発売時、日本のある大手新聞のレコード評にて、「ロック史に残る傑作となるであろう」と評されたアルバム。それが73年発表「Larks’ Tongues in Aspic(太陽と戦慄)」です。イエスからビル・ブラッフォード(ds)を引き抜き、同様にファミリーから大学の友人であったジョン・ウェットン(b)、更にヴァイオリニスト デヴィッド・クロス、そして本作において大変重要な役割を果たすこととなる前衛パーカッショニスト ジェイミー・ミューアを従え、新生キング・クリムゾンが誕生します。
演奏力が格段に上がったことによって、その時フリップが描いていた音楽が具現化できるようになりました。”基本的に”即興演奏を前面に押し出し(あくまで”基本的に”です。何故それを強調するかは後述します)、しかしながら鉄壁なアンサンブル・グルーヴはあくまで保ちつつ、フリージャズ、前衛音楽とは似て非なる、あくまで”ロックミュージック”であるという全くの新境地を開きました。以前BSで、ある有名ミュージシャンが昔の洋楽を紹介する番組があったのですが、そこで「Larks’ Tongues in Aspic, Part One(太陽と戦慄 パートI)」のライブ演奏を流しました。観終わってからアシスタントの女性が、「すいません、私全然理解できません!」の様な旨を言いました。正直な感想だと思います。お世辞にもコマーシャリズムに溢れた音楽ではなく、むしろ真逆の方向性ですので無理もありません。
オープニング曲「太陽と戦慄 パートI」のメンバー全員による強力なインタープレイの応酬から、その後のクールダウンしたパートへの、静と動のコントラストが非常に印象に焼きついてしまうアルバムであり、それが一般的に本作を即興演奏を前面に押し出したロックミュージックの傑作と評されることが多いのですが、全くの私見ですけれども、その評価は本作の2~3割位の部分しか的を得ていないと思っています。実際メンバー全員のインタープレイが堪能できるのはオープニング曲くらいであって、その他はフロント(フリップとクロス)のみの即興でリズム隊はストイックなまでに殆どバッキングに徹する、かと思えばその真逆もあり、先述の通り、フリージャズ・前衛音楽とはあくまで一線を画する”ロック”として昇華されている所が本作の醍醐味であり、そうでなかったら同様のジャズや現代音楽と変わらない音楽でした。
エンディング曲「太陽と戦慄 パートII」が最も顕著な例でしょう。基本的にミューアのパーカッション以外は律儀なまでに(複雑なバッキングですが)、構築されたアンサンブルを貫き通し、一定のリフ・リズムの繰り返し(繰り返すから”リフ”って言うんですけどね(´・ω・`))から生まれる高揚感と、その上で”暴れまくる”ミューアのプレイのコントラストが見事としか言いようのない効果をもたらしています。もしも、本作にミューアが参加していなかったとしたら、かなり印象の違う作品になっていたでしょう。そのエキセントリックでありながら、確かなテクニックに裏打ちされた劇的な演奏が、本作をロック史に残る傑作へと高めた要因の一つとなったのは間違いありません。具体例を一つだけ挙げるなら、「太陽と戦慄 パートII」01:40秒辺りのホイッスル、この笛の音一発で、どんな複雑かつ高速なフレーズよりもインパクトがあります。ちなみにミューアは本作のみでバンドを脱退。理由の一つは、クリムゾンの音楽は自分には”ポップ”すぎる、というものでした・・・
これでもまだ”ポップ”って……(´゚д゚`)
3rdアルバム「Lizard」にてフリージャズピアニストをゲストとして起用し、かなりその影響が強く表れた作品となりましたが、その辺りを境に、フリップの中で即興音楽に対してのスタンスが変化していったのではないか、と私は勝手に思っています。即興を取り入れながらも、片一方では”偏執的”とも言えるほど一定のフレーズの反復を強調したりと、相反する要素を混在させ、独特の音楽的世界観を構築しました。
時代は飛びますが、第3期新生クリムゾンによる、81年発表の「Discipline」(=”戒律・規律”といった意味)においては、リフ・一定のビートから生まれるグルーヴを前面に押し出した音楽になっています。トーキング・ヘッズに参加していたエイドリアン・ブリューが加わったことによって、”クリムゾンがヘッズの様になってしまった”と否定的な意見が当時は多かったとのこと。実際、私が中学生時に買った”ロック名盤ガイド”の様な本(80年代前半発刊)では、低い評価を受けています。
勿論ブリューの影響が無いはずはないのですが、それは表層的な見方にしか過ぎず、「Discipline」におけるサウンドアプローチは「太陽と戦慄 」から既に芽生えていたと私は思っています。90年代以降に「Discipline」再評価のような気運が興り、「このアルバムって実は良くね!」といった聴き手が増え、現在では1stや「太陽と戦慄 」と並んで代表作の一つと挙げられます(フリップ自身もお気に入りの作品)。斯くの如し、人の評価などは古今東西で変わるもので、当てにならないのです。先述の本などは一応ロックに関しては”プロ”のライターと称する方々が書いたものです。10年余経つとがらりと評価など変わってしまうものです。そのくらいあやふやなものです。皆さん、人が何と言おうと、自分が良いと思ったものを聴けば良いのです。
( ・`ω・´)
また歌詞の面でも、当初は作詞専門のメンバーを抱え、文学的歌詞を築いていたのが、「Discipline」オープニング曲「Elephant Talk」(”無駄話”の様な意味)では、アルファベット順に単語の羅列をするだけといった、従来のクリムゾンの世界観を覆す様な作風を披露します(それが余計従来のファン、評論家筋から不評を買った)。しかしこれはフリップの飽くなき創造性が先ず第一義に、そして幾分かは従来のポップミュージックの歌詞に対するアンチテーゼもあったのではないかと個人的には思います。フリップという人は、前回述べましたが、ストイックなまでに音楽第一主義を貫く人物であると同時に、ポップミュージックに対して非常にシニカルで鳥瞰的な見方をしている人だと思えます。決してメインストリームに存在する人ではありませんが、それ故ある意味”仙人”の様なスタンスで居続けられているミュージシャンと言えるのではないでしょうか。
決して万人受けするものではない、率直に言って難解な音楽です。「難しくてわかんね!ロックなんてノリノリの曲か、メロディが綺麗なバラードだけでイイじゃん!」
( ゚д゚)ペッ、
という人もいるでしょう。別に人それぞれなので構いませんが、一応一言だけ。そういう方達へ、食べ物についてはしょっぱいものと甘いものだけで良いですか?アジアのエスニック料理にあるような複雑にスパイスが入り混じった、辛味・酸味・苦味・渋味が混然一体となった料理を”奥深い”とか言ったりしませんか?また小説・マンガ・アニメ・映画などの物語で、ご隠居さんが諸国漫遊して悪を懲らしめる勧善懲悪もの、主人公とヒロインが最後には結ばれハッピーエンドで終わる創作物が全てで物足りますか?何が正義で何が悪なのか考えさせられる深遠な世界観、結ばれないラブロマンス、ハッピーエンドでもバッドエンドでもない予想の斜め上を行く結末、こういったものに人は魅かれ、またそういう作品が現れなければ、その文化・芸術はあっと言う間に陳腐なものへと成り下がっていくのではないでしょうか。
ミューアが脱退し、もはや恒例行事の如く(…(´Д`))、フリップと他のメンバーの間に軋轢が生じ始め、しかしながらバンドは活動を続けます。第1期とは違ってその人間関係の不和をも音楽的には良い緊張感として昇華させてしまう程、この時期のクリムゾンにはパワーがみなぎっていたのではと思ってしまいます。その辺りは次回にて。