#46 Electric Ladyland

一応現在ではそれなりに洋楽に関する知識はある方だと自負しておりますが、ジミ・ヘンドリックスを聴き始めたのは、洋楽ロックを聴き始めてまだ2~3年の中学生の時分だったと記憶しています。まだ洋楽に対する”免疫力”の弱かった当時の私にはそのアルバムの、多くの外国人女性達が裸で床に座り込み、又は横たわりながら不敵な笑みを浮かべるジャケットデザインは大変なインパクトがありました。決してカマトトぶる訳ではありません。ヌードもそれまで見たことが無いなどというつもりはありませんし、性への目覚めも既に済んでいました(威張って言うことじゃないな・・・)。しかしそのジャケットはリビドーを刺激するというより、とにかく妖しげで何だか怖い、という印象でした。そのアルバムとは今回のテーマである3rdアルバム「Electric Ladyland」です。ちなみにそのジャケットは英国版(日本版も)仕様で、米国版はジミの顔写真を加工したもの。ジミはそのヌードジャケットを嫌っていたと言われており、現在では本作のジャケットは米国版のそれに統一されています。ピーター・バラカンさんも当時はこのジャケットが嫌で本作を買わなかったと仰っています。”免疫力”の弱かった私もジャケットの印象に引きずられ、音楽自体も何か禍々しい、聴いてはいけないものを聴いてしまったような気がした記憶があります。しかしその1~2年後にはもっともっとディープな音楽を聴きあさるようになり、すっかり免疫力のついた私はその中身も普通に聴けるようになりました。あっ、一応念の為言っときますけど、決して女性の裸は散々見慣れたから、とかそういう事ではないですからね!………
ほほほ、本当です! し、信じて下さい ゜。(゜Д゜;)≡(;゜Д゜)・。゜・・・・・

 

 

 


68年10月発表の二枚組アルバムである本作は、初の全米1位、全英でも6位と大ヒット。前2作よりもセッション色が濃くなった本作、豪華なゲストミュージシャンも目立ちます。本作において、特に重要なナンバーは「Voodoo Chile(ヴードゥー・チャイル)」とボブ・ディラン作の「All Along the Watchtower」でしょう。オリジナルを見事なまでの大胆なアレンジでカヴァーし、ディラン本人からも称賛されたこのナンバーはシングルカットされ全米20位まで昇りつめています。ちなみにジミのシングルでは全米で最もチャートアクションが良かったシングル。20位というとそれ程のヒットでは?…と、思われる方もおられるかもしれませんが、シングルに重きを置いた商業戦略を取らなかった事、及びジミが黒人であった事、つまり当時はまだ一部を除いた黒人ミュージシャンは(R&Bの専門局等を除いて)ラジオ・TVではオンエアさせない、という風潮がまだまだ残っていた事から鑑みると十分なヒットでした。もっともジミは”ロック”として白人寄りの扱いでしたので、オンエアされていた方と言えるでしょうが。「ヴードゥー・チャイル」は長尺のスタジオライヴ版と、スライトリターンの2テイクを共に収録。長尺版ではスティーヴ・ウィンウッドとジェファーソン・エアプレインのジャック・キャサディが参加。曲中にて聴こえる拍手と歓声はスタジオに居合わせたスタッフのものだそうです。スライトリターンはジミの代表曲の一つになっています。ジミを敬愛して止まなかったスティーヴィー・レイ・ヴォーンによるカヴァーでも有名です。長尺版においてはJ・キャサディがベースを弾いていますが、これはノエル・レディングが怒ってスタジオを出て行ってしまった為。当時の関係者の証言によると、スタジオはジミが連れてくる人で溢れかえっていて、それはセッションではなくパーティーの様だったとの事です。増長したジミの振る舞いにノエルやプロデューサー チャス・チャンドラーの不満は増加していきました。大勢の取り巻き連中をスタジオへ連れてきて、とりとめのない演奏の様な事をして過ごし、挙句が一曲も仕上がらないといった日々が続き、とうとうチャスはジミのマネージメント・プロデュースを降りてしまいます。本作はセッション色が強くなり、多額の費用・膨大な時間を費やしたアルバムと説明されますが、実はかじ取り役であるチャスが途中で降板し、まとめ役がいなくなった結果、無駄に時間及びスタジオ代がかさんだという側面もあるようです。

やがてエクスペリエンスは解散。ジミは軍隊時代に同僚だったビリー・コックス(b)、及びバディ・マイルス(ds)とバンド・オブ・ジプシーズを結成し、70年3月に生前としては最後のアルバムとなる同名の「Band Of Gypsys」を発表します。これには前回の記事で書きましたPPXレーベルとの契約消化の絡みもあったのですが詳しくは割愛。ウィキ等でご参照の程。

結構有名な話ですが、ジャズトランぺッター”帝王”マイルス・デイヴィスがジミの才能に惚れ込み、ラブコールを送っていたと言われています。これには異説もあり、確かにジミの事を気に入ってはいた様だがマイルスはそれ程でもなかった、とする人もいます。真相は判りませんが事実とされているのは以下の事です。
①二人には交流があり少なくともマイルスの家で音合わせはしていた
②69年10月にジミがポール・マッカートニーに”今度マイルス達とアルバムを制作するのでベースを担当してくれないか”という旨の電報を打っている(実現はせず)
③この当時マイルスは常々共演したギタリストに対して「ジミの様に弾け」と語っていたこと
④ジミの葬儀にマイルスが参列している事(マイルスは本人がインタビューで語っているが、葬儀に出席するのが嫌いだったにも関わらず)。
60年代後半からマイルスは従来のジャズとは異なるエレクトリックジャズ・フュージョンへ傾倒していきます。モードジャズ(詳しくはウィキ等で。ザックリと言えば素材の楽曲のコード進行等はお構いなしに、最低限の約束〔音階〕さえ守れば自由にアドリブ〔即興演奏〕していいよ、みたいな)の先駆者であるマイルスにしてみればジミのプレイは自分の望むそれに大変合致したプレイヤーだったようです。正規の音楽教育など受けていないジミは、先述した音合わせの際にマイルスがピアノで弾いたコードが何であるのかは判らなかったが、その音の中でプレイすればいいんだね、と延々ソロを弾き続けマイルスを満足させたと言われています。マイルスから見れば旧態依然としたジャズ界、つまりエレクトリックはダメ、ロックのリズムなどもっての外、という凝り固まった考えに終始し世間から見放されていくジャズより、音楽理論や技術的には劣っていても、エネルギッシュでグルーヴ感に溢れたロックの方が、そのファッションなども含めて魅力的に感じたのでしょう。

ジミは譜面を殆ど読めなかったと言われているのは先述した通りですが、当時のロックミュージシャンには特別珍しいことではありません。ブルースをルーツとするその音楽性から必然的にマイナーペンタトニックスケールに基づくフレージングが主となり、少ない音・和音でもって、力を注ぐべきベクトルは如何にその中に感情表現を込められるか、というものでした。それは理論など知らなくても出来、プロアマ問わず多くのブルース及びロックミュージシャンがそうでした。ジミもブルースがそのルーツであり、必然的にマイナーペンタが主になるのは同様なのですが、それだけでは満足出来なかったのでしょう。インド音楽等の東洋的音階からスパニッシュ(フラメンコ)まで、独自にそのフレージングに取り込んでいきました。譜面の読めなかったジミがこれらを取り入れる事が出来たのは、それらを聴き取り又再現できる、ひとえにその耳の良さがあったからと言われています。この事から、ジミヘンは一度も練習したことがないフレーズでも本番で弾けたとか、ひどいのになると初めてギターを手にした日から既に弾けた、などというトンデモ話が昔は飛び交っていたものですが、絶対にそれはないと断言出来ます。当たり前ながら練習してない事はいかに天才であっても出来ないのです。出来たように聴こえても、それはそれまでの積み重ねが有機的に組み合わさって新しいフレーズの様に聴こえたのです。アドリブで出てくるのはそれまで練習してきた、指・手足に染み込んだフレーズ達なのです。優れたアドリブプレイヤーとはそのフレーズの”引き出し”を数多くストックし、そこから瞬時に思った(感じた)フレーズを取り出せる様になる、という鍛錬をしてきた人達です。ジミの場合は音楽教育を受けなかった故にかえって既存の音楽的常識に縛られず、自由にフレーズを作り上げることが出来、そうしてため込んだ”引き出し”から天才的なセンスで時にオーソドックス、時に誰も考えつかない様な良い意味での横紙破り的なシンプルかつ大胆なフレージングを展開する事が出来たギタリストであったのではないでしょうか。

だいぶ長くなってしましました。これでも書きたい事のほんの一部だけなのですが、あまり長いとただでさえ少ない読者の方がさらに少なくなってしまうので…
… 。゜ (´;ω;`)゜。… 今回はこの位で・・・
勿論次回はウッドストックへの出演から、その突然すぎる死までについて書くつもりです。それではまた。

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