#60 Method of Modern Love

83年10月、ホール&オーツは新曲2曲を含むベストアルバム「Rock ‘n Soul Part 1」を発表。本作からのシングルカット「Say It Isn’t So」も全米2位の大ヒット。ちなみに1位を阻んだのはポール・マッカートニーとマイケル・ジャクソンによるデュエット曲「Say Say Say」でした。ダリルいわく”80年代におけるフィラデルフィアサウンド”という楽曲。シングルとアルバムヴァージョンが異なりますが(上記はシングル)、個人的にはアルバム版の方が秀逸かと。「Rock ‘n Soul Part 1」も当然大ヒット。私の世代だと本作にて過去のヒット曲を知った、という人が多いのでは。80年代前半はこの様にベストアルバムだけど新曲も入っている、というパターンが多かったような気がします。スティービー・ワンダー、ビリー・ジョエル、カーズなど
同様のベスト盤をリリースしていました。新しい客層は勿論、既存のファンもちゃんと買えよ、というあこぎ… もとい、商売上手なリリースの仕方です。本アルバムとあわせて、ライヴの模様を収めたビデオ「Rock ‘n Soul Live」(同年3月のカナダ ケベック州公演)も発売されました。現在はユーチューブで観れてしまいます。

「Rock ‘n Soul Part 1」のエンディングに収録されたカナダ公演での「Wait for Me」。オリジナルは「モダン・ポップ」(79年)に収録され、同作からの1stシングルとして全米18位と、彼らとしてはスマッシュヒットといった程度のチャートアクションでしたが、本ベスト盤に収められたこのライヴヴァージョンは、ファンの間で非常に人気の高いテイクです。

 

 

 


84年10月、アルバム「Big Bam Boom」をリリース。1stシングル「Out of Touch」はこれまた全米No.1ヒット。本作はヒップホップ色が強くなり、また当時流行しつつあったラップも取り入れるなど、かなり時代の最先端を行ったサウンドでした。ゲートリバーブの効いたドラム、金属的なベース音、煌びやかなシンセの音色などはこの時代らしいものです。

今回のテーマである同作からの2ndシングル「Method of Modern Love」。初めて聴いた時は「何かヘンな曲…」、と思ってしまいます。テーマの部分が全てにおいて、脱力しているというか、悪い言い方をすれば腑抜けたように聴こえます。ブラス音のシンセによるフレーズ、パーカッション、そして『M-E-T-H-・・・』と連呼するコーラス、これら全てが”やる気あるんかい!”というようなものです。歌のパートに入ると、浮遊感と言えば聞こえは良いのですがやはり気が抜けています。唯一G. E. スミスによるボリューム奏法を駆使したギターがやや緊張感を保っている程度で、とにかく全てにおいて緊張感に乏しい楽曲です、途中までは・・・
しかし後半から一変します(上の動画で言うと3:50辺り)。一聴すると転調でもしたのかと思うほどガラッと変わりますが、このコーダのパートは歌でのBメロにおけるコード進行の上で成り立っています(若干違う部分も出てきますが)。テーマでひたすら繰り返されてきた『M-E-T-H-・・・』のコーラスが当該パートのコードに基づいて改めて歌われ、シンセの音色が煌びやかなものに変わり、そして何よりダリルのヴォーカルが変わります。これだけで全く曲の印象・曲調が変わる事は非常に興味深いものです。勿論全てはコーダにおけるダリルの歌をより引き立たせるため。そのために中盤までの気の抜けた様な曲調・サウンドがあったのです(少しヒドイ言い方かな…)。ここにおけるダリルのヴァーカルは圧巻の一言。当時ダリルは30代後半、シンガーとして最も”脂の乗っていた”時期だったと言えるでしょう。ビデオもその曲調に沿って制作されています。中盤まではコミカルな作り、特にドラムのミッキー・カリーが手に持って叩いているものに注目してください、トイレ用のブラシと所謂”スッポン(ズッポン)”です(正確にはラバーカップというらしいですが)、いくら何でも・・・

飛ぶ鳥を落とす勢いのホール&オーツにさらに嬉しい出来事が起こります。85年7月、イギリスのブルーアイドソウル・シンガー ポール・ヤングによる彼らのカヴァー曲「Everytime You Go Away」が全米1位となります。本曲は「モダン・ヴォイス」(80年)に収録された曲。#57にて本アルバムにはもう一つ重要な楽曲がある、と述べたのはこの事です。私のおぼろげな記憶では、ダリルとP・ヤングが一緒に歌った映像を観た記憶があるのですが(多分ヤングが何某かの賞を受けた時のステージにて)、今回いくら探しても出てきませんでした。代わりに85年5月に黒人音楽の殿堂 アポロシアターにて彼らのアイドルであったテンプテーションズのデヴィッド・ラフィン、エディ・ケンドリックスと共演した際に取り上げていますので、今回はこちらを。ちょうどヤングのヴァージョンがチャートを駆け上っていた頃であり、冒頭でカヴァーの事に触れています。

このコンサートは「Live at the Apollo」としてレコード化され、これまたヒットしています。

86年8月、ダリルは2枚目のソロアルバム「Three Hearts in the Happy Ending Machine」を発表。1stシングル「Dreamtime」は全米5位の大ヒット。本作はユーリズミックスのデイブ・スチュアートがプロデュースを務めており、前作同様、ホール&オーツとは異なるカラーを打ち出しています。やはりダリルの中にはイギリス・ヨーロッパ的感性が潜んでいるのではないかと思われます。ちなみに、「Dreamtime」は90年代前半に日本でミリオンセラーとなったある曲の元ネタになったのでは、としてその手の話としては定番です。興味のある人はググってみてください。
88年、アルバム「Ooh Yeah!」をリリース。第一弾シングル「Everything Your Heart Desires」が全米3位の大ヒットとなり、アルバムもプラチナディスクを獲得します。しかしオリジナルアルバムとしては本作が最後のプラチナとなり(01年のベスト盤は獲得しましたが)、商業的勢いはこの頃を境に、徐々に下降線をたどる事となっていきます。ではその中身、音楽的にも低迷していったのでしょうか?そのあたりは次回にて。

#59 One on One

冒頭は、前回長くなりすぎて書き切れなかった話から。
「I Can’t Go for That」は歌詞も一筋縄ではありませんでした。ザックリとした内容は、『君の望むものはなんだってしてあげる、けど、そいつは無理だよ。それだけは勘弁してくれ俺にはそれはできないよ』。概ねこの様な歌詞です。当然男女間の事柄を歌っているものと一般的には捉えられています。勿論その意味合いにも取れるように書かれたのでしょう。ところが、ジョンは14年にあるインタビューにて語りました。『実はあの歌詞はミュージック・ビジネスについて書いたんだ。レコード会社・マネージメントサイドに左右されるのではなく、自身の創造性に正直になるべきだ、と。』30年以上経って驚きのカミングアウトです。ここから先は全くの推論です、よろしければお付き合いください。
キッス・オン・マイ・リストの大ヒットによって、周囲は再びあの類の曲を出せば売れる、と考えるでしょう。これは商業音楽ですから致し方ありません。二人にも、極端な言い方をすれば次作は全曲キッス・オン・マイ・リストの様な曲で、と望んだかもしれません。実際アルバム「プライベート・アイズ」はブラックミュージック色のナンバーは減っています(私見ではA-②、③、B-⑤の3曲)。しかしすべてをポップソングにすることは出来なかったのです。まさしく”そいつは無理だよ、それだけはできないよ”、と。「I Can’t Go for That」は男女間を歌った様に見せかけた、ショウビズ界へのアンチテーゼだったのではないでしょうか。
また本作では、アレン姉妹の活躍が目立ちます。それまではアルバムにつき1~3曲だったのが、11曲中7曲に関わっています。彼女たち(特にジャナ)はポップソングをつくる才に長けていたようです。これにも周囲から「サラとジャナの力をもっと借りたらイイんじゃない?」、という提言というか誘導があったのでは、と勘繰ってしまいます。もっとも単純に、アルバムを出すのにダリルとジョンだけでは曲が足りなかったから、というのが一番の理由だったかもしれないですが…

82年10月、アルバム「H2O」をリリース。1stシングル「Maneater」も当然のように全米No.1。この曲は所謂”モータウンビート”と呼ばれるリズムで、代表的なものはシュープリームズの代表曲の一つである「You Can’t Hurry Love(恋はあせらず)」(66年)。数多くのミュージシャンにカヴァーされているあまりにも有名な楽曲ですが、私の世代だとフィル・コリンズによるカヴァー(82年)の方に馴染みがあります。80年代前半はこの手の曲が結構流行りました。ビリージョエル「Tell Her About It(あの娘にアタック)」(83年)、カトリーナ&ザ・ウェーブズ「Walking on Sunshine」(85年)、スティーヴィー・ワンダー「Part-Time Lover」(85年)等々。日本では原由子さんが83年にリリースした「恋は、ご多忙申し上げます」(曲は桑田佳祐さんによるもの)などがありました。

今回のテーマである2ndシングル「One on One」。ダリルが自身の作において最も気に入っていると公言している曲です。「I Can’t Go for That」同様に機械然としたリズムマシンによるビートの上で展開される楽曲ですが、こちらはだいぶ印象が異なります。無味乾燥なものとはならず、ほんのりとした温かみを感じさせる楽曲です。バンドのベーシスト トム”Tボーン”ウォークと一緒にいる時にアイデアが浮かんだとの事。ウォークの素晴らしいベースラインが特筆に値すると共に、ダリルのヴォーカルはやはり見事としか言いようがありません。前回「I Can’t Go for That」を”クールでホットなソウル”と形容しましたが、本曲は”クールかつハートウォーミングなソウルバラード”といったところでしょうか。本曲の歌詞もまた非常に興味深いものです。一聴するとバスケットボールと恋愛事をかけた様な内容。『チームプレイ(グループ交際みたいな意か?)はもうウンザリだ。一対一で、今夜君とプレイ・ゲームをしたいんだ』かなりエロティックな意味に取れます。勿論その意味にも引っ掛けたのでしょうが、後のコメントにて実はコンポーザー・ミュージシャンとしてのスタンスを歌ったものだと語っています。ジョンやサラ、ジャナとの共同作業がイヤだったとかいう訳ではなかったのでしょうが、一人の表現者としての自身を確立したい、といったくらいの意味合いを含ませたのでなかったかと思われるのです。この意味においての”君”は「音楽」に他ならないでしょう。ダリルは若い頃、外で遊ぶよりも本を読むことが好きだった、という文学少年・青年であり、彼の創る歌詞にはこの様な、先述の「I Can’t Go for That」もそうですが、ダブルミーニング、裏の意味を持たせたものがしばしば見受けられます。「キッス・オン・マイ・リスト」もラブソングの様に思えますが、実はアンチラブソングだ、と本人が後に語っています。

3rdシングル「Family Man」。英国ミュージシャン マイク・オールドフィールド作のカヴァーです。オールドフィールドの名前は知らなくても、映画「エクソシスト」のテーマ、と言えば殆どの人はピンとくるのでは。あの印象的なフレーズは「チューブラー・ベルズ」(73年)のイントロ部分です。実は映画においては当初無断使用で、しかも勝手にアレンジされたもの。当然もめるのですが、結果的に映画の大ヒットにより皮肉にも「チューブラー・ベルズ」はベストセラーを記録することとなります。「Family Man」は「Five Miles Out」(82年)に収録されている楽曲。「サラ・スマイル」の頃や、「キッス・オン・マイ・リスト」以降のホール&オーツしか知らなければ、なぜ彼らがイギリスのプログレ系ミュージシャン マイク・オールドフィールドの曲を?、と首を傾げたでしょう。しかし70年代後半におけるダリル達の活動を見れば本曲の起用は全く違和感のないものです。「プライベート・アイズ」の大ヒットによって、この頃には彼らのレコード会社やマネージメントサイドへの発言力も増していたのではないかと思います。アルバム「H2O」は前作よりも実験色が強くなっていますが、時代の勢いもあったのでしょうけれども、本作はホール&オーツにおいて最も好セールスを記録したアルバムとなりました。

ホール&オーツ回はもうちょっと続きます(いつまで続くのかな・・・(´・ω・`))。

#58 I Can’t Go for That (No Can Do)

キッス・オン・マイ・リストの大ヒットによって、再びポップミュージックのメインストリームに躍り出たホール&オーツですが、そこからちょっとだけ時間を遡ります。80年3月、ダリル・ホールは初のソロアルバム「Sacred Songs」をリリースします。実はこのアルバム、77年には録り終えていたのですが、その後約3年に渡ってお蔵入りされていたといういわくつきの作品。理由はホール&オーツの音楽性とのギャップから、彼らの人気及び世間からの評価、といった影響をRCA側が考慮したものでした。

 

 

 


プロデューサーはキング・クリムゾンのロバート・フリップ。ブルーアイドソウルのダリルと英国プログレッシヴロック界を代表するフリップ、一見すると全く相容れない様な組み合わせに思えます。キング・クリムゾンについては#15~17で取り上げましたので、詳しくはそちらを(と言って、さりげなく過去記事へ誘導…)。
出会いのきっかけについては詳しくわからないのですが、二人の最初の出会いは74年の事。その時にはすでに互いの作品についてそれぞれ精通していて、一緒に仕事をしようと意気投合していたそうです。意外なのは、74年ということはホール&オーツに関して言えば「サラ・スマイル」がヒットする前、世間的には殆ど認知されていなかった彼らについて、海を隔てたフリップが彼らの音楽を知っていたという事です。77年、ヒットは出したものの、それよりも表現者としての自身にとってこれからの音楽、ひいては人生においてもっと重要なものがあるのではないかと、その見通しに限界を感じ悩んでいたダリルは再度フリップへ連絡を取ります。
前々回#56にて、3rdアルバム(74年)が奇才トッド・ラングレンによるプロデュースという事については触れましたが、これに関してダリル達からの要望だったか、レコード会社側からあてがわれたものなのか、そのいきさつについては調べてみてもわかりませんでした。トッドはアメリカ人であり、またその音楽がプログレにカテゴライズされることはあまりないと思いますが、一般的なアメリカンミュージックには収まり切らないワンアンドオンリーな音楽性でした。いずれにしろ74年時点において、ダリルがロック・ソウル・フォークといった音楽のみならず、プログレをはじめとした非アメリカ的音楽に関心を持った、あるいは既に持っていたのではないかと推測できます。
「Sacred Songs」については、フリップの曲及び二人の共作以外、つまりダリルの曲はホール&オーツ初期にあった様な比較的地味めの小作品集と呼べるもの。しかし、本作がその後のダリルの音楽性へ影響を与えた事は想像できます。ちなみに本アルバムが発売延期されたことで、今度はフリップのソロ作「Exposure」(79年)にダリルが参加する運びとなります。この時期、フリップは本作、ピーター・ガブリエルの2ndアルバム、及び自身の「Exposure」を三部作と位置付けていました。ピーターの作品にダリルは関わっていませんが、これら一連の活動を通じてそれまでには無かった”引き出し”を獲得出来たのではなかったでしょうか。

81年9月、アルバム「Private Eyes(プライベート・アイズ)」をリリース。先行シングルであるタイトル曲は全米No.1の大ヒット、あまりにも有名な彼らの代表曲です。元々この曲はジャナ・アレンとウォーレン・パッシュというソングライターによって作られた曲。だいぶ前ですが、BS-TBSの『SONG TO SOUL』という、過去の洋楽におけるヒット曲及びそれが生まれた背景を紹介する番組で本曲が取り上げられていました。ジャナのアルバム用に作られたものだったのですが、ある日ジャナからパッシュへ電話があり、この曲は使わない事にしたとの旨を告げられます。パッシュは「仕方ないね、イマイチの曲だったし…」と言いかけたところ、ジャナは「違うわよ、ホール&オーツが使いたいと言っているのよ!」との事、パッシュは仰天します。ダリルがコードを付け直す等のアレンジをし、サラと共に歌詞を書いて本曲は完成しました。ダリルいわく”ファミリーソング”。サラとは籍を入れる事はなかったのですが事実上の家族だった訳です。また番組ではホール&オーツ・バンドのギタリストであり、彼らの盟友であるG. E. スミスが出ていました。シンプルでありながら、あまりにも印象的な、ある意味「プライベート・アイズ」という楽曲を決定付けたような、あのイントロのフレーズについて語っています。当時、自分はあの界隈で”最もシンプルに弾くギタリスト”と言われていた、などと自嘲半分・ユーモア半分に述べていました。

今回のテーマである本アルバムからの2ndシングル「I Can’t Go for That (No Can Do)」。前曲に続いてNo.1ヒットとなり、ベスト盤が出れば必ず収録される代表曲の一つであることは勿論言うまでもないのですが、本曲は彼らのそれまでにおける他のヒット曲には無い、重要な要素・意味合いを持っていました。
中学生の時分に初めて聴いた時、悪い曲とは勿論思わなかったのですが、やはりまず気に入ったのはプライベート・アイズやキッス・オン・マイ・リストといったポップなナンバーであり、本曲はよくわからないけど不思議な印象の曲だな、と思った記憶があります。
まず耳につくのはリズムマシンによる、悪い言い方をすれば”チープな音色のリズム”。当時のテクノロジーは勿論今とは比較になりませんが、それにしてもあまりにも”機械然とした”音です。そしてこれまたあまり血の通った感じのしないギターとシンセによるリフ。ダリルの歌も他と比べると感情表現が抑えられたクールな歌い方、コーラスも同様です。
本曲が全米No.1になったと前述しましたが、実は彼らの本曲を含めた6曲のNo.1ヒットの中で、他と異なる点があります。ポップスチャートのみならず、R&Bチャートでも1位を記録したのです(ついでに言うとダンスチャートでも、全てビルボードにおいて)。R&BチャートでNo.1になる、つまり黒人層にも受け入れられたという事。これは白人ミュージシャンとしては珍しい事です。
現在では違うかもしれませんが、少なくとも80年代初頭においては、ソウルミュージックというとアレサ・フランクリンやオーティス・レディングといった魂が揺さぶられる様な歌、生楽器による血の通った演奏、といったイメージだったと思います。ところが本曲はおよそそれらとはかけ離れている、というよりむしろ真逆を張った様な楽曲です。この一聴すると無機質かつ人の”魂”を感じさせない様に思える本曲に対して、当時の黒人層は新しい魅力を感じたようです。
先ほどから無機質・血が通っていないなどと、まるで本曲を貶めるような言い方をしてきましたが、勿論私もそんな風には思っていません。例えるなら、本曲は陳腐な言い方ですが”クールでホットなソウル”とでも呼べるもの。チープに聴こえるリズムマシンや無機質なシンセ等の音色・フレーズは明らかに”狙った”ものでしょう。この様な”クールなグルーヴ”と呼べるリズムは、メインストリームのポップスにおいてはそれまで無かったものです。あえて感情表現を抑えた中に秘めたソウルを感じさせることに見事成功しており、また間奏のチャールズ・デチャントのサックスソロもそれによってより活きるのです。

前々回からトッド・ラングレンやロバート・フリップとのつながり、70年代後半における低迷期などつらつらと書いてきましたが、方向性を見失ったなどと言われる一連の活動は決して無駄だったのでなく、それらがあったからこそ本曲は生まれたのだと思います。機械然としたリズムマシンの使い方は、ポップス界では、その1~2年前からフィル・コリンズが自身のソロやジェネシスにて行っていました。ドラマーであるフィルが、あえて生ドラムとのコントラスト効果を引き立たせたその様なマシンの活かし方をしたのは興味深いものです。ダリルとフィルに直接の繋がりはなかったようですが、フリップをはじめとしたイギリスのミュージシャン達との交流から、一見ホール&オーツには全くそぐわない様に思えるプログレやテクノポップといった音楽から影響を受け、そして遂に本曲にてそれらが音楽的・商業的成功へと開花したのではないでしょうか。
この頃を境に、今度は本家の黒人ミュージシャン達が本曲の様にシンセサイザーやリズムマシンを積極的に使った、新しいソウル・R&B、ブラックコンテンポラリーと呼ばれるカテゴリーを創り上げていきます(一例だけ挙げればマーヴィン・ゲイ「Sexual Healing」(82年))。90年代以降についてはR&Bと言えば、その様な音楽を指すようになったと言われています。前々回で、ブルーアイドソウルという言葉が黒人側からの差別的ニュアンスもあったと述べました。しかしここに至って遂に白人側からソウルミュージックへ影響を与える、フィードバックさせる事となったのです。アンテナの鋭い当時の黒人層が本曲にこれまでには無い魅力を感じ、”碧い目の奴らがつくったソウルとか何とか関係ねえ!俺たちはこういうのが聴きたかったんだ!”
といった様な感じで受け入れられていったのでは、と思うのです。

また本曲にはあるエピソードがあります。マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」、これが本曲のベースラインからインスパイアされ作られた、というもの。「ウィ・アー・ザ・ワールド」(85年)のレコーディング時にマイケルはダリルへその事を告白します。その時ダリルが言ったのは、『僕の曲を参考にしたと君は言うが、それはそれまでに君が聴いてきた他の様々な曲、君の中にあるもの、血肉となっているものから生まれたんだよ。我々ミュージシャンは何かしらそういったものの積み重ねから、皆同じようなことをやってきているんだよ』の様な旨。少し意訳した部分もありますが、音楽というものはそれまでの色々なものがミクスチャーあるいはフィードバックされて産み出され、また次世代へ受け継がれていくんだということ。ダリルが言いたかったのは概ねこの様な意味であったのは間違いないでしょう。黒人音楽に憧れ、そのような音楽を作りたいとその道を志した白人であるダリルが、当時は既にCBSへ移籍していましたが、元はソウル本家であるモータウンの看板シンガーであった黒人のマイケルへ今度は影響を与える。すべては廻り回って繋がっているのです。

#57 Kiss on My List

77年の初めに「リッチ・ガール」がNo.1ヒットとなったホール&オーツですが、同年9月リリースのアルバム「Beauty on a Back Street(裏通りの魔女)」が30位、「Along the Red Ledge(赤い断層)」(78年)27位、「X-Static(モダン・ポップ)」(79年)33位と、何とかTOP40に入る程度。シングルは「It’s a Laugh」(78年)20位、「Wait for Me」(79年)18位というチャートアクションで、TOP20に辛うじて入っている、といった結果でした。「裏通りの魔女」と「赤い断層」は結果的にゴールドディスクとはなりましたが、やはりかつてはNo.1ヒットを飛ばしたグループとしてはその結果はやや寂しいものでした。率直に言って人気の低迷期といって差し支えないでしょう。

 

 

 


だからと言って内容的にも落ち込んでいたかというと決してそうとは言い切れませんでした。この時期を評して、昔よく言われたのが”過渡期・試行錯誤”といったものでした。一時期のデヴィッド・ボウイもそうでしたが、アルバム毎にカラーが変わったとされます。「裏通りの魔女」はハードロック、「赤い断層」がフィル・スペクターサウンド、そして「モダン・ポップ」はディスコやニューウェイヴ。サラ・スマイルやリッチ・ガールの頃のブルーアイドソウル色が薄れ、良く言えば新しい音楽性に果敢にチャレンジ、悪く言えば方向性を見失ったと言われます。私見ですが、作品毎にガラッと変わったという訳では無く、それまでの音楽性を3~5割踏襲しながら新しい試みに挑戦していった、といった所が実際だったと思っています。レコード会社もおざなりな扱いをした、とかいう事では決してなく、むしろ参加ミュージシャン達を見るとすごい面子が起用されていたりします。
今回調べていて初めて気が付いたのですが、「裏通りの魔女」のドラムはジェフ・ポーカロです。確かにあのドラムはジェフの音色です。30年以上経って改めて判る事がいまだにあります… 他にはトム・スコット、ジョージ・ハリスン、スティーヴ・ルカサー、さらには何とロバート・フリップまで。もっともフリップの参加には理由があります、これは次回にて。

80年7月、アルバム「Voices(モダン・ヴォイス)」を発表。よく”原点回帰”をした作品と評されます。つまり彼らのルーツであるソウルミュージックへ戻ったという事。半分当たっていて、半分は適当ではない評価かな、と個人的には思っています。先述したように全曲ソウルへと回帰したかというとそうではなく、具体的に言えばA面は1stシングルであるジョン作のA-①とA-⑥を除けばストレートなロックナンバー及びポップソングで固められており、B面がブラックミュージックサイドと呼べるものでした。余談ですが昔はA面とB面で楽曲やサウンドをはっきり分けているアルバムが結構ありました、レコードという媒体の特性があってこその事だった訳ですが、CDや配信の時代になって意味が無くなりましたが・・・

ライチャス・ブラザーズによるヒットであまりにも有名な、バリー・マン/シンシア・ワイル、そしてフィル・スペクターによる、ブルーアイドソウル並びにフィル・スペクターサウンドの名曲として名高い「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’(ふられた気持ち)」を2ndシングルとしてリリース。全米12位という久々のヒットを記録します。

3rdシングル「Kiss on My List」、今回のテーマです。元々はダリルと長年に渡り、公私共におけるパートナーであったサラ・アレンの妹 ジャナが歌う目的でダリルとジャナによって作られた楽曲。しかしダリルが歌ったデモテープを聴いたスタッフがそのあまりの出来の良さに、これはホール&オーツとして出すべきだ、とプッシュした事から「モダン・ヴォイス」へ収録されます。本当に人生というのは何をきっかけとして好転(勿論その逆も)するかわかりません。本曲はみるみるうちにチャートを駆け上がり、3週連続全米No.1の大ヒットとなり、その年のシングル年間チャートにおける第7位となります。
本曲は決してソウル色の強いナンバーという訳ではありません。リズムボックスが生ドラムと混在して使われているという点を除けば、非常にシンプルな楽器編成で特に実験的要素なども感じられないポップソングです。ヒットの要因はひとえに楽曲の良さ、楽曲に寄り添ったシンプルではあるがツボを得た好演、そして勿論のこと、不世出のシンガー ダリル・ホールによる素晴らしい歌、これらが人々の心を打ったのです。なおトリビア的な事柄ですが、本曲のビデオクリップは81年から始まったMTVの初回放送時において流されたものの一つです。

この大ヒットをきっかけとして彼らの第二次黄金期がスタートするのは周知の事実です。ソウルミュージックへの原点回帰と評されたアルバムからシングルカットされ、再ブレークの火付け役となった楽曲ですが、それはブルーアイドソウル的ナンバーではありませんでした。(しかし彼らがソウルを捨てた、とかいう訳ではありません。それはこの後すぐにわかります。)

多分本来はシングルカットされる予定は無かったのだと思われますが、前曲の大ヒットを受けてリリースされたのでしょう。4thシングル「You Make My Dreams」も全米5位の大ヒット。彼らの素晴らしい所は、二匹目のナンチャラを狙うのであれば前曲同様のポップソングをシングルとしてリリースしそうなものですが、それはせずに、自分たちの”根っこ”であるブラックミュージックをあえて持ってきたことです。結果、それは大成功しました。また、本作には大変重要な楽曲がもう一曲収録されていますが、それはまた次回以降で。