#56 She’s Gone

直近3回の記事にて、ブルーアイドソウルという言葉を使ってきましたが、”ブルーアイドソウルって何ぞや!”、と思われた方もいるかもしれませんので簡単にご説明。一言で言えば白人が演るソウルミュージック。ライチャス・ブラザーズやラスカルズといったミュージシャン達を指して、60年代から使われるようになったそうです。これには幾分黒人側からの差別的なニュアンスも含まれていたようで、”白い奴らに俺たちのソウルが出来るのかい?”という様な意味合いも昔はあったとのことです。それらの事はともかく、私の世代でブルーアイドソウルと言えば何と言ってもこの人達です。そう、それが今回からのテーマであるダリル・ホール&ジョン・オーツ(ホール&オーツ)です。

 

 

 


ペンシルベニア州フィラデルフィアにあるテンプル大学に在籍していた二人は、当初別々のバンドで活動していたらしいのですが、やがてルームシェアして活動を共にしていきます。ちなみに、その時アパートの郵便受けに”Hall & Oates”と表記した事がグループ名の由来。

72~74年の間にアトランティックより3枚のアルバムをリリースします。2ndはアリフ・マーディン、3rdは奇才トッド・ラングレンのプロデュースと、レコード会社も決してぞんざいな扱いをした訳ではありませんでしたが、残念ながらヒットには恵まれませんでした(ただし2nd「Abandoned Luncheonette」は大変重要な作品です、後述します)。
初期の音楽性はロック、ソウル、ソフトロック、フォークロック、当時流行していた内省的なシンガーソングライター的作風(ジェームス・テイラーやローラ・ニーロの様な)が垣間見え、後の彼らと比較すると興味深いものがあります。また、3rdはトッド・ラングレンの影響からプログレ色も感じられるロックに仕上がっているのかと思いがちですが、ところがどっこい、単にトッドの影響だけとは言い切れない事が後に露見します、これは次回以降にて。

75年にRCAへ移籍。4thアルバム「Daryl Hall & John Oates(サラ・スマイル)」を発表。そこからのシングルカット「Sara Smile」が全米4位の大ヒット。これで檜舞台へと躍り出ます。ちなみに”サラ”とは長きに渡って公私共にダリルのパートナーであったサラ・アレンのこと。余談ですが、日本が誇るピアノ・キーボードプレイヤー 深町純さんの名盤「深町純&ニューヨーク・オールスターズ・ライヴ」(78年)にて本曲はカヴァーされており、ジャズフュージョンファンの方にはそちらの方で馴染みが深いかも。デヴィッド・サンボーンによる”泣きのサックス”があまりにも素晴らしい名演です。

本作よりブルーアイドソウルと呼ばれる音楽性が定まってきたと言えるでしょう。それにしても、『アトランティックソウル』と呼ばれるカテゴリーがあるほどに、ソウルミュージックの本家本元でもあるアトランティックを離れてからソウル色が強まるというのも何だか皮肉な話です。
76年、5thアルバム「Bigger Than Both of Us(ロックン・ソウル)」をリリース。翌年1月に本作からの2ndシングル「Rich Girl」が見事に全米No.1となります。彼らの第一次黄金期がこの頃であったでしょう。

時系列はやや前後しますが、「サラ・スマイル」のヒットの後、アトランティックはそれにあやかってか、2nd「Abandoned Luncheonette」から2年前(74年)にリリースしたシングル曲「She’s Gone」を再発。この時見事に全米TOP10入りを果たします。ちなみに、「Abandoned Luncheonette」はその後長い期間に渡って、ホール&オーツ初期の隠れた名盤として売れ続け、結果的にプラチナディスクを獲得します。

フィラデルフィアソウル(フィリーソウル)の王道の様な本曲は、ダリルとジョンの共作。この後、ダリルのイニシアティブが強く押し出され、またそれが成功の要因となったことは否めない事実ですが、本曲はソングライティング・ヴォーカル共において、二人の力が結晶化された初期の傑作です。後年のジョンによるコメントで、まずジョンによりギターでサビの部分が作られましたが、それ以外にはアイデアが浮かばなかったので、ダリルにそれを聴かせ、他のパートを共に作っていったとの事。またこれは結構有名なエピソードですが、ダリルはサラと知り合う前の72年暮れに最初の結婚に失敗しており、ジョンも同年の大晦日に女性から”すっぽかし”を喰らっています。この別れ・失恋が本曲の歌詞の元となっているそうです。

私の世代ですと、本曲は83年発表のベスト盤「Rock ‘n Soul Part 1」に収録されていたものの方に圧倒的に馴染みがありますが、これはシングルヴァージョンで、「Abandoned Luncheonette」に収録されていたもの、つまりアルバムヴァージョンとはアレンジが異なります。今回はシングル版をご紹介しますが、現在はユーチューブでどちらも聴くことが出来ますので(本当に良い時代になったものです…
。゚(゚´Д`゚)゜。゚)、聴き比べてみるのもご一興。

ブルーアイドソウルのホープとしてポップミュージック界の頂点に昇りつめた二人。この後も更なる飛躍を続けるのか、はたまた否か。その辺りはまた次回にて。

#55 Shout to the Top!

前回の記事でも少し触れましたが、バブル景気で隆盛を極めていた80年代の日本において、スクリッティ・ポリッティなどと共にオシャレなポップスとして好まれていたイギリスのミュージシャンがいます。エヴリシング・バット・ザ・ガールやシャーデー、やや遅れてデビューしたフェアーグラウンド・アトラクションといった、ロックにとどまらずにジャズ、ソウル・R&B、ブラックコンテンポラリー、ラテン音楽、そしてもちろん英国人らしくブリティッシュトラッドをはじめとしたヨーロッパの音楽、といった様々な音楽性を持った人達でした。前回既に名前を出しているのでもうお分かりかもしれませんが、今回のテーマはその筆頭格とも言えるバンド、スタイル・カウンシルです。

 

 

 


70年代後半にデビューし、イギリスで、特に若者から絶大な人気を誇っていたザ・ジャムを解散し、その直後にポール・ウェラーが結成したバンド。正式メンバーはウェラーとミック・タルボット(key)の二人ですが、実質的にはスティーヴ・ホワイト(ds)とD.C.リー(cho)を加えた四人編成のバンドと捉えて良いでしょう。その音楽性はヴァラエティーに富んでいると呼べばよいでしょうか、ジャズ・ボサノヴァ・ラテンジャズ・イージーリスニング・フレンチポップス、ヒップホップ、もちろんの事ソウル・R&Bまで、と何でもあり。無いのは節操くらい…
(失礼 <(_ _)> )・・・
あと、もう一つありました。ザ・ジャム時代のストレートなR&Rだけはありませんでした。私はリアルタイムで本バンドから聴いたので、ザ・ジャムは後追いなのですが、確かによく言われる”青筋立てて”ウェラーがギターをジャカジャカかき鳴らしながら、当時の若者や労働者階級の不満を代弁してくれるような熱いロックに心酔していた従来のファン達はかなり戸惑った、というより失望してしまった人が多かったようです。オレたちの・アタシたちのウェラーが変わってしまった、と。もっとも初期こそパンクロックと捉えられていたザ・ジャムでしたが(70年代後半にイギリスでデビューするとみんなパンク扱いされたそうですけど…)、徐々にウェラーが本来持っていた黒っぽい要素が強まっていき、ある意味スタイル・カウンシルは必然的に結成されたとも言えるでしょう(それにしても変わり過ぎ、とされても仕方ないかと…)。

83年、1stシングル「Speak Like a Child」をリリース。同年ミニアルバム「Introducing The Style Council」を本国イギリス以外で発表します。84年に1stアルバム「Café Bleu(カフェ・ブリュ)」を本国でもリリースし、最高位2位を記録。先述した通り従来のザ・ジャムファンの戸惑いはありましたが、非常に高い評価を得ました。ただ単に色んなジャンルを演ってみました、ではなく楽曲のクオリティーが全て高く、統一感には欠けますが、非常に上質な作品に仕上がっています。

今回のタイトル「Shout to the Top!」は84年10月リリースのシングル。元はアメリカ映画のサントラの為に作られた曲です。一聴すると爽やか系で快活な楽曲ですが、歌詞は労働者階級の、特に若者たちへ向けて、トップ(上司や経営者、ひいては政治家、当時のサッチャー首相を頂点とする)にいる奴らに向かって叫べ!といった内容です。もっともサッチャー首相が強力に推し進めた市場原理を尊重した改革によって、イギリスではその後金融業をはじめとした好景気によって永く続いた不況を脱するのですが… あ、話がずれてしまいましたね・・・
前回も書きましたが、本バンドは当時、オシャレ系のポップスとしてナウでヤングな最先端スポットで(プールバーとかカフェバーとか)かかっていたようですが、その歌詞はとてもオシャレスポットにはそぐわないものだったようです。知らない方が良い事ってあるもんですね・・・

85年、2ndアルバム「Our Favourite Shop」をリリース。全英No.1に輝き、バンドとしての最盛期がこの頃であったでしょう。87年の3rdアルバム「The Cost of Loving」も全英2位を記録するヒットでしたが、これを境にバンドは勢いを失っていき、80年代末にバンドは自然消滅します。

ちなみに全米でのチャートアクションは、アルバムは一枚もTOP40には入らず、シングルも「My Ever Changing Moods」の29位が最高でした。アメリカ音楽に傾倒していき、その音楽性を発揮した作品が、その本場ではあまり受け入れられなかったというのは、皮肉めいたものを感じます。プロモーションの問題などもあって一概には言えませんけれども、スクリッティ・ポリッティもそうでしたが、英国流ブルーアイドソウルが本国にて受け入れられるか否かの基準はよくわかりません。シンプリー・レッド やシャーデーがアメリカでも受け入れられたのに対して、彼らがそうならなかったのは何故なのか。多分、明確な答えなどは永遠に出ないのでしょうけれども・・・

私の音楽の知識は80年代で止まっているので、90年代以降については殆どわからないのですが、オアシスをはじめとした、90年代以降のイギリスのミュージシャン達に絶大な影響を与えたそうです。日本でもウェラーの人気は根強いものがあり、日本とイギリスは文化的に相通じるものがあるのではないかと思っています。

ザ・ジャム時代からすると本バンドは音楽的には劇的に変容を遂げましたが、ウェラーが書く歌詞の内容は変わらなかったようです。彼は典型的な労働者階級の家に生まれた事もあってか、その思想はかなり左傾化されたものであり、人によって賛同出来るか否かは分かれる所で、またそのようなメッセージを音楽に乗せることを良しとするかどうかも賛否は様々です。ただその考え方は脇に置いておくとして、40年に渡って”ブレずに”一貫したスピリットを保っているのは、やはり並大抵の事ではないでしょう。

最後にご紹介するのは「Our Favourite Shop」のエンディング曲「Walls Come Tumbling Down!」。快活なソウルナンバーですが、その歌詞は、『我々が団結すれば壁(体制)は崩れる!』といった内容。当時のイギリスの事情を詳しくは知りませんが、先述した通りその体制が推し進めた政策によって永く続いた不況を、その後脱する事になったのも事実です… 何だかよくわからなくなってきますね・・・
ただしそのサウンドはゴキゲンそのものです。これも先述したことなのですけれども、歌詞が判らなくて良かったということも結構あるのです。

#54 Cupid & Psyche 85

前回のカルチャー・クラブが大ブレークしていたほぼ同時期に、同じくイギリスにてデビューし、非常に高い音楽性でもって注目されていたバンドがいました。それが今回のテーマであるスクリッティ・ポリッティです。

 

 

 


結成は77年ですが、リーダーであるグリーン・ガートサイド(vo、g)の病気療養その他の事情によりデビューアルバムのリリースは82年となります。1stアルバム「Songs to Remember」はファンや評論家筋からは、代表作とされる2ndよりも音楽的には優れていると評される作品です。2ndの様なサウンド的インパクトはありませんが、グリーンなりに消化したと思われる独自のソウル、ファンク、スカ等の音楽が、前面に押し出され過ぎない程度の実験的ニューウェイヴ色にて彩られた作品です。プログレ・カンタベリー色が仄かに香るのは、#48にて取り上げたソフト・マシーンのロバート・ワイアットが参加している事に起因するのではないかと私は思っています。1stはラフ・トレードというレーベルからリリースされました。初期のヴァージンの様に先進的なミュージシャンを見出していた会社でしたが、この1stは全英12位と、ラフ・トレードとしては画期的とも言えるヒットを記録しました。

1stから2ndアルバムの間にもグリーンは病気療養のため一時帰郷します。元々は共産主義に傾倒し、(バンド名はそれに由来するそうです、私はよく知りませんが)、パンクロックにのめり込んで音楽を始めたらしいのですが、一度目の療養の際にパンクに対する興味はすっかり失い、代わりに聴き込んでいったのはソウル・ファンクといったブラックミュージックでした。二度目の療養時には初めて姉(妹)の持っていた(それまで肉親の音楽趣味を知らなかったのか?)ブラックミュージックを耳にしたとの事。またN.Y.で旋風を巻き起こしつつあったヒップホップにも影響を受けます。83年にグリーンはヴァージンと契約します。悪い言い方をすれば、ラフ・トレードのプロモーションには限界があるとして見限ったとも言えるでしょう(当然この後しばらく揉める事となります。仕方ないことですが…)。ヴァージンは前回取り上げたカルチャークラブ辺りから、急激にメジャー化していく途上でしたので、お互いのニーズが上手く合ったのかもしれません。そして米ではワーナーからのリリースとなります。

本作を検索すると枕詞のように大物プロデューサー アリフ・マーディンが関わった事が出てきます。トム・ダウドなどと共にアトランティック/ワ-ナーを大レコード会社へとのし上げた立役者。彼がイギリスの弱小レーベルからアルバムを1枚出しただけのグリーンと何故関わることになったのか?
結論から言うと、グリーンが渡米してから知り合ったボブ・ラスト(本バンドのマネージャーとなります)という人物がカギを握っていました。オリジナルメンバーとは袂を分かち、1st製作中に知り合った米国人デヴィッド・ギャムソン(key)を頼って渡米して、そこで新ドラマー フレッド・マーを加えて新生スクリッティ・ポリッティが誕生します。当初はラフ・トレードとの法的イザコザが残っていた為シングルの発売も思うようになりませんでしたが、そのトラブルを解決して、ワ-ナーとつないでくれたのもボブ・ラストだったようです。

本作についてはとにかくサウンドが画期的でした。私もデジタル機材やレコーディング技術などには疎いので上っ面の知識しかありませんが、フェアライトや発売間もないヤマハDX-7といったデジタルシンセサイザーの効果的な使用、サンプリングやシーケンサーと言った当時における最先端の技術、及び80年代に一世を風靡したゲートリバーブを駆使してのエフェクト処理、といった点がよく語られます。これは実際その通りで、当時ウチのお世辞にもハイスペックとは言えなかったステレオで聴いた時にも、音が他とは全く違う、別次元だ、と思ったのを記憶しています。これについてはD・ギャムソンの功績が大きかったようです。またポール・ジャクソン Jr.(g)やスティーヴ・フェローン(ds)といった第一線で活躍する名うてのセッションプレイヤーの起用なども話題となりました。さらにあまり取り上げられない事なのですが、超有名ベーシストであるウィル・リー(A-③)とマーカス・ミラー(A-⑤)の二人も参加しています。少なくともクレジットを見る限りではそうなっているのです。

アルバムリリース(85年)の前年、本作に収録される事となる「Wood Beez」「Absolute」「Hypnotize」が先ずシングルとして発売されました。これらはアルバムヴァージョンとは違うアレンジで、オッサン世代には懐かしの”12インチシングル”として発売されたと記憶しています(多分…)。アルバム発売直前に先行してリリースされた1stシングルが先にあげた「The Word Girl」。英では最高位6位と彼ら最大のヒットとなりました。米では2ndシングル「Perfect Way」が最もチャートアクションの良かった楽曲です。先述したマーカス・ミラーの参加がきっかけとなったのか、”帝王”マイルス・デイヴィスが自身のアルバム「TUTU」(86年)で本曲を取り上げています。マーカスは当時マイルスの”腹心”でした。これらの経緯があってか、3rdアルバム「Provision」(88年)では本格的なマーカス・ミラーの参加、さらになんとマイルスが一曲ではありますがトランペットを吹いています。

本バンドは当時、スタイル・カウンシルなどと共に、とかく”おしゃれなポップス”として扱われていた様な記憶があります。私はリアルタイム時、中~高校生でしかも田舎住みだったのでわかりませんでしたが、今になって私より少し上の年齢で、東京に住んでいたであろう方のブログなどを読むと、当時の”オシャレスポット”(オッサン達懐かしの『プールバー』とか…)でそれらの音楽がよくかかっていて、バブリーな男連中がこれまたバブリーなワンレン・ボディコンのオネエチャン達を、それらの場所で口説いていた、との事。ですが、スタイル・カウンシルは実は英での階級闘争などを隠喩的に歌っていたり、スクリッティ・ポリッティはこれまた哲学的で難解な歌詞であったりと、とても女性を口説くのに適した曲ではなかったと知ったのは、ずっと後になってからだった … との記事も見受けられました。言葉がわからなくて良かった、という事も時にはあるようです・・・
また本作は米では最高位50位と今一つ奮いませんでしたが、本国を含めたヨーロッパやその他の地域(勿論日本を含む)では高い評価を得て、またその業界や玄人筋から絶賛されました。比較的最近の事ですが、エルトン・ジョンが自身のラジオ「ロケット・アワー」15年10月放送にて、本作を”the best produced electronic album of the 1980s” と評しているそうです。”エレクトリック・アルバム”というのがこの場合はどの様な意味なのか、おそらくアコースティックの反対、つまり80年代におけるエレクトリック・デジタル的な機材ないし技術を駆使したアルバムの中で最も優れたもの、といったくらいの意味でしょうか。

しかし、本作と同様に高音質でサウンドインパクトがあった作品が他に無い訳ではなかったと思います。やはり本質的な部分、つまり音楽性の高さがその評価の元になっているのは言わずもがなです。私がベストトラックと思っているのが次にご紹介する「Wood Beez (Pray Like Aretha Franklin)」。

副題の”Pray Like Aretha Franklin”は、勿論アレサの名唱でも御馴染のバート・バカラック作「I Say a Little Prayer」にちなんだもの。今で言うオマージュソングといったところでしょうか。言うまでもなくアレサと深く関わっていたA・マーディンがいた事が大きく影響しているでしょう。ただ単に音が良くて、煌びやかなサウンドで持て囃された、というだけではない、少し変わったスタイルではありますが、その根っこにはブラックミュージックの精神を宿した、グリーン流のブルーアイドソウルであったのではないか、と私は思うのです。

#53 Colour by Numbers

前回まで取り上げていた、プリンスやカーズといったアメリカ勢がヒットチャートの上位を賑わせていた時期、勿論イギリス勢も黙ってはいませんでした。この時期、第2次ブリティッシュインベンションと呼ばれた英国の、特に若手のミュージシャン達がアメリカで(つまり世界で)人気の猛威をふるっていました。第1次は言うまでもなく64年を皮切りとしたビートルズやストーンズをはじめとするイギリス勢の世界進出。そして第2次というのは、80年代前半に興ったニューロマンティックとも呼ばれるジャンルのミュージシャン達。デュラン・デュラン、スパンダー・バレエ、ウルトラヴォックスといったファッショナブルで非常に見栄えのする人達でした。おい!!あのバンドが抜けてるだろう!と、オッサン世代はすぐにお気付きのはず。その通り、今回のテーマはカルチャー・クラブです。

 

 

 


ボーイ・ジョージを中心とした白人3人、黒人1人から成るバンド(全員英国人)。82年にヴァージン・レコードよりレコードデビュー。このヴァージン・レコードというのが非常に重要な意味を持っていると私は思います。その後、大メジャーレーベルへとのし上がっていく会社ですが、ヴァージンの興りはマイク・オールドフィールドなどの非常に先進的なミュージシャンを見出した所から始まりました。ヴァージンやオールドフィールドについては必ず別の機会にて。

バンドははじめにデモテープをEMIへ持っていきますが契約には至りませんでした。しかし、そのデモを聴いたヴァージンが彼らと契約。英はヴァージン、米ではエピックレコードにてレコードデビューする運びとなりました。これは当時ヴァージンが米での拠点を持ってなかった為。
1stアルバム「Kissing to Be Clever」(82年)は全英5位・全米14位を記録。きっかけは当アルバムからの3rdシングル「Do You Really Want to Hurt Me(君は完璧さ)」の大ヒット。全英1位・全米2位のビッグヒットとなり、一躍スターダムへ昇りつめます。
1stの音楽性はサンバ・カリプソ・サルサ・レゲエ、果てはアルゼンチンタンゴやスパニッシュまで、といった多種多様なワールドミュージックの要素を盛り込んだダンサンブルポップス、と呼べるもの。そもそもカルチャー・クラブというネーミングは、アイルランド系でゲイであるB・ジョージ、英国黒人であるマイキー・クレイグ(b)、ユダヤ系のジョン・モス(ds)、そして
アングロサクソンであるロイ・ヘイ(g)、といった面子に因るもの。この場合のカルチャーは「多民族・多人種の文化、ひいては多文化主義」、といった意味合いでしょうか。

しかし、1stには既にその後の音楽性、というかB・ジョージの根っこにある要素だと私は思っていますが、ソウル・R&Bといったブラックミュージックの匂いが漂っています。今回かなり、英文のウェブページなども拙い英語力でもって漁ってみたのですが、B・ジョージの音楽的ルーツに関する情報は得られませんでした。どうしても、彼についてはゲイであること、それに基づく”超個性的”なファッション、そして80年代後半からの麻薬所持をはじめとする犯罪沙汰に関する情報等が先に立ってしまっているようです。それらの事の陰になって見過ごされてしまっていると思うのですが、彼が非常に優秀なシンガー、特にイギリスにおけるブラックミュージックをリスペクトしたシンガーの中において、類稀なる実力を持った人であるという事です。

それが開花したのが、2ndアルバムで彼らの代表作でもある83年発表の「Colour by Numbers」。全世界で1000万枚以上売り上げた本作にて彼らは時代の寵児となりました。特に本作からの1stシングル「Karma Chameleon(カーマは気まぐれ)」は全英・全米を含む世界12か国でNo.1ヒットを記録しました。

ブルースハープの使用、ギターの音色にややカントリー&ウェスタンっぽさ、が感じられ、全米市場を意識したのかな、と思わせる曲であり、結果的に大成功を収めます。ちなみに上記のPVは間違いなくアメリカを意識して作られました。設定は19世紀のアメリカ。ミシシッピ川を汽船で行き来する道中を描いたもの。もっともどう見てもリオのカーニヴァル的なオネエチャン達が出てきてますので、その辺の設定は滅茶苦… もとい、ワールドワイドですが・・・
1stでも参加していましたが、本作では女性シンガー ヘレン・テリーの存在感が更に増しています。声を聴いただけでは間違いなく黒人女性と思ってしまいますが、彼女は英国白人女性です。本作にてヘレンをよりフィーチャーしたのは明らかに”黒っぽさ”を狙っての事かと私は思っています。ゴスペル的ナンバーのA-⑤「That’s the Way」にて、それは特に成功しています。

時系列は前後しますが、彼らのブラックミュージックリスペクトが最も表れたナンバーが、「君は完璧さ」のヒット後にリリースされたシングル「Time (Clock of the Heart)」。全英3位・全米2位と前シングルに続き大ヒットとなった本曲は、私が思うに彼らの真骨頂であるソウル色が明らかに、そして初めて前面に押し出されたナンバーだと思っています。

ちなみに全米で1位を阻んだのは映画「フラッシュ・ダンス」主題歌であるアイリーン・キャラの「ホワット・ア・フィーリング」。また本曲は英盤では基本的にアルバム未収録でしたが、当時は日本盤のみ「Colour by Numbers」にボーナストラックとして収録されていました。

はじめにEMIへ持ち込んだデモテープの内容が1stの内容だったか、もしくは既に2ndの音楽性を示していたのか分からないので何とも言えませんが、#36の記事にて述べた通り、イギリス人には無いものねだりとでも言うのか、実は強いブラックミュージックへの傾倒があります。仮にこのデモにてその片鱗があったとすれば、ヴァージンによる先見の明の勝利、と呼べるものでしょう。逆にEMIは金の卵を逃したといったところでしょうか。もっとも1stの内容であっても非凡ならざる音楽性でしたが。

彼らについて語られる時、B・ジョージの外見等の属性ばかりが取り上げられ、また先述したニューロマンティックと呼ばれる当時の流行りの中で売れたこともあって、一時期栄華を極めたアイドルバンドの一つ、と後年になって見なされてしまっている部分があります。しかしその音楽性は先に述べた通り、当時における最先端のエレクトリックポップやワールドミュージックなどの要素を取り入れながらも、その根底にはソウル・R&Bといったブラックミュージックがしっかりと根差しており、確固とした高い音楽性を有していたバンドでありました。私は彼らを、イギリスにおける優れたブルーアイドソウルのバンドの一つだと思っています。35年経った今聴いても、それは全く色あせていないのです。