67年6月、カリフォルニア州にてモンタレー・ポップ・フェスティバルという大規模なコンサートが催されました。今で言うロックの野外フェスというものの走りでしょう。当コンサートにおいて、一夜にしてスターとなった、と言われるミュージシャンが二人います。ジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンです。しかしジミヘンに関しては、本国アメリカでの下積みを経て、渡英してからは前年に1stシングル、直前の3月には2ndシングルが全英でTOP10ヒットとなっており、勿論現在のインターネット時代のように、皆がリアルタイムで遠い外国の情報でも手に入れる事が出来るという訳ではありませんでしたが、それでも情報通の人間ならば、本国アメリカにおいてもジミのイギリスでの活躍ぶりを知っている人はある程度いたでしょう。
しかしジャニスに関しては違います。本当に一夜にしてロックスターになったのです。オーディション番組などで埋もれた才能を発掘しようという企画であれば、こういう事はあって然るべきでしょう。私は全然詳しくないのですが、確か外国(アメリカ?)のその手のTVプログラムで一躍有名になった女性シンガーがいたとか。ですがモンタレーはそれとは異なり、出演者の大半がキラ星のような有名ミュージシャン・バンドの中において、彼らを差し置き、喰ってしまってその話題をかっさらっていったのです。
43年テキサス州にて生まれたジャニスは、20歳で地元の大学を中退し、シンガーとなるべくサンフランシスコへ移り住みます。この頃から既に薬物とアルコールへの依存が始まっていたようですが、何とかシスコのアンダーグラウンドシーンにおいてはその頭角を現し始めます。67年、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーで1stアルバムをリリース。全く売れずに、しかも悪徳マネージメントに良いようにされ、一銭も入らなかったと言われています。モンタレー出演はその直後でした。6月17日昼の部に出演したバンドは、ジャニスの圧倒的なステージによって大変な話題となり、急遽本来予定になかった17日夜の部へも出演となりました。
この日から全てが変わった、という表現はジャニスの様な人生を言うのでしょう。大手レコード会社CBSと契約し、2ndアルバム「Cheap Thrills(チープ・スリル)」を発表。全米で通算8週1位という大ヒットを記録。女性初のロックスターの誕生と評されました。ライヴアルバムである本作はジャニスを含めたバンドの”勢い”を見事に切り取った一枚です。良く言われる巷の評価として、このバンドは巧くない、ジャニスの持ち味を活かせてなかった(それは次のコズミック・ブルース・バンドも同様の評価ですが)、とされてます。確かに技巧派とはお世辞にも言えませんが、私個人的にはビッグ・ブラザーというバンドは当時のウェストコーストにおいて、技術的には平均的なバンドだったと思っています(これもあまり褒め言葉ではないですね)。しかし統制が取れていなかった、というのは事実かもしれません。つまりバンドマスターがしっかりとしたイニシアティブを取って、バンドをコントロール出来ていなかった、という側面はあると思います。もっともこの当時はクスリと酒でラリパッパになって、”細けえこたぁイイんだよ!”と自由に演るのが風潮だったので、致し方ない面もあるのかと。ただしコーラスだけは酷すぎます、もうちょっと何とかならなかったのかと思いますが…。
モンタレーでその絶唱が話題となった「Ball and Chain」、G・ガーシュウィン作のスタンダードナンバー「Summertime」、シングルカットされた「Piece of My Heart(心のかけら)」はアレサ・フランクリンの姉であるアーマ・フランクリンの代表曲。しかし、私が本作にて白眉と思うのはジャニス作による「Turtle Blues (タートル・ブルース)」。楽曲的に特に秀でているとは言えません、ごく普通のブルースです。ピアノとギターの演奏も率直に言って凡庸なものです。しかし、蕎麦はシンプルなもりそばが一番ごまかしが効かないというますが(決して技巧や創作の工夫が必要ない、などとは夢にも思いません、が)、ジャニスの見事な歌が最も堪能できるのが本曲だという事実は、ソングライターやプレイヤー達にとって、皮肉めいたものを感じずにはいられません。
68年末にビッグ・ブラザーは解散。既に次なるバンド作りに動いていたジャニスは、ギターのサム・アンドリューと共に新メンバーを求めますが、この時期全く人事が安定せず、人もバンド名もコロコロと変えながら活動するのですが、その辺りはまた次回にて。