#58 I Can’t Go for That (No Can Do)

キッス・オン・マイ・リストの大ヒットによって、再びポップミュージックのメインストリームに躍り出たホール&オーツですが、そこからちょっとだけ時間を遡ります。80年3月、ダリル・ホールは初のソロアルバム「Sacred Songs」をリリースします。実はこのアルバム、77年には録り終えていたのですが、その後約3年に渡ってお蔵入りされていたといういわくつきの作品。理由はホール&オーツの音楽性とのギャップから、彼らの人気及び世間からの評価、といった影響をRCA側が考慮したものでした。

 

 

 


プロデューサーはキング・クリムゾンのロバート・フリップ。ブルーアイドソウルのダリルと英国プログレッシヴロック界を代表するフリップ、一見すると全く相容れない様な組み合わせに思えます。キング・クリムゾンについては#15~17で取り上げましたので、詳しくはそちらを(と言って、さりげなく過去記事へ誘導…)。
出会いのきっかけについては詳しくわからないのですが、二人の最初の出会いは74年の事。その時にはすでに互いの作品についてそれぞれ精通していて、一緒に仕事をしようと意気投合していたそうです。意外なのは、74年ということはホール&オーツに関して言えば「サラ・スマイル」がヒットする前、世間的には殆ど認知されていなかった彼らについて、海を隔てたフリップが彼らの音楽を知っていたという事です。77年、ヒットは出したものの、それよりも表現者としての自身にとってこれからの音楽、ひいては人生においてもっと重要なものがあるのではないかと、その見通しに限界を感じ悩んでいたダリルは再度フリップへ連絡を取ります。
前々回#56にて、3rdアルバム(74年)が奇才トッド・ラングレンによるプロデュースという事については触れましたが、これに関してダリル達からの要望だったか、レコード会社側からあてがわれたものなのか、そのいきさつについては調べてみてもわかりませんでした。トッドはアメリカ人であり、またその音楽がプログレにカテゴライズされることはあまりないと思いますが、一般的なアメリカンミュージックには収まり切らないワンアンドオンリーな音楽性でした。いずれにしろ74年時点において、ダリルがロック・ソウル・フォークといった音楽のみならず、プログレをはじめとした非アメリカ的音楽に関心を持った、あるいは既に持っていたのではないかと推測できます。
「Sacred Songs」については、フリップの曲及び二人の共作以外、つまりダリルの曲はホール&オーツ初期にあった様な比較的地味めの小作品集と呼べるもの。しかし、本作がその後のダリルの音楽性へ影響を与えた事は想像できます。ちなみに本アルバムが発売延期されたことで、今度はフリップのソロ作「Exposure」(79年)にダリルが参加する運びとなります。この時期、フリップは本作、ピーター・ガブリエルの2ndアルバム、及び自身の「Exposure」を三部作と位置付けていました。ピーターの作品にダリルは関わっていませんが、これら一連の活動を通じてそれまでには無かった”引き出し”を獲得出来たのではなかったでしょうか。

81年9月、アルバム「Private Eyes(プライベート・アイズ)」をリリース。先行シングルであるタイトル曲は全米No.1の大ヒット、あまりにも有名な彼らの代表曲です。元々この曲はジャナ・アレンとウォーレン・パッシュというソングライターによって作られた曲。だいぶ前ですが、BS-TBSの『SONG TO SOUL』という、過去の洋楽におけるヒット曲及びそれが生まれた背景を紹介する番組で本曲が取り上げられていました。ジャナのアルバム用に作られたものだったのですが、ある日ジャナからパッシュへ電話があり、この曲は使わない事にしたとの旨を告げられます。パッシュは「仕方ないね、イマイチの曲だったし…」と言いかけたところ、ジャナは「違うわよ、ホール&オーツが使いたいと言っているのよ!」との事、パッシュは仰天します。ダリルがコードを付け直す等のアレンジをし、サラと共に歌詞を書いて本曲は完成しました。ダリルいわく”ファミリーソング”。サラとは籍を入れる事はなかったのですが事実上の家族だった訳です。また番組ではホール&オーツ・バンドのギタリストであり、彼らの盟友であるG. E. スミスが出ていました。シンプルでありながら、あまりにも印象的な、ある意味「プライベート・アイズ」という楽曲を決定付けたような、あのイントロのフレーズについて語っています。当時、自分はあの界隈で”最もシンプルに弾くギタリスト”と言われていた、などと自嘲半分・ユーモア半分に述べていました。

今回のテーマである本アルバムからの2ndシングル「I Can’t Go for That (No Can Do)」。前曲に続いてNo.1ヒットとなり、ベスト盤が出れば必ず収録される代表曲の一つであることは勿論言うまでもないのですが、本曲は彼らのそれまでにおける他のヒット曲には無い、重要な要素・意味合いを持っていました。
中学生の時分に初めて聴いた時、悪い曲とは勿論思わなかったのですが、やはりまず気に入ったのはプライベート・アイズやキッス・オン・マイ・リストといったポップなナンバーであり、本曲はよくわからないけど不思議な印象の曲だな、と思った記憶があります。
まず耳につくのはリズムマシンによる、悪い言い方をすれば”チープな音色のリズム”。当時のテクノロジーは勿論今とは比較になりませんが、それにしてもあまりにも”機械然とした”音です。そしてこれまたあまり血の通った感じのしないギターとシンセによるリフ。ダリルの歌も他と比べると感情表現が抑えられたクールな歌い方、コーラスも同様です。
本曲が全米No.1になったと前述しましたが、実は彼らの本曲を含めた6曲のNo.1ヒットの中で、他と異なる点があります。ポップスチャートのみならず、R&Bチャートでも1位を記録したのです(ついでに言うとダンスチャートでも、全てビルボードにおいて)。R&BチャートでNo.1になる、つまり黒人層にも受け入れられたという事。これは白人ミュージシャンとしては珍しい事です。
現在では違うかもしれませんが、少なくとも80年代初頭においては、ソウルミュージックというとアレサ・フランクリンやオーティス・レディングといった魂が揺さぶられる様な歌、生楽器による血の通った演奏、といったイメージだったと思います。ところが本曲はおよそそれらとはかけ離れている、というよりむしろ真逆を張った様な楽曲です。この一聴すると無機質かつ人の”魂”を感じさせない様に思える本曲に対して、当時の黒人層は新しい魅力を感じたようです。
先ほどから無機質・血が通っていないなどと、まるで本曲を貶めるような言い方をしてきましたが、勿論私もそんな風には思っていません。例えるなら、本曲は陳腐な言い方ですが”クールでホットなソウル”とでも呼べるもの。チープに聴こえるリズムマシンや無機質なシンセ等の音色・フレーズは明らかに”狙った”ものでしょう。この様な”クールなグルーヴ”と呼べるリズムは、メインストリームのポップスにおいてはそれまで無かったものです。あえて感情表現を抑えた中に秘めたソウルを感じさせることに見事成功しており、また間奏のチャールズ・デチャントのサックスソロもそれによってより活きるのです。

前々回からトッド・ラングレンやロバート・フリップとのつながり、70年代後半における低迷期などつらつらと書いてきましたが、方向性を見失ったなどと言われる一連の活動は決して無駄だったのでなく、それらがあったからこそ本曲は生まれたのだと思います。機械然としたリズムマシンの使い方は、ポップス界では、その1~2年前からフィル・コリンズが自身のソロやジェネシスにて行っていました。ドラマーであるフィルが、あえて生ドラムとのコントラスト効果を引き立たせたその様なマシンの活かし方をしたのは興味深いものです。ダリルとフィルに直接の繋がりはなかったようですが、フリップをはじめとしたイギリスのミュージシャン達との交流から、一見ホール&オーツには全くそぐわない様に思えるプログレやテクノポップといった音楽から影響を受け、そして遂に本曲にてそれらが音楽的・商業的成功へと開花したのではないでしょうか。
この頃を境に、今度は本家の黒人ミュージシャン達が本曲の様にシンセサイザーやリズムマシンを積極的に使った、新しいソウル・R&B、ブラックコンテンポラリーと呼ばれるカテゴリーを創り上げていきます(一例だけ挙げればマーヴィン・ゲイ「Sexual Healing」(82年))。90年代以降についてはR&Bと言えば、その様な音楽を指すようになったと言われています。前々回で、ブルーアイドソウルという言葉が黒人側からの差別的ニュアンスもあったと述べました。しかしここに至って遂に白人側からソウルミュージックへ影響を与える、フィードバックさせる事となったのです。アンテナの鋭い当時の黒人層が本曲にこれまでには無い魅力を感じ、”碧い目の奴らがつくったソウルとか何とか関係ねえ!俺たちはこういうのが聴きたかったんだ!”
といった様な感じで受け入れられていったのでは、と思うのです。

また本曲にはあるエピソードがあります。マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」、これが本曲のベースラインからインスパイアされ作られた、というもの。「ウィ・アー・ザ・ワールド」(85年)のレコーディング時にマイケルはダリルへその事を告白します。その時ダリルが言ったのは、『僕の曲を参考にしたと君は言うが、それはそれまでに君が聴いてきた他の様々な曲、君の中にあるもの、血肉となっているものから生まれたんだよ。我々ミュージシャンは何かしらそういったものの積み重ねから、皆同じようなことをやってきているんだよ』の様な旨。少し意訳した部分もありますが、音楽というものはそれまでの色々なものがミクスチャーあるいはフィードバックされて産み出され、また次世代へ受け継がれていくんだということ。ダリルが言いたかったのは概ねこの様な意味であったのは間違いないでしょう。黒人音楽に憧れ、そのような音楽を作りたいとその道を志した白人であるダリルが、当時は既にCBSへ移籍していましたが、元はソウル本家であるモータウンの看板シンガーであった黒人のマイケルへ今度は影響を与える。すべては廻り回って繋がっているのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です