#44 Are You Experienced

#37のジャニス・ジョプリン編でも書きましたが、ジャニス、そしてジミ・ヘンドリックスを一夜にしてスターダムへ押し上げたモンタレー・ポップ・フェスティバル。そこでのジミのステージアクトがどれ程衝撃的であったかは、余りにも有名で、映像化もされていますのでここで改めて詳しくは述べませんが、昔のロックにあまり詳しくない方もおられるかと思いますので簡単にザックリと。歯で弾く、背中で弾く、ギターを男性器に見立てて扱う、楽器を壊す、そして伝説となった”ギターを燃やす”。これには裏話があります。イギリスではピート・タウンゼント率いるフーもステージで楽器を壊す事を売りにしていたのですが、モンタレーでは、ジミもフーも共に先にやったもの勝ちと考えていたらしく、結果的にはフーのステージが先となり(コイントスで決めたらしい)、思惑通りフーはその滅茶苦茶なステージで聴衆を沸かせました。「どうだジミ、後からやっても俺たちほどのインパクトはないぜ」と、ほくそ笑んでいたところ、ジミはステージの最後であろうことかギターに火をつけてしまいました(その後”ちゃんと”壊します)。
( ´゚д゚)´゚д゚)´゚д゚)´゚д゚)・・・フーのメンバー達はこんな感じだったことでしょう。

 

 

 


モンタレーの前月67年5月に英で先駆けてリリースされた1stアルバム「Are You Experienced」。全米でも8月に発売され、モンタレーでのパフォーマンスも相まって、全英2位・全米5位を記録する大ヒットとなります。ちなみに英での1位を阻んだのはビートルズ「サージェント・ペパーズ」。アルバムリリースとモンタレーの出演が絶妙のタイミングだったと言えます。本作にジミのエッセンスの全てが詰め込まれているといっても過言ではないと私は思っています。「パープル・ヘイズ」と共に♯9thコード(所謂”ジミヘンコード”)を用いた代表曲「Foxy Lady」。ブルージーなロックナンバー「Can You See Me」「I Don’t Live Today」。サイケデリックな「May This Be Love」「Third Stone from the Sun」及びタイトル曲。ジミとしては珍しいアップテンポのストレートなロックチューン「Fire」。本作ではポップで親しみやすいRemember」。そして正統派のブルース「Red House」。只のサイケ・ヒッピームーヴメントに乗っただけのバンドではありませんでした。ジミは勿論、ノエルとミッチも含めて確固とした技術と音楽性に裏付けられたものでした。ジミの音楽の根っこにあったのがブルースであることに間違いはありません。イギリスではこの時期、ジミやクラプトンの活躍によってブルースブームが巻き起こります。しかしジミの音楽性は先述した通りブルースだけに収まるものではありませんでした。更にジミはそのギターテクニック、機材の扱い方、ステージアクト、ファッション、それらすべてにおいて型破りだったのです。ちなみに先述した所謂”ジミヘンコード”(♯9thコード)について、ジミが作り出したコード、と書かれているものが時折見受けられますが、さすがにそれはなく、ジャズやボサノヴァでは昔から使われていました。ただロックミュージックにおいて、ジミの様にこのコードを前面に押し出し、楽曲を決定付けるような使い方をしたのはジミが初めてと言えるでしょう。非常にテンション感、言い換えれば不安定感を醸し出す独特の響きです。ギターで弾いた事がある方は分かるでしょうが最初は小指が難しいです…

ジミの革新性をいっぺんに述べる事は難しいので、今後何回かに渡って書いていきたいと思います。クラプトン編でも同様の事を書きましたが、当時のロックギタリスト達の中でジミとクラプトンが最も正確無比かつ速く複雑に演奏出来るプレイヤー、という訳ではありませんでした。勿論かなりハイレベルなギタリストであったことは間違いありませんが。では何故ジミはここまで伝説的なギタリストとして現在まで語り継がれているのでしょうか。技術的な部分で取りあえず一つだけ。ジミはピッキングに特徴があり(黒人ギタリストに多くみられるタイプ)、教則本などでは親指は弦と並行、人差し指は弦に垂直にして(第一関節より先は曲げますが)、上から見れば十字を形作るように持つのが良い持ち方とされています。これに対してジミは”十字”は作らず親指と人差し指の角度は45度位で、非常に軽く、リラックスした様に持ち、さらに弦に対してピックの先が上を向くように構えるスタイルでした(教科書的には弦と並行ないしは下向き)。このスタイルの利点はアタックの強いピッキングがしやすいと言われます。勿論デメリットもありますが、ハリがあり、かつ太い音が出せます。ジミと言えば、当時としてはエフェクターを多用して変化に富んだ音色を作り出していた事が良く語られますが、根本的な部分からして良い音色を作り出す為の技術を有していたのです。デビューシングル「ヘイ・ジョー」は、クリーントーンで演奏されておりその豊かなトーンが味わえる曲です。決してそれ程太い弦を張っていた訳ではない様なのですが、ストラトキャスターらしい抜けの良いクリアな音色でありながら、尚且つ芯のしっかりとしたインパクトのあるトーンです。ご一聴ください。

シンガーは声の良し悪しが当然語られます(この場合は一般的な”声がキレイ”ということではなく歌うことにおいての良し悪し。ダミ声でも良いのです、ジェームス・ブラウンの様に)。楽器も同様です。音色が悪ければどんなにテクニックがあってもダメなのです。その音色は機材やセッティングだけではなく、当然の事ながら人間の口・指・手足から生み出されるものなのです。ともすると忘れがちな事ですが、プレイヤーはこれを肝に銘じるべきです。

モンタレーでその話題をかっさらい、デビューアルバムも大ヒットと、成功を収めたジミ達は活動の拠点をアメリカに移します。ここから破竹の勢いでの活躍が始まるのですが、その辺りはまた次回にて。

#43 Purple Haze

#31から続けてきました、60年代後半~70年頃にかけてのロック史において、エポックメイキングとなった音楽をご紹介してきた本テーマを締めくくるのは勿論この人、ジミ・ヘンドリックスです。
(でも、どうせ、こんなテーマ誰も覚えてないですよね…覚え…て…ない……かな………
……(/д\)゜o。……)

42年シアトル生まれ。母親がインディアン、父親の祖母もインディアンであって、この事が彼の音楽性(歌詞を含め)に少なからず影響を与えたと言われます。軍隊を除隊した後、本格的な音楽活動を始めます。リトル・リチャードのバンドに参加していた事は有名ですが、キング・カーティスのバンドにも一時身を置いていました。ここでジミはコーネル・デュプリーと短期間ではありますが活動を共にします。ロック史を塗り替えるようなギタースタイルを確立したジミと、派手さは決してないがいぶし銀の様な職人技ともいえるデュプリー。プレイスタイルもおよそ全く違うこの二人の名ギタリストに接点があったのは意外ですが、生まれ年も同じ彼らはすぐに仲良くなり、ジミはデュプリーからインプロビゼーション(即興演奏)を学んだと言われています。しかしジミのあまりの”自由奔放さ”からカーティスは数ヶ月でクビにしてしまいます。
・・・(´Д`)
Music web page “Cross Your Heart”さんのサイトにて、その辺りについて詳しく書かれています(
)。特に①のページにて、ウィルソン・ピケット、パーシー・スレッジといった当時のR&B・ソウルにおける大物シンガーのバックにて演奏を務めている大変貴重な写真が掲載されています。興味のある方は是非一読を。

業界内ではジミのプレイは噂になる程だった様なのですが、如何せん黒人のセッションギタリストという立場では、R&B畑で如何に活躍しても一般的知名度には限度があります。黒人シンガーであってもビルボードのR&Bチャートではなく、ポップスチャートの上位に入るような人達がいなかった訳ではありません。スティーヴィー・ワンダー、シュープリームス、ロネッツなどはR&B・ソウルのフィールドにいながら白人層にも受け入れられました。しかし、ジミが目指していた音楽性はおよそそれらとはかけ離れたものでした(ちなみにスティーヴィーも60年代の自身の音楽は必ずしも望むものとイコールではありませんでした)。それどころか既存のR&B等のブラックミュージックにもとても収まり切るものでもなかったのです。この当時、アメリカで活動している限りはその地位に大きな変化はなかったと思われます。

そんな折、ジミの運命を変える人物との出会いがありました。全米ツアー中のアニマルズのメンバー チャス・チャンドラーです。ジミの噂を事前に仕入れていたチャスは、当時ジミがリーダーを務めていたバンドを観に行きます。そこで大変な衝撃を受けたチャスはジミへ熱心に渡英を勧めます。丁度自身のミュージシャンとしての限界を感じていたチャスは、音楽界の裏方として生きていこうと思っていた矢先でした。当然ジミは二つ返事で了承した訳ではありませんでした。イギリスで果たして自分の音楽が受け入れられるのかどうか、始めは疑心暗鬼だったとの事です。今の様に海の向こうにおける音楽事情でも詳しく知る事が出来る様な時代では当然ありません。不安がるジミでしたが、アメリカにいたジミでもその名を知る在英のブルースギタリストがいました。言わずと知れたエリック・クラプトンです。ヤードバーズやブルース・ブレーカーズにて既に知名度のあったクラプトンの事はジミも一目置いていたようです。ジミはチャスにイギリスへ行ったらクラプトンに会わせてくれるか?と尋ねます。チャスは「君のプレイを聴いたら彼の方から会いに来るよ」と言ったそうです。

チャスの目に狂いはありませんでした。ノエル・レディング(b)とミッチ・ミッチェル(ds)をそのメンバーとし、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成させます。渡英した翌月の66年10月からすぐにも活動を開始。デビューシングル「Hey Joe」は全英6位の大ヒット。この時期、ロンドン中のミュージシャン達がこぞってジミを観に来ていたと言っても過言ではないほどにそのプレイは衝撃を与えたそうです。以前ピート・タウンゼントがある映像の中で、ジミについて語ったインタビューにおいて、初めてジミの演奏を観たピートはそのショックのあまりすぐにクラプトンへ電話をして、「とんでもない奴が現れた、俺たちギタリストは全員失業する。奴は宇宙人だ。」と言ったそうです。「Hey Joe」は実はジミのオリジナルではありません。最初にレコーディングしたのはLeavesというL.A.のバンドです。YouTubeで聴けますので興味のある方は。所謂、Aメロ・Bメロ・サビといった一般的な楽曲の展開はせず、4小節の繰り返しという単純な構成。コードも5つだけ。Leavesのヴァージョンと比べると一聴瞭然ですが、ストレートなロックフィールに対し、ジミ版は妖しげ(サイケ)で、かつヘヴィーな仕上がりとなっています。ビートが違うのと、ジミは単調なコード進行である原曲にテンション感を与える事によって(本曲においては9th〔ナインス、9度の音〕の混ぜ具合による)、当時としてはワンアンドオンリーな楽曲へ仕立て上げています。

ジミは自分の歌に全く自信をもっていなかったそうです。チャスはそのシンガーとしての実力にも早くから気付き、ジミを説き伏せヴォーカルを取らせたそうです。白人2人を従えて黒人のギタリスト&シンガーというバンド。アメリカではまず成功しなかった、というよりデビューすら実現出来なかったかもしれません。イギリスにも人種差別が全くないわけではなかったでしょうが、他の事には非常に保守的といわれる英国ですが、こと音楽に関しては ”白いのも黒いのも関係ねえ!音楽が良ければイイんだよ!” と、特にアンテナの鋭い若年層に受け入れられました。

67年3月(米では6月)、2ndシングル「Purple Haze」をリリース。全英3位を記録。全米では65位とスマッシュヒットと呼べる程度でしたが、徐々にアメリカでの、つまり世界へ向けての成功の足掛かりを固めつつありました。そしてあの伝説的ステージとなるモンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演となる訳ですがその辺りはまた次回にて。

#42 The Live Adventures of Mike Bloomfield and Al Kooper

アルバム「スーパー・セッション」の続編・ライヴ版として企画されたのが本作「The Live Adventures of Mike Bloomfield and Al Kooper(フィルモアの奇蹟)」。スティーヴン・スティルスは参加出来ませんでしたので、このフィルモアウェストにおける3日間公演はマイク・ブルームフィールドのギターの独壇場となる、予定でした…(3日目にダウンしたのは前々回の記事で触れた通り)。その代役として駆り出された人達、C面2曲目にカルロス・サンタナ、3曲目にエルヴィン・ビショップの演奏が収録され、また本作に収録こそされませんでしたがスティーヴ・ミラーもそのステージに立ったそうです。

 

 

 


アル・クーパーの力量不足が語られる事の多い本作ですが、私はそうは思いません。超絶テクニックのキーボーディストとは言いませんが、それが本作のクオリティを下げているなどということは決してありません。クーパーはプレイヤーというよりはプロデューサーのスタンスで作品を創る人だったようで、「スーパー・セッション」「フィルモアの奇蹟」が共に成功したのもその辺りが大きな要因の一つだったように思われます。

本作の魅力はやはり全編を通して(勿論先述した不在時の曲を除き)ブルームフィールドの素晴らしいギタープレイにあります。そのフレーズ・音色は神がかっていると言えるほど。この時期がプレイヤーとしてのピークであったことは間違いありません。クラプトンが彼のプレイに嫉妬した程だというのが頷けます。同時期のクラプトンのプレイ、つまりクリーム時代におけるそれは、良く言えばアグレッシヴ、悪く言えばブルームフィールドと比較して”とげとげしい”部分があるのは否めなかった様な気がします。ブルースにおける”色気”や”艶っぽさ”というものに関しては、ブルームフィールドに軍配が上がったとしか言いようがありません。クリームにはバトルの様なインタープレイが 求められていた、と言う面もありますが、クラプトン自身、ブルースフィーリングにおいてはブルームフィールドには敵わない、という自覚があったのでしょう。やがてクラプトンもそのバトルの様なインタープレイに嫌気が差し、アメリカへその活動の拠点を移したことは以前のクラプトン編で述べた通りです。

本作の収録(公演)が68年9月、同年12月にはフィルモアイーストでもコンサート及び収録が行われました。しかし当時は未発売に終わり、テープも長い間行方不明となっていましたが、後年になって再発見され、03年「Fillmore East: The Lost ConcertTapes 12/13/68(フィルモア・イーストの奇蹟)」としてリリースされました。ちなみに本公演ではまだ無名のジョニー・ウィンターがブルームフィールドの紹介によってゲスト参加する機会を得て、これを機に大手レコード会社と契約し、その後スターダムへとのし上がっていきます。ここではそのナンバーをご紹介。「It’s My Own Fault」。このチャンスをものにしようとするウィンターの血気溢れる歌とギターは素晴らしく、レコード会社間にて争奪戦が行われたというもの頷けます。ブルームフィールドも彼としては珍しく、瞬間的にはですが非常にスピーディかつ攻撃的なプレイが垣間見えます。やはりエネルギッシュなウィンターに触発されたのでしょうか。しかし根本的にはブルームフィールドらしいプレイです。一流のプレイヤー皆に言える事ですが、その時々のシチュエーションに沿いながらも自身のオリジナリティは決して失わないというスタイルは見事です。

サンタナもジョニー・ウィンターも(参加した経緯は異なりますが)、ブルームフィールドと関わったことにより、その後大成功を収めたのと相反して、ブルームフィールド自身はこの頃を境にその活動に陰りが出てきたというのも皮肉な話です。もっともそれは彼の薬物依存による側面が大きいので自業自得と言えばそれまでなのですが・・・

ブルームフィールドという人は決してフロントマン向きのプレイヤーではなく、ましてやエンターテインメント性に溢れた人とはとても言えない、まさしく”ギター職人”という表現がピッタリな人でした。どちらかと言えば静かに(演奏が静かという意味ではなく、プレスなどにあれこれ取材されたり、矢面に立たされないという意味で)ギターを弾いていたい、というタイプだったようなのですが、60年代の一連の輝かしいプレイがそれを許さず、周りは当然の様にあのすばらしいブルースギターを求め、勿論ビジネスとしての成功も望むわけですが、その周囲の期待や本人の葛藤などからますます薬へ逃避した様です。ブルームフィールドの人柄を表すエピソードを一つ。デビュー当初のサンタナは非常に”尖がっていた”そうで、「あんたをいつかつぶしてやる!」と言ってしまったそうです。するとブルームフィールドは、決して”大人の対応”などではなく、ニッコリ笑って、「君なら出来るかも。がんばってくれよ」と言ったそうです。サンタナはそれで虚勢を張っていた自分がアホらしくなったとのこと。当然サンタナは憧れ半分、その才能への嫉妬半分、といったところから出た言葉だったのは勿論の事、ブルームフィールドも若きサンタナの才能を認めて本心から出た言葉だったのでしょう。

81年2月、マイク・ブルームフィールドはヘロインの過剰摂取により亡くなります。駐車場で車内にて意識不明の状態で発見され、そのまま息を引き取ったとの事。享年37歳。70年代は様々な事情から(本人のドラッグ依存を含め)表舞台に出ることも少なくなり、作品のリリースもマイナーレーベルへ移行するなど、60年代の輝かしい活動と比べると寂しい晩年となってしまった感は否めません。
最後にご紹介するのは「If You Love These Blues,Play’em as You Please」(76年)から。実はこれ、米のギター専門誌による企画ものの”教則盤”。短いタイトル曲の上で本人が”このような機会を持てて嬉しい”という旨を述べ、様々なスタイルのブルースを演奏していき、曲間ではその解説をしているようです。英語が不得意なのであまり理解できないのが残念ですが、BBキング、ジミー・ロジャース、ジョン・リー・フッカーといった固有名詞や、「Eフラット」「フィンガーピッキング」「ギターとピアノのデュオ」など、単語の端々は聴き取ることは出来ます。
そのエンディングナンバー「THE ALTAR SONG」。レイドバックした演奏に乗せてブルームフィールドが、おそらくは彼が敬愛するギタリスト等の名を連呼していくという曲。私も全て聴き取れる訳ではありませんが、レイ・チャールズの名も出てくるので、ギタリストのみならず、彼が尊敬する、あるいは影響を受けたミュージシャン達を可能な限り列挙しているのではないかと思われます。当作品は本人も後年のインタビューにてお気に入りの一枚と語っているアルバムです。
本曲をご紹介してマイク・ブルームフィールド編後編を締めたいと思います。なお本動画において、「THE ALTAR SONG」自体は2:28辺りまで。残りの時間はUP主の方が編集した音源と映像から成っています。ブルームフィールドへの思いが伝わる動画となっており少しほっこりします。

#41 Super Session

前回のサンタナ編で少し触れましたが、アル・クーパーとマイク・ブルームフィールドを中心としたライヴ盤「The Live Adventure of Mike Bloomfield and Al Kooper(フィルモアの奇蹟)」の発端となったのが、68年5月(リリースは7月)に行われた、その名の通りセッション・ブームの走りとなった今回のテーマ「Super Session(スーパー・セッション)」です。
多分どなたも覚えておられないと思いますが…・(ノД`;)・゚・、
#31の記事からロック史においてエポックメイキングとなった、それらの影響を及ぼしたミュージシャン達を取り上げてきました。今回はそのテーマに沿っているかどうかは微妙ですが、その音楽の素晴らしさに免じてご容赦を。

マイク・ブルームフィールドは43年シカゴ生まれ。シカゴブルースの本場で育ったという事が彼の音楽性に大きく寄与しているのは言うまでもない事です。白人でありながら黒人のブルースマンとジャムセッションを重ねることで、その技術・感性ともに磨かれて行きました。ポール・バターフィールド・バンドへの加入が彼のキャリアの始まりであり、その直後におけるボブ・ディランの名盤「追憶のハイウェイ61」(65年)のレコーディングへの参加、及びライブにてバックバンドを務めたことが彼の名を世へ知らしめるきっかけとなります。バターフィールド・バンド、エレクトリック・フラッグ、モビー・グレープなどで活動し、68年、先述したディランのバックバンドを共に務めたアル・クーパーからセッションアルバム制作の話を持ち掛けられます。これこそがブルースロックの金字塔となる「スーパー・セッション」の誕生へと繋がります。

 

 

 


オープニングナンバー「Albert’s Shuffle」の出だしのフレーズでまずノックアウトされます。私が知る得る限り白人ミュージシャンによる、これ程までにブルースフィーリングに満ち溢れた名演は本曲を含めごくわずかしかありません。ブルームフィールドは凄く速く弾いたりするプレイスタイルではありませんが(多分やれば出来るのだけれどあえてやらなかったのではないかと勝手に思っています)、その”歌わせ方”は天下一品です。以前エリック・クラプトン編の最後(#12)でも少し触れましたが、イギリスのクラプトン、アメリカのブルームフィールドと、天才的白人ブルースギタリストとして良く比較されたこの二人。私見ですが、ブルースフィーリングに関してはブルームフィールドの方が上だったのではないかと思っています。これがシカゴで生まれ育ったという事がイギリス生まれのクラプトンよりアドバンテージとして働いたのか、はたまたそんな事は関係ない天賦の才であるのか、考察すると興味が尽きません。答えは永遠に出ないでしょうが・・・

フィーリングと言うと曖昧なのでもう少し具体的に言えば、○所謂”コブシ”の効かせ方(ビブラートやチョーキングのかけ方)○ピッキングによるヴォリュームのコントロールは勿論の事、そのニュアンス(ピックを弦にどの様に当てるのか等)○左手のフィンガリング(滑らかに運指するのか、あえてスタッカート気味にぶつ切り的な音にするのか、等々)”フィーリング”、言い換えればギター演奏による”歌心”というものを具体的に列挙すれば上の様な要素ではないでしょうか、勿論これ以外のテクニックもありますし、あとは何よりプレイヤーの”ハート”と”ソウル”であることは言わずもがなです。ちなみに念の為に記しておきますと、ブルームフィールドの演奏はA面のみ、レコーディング2日目は参加せず(バックレたそうです…)、急遽スティーヴン・スティルスが代役として演奏し、それらはB面に収録される事となりました。勿論スティルスのプレイも素晴らしいものです。「フィルモアの奇蹟」3日目にダウンしてしまい(不眠症による)、サンタナが参加することになったのは前回の記事で触れましたが、ブルームフィールドという人はメンタルが弱い人だったらしく、それがドラッグへの逃避の原因の一つだったようです。この辺りはクラプトンと相通じるものがあります。

今回はマイク・ブルームフィールド編前編として、2曲をご紹介して締めたいと思います。次回は勿論「フィルモアの奇蹟」及びそれ以降についてです。コロムビアレコードのオーディションテープより、後年になってリリースされた音源から「 I’m A Country Boy」。若干二十歳のブルームフィールドによる演奏です。そのブルースフィーリングは既に卓越されたものです。

もう一曲は先述の「Albert’s Shuffle」。本作の、というよりブルームフィールドのキャリアにおけるベストプレイだと私は思っています。