#35 Hush

ディープ・パープルのヒット曲「 Hush(ハッシュ)」、と聞いてすぐにピンとくる人はなかなか少ないのではないでしょうか。”パープルつったら「ハイウェイ・スター」とか「スモーク・オン・ザ・ウォーター」だろゴルァ!ヽ(`Д´)ノ ”という声がありそうですが至極もっともです。これらは所謂第2期ディープ・パープル、一般に彼らの黄金期とされる時期の代表曲であるのですぐに名前が挙がるのは当然です。しかし彼らは当初、第2期の様なハードロック路線ではなく、ジョン・ロード(key)を中心としたクラシックをモチーフとしたロックを売りにしたバンドだったのです。この様なロックは当時、アートロックと称されていました。その後イニシアティブを握ることとなるリッチー・ブラックモアのギターはまだ控えめでしたが、優れた演奏技術力に基づく高度な音楽性を有していました。
「 ハッシュ」(68年)は全米最高位4位を記録しました。新人バンドとしては超が付くほどの成功した出だしだったはずなのですが、ロックファンの間でもあまり印象に残らないのは、やはりハードロックバンドとしての第2期以降のイメージが強すぎる為でしょうか。ちなみ代表曲「スモーク・オン・ザ・ウォーター」(73年)も全米最高位4位。ディープ・パープルのシングルとしてチャートアクションが最も良かったのがこの2曲です。

そのディープ・パープルはデビュー当初”イギリスのヴァニラ・ファッジ”と呼ばれていたそうです。ヴァニラ・ファッジは66年アメリカで結成されたバンド。シュープリームスのカバー曲「You Keep Me Hangin’ On(キープ・ミー・ハンギン・オン)」であまりにも有名ですが、彼らも当時はドアーズなどと並んでサイケ・アートロックの急先鋒とされていました。1stアルバムは全曲カバー曲で占められ、「キープ・ミー・ハンギン・オン」をはじめ、「涙の乗車券」「エリナー・リグビー」など既存のロック・ポップスを、サイケかつハードなアレンジで演奏して当時のリスナー達を驚かせました。

 

 

 


奇才フランク・ザッパ。そのキャリアのスタートとなったのはマザーズ・オブ・インヴェンションです。R&R、R&B、ソウル、ポップス、はては前衛音楽まで、ごった煮のように混沌としたその音楽は決して商業的に成功した訳ではありませんでしたが、一部のコアなファンに圧倒的に支持されました。ザッパはその後もハードロック、プログレ、ジャズ・フュージョンなど様々な要素を取り込み、また”ザッパ・スクール”と称されるほど多数の優れたプレイヤーを自身のバンドから輩出しました。テリー・ボジオ、ジョージ・デューク、エイドリアン・ブリュー等々、天才・奇才といった呼称がぴったり当てはまるような錚々たる面々ばかりです。ザッパがそれを見抜く力は勿論のこと、やはり相通じ合う何かを感じ取って、彼らもザッパの下に集ったのかもしれません。

「In-A-Gadda-Da-Vidaガダ・ダ・ヴィダ)」で有名なアイアン・バタフライはサイケ色がありつつも、ヘヴィメタルの元祖とも呼ばれます。シカゴやブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ はサイケロックとは一線を画しましたが、ホーンセクションを大々的に導入し、”ブラスロック”と呼ばれる新しいジャンルを産み出しました。この様にこの時期は様々な新しい形態のロックが出現しました。しかしそれを良いと思った人ばかりではなかったのも事実です。大瀧詠一さんは以前ラジオで「(ビートルズは)もうラバーソウルで難しくて着いていけなくなった…」の様な旨を仰っていました。古き良きR&R、ポップスを好むリスナーも当然少なくなかったようです。

今回ご紹介した中で個人的に白眉なのはこの曲です。後にジェフ・ベックとベック・ボガート & アピスを結成することとなるティム・ボガート(b)とカーマイン・アピス(ds)は技術的にはまだ発展途上と言えますが、それを補って余りあるパワーとグルーヴを持っています。決して超絶技巧という訳ではありませんが、エンディングでのアピスによる怒涛のドラミングは圧巻です。更にシュープリームスのあのオリジナルを、この様にアレンジしたのは何ともお見事、としか言いようがありません。最後にこの動画を貼って閉めたいと思います。

#34 A Whiter Shade of Pale

プロコル・ハルムというバンドの名を知らなくても、この曲に関しては「あっ!聴いたことある!」という方がかなりおられるでしょう。それ程までにあまりにも有名な、今回のテーマである「A Whiter Shade of Pale(青い影)」です。
その前進となるバンドは英国エセックス州にて59年に結成されましたので、かなり古くから活動していたバンドです。業界では一目置かれていたそうですが、ヒットに恵まれず67年にメンバーチェンジと共にバンド名をプロコル・ハルムとします。中心メンバーであるゲイリー・ブルッカーのピアノと、改名時に加入したマシュー・フィッシャーのオルガンをフィーチャーした音作りが初期の特徴であり、ブルース、R&B、そしてクラシックのエッセンスを取り入れた音楽性が当時としてはかなり斬新でした。

「青い影」はバッハの「G線上のアリア」をモチーフに作られたと言われています(所説ありますが)。私は不勉強でクラシックに全く疎いのですが、この曲を聴くとクラシック音楽というものが如何に根本的に美しい、完成されたものであるのかと改めて関心させられます。例えが相応しいかどうか分かりませんが、姿形・造形が元から美しいものには敵わない、そうでないものがどんなに着飾ったり、化粧を施したりしても美しさにおいて及ばない、根源的な美にはどう足掻いても勝てないような無力感の様なものを感じるのです。無論この場合は根源的な美を有するのがクラシック、そうでないのがポピュラーミュージックということになりますが・・・
しかし下町には下町なりの良さが、山の手にはないものがあるのも事実です。庶民大衆の音楽には粗野ではあるが上流階級のそれにはないパワー・グルーヴがあるのです(別に庶民がクラシック聴いちゃ悪いわけでもないし、上流階級の方々でもロックを好む人も勿論いるでしょうが・・・)

 

 

 


日本のミュージシャンにも大変強い影響を与えました。その筆頭は何と言ってもユーミンでしょう。本曲を聴いて大変感銘を受け音楽の道を志した、という話は結構有名なところです。1stアルバム「ひこうき雲」(73年)からその影響は顕著ですが、極め付けは「翳りゆく部屋」(76年)。そのモチーフは2nd収録の「Magdalene」とも、3rdの「Pilgrim’s Progress」とも、意見が分かれるところですが、日本のロック・ポップスにおいて、これほどまでに絶望的かつ、荘厳な美しさに溢れた楽曲を私は他に知りません。また山下達郎さんも、本曲をマーヴィン・ゲイの「what’s going on」等と並んで、「僕が人生において最も感銘を受けた曲の一つ」と公言しています。

本曲や2ndシングル「Homburg」の印象が強すぎて、クラシック的で荘厳な美しいポップスを演奏するバンド。というイメージが一般には定着してしまったきらいがあります(実は私も昔はそうでした…)。ところが、非常にブルース色の強い一面も持っており、現在発売されている1stアルバムのボーナストラックとして収録されているライヴ音源にそれが顕著です。演奏技術的にもかなり高いレベルを有しており、ゲイリーやマシューがブルースフィーリングに溢れたテクニカルな即興演奏を聴かせ、「青い影」とは違う一面が垣間見えます。
ギターのロビン・トロワーは当時、ジミ・ヘンドリックスのエピゴーネン達において最右翼とされていたギタリストでした。私個人的にはジミヘンというより、フレディ・キングやバディ・ガイといった、黒人エレクトリックブルースの中でも特にアグレッシヴなプレイをする人達を目指したプレイヤー、という感想を抱きますが、それはつまりジミヘンやクラプトン、後のS・レイヴォーンなどと同系譜、という事になるのでしょう。
またドラムのB.J.ウィルソンは、ジミー・ペイジがレッド・ツェッペリンへ加入させようと目論んだことがある程のプレイヤーであり、非常に高いテクニックを有するドラマーでした。

彼らも成功したバンドとして御多分にもれず、度重なるメンバーチェンジ、解散そして再結成というお決まりのコースを辿ってきましたが、ゲイリーを中心として今でもその活動を続けています。12年にはユーミンと日本にてジョイントライヴを行い話題となりました。

「青い影」があまりにも有名なために、バンドとしてその実像が誤解されてしまっているのは先に述べた通りですが、やはり先述の非常に卓越したブルースバンドとしての側面、また後のプログレシーンにも影響を与えた、プログレッシヴロックの元祖と評価する向きもあり、多様な音楽性を有していることを今一度再確認するべきではないでしょうか。

などと言いながら、「青い影」がポピュラーミュージック史に燦然と輝く名曲であることは揺るがない事実であり、この曲をきっかけとして、彼らの素晴らしい音楽に少しでも多くの人が触れてくれることを望んで止みません。

#33 L.A. Woman

69年3月のマイアミ事件の後、バンドはステージから遠ざかることとなります。その期間が彼らに(特にモリソン)どのような変化を与えたのかは分かりませんが、事件後に発表した5thアルバム「Morrison Hotel」はブルース色を強めたものとなりました。初期の異国的・ジャズ的な、当時のロックとしては耳新しかった音楽性を好んでいたリスナーには戸惑いがあったようです。しかし前回の記事で述べましたが、レコードデビュー前、モリソンの書く曲の殆どは3コードの楽曲だったということから鑑みて、これは原点回帰と言えるのでは。モリソン生存中、最後のオリジナルアルバムとなった「L.A. Woman」は前作同様、いやむしろ更に無骨でタイトなR&R、ブルースを演っています。時折サイケ色が垣間見え、”ドアーズらしさ”が伺えますが、果たしてどちらが本当のドアーズなのか、ちょっとわからなくなります。
このバンドはやはり、初期の、特に1st・2ndの(当時としては)斬新な音楽性と、モリソンのカリスマ性に魅せられたファンが圧倒的に多いと思いますが、後期の地味ではあるが無骨なブルースを歌うモリソンを好む人も決して少なくありません。今回のテーマである「L.A. Woman」を後期の傑作と捉えるファンも大勢いるのです。またドアーズはやはりライヴにおいてその本領が発揮されるバンドであったので、ライヴ盤を抜きに語ることは出来ません。鉄板としては二枚のライヴアルバム(とは言ってもブートレグは別にして、そんなにオフィシャルなライヴ盤が数多く出てる訳ではないです)「Absolutely Live」(70年)と死後かなり経てからリリースされた「Alive, She Cried」(83年)があり、じっくり聴きたい人は前者、取りあえず彼らの勢いのある”ライヴ感”を味わいたいなら後者(時間も短い)をお勧めします。

 

 

 


モリソンはお世辞にも美声とは言えず、また歌唱技術が特に優れている訳でもありませんでした。では何故皆こんなにも彼の歌声に魅かれるのでしょうか?これはもう”カリスマ性”という以外には言いようがありません。勿論他のメンバーの音楽性・演奏技術や、ステージパフォーマンス、そしてプレス向けの過激な発言など、全てが混然一体となっての「ドアーズ」であったのでしょうが、やはりモリソンのパーソナリティに因っていたのは事実でしょう。しかし、モリソン本来の音楽性であるブルースを強く打ち出した「Morrison Hotel」「L.A. Woman」の様な作品にてデビューしていたとしたら、あれほどの成功を収めていたかどうかはこれまた疑問です。ドアーズというバンドはかなりの幸運な巡りあわせ、タイミングの良さ、エレクトラレコードのやり手プロデューサー ポール・A・ロスチャイルドに見いだされた等の周囲に恵まれた事など、時代の波に乗れた、また幸運の女神に微笑まれた、というラッキーな面があります。もっとも逆の見方をすれば時代が彼らを生み出した、ドアーズ、モリソンの様な存在を求め、それが具現化されたという見方も出来ます。これはオカルト的な意味合いではなく、社会学的な意味合いで。大衆が求めた時、そういうカリスマの様な存在が現れる、といった様な。ただ私はそういう方面に全く疎いのでその辺りについてこれ以上は言及しません。
しかし人間の”人生の質量”のようなものは平等なのか、(太く短くor
細く長く、ってやつです)モリソンは成功したロックミュージシャンに少なからず訪れる運命から逃れることは出来ませんでした。71年7月3日、恋人を伴った休暇先のパリで亡くなります、享年27歳。ヘロインの過剰摂取が原因とされています。この27歳という年齢がロックミュージシャンにとって何か意味を持っているかのような言われ方がされる時がありますが、私は全く意味の無い、たまたま同時期に成功した、同年代のミュージシャンが、自己管理が出来なかった結果、近い時期に、同じ年齢で急逝したという事実があるだけだと思っています。それは後からの、特にロックなどの音楽をネタにする売文家の方達による影響だと思います。しかし夭折の天才が伝説化されるのは古今東西の常であり、不遜を承知で言うと、だからこそ(レコードデビューから数えれば)4年間という短かすぎるモリソン在籍時のドアーズが輝いて見えるのも事実です。

モリソン亡き後、バンドは2枚のアルバムをリリースしますが、以前の様なヒットには至らず、その後解散。91年には映画『ドアーズ』が制作されました。内容については賛否両論あるそうです。特にマンザレクは映画でのモリソンの描かれ方にかなりの憤りを覚えたと言われています。

死とエロスを歌ったシンガー・詩人として、現在でも圧倒的なカリスマとして崇められるモリソンですが、先述しました通り、一介のブルースロックバンドとしてデビューしていたとしたら、あれ程の成功は成し得なかったように思います。やはりマンザレク達との幸運な出会いが大きかったでしょう。しかしやはりモリソン自身のパーソナリティが注目を集めた故の圧倒的な成功、という事実も間違いないと思われます。ドアーズという存在は、一人のカリスマ、優れたサイドマンとマネージメント、そして時代の波に見事にマッチした(時代の流れを”創った”とも言える)、混沌とした時代に咲いた耽美かつあまりにも絶望的な花のような存在だったのではないかと思います。

2回に渡ってドアーズを取り上げました。実はかなり久しぶりに聴いたのですが、改めてモリソンの歌の”表現力”の様なものを再確認させられました。テクニックは必要ない、などとは決して思いません。しかし音楽というものはそれだけではない、ということを気づかせてくれます。これはインストゥルメンタルでも同じ事が言えるでしょう。良かったらこれを機に、彼らの素晴らしい音楽、音楽以外の”表現”を含めた功績に触れてみて
ください(ドラッグとか✖✖✖の露出とかはダメですよ、捕まります………)。
これにてドアーズ編は終了です。次は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

#32 Light My Fire

前回より、60年代後半から興ったサイケデリックロックをはじめとして、ロック史においてエポックメイキングとなったミュージシャンを取り上げていくこととなりました。第二弾はアメリカのロックバンド ドアーズです。・・・ベタですね、もうちょっとヒネリの効いたセレクションの方が良いかとも思いましたが、奇をてらえばイイというものでもないと考え、割と直球ど真ん中から選んでみました。

ドアーズは65年、ロサンゼルスにて結成されました。ごく初期にはメンバーチェンジが行われたようですが、一般に認知されているオリジナルメンバーとしてはジム・モリソン(vo)、レイ・マンザレク(key)、ロビー・クリーガー(g)、ジョン・デンスモア(ds)です。このバンドが語られる際、まずジム・モリソンが書く文学的・誌的な歌詞がよく取り上げられるところですが、モリソンの歌詞については、それについてディープな考察をしているサイトが幾らでもありますので興味のある方はそちらをご覧ください。バンドの特色としてはその歌詞を除けば、オルガン・エレピを中心とした独特のサウンド、モリソンの際立ったステージパフォーマンス(多分にセクシャルな意味での)が挙げられます。

今回のテーマであるところのあまりにも有名な「Light My Fire(ハートに火をつけて)」は1stアルバム「The Doors」からの2ndシングル。ホセ・フェリシアーノのカバーをはじめ、多数のミュージシャンに演奏され、歌われ続けている曲。もはやスタンダードナンバーと呼んでも差支えないと私は思っています。本曲はロビー・クリーガーが初めて作曲した曲とのこと。初めての創作曲が全米NO.1ヒットとはなんとも凄い事です。なんでも、レコードデビュー前はモリソンが殆どの曲を作っていたそうですが、モリソンに「お前も作れ!」と言われて書いた曲だそうです。もっともモリソンが作る曲は大抵3コードの曲だったらしく、モリソンとの差別化を図るためにも使うコードも俄然多くしたとのこと。もともとはスパニッシュ(フラメンコ)ギタリストだったこともあって、普通のR&Rにありがちな楽曲作りは自然と避けられたのかもしれません。勿論マンザレクの助力もあっての事です。

 

 

 


その後も2nd・3rdアルバムと立て続けに大ヒットを記録し、飛ぶ鳥を落とす勢いでした。しかしモリソンのエキセントリックな言動やパフォーマンスも”勢い知らず”で、有名な話ですがあるTVショーにて、本来の歌詞はテレビでは不適切なのでその箇所だけ変えて歌うという示し合わせを”見事に”裏切ってそのまま歌って司会者を激怒させました。さらにこれまたよく知られたエピソードですが、69年3月マイアミでのコンサートにて、あろうことかステージで性器を露出し逮捕されます。
音楽外においても話題に事欠かなかったモリソンでしたが、デビュー前の彼を知る人のコメントでは、本来は文学や映画を好む物静かな青年だった、という意外な一面も語られています。どちらが本当のモリソンなのか、それともいずれの側面も生来のものなのか、しかしいずれにしても、いきなりの成功が彼の人生に(良くも悪くも)急激な変化を及ぼしたことは間違いないでしょう。

やがて当時のロックミュージシャンにおけるお約束といっていい程の、ドラッグへの傾倒という道を辿り(良い子のみんなは… しつこいな・・・)、音楽面でも徐々に変化が表れてきます。その辺りはまた次回にて。