#48 Summer of Love

#31から続けてきました、60年代後半から70年頃にかけてエポックメイキングとなったロックを取り上げてきたテーマは前回をもって終了しましたが、今回はそのオマケ編。”サマー・オブ・ラブ”と呼ばれる67年夏にサンフランシスコを中心に起こったムーヴメントがありました。現在から振り返るとかなり極端な文化的・政治的主張や価値観であったりして、賛同出来るか否かは人それぞれですので、ここではそれについては触れず、ロックミュージックにおける同ムーヴメントに影響を与えた、またはそれに感化されて作られた音楽を軽く見ていきます。季節的にまったく真逆ですが、どうぞ全然気にしないでください。
え、クリスマス? ナニそれ? たべられるモノ???(´・ω・`)???


スコット・マッケンジー「San Francisco」。超ベタなとこですが、そのものずばりのタイトル、
同ムーヴメントの象徴とされる楽曲。お次はリリースこそ65年12月と若干遡りますが、ウェストコーストにおけるフォーク・ロックの象徴的楽曲 ママス&パパス「California Dreamin’(夢のカリフォルニア)」。ちなみに先のスコット・マッケンジー「San Francisco」はジョン・フィリップスの作。

2曲続けてベタベタなとこから始まりましたが、これまた超ベタなやつ。というより今回はほとんどベタなのしかありません。”シスコサウンド”の象徴的存在であったジェファーソン・エアプレイン「Somebody To Love(あなただけを)」。

#31で触れましたが、ロックにおいて最初のサイケデリックナンバーとされる(勿論人によって諸説あり)バーズの「Eight Miles High(霧の8マイル)」。

こちらは#2で書きましたが、名盤「ペット・サウンズ」の後、世界一有名な未完のアルバム「スマイル」に収録されるはずだった(本作の各トラックは、この曲をはじめその後の作品にてバラバラに採用されていますが)ビーチ・ボーイズ「HEROES AND VILLAINS(英雄と悪漢)」。「スマイル」が04年にブライアン・ウィルソン名義で日の目を見ることも#2の記事にて述べた通り。

続いてはイギリス勢。67年と言えばビートルズ「サージェント・ペパーズ」ですが、ここではその前作「リボルバー」よりビートルズ初のサイケデリックナンバーとされるTomorrow Never Knows」。

#25から#28にてピンク・フロイドは取り上げましたが、プログレッシヴロックの雄とされるフロイドもデビュー当初はサイケデリックロックバンドの急先鋒でした。ロンドンにおけるアンダーグラウンドシーンの中心地であった伝説的存在であるUFOクラブにて、ライティングを駆使した独自のステージを繰り広げていました。ここではデビュー作「夜明けの口笛吹き」より「Astronomy Domine(天の支配)」。

エリック・クラプトンは#8~#12で書きましたが、伝説的ロックトリオであるクリームも時代の影響を受けてサイケ色からは逃れられませんでした。デビュー曲「I Feel Free」。曲自体は真面目に作ったのかどうか疑わしいような曲ですが、クラプトンのギターソロだけはとにかく素晴らしいの一言。

お次はムーディー・ブルース。ピンク・フロイドやプロコル・ハルムと共に、プログレの黎明期を支えた存在。言うまでもなく「Nights In White Satin(サテンの夜)」。

最後は”カンタベリー・ロック”の礎を築いたソフト・マシーン。ハットフィールド・アンド・ザ・ノース、ナショナル・ヘルスなどにより、イギリス南東部のカンタベリーをその中心地として、後にフュージョン(クロスオーヴァー)とは一線を画する独自のジャズロックを創り上げました。80年代、日本においてこの様なジャンルはまったくと言って良い程見向きもされませんでしたが、90年代以降徐々に認知度が上がってきたようです。オシャレでポップ(軽佻浮薄とも言う)な80年代にはこれに限らず、少しマニアックなジャンルを聴いているだけで、「ネクラ」とか「オタク」とか言われたものですが、オタクという呼称が必ずしも蔑称ではなくなってきた様に、ロックに限らずマニアックなものが認められるようになってきたのは、オジサンからすると大変良い時代になったものです。今の30代以下の方たちは、物心ついた時から基本的にずっと不景気の世の中で育ったと思いますが、逆にバブル世代以前の連中(私も含めた)よりもよほど文化的アンテナが鋭いのではないかと思っています。ゆめゆめ”最近の若いもんは…”などと言っては失礼です。むしろ”まったく最近のオッサンは…”という言葉こそこれからは使われるべきでは・・・。

以上駆け足で見てきましたが、先に述べた通り今回は前回まで続いてきたテーマのオマケ編、もしくは補完編とでもいうものでした。あ、そうそう、別に全然大したことではないのですが、今年の記事はこれにて最後です。別に年が変わるのにあまり意味はないので。それでは、またノシ

#47 The Cry of Love

69年8月に開催されたウッドストック・フェスティバルにて、ジミ・ヘンドリックスは大トリを務めます。その事実が当時、ジミの人気が如何ほどであったかの何よりの証明でしょう。もっとも悪天候等の為、大幅にプログラムが遅れてしまい(予定の翌朝)、ジミのステージが始まる前に帰ってしまった人が多かったというのも有名な話です。同年12/31から1/1にかけてフィルモアイーストにて公演。この模様を収録したのが前回の記事でも述べたアルバム「バンド・オブ・ジプシーズ」です。当初はスタジオ盤を目論んでいたのが、思う様な出来にならず、苦肉の策としてライヴ盤をリリースしたとの事。バンド・オブ・ジプシーズはメンバー間の不和、及びジミがますますドラッグに依存するようになっていった事などから短命に終わります。
ベースのビリー・コックスはそのままに、ジミは再びドラムにミッチ・ミッチェルをイギリスより呼び寄せ新バンドを結成。『クライ・オブ・ラヴ・ツアー』と称してアメリカツアーに出ます。7~8月にハワイのマウイ島及びホノルルでのステージをもって当ツアーは終幕。そのままイギリスのワイト島を皮切りにヨーロッパツアーに向かいます。
70年9月18日、ロンドンのホテルにてジミ・ヘンドリックスは亡くなります。享年27歳。大量のアルコールと睡眠薬を摂取し、睡眠中におう吐物を詰まらせての窒息死でした。ジャニス・ジョプリン同様にその死については、ゴシップ誌などによって無い事無い事書き立てられ、トンデモ話にまで発展したりするのですがくだらないので当然省きます。

 

 

 


ジミの死後も続々とアルバムがリリースされますが、よほどのマニアでなければ訳が分からなくなる様な乱売ぶりです。エンジニア エディ・クレイマー、ジミの遺族(後に財団を設立)、敏腕(悪徳?)マネージャー マイク・ジェフリー、プロデューサー アラン・ダグラスなどが様々な形で関わり、ライヴ及びスタジオ録音の未発表音源が作品化されたのは周知の通りです。ここでは取りあえず主要なものだけ。71年3月「The Cry of Love」 4枚目のスタジオ盤となるはずだった作品。ジミが設立し、その死の直前に完成したN.Y.のエレクトリックレディスタジオにてほとんどのトラックが収録されています。オープニングナンバー「Freedom」はジミの新境地を感じる事が出来る楽曲で、もし亡くならなければその後のジミの方向性はこの様な音楽だったのではなかったかと。バラード「Angel」は亡き母を夢に見たときにインスパイアされて作った曲。97年に本作は他アルバムに既収録の楽曲と共に再編集され「First Rays Of The New Rising Sun」としてリリース。現在はこちらで聴くのが容易。
ライヴ盤と言えば「バンド・オブ・ジプシーズ」を除くと、私のリアルタイム(80年代)ではワイト島か「Hendrix in the West」でした。今でも押入のダンボール箱を漁ればLPレコードが出てくるはずです(プレーヤーが無いから聴けないですけど・・・)。本盤で有名なのは「Johnny B. Goode」と「Sgt. Pepper’s」でしょう。「Johnny B. Goode」は70年5月バークレイ・センターでの演奏。バックのプレイとイマイチ合ってなかったりするのですが、その勢い・パワーは素晴らしいの一言。「Sgt. Pepper’s」は言わずと知れたビートルズナンバー。
幻に終ったマイルス・デイヴィスとの共演作、及びそこでポール・マッカートニーへ参加を依頼していた事については前回の記事で触れましたが、ジミとポールはお互いを尊敬し合っていました。イギリスでジミの噂が広まり始めた頃からポールは頻繁にそのステージを観に行っていたそうです。ジミのモンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演にポールの後押しがあった事は有名ですが、ママス&パパスのジョン・フィリップスからモンタレー出演を打診されたポールでしたが、レコーディングで多忙の為それは断り、「その代わり今イギリスで凄い奴がいる、そいつを押すよ、ジミ・ヘンドリックスだ」と言うと、フィリップスは「誰それ?」という反応だったとの事。モンタレー以前のアメリカにおけるジミの知名度とはそういうものだったそうです。

アメリカのローリング・ストーン誌が03年に”歴史上最も偉大な100人のギタリスト”という企画を行いました。ジミはその第1位に選出。11年の改訂版でも同じく。余談ですが2位はクラプトンかと思いきや、デュアン・オールマン。3位がB.B.キングでクラプトンは4位、だったと思います…
この選出基準が良いか悪いかは人それぞれでしょう。そもそも順位を付ける事に意味があるのかどうかも。しかしジミ・ヘンドリックスという存在がその死後数十年を経過した世でも、大変な影響力を与えて続けている事の証にはなるかと思います。

ジミヘンって良く名前聞くけど何が凄いの?と、尋ねられたらどう答えるでしょう。一言や三行で語りつくす事は不可能です。だからと言って「ジミのプレイには他者には無い魂があるのさ」とか、テキトーな言葉で済ますのも、曲がりなりにも音楽に関わっている者の端くれとしてミジンコ並みの自尊心が許しません。既述のものもありますが列挙してみます。
①最も特徴があるのはインプロヴィゼイション(即興演奏)であるのは言わずもがなでしょう。ブルースをルーツとするのは他のロックギタリスト達と同様ですが、インド音楽・スパニッシュ・ジャズetc…と、全く躊躇なく貪欲に様々なスタイルの音楽を取り入れ、それを自分なりに消化しそれらのフレーズ、及び常人では考えも付かない、または考えたとしてもそれまでの音楽的常識ではプレイするのは気が引けるような大胆なフレーズでも気後れすることなくプレイ出来た事。これは紙一重です、凡人がやれば駄演になるところを天才が演ると名演になるのでしょう。
②そのプレイと同じ位に特徴的だったのはエフェクターを始めとした機材の扱い方です。ファズ・ワウペダル・オクタヴィア等のエフェクター類を駆使し、独自のサウンドを作り上げ、後のロックギターの道筋を示したと言えます。現在では当たり前の様に思われていますが、瞬時にして音色を180度切り替えて
場面場面にて変化をつけるような演奏は、60年代末にジミやジェフ・ベックなどによって行われてから広まった事であり、それまではこれ程までに頻繁かつ大胆なトーン・コントロールはなされませんでした。そしてそれは他の楽器では基本的には不可能なことです(エレキギター以外ではシンセサイザーくらいでしょうか)。また#29でも触れましたが、ストラトキャスターというそれまで全く人気の無かった楽器を、トレモロアームをはじめとして、こんな使い方があったのか!と製作した側をも驚愕させるような可能性を見い出させました。
③ノイズでさえ音楽にしてしまった。②と少し被るかもしれませんが、フィードバック奏法などプレイによるもの、及び録音技術を駆使した特殊効果的なものまで併せて、意図的さらには自然偶発的なものまで含んでノイズをも音楽の一部として取り込んでしまった。
④ステージアクト。モンタレーでのステージが何よりも良い例ですが、暴力的な、またはセクシャルなパフォーマンスが当時のオーディエンスの度肝を抜いた。
⑤私はまったく疎いのですが、当時のロックにおける
ファッションリーダー的役割も担っていた様です。モンタレーやウッドストックでのステージ衣装を典型として、様々なフォトで見る事が出来る衣装・アクセサリー・ヘアスタイルなどは斬新で当時の若者達に強い影響を与えたそうです。

上の全てがジミによって初めて、という訳では決してないですし、以前の記事でも書きましたが当時のロックギタリスト達の中でジミが技術的に最も優れていたという事でもありませんでした。しかし60年代後期から70年にかけて、ロックミュージックにおける音楽性の転換期に、これらの革新性を全て持ち合わせ、なおかつ商業的に成功した稀有なミュージシャンだったのではないでしょうか。それを可能にしたのは何より”わかり易かった”、言い換えれば感情の根源に訴えかけてくるフレーズやトーンだったというのが大きいでしょう。ポピュラーミュージックにおいてはある意味最も重要な事です。いくら革新的・音楽的に充実した内容ではあっても、一部の玄人にしか理解してもらえない、というものでは成立しません。
ビートルズが3分のR&R・ポップソングをより深遠なロックへと深化させ、マイルス・デイヴィスがストレートアヘッドなジャズからフュージョン(クロスオーヴァー)へ、新しいジャズミュージックの可能性を指し示し、ジミ・ヘンドリックスはエレクトリックギターという楽器の新たな可能性を見い出させたのです。”ポピュラーミュージック維新”とも言えたこの時代のエポックメイキングなミュージシャンの一人であり、それがいまだに神格化される理由でしょう。

ジミはその死の直前に、ロンドンにあるチャス・チャンドラーの家を訪ねています。チャスがジミの下を去った後も、ジミはチャスに戻ってきて欲しいと頼んでいたそうなのですけれども、先述のマイク・ジェフリーとソリが合わず、その時は断ったそうなのですが、ジミがチャスの子供に会うという名目で来訪した時には、また一緒にやろうと約束したとのこと。それがジミが亡くなる前々日の事だったそうです。「ロックの歴史を追いかける」というサイトにてチャスのインタビューが載っており、亡くなる前日の大変貴重な写真も掲載されています(コチラ)。当サイトは他にも非常に興味深いロックにまつわるブログが掲載されています(私もちょくちょく読ませて頂いております)。
一時期は調子に乗ってしまい袂を分かつようになってしまいましたが、やはり自分を育ててくれた、兄貴分のような存在のチャスを頼りにしていたようです。またノエル・レディングにもまた一緒に演ろうと持ち掛けていた、という関係者の証言もあり、破天荒な言動が取り上げられる事の多いジミでしたが、実は人間くさい、寂しがり屋の一面もあったというのが少し微笑ましいです。

以上をもって5回に渡ったジミ・ヘンドリックス編は終了です。まだまだ書きたいエピソード、例えばエリック・クラプトンとの友情など、いくらでもあるのですが、それはまたの機会に。

#46 Electric Ladyland

一応現在ではそれなりに洋楽に関する知識はある方だと自負しておりますが、ジミ・ヘンドリックスを聴き始めたのは、洋楽ロックを聴き始めてまだ2~3年の中学生の時分だったと記憶しています。まだ洋楽に対する”免疫力”の弱かった当時の私にはそのアルバムの、多くの外国人女性達が裸で床に座り込み、又は横たわりながら不敵な笑みを浮かべるジャケットデザインは大変なインパクトがありました。決してカマトトぶる訳ではありません。ヌードもそれまで見たことが無いなどというつもりはありませんし、性への目覚めも既に済んでいました(威張って言うことじゃないな・・・)。しかしそのジャケットはリビドーを刺激するというより、とにかく妖しげで何だか怖い、という印象でした。そのアルバムとは今回のテーマである3rdアルバム「Electric Ladyland」です。ちなみにそのジャケットは英国版(日本版も)仕様で、米国版はジミの顔写真を加工したもの。ジミはそのヌードジャケットを嫌っていたと言われており、現在では本作のジャケットは米国版のそれに統一されています。ピーター・バラカンさんも当時はこのジャケットが嫌で本作を買わなかったと仰っています。”免疫力”の弱かった私もジャケットの印象に引きずられ、音楽自体も何か禍々しい、聴いてはいけないものを聴いてしまったような気がした記憶があります。しかしその1~2年後にはもっともっとディープな音楽を聴きあさるようになり、すっかり免疫力のついた私はその中身も普通に聴けるようになりました。あっ、一応念の為言っときますけど、決して女性の裸は散々見慣れたから、とかそういう事ではないですからね!………
ほほほ、本当です! し、信じて下さい ゜。(゜Д゜;)≡(;゜Д゜)・。゜・・・・・

 

 

 


68年10月発表の二枚組アルバムである本作は、初の全米1位、全英でも6位と大ヒット。前2作よりもセッション色が濃くなった本作、豪華なゲストミュージシャンも目立ちます。本作において、特に重要なナンバーは「Voodoo Chile(ヴードゥー・チャイル)」とボブ・ディラン作の「All Along the Watchtower」でしょう。オリジナルを見事なまでの大胆なアレンジでカヴァーし、ディラン本人からも称賛されたこのナンバーはシングルカットされ全米20位まで昇りつめています。ちなみにジミのシングルでは全米で最もチャートアクションが良かったシングル。20位というとそれ程のヒットでは?…と、思われる方もおられるかもしれませんが、シングルに重きを置いた商業戦略を取らなかった事、及びジミが黒人であった事、つまり当時はまだ一部を除いた黒人ミュージシャンは(R&Bの専門局等を除いて)ラジオ・TVではオンエアさせない、という風潮がまだまだ残っていた事から鑑みると十分なヒットでした。もっともジミは”ロック”として白人寄りの扱いでしたので、オンエアされていた方と言えるでしょうが。「ヴードゥー・チャイル」は長尺のスタジオライヴ版と、スライトリターンの2テイクを共に収録。長尺版ではスティーヴ・ウィンウッドとジェファーソン・エアプレインのジャック・キャサディが参加。曲中にて聴こえる拍手と歓声はスタジオに居合わせたスタッフのものだそうです。スライトリターンはジミの代表曲の一つになっています。ジミを敬愛して止まなかったスティーヴィー・レイ・ヴォーンによるカヴァーでも有名です。長尺版においてはJ・キャサディがベースを弾いていますが、これはノエル・レディングが怒ってスタジオを出て行ってしまった為。当時の関係者の証言によると、スタジオはジミが連れてくる人で溢れかえっていて、それはセッションではなくパーティーの様だったとの事です。増長したジミの振る舞いにノエルやプロデューサー チャス・チャンドラーの不満は増加していきました。大勢の取り巻き連中をスタジオへ連れてきて、とりとめのない演奏の様な事をして過ごし、挙句が一曲も仕上がらないといった日々が続き、とうとうチャスはジミのマネージメント・プロデュースを降りてしまいます。本作はセッション色が強くなり、多額の費用・膨大な時間を費やしたアルバムと説明されますが、実はかじ取り役であるチャスが途中で降板し、まとめ役がいなくなった結果、無駄に時間及びスタジオ代がかさんだという側面もあるようです。

やがてエクスペリエンスは解散。ジミは軍隊時代に同僚だったビリー・コックス(b)、及びバディ・マイルス(ds)とバンド・オブ・ジプシーズを結成し、70年3月に生前としては最後のアルバムとなる同名の「Band Of Gypsys」を発表します。これには前回の記事で書きましたPPXレーベルとの契約消化の絡みもあったのですが詳しくは割愛。ウィキ等でご参照の程。

結構有名な話ですが、ジャズトランぺッター”帝王”マイルス・デイヴィスがジミの才能に惚れ込み、ラブコールを送っていたと言われています。これには異説もあり、確かにジミの事を気に入ってはいた様だがマイルスはそれ程でもなかった、とする人もいます。真相は判りませんが事実とされているのは以下の事です。
①二人には交流があり少なくともマイルスの家で音合わせはしていた
②69年10月にジミがポール・マッカートニーに”今度マイルス達とアルバムを制作するのでベースを担当してくれないか”という旨の電報を打っている(実現はせず)
③この当時マイルスは常々共演したギタリストに対して「ジミの様に弾け」と語っていたこと
④ジミの葬儀にマイルスが参列している事(マイルスは本人がインタビューで語っているが、葬儀に出席するのが嫌いだったにも関わらず)。
60年代後半からマイルスは従来のジャズとは異なるエレクトリックジャズ・フュージョンへ傾倒していきます。モードジャズ(詳しくはウィキ等で。ザックリと言えば素材の楽曲のコード進行等はお構いなしに、最低限の約束〔音階〕さえ守れば自由にアドリブ〔即興演奏〕していいよ、みたいな)の先駆者であるマイルスにしてみればジミのプレイは自分の望むそれに大変合致したプレイヤーだったようです。正規の音楽教育など受けていないジミは、先述した音合わせの際にマイルスがピアノで弾いたコードが何であるのかは判らなかったが、その音の中でプレイすればいいんだね、と延々ソロを弾き続けマイルスを満足させたと言われています。マイルスから見れば旧態依然としたジャズ界、つまりエレクトリックはダメ、ロックのリズムなどもっての外、という凝り固まった考えに終始し世間から見放されていくジャズより、音楽理論や技術的には劣っていても、エネルギッシュでグルーヴ感に溢れたロックの方が、そのファッションなども含めて魅力的に感じたのでしょう。

ジミは譜面を殆ど読めなかったと言われているのは先述した通りですが、当時のロックミュージシャンには特別珍しいことではありません。ブルースをルーツとするその音楽性から必然的にマイナーペンタトニックスケールに基づくフレージングが主となり、少ない音・和音でもって、力を注ぐべきベクトルは如何にその中に感情表現を込められるか、というものでした。それは理論など知らなくても出来、プロアマ問わず多くのブルース及びロックミュージシャンがそうでした。ジミもブルースがそのルーツであり、必然的にマイナーペンタが主になるのは同様なのですが、それだけでは満足出来なかったのでしょう。インド音楽等の東洋的音階からスパニッシュ(フラメンコ)まで、独自にそのフレージングに取り込んでいきました。譜面の読めなかったジミがこれらを取り入れる事が出来たのは、それらを聴き取り又再現できる、ひとえにその耳の良さがあったからと言われています。この事から、ジミヘンは一度も練習したことがないフレーズでも本番で弾けたとか、ひどいのになると初めてギターを手にした日から既に弾けた、などというトンデモ話が昔は飛び交っていたものですが、絶対にそれはないと断言出来ます。当たり前ながら練習してない事はいかに天才であっても出来ないのです。出来たように聴こえても、それはそれまでの積み重ねが有機的に組み合わさって新しいフレーズの様に聴こえたのです。アドリブで出てくるのはそれまで練習してきた、指・手足に染み込んだフレーズ達なのです。優れたアドリブプレイヤーとはそのフレーズの”引き出し”を数多くストックし、そこから瞬時に思った(感じた)フレーズを取り出せる様になる、という鍛錬をしてきた人達です。ジミの場合は音楽教育を受けなかった故にかえって既存の音楽的常識に縛られず、自由にフレーズを作り上げることが出来、そうしてため込んだ”引き出し”から天才的なセンスで時にオーソドックス、時に誰も考えつかない様な良い意味での横紙破り的なシンプルかつ大胆なフレージングを展開する事が出来たギタリストであったのではないでしょうか。

だいぶ長くなってしましました。これでも書きたい事のほんの一部だけなのですが、あまり長いとただでさえ少ない読者の方がさらに少なくなってしまうので…
… 。゜ (´;ω;`)゜。… 今回はこの位で・・・
勿論次回はウッドストックへの出演から、その突然すぎる死までについて書くつもりです。それではまた。

#45 Axis: Bold As Love

前作からわずか半年あまりでリリースされたジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの2ndアルバム「Axis: Bold As Love」。一般的な評価としては衝撃的なデビュー作、重厚な2枚組である3rdより、良く言えばメロディック・親しみやすいと言われ、悪く言えばインパクトに欠ける・軽い・緩いとされています。評価はそれぞれですが、着目すべきは先述の通り短期間にて、しかもレコーディングに専念出来ていた訳でもなく(むしろモンタレー以降あちこち引っ張りだことなりました)、それでありながらこれだけの完成度を誇るアルバムを完成させた事でしょう。時間的余裕が無かったからと言って、決しておざなりな制作となった訳ではなく、むしろ気が付かないところで手が掛けられていたりします。前作同様に、当時としては先進的なレコーディングテクニックが用いられており、事実、本作の収録曲は一部を除いて、コンサートで披露されることがまれだったという事実があります。その真意は分かりませんが、ライブでは再現が難しいという理由があったからではないかとの見方もあります。その制作に関しては、プロデューサー チャス・チャンドラーや、エンジニア エディ・クレイマーの力が大きかったようです。また、多忙の中で作られたことにより、かえってジミのナチュラルな面が引き出された、と見る向きもあります。そのギタープレイはもとより、ジミのシンガー及びソングライターとしての優れた側面が結果的に前面に押し出された、という評価もなされます。

 

 

 


オープニングナンバー「EXP(放送局EXP)」は架空の放送局という設定での、フィードバック等のサウンドエフェクトやステレオにおける左右の定位を変化させる”パンニング”などの当時としては斬新なレコーディングテクニックを駆使したサイケデリックナンバー。それに続く「Up from the Skies」はポップでサイケな曲。ジミが有名にしたといっても過言ではないエフェクター”ワウ・ペダル”が実に効果的に使われています。冒頭の2曲と、映画「イージーライダー」でも使用されたA面ラストの「If 6 Was 9」を聴く限りは、ジャケットデザイン通りの摩訶不思議でサイケデリックなサウンドですが、これら以外の楽曲は”意外と”普通です(決して凡庸という意味ではなく)。本作で最も知名度がある楽曲は言うまでもなく「Little Wing」でしょう。正統派R&B風バラードである本曲は、偉大なる先達たちの影響を受けて作られたと言われますが、特にカーティス・メイフィールドを意識して作られたのではないかとされています。コメントでもカーティスへの尊敬の念が語られており、実際ジミは63年にカーティス・メイフィールド&ザ・インプレッションズの前座を務めています。正統派の楽曲でありながら、サウンド面では非常に画期的なトライアルがなされており、今では当たり前である、ストラトキャスターのハーフトーン(2つのピックアップのミックス)が用いられています。当時のストラトにはピックアップセレクターにハーフトーンの位置など無く(そんな使い方は想定していなかった)、ガムテープでフロントとセンターの中間に固定してレコーディングに臨んだとのことです。また後半のソロにおける独特の”ゆらぎ”の様なサウンドは、ハモンドオルガンで有名なレスリースピーカー(回転スピーカー)によるもの。これはエディ・クレイマーのアイデアと言われています。余談ですが、私昔はレスリースピーカーとはスピーカーユニット(コーン紙の部分)が鳴門の渦潮みたいにぐるぐる回るのだと思ってました。実際はキャビネット・ボックス内にローターがあって、それが回転してあの様な効果をもたらすものだと知ったのはだいぶ後の大人になってからでした・・・バカですね。
(´・ω・`)
またタイトル曲においても同様の試みが、こちらは電気的にレスリー同様の音程・音量・音質のゆらぎを作り出す、当時としては最先端のエフェクターであったフェイザーが使用されています。後半のソロで用いられていますが、ギターでばかり語られていますけどドラムにもかかっています。70年代に入るとボンゾやカーマイン・アピスなどがドラムソロなどでこの様なサウンドエフェクトを使用しましたが、私が知る限りドラムにフェイザー・フランジャー等のエフェクトをかけたのは本曲が初めてではないかと思います。もしもこれより前に使っていたのを知っている、という方は教えてください。

「Wait Until Tomorrow」は堪らないほどのシャープなカッティングが印象的な曲。型破りなフレージングやサウンドエフェクトなどで語られる事の多いジミですが、この様な基本的なテクニックからして一流です。それもそのはず、アメリカでの下積み時代にはアイズレー・ブラザーズなどのバックで嫌というほどこうしたリズムギターを演ってきたのですから。本人はそれが退屈で、つい派手なソロを取ってしまって、バンマスから怒られたりしたそうですが・・・
「Castles Made of Sand(砂のお城)」は「The Wind Cries Mary」同様の、
ジミとしてはナチュラルでナイーヴなナンバー。テープの逆回転によるエフェクトが必要だったかどうかは人によって意見が分かれるところですが、この当時はそういう時代だったのでしょう。

本作も全英5位・全米3位の大ヒット、ますます多忙を極めます。68年初頭からヨーロッパで公演、2月にはアメリカへ舞い戻り、カルフォルニアから始まるアメリカツアーとなります。5月にはマイアミ・ポップ・フェスティバルへ出演。後年になって当フェスの演奏は音源化されます。また、あまり知られていない事かもしれませんが、この殺人的スケジュールの合間を縫って、ジミはエクスペリエンスバンドとは別の仕事もこなしています。実はアメリカ下積み時代の後期に、ジミはPPXレーベルという会社と3年の契約をしてしまいます。仕事もそれ程なかったので軽い気持ちでサインしてしまったようなのですが、これが後にジミへの負担の一つとなります。アメリカツアー中の当該レコーディングもその契約を消化するためでした。それらの音源は様々な形でジミの死後に、次から次へと未発表音源として出回る事になるのは周知の通りです。またこの頃からジミの内面に変化が生じます。エキセントリックなステージパフォーマンスなどより、自分のルーツであるブルースなどをじっくり聴かせるライヴにしたいと思うようになっていった様なのですが、聴衆が求めるのは相変わらずモンタレーのようなギターの破壊や派手なステージアクトでした。

また仲間内においても不穏な空気が流れ始めます。有名なところではベースのノエル・レディングとの確執ですが、育ての親であるチャスとの関係もおかしくなっていったそうです。簡単に言うとスーパースターになっていったジミが増長してチャスのいう事を聞かなくなっていったそうです。このような不協和音が流れる中、バンドは次作の制作へと取り掛かりますがその辺りはまた次回にて。