#40 Abraxas

69年8月、N.Y.州のベセルで催されたウッドストック・フェスティバルはロック史に残る大規模な野外コンサートとして、名前くらいは耳にしたことがある方も多いのでは。結果的に約40万人の聴衆が集い、「ラブ&ピース」「音楽で社会を変えられる」と言う様な理想とも幻想とも言えるような考えの下に当時の”ヒッピー”達が詰めかけたそうです。いささか美化され過ぎて語られている面がかなりあるとは思うのですが、日本においてもその時代に青春時代を過ごした現在60~70代の方たちには、遠い外国での事とは言えども、時代を象徴する出来事として印象に残っているのではないでしょうか。ロック・フォーク界から多数の大物ミュージシャンが参加し、悪天候やトラブルが起こる中、後世にて語り草となるプレイも繰り広げられました。カルロス・サンタナ率いるバンド”サンタナ”もウッドストックでのステージが注目され、その後の大躍進へと繋がりました。

ラテンロックと言われるジャンルを切り開いたのはサンタナによってでしょう。勿論それ以前からラテン調の楽曲はロックにおいてもありました。例えばビートルズも実はかなりラテン好きで、「アイ・フィール・ファイン」はアフロキューバン、「Mr.ムーンライト」「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」等はルンバのリズム、またレコードデビュー前はステージで「ベサメ・ムーチョ」などを好んで演奏していたそうです。しかしサンタナほど情熱的・躍動的なラテンフィーリングをロックに取り入れたミュージシャンはいませんでした。そしてそのフィーリング・リズムに、サンタナの情感あふれる、所謂”泣きのギター”は見事にマッチしました。メキシコ出身という事がその音楽性に寄与しているのは言わずもがなです。

 

 

 


ウッドストックと同月発売の1stアルバム「Santana」は、同コンサートにおけるその素晴らしいプレイも相まって全米4位の大ヒットとなりました。翌年リリースの2ndアルバム「Abraxas(天の守護神)」にて全米No.1を獲得。シングルカットされた代表曲となる「ブラック・マジック・ウーマン」も大ヒット。ちなみに豆知識的ですが、本曲はサンタナのオリジナルではなく、イギリスのロックバンドフリートウッド・マックのカヴァー。70年代中期以降は「Rumours(噂)」などのポップ路線でのビッグセールスが良く知られるところですが、実は結成当初はブリティッシュブルースロックにおける急先鋒の一員でした。続く3rdアルバム「Santana III」も全米No.1。本作では、後にジャーニーを結成する事となるニール・ショーンがサンタナに見い出されて参加しています(若干17歳)。4thアルバム「Caravanserai(キャラバンサライ)」はそれまでのラテンロック色はやや影を潜め、ジャズフュージョン色が強く打ち出されていますが、そのプレイの素晴らしさには全く変わりはありません。

時系列は前後しますが、ウッドストックでのプレイがあまりにも有名になりすぎて意外に知られていない事ですが、実はカルロス・サンタナのレコードデビューはそれよりも前、名盤「フィルモアの奇蹟」においてなのです。アル・クーパー、マイク・ブルームフィールドを中心として、68年9月にフィルモアウェストにて行われたコンサートを収録した作品。3日間公演だった最終日にブルームフィールドが体調を崩し、急遽サンタナを含むギタリスト達が参加しました。サンタナのプレイはC面2曲目「Sonny Boy Williamson」にて聴けます。ラテンミュージック同様にブルースにも傾倒していたサンタナの非常にブルージーなプレイが堪能できる、その後のサンタナバンドとはまた一味違ったサンタナを聴くことが出来ます。

80年代~90年代中期において、70年代ほどのセールスには恵まれない時代が続きましたが、99年「Supernatural(スーパーナチュラル)」が特大のセールスを記録します。グラミー賞の受賞など、見事な”サンタナ復活”を遂げました。その後もコンスタントに活動を続け、今日に至ります。御年70歳。まだまだ現役バリバリなのは素晴らしい事です。

数多の素晴らしいプレイがありすぎて、どれか一曲などとは選べないところですが、あえてチョイスするならば、本当のホントにベタですがこの曲です。「Europa(哀愁のヨーロッパ)」。本曲においてはYAMAHA-SGが使用されています。74年よりサンタナは本器を使い始め、ポール・リード・スミスに取って代わられるまでサンタナの愛器でした。日本が世界に誇る名器です、その素晴らしい音色も是非ご堪能ください。

#39 Pearl

70年10月4日、滞在先のL.A.のホテルにてジャニス・ジョプリンは亡くなりました。享年27歳。握られていた金銭や、死因がドラッグ、または睡眠薬の過剰摂取のいずれなのか、はっきりとしなかったことから様々な憶測を呼び、ゴシップ誌に至っては暗殺説などのトンデモ話まで飛び交い、殊更ミステリアス、というか興味本位に売文家達によって書き立てられました。これに関しては、ジャニスの音楽性に関係のない事柄なので割愛します。興味のある方はネット上で幾らでも転がっていますのでそちらをどうぞ。

亡くなる前月からレコーディングが開始され、結果的に遺作となった「Pearl(パール)」。翌年1月にリリースされ全米9週連続1位という大ヒットを記録し、さらにシングルカットされた「Me and Bobby McGee(ミー・アンド・ボビー・マギー)」もNo.1ヒットとなりました。そのあまりにも早すぎる突然の死が話題を呼び、ビッグセールスの一因になったことは決して否定は出来ませんが、やはり本作の内容の素晴らしさが何よりも大きいのは間違いありません。生前のオリジナルアルバム(ビッグブラザー含めて)は4枚しかないジャニスですが、本作を最高傑作とするのは衆目の一致するところです。同年6月より活動を開始した彼女の新バンド”フル・ティルト・ブギー”のツボを押さえた素晴らしい演奏、オリジナルないしカヴァー楽曲のセンス、ドアーズを世に売り出したことで有名な敏腕プロデューサー ポール・A・ロスチャイルドがプロデュースに付いた事、そして何よりジャニスの素晴らしい歌、全てが奇跡的とも言えるようなまとまりを見せた結晶としてのアルバムです。
それまでバックバンドに恵まれない、と悩んでいたジャニスが(これにはジャニスの側にも問題はあったようですが)、”ようやく理想のバンドと巡り合えた!”、と喜々として周囲に語っていたと伝えられているのがこのフル・ティルト・ブギー・バンド。確かなテクニックと音楽センスに基づき、バッキングに徹するところはシンプルに徹し、場面場面のソリなどではジャニスの歌を大いに盛り上げ、間奏のソロなどでも決してテクニックのひけらかしにならない、楽曲に沿った音楽的なプレイを聴かせるといった、まさしく”歌モノ”のバックバンドとしてお手本のようなバンドでした。

 

 

 


オープニング曲「Move Over(ジャニスの祈り)」、先述のシングルヒットとなった「ミー・アンド・ボビー・マギー」、その死によって歌入れが叶わず、結果的にインストゥルメンタルナンバーとなってしまった「Buried Alive In The Blues(生きながらブルースに葬られ)」、それとは対照的に無伴奏による歌のみを収録した「Mercedes Benz(ベンツが欲しい)」はあえて伴奏をかぶせずに、そのまま歌のみのテイクを採用したロスチャイルドの英断が称賛されます。

ここからは全く個人的な好みで本作をご紹介します。ジャニスの歌唱において私が白眉と思う甲乙付けられない二曲がありますので、この際ですからどちらも取り上げます。

「Cry Baby(クライ・ベイビー)」。他の女の下へ行ってしまった男が、結局その浮気相手にフラれ、自分のところへ戻ってきた時にかけた言葉。女性の皆さんからすると、「ざけんじゃないわよ!ゴルァ!ヽJ(*`Д´)しノ」と言いたくなるような内容でしょう。ごもっとも。ですからその内容についてはこれ以上言及しません…(((((゚Å゚;))))) もう一曲は、

「A Woman Left Lonely」。ジャニスは勿論リズミックな曲も素晴らしいですが、その真価が発揮されるのは絶唱型のバラードではないかと私は思っています。この両曲は本作、というより全キャリアを通して、その歌唱においてベストトラックではないでしょうか。

世の中にはジャニスの歌を受け付けない人達も当然います。重い・疲れる・金切り声で叫ぶように歌うそのスタイルがダメ、という意見も見受けられます。勿論好みは人それぞれなので致し方ありません。私も元来、歌唱・器楽演奏ともに過多な感情表現のプレイは苦手な方で、何かと言えばすぐシャウトするヴォーカル、ブローするサックスなどは良いと思えず、抑制が効いた中に少ない場面ではあれど、ここぞという箇所で感情表現を聴かせる、というメリハリが付いたプレイの方を圧倒的に良しとする方です。しかしジャニスだけは昔から別でした。勿論ジャニスだって終始シャウトしていた訳ではないですが、その過剰とも言える感情のこもった歌が耳にさわる、疲れる、と思った事は今まで一度もありません。何故だろう?と、これまで長きに渡って疑問に思っていました。”テキサスでの青春期における満たされない、疎外感・孤独感がその歌にソウルを吹き込んだのだ”とか書けば文章的には格好が付くのでしょうが、表現をする側の人間は多かれ少なかれ、世間一般のライフスタイルを送る事が出来なかったり、周囲から浮いていたりするものなので、ジャニスにだけ当てはまる事ではないでしょう。不幸な生い立ち・運命などで語れば、ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルド、エディット・ピアフなど上には上がいます(彼女達もそれだけで名シンガーになったという訳ではないですが…)。
結論としては何故だか分からない。あえて言うなら”ジャニスだから”、となってしまいました。(つまんない答えですね。もうちょっと気の利いた事書けないのでしょうか・・・(´Д`))

先程、その歌唱において白眉と思う二曲をご紹介しましたが、バンドのアンサンブルを含めて、私がベストトラックとする曲をご紹介してジャニス・ジョプリン編を締めたいと思います。「Half Moon(ハーフ・ムーン)」。本作においては地味な存在の楽曲かもしれませんが、この素晴らしいグルーヴ感、そしてその上で水を得た魚のように歌うジャニスが印象的な曲です。先述の通り、理想のバンドと巡り合えた、と喜んでいたジャニスが、喜々として飛び跳ねるように歌っている姿がヴィジュアルとして浮かんでくるようなジャンプナンバー。しかしながら、その後わずかひと月と経たずしてその早すぎる死を迎えた事を思うと余計に感慨深いものがあります。

最後にちょっとイイ文章で締めたいと思って、無い頭をひねくりまわしてみたのですが、自分の文才の無さを再確認するだけでした。
… (╥_╥);
陳腐な言い方ですが、ジャニスが亡くなってからもうそろそろ半世紀が経とうかという年月が過ぎています。しかしながら、ジャニス・ジョプリンという存在は折に触れ取り上げられます。それはロックファン達の心に生き続けているという事に他なりません。比較的若い世代の、当然リアルタイムでジャニスを知らない(ジャニスの没年に生まれた私もそうですが)シンガーにもジャニスに憧れてその道を志した、と言う方もいます。今後もそういう人達は生まれ続けることでしょう、いや、是非そうであって欲しい。このブログがそのほんの僅かな一助になることを願いながら・・・

#38 Kozmic Blues

サム・アンドリュー(g)と共にビッグ・ブラザーを離れるのと同時進行で、ジャニス・ジョプリンは新バンドを結成します。紆余曲折があった末、サム以外はスタジオミュージシャンによって構成された”コズミック・ブルース・バンド”(後世になって付けられた通称ですが)にて活動を開始します。ジャニスが敬愛するソウルミュージックのスタイルを目指すべく、ホーンセクションが大々的にフィーチャーされています。またセッションミュージシャンばかりとあって演奏技術もビッグ・ブラザーより格段に秀でています。このバンドは結成当初、その評判があまり芳しくなかったそうです。ホーンの導入等が取って付けた様なソウルミュージックの真似事、とこき下ろす輩がいたそうです。私は全くそのような印象は抱きませんが、実際メンフィスソウルのスター達が集ったスタックスレーベル主催のコンサートにて、ソウルミュージックのキラ星達と共にその名を連ねますが、そこでの観客の反応は非常に冷めたものだったと言われています。私見ですが、白人が黒人を差別するのと同様に、黒人の側からすれば「俺たちのソウルやR&Bが白人のオネエチャンに出来るのかい?」といった穿った見方も相当あったのでは。
しかし翌69年2月、かのフィルモアイーストにて行った同バンドのライヴでは、楽曲により若干の反応の差異はあったものの、前年末のメンフィスにおけるライヴとは比較にならない手ごたえをジャニスは感じ、非常にエキサイトしたと言われています。勿論これにはN.Y.とメンフィスという地域の違いがあったことは言わずもがなですが。

 

 

 


69年11月、「I Got Dem Ol’ Kozmic Blues Again Mama!(コズミック・ブルースを歌う)」をリリース。ジャニス名義での初のアルバムでした。時系列は前後しますが、ウッドストックにも同バンドにて出演します(8月)。もっともジャニスのパフォーマンスとしては同月にニュージャージー州にて催されたアトランタ・ポップ・フェスティバルの方が圧倒的に良かったと伝えられています(なにぶん音源が残っていないので確かな事は言えませんが…)。

「コズミック・ブルースを歌う」の評価に関しては、とかく”オーバープロデュース”、”バックバンドがジャニスの歌にそぐわない”というのが昔からの定評でした。オーバープロデュース(過剰なアレンジ等)という評価には私は全く賛同しかねます。ロックにおいてホーン(管楽器)やストリングス(擦弦楽器)を導入すると、シンプルでなく良くない、もっとストレートに演った方が良い、と、定型文の様に難癖を付ける、特に自称ロック評論家・ライターという人達の批評を昔は良く見ました。今はその手の文章など全く見ないので、どの様な風潮なのかは知りませんが。この手の批評で最たる例がビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」でしょう。元はシンプルな編成で録られたものがジョンとジョージがポールに無断で、同曲を含む未発表素材をフィル・スペクターへアルバム制作を依頼してしまい、ポールはその事に激怒し、その”過剰なアレンジ”とされる出来上がりにも憤然とした、という有名な逸話です。
どちらが良いと思うかは人の好みなので「ザ・ロング・アンド・・・」については言及しませんが、アルバム「コズミック・ブルースを歌う」においては、果たしてオーバープロデュースと批判している人達はどれほど分かって批判しているのだろうか?と疑問を覚えずにはいられません。そのホーンアレンジ等のどこが良くないのかを、具体的に指摘した文章など私は今日まで目にしたことがありません。ただ単に、余計な楽器を入れるな!ロックはシンプルなモンだ!、というその自称評論家達の単なる個人的考えなのではないでしょうか?

私も本職はドラムで、ギター等も専ら”演奏するだけ”の人間なので、自慢じゃありませんが編曲に関する理論・ノウハウなど大して持ち合わせていません。ホーンや特にストリングスはそのアレンジが非常に難しいと言われます。現在でこそシンガーソングライターでもそれらのアレンジもこなす人も割といるようですが、昔は職業作曲・編曲家でなければ無理だったと言われています。私見ですが本アルバムにおけるホーンのアレンジに関して、過剰とは全く思えません。7曲目の「Little Girl Blue」にて弦のアレンジがありますが、批判している自称ロック評論家・ライターといった人たちは本曲などの事を指して言っているのでしょうか?良く分かりませんが。ただし、その人達も管や弦のアレンジについてどれだけ知識があって言っているのか、甚だ疑問です・・・。
ただ、バンドに関しては確かにその音数は多すぎるとは思います(特にドラム)。先述の通り、スタジオミュージシャンの集まりなのでテクニカルな面では非常に優れています。しかし、所謂”歌モノ”のバックが難しいと言われるのはこの辺りに由来するのでしょう。インストゥルメンタルの音楽であれば非常に良いバンドであると思われますが、ジャニスの歌を引き立てているか否かはまた別です。しかしそのプレイに関して、プレイヤー個々の判断に任せられていたものなのか、事細かくアレンジャーの指示があったものなのかは、今回かなり調べてみましたがそれについての客観的と思われるネット上の資料などは見当たらず、結局分かりませんが、もし後者であったとしたならば、バンドを責めるのはちと酷なのではないかと思います・・・。

大分長くなってしまいました。長年に渡って、本作への評価が不当なのではないかと思い続けてきたためにこの様なダラダラとした恨みがましい文章になってしまいました。皆さんお忙しいでしょうからこんな駄文はちゃっちゃと読み飛ばしていただいて結構です。あ、でも、もう読んだ後ですよね・・・。

最後に本作からご紹介するのは、ベタ過ぎますが何と言ってもタイトル曲でしょう。それではどうぞ。

#37 Cheap Thrills

67年6月、カリフォルニア州にてモンタレー・ポップ・フェスティバルという大規模なコンサートが催されました。今で言うロックの野外フェスというものの走りでしょう。当コンサートにおいて、一夜にしてスターとなった、と言われるミュージシャンが二人います。ジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンです。しかしジミヘンに関しては、本国アメリカでの下積みを経て、渡英してからは前年に1stシングル、直前の3月には2ndシングルが全英でTOP10ヒットとなっており、勿論現在のインターネット時代のように、皆がリアルタイムで遠い外国の情報でも手に入れる事が出来るという訳ではありませんでしたが、それでも情報通の人間ならば、本国アメリカにおいてもジミのイギリスでの活躍ぶりを知っている人はある程度いたでしょう。
しかしジャニスに関しては違います。本当に一夜にしてロックスターになったのです。オーディション番組などで埋もれた才能を発掘しようという企画であれば、こういう事はあって然るべきでしょう。私は全然詳しくないのですが、確か外国(アメリカ?)のその手のTVプログラムで一躍有名になった女性シンガーがいたとか。ですがモンタレーはそれとは異なり、出演者の大半がキラ星のような有名ミュージシャン・バンドの中において、彼らを差し置き、喰ってしまってその話題をかっさらっていったのです。

 

 

 


43年テキサス州にて生まれたジャニスは、20歳で地元の大学を中退し、シンガーとなるべく
サンフランシスコへ移り住みます。この頃から既に薬物とアルコールへの依存が始まっていたようですが、何とかシスコのアンダーグラウンドシーンにおいてはその頭角を現し始めます。67年、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーで1stアルバムをリリース。全く売れずに、しかも悪徳マネージメントに良いようにされ、一銭も入らなかったと言われています。モンタレー出演はその直後でした。6月17日昼の部に出演したバンドは、ジャニスの圧倒的なステージによって大変な話題となり、急遽本来予定になかった17日夜の部へも出演となりました。

この日から全てが変わった、という表現はジャニスの様な人生を言うのでしょう。大手レコード会社CBSと契約し、2ndアルバム「Cheap Thrills(チープ・スリル)」を発表。全米で通算8週1位という大ヒットを記録。女性初のロックスターの誕生と評されました。ライヴアルバムである本作はジャニスを含めたバンドの”勢い”を見事に切り取った一枚です。良く言われる巷の評価として、このバンドは巧くない、ジャニスの持ち味を活かせてなかった(それは次のコズミック・ブルース・バンドも同様の評価ですが)、とされてます。確かに技巧派とはお世辞にも言えませんが、私個人的にはビッグ・ブラザーというバンドは当時のウェストコーストにおいて、技術的には平均的なバンドだったと思っています(これもあまり褒め言葉ではないですね)。しかし統制が取れていなかった、というのは事実かもしれません。つまりバンドマスターがしっかりとしたイニシアティブを取って、バンドをコントロール出来ていなかった、という側面はあると思います。もっともこの当時はクスリと酒でラリパッパになって、”細けえこたぁイイんだよ!”と自由に演るのが風潮だったので、致し方ない面もあるのかと。ただしコーラスだけは酷すぎます、もうちょっと何とかならなかったのかと思いますが…。

モンタレーでその絶唱が話題となった「Ball and Chain」、G・ガーシュウィン作のスタンダードナンバー「Summertime」、シングルカットされた「Piece of My Heart(心のかけら)」はアレサ・フランクリンの姉であるアーマ・フランクリンの代表曲。しかし、私が本作にて白眉と思うのはジャニス作による「Turtle Blues (タートル・ブルース)」。楽曲的に特に秀でているとは言えません、ごく普通のブルースです。ピアノとギターの演奏も率直に言って凡庸なものです。しかし、蕎麦はシンプルなもりそばが一番ごまかしが効かないというますが(決して技巧や創作の工夫が必要ない、などとは夢にも思いません、が)、ジャニスの見事な歌が最も堪能できるのが本曲だという事実は、ソングライターやプレイヤー達にとって、皮肉めいたものを感じずにはいられません。

68年末にビッグ・ブラザーは解散。既に次なるバンド作りに動いていたジャニスは、ギターのサム・アンドリューと共に新メンバーを求めますが、この時期全く人事が安定せず、人もバンド名もコロコロと変えながら活動するのですが、その辺りはまた次回にて。

#36 With a Little Help from My Friends

前回、「キープ・ミー・ハンギン・オン」について触れましたが、オリジナルがシュープリームス(この場合は最初にレコードに吹き込んだという意味で)、そのオリジナルと同じ位有名なヴァージョンとしてヴァニラ・ファッジ版があると述べました。この様にシングルヒットした、もしくはヒットしたアルバムに収録されている有名曲をカヴァーして、その曲が取り上げられる際、オリジナルと並列して取り上げられる程のカヴァーヴァージョンというものがロック・ポップス界には存在します。勿論ジャズのスタンダードナンバーの様にカヴァーされるのが常である楽曲は除外します。マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」におけるダニー・ハサウェイ版、「スタンド・バイ・ミー」におけるベン・E・キングとジョン・レノン。そして今回のテーマである言わずと知れたビートルズ「With a Little Help from My Friends」。このカヴァーでの決定版は何と言っても69年のジョー・コッカー版にとどめを刺すのでは。

ウッドストックにおける本曲の歌唱はあまりにも有名なところ。とにかくこの人は問答無用の声をしています、ずるいと言って良いほどに。ですが、ミュージシャンとして御多分に漏れず、彼もドラッグと酒で身を持ち崩した人です。初期はレオン・ラッセル等のサポートにより素晴らしい作品を残すものの、先述した持ち前の”だらしなさ”から仲間が去って行ってしまいました。
私の世代ですと、82年の映画『愛と青春の旅だち』主題歌「Up Where We Belong」の印象が先ず初めにありますが、当時もコッカーはヘロヘロのタリラリランだったそうです。が、何なのでしょう?この歌は!。決して喉の状態が良くない事は間違いないのですが、そのふり絞ったしわがれ声は唯一無二の感動を人々に与えて止みません。彼はどんなコンディションでも素晴らしいプレイをするという、ある意味で真のプロフェッショナルと呼べるのかもしれません。
でも、やっぱりタリラリランのラリパッパは良くないですけどね・・・(´Д`)。

 

 

 


コッカーは1stアルバムにて、トラフィックのデイヴ・メイソン作「Feelin’ Alright 」もカヴァーしています。トラフィックは英国で、”神童”スティーヴ・ウィンウッドとデイヴ・メイソンを中心に結成されたバンド。
10代半ばでスペンサー・デイヴィス・グループにて天才少年とその名声を不動のものとしたウィンウッドが次なる活動の場として67年にデビュー。ウィンウッド、メイソン共にイギリス人でありながらブラックミュージックに傾倒していた人達です。しかし双頭バンドというものはうまくいかないのが常なのか、ウィンウッドがブラインド・フェイスを組みために一度バンドを離れ、戻って来た時には今度はメイソンがバンドを離れます。60年代半ば、E・クラプトンやジミ・ヘンドリックスの登場により、イギリスではブルースブームが巻き起こりましたが、ブラックミュージックは勿論ブルースだけではありません。R&B、ソウル、ゴスペル、ファンクetc…。
今回のテーマであるコッカー版「With a Little ・・・」は、原曲を見事なまでにR&B・ゴスペルのスタイルへ昇華させています。またトラフィックもブラックミュージックを英国風に取り込んだバンドの走りと言えるでしょう。まだ本国アメリカでは人種差別が残っていた60年代に、イギリスでは自国にない音楽であるブラックミュージック
を差別感情など関係無く積極的に取り入れる動きがありました。

しかし言うまでもなく、イギリスにおいてブラックミュージックをロックに取り入れた先駆者はローリング・ストーンズに他なりません。ビートルズ・フー・キンクス、皆ブラックミュージックの影響を当然受けましたが、ストーンズほどそれに傾倒していたバンドはなかったでしょう。ビートルズが8年間のその活動にて、劇的なまでにポップミュージックを変革したのに対し、ストーンズは今日に至る50年以上に渡って頑固なまでにR&R、一途にブルースと、そのスタイルを守り通してきました(多少流行りを取り入れることも勿論ありましたが)。これに関してはどちらが良い悪いはありません、それぞれの個性があるだけです。

ギター中心のロックミュージックに関しては、どうしてもギタリストのプレイスタイルに注目が集まってしまい、それが英米問わずブルースに根差した音楽性に注目が集まってしまいがちです。私も鼻血が出るほどブルースが好きな人間ですが、ロックに影響を与えたブラックミュージック、先述の通りそれはブルースだけではありません。ロック史において地味な動きではありましたが、ストーンズ達から始まり、更に60年代後半から興った、特にイギリスにおけるブラックミュージック賛美とも言えるロックは、イギリス古来のトラッドフォーク、ひいてはケルト音楽(大げさかな…)などと混じり合い独自の発展を遂げました。例えば、日本人でも知らないような事を、日本フリークの外国人の方が非常にマニアックな知識を有していたりすることがありますが、無い物ねだりと言うのでしょうか、自分(自国)にないものだからこそ余計に憧れる、というきらいが人間にはあるのかもしれません。

ウッドストックでの「With a Little ・・・」を張るのはベタ過ぎるので、今回は02年のエリザベス女王戴冠50周年ライヴにおけるコッカーのプレイを観てもらいたいと思います。フィル・コリンズ、ブライアン・メイといった錚々たる面子をバックに従え堂々の歌いっぷり。勿論ウッドストック当時の声のハリなどはあるはずもありませんが、ワンアンドオンリーのこの歌声は誰にも真似出来ないのです。
ジョー・コッカーは14年に惜しくも亡くなりました。享年70歳。先述の通り、薬物と酒に溺れたその生活(80年代前半には何とか脱却出来たらしいですが)は決して褒められたものではありませんが、”魂を振り絞って歌う”、という表現がこれほどピッタリなシンガーは、ポピュラーミュージック界においては、ジャニス・ジョプリンなどと共にほんの数人だったのではないでしょうか。
しかしコッカーが亡くなったのはつい最近の様な気がしていたのですが、もう三年経つんですね…
自分もあっという間に歳を取る訳です・・・(´Д`)。
それではコッカー氏への追悼を込めてこの動画を最後に。