活動の拠点をアメリカに移していたクラプトンは、デラニー&ボニーへ参加、そして同バンドのリズムセクション ボビー・ウィットロック(key)、カール・レイドル(b)、ジム・ゴードン(ds)と新バンドを立ち上げます。「デレク・アンド・ザ・ドミノス」は当初、アルバムリリースまで正体を明かさない、”企画バンド”の側面をもっていたとのことでしたが、発売前に情報が漏れてしまい、「あのエリック・クラプトンが参加しているらしい」と事前にばれてしまったそうです。デラニー&ボニー時代に、クラプトンとウィットロックは曲を書きためており、結果的にそれがドミノスの出発点となり、さらにプロデューサーにはトム・ダウドを迎え、70年8月、その制作が開始されます。ちなみに同月にはすでに録り終えていたクラプトンの1stソロアルバム「Eric Clapton」がリリースされています。
デュアン・オールマンの参加は当初から決まっていた事ではなく、かなりの偶然の重なり合いによるものだそうです。ダウドは当時オールマン・ブラザーズ・バンドの2ndも手掛けており、その縁から、デュアンの「ちょっとドミノスのレコーディングを覗いてみたい」との申し出に、勿論全員異論はなく、それどころか、デュアンはクラプトンのサインでも貰って帰ろうと思っていた位のところを、「デュアン、ギターも持って来てよ」という様な流れになり、後は周知の通り、運命的とも言えるセッションが生まれた訳です。
オリジナルアルバムとしての「Layla and Other Assorted Love Song」は勿論、ドミノス、そしてオールマンのメンバーとのジャムセッション、幻に終わったドミノスの2ndアルバムに収録されるはずだったであろう未発表曲や1stのアウトテイク・別バージョンなど、よくぞこの音源を残してくれ、そして後年(90年)になって発表してくれた、と感謝するばかりです。
ジミ・ヘンドリックスもそうですが、デュアンも夭折の天才だったので、音源が少ない。ギタリストとして一番”ノッていた”時期の天才二人のジャムは素晴らしいの一言です。クラプトンのストラトキャスター”ブラウニー”、デュアンのレスポールのそれぞれの音色、プレイスタイルの違い、そしてその二人(二本のギター)が有機的に組み合わされることによって、1+1は2ではなく、10にも100にもなるという音楽、特に即興演奏の妙。クリーム時代の様な”果たし合い”的インタープレイのバトルではなく、お互いのフレーズ、トーンを噛みしめながらの、ある域に達した音楽家だけに許された、レイドバックしていて、なおかつスリリングで、そしてこんなにエモーショナルな演奏は、クラプトンがそれまでイギリスにいた頃には味わうことが出来なかった瞬間だったのではないでしょうか。
現在ではクラプトンの代表作であり、ロック史に残る名盤として不動の地位を得ている本作ですが、発売当初、アメリカではゴールドディスクになったものの、イギリスでの反応は芳しくなかったそうです。色々な要因はありますが、レコード会社の販促不足、また従来のファンは、クリーム時代のような、アグレッシブな、火花の出るようなプレイを望んでいた、というニーズとのギャップもあったようです。レコーディング終了後、すぐさまツアーに出ますが、その矢先、ジミ・ヘンドリックスの訃報が飛び込んでいます。敬愛するジミに対して、「Little Wing」をカバーしたものの、ジミは結局本曲を聴く事は出来なかったのです。更に”父”であった祖父ジャックの死、など良くない事が続きます。翌年には2ndアルバムに取り掛かるものの、途中でバンドは分裂。一概にクラプトンだけのせいとは言えませんが、ドラッグとアルコールにより、かなり心身の状態が悪くなっていたことが、関係しているいることは当然否めません。
そして秋には、デュアンが、バイク事故にて若干24歳の若さで亡くなってしまいます。周囲に起きる立て続けの不幸、勿論パティとの関係、クラプトンを徐々に深い”闇”が包んでいきます。72年は全く活動をせず引きこもっていました。しかし73年の初め、ピート・タウンゼント達により、レインボウ・シアターでのライブへと表舞台に引っ張り出されることとなります。「Eric Clapton’s Rainbow Concert」にてその模様は聴くことが出来ます。決してベストコンディションではありませんが、隠遁生活から抜け出すきっかけになったのは大きかったでしょう。さすがに本人も、これではまずいと思ったのか、麻薬の更生施設に入り、取りあえず”麻薬だけ”は断つことができました。そして新作の制作に取り掛かり、完成したのが「461 Ocean Boulevard」。ここからの”第二期黄金期”はネットでいくらでもググることができますので、各自でどうぞ。
ドラッグの代わりにアルコールの量は増えてしまったようで、70年代中期~後期も決して良いコンディションとは言えなかった様です。ドミノス時代から”辛抱強く”付き合ってくれた、カール・レイドルを79年に解雇してしまいます。後年クラプトンは「アルコールのせいで多くの人達を傷つけた」と語っているそうですが、レイドルの解雇もその辺が絡んでいるのかもしれません。この年、来日を果たし、武道館でのコンサートの模様は「Just One Night」にて聴くことが出来ます。個人的には、クラプトンの代名詞的ギターでもあったストラトキャスター”ブラッキー”の音色が最も堪能できる作品としてお気に入りの一枚です。翌80年、レイドルは病死。ゴードンはこれまたドラッグ・アルコール依存症で、更に「Layla」の印税収入が入るようになったことによって、それまでと人生が変わってしまったのか、あろうことか母親を殺害してしまいます。「Layla」の共作者としてクレジットされている彼ですが、ピアノから始まる後半のパートは、当時のガールフレンドが作ったものだというのが定説になっています。ウェストコーストで一二を争う引っ張りだこのセッションドラマーでしたが、基本的にゴードンには作曲能力は無かったと言われています。そして、ウィットロックは目立った活動は少なくなり、やがて表舞台から消えていきます。
時代は80年代へ。オシャレでポップと言うべきか、はたまた軽佻浮薄と呼ぶべきか、クラプトンはどの様にして、そんな音楽シーンを生き抜いていったのか。その辺りは次回にて。