたとの事です。この頃のティナのステージングがどの様なものであったかは
わかりませんが、おそらく従来のソウル・R&B的なショーを行っていたのでしょう。70年代半ばからソウルミュージックの人気が凋落していく中で、彼の助言は商業的には的を得たものだったでしょう。そして
ティナは実際にロッドやストーンズの前座としてステージに上がりました。

前回も触れた通り、83年にアル・グリーン「Let’s Stay Together」のカヴァーがヒットし、久しぶりに
メインストリームへと返り咲きました。キャピトルへ移籍しての第一弾シングルが当たった事もあったの
でしょう、翌84年リリースのアルバム「Private Dancer」はキャピトル側の並々ならぬ熱意が感じられる
豪華な顔ぶれです。ジェフ・ベック、元キング・クリムゾンのメル・コリンズ、マイケル・ジャクソンの
ビリー・ジーンにおけるドラムで有名なンドゥグ・チャンクラー、ジャズ界からはジョー・サンプルや
デイヴィッド・T・ウォーカーといった物凄いメンツです。またティナの復活劇にはデヴィッド・ボウイに
よる強い後押しがあったとされています。#77にてデヴィッド・ボウイを取り上げましたが、84年の
アルバム「Tonight」におけるタイトル曲で二人はデュエットしています。興味深いのは、この時期
低迷していた彼女を支えていたのが、ストーンズ、ロッド、ボウイといった英国のミュージシャンだった
という事。本国では飽きられていったかつてのソウルの女王を救ったのは海の向こうの同業者達でした。
イギリス人の根強いブラックミュージック志向がこの事からも伺い知れます。ちなみに本作の
レコーディングも二か月に渡ってロンドンにて行われました。本作からの最初のシングルカットが上の
「What’s Love Got to Do with It(愛の魔力)」。全米1位の大ヒットとなります。

タイトルトラックの「Private Dancer」。ダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーによる本曲は、
元は82年の自身達のアルバム用に作られた曲でしたが、ノップラーはこれは男性が歌う曲ではないと考え、
お蔵入りにしました。契約上の問題もあり2年の間塩漬けとなっていましたが、84年にその問題が解消し、
ティナに提供されたという訳です。ノップラーは録音には参加せず代わりにジェフ・ベックが弾いています。

上の「I Might Have Been Queen」から始まる本アルバムは、全米で500万枚以上を売り上げ、
ティナの見事な復活を象徴する作品であるのは、前回述べた通りです。
私はリアルタイムでこの当時の洋楽を経験しましたが、ちょっとオーバーな言い方かもしれませんけれども、
洋楽紹介番組などでは(そんなにありませんでしたが)、彼女に触れない時の方が少なかったのでは
ないかと言うくらいに至る所で取り上げられていました。「プライベート・ダンサー」でのグラミー賞の
受賞、チャリティーソング「ウィ・アー・ザ・ワールド」への参加など、その話題には事欠きませんでした。
また映画『マッドマックス』への出演など(観た事ないですが…)、女優としても活躍しています。

次作「Break Every Rule」(86年)も大ヒット。「Typical Male」(上は90年のライヴ)、下の
「What You Get Is What You See」などのシングルヒットを生み出します。

前作に引き続き、超豪華なメンツが参加しています。書き切れないので省略しますが・・・
上のシングルカットされた2曲を聴いてわかる通り、ダンサンブルなファンクナンバー、ストレートな
R&Rと、従来のソウル・R&B的な楽曲とサウンドではありません。これはティナに限った事ではなく、
85年にアレサ・フランクリンも「Freeway of Love」で久々にヒットチャートの上位に昇ってきましたが、
やはり従来のアレサ的なそれではありませんでした。これを歓迎したか、嘆いたかは人それぞれだった
でしょうが、時代がそういう時代だったのです。さらに言えば、ソウル・R&Bと呼ばれるものは共に
流行音楽の一つに過ぎないと言う事も出来ます、なので流行りを受けて変化していくのは仕方が無い面も
あるのです。ティナに関して言えば、先述の通り、アリーナを満杯に出来るようになりたいと思って
この音楽的変化を承知で演ったのです。彼女はそれで成功した黒人シンガーの筆頭だったでしょう。
しかし、ティナにしろアレサにしろ、その歌は紛うことなきティナ節・アレサ節だったと思います。ソウル
ミュージックの本質はその辺にあるのではないかと私は思うので、この時代の彼女達の一連のヒット曲を
一概に ”昔と変わってしまった・時代に迎合した” と否定するのもどうかと思うのです。

オリジナルアルバムのリリースこそ99年が最後となっていますが、その後も単発での楽曲の発表及び
コンサート活動は行ってきました。しかし10年代に入ってからは健康面で数々の問題が生じている様です。

最後に取り上げるのはロバート・パーマーの大ヒット曲「Addicted To Love」(86年)のカヴァー。
88年のライヴアルバム「Tina Live in Europe」に収録された本曲は、その後のベスト盤にも収録される
彼女の十八番と言っても良い楽曲。ティナは86年のツアーから本曲をレパートリーとしていたそうで、
パーマーのオリジナルに勝るとも劣らない名演です。
裸一貫で再出発を始めた時に、アリーナを満杯に出来るように願ったティナですが、「プライベート・
ダンサー」での再ブレーク以降はその思いを叶えました。実際ユーチューブで検索するとアリーナでの
ライヴ動画が山ほど出てきます。しかし、これはあくまで私個人の考えですが、特にティナのような
ソウルシンガーに関しては、所謂 ”ハコ” 、ライヴハウス・ある程度までの規模のコンサートホールで
聴くのがベストだと思います。ステージのミュージシャンは豆粒ほどにしか見えないアリーナ・ドーム・
野外フェスの最後列でも、最近のPA環境の発展により音質はだいぶ向上しており、前列の方と
遜色なくなってきていると聞きます。ですが、人間の声に関しては、たとえわずかばかりでも
その空気の振動が伝わる範囲で味わう方が良い気がするのです(それも気分的なものでしょうけど…)。
下はロンドンのカムデン・シアター(現ココ・クラブ)におけるライヴ。PV用に撮られた映像と
いうのも勿論ありますが、オーディエンスとの一体感はやはりホールならではのものでしょう。
まだまだそのワイルドかつエネルギッシュな歌声を世界中に届けて欲しいと願うばかりです。

#102 River Deep – Mountain High

前回のテーマであるアル・グリーン「Let’s Stay Together」について、私の世代ではこの人のカヴァーで
初めて耳にした人が多いかと思います。

83年11月にリリースされた本曲は、全米チャートにてポップス26位・R&B3位のヒットとなります。
当時はよくわかりませんでしたが、それまで公私共に長く続いた彼女の不遇の時代から抜け出すキッカケと
なった曲でした。そして翌年、本曲を含むアルバム「Private Dancer」は全米だけでも500万枚を超える
メガヒットとなり、まさしく ”ティナ・ターナーここにあり” 、という見事な復活劇を遂げたのでした。
前回の終わりの方で長いキャリアを持ち、現在でも活動中の黒人シンガーを列挙しましたが、「あれ、
ティナ・ターナーは?」と思わた方、あなたはするどい。今回から取りあげる為にあえて外したのです。
(べ、別に忘れていた訳じゃないんだからね!ご、誤解しないでよね!!)・・・

39年、テネシー州生まれ。セントルイスのクラブに出演していた、後に夫で音楽的パートナーとなる
アイク・ターナーの音楽に魅かれ、やがて17歳の時には彼のバンドで歌うようになっていました。
60年、上の「A Fool in Love」でシングルデビュー。それまで ”リトル・アンナ” と名乗っていたのを
(本名はアンナ・ブロック)、レコードデビュー前にティナへと改名します。アイクが好きなアメリカン
コミックで、『ジャングルの女王シーナ(Sheena)』という漫画があり、その主人公の名前にかけた
との事( ”シーナ” と ”ティナ” )。小柄で細身のティナでしたが、そのパワフルな歌はジャングルの女王を
想起させるものであり、実際その当時のステージでは、シーナというキャラクターの衣装を身に着けて
歌っていたようです。「A Fool in Love」はポップスチャートで27位・R&B2位のヒットとなります。

翌61年、「It’s Gonna Work Out Fine」がポップス14位・R&B2位と、ポップスチャートで
TOP20に入るヒットとなり、グラミー賞へもノミネートされました。アイク&ティナ・ターナーは
人気・実力ともに世間が認める所となっていきました。
初期におけるティナの歌唱スタイルはかなりヒステリックなシャウト(雄たけび?)が印象的です。
人によって好き好きは分かれる所ですが、これが彼女本来のスタイルであったのか、それとも『ジャングルの
女王シーナ』を意識して、アイクがその様な歌い方を要求したのか、以前は判りませんでした。
ちなみに62年に籍を入れる二人ですが、60年のデビュー頃には既にアイクによるティナへの
身体的・精神的虐待、所謂DVは始まっていたとの事です。

彼女たちのキャリアにおいて最大のヒットは71年の「Proud Mary」(ポップス4位・R&B5位)です。
言うまでもなくジョン・フォガティ作のCCRによる69年の大ヒットナンバー。本曲においてアイク&
ティナ・ターナーは初の、そして唯一のグラミー賞を獲得。同年に発売したカーネギー・ホールでの
コンサートを収録したライヴアルバムはミリオンセラーとなります。73年には彼女たちのアルバムとしては
最大のヒットとなる「Nutbush City Limits」(ポップス22位・R&B11位)をリリース。
アイク&ティナ・ターナーとしてはこの頃が黄金期がであったと言えるでしょう。

アイク&ティナ・ターナーの楽曲の中で、私がベストトラックと思うのが上の「River Deep –
Mountain High」(66年)。フィル・スペクターによるこの名曲は、本国ではレコード会社の
プロモーション不足などもあり(フィルはこれに対しかなり怒ったらしい)、ポップスチャートで
88位、R&Bチャートにいたっては圏外と振るいませんでした。しかし米以外のヨーロッパ各国や
豪においては、全英チャートの3位をはじめとして大ヒットを記録します。
今回調べている中で、ティナの自伝にて本曲のレコーディング時の事が記されている事を知りました。
はじめはフィルの ”変人” ぶりに面食らったティナでしたが、やがて曲の素晴らしさ、フィルの創作の
進め方に関心していったそうです。ティナはいつものようにアドリブでシャウトを入れましたが、
フィルにそれをたしなめられます、”メロディを素直に歌ってくれ”、と。ティナの歌唱スタイルについては
先述しましたが、どうやらそれはアイクに叩きこまれたスタイルだったようなのです。フィルはティナに
言いました、「僕は君のシャウトに対してではなく、声に惚れ込んだ。だから君とレコーディングが
したかったのだ。
」、と。そうしてこの傑作は完成します。フィル・スペクターが手掛けた数多の作品の
中でも、「Be My Baby」などと並び、所謂 ”ウォール・オブ・サウンド(フィル・スペクター・
サウンド)” を象徴する、彼のベストワークの一つと称えられています。

70年代半ばから、アイクのコカイン中毒と暴力がますます深刻化し、さらにデュオの人気は低迷、
長らく続いた法廷闘争などの末、78年に正式に離婚が成立しました。音楽的パートナーシップも
解消し、彼女はソロの道を歩み始めます。続きはまた次回にて。

#101 Let’s Stay Together

昨年の間、長々と書き垂れてきた80年代特集の中で、ブルーアイドソウルという単語をしばしば
用いましたが(ブルーアイドソウルの意味については#56のホール&オーツ回で触れましたので、
よろしければそちらをご参照の程)、ではブルーアイドではないソウル、本物の、
黒人によるソウルミュージックって何?と問われると、意外に答えに戸惑うかもしれません。
黒人が演る音楽は全てソウルなのか?R&Bとソウルは何が違うのか?ゴスペルは?ファンクと
呼ばれるブラックミュージックもあるよね?と、様々な疑問が湧いて出てきます。
結論から言うと、明確な定義付けなどありません。クラシックの様に音楽用語全てが厳密に
定められているのとは異なり、ポピュラー音楽ではこれらは曖昧なのです。以上 ( ・`ω・´) キリッ!
・・・・・・・・・・・・・・あっ、( ;゚д゚) … これでは、このブログが終わってしまうので …
お願いです、もうちょっとだけ続けさせてください ……… 。゚・(´;ω;`)・゚。
という訳で、しばらくの間、ソウルに代表されるブラックミュージックを取り上げていきます。

白状しますと、私も英米の白人によるロック・ポップスをメインで聴いていたので、黒人音楽を
偉そうに語るほどの知識があるかどうかは疑問なのですが、自分にとっての再確認の意味も込めて
書いていきます。
誰にしようかと思いましたが、何となく真っ先に浮かんだのがこの人・この曲でした。71年の大ヒット、
アル・グリーン「Let’s Stay Together」。ポップスチャートとR&Bチャートにて全米1位を
記録した本曲は、マーヴィン・ゲイの「What’s Going on」などと共に、70年代における
ソウルミュージックを代表する楽曲です。

 

 

 


46年、アーカンソー州生まれ。10人兄弟の6番目の子供であり、幼少期は兄弟でゴスペルを
歌っていたそうです。しかし、彼の音楽的興味はジャッキー・ウィルソン(サム・クックなどと
並びソウルの開祖とされるシンガー)、ウィルソン・ピケットやエルヴィス・プレスリーなど
へと移っていったようです。彼の父親的にはそれはお行儀の良くない音楽だったらしく、
アルは兄弟で組んでいたゴスペルグループを追い出されたとの事。

67年にマイナーレーベルからアルバム1枚を出した後、ハイ・レーベルへ移籍。2枚のアルバムを
リリースし、やがて71年に前述した「Let’s Stay Together」の大ヒットへと相成る訳ですが、
上はその一つ前のシングルであり最初にゴールドディスクを獲得したヒット曲「Tired of Being Alone」
(71年、ポップス11位・R&B7位)。アル・グリーンと言えば、一般的には甘く囁くように歌いあげる
ヴォーカルスタイルが特徴と思われているのですが(私も昔はそう思っていました)、本曲が収録されている
「Al Green Gets Next to You」(71年)迄は結構違っていました。先述の通りウィルソン・ピケット、エルヴィス・プレスリー、そしてジェームス・ブラウンを好み、初期の歌唱スタイルは彼らに影響を受けたものだったようです。ハイ・レーベルへ移ってから、アルのソフトな歌声にセールスポイントを見出した
マネージメントサイドが、徐々に変えるようにアルへ促していったと言われています。
シングル「Let’s Stay Together」の世界的ヒット、翌年に発表した同名アルバムも大ヒットを記録
(ポップス8位・R&B1位)。本作においてソフト路線はさらに極まり、アル=ソフトなラブソングシンガーというイメージが定着したようです。これがアルが本当に望んだ事だったのかどうかは測りかねる事ですが、
それまでソウル界において、男性のセックスシンボル的存在であり、愛や性について歌ってきたマーヴィン・ゲイが「ホワッツ・ゴーイン・オン」で社会派なメッセージを発し、スティーヴィー・ワンダーは成人して
モータウンの言いなりにはならずに独自の音世界を構築し始め、そしてダニー・ハサウェイやカーティス・
メイフィールド達によって ”ニュー・ソウル” と呼ばれる、それまでとは異なるソウルミュージックが
創り上げられました。これらは勿論素晴らしいものであり、私も大好きなミュージシャン達ですが、
世間一般には ”難しい” ものとして受け取られるという側面もありました。あのセクシーなマーヴィンが、
可愛い天才シンガー リトル・スティーヴィーが変わってしまったと。
悪い言い方をすれば、アルはその隙間を突いた様な形となったのです(アルの本望であったかどうか
疑わしいのは先述の通り)、特に社会的メッセージを歌うようになったマーヴィン・ゲイに代わる
セックスシンボル的存在として祭り上げられていったようです。上のアルバムにおける右側
「Al Green’s Greatest Hits」(75年)のジャケットを見ればわかる通り、上半身裸のアルの姿が
それを象徴しています。ちなみに本ベスト盤がアルにとって最も売れた作品でした(ダブルプラチナ)。

次作「I’m Still in Love with You」(72年)は前作を上回る大ヒットを記録(ポップス4位・
R&B1位、プラチナアルバムに認定)。上はそのタイトルトラック(ポップス3位・R&B1位)。
アルはハイ・レーベルの看板シンガー、というよりも70年代ソウルを代表する存在へと成って
いきました。

さらにソフト路線を推し進めたアルバム「Call Me」(73年、ポップス10位・R&B1位)も
大ヒット。上記のタイトル曲を含む2曲のTOP10ヒットを生み出しました。

ハイ・レーベルに在籍した69年から78年の間にオリジナルアルバム12枚とベスト盤2枚を
リリースしています。シングルカットされた枚数は、数えるのを止めました…(物好きな人は
数えてみてください。英語版のウィキに載ってます)。ちょっと異常とも言えるペースです。
如何にアルの人気が凄かったか(レコード会社がアルに依存していたか)という証拠です。

アルだけに限った事ではなく、70年代半ばからソウルミュージックの人気には陰りが
見え始めました。世間の興味はディスコミュージックなどの新しい音楽へと移っていったのです。
78年のアルバムを最後にアルはポップス・エンターテインメント界を離れ、ゴスペルシンガーと
しての道を歩み始めます。74年にガールフレンドとの間にトラブルが起きた末、彼女が自殺して
しまった事が彼へ転身を決意させたと言われています。勿論それが大きな要因だったのでしょうが、
自身を含めたソウルミュージック界の低迷、あまりにも忙しすぎたそれまでの約10年間など、
諸々の事が複合的に絡み合って彼に決意させたのではなかったのでしょうか。

80年代後半、アルはショービズ界へ戻ってきます。前回の中でも触れたユーリズミックス アン・レノックス
とのデュエット「Put a Little Love in Your Heart」(88年)は、アルとしては74年以来の
全米TOP10ヒットとなりました。
03年からはジャズの名門ブルーノート・レーベルへ移籍し、3枚のアルバムをリリースしました。
昨18年にはカヴァー曲ですが、アマゾンミュージックオリジナルとしてレコーディングしています。
アレサ・フランクリン亡き現在、ブラックミュージック界のシンガーで現役最古参として活動している
一人でしょう(72歳)。あとはディオンヌ・ワーウィック(78歳)、ダイアナ・ロス(74歳)、
スティーヴィー・ワンダーは意外にまだ若く68歳です、何しろデビューが12歳でしたから。
ロバータ・フラック(81歳)がいますが、去年の4月にアポロ・シアターの壇上で体調を崩し、
そのままステージを降りてしまい、後に脳卒中であったとマネージメントサイドから発表があったそうです。
あとは 
… 誰がいましたっけね?・・・

特にソウルシンガーはライヴにおいてその真価が発揮される、とよく言われます。確かに同感です。
アルのオフィシャルなライヴ盤は81年にリリースされた「Tokyo Live」が唯一のものです。
78年6月の中野サンプラザにおけるコンサートを収録した本作は、私も今回初めて聴いたのですが、
”素晴らしい” の一言です。アルを甘くソフトなラブソングシンガーと認識していた昔の自分が恥ずかしい。
まるでジェームス・ブラウンやオーティス・レディング張りのシャウトがさく裂し、エネルギッシュな
歌声と抑制の効いたそれによる緩急の付け方は見事。これが本来におけるアルの姿であったのでは
ないかと考えてしまいます。
最後にご紹介するのはやはり生演奏。あまりにも有名な米における音楽番組『ソウル・トレイン』に
出演した際のもので、74年のシングルヒット「Sha-La-La (Make Me Happy)」。喉が若干本調子では
ない様な気もしますが、そんな事は些末に思えてしまう程伸び伸びと歌うアルの姿が素晴らしい。