#13 Good Times Bad Times

現在では結構知られた事かもしれませんが、エリック・クラプトン ジェフ・ベック、そしてジミー・ペイジ、この三人を指して、(ロックの)三大ギタリストと呼ぶのは日本だけのことだそうです。その昔あるロック雑誌にて、同じヤードバーズ出身の彼らをこのように括ったことが始まりとか何とか… という訳で今回は最後の一人、ジミー・ペイジ、というより言わずと知れた、彼をリーダーとしたバンド レッド・ツェッペリンについて。最初にこんな事を言うのは何ですが、私、ペイジのギタープレイ自体にはあまり興味がありません(ペイジファンの方々本当すいません <(_ _)> あと断っておきますが、私、ツェッペリンは大好きです。ビートルズ、ピンク・フロイドなどと共に、中学~高校にかけて、私を昔の洋楽の世界に引きずり込んで、逃れられなくしてくれた存在です)。
これもよく言われる事ですが、ペイジのプレイは技術的には(三大~の)他の二人や、また同時代の名手と言われたプレイヤー リッチー・ブラックモア、ブライアン・メイといった人たちと比べると、劣っているとされています。確かに、スタジオ盤はまだともかく、ライブ盤を聴くと、それが顕著です。かなり速く弾く瞬間があるのですが、左手の運指及び右手のピッキング、共に追いついていない時が多いというか、正確さに欠ける演奏です。例えばクラプトンの、流れる様な、綺麗なフレーズにはなっていない場合が多いです。ペイジ自身が、必死の練習にも関わらず、その上達に限度があったのか、それとも自分はそのようなテクニックはそれ程追い求めない、目指す音楽のベクトルが異なる、として割り切っていたのか、そのどちらであったのかは分かりませんが、単純にギタリストとしての力量だけを見れば、同時代の彼らと同列に並ぶのは無理な存在だったでしょう。
しかし、レッド・ツェッペリンが、彼ら、またはその属するバンドのいずれよりも、(90年代以降のクラプトンとは甲乙付け難いとこですが)、商業的に成功したバンドであったのは紛れもない事実です。売上総トータル3億枚以上とも言われ、コンサートの観客動員数でも記録を塗り替えていった、ハードロックと呼ばれるジャンルにおいては、最も成功したバンドと呼んで良いでしょう。どうしてツェッペリンはここまで成功し、ハードロック界で唯一無二の存在となれたのか。また、その後のハードロックバンド達に、直接影響を与えたのは、ディープ・パープルの方が強いと言われます。パープルの方が真似しやすかった、とかでは決してないと思います。なぜツェッペリンの追随者は現れにくかったのか。

ヤードバーズ末期には、ペイジは既に新バンドの構想を持っていたと言われています。時代はビートルズ、ストーンズ、フーなどの”第1次ブリティッシュ・インヴェイション”の波は一服し、サイケデリックムーブメントが巻き起こり、文化的にも”カオス”なものが好まれるようになり、ロックシーンにおいては、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、アメリカではヴァニラ・ファッジなどが、よりヘヴィーなサウンドを作り出していました。
もう従来のビートロックでは、特に若い層のロックファンは満足しなくなってしまっていたようです。ヤードバーズ末期のライブなどでは、かなりその様なサウンドを目指していたようですが、如何せんメンバーの演奏力が追いつきませんでした
(失礼<(_ _)>)。
そこで紆余曲折の末、新メンバーを探し出し、当初はニュー・ヤードバーズと名乗っていましたが、レッド・ツェッペリンと改名し、コンサート活動を行うと好意的な評価を得ます。大音量のサウンド、歪んだギターの音色などは、クリーム、ジミヘンも既に取り入れていましたが、静と動を織り交ぜた劇的な(構築美・様式美とでも呼ぶべき)楽曲展開、ヨーロッパ的な哀愁(ブリティッシュ・トラッドフォークの影響等)を漂わせながら、ロックサウンドを作り上げたのはツェッペリンが初めてと言っても良いでしょう。
もっとも、直近にかなり近い事をやった人がいます。ジェフ・ベックです。”第1期ジェフ・ベック・グループ”が半年程前にリリースした1stアルバム「Truth」では、先述した様な音楽性を持ち合わせています。しかし、幸か不幸か「Truth」はそれ程売れなかった、そしてツェッペリンは華々しく、センセーショナルなデビューを飾った(ジェフが嫉妬した程)という明暗が分かれました。
(※・・・と、昔は言われていたのですが、ネット時代になって、当時のチャートアクションが調べられるようになると、「Truth」は全米チャートで15位まで行っています。ヤードバーズである程度知名度はあったにしろ、基本的に海の向こうの新人バンドがトップ20に入るというのは十分なヒットです。あくまで”ツェッペリンと比べて”ということでしょう)

クリーム、ジミヘン、初期ディープ・パープルといった音楽は、当時「ニューロック」「アートロック」などと称されていたそうです。従来のロックよりもより ”先進的””芸術的” という事なのでしょうが、ツェッペリンやキング・クリムゾンなどはまさに新しい時代の幕開けを予感させる音楽でした。
当時をリアルタイムで体感した人の話を読み聞きすると、ツェッペリンの出現がかなり衝撃的だったことが窺えます。ビートルズ、ストーンズなどのビートロックに多少食傷気味だったところに(ビートルズはかなり違う方向に向かってましたが)、ドカンと一発食らった様なインパクトがあったと。恐らく皆何となく「こんなロック(バンド)があったらなあ…)と思っていたところへ、その期待通り(と言うより、更にその斜め上を行くような)のサウンドをかまされたのでしょう。「そう!それだよ!それ!俺たちが求めていたのは!!」
1stアルバム「LED ZEPPELIN」のオープニング曲「Good Times Bad Times」はまさにその期待に対して、ド直球の様な曲だったことでしょう。

ペイジのギターテクニックは先述の通り、ロバート・プラントのヴォーカルは好みが分かれるでしょう(かなり癖のある、金切り声)、そしてボンゾの唯一無二のドラミング。ジョン・ポール・ジョーンズは多彩な音楽性やアレンジ能力を持ち合わせていましたが、かなり個性的な、悪く言えば偏ったバンドだったような気がします。その点ではディープ・パープルの方が演奏(歌唱)力、つまり個々のメンバーがバンドマスターやアレンジャーからの様々な音楽的要求に答えられる、という意味のテクニック、および音楽的素養においては幅が広かったと言って良いでしょう。
じゃあ、何故ツェッペリンがハードロック界で最も成功したのか。言ってみれば先にやったもん勝ちだったのではなかったかと思うのです。先述の通り、(特にアンテナの鋭い若者などの)何となく「こんな音楽があったら・・・」というニーズに、一番乗りでブチかましたのがツェッペリンだったのではなかったのでしょうか。
ツェッペリンがもし現れなかったとしても(勿論全く同じではないにしろ)、いずれ似たような、ハードな音楽性を持ったバンドなどは出現していたような気がします。しかし彼らの特異なところは、ヨーロッパ的な雰囲気(先述のトラッド・フォークなど)を漂わせながら、基本的にカントリー&ウェスタンが最も大衆の支持を得ているアメリカでも大いに受け入れられた、という所の様な気がします。そこまで考察するとかなりディープな話になるので(アメリカ民族のルーツ云々とか…)止めときます。また、メディアへの露出を従来のミュージシャン達より避け、カリスマ性を保った事も、ペイジや、敏腕マネージャー ピーター・グラントによる戦略が大きかったでしょう。

ペイジはよくリフ作りの天才と言われます。確かにギターという楽器の特性を活かした楽曲を作ることには非常に長けていた人だったと思います。しかしソングライターとして超一流だったのか、と言うと必ずしもそうではないと思います。あくまでツェッペリンの様な形態・音楽性のバンドにて、ギターを中心とした楽曲作り、及びプロデュースにおいては成功した、とでも言えば良いでしょうか。そこにジョーンズの幅広い音楽性(多彩な器楽演奏能力、アレンジの才能等)が加わり、ペイジのアイデアを具現化し、時にはプラスαすることもあったでしょう。そしてプラントとボンゾという、暴れ馬のような(ボンゾは腕っぷしもホントに暴れ馬だった)、他のバンドであったら、上手く合っていたかどうか分からないような個性的なプレイヤーの持ち味を見事に引き出した、ペイジのプロデュース能力の勝利だったような気がします。逆に言えば、このメンバーで、この音楽性で、レッド・ツェッペリンというバンドだったからこそ、ここまで成功したのではないかと思うのです。この辺が、あくまで1プレーヤー・1ミュージシャンとして確固としたアイデンティティを確立していったクラプトンやジェフとは違う所だったような気がします。

ハードロックというジャンルを確立させ、次々と新作を発表し、コンサート活動を繰り広げていった彼ら。60年代のロックシーンが持っていた”勢い”のようなものが徐々に鈍化していったと言われ、またロックが多様化していった70年代において、やはりいつまでも同様の音楽性ではいられなかった(というより、いる気もなかった)、彼らの音楽はどのように変化していったのか。その辺は次回にて。

#12 Slowhand

その女性と出会ったのは、ジョルジオ・アルマーニが催したパーティにて。彼女はそのパーティで雇われていたスタッフだったのですが、友人と、クラプトンへ一緒に写真を撮ってもらえないかと頼みにきたとのこと。スタッフがパーティのゲストへ、この様な申し出をするのはルール違反らしいのですが、彼女の屈託のない笑顔に、クラプトンは、「明日、三人で食事に行けるのなら撮っても良い」と答えたそうです。彼女の名はメリア。現在のクラプトンの奥さんです。30歳以上年の離れた二人ですが、三人の子供に恵まれています。自伝(08年発刊なので、執筆は00年代半ば位?)でも述べられていますが、自身も今が一番充実していて幸せだ、
と語っています。
波乱万丈の人生だったクラプトンですが、人生の後年になって、ようやく穏やかな幸せがやってきたようです。05年には、クリームの再結成で話題を巻き起こしました(一説には、経済的に困ったジャック・ブルースの救済の為とも)。初めのうちこそ、
「やあジンジャー( ノ゚Д゚)! ヽ(・∀・ )ノ やあジャック!、懐かしいな、また宜しく頼むぜ」の様な雰囲気だったそうなのですが、あっと言う間に雰囲気は悪くなったと語っています。人間て、やっぱり合わない人どうしは何をどうしても合わないのでしょうね
・・・(´Д`)
自身も苦しんだ、薬物・アルコール依存症患者の為の更生施設『クロスロード・センター』の運営資金調達を目的とした、「クロスロード・ギター・フェスティバル」の定期的な開催、盟友スティーヴ・ウィンウッドとの共演など、00年代後半から10年にかけても、精力的に
活動をしてきました。10年代に入ってからも、アルバムリリース、コンサートなどは継続的に続けていたのですが、実は末梢神経障害など、体に不調が現れ始めたことを後に告白し、70歳を前に、もう大規模なツアーなどはやらない(出来ない)、今後はできる範囲での活動のみにする、といったセミリタイア宣言をしました。しかし16年4月には、日本のみの公演を行いファンを喜ばせました。とんかつが食べたくなったのかもしれません。(分からない人は ”クラプトン とんかつ” でググってください)

60年代半ば~後半にかけて、クラプトンと同様に、天才的白人ブルースギタリストとしてよく比較されていたミュージシャンにマイク・ブルームフィールドがいます。アル・クーパーとの「Super Session」「フィルモアの奇蹟」や、ボブ・ディランのアルバムでのプレイなど、クラプトンも憧れ、またお手本にした程であった人物。イギリスのクラプトン、片やアメリカのブルームフィールドと、ロックのフィールドにブルースを浸透させた立役者と言って良いでしょう。しかし彼も御多分にもれず、クラプトン同様、ドラッグとアルコールに溺れた人でもありました。そのため70年代に入ってからは、目立った活動は少なくなり、80年代初めに、最後は駐車場の片隅で野垂れ死の様な状態で亡くなっていたそうです。
クラプトンも下手をすれば、ブルームフィールドと同様の人生を歩んでいたかもしれません。ほんとに紙一重のところで、それを回避出来ただけなのかもしれないです。しかし一方で、私以前にも書きましたが、運命論など微塵にも信じない人間ですが、ごく稀に、目に見えない何かが、人の人生を突き動かしたりしているのではないか、と思うこともあります。クラプトンはその何かから、「お前はまだやることが沢山ある、まだこっちにくるな  (( ( ̄  ̄*)」と拒否られ、一方、ブルームフィールドは召されてしまったのかもしれません。

遠い昔に、十字路で悪魔に魂を売り渡す契約をしてしまった青年ですが、50年以上の歳月を経て、悪魔からすら、「お前さん、昔は随分やんちゃもしたけれど、大勢の人間に夢と感動を与えてきたようだな(悪魔のセリフじゃないな…)。それに免じて昔の契約は反故にしてやるよ」・・・などと荒唐無稽な妄想をしてみたりしてしまいます。

最後にクラプトンの愛称 ”スローハンド” の由来について。出てくるフレーズは非常に速いのに、指は(この場合は左手の運指の方、と私は解釈しています)とてもゆっくりした動きに見える、ということから来ているそうです。つまり、無駄な動きがなく、必要最小限の、合理的な指使いをしているので、速く弾いても、せせこましく動いているようには見えず、スローハンドと呼ばれたのだと。これはドラムなど、他の楽器、またスポーツなどでも同じ事が言えるのではないかと。もっとも別説もあって、彼はチューニングにとても神経質で(女性関係にはルーズでしたが・・・)、いつまでも時間を掛けていたのでそう呼ばれた、とも言われています。

ブログを始める際、個々のミュージシャン・バンドにつき、記事は長くても3回まで、と自分の中で一応ルール付けしたのですが、あっさりと破ってしまいました。よく考えたら50年以上のキャリアをそんなに短くまとめて書くことなど土台無理かと。これにてエリック・クラプトン編は一先ず終了です。次は・・・大体想像つきますかね…

#11 From the Cradle

私がリアルタイムで洋楽を聴いていた80年代、クラプトンは割と”過去の人”扱いだったと記憶しています。当然新作を出せばある程度ヒットはするのですが、それは60~70年代における売れ方とは違いました。”オシャレでポップで、なおかつダンサンブル”な80年代の音楽シーンにおいて、クラプトンは試行錯誤していたようです。マネージメントサイドからフィル・コリンズをプロデューサーに、と提案された事は戸惑いであったと後に語っています。フィルとはそれ以前から知り合いであり、フィルの人の良さから、人間関係はとても良いものが築けたようですが、音楽性はあまりにも違う、というのが正直な感想だったようです(これは衆目の一致する所)。フィルは 80年代、最も忙しい男、と言われた程、シンガー、ソングライター、プロデューサー、そして本職のドラマー(本当に忘れ去られているかもしれませんが、彼はとてもテクニカルで、素晴らしいグルーヴを持ったドラマーなのです。キャリアの出発点はあくまでジェネシスのドラマー)として、その余りある才能で、世界中を飛び回っていました。しかしクラプトンの音楽性とは相容れないのではないか、というのは従来のそれぞれのファン達、そして本人たちも感じていました。一言で言えば”過渡期”であったということでしょう。また。アルコール依存症もかなり悪化しており、さらにパティとの関係も終焉へと向かいつつあるような状況で、80年代半ば、クラプトンは引退まで考えてしまう程になりました。

あまりのアルコール依存症に、さすがに本人も、このままではいけないと決意し、禁酒プログラムに通うようになります。色々あったようですが、80年代後半には、何とか酒も絶つことが出来た様です。その時期に、彼には子供が出来ます。イタリア人女性との間に生まれた息子「コナー」です。パティとのエピソード同様、あまりにも有名な話ですので、あくまで簡潔に。91年3月20日、コナーは当時、母親・祖母と共に住んでいたN.Y.の高層マンションから転落死します。ちょっとした不幸なタイミングの悪さ、偶然が積み重なって起きた事故でした。前日19日、クラプトンは初めてコナーと、誰も伴わずに二人きりで出かけました。サーカスを観に連れていってあげたそうです。コナーは象を見てとても喜こび、これからはコナー達の家に行った時は、自分一人で彼の面倒を見ようと思ったそうです。
世界中から悔やみの手紙などが届き(ケネディ家からチャールズ皇太子まで)、大変驚いたとの事ですが、最初に封を開けた手紙は、10代の頃からの”悪友・先輩”でもあった、キース・リチャーズからのものだったそうです。そこには「何かできることがあったら、知らせてくれ」とだけ書いてあったそうです。クラプトンはこれには大変感謝したと後に語っています。
世界中のファン達が、またドラッグとアルコールに溺れてしまうのではないか、このまま引退してしまうのではないかと心配しました。当然、しばらくは喪に服し、表舞台からは消えていましたが、この間クラプトンは常に古いガットギターを側に置き、特にリリースする意図をもって作った訳でもなく、何ともなしに曲を作っていたりしたそうです。その時期に書き上げたのが、「Tears In Heaven」「Circus left the town」(コナーが亡くなる前日に、一緒にサーカスを観に行った時のことを歌った曲)です。
まず92年初頭、「Tears In Heaven」が映画のサントラに使用され大ヒット、さらにかねてから打診されていたMTVの番組として「Unplugged」が収録・放映されます。これにはクラプトン自身も満足し、評判も非常に良かった。しかしアルバム化が決まった時、自身はそれ程のものではない、限定版で発売すべきだと言っていた様なのですが、蓋を開けてみれば空前の大ヒットを記録します。

ここから先は説明不要なほど、見事な”クラプトン復活”といった状況になったのは周知の事。しかし、私は彼が凄いのはこの後だと思っています。”「Unplugged」第二弾”の様なアルバムを作れば、再度のビッグセールスは間違いなかったでしょう(実際マネージメントサイドはそれを望んでいた)。だがそれをしなかった。勝って兜の緒を締めよ、ではないですが、ここでクラプトンは時流に乗らず、自分のルーツを見つめなおす「原点回帰」を行いました。「From the Cradle 」。マディ・ウォーターズ、エルモア・ジェイムス、そして最もクラプトンに影響を与えたであろう ロバート・ジョンソン。全曲ブルースのスタンダードカバーで占められた本作は、周囲の懸念を他所に、アルバムチャートで見事にǸo1ヒットとなりました。そしてそのまま2年近く、「wonderful tonight」も、あろうことか「layla」すら演らないという、『Nothing But The Blues』ツアーを行います。「Unplugged」で初めてクラプトンを知った、アコギを座って弾きながら、「Tears In Heaven」の様なバラードを歌っている渋いオジサン(勿論これが悪いと言っているわけではないです)といった認識しかなかった人たちには、良かれ悪しかれ刺激が強かったのではないでしょうか。
更に、映画のサントラに提供した「Change the World」も大ヒット、勢いは留まることなく、00年には、B.B.キングとの共作「Riding with the King」をリリース、これも大ヒットします。大物同士の共演というのは、企画倒れ、エゴのぶつかり合い、などに終わってしまうことが珍しくないのですが、当アルバムはお互いを認め合った、時に相手を尊重し、時に火花が出る様なプレイが繰り広げられ、誠に素晴らしい共演作となっています。これもクラプトンの、ブルースに対する造詣の深さ、尊敬の念、そしてそれを認めた故の、B.B.の全てを包み込むようなスケールの大きなプレイ、といったものの結晶だったのではないでしょうか。生半可な”ブルースが好きです”といったミュージシャンでは、このような作品はB.B.と共に作れなかったでしょう。

この時期、全てが順風満帆で、楽しい事ばかり、クラプトンも浮かれていた、というわけではなかったようです。先述した「Unplugged」後に生じたマネージメントサイドとの亀裂が深まり、弁護士が介入する程のトラブルになり(結局その長年のマネージャーとは決裂)、さらにストーカーのような女性も出現したりしていたそうです。また、クラプトンは自身の薬物・アルコール依存の反省から、自分同様の人たちを救済する手段を考えていました。「クロスロード・センター」の設立です。自身が発起人の一人となり設立・運営に携わりました。その資金の為に、自身のギターコレクションをオークションにかけます(99年と04年)。70~80年代にかけて彼の愛器であった ストラトキャスター”ブラッキー” が約1億円の値で競り落とされたのは、かなり話題になりました。

この時期、彼にはある出会いがありました。
(先のストーカーじゃないですよ(´・ω・`))

長くなりましたので、続きはまた次回に。
(いつまで続くのかな・・・(´・ω・`))

#10 Layla_2

活動の拠点をアメリカに移していたクラプトンは、デラニー&ボニーへ参加、そして同バンドのリズムセクション ボビー・ウィットロック(key)、カール・レイドル(b)、ジム・ゴードン(ds)と新バンドを立ち上げます。「デレク・アンド・ザ・ドミノス」は当初、アルバムリリースまで正体を明かさない、”企画バンド”の側面をもっていたとのことでしたが、発売前に情報が漏れてしまい、「あのエリック・クラプトンが参加しているらしい」と事前にばれてしまったそうです。デラニー&ボニー時代に、クラプトンとウィットロックは曲を書きためており、結果的にそれがドミノスの出発点となり、さらにプロデューサーにはトム・ダウドを迎え、70年8月、その制作が開始されます。ちなみに同月にはすでに録り終えていたクラプトンの1stソロアルバム「Eric Clapton」がリリースされています。
デュアン・オールマンの参加は当初から決まっていた事ではなく、かなりの偶然の重なり合いによるものだそうです。ダウドは当時オールマン・ブラザーズ・バンドの2ndも手掛けており、その縁から、デュアンの
「ちょっとドミノスのレコーディングを覗いてみたい」との申し出に、勿論全員異論はなく、それどころか、デュアンはクラプトンのサインでも貰って帰ろうと思っていた位のところを、「デュアン、ギターも持って来てよ」という様な流れになり、後は周知の通り、運命的とも言えるセッションが生まれた訳です。

オリジナルアルバムとしての「Layla and Other Assorted Love Song」は勿論、ドミノス、そしてオールマンのメンバーとのジャムセッション、幻に終わったドミノスの2ndアルバムに収録されるはずだったであろう未発表曲や1stのアウトテイク・別バージョンなど、よくぞこの音源を残してくれ、そして後年(90年)になって発表してくれた、と感謝するばかりです。
ジミ・ヘンドリックスもそうですが、デュアンも夭折の天才だったので、音源が少ない。ギタリストとして一番”ノッていた”時期の天才二人のジャムは素晴らしいの一言です。クラプトンのストラトキャスター”ブラウニー”、デュアンのレスポールのそれぞれの音色、プレイスタイルの違い、そしてその二人(二本のギター)が有機的に組み合わされることによって、1+1は2ではなく、10にも100にもなるという音楽、特に即興演奏の妙。クリーム時代の様な”果たし合い”的インタープレイのバトルではなく、お互いのフレーズ、トーンを噛みしめながらの、ある域に達した音楽家だけに許された、レイドバックしていて、なおかつスリリングで、そしてこんなにエモーショナルな演奏は、クラプトンがそれまでイギリスにいた頃には味わうことが出来なかった瞬間だったのではないでしょうか。

現在ではクラプトンの代表作であり、ロック史に残る名盤として不動の地位を得ている本作ですが、発売当初、アメリカではゴールドディスクになったものの、イギリスでの反応は芳しくなかったそうです。色々な要因はありますが、レコード会社の販促不足、また従来のファンは、クリーム時代のような、アグレッシブな、火花の出るようなプレイを望んでいた、というニーズとのギャップもあったようです。レコーディング終了後、すぐさまツアーに出ますが、その矢先、ジミ・ヘンドリックスの訃報が飛び込んでいます。敬愛するジミに対して、「Little Wing」をカバーしたものの、ジミは結局本曲を聴く事は出来なかったのです。更に”父”であった祖父ジャックの死、など良くない事が続きます。翌年には2ndアルバムに取り掛かるものの、途中でバンドは分裂。一概にクラプトンだけのせいとは言えませんが、ドラッグとアルコールにより、かなり心身の状態が悪くなっていたことが、関係しているいることは当然否めません。
そして秋には、デュアンが、バイク事故にて若干24歳の若さで亡くなってしまいます。周囲に起きる立て続けの不幸、勿論パティとの関係、クラプトンを徐々に深い”闇”が包んでいきます。72年は全く活動をせず引きこもっていました。しかし73年の初め、ピート・タウンゼント達により、レインボウ・シアターでのライブへと表舞台に引っ張り出されることとなります。「Eric Clapton’s Rainbow Concert」にてその模様は聴くことが出来ます。決してベストコンディションではありませんが、隠遁生活から抜け出すきっかけになったのは大きかったでしょう。さすがに本人も、これではまずいと思ったのか、麻薬の更生施設に入り、取りあえず”麻薬だけ”は断つことができました。そして新作の制作に取り掛かり、完成したのが「461 Ocean Boulevard」。ここからの”第二期黄金期”はネットでいくらでもググることができますので、各自でどうぞ。

ドラッグの代わりにアルコールの量は増えてしまったようで、70年代中期~後期も決して良いコンディションとは言えなかった様です。ドミノス時代から”辛抱強く”付き合ってくれた、カール・レイドルを79年に解雇してしまいます。後年クラプトンは「アルコールのせいで多くの人達を傷つけた」と語っているそうですが、レイドルの解雇もその辺が絡んでいるのかもしれません。この年、来日を果たし、武道館でのコンサートの模様は「Just One Night」にて聴くことが出来ます。個人的には、クラプトンの代名詞的ギターでもあったストラトキャスター”ブラッキー”の音色が最も堪能できる作品としてお気に入りの一枚です。翌80年、レイドルは病死。ゴードンはこれまたドラッグ・アルコール依存症で、更に「Layla」の印税収入が入るようになったことによって、それまでと人生が変わってしまったのか、あろうことか母親を殺害してしまいます。「Layla」の共作者としてクレジットされている彼ですが、ピアノから始まる後半のパートは、当時のガールフレンドが作ったものだというのが定説になっています。ウェストコーストで一二を争う引っ張りだこのセッションドラマーでしたが、基本的にゴードンには作曲能力は無かったと言われています。そして、ウィットロックは目立った活動は少なくなり、やがて表舞台から消えていきます。

時代は80年代へ。オシャレでポップと言うべきか、はたまた軽佻浮薄と呼ぶべきか、クラプトンはどの様にして、そんな音楽シーンを生き抜いていったのか。その辺りは次回にて。