69年8月に開催されたウッドストック・フェスティバルにて、ジミ・ヘンドリックスは大トリを務めます。その事実が当時、ジミの人気が如何ほどであったかの何よりの証明でしょう。もっとも悪天候等の為、大幅にプログラムが遅れてしまい(予定の翌朝)、ジミのステージが始まる前に帰ってしまった人が多かったというのも有名な話です。同年12/31から1/1にかけてフィルモアイーストにて公演。この模様を収録したのが前回の記事でも述べたアルバム「バンド・オブ・ジプシーズ」です。当初はスタジオ盤を目論んでいたのが、思う様な出来にならず、苦肉の策としてライヴ盤をリリースしたとの事。バンド・オブ・ジプシーズはメンバー間の不和、及びジミがますますドラッグに依存するようになっていった事などから短命に終わります。
ベースのビリー・コックスはそのままに、ジミは再びドラムにミッチ・ミッチェルをイギリスより呼び寄せ新バンドを結成。『クライ・オブ・ラヴ・ツアー』と称してアメリカツアーに出ます。7~8月にハワイのマウイ島及びホノルルでのステージをもって当ツアーは終幕。そのままイギリスのワイト島を皮切りにヨーロッパツアーに向かいます。
70年9月18日、ロンドンのホテルにてジミ・ヘンドリックスは亡くなります。享年27歳。大量のアルコールと睡眠薬を摂取し、睡眠中におう吐物を詰まらせての窒息死でした。ジャニス・ジョプリン同様にその死については、ゴシップ誌などによって無い事無い事書き立てられ、トンデモ話にまで発展したりするのですがくだらないので当然省きます。
ジミの死後も続々とアルバムがリリースされますが、よほどのマニアでなければ訳が分からなくなる様な乱売ぶりです。エンジニア エディ・クレイマー、ジミの遺族(後に財団を設立)、敏腕(悪徳?)マネージャー マイク・ジェフリー、プロデューサー アラン・ダグラスなどが様々な形で関わり、ライヴ及びスタジオ録音の未発表音源が作品化されたのは周知の通りです。ここでは取りあえず主要なものだけ。71年3月「The Cry of Love」 4枚目のスタジオ盤となるはずだった作品。ジミが設立し、その死の直前に完成したN.Y.のエレクトリックレディスタジオにてほとんどのトラックが収録されています。オープニングナンバー「Freedom」はジミの新境地を感じる事が出来る楽曲で、もし亡くならなければその後のジミの方向性はこの様な音楽だったのではなかったかと。バラード「Angel」は亡き母を夢に見たときにインスパイアされて作った曲。97年に本作は他アルバムに既収録の楽曲と共に再編集され「First Rays Of The New Rising Sun」としてリリース。現在はこちらで聴くのが容易。
ライヴ盤と言えば「バンド・オブ・ジプシーズ」を除くと、私のリアルタイム(80年代)ではワイト島か「Hendrix in the West」でした。今でも押入のダンボール箱を漁ればLPレコードが出てくるはずです(プレーヤーが無いから聴けないですけど・・・)。本盤で有名なのは「Johnny B. Goode」と「Sgt. Pepper’s」でしょう。「Johnny B. Goode」は70年5月バークレイ・センターでの演奏。バックのプレイとイマイチ合ってなかったりするのですが、その勢い・パワーは素晴らしいの一言。「Sgt. Pepper’s」は言わずと知れたビートルズナンバー。
幻に終ったマイルス・デイヴィスとの共演作、及びそこでポール・マッカートニーへ参加を依頼していた事については前回の記事で触れましたが、ジミとポールはお互いを尊敬し合っていました。イギリスでジミの噂が広まり始めた頃からポールは頻繁にそのステージを観に行っていたそうです。ジミのモンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演にポールの後押しがあった事は有名ですが、ママス&パパスのジョン・フィリップスからモンタレー出演を打診されたポールでしたが、レコーディングで多忙の為それは断り、「その代わり今イギリスで凄い奴がいる、そいつを押すよ、ジミ・ヘンドリックスだ」と言うと、フィリップスは「誰それ?」という反応だったとの事。モンタレー以前のアメリカにおけるジミの知名度とはそういうものだったそうです。
アメリカのローリング・ストーン誌が03年に”歴史上最も偉大な100人のギタリスト”という企画を行いました。ジミはその第1位に選出。11年の改訂版でも同じく。余談ですが2位はクラプトンかと思いきや、デュアン・オールマン。3位がB.B.キングでクラプトンは4位、だったと思います…
この選出基準が良いか悪いかは人それぞれでしょう。そもそも順位を付ける事に意味があるのかどうかも。しかしジミ・ヘンドリックスという存在がその死後数十年を経過した世でも、大変な影響力を与えて続けている事の証にはなるかと思います。
ジミヘンって良く名前聞くけど何が凄いの?と、尋ねられたらどう答えるでしょう。一言や三行で語りつくす事は不可能です。だからと言って「ジミのプレイには他者には無い魂があるのさ」とか、テキトーな言葉で済ますのも、曲がりなりにも音楽に関わっている者の端くれとしてミジンコ並みの自尊心が許しません。既述のものもありますが列挙してみます。
①最も特徴があるのはインプロヴィゼイション(即興演奏)であるのは言わずもがなでしょう。ブルースをルーツとするのは他のロックギタリスト達と同様ですが、インド音楽・スパニッシュ・ジャズetc…と、全く躊躇なく貪欲に様々なスタイルの音楽を取り入れ、それを自分なりに消化しそれらのフレーズ、及び常人では考えも付かない、または考えたとしてもそれまでの音楽的常識ではプレイするのは気が引けるような大胆なフレーズでも気後れすることなくプレイ出来た事。これは紙一重です、凡人がやれば駄演になるところを天才が演ると名演になるのでしょう。
②そのプレイと同じ位に特徴的だったのはエフェクターを始めとした機材の扱い方です。ファズ・ワウペダル・オクタヴィア等のエフェクター類を駆使し、独自のサウンドを作り上げ、後のロックギターの道筋を示したと言えます。現在では当たり前の様に思われていますが、瞬時にして音色を180度切り替えて場面場面にて変化をつけるような演奏は、60年代末にジミやジェフ・ベックなどによって行われてから広まった事であり、それまではこれ程までに頻繁かつ大胆なトーン・コントロールはなされませんでした。そしてそれは他の楽器では基本的には不可能なことです(エレキギター以外ではシンセサイザーくらいでしょうか)。また#29でも触れましたが、ストラトキャスターというそれまで全く人気の無かった楽器を、トレモロアームをはじめとして、こんな使い方があったのか!と製作した側をも驚愕させるような可能性を見い出させました。
③ノイズでさえ音楽にしてしまった。②と少し被るかもしれませんが、フィードバック奏法などプレイによるもの、及び録音技術を駆使した特殊効果的なものまで併せて、意図的さらには自然偶発的なものまで含んでノイズをも音楽の一部として取り込んでしまった。
④ステージアクト。モンタレーでのステージが何よりも良い例ですが、暴力的な、またはセクシャルなパフォーマンスが当時のオーディエンスの度肝を抜いた。
⑤私はまったく疎いのですが、当時のロックにおけるファッションリーダー的役割も担っていた様です。モンタレーやウッドストックでのステージ衣装を典型として、様々なフォトで見る事が出来る衣装・アクセサリー・ヘアスタイルなどは斬新で当時の若者達に強い影響を与えたそうです。
上の全てがジミによって初めて、という訳では決してないですし、以前の記事でも書きましたが当時のロックギタリスト達の中でジミが技術的に最も優れていたという事でもありませんでした。しかし60年代後期から70年にかけて、ロックミュージックにおける音楽性の転換期に、これらの革新性を全て持ち合わせ、なおかつ商業的に成功した稀有なミュージシャンだったのではないでしょうか。それを可能にしたのは何より”わかり易かった”、言い換えれば感情の根源に訴えかけてくるフレーズやトーンだったというのが大きいでしょう。ポピュラーミュージックにおいてはある意味最も重要な事です。いくら革新的・音楽的に充実した内容ではあっても、一部の玄人にしか理解してもらえない、というものでは成立しません。
ビートルズが3分のR&R・ポップソングをより深遠なロックへと深化させ、マイルス・デイヴィスがストレートアヘッドなジャズからフュージョン(クロスオーヴァー)へ、新しいジャズミュージックの可能性を指し示し、ジミ・ヘンドリックスはエレクトリックギターという楽器の新たな可能性を見い出させたのです。”ポピュラーミュージック維新”とも言えたこの時代のエポックメイキングなミュージシャンの一人であり、それがいまだに神格化される理由でしょう。
ジミはその死の直前に、ロンドンにあるチャス・チャンドラーの家を訪ねています。チャスがジミの下を去った後も、ジミはチャスに戻ってきて欲しいと頼んでいたそうなのですけれども、先述のマイク・ジェフリーとソリが合わず、その時は断ったそうなのですが、ジミがチャスの子供に会うという名目で来訪した時には、また一緒にやろうと約束したとのこと。それがジミが亡くなる前々日の事だったそうです。「ロックの歴史を追いかける」というサイトにてチャスのインタビューが載っており、亡くなる前日の大変貴重な写真も掲載されています(コチラ)。当サイトは他にも非常に興味深いロックにまつわるブログが掲載されています(私もちょくちょく読ませて頂いております)。
一時期は調子に乗ってしまい袂を分かつようになってしまいましたが、やはり自分を育ててくれた、兄貴分のような存在のチャスを頼りにしていたようです。またノエル・レディングにもまた一緒に演ろうと持ち掛けていた、という関係者の証言もあり、破天荒な言動が取り上げられる事の多いジミでしたが、実は人間くさい、寂しがり屋の一面もあったというのが少し微笑ましいです。
以上をもって5回に渡ったジミ・ヘンドリックス編は終了です。まだまだ書きたいエピソード、例えばエリック・クラプトンとの友情など、いくらでもあるのですが、それはまたの機会に。