#69 Tooth and Nail

前回も触れましたが、イアン・マクドナルド アル・グリーンウッドが脱退した事により(実際ははじめのうちはレコーディングに参加していた)、4thアルバム「4」からその音楽性も変化したと一般には言われます。前作がロック色の強いアルバムであったことと、シングルヒットした「Waiting for a Girl Like You(ガール・ライク・ユー)」の印象が強いせいもあってか、ポップになった、バラードで売れ線を意識するようになったなど、毎度の如く(特に日本の一部の評論家による)批判的な評価がなされたそうです。二人の脱退が影響を及ぼした事は間違いありませんが、その音楽が軟弱になったなどとは私は全く思いません。

前回の枕の部分で話に出した「ガール・ライク・ユー」のチャートアクションについてですが、ある意味No.1ヒットとなるよりもかえって後世に語り継がれる結果となったのかもしれません。ちなみに2位どまりだったのはビルボードとキャッシュボックスであり、ラジオ&レコードでは1位を記録していて、逆にオリビア・ニュートン・ジョンの「フィジカル」が2位どまりだったそうです。

 

 

 


フォリナーにとって最大のヒットにて代表作「4」。本作について昔は1000万枚以上のセールスを記録したと言われていて、現在本作について検索してみるとその売り上げは1500万枚に及んでいるとの記述が幾つかのサイトで見られました。80年代で既に1000万以上だったのだから、今日ではその位のセールスに達していてもおかしくはないかと私も思っていたのですが、調べてみるとこの数字には疑義がある事が判りました。1500万枚という数字の元になったのは、日本版ウィキのフォリナーに関するページに記述されているダリル・ホールのコメントの様です。#58でも取り上げた「プライベート・アイズ」をレコーディングしている時期に、隣のスタジオでフォリナーも「4」の制作に取り掛かり始めたらしく、ホール&オーツが録音を終えツアーに出て、また同じスタジオに戻り次作の制作を始めた時点でも、彼らは隣でまだ「4」のレコーディングを行っていた。しかしそれは自身達の「プライベート・アイズ」の15倍も売れたのだけれど… つまりそれだけ時間がかかった作品の様だったけど、自分達よりも爆発的に売れたんだけどね、というちょっとした笑い話。このインタビューがいつ頃、何処でのものなのかは調べても判りません。「プライベート・アイズ」もプラチナディスク(米では100万枚)を獲得していますので、その15倍という事で1500万枚という売り上げの根拠になったのだと思います。このコメントが本当にあったものだとすれば、ダリルが単に間違っていただけで、その位「4」はバカ売れしたという例え話です。しかし英語版のウィキを見ると、1500万枚はおろか1000万以上という記述もなく、あるのはRIAA(全米レコード協会)が認定した”6 Platinum”(つまり600万枚)の記述です。ウィキも絶対ではないので、念の為RIAAのサイトに行って確認しましたが(物好きだね…(´・ω・`))91年8月に『6x Multi-Platinum』と認定されていますので、これは信頼できる数字でしょう。
欧州各国では英での30万枚を筆頭に数十万から数万枚(ヨーロッパではこれでも大ヒットです)のセールスですので、1500万は勿論のこと1000万枚というのも怪しくなってきます。実際は世界中で700~800万枚といったところだと思われます。それでもビッグヒットには変わりませんが・・・

84年12月、「Agent Provocateur」を発表。1stシングル「I Want To Know What Love Is」が初の全米No.1シングルとなります。「ガール・ライク・ユー」の無念を晴らしたと言った所でしょうか。本作は基本的に前作の流れを汲むもの。しかし81年と84年、たった3年の差ですがこの時期ポップス界は楽器の音色・レコーディング技術に関して目覚ましい変化が起こっていたことはこれまでの記事でも触れてきましたが、本作も例外ではなく特にシンセやドラムの音色がこの時代らしいものになっています。1stシングルがバラードだったこともあってか、先述の様な評論家達による批判がこの時もあったように記憶しています。人の創ったものにケチをつけるだけのカンタンなオシゴトです
(´・ω・`)………

オープニング曲「Tooth And Nail」。骨のある硬派なロックナンバーです、売れ線とかほざいていた人達の気が知れません。もう一つガッツリとしたロックチューンを、A面ラスト「Reaction to Action」。

ミック・ジョーンズは決して速弾きを得意とするテクニカルなギタリストではありませんが、硬質でありながら粘り気の様なものも併せ持つ非常に個性的なプレイヤーだと思います。この点ではAC/DCのアンガス・ヤングに通じるところがあるように感じています。どちらもギブソン使い(ミックはレスポール、アンガスはSG)という共通点もあり、パワフルなトーンはそれに起因する所も大きいでしょう。そういえばギブソンは破産してしまいましたね、無理な事業多角化が裏目に出たらしいですが、ギター事業は継続するようです。高くて手は届きませんが……
…(´Д`)

これだけのビッグセールスを誇ったフォリナーですが、よく同じジャンルにカテゴライズされるジャーニー、スティックスなどと比べると日本での知名度はいまいち低いものでした。80年代までは情報源が雑誌・ラジオ・テレビと限られていたため、それらで取り上げられないと売れないという側面があったためでしょう。
オリジナルメンバーはミックのみとなりましたが、現在でもフォリナーは現役です。40年以上に渡り一度も解散せず活動を続けており、ビーチ・ボーイズ、ローリング・ストーンズがロック・ポップス界における現役最古参ではありますが、フォリナーは彼らに次いで継続した活動を歩んできた数少ないバンドでしょう。懐メロを期待するリスナー向けのバンド、の様な酷評をする人達もいますが、続けても続けなくてもケチをつける人はいつの世にもいるものです………懐メロ、大いに結構! 時が経てばどんな最先端でもいつかは懐メロになる日が来るのですから。

#68 Feels Like the First Time

前回の80年代に活躍した女性シンガー回にて、奇しくも80年と81年の年間シングルチャートNo.1について触れました(ブロンディとキム・カーンズ)。そして82年の年間シングル1位も女性シンガーによるものでした。言わずと知れたオリビア・ニュートン・ジョン最大のヒット、ビルボードで9週に渡って(10週という説もあり)首位を独走した「Physical(フィジカル)」。あまりにも有名な曲なので今更説明の必要もないでしょうし、また今回取り上げるのは本曲やオリビアについてではありません。この頃の洋楽にある程度詳しい人なら既知の事でしょうが、「フィジカル」に阻まれて1位になれず、史上最も長くチャートの2位に甘んじた(悲劇の?)曲というのがあります。フォリナーによる81年発表の「Waiting for a Girl like You(ガール・ライク・ユー)」がそれです。

 

 

 


フォリナーは76年、N.Y.にて結成されたバンド。イギリス人とアメリカ人それぞれ3人ずつ、6名から成るグループで、バンド名の「Foreigner」(=外人・よそ者)はそれに由来するもの。#15~17で取り上げたキング・クリムゾンの結成メンバーであったイアン・マクドナルドやミック・ジョーンズ(g)らの英国側と、ルー・グラム(vo)をはじめとする米国側の混成バンドでしたが、イアンをはじめとして各々が既に活躍の実績があったので、所謂”スーパーグループ”と結成当時は持て囃されたそうです。

77年、1stアルバム「Foreigner(栄光の旅立ち)」にてレコードデビュー。上記のシングル曲「Feels Like the First Time(衝撃のファースト・タイム)」と共に大ヒットし、バンドは順風満帆の出発となりました。やはりイアン・マクドナルドの影響からか、初期のフォリナーにはプログレッシヴロックの香りが漂っています。これは2nd以降は薄れていき、ミックとルーがイニシアティブを取るようになるにつれてイアン色は影を潜めていき、やがて脱退に至ります。2ndアルバム「Double Vision」(78年)は1stを上回るセールスを記録し、バンドは更に上り調子に。本作からシングルカットされた「Hot Blooded」(全米3位)、「Double Vision」(全米2位)も共に大ヒット。その人気を決定的なものとしました。

3rdアルバム「Head Games」はタイトなロック色を強めたアルバムとなり、これまた大ヒット。本作を最後にイアンとアル・グリーンウッド(key)が脱退したと一般には言われていますが、実は二人は、次作でバンド最大のヒットとなった代表作「4」のレコーディングに途中までは参加していたそうです。本作から「Dirty White Boy」、多分口パクですが・・・

この様に、70年代の彼らは当初においてはプログレ色も併せ持ったロックンロールバンドであり、次第にその音楽性はタイトかつハードなロックへと移り変わっていきました。やがてフォリナーは「ガール・ライク・ユー」に代表作されるバラードがシングルとしてヒットしたこともあり、特に日本の一部の評論家・ライターと称する人物達から、バラード重視の売れ線バンドの様なレッテルを張られる事が多々ありました。この点においてはジャーニーなどと同じく不当かつ無礼な評価がなされていました。ロックバンドがバラードを作る事が悪いなどと微塵も思いませんし、そもそも商業音楽において売れるのを意識する事を否定していたら、その音楽自体が成立しません。80年代までは情報が限られていた事もあり、先の評論家と言われる人物たちの影響を受けてしまう事がなかなか避けられなかったのですが、インターネット時代になり彼らの評価が非常に偏った、言ってしまえばただ彼らの好みに基づくものだったのだということに気づく人が大勢を占めるようになって、現在ではさすがに先述の様な不当な評価を鵜呑みにする人は減ったようです。結局は聴き手がそれぞれ自分で判断すれば良いのです。

70年代のフォリナーの音楽が最も端的に表れていると私が思うのが、2ndに収録された「Hot Blooded」。私の世代だと82年にリリースされたベスト盤「Records」のエンディングに収録されたライヴヴァージョンが印象に残っています。本盤に収録された演奏がいつのものなのか、調べても結局わかりませんでしたが、記憶の限り下の動画が一番近い様な気がしますので今回はこちらを。81年ドイツでのライヴという事なので、時期的にもこの頃だったのではないかと勝手に思っています。ライヴならではのテンション感が素晴らしい。

思ったより長くなってしまい、今回は70年代についてまでしか書くことが出来ませんでした。なので2回に分けます。次回は80年代に入ってからのフォリナーについてです。

#67 Girls Just Want to Have Fun

前回までのジェフ・ポーカロ及びTOTO回にて、ジェフとスティーヴのポーカロ兄弟がジャズ界の”帝王” マイルス・デイヴィスと交流があり、TOTOのアルバムにおいてマイルスがプレイした、という事は書きました。80年代のマイルスはロック・ポップスの曲を積極的に取り上げていました。スティーヴ・ポーカロがマイケル・ジャクソンへ提供したビッグヒット「ヒューマン・ネイチャー」、#54で触れたスクリッティ・ポリッティの「Perfect Way」等。特にヒューマン・ネイチャーと共にステージでも好んで演奏していたナンバーがあります。今回取り上げる、シンディ・ローパーが83年にリリースした「She’s So Unusual(当時の邦題は『N.Y.ダンステリア』)」からのNo.1ヒット「Time After Time」がそれです。今回はシンディをはじめ、80年代に活躍した女性シンガー達を取り上げてみたいと思います。80年代にデビュー及び活躍した女性シンガーと言えば、マドンナ、ホイットニー・ヒューストン、ぎりぎり80年代後半にデビューしブレイクしたカイリー・ミノーグなどが挙げられると思いますが、先に言っときます、彼女たちは取り上げません… ━(# ゚Д゚)━なんでやねん!! と言われてもしようがありません。私が彼女たちについて詳しくないからです・・・

シンディは1953年、ニューヨーク生まれ。決して恵まれた少女時代を過ごした人ではありません、この生い立ちが彼女の歌にある、明るいのにそこはかとなく哀愁を感じさせる要素なのかと私は勝手に思っています。音楽の道を志してからも決して順風満帆な道のりではありませんでした(詳しくはウィキ等をご参照)。当アルバムから翌84年にシングルカットした上記の「Girls Just Want to Have Fun(当時の邦題は『ハイ・スクールはダンステリア』)」が大ヒット、この時シンディは既に30歳を過ぎています、遅咲きのブレイクでした。前述の「タイム・アフター・タイム」や映画『グーニーズ』のメインテーマ、2ndアルバム「True Colors」からのやはりNo.1シングルであるタイトルナンバーなど、ヒット曲は数多くありますが、シンディのオリジナリティを最も端的に表しているのは上の「ハイ・スクールはダンステリア」だと思います。ちなみにビデオクリップの冒頭に登場している女性はシンディの実のおかあさんです。
当時のベストヒットUSAにて彼女が出演した際、小林克也さんに『・・・ハリウッドスマイルはこうよ」と言って歯をむき出しにしてニカっと笑う彼女のサービス精神は微笑ましいものでした。ちなみにマドンナについて同番組では、『こんなにもオンエア時とそうでない時の差が激しい人はいませんでした』と、非オンエア時の愛想無くつまらなさそうな顔をしている彼女と、オンエア時のニコニコしている顔を対照的に続けて放送していました(多分総集編の回にて)。結構辛辣ですよね、克也さんも・・・
大変な親日家であり、売れない頃に日本人が経営するレストランで世話になった経緯があるそうです。

お次はN.Y.で結成されたバンド ブロンディ。紅一点のヴォーカリスト デボラ・ハリーを中心とし、70年代後半から80年代前半に活躍。80年の年間シングルチャート1位を記録した「Call Me」が最も有名でしょう。こういう事を言うのは何ですが、デボラの容姿がとにかく端麗で、それが人気の一因になったことは否めないでしょう。マドンナの登場によりそのお株を奪われた感がありますが、それ以前の米ポップス界におけるセックスシンボルはデボラとされていたそうです。
「コール・ミー」がビートの効いたロックナンバーなので、バンド自体がそういう音楽性なのかと私も昔は思っていましたが、どちらかと言えばニューウェイヴやディスコを基調としていたとの事。今回調べて初めて知ったのですが、「コール・ミー」は確かに作詞作曲はバンドによるものですが、映画『アメリカン・ジゴロ』のサントラとしてリリースされた本曲は、演奏はバンドによるものではなく、デボラも歌入れに3時間ほどスタジオに入っただけで、それ以外は彼女達とは無縁の所で作られたらしく、それが最大のヒットになってしまったのは皮肉めいた気がします。なので今回取り上げるのは「コール・ミー」に次ぐヒット曲、79年の「Heart of Glass」です。ギリギリ80年代ではありませんが、1年くらい大目に見てください。こちらの方がブロンディらしいですし、PVのデボラがとにかく美しい…

最後に取り上げるのは「コール・ミー」の翌年、81年における年間シングルチャートNo.1である超ビッグヒット キム・カーンズ「Bette Davis Eyes(ベティ・デイビスの瞳)」。

そのキャリアは長く、66年にフォークグループでのデビュー以降、80年まで決して目立ったヒットはありませんでした。しかし潮目が変わったのが80年、「More Love」のヒットにより一躍スターダムへ。彼女の魅力はとにかくそのハスキーヴォイスにあるでしょう、唯一無二の声とは彼女の様な声です。ジャニス・ジョプリンを彷彿させ、また男性で言えば#36で取り上げたジョー・コッカーやロッド・スチュワート的な声質と呼べるものでしょうか。
「ベティ・デイビスの瞳」の原曲はジャッキー・デシャノンが75年に発表したもの。私も名前くらいしか知らなかったのですが、オリジナルを聴いてよくぞこの様にアレンジしたものだと改めて関心しました。

シンディは勿論の事、デボラとカーンズも1945年生まれの同い年ですが、共にシンガー・女優業を含めて現役活動中です(なんと御年72歳!女性に失礼・・・)。彼女たちの様なたくましい女性を見ると、50歳も近いから最近は心身共に調子が・・・などと言っている己が恥ずかしく思えてきます・・・
(´Д`)・・・

年初からの80年代特集はまだまだ続きますよ・・・誰も覚えてませんかね・・・( つω;`)ウッ …

#66 Jeff Porcaro_4

ジェフ・ポーカロ回その4、今回が最後となります。
ジェフはドラムソロを演りませんでした、頑ななまでにそれを拒み、否定しました。インタビューの中でジェフが唯一認めたものは、エルビン・ジョーンズなどごく一部のジャズドラマー達によるソロプレイでした。おそらくジェフが嫌っていたドラムソロというのは70年代辺りから始まった、ヘヴィメタル・ハードロックなどにおける長尺のドラムソロを指していたのではないかと思われます。音楽の流れとは無縁の、ジェフが言う所の”これ見よがし”のソロプレイを否定していたようです。ドラムに限らず単一の楽器で長いソロ演奏を行うのは大変難しいものです。ただの技術のひけらかしにならず、ストーリー・起承転結がしっかりとしていて”音楽”として成り立っているものは、ジャズにおいても難しく、ましてやロック界ではあるのかどうかも疑問です。ジェフは”音楽本位”の考え方で、どんな超絶技巧も音楽を阻害してしまっては意味が無い、というスタンスだったのでしょう。この考えは全く正しいと思います。
上の様な事を書いておいてなんですが、でもやはりジェフが”はじけて”プレイしているところも聴いてみたい、という気持ちもあります。それであれば何と言ってもこれ、#64でも触れた「The Baked Potato Super Live!」です。スティーヴ・ルカサーもそうですが、全編に渡って実に”はじけた”演奏を繰り広げている、80年代フュージョンシーンにおける名盤の一つです。当アルバムから私がベストトラックと思うものを。

ジェフとルカサーの羽目を外した様なプレイも圧巻ですが、グレッグ・マティソンは勿論の事、クルセイダーズにも在籍していたベーシスト ロバート・ポップウェルのプレイも大変素晴らしく、ジェフとポップウェルの絡みをもっと聴いてみたかったものです。ちなみに動画ではタイトルは「I Dont Know」となっていますが、正しくは「Go」のようです。

ジェフはジャズドラミングには自信をもっていなかったそうです。父親がジャズドラマーで、幼少からその手ほどきを受けてきたのですから、テクニックのルーツがジャズにあるのは間違いない事なのですが、本人が自身のプレイに納得いっていなかったようです。しかし数少ないながらジャズドラミングのプレイも残しています。#63でも触れたスティーリー・ダン「Katy Lied(うそつきケイティ)」に収録されている「Your Gold Teeth II」。一筋縄ではないかなりの難曲ですが、本人が苦手だ、などと言っているのは信じられないほど、ジャズビートのパートは見事にスウィングしています。

上記のジャズドラミングの話ともつながる事ですが、ジェフはかなり自分に厳しい人だったようで、これだけのテクニックとグルーヴ感を持っていながら、自身のプレイには簡単に納得しませんでした。あるインタビューで自身のプレイについて尋ねられた彼は以下のように答えています。『だいたいタイムがひどい。そりゃ上を見ればジム・ゴードンとかバーナード・パーディ、ジム・ケルトナーとかきりがないが、それにしても僕のタイムはカスだよ。~(中略)~自分で納得のいく出来だと思えるのは今までにふたつくらいだな。ひとつはスティーリー・ダンとのやつ。あれが自分としては最高のパフォーマンスだと思う。それからボズ・スキャッグスの「シルク・ディグリーズ」だ。』貴方にそんなことを言われたら我々はどうすれば良いのか・・・
(´Д`)と思ってしまう様なコメントです。
しかし全くの私見ですが、この発言は同時に”だけどオレのようにプレイできるやつは何人いるかな?・・・”
のような、ある意味逆説的な自信も表すコメントであったのではないかと私は勝手に思っています。

またジェフはドラム、ひいては音楽に対して一歩距離を取った姿勢を貫いていました。インタビューで、『音楽が全てなんて姿勢でいたら消耗してしまう。僕の場合は美術とか庭造りとか、他にもいろいろ関心があるし、そうやってバランスをとっている。僕は庭師かインテリアコーディネーターになりたかったんだ。』と答えています。この考え方はとても興味深いものです。勿論音楽が嫌いだったなどという訳ではないでしょう。しかし創造的な仕事をするためには、視野が狭くならないように、木を見て森を見ずにならないように、その他の事柄からもインスパイアを受けられる状態・環境に身を置いていた方が良い、という様な意味合いだったのではないしょうか。

ドラムという楽器はリズムを打ち出すものであり、伴奏・バッキングをその役割としているので、当然の事ながらフロントに出てくるパートではありません。ジェフは更にソロプレイをも否定したプレイヤーでしたので、なおさら矢面に立つはずではない人だったのですが、死後25年以上経った現在でも彼の功績は讃えられ続けています。それはひとえに音楽本位のプレイを貫き、下手なギミックなどを決して演らず、自らの職分を果たすことに一途な姿勢が、数々の名曲・名演を産み出した事への、本質をわかっている聴衆達からの評価が絶えないからに他なりません。
最後にお届けするのは上記の事が最も表れていると私が思うもの。スティーリー・ダンの活動を休止したドナルド・フェイゲンが82年に発表したポップミュージック史に残る傑作「The Nightfly」。本作に収録の「Ruby Baby」。リーバー&ストーラーによるこのオールディーズの名曲を、フェイゲンが見事に”料理”したもの。ジェフは徹底してタイトかつシンプルなプレイを貫き、この”クール”な名曲を形創る事に成功しています。決して超絶技巧といったプレイではありません。しかし本曲におけるフレーズ・音色・グルーヴ感は、これをなくして本曲は成立しなかったと言えるものです。

以上でジェフ・ポーカロ回はおしまいです。多分忘れ去られていると思いますが、年初からの80年代について取り上げていくというテーマは続いております。次はなんでしょう・・・