私がリアルタイムで洋楽を聴いていた80年代、クラプトンは割と”過去の人”扱いだったと記憶しています。当然新作を出せばある程度ヒットはするのですが、それは60~70年代における売れ方とは違いました。”オシャレでポップで、なおかつダンサンブル”な80年代の音楽シーンにおいて、クラプトンは試行錯誤していたようです。マネージメントサイドからフィル・コリンズをプロデューサーに、と提案された事は戸惑いであったと後に語っています。フィルとはそれ以前から知り合いであり、フィルの人の良さから、人間関係はとても良いものが築けたようですが、音楽性はあまりにも違う、というのが正直な感想だったようです(これは衆目の一致する所)。フィルは 80年代、最も忙しい男、と言われた程、シンガー、ソングライター、プロデューサー、そして本職のドラマー(本当に忘れ去られているかもしれませんが、彼はとてもテクニカルで、素晴らしいグルーヴを持ったドラマーなのです。キャリアの出発点はあくまでジェネシスのドラマー)として、その余りある才能で、世界中を飛び回っていました。しかしクラプトンの音楽性とは相容れないのではないか、というのは従来のそれぞれのファン達、そして本人たちも感じていました。一言で言えば”過渡期”であったということでしょう。また。アルコール依存症もかなり悪化しており、さらにパティとの関係も終焉へと向かいつつあるような状況で、80年代半ば、クラプトンは引退まで考えてしまう程になりました。
あまりのアルコール依存症に、さすがに本人も、このままではいけないと決意し、禁酒プログラムに通うようになります。色々あったようですが、80年代後半には、何とか酒も絶つことが出来た様です。その時期に、彼には子供が出来ます。イタリア人女性との間に生まれた息子「コナー」です。パティとのエピソード同様、あまりにも有名な話ですので、あくまで簡潔に。91年3月20日、コナーは当時、母親・祖母と共に住んでいたN.Y.の高層マンションから転落死します。ちょっとした不幸なタイミングの悪さ、偶然が積み重なって起きた事故でした。前日19日、クラプトンは初めてコナーと、誰も伴わずに二人きりで出かけました。サーカスを観に連れていってあげたそうです。コナーは象を見てとても喜こび、これからはコナー達の家に行った時は、自分一人で彼の面倒を見ようと思ったそうです。
世界中から悔やみの手紙などが届き(ケネディ家からチャールズ皇太子まで)、大変驚いたとの事ですが、最初に封を開けた手紙は、10代の頃からの”悪友・先輩”でもあった、キース・リチャーズからのものだったそうです。そこには「何かできることがあったら、知らせてくれ」とだけ書いてあったそうです。クラプトンはこれには大変感謝したと後に語っています。
世界中のファン達が、またドラッグとアルコールに溺れてしまうのではないか、このまま引退してしまうのではないかと心配しました。当然、しばらくは喪に服し、表舞台からは消えていましたが、この間クラプトンは常に古いガットギターを側に置き、特にリリースする意図をもって作った訳でもなく、何ともなしに曲を作っていたりしたそうです。その時期に書き上げたのが、「Tears In Heaven」「Circus left the town」(コナーが亡くなる前日に、一緒にサーカスを観に行った時のことを歌った曲)です。
まず92年初頭、「Tears In Heaven」が映画のサントラに使用され大ヒット、さらにかねてから打診されていたMTVの番組として「Unplugged」が収録・放映されます。これにはクラプトン自身も満足し、評判も非常に良かった。しかしアルバム化が決まった時、自身はそれ程のものではない、限定版で発売すべきだと言っていた様なのですが、蓋を開けてみれば空前の大ヒットを記録します。
ここから先は説明不要なほど、見事な”クラプトン復活”といった状況になったのは周知の事。しかし、私は彼が凄いのはこの後だと思っています。”「Unplugged」第二弾”の様なアルバムを作れば、再度のビッグセールスは間違いなかったでしょう(実際マネージメントサイドはそれを望んでいた)。だがそれをしなかった。勝って兜の緒を締めよ、ではないですが、ここでクラプトンは時流に乗らず、自分のルーツを見つめなおす「原点回帰」を行いました。「From the Cradle 」。マディ・ウォーターズ、エルモア・ジェイムス、そして最もクラプトンに影響を与えたであろう ロバート・ジョンソン。全曲ブルースのスタンダードカバーで占められた本作は、周囲の懸念を他所に、アルバムチャートで見事にǸo1ヒットとなりました。そしてそのまま2年近く、「wonderful tonight」も、あろうことか「layla」すら演らないという、『Nothing But The Blues』ツアーを行います。「Unplugged」で初めてクラプトンを知った、アコギを座って弾きながら、「Tears In Heaven」の様なバラードを歌っている渋いオジサン(勿論これが悪いと言っているわけではないです)といった認識しかなかった人たちには、良かれ悪しかれ刺激が強かったのではないでしょうか。
更に、映画のサントラに提供した「Change the World」も大ヒット、勢いは留まることなく、00年には、B.B.キングとの共作「Riding with the King」をリリース、これも大ヒットします。大物同士の共演というのは、企画倒れ、エゴのぶつかり合い、などに終わってしまうことが珍しくないのですが、当アルバムはお互いを認め合った、時に相手を尊重し、時に火花が出る様なプレイが繰り広げられ、誠に素晴らしい共演作となっています。これもクラプトンの、ブルースに対する造詣の深さ、尊敬の念、そしてそれを認めた故の、B.B.の全てを包み込むようなスケールの大きなプレイ、といったものの結晶だったのではないでしょうか。生半可な”ブルースが好きです”といったミュージシャンでは、このような作品はB.B.と共に作れなかったでしょう。
この時期、全てが順風満帆で、楽しい事ばかり、クラプトンも浮かれていた、というわけではなかったようです。先述した「Unplugged」後に生じたマネージメントサイドとの亀裂が深まり、弁護士が介入する程のトラブルになり(結局その長年のマネージャーとは決裂)、さらにストーカーのような女性も出現したりしていたそうです。また、クラプトンは自身の薬物・アルコール依存の反省から、自分同様の人たちを救済する手段を考えていました。「クロスロード・センター」の設立です。自身が発起人の一人となり設立・運営に携わりました。その資金の為に、自身のギターコレクションをオークションにかけます(99年と04年)。70~80年代にかけて彼の愛器であった ストラトキャスター”ブラッキー” が約1億円の値で競り落とされたのは、かなり話題になりました。
この時期、彼にはある出会いがありました。
(先のストーカーじゃないですよ(´・ω・`))
長くなりましたので、続きはまた次回に。
(いつまで続くのかな・・・(´・ω・`))