#54 Cupid & Psyche 85

前回のカルチャー・クラブが大ブレークしていたほぼ同時期に、同じくイギリスにてデビューし、非常に高い音楽性でもって注目されていたバンドがいました。それが今回のテーマであるスクリッティ・ポリッティです。

 

 

 


結成は77年ですが、リーダーであるグリーン・ガートサイド(vo、g)の病気療養その他の事情によりデビューアルバムのリリースは82年となります。1stアルバム「Songs to Remember」はファンや評論家筋からは、代表作とされる2ndよりも音楽的には優れていると評される作品です。2ndの様なサウンド的インパクトはありませんが、グリーンなりに消化したと思われる独自のソウル、ファンク、スカ等の音楽が、前面に押し出され過ぎない程度の実験的ニューウェイヴ色にて彩られた作品です。プログレ・カンタベリー色が仄かに香るのは、#48にて取り上げたソフト・マシーンのロバート・ワイアットが参加している事に起因するのではないかと私は思っています。1stはラフ・トレードというレーベルからリリースされました。初期のヴァージンの様に先進的なミュージシャンを見出していた会社でしたが、この1stは全英12位と、ラフ・トレードとしては画期的とも言えるヒットを記録しました。

1stから2ndアルバムの間にもグリーンは病気療養のため一時帰郷します。元々は共産主義に傾倒し、(バンド名はそれに由来するそうです、私はよく知りませんが)、パンクロックにのめり込んで音楽を始めたらしいのですが、一度目の療養の際にパンクに対する興味はすっかり失い、代わりに聴き込んでいったのはソウル・ファンクといったブラックミュージックでした。二度目の療養時には初めて姉(妹)の持っていた(それまで肉親の音楽趣味を知らなかったのか?)ブラックミュージックを耳にしたとの事。またN.Y.で旋風を巻き起こしつつあったヒップホップにも影響を受けます。83年にグリーンはヴァージンと契約します。悪い言い方をすれば、ラフ・トレードのプロモーションには限界があるとして見限ったとも言えるでしょう(当然この後しばらく揉める事となります。仕方ないことですが…)。ヴァージンは前回取り上げたカルチャークラブ辺りから、急激にメジャー化していく途上でしたので、お互いのニーズが上手く合ったのかもしれません。そして米ではワーナーからのリリースとなります。

本作を検索すると枕詞のように大物プロデューサー アリフ・マーディンが関わった事が出てきます。トム・ダウドなどと共にアトランティック/ワ-ナーを大レコード会社へとのし上げた立役者。彼がイギリスの弱小レーベルからアルバムを1枚出しただけのグリーンと何故関わることになったのか?
結論から言うと、グリーンが渡米してから知り合ったボブ・ラスト(本バンドのマネージャーとなります)という人物がカギを握っていました。オリジナルメンバーとは袂を分かち、1st製作中に知り合った米国人デヴィッド・ギャムソン(key)を頼って渡米して、そこで新ドラマー フレッド・マーを加えて新生スクリッティ・ポリッティが誕生します。当初はラフ・トレードとの法的イザコザが残っていた為シングルの発売も思うようになりませんでしたが、そのトラブルを解決して、ワ-ナーとつないでくれたのもボブ・ラストだったようです。

本作についてはとにかくサウンドが画期的でした。私もデジタル機材やレコーディング技術などには疎いので上っ面の知識しかありませんが、フェアライトや発売間もないヤマハDX-7といったデジタルシンセサイザーの効果的な使用、サンプリングやシーケンサーと言った当時における最先端の技術、及び80年代に一世を風靡したゲートリバーブを駆使してのエフェクト処理、といった点がよく語られます。これは実際その通りで、当時ウチのお世辞にもハイスペックとは言えなかったステレオで聴いた時にも、音が他とは全く違う、別次元だ、と思ったのを記憶しています。これについてはD・ギャムソンの功績が大きかったようです。またポール・ジャクソン Jr.(g)やスティーヴ・フェローン(ds)といった第一線で活躍する名うてのセッションプレイヤーの起用なども話題となりました。さらにあまり取り上げられない事なのですが、超有名ベーシストであるウィル・リー(A-③)とマーカス・ミラー(A-⑤)の二人も参加しています。少なくともクレジットを見る限りではそうなっているのです。

アルバムリリース(85年)の前年、本作に収録される事となる「Wood Beez」「Absolute」「Hypnotize」が先ずシングルとして発売されました。これらはアルバムヴァージョンとは違うアレンジで、オッサン世代には懐かしの”12インチシングル”として発売されたと記憶しています(多分…)。アルバム発売直前に先行してリリースされた1stシングルが先にあげた「The Word Girl」。英では最高位6位と彼ら最大のヒットとなりました。米では2ndシングル「Perfect Way」が最もチャートアクションの良かった楽曲です。先述したマーカス・ミラーの参加がきっかけとなったのか、”帝王”マイルス・デイヴィスが自身のアルバム「TUTU」(86年)で本曲を取り上げています。マーカスは当時マイルスの”腹心”でした。これらの経緯があってか、3rdアルバム「Provision」(88年)では本格的なマーカス・ミラーの参加、さらになんとマイルスが一曲ではありますがトランペットを吹いています。

本バンドは当時、スタイル・カウンシルなどと共に、とかく”おしゃれなポップス”として扱われていた様な記憶があります。私はリアルタイム時、中~高校生でしかも田舎住みだったのでわかりませんでしたが、今になって私より少し上の年齢で、東京に住んでいたであろう方のブログなどを読むと、当時の”オシャレスポット”(オッサン達懐かしの『プールバー』とか…)でそれらの音楽がよくかかっていて、バブリーな男連中がこれまたバブリーなワンレン・ボディコンのオネエチャン達を、それらの場所で口説いていた、との事。ですが、スタイル・カウンシルは実は英での階級闘争などを隠喩的に歌っていたり、スクリッティ・ポリッティはこれまた哲学的で難解な歌詞であったりと、とても女性を口説くのに適した曲ではなかったと知ったのは、ずっと後になってからだった … との記事も見受けられました。言葉がわからなくて良かった、という事も時にはあるようです・・・
また本作は米では最高位50位と今一つ奮いませんでしたが、本国を含めたヨーロッパやその他の地域(勿論日本を含む)では高い評価を得て、またその業界や玄人筋から絶賛されました。比較的最近の事ですが、エルトン・ジョンが自身のラジオ「ロケット・アワー」15年10月放送にて、本作を”the best produced electronic album of the 1980s” と評しているそうです。”エレクトリック・アルバム”というのがこの場合はどの様な意味なのか、おそらくアコースティックの反対、つまり80年代におけるエレクトリック・デジタル的な機材ないし技術を駆使したアルバムの中で最も優れたもの、といったくらいの意味でしょうか。

しかし、本作と同様に高音質でサウンドインパクトがあった作品が他に無い訳ではなかったと思います。やはり本質的な部分、つまり音楽性の高さがその評価の元になっているのは言わずもがなです。私がベストトラックと思っているのが次にご紹介する「Wood Beez (Pray Like Aretha Franklin)」。

副題の”Pray Like Aretha Franklin”は、勿論アレサの名唱でも御馴染のバート・バカラック作「I Say a Little Prayer」にちなんだもの。今で言うオマージュソングといったところでしょうか。言うまでもなくアレサと深く関わっていたA・マーディンがいた事が大きく影響しているでしょう。ただ単に音が良くて、煌びやかなサウンドで持て囃された、というだけではない、少し変わったスタイルではありますが、その根っこにはブラックミュージックの精神を宿した、グリーン流のブルーアイドソウルであったのではないか、と私は思うのです。

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