#52 Heatbeat City

前回までのプリンス回にて、84年の年間シングルチャート1位はプリンスの「When Doves Cry(ビートに抱かれて)」と述べました。私の様な洋楽好きのオッサン世代には改めて語る必要はないかもしれませんが、全米でもヒットチャートと呼ばれるものは一つだけではなく、主だったものは三つ、ビルボード・ラジオ&レコード・キャッシュボックスでした。順位の算出基準に違いがある為当然順位は異なります。「ビートに抱かれて」が1位だったのはビルボードであり、ちなみにラジオ&レコードではヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」でした。ベストヒットUSAにて採用していたチャートはラジオ&レコード。これはFMのリクエスト回数を元にしている為、レコードセールスその他を総合的に算出基準としていたビルボードとはかなり異なるチャートアクションになっていました。ついでに言うとキャッシュボックスは西海岸寄りのチャート付けだったそうです。アルバムチャートの方を見てみると、ビルボードでは言うまでもなく83・84年共にマイケル・ジャクソンの「スリラー」(82年12月発売だった為)でしたが、ラジオ&レコードにおける84年年間アルバムチャートの1位は意外とも言える作品でした。それが今回のテーマ、ボストン出身のバンド、カーズの5thアルバムである「Heatbeat City」。

 

 

 


リック・オケイセック(vo、g)を中心とし、78年に1stアルバム「The Cars(錯乱のドライブ/カーズ登場)」にてデビュー。600万枚の大ヒットとなり注目を浴びます。続く2ndアルバム「Candy-O(キャンディ・オーに捧ぐ)」もヒットし、初めから順調なスタートを切りました。その音楽性はアメリカンR&Rにクールなニューウェイヴ・テクノ色を混ぜたもの、とでも表現すれば良いでしょうか。シンプルなR&Rに、エリオット・イーストンの比較的ハードなギターが乗り、そこにテクノポップが加味された独特なサウンドでした。

FMのリクエスト回数は人気の先行指数、レコードセールスは遅行指数とでも呼べるでしょうか。またマイケルの「スリラー」を引き合いに出すのも何ですが、レコードは引き続いて売れていた84年において、ラジオ&レコードの方では既にチャートの上位から姿を消し、代わって伸びてきたのは前回まで取り上げていたプリンスの「パープル・レイン」やカーズの本作でした。

MTVが台頭し始めたこの時期に、実に魅力的なビデオクリップを制作したのもヒットの大きな要因でしょう。同年から創設されたMTVビデオミュージックアワードの第1回にて、マイケルやシンディ・ローパーなどの他ノミネートを抑え、上記のシングル曲「You Might Think」のプロモーションビデオは見事に最優秀ビデオ賞を受賞しました。

本作からの第3弾シングルであり、彼らにとって最大のシングルヒットとなった「Drive」。本作の、というよりも彼らの全作品中におけるベストトラックと私は思っています。浮遊感のあるカーズ独特のスローナンバー。”彼ららしく”ただの甘ったるいラブソングとはなっていません。歌詞の解釈はかなり人によりけりですが、”Who’s gonna drive you hometonight(今夜は誰がきみを家に送るんだろう…)”という一節はかなり意味深です。

翌85年には新曲を含むベスト盤をリリース。こちらも大ヒットし、この頃が全盛期であったでしょう。

決して米ポップミュージック界におけるメインストリームな存在というバンドではありませんでした。かといって超個性的な音楽を演り、一部のコアでマニアックなファンだけから好かれた、という訳でもない。本流・主流からは少し離れた所に居ながら一定の支持を集めていた、決して貶める言葉ではない良い意味での、”B級バンド”という表現がぴったりはまる様な存在だった気がします。

88年にバンドは解散。00年に中心メンバーであったベンジャミン・オール(vo、b)が亡くなった事により、オリジナルメンバーで再結成を果たすことはなくなってしまいました。しかし10年にはベンジャミン以外のメンバーにて活動を再開。11年には24年振りとなる新作をリリースしました。

ニューウェイヴやテクノポップといった音楽の要素が決して普遍性を持ったものではないため、35年余り経った現在では、勿論新しい波でもなく、そのテクノロジー(シンセやエレドラの音色等)などは古臭く感じるものでしょう。リアルタイムで聴いていた私などはノスタルジーが先に立ってしまい客観的に聴くことが困難な面があります。30代以下の若い世代の方たちには彼らの音楽がどのように聴こえるのか、ちょっと興味があります。古臭い・つまらないと一蹴されるか、逆に一周回って新鮮に感じたりするのか…。ただし一つだけ言えるのが、カーズというバンドはその時代の流行りに乗っただけではなかった、という事。ニューウェイヴ・テクノといった要素は表層に過ぎず、彼らの本質は他のアメリカンロックとは一線を画する、どこか冷めた、その歌詞などを含めた彼らなりの(イギリス人とはまた違った)皮肉・ペーソスを漂わせた音楽性にあったのではないかと私は思っています。先述の「You Might Think」や81年のシングルヒット「Shake it up」といった一聴するとポップでキャッチーなR&Rと、これも先にあげた「Drive」の様なスローナンバー
にも、そのいずれにおいても奥底には同じ様な”クールさ・憂い”があって、人々は意識的か無意識にか、彼らに他とは違う魅力を感じ取ったのではないか、と私は思っています。そしてそれは時代に左右されない彼ら独自の音楽性であるので、若い方の中にはその音楽に魅かれる人達もいるのではないでしょうか。もっともただのオッサンの妄想、と言われてしまえばそれまでなのですけど・・・

#51 Around the World in a Day

「パープル・レイン」のビッグセールスにより、プリンスは自らのレーベルである”ペイズリー・パーク・レコード”を設立します。これでこれまで所属していたワーナー・ブラザーズにあれこれ言われずに自身の望む作品が創れる、と思ったのでしょうか、彼はとんでもないものを創ってしまいました。勿論自身のレーベルとは言ってもワーナー傘下であることは変わりないのですが、それでもワーナーからの”横やり”はかなり少なくなったそうです。前作の超大ヒットによって、天下の大レコード会社ワーナーもプリンスには一目置くというか、慮った対応をしなければならない状況だったようです。前作からわずか10ヶ月余りで新作「Around the World in a Day」をリリースします。

 

 

 


”続・パープル・レイン”を作れば再度のメガヒットは間違いなかったでしょう。しかし彼の様な天才肌にとっては全くとまでは言いませんが、そのような事にはあまり関心が無かった、というか無くなってしまったのかもしれません。出来上がった新作は世間の期待を(良い意味で)裏切るものでした。

80年代版「サージェント・ペパーズ」とでも呼ぶべき本作。私はリアルタイムだったので断言出来ますが、当時、ファッション等の他分野では違ったかもしれませんが、少なくともロック・ポップス界において、60年代後半におけるサイケデリックのリバイバルブームなどはありませんでした。プリンスの新作がまさかこの様な内容とは…、皆があっけにとられたのです。
”パープル・レイン第2弾”を作っていたならば、評論家達はまた”前作に引き続き売れ線に走った…”とか、”天才プリンスと言えど商業戦略には抗えなかった”などとこき下ろしていたでしょう。前回の記事にて、少なくとも日本の評論家筋が前作に漂うサイケデリック臭には触れていなかったと断言できると大見得を切りました。その根拠は、皆が本作の内容に驚愕し、そして絶賛したのです。もしも「パープル・レイン」に本作の予兆を感じ、その事を発言ないし文章化していたとすれば、鬼の首を取ったように”それ見た事か!俺はこれを予言していたぜ!!”と自画自賛していたことでしょうが、当時の記憶でも、また今回かなりネット上で検索してみてもそれらは見受けられませんでした。売れっ子は批判するもの、という様なスタンスのロックミュージック売文家達も、流石にこれは見事と認めざるを得なかったのです。

今調べてみると、むしろ海外での評価の方が様々だったようです。日本の評論家は一般ウケしそうにない作品を作った方が高評価するきらいがあるようですが、欧米ではコマーシャリズムも大事な要素と捉えているのかもしれません。またプロモーションにもあまり力を入れず、1stシングル「Raspberry Beret」がシングルカットされたのもアルバムリリースより1ヶ月後でした。そもそも前作から1年も経ていないのに新作を出すということは営業戦略上好ましい事ではありません。前作をきっちり売り切って、あれ程のメガヒットであれば、シングルも出せるだけ出して、きっちり収益を回収したうえで、その後に次作の制作及び販売促進に取り掛かるのが通常です。80年代のプリンスは楽曲やアイデアが湧き出てきてしょうがない様な状態だったのでしょう。異常とも言えるハイペースでアルバムをリリースしていきます。「Parade」(86年)、「Sign o’ the Times」(87年)と従来の音楽性から別方向へ向かった様な作品へと変容を遂げていきます。本作のエンディングナンバー「Temptation」は、「Parade」の音楽性を既に表していました。R&R、R&B、ブルースといったルーツ的なアメリカンミュージックから、フリージャズやアヴァンギャルドミュージックといった要素までを含んだ8分超のこの曲は、その後の布石の様なものだったのかもしれません。

以前の記事#2にて、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」を取り上げましたが、その中で評論家の萩原健太さんによる”これはロックではなく、その時点におけるブライアン・ウィルソンなりのアメリカンミュージックの集大成では…”、といった言葉について触れました。
全くの私見ですが、この時期のプリンスは60年代半ば~後半におけるブライアンに少し相通じる様な気がします。「ペット・サウンズ」~「スマイル」にて既存のロック・ポップスといったカテゴリーには収まり切らなくなってしまったブライアンの溢れ出てくる創作意欲。80年代半ば~後半においてのプリンスもこれに近い感覚だったのではないかと私は勝手に思っています。
90年代以降は必ずしも順風満帆といったミュージシャン活動ではなくなったようです。詳しくはウィキ等をご参照ください。

亡くなる前年のグラミー賞にて、プレゼンターとして壇上に立った彼は、『アルバムって覚えてる?』というスピーチを残しました。00年代からダウンロードそしてストリーミングへと、音楽の購入の仕方が劇的に変わり、楽曲単位で買うことが出来るようになったため、アルバムを丸ごと購入せずに聴きたい曲だけを買えるようになりました。これの功罪については特に言及しません。ただ、60年代半ばから、「ペット・サウンズ」や「サージェントペパーズ」をはじめとして、アルバムがただ単にシングルないしは出来の良い楽曲の寄せ集めでなく、それらが同一のアルバムに収録された事、さらにはその曲順やジャケットデザインまでを含めて意味を持たせた先達たちの功績(勿論プリンス自身を含めた)を忘れて欲しくない(幾分皮肉も混じっていたかもしれませんが…)、という思いから先のスピーチに至ったのではないでしょうか。

以上で3回に渡ったプリンス回は終わりです。それで、これからしばらくは今回取り上げたプリンスが全盛期であった時代でもある80年代の音楽を中心に書いていきたいと思います。テレコ(ラジカセ)・FM雑誌・カセットレーベル・エアチェック、そしてLPレコード等々…
私を含めた40代後半から60歳位までのオッサン世代にとっては生唾ゴックンものの記事を書いていきます、乞うご期待・・・ あっ、念の為言っときますが、生唾ゴックンものといってもエッチなやつじゃないですよ…
わかっとるわ!!! ━━(゚Д゚#)━━(…とでも突っ込んどいて下さい…)

#50 When Doves Cry

クラシック音楽については全く無知な私ですが、ラヴェル作「ボレロ」には何故か興味を魅かれます。一定のリズムと、これまた決まったメロディの繰り返し、これらを徐々に楽器の構成を変えながら、リズムも同じものながら段々と勢いを増し、やがてエンディングへ。ほとんど展開しないこの様な楽曲はクラシック音楽では珍しいものだそうです。
今回のテーマ、プリンスが84年にリリースしたアルバム「Purple Rain(パープル・レイン)」に収録されている「When Doves Cry(ビートに抱かれて)」、私はこれをポップミュージックにおける「ボレロ」であり、またその類の楽曲で最も成功したものだと思っています。

 

 

 


今更説明不要な程、プリンスの代表作にして最も商業的に成功した作品。意外と忘れ去られているかもしれませんが、同名映画のサウンドトラックであります。そう、映画だったんですよ。

リアルタイムで体験した私の記憶では、所謂『評論家筋』からは、”プリンスも売れ線に走った”とか”内容的には前作「1999」の方が優れている”といった辛口の批評が結構あったような気がします。売れたものに対してはケチを付けるもんだという強迫観念があるのかどうか預かり知りませんが、30数年経った今聴いても、全く売れ線などとは思いません。むしろこの内容でよくぞ当時で1500万枚というセールスを上げたものだと感心するほどです。具体的にはコマーシャルな楽曲と、一般ウケしそうにないものが玉石混交(この例えもあまり適切ではないかな、どちらが玉とか石とかでもありません)になっています。

唯一難点を挙げるとすればエンディングのタイトル曲が”プリンスとしてはやや凡庸”であるかな、という気もします(※あくまで個人の感想です←これ書いときゃ何でも許されるんでしょ)。
(´・ω・`)
コマーシャルな方の楽曲、売れ線と評していた輩はこれらの楽曲を良く思ってなかったのでしょうか。「Let’s Go Crazy」「I Would Die 4 U」「Baby I’m A Star」及びタイトル曲がそれに当たるかと思われます。いずれも素晴らしい楽曲であり、タイトル曲に関しても先ほど少しケチを付けた様な形になりましたが、曲のエンディングではやはりプリンスらしい、一筋縄では終わらない”良い意味でのクドイ締め方”となっています。では一般ウケしなさそうな方について。
A-②「Take Me With U」は本作では中庸な部類の楽曲でしょう(ただし大変重要なナンバーです、後述します)。A-③「The Beautiful Ones」はテクノポップ臭を漂わせながらのスローナンバー。メロディックなバラードとは一線を画するもので、特に後半の気が触れたかの様なヴォーカルは圧巻(これが苦手、という人もいるでしょうが…)。
A-④「Computer Blue」。冒頭にて、バンドメンバーであるウェンディとリサによる大変妖しく、また悩ましい様なレズビアンかつSMチックな会話から始まります。楽曲自体は3rdアルバム以降のテクノ的R&Rと呼べるもの。ところがどっこい、二部構成になっており、途中からサンタナ張りのギターソロをフューチャーしたパートへと変わります(当初は三部構成だったらしいです)。そしてA-⑤「Darling Nikki」はプリンスの真骨頂である、粘っこいエロティシズムに満ちた楽曲。歌詞も大変に性的なものを連想させる(というかそのものズバリ)という事で物議を醸しました。すくなくともA-③~⑤はお世辞にも売れ線とは言えません。そして極め付けが今回のテーマ、B-①に収録され第一弾シングルとなった「When Doves Cry(ビートに抱かれて)」。

普通の楽曲にあるようなAメロ→Bメロ→サビといった展開ではなく、基本的にAメロだけというものなのですが、この一定のパートを手を変え品を変え、エンディングの大円団へと終結させる、当時としてはとんでもなくアヴァンギャルドな楽曲です。この曲の様に、展開せずに一定のリズム・フレーズを繰り返すものはある種の高揚感をもたらします。決してこの曲がポピュラーミュージックにおいて初という訳ではありません。以前の記事のキング・クリムゾン回である#16~#17にて述べましたが、「太陽と戦慄」「レッド」及び再結成後の「ディシプリン」の中で既にそれは行われていました。またトーキング・ヘッズ80年リリースの「リメイン・イン・ライト」では『リズム』(アフリカンやファンクといった)が大変重要なファクターとなり、80年代のポップスシーンを変えてしまうほどのエポックメイキングな作品となりました。ちなみに「ディシプリン」「リメイン・イン・ライト」共にエイドリアン・ブリューが関わっているのは偶然でも何でもありませんが、これについてはまたの機会に。

よくこんな曲を(こんな曲って…)1stシングルに持ってきたものだと後から思いました。売るためなら「Let’s Go Crazy」や「Baby I’m A Star」の様な快活なノリの良いジャンプナンバーを初めに持ってきて良さそうなものです。ジミ・ヘンドリックス張りのギターイントロに始まり、続いて呪術師の唸りの様な奇怪な声。基本的伴奏はドラムマシンによるビートとシンセのリフのみ、その上でプリンス一人によるメインのヴォーカル、及びオーヴァーダビングでのコーラスやオブリガード的フレーズ。また他の伴奏(と言ってもシンセとギター位)も徐々に加わりテンション感が上がっていきます。ただしオフィシャルPVだと後半がカットされている為是非ともアルバム版をお勧めします。

この曲に関しては、同じく彼の全米No.1シングル「Kiss」(86年)と共にベースが入っていないという点がよく語られます。ベースが無いということは、低音部が抜け音のトーンバランスが悪くなるという事です。基本的に人が心地よく感じるのは低~中~高音まで全てバランスよく鳴っている音です。またベースは楽曲において、基本的にはルートや5度の音などを鳴らして音楽的にも安定させる役割を持ちます。(勿論そんなベタな演奏だけじゃない、というお声もあるでしょう、あくまで基本…)英語版のウィキにありましたが、当初は普通にベースが入っていたそうです。しかしバックヴォーカルのジル・ジョーンズとの会話がきっかけとなり、このまま(ベースが普通に入ったテイク)では型にはまりすぎている(conventional)、としてベースレスのテイクを採用したそうです。この事による不安定感、言い換えれば浮遊感とも呼べるものと、先述した繰り返しから生まれる高揚感により、この楽曲は唯一無二のものとなったのです。初めに聴いた時は「何だこの曲は…」と大抵の人は思うでしょう。小林克也さんですらそう思ったそうです。しかし何度か聴いているうちにこの曲が持つ魔力の様なものに憑りつかれていくのです。
本曲は84年のシングル年間チャートで1位を獲得。先に述べましたが、この様な”ループミュージック”とでも呼ぶべきものはポップミュージックにおいては決してこれが初めてではありませんでしたが、商業的に大成功したものとしては初と言えるでしょう。

ロック・ポップスを聴き始めてから1年ちょっとのリアルタイム時には当然判りませんでしたが、本作にはサイケデリックな雰囲気が漂っています。「Take Me With U」「Darling Nikki」において特に顕著です。私の記憶では当時において、この点について指摘した評論家・ライター(勿論日本の)は皆無です。当然現在のネット時代ではありませんし、中学生としてはその手のラジオや雑誌によく目・耳を通していた方だとは思いますが、それでも彼らの全ての発言や文章を把握出来た訳では当然ありません。でも皆無だったと言える根拠があります。それについては次回述べます。ただウィキにはその要素に当時から触れていた評論家もいたとの記述がありますが根拠は分かりません。誰のどこにおける発言・記述か、といったものを一応探してみましたが出てきませんでした。あったとしても海外においてだったと思われます。

今回も長くなってしまいました。後年においても本作について語られる時、プリンスのキャリアにおいて最も成功した、そしてポップ志向の強い作品という評価がなされてしまうようですが、決してそれだけではないという事だけは言いたかったのであります。次もプリンス回です(多分…最後…だと思う……)。

#49 1999

#43~#47でジミ・ヘンドリックス、#40にてサンタナを取り上げましたが、両者のDNAとでも呼ぶべきものを受け継いでいたギタリストがいたと私は思っています。それはプリンスです。
(゚Д゚)ハァ?そうかあ? プリンスがギター上手いのは知ってるけど、他にもっといるんじゃね?と、声があがるのはもっともです。あくまで私見ですし、プリンスはギタリストとしてだけでなくトータルなミュージシャンとして評価すべきというのもごもっともです。これは話の枕的なもの…

 

 

 


16年に惜しくも亡くなってしまいましたが、たぐいまれなる才能を持ったミュージシャンであった事は衆目の一致するところです。ジャズ・ピアニストの父、シンガーの母の下に生まれ、当然の様に幼少より音楽に親しみます。作曲・編曲の才能は勿論のこと、いわゆるマルチ・プレイヤーでもあります。ピアノとギターを弾きこなすプレイヤーというのは割といますが、彼はドラムまで叩きます。それが少し叩ける、といった程度のものではなく本職顔負けのプレイです。1stアルバム「For You」(78年)は楽曲作りから演奏まで全てを一人でこなしていますが、エンディング曲「I’m Yours」を聴けばそのドラミングの実力がわかります。
79年、2nd「Prince(愛のペガサス)」をリリース。
シングル「I Wanna Be Your Lover」がポップスチャートで全米11位(R&Bでは1位)のヒットを記録し、世間にその名を知らしめます。初期のプリンスの音楽性を具体的に述べると、当時流行のディスコ、あるいはもう少し”濃ゆい”ジェームス・ブラウン的な(声質は全く違いますが)ファンクの16ビート。及びこれまた当時、巷で流行っていたフュージョン(クロスオーヴァー)的なソフト&メローな楽曲(例えばアル・ジャロウの様な)。そしてハードなロックチューン。と、大まかに分類できます。その後も「Dirty Mind」(80年)、「Controversy(戦慄の貴公子)」(81年)とスマッシュ・ヒットを続けます。

そのギターに関して言えば、ジミ・ヘンドリックスの影響が語られます。確かにジミ張りのステージアクト(ギターを生殖器に見立てたパフォーマンス等)を行っていたようですが、しかしリードギターのプレイスタイルとしてはサンタナに近かったと良く言われます。叙情的、言い換えれば分かり易く感情に訴えかけるフレージングが特徴でした。しかしプリンスのギターの真骨頂はステージアクトや激しいギターソロではなくリズムギター、ファンキーな16ビートのカッティングにあると私は思っています(じゃあ枕の話はなんだったんだよ、とは思わずに・・・)。
そしてギタースタイルと同様に、初期プリンスの音楽性における肝は16ビートのファンクにあると言えるでしょう。そこに両親からの影響であるジャズや、当時のディスコやAORを含んだ”プリンス流ファンク”とでも呼ぶべき音楽性が主軸になっていたと思います。

先述した「I Wanna Be Your Lover」が初期の曲では最も親しみやすいでしょう。もっともこれだけ聴くとクインシー・ジョーンズ(つまりマイケル・ジャクソン)かよ! と、思ってしまうかもしれませんが、「オフ・ザ・ウォール」とほとんど同時期のリリースなので、決してパクリではないでしょう。彼のファンクはもっと多様性がありました(クインシー=マイケルが一本調子だった、とか言う意味ではありません)。ちなみにその2ndアルバム には、後にチャカ・カーンのカヴァーで大ヒットすることとなる「I Feel for You」が収録されています。

ギターの話に戻りますと、彼は70年代に日本のモリダイラ楽器が製造したブランドである
”H.S.Anderson”のテレキャスターモデル(MAD CAT)をデビュー時から愛用しており、初期によく聴くことが出来る気持ちのいい16ビートのカッティングは同器によるもののようです。ちなみに先の「I Wanna Be Your Lover」のビデオクリップではレスポールを弾く姿が出てきますが、多分レコーディングではテレキャスあるいはシングルコイルのギターを使っていたと思われます。余談ですがH.S.Andersonは所謂”ジャパン・ヴィンテージ”として現在でも高く評価され、根強い人気を誇っています。

82年、アルバム「1999」をリリース。遂にブレイクを迎えます。全米で400万枚のセールス、「Little Red Corvette」「Delirious」がTOP10ヒットとなるなど、この頃になってようやく世間がその音楽性に気付き始めたといったところだったのでしょうか。前作・前々作から、つまり80年以降は時代の影響もあって、ニューウェイヴ・テクノポップといった要素が強くなっていったのはプリンスも同様でした。シンセサイザーの音色などは今から聴くと”安っぽい”と思われるかもしれませんが(でもリアルタイムのオジサン世代はこれを”未来の音だ”と感じていたんですよ)、当時における最先端のテクノロジーを貪欲に取り入れていました。やがて流行などはお構いなし、といった唯我独尊的な音楽性へと変容していった人ですが、この頃まではある意味”柔軟”な姿勢だったようです。タイトル曲は世紀末を歌った曲(本当の世紀末は2000年らしいですけど)。サウンドは80年代風テクノ味ソウルミュージックとでも呼ぶべき快活な曲調ですが、歌詞は世界の終末について書かれています。”2000年にはパーティは終わってしまう。だから今夜1999年みたいにパーティするんだ” の様な歌詞で、解釈は人それぞれのようですが、幕末の”ええじゃないか”みたいな雰囲気を歌っているのかもしれません。

このようにして、着々と成功への足元を固めてきたプリンスですが、これはまだほんの序章と呼べるものでした。次回は勿論次作である「パープル・レイン」についてです。しかし2018年の冒頭に「1999」って、なんだよ!狙って書きやがったか!
ヽ(`Д´#)ノ
とか、思わないでください。本当に以前から予定していたこの回がたまたま年初に来ただけです(あっ、でも、ちょっとオイシイかな、とか思わなかった訳では…)。今年もよろしくノシ