#43 Purple Haze

#31から続けてきました、60年代後半~70年頃にかけてのロック史において、エポックメイキングとなった音楽をご紹介してきた本テーマを締めくくるのは勿論この人、ジミ・ヘンドリックスです。
(でも、どうせ、こんなテーマ誰も覚えてないですよね…覚え…て…ない……かな………
……(/д\)゜o。……)

42年シアトル生まれ。母親がインディアン、父親の祖母もインディアンであって、この事が彼の音楽性(歌詞を含め)に少なからず影響を与えたと言われます。軍隊を除隊した後、本格的な音楽活動を始めます。リトル・リチャードのバンドに参加していた事は有名ですが、キング・カーティスのバンドにも一時身を置いていました。ここでジミはコーネル・デュプリーと短期間ではありますが活動を共にします。ロック史を塗り替えるようなギタースタイルを確立したジミと、派手さは決してないがいぶし銀の様な職人技ともいえるデュプリー。プレイスタイルもおよそ全く違うこの二人の名ギタリストに接点があったのは意外ですが、生まれ年も同じ彼らはすぐに仲良くなり、ジミはデュプリーからインプロビゼーション(即興演奏)を学んだと言われています。しかしジミのあまりの”自由奔放さ”からカーティスは数ヶ月でクビにしてしまいます。
・・・(´Д`)
Music web page “Cross Your Heart”さんのサイトにて、その辺りについて詳しく書かれています(
)。特に①のページにて、ウィルソン・ピケット、パーシー・スレッジといった当時のR&B・ソウルにおける大物シンガーのバックにて演奏を務めている大変貴重な写真が掲載されています。興味のある方は是非一読を。

業界内ではジミのプレイは噂になる程だった様なのですが、如何せん黒人のセッションギタリストという立場では、R&B畑で如何に活躍しても一般的知名度には限度があります。黒人シンガーであってもビルボードのR&Bチャートではなく、ポップスチャートの上位に入るような人達がいなかった訳ではありません。スティーヴィー・ワンダー、シュープリームス、ロネッツなどはR&B・ソウルのフィールドにいながら白人層にも受け入れられました。しかし、ジミが目指していた音楽性はおよそそれらとはかけ離れたものでした(ちなみにスティーヴィーも60年代の自身の音楽は必ずしも望むものとイコールではありませんでした)。それどころか既存のR&B等のブラックミュージックにもとても収まり切るものでもなかったのです。この当時、アメリカで活動している限りはその地位に大きな変化はなかったと思われます。

そんな折、ジミの運命を変える人物との出会いがありました。全米ツアー中のアニマルズのメンバー チャス・チャンドラーです。ジミの噂を事前に仕入れていたチャスは、当時ジミがリーダーを務めていたバンドを観に行きます。そこで大変な衝撃を受けたチャスはジミへ熱心に渡英を勧めます。丁度自身のミュージシャンとしての限界を感じていたチャスは、音楽界の裏方として生きていこうと思っていた矢先でした。当然ジミは二つ返事で了承した訳ではありませんでした。イギリスで果たして自分の音楽が受け入れられるのかどうか、始めは疑心暗鬼だったとの事です。今の様に海の向こうにおける音楽事情でも詳しく知る事が出来る様な時代では当然ありません。不安がるジミでしたが、アメリカにいたジミでもその名を知る在英のブルースギタリストがいました。言わずと知れたエリック・クラプトンです。ヤードバーズやブルース・ブレーカーズにて既に知名度のあったクラプトンの事はジミも一目置いていたようです。ジミはチャスにイギリスへ行ったらクラプトンに会わせてくれるか?と尋ねます。チャスは「君のプレイを聴いたら彼の方から会いに来るよ」と言ったそうです。

チャスの目に狂いはありませんでした。ノエル・レディング(b)とミッチ・ミッチェル(ds)をそのメンバーとし、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成させます。渡英した翌月の66年10月からすぐにも活動を開始。デビューシングル「Hey Joe」は全英6位の大ヒット。この時期、ロンドン中のミュージシャン達がこぞってジミを観に来ていたと言っても過言ではないほどにそのプレイは衝撃を与えたそうです。以前ピート・タウンゼントがある映像の中で、ジミについて語ったインタビューにおいて、初めてジミの演奏を観たピートはそのショックのあまりすぐにクラプトンへ電話をして、「とんでもない奴が現れた、俺たちギタリストは全員失業する。奴は宇宙人だ。」と言ったそうです。「Hey Joe」は実はジミのオリジナルではありません。最初にレコーディングしたのはLeavesというL.A.のバンドです。YouTubeで聴けますので興味のある方は。所謂、Aメロ・Bメロ・サビといった一般的な楽曲の展開はせず、4小節の繰り返しという単純な構成。コードも5つだけ。Leavesのヴァージョンと比べると一聴瞭然ですが、ストレートなロックフィールに対し、ジミ版は妖しげ(サイケ)で、かつヘヴィーな仕上がりとなっています。ビートが違うのと、ジミは単調なコード進行である原曲にテンション感を与える事によって(本曲においては9th〔ナインス、9度の音〕の混ぜ具合による)、当時としてはワンアンドオンリーな楽曲へ仕立て上げています。

ジミは自分の歌に全く自信をもっていなかったそうです。チャスはそのシンガーとしての実力にも早くから気付き、ジミを説き伏せヴォーカルを取らせたそうです。白人2人を従えて黒人のギタリスト&シンガーというバンド。アメリカではまず成功しなかった、というよりデビューすら実現出来なかったかもしれません。イギリスにも人種差別が全くないわけではなかったでしょうが、他の事には非常に保守的といわれる英国ですが、こと音楽に関しては ”白いのも黒いのも関係ねえ!音楽が良ければイイんだよ!” と、特にアンテナの鋭い若年層に受け入れられました。

67年3月(米では6月)、2ndシングル「Purple Haze」をリリース。全英3位を記録。全米では65位とスマッシュヒットと呼べる程度でしたが、徐々にアメリカでの、つまり世界へ向けての成功の足掛かりを固めつつありました。そしてあの伝説的ステージとなるモンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演となる訳ですがその辺りはまた次回にて。

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