#78 Stevie Ray Vaughan

直近のデヴィッド・ボウイ回にて、最大のヒットアルバム「レッツ・ダンス」に関して、あえて触れなかった
人物がいます。それは今回からのテーマになる人だったからです。


       スティーヴィー・レイ・ヴォーン。80年代のロック・ブルースシーンに突如出現し、その驚愕のプレイに
よって人々の度肝を抜き、90年に不慮の事故によりわずか35歳でその生涯を閉じたスーパーギタリスト。
54年テキサス州生まれ。兄であり同じくギタリストであったジミー・ヴォーンの影響で7歳からギターを
始める。71年に高校を中退し、本格的に音楽の道を志すべくダラスからオースティンへ。上記にて
80年代に突如登場したような書き方をしましたが、厳密には70年代から活動はしていました。
勿論それは世界的に脚光を浴びたのは、という意味であって、80年代初頭までは米南部を拠点として
活動するローカルなミュージシャンであったようです。

そのキャリアにおいて転機となったのが、82年のモントルー・ジャズ・フェスティバルへの出演でした。
デヴィッド・ボウイとジャクソン・ブラウンがその演奏を観て、彼の才能に目を付けたのです。
上記の動画はそのステージの始めの方ですが、実はこの後観客からブーイングが混じり始めます。
レイ・ヴォーン率いるバンドはフェスティバルの中での『ブルース・ナイト』と銘打たれたプログラムにて
出演したのですが、彼ら以外は皆アコースティック・ブルースであったところに、いきなり激しい
エレクトリック・ブルースが始まった事に対して拒否反応を示すオーディエンスがいた為です。
本国アメリカにおいてもローカルな存在でしかなく、アルバムもリリースしていない無名のバンドが
遠いヨーロッパにおいて、無条件ですんなり受け入れられるというのは少しばかり厳しかったようです。
しかし分かる人には彼の凄さがきちんと分かっていました。ジャクソン・ブラウンは翌日バーで
行われたジャムセッションで共に演奏し、あらためてレイ・ヴォーンのプレイの素晴らしさを認識し、
ロスにある自身のスタジオを使ってレコーディングする事を勧めます。
レイ・ヴォーン達は同年11月にブラウンの勧めに応じてロスを訪れ、アルバムのレコーディングに
取り掛かります。そしてわずか3日間でアルバム1枚分の録音を終えてしまいました。
そしてそのロス滞在中にさらなるチャンスがやってきます。デヴィッド・ボウイから
翌83年1月より始まる次作のレコーディングに参加してくれないかと電話で打診を受けたのです。
これこそが前回取り上げた、ボウイ最大のヒットとなる「レッツ・ダンス」です。それは同時に
レイ・ヴォーンの名も全世界に轟かせることとなったのです。
https://youtu.be/N4d7Wp9kKjA
そのあまりにも印象的なフレージング・音色・フィーリングに、「誰じゃ!このギタリストは!!」と
騒がれ始めました。自身のバンド ダブル・トラブルにおける嵐のようなプレイが聴けるわけでは
ありませんが、そのツボを得た、ブルース・フィーリングに満ち溢れ、一発でレイ・ヴォーンその人と
分からしめるプレイは見事です。ここではセッションプレイヤーとしての責務を見事に果たしたと
言えるでしょう。一流のプレイヤーはサイドマンに徹してもやはり一流なのです。直後に始まる
ボウイのコンサートツアーにも招かれ、いったんは参加する事としたのですが、様々な原因から
そのツアーをすぐに離脱します。しかしこれがかえって幸運な結果となったのかもしれませんでした。
5月にN.Y.のボトムラインにてブライアン・アダムスのオープニングアクトとして出演し、
その素晴らしいパフォーマンスにて話題をかっさらってしまいました。ニューヨークポストなどは
ブライアン・アダムスを喰ってしまった、の様な記事を載せた程だったとの事。こうして本国アメリアでも
一介のローカルミュージシャンから、全米での人気を着実なものとする人へとなっていったのでした。

前述したジャクソン・ブラウンのスタジオにて録音されたトラックを中心に構成されたアルバムこそが、
83年6月にリリースされた、スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブルとしての記念すべき
1stアルバム「Texas Flood(テキサスフラッド~ブルースの洪水)」です。本作は当時において
全米で50万枚以上を売り上げゴールドディスクを獲得しました(現在ではダブルプラチナム
(=200万枚)に達しています)。特筆すべきはオシャレで、ポップ、かつダンサンブルな
音楽が全盛だった80年代において、その真逆を行くような”どブルース”な内容でこれだけのセールスを
記録した事です。やはり当時においても、時代の音楽に飽き足らない思いを抱いていた人たちが
決して少なくなかったという事実の現われでしょう。

アルバム発売後、プロモーションツアーとして北米、カナダ、短期間のヨーロッパツアーを行い
その名声を着実なものとしていきました。翌84年初頭からバンドは次作の制作へと取り掛かりますが
その辺りはまた次回にて。

#77 Let’s Dance

#74のミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイによるデュエットから、ミックのソロ、そして
80年代のストーンズへとテーマは変遷しました。なので安直ですが、今回はデヴィッド・ボウイの話を。
ボウイの音楽的黄金期と言えば、やはり60年代末から70年代にかけてというのが大方の評価でしょう。
私もそれには異論はありませんが、そこから取り上げると回数もかさむ上に、一応年初から80年代を
テーマとしていますので(誰も,覚えてません…よね………。゜:(つд⊂):゜。)、前回のストーンズ同様に
80年代のボウイに限って取り上げます。

 

 

 


デヴィッド・ボウイ最大のヒットにして代表作「Let’s Dance」(83年)。ボウイフリークは
彼の最高傑作とは「ジギー・スターダスト」だ!、いや「アラジン・セイン」だ!、と
喧喧囂囂の議論になるのでしょうが、最も売れて世界中にボウイの名を広めたという意味では
代表作と言って差し支えないでしょう。私もボウイの作品において本作が白眉とは思いませんが、
リアルタイムで聴いた最初のアルバムなのである程度の思い入れはあります。

https://youtu.be/1hDbpF4Mvkw
プロデュースはナイル・ロジャース。ここ数回の記事で何度もその名が出てきていますが、それだけ
80年代は彼が作るサウンドが持て囃された、そして皆がそれを目指していたという事。本当に当時は
煌びやかでダンサンブルなサウンドならナイル、AOR・ポップスならデイヴィッド・フォスター、
と、ポップス界は数人のプロデューサーだけで回していたのではないかと思うくらい(それはいくら
なんでも大げさか・・・)数々のレコードでその名を目にする人でした。
本作からもう一曲、盟友イギー・ポップとの共作「China Girl」。

84年、アルバム「Tonight」をリリース。前作に続いて全米でミリオンセラーとなりました。意外な事に、
米でプラチナディスクを獲得したのは「Let’s Dance」及び「Tonight」の二作のみとなっています。
しかしボウイの総売上枚数は1憶数千万枚と言われており、これは北米以外、ヨーロッパ各国やその他の
地域で幅広く支持されたボウイであったからこそ。アメリカ市場だけが全てではないということを
改めて教えてくれます。本作からの1stシングル「Blue Jean」。

https://youtu.be/LTYvjrM6djo
本作も前作同様にポップな音楽性となっており、コアなボウイファンや玄人筋からは決して良い評価を
受けませんでした。それに関しては人それぞれなのでとやかく言う筋合いではありませんが、
一つ言えるのは、デヴィッド・ボウイというミュージシャンはその音楽性に関してかなりの変遷を
経てきたという事。プログレ、サイケ、コンセプチュアルかつ演劇的なロック、アメリカンソウル、
テクノ、ヨーロピアンミュージック、etc… 。何をもってボウイらしい音楽かと述べる事は、
少なくとも表面的な音楽ジャンルのみをもっては不可能であり、それは根底に流れる”ボウイイズム”の
様なものによって語られるべきだと私は思っています。

https://youtu.be/OOaqDEjxQAU
先述した”ボウイイズム”が健在であり、また「レッツ・ダンス」以降の80年代におけるボウイの
楽曲の中で私がベストトラックと思うのが上記の「Loving the Alien」。往年のボウイらしい
良い意味での仰々しさをまといながら、80’sサウンドによって彩られた快作。私見ですが
”ボウイイズム”は80年代においても全く失われていなかったと思います。もっとも当時は
そこまで考えて聴いていませんでしたが・・・。ちなみに本曲での”Alien”は異星人ではなく、
『異邦人・よそ者』の意(多分に宗教的な意味においての)。かの有名映画のせいで、
エイリアン=宇宙人、と刷り込まれてしまっていますね … 👽👽👽👽👽 (((;゚Д;゚;)))・・・
本作には他にも、ティナ・ターナーとのデュエットで話題となったタイトル曲、ビーチ・ボーイズの
カヴァー「ゴッド・オンリー・ノウズ」など、聴き所は豊富です。

誤解を恐れずあえて言うと、ミュージシャンとしてのデヴィッド・ボウイは捉えどころのない
鵺(ぬえ)の様な存在だと私は思っています。歌唱技術が超一流かと問われれば、失礼を承知で言うと
決してそうではなく。突出したメロディーメーカーかと言われれば、それも否。
しかしロック・ポップス界を見渡せば、これ程までにそれを聴いて、一発で”その人”とインパクトを
もって認識されるミュージシャンもそう多くはないと思います。音を聴いているだけでボウイが
様々な表情で、あの”独特な”振り付けで歌っているのが目に浮かぶのです。ステージパフォーマンス、
役者としての活動、それら諸々を含めてこその『デヴィッド・ボウイ』だと私は思っています。
このようなミュージシャンは他にはなかなかいなかったのではないでしょうか。

#76 Dirty Work

前回はミック・ジャガーのソロアルバムについてでしたので、このままストーンズを取り上げようかと
思いましたが、ご存知の通りローリング・ストーンズという約55年に渡る現役最古参であるバンドに
ついては、とても2~3回などでは書き切る事が不可能ですので、今回は私がリアルタイムで聴いていた
80年代の作品に絞って書いてみたいと思います。

 

 

 


初めて聴いたスタジオアルバムは「Undercover」(83年)だったと記憶しています。とにかく
ローリング・ストーンズという、ビートルズと並ぶ有名なバンドなのだから聴いてみようと、
貸レコード屋(当時は”レンタルレコード”などというこじゃれた呼び名ではありませんでした)
から借りてきて聴きました。感想は『?』といったものだったと思います。洋楽を聴き始めた
ばかりで理解出来る出来ないもあったもんじゃなかったのですが、思い描いていたストーンズ像とは
異なるように感じたのは覚えています。

最初に聴くストーンズの作品としてはあまり適当ではなかったかもしれません。もっとも当時は
右も左も分からなかったのでしょうがありませんが。本作はヒップホップ等時代の流行を大胆に
取り入れた、ストーンズとしては異色の作品とよく評されます。もっともストーンズが流行りを
全く取り入れてこなかったかというと決してそうでもなかった訳で、ディスコが流行れば
「ミス・ユー」(78年)の様な曲を作ったりしたのですが、本作はそれまでの古き良きストーンズを
好むリスナー達からは拒否反応がひと際強かったようです。個人的には好んで聴くことは現在では
確かにありませんが、さほど毛嫌いするような内容でもないと思います。2ndシングルである
A-②「She Was Hot」など彼ららしいR&Rも健在であったのに、それ以外で拒絶されてしまったのかも。

86年、アルバム「Dirty Work」をリリース。当時、日本の評論家達は高い評価をしていたと記憶して
います。前作では多少試行錯誤が過ぎてしまったかもしれないが、本作では”これぞストーンズ”という
内容に回帰したと。しかし現在ウィキなどを見てみると前作同様にあまり評価の芳しくないアルバムと
されているようです。これに関しては珍しく私も当時の日本の評論家達と同意見です。本作リリース時は
既に60~70年代のストーンズも一通り聴いて理解していたつもりでした。まさにこれこそストーンズ、
楽器の音色などこそ80年代風ですが、彼らのロックスピリットは変わっていないと感じました。
かように人の評価などは古今東西で変わるもの、あまりあてにしない方が良いというのが私の持論です。

彼ららしくない曲調といえばレゲエの「Too Rude」、ファンク調の「Back to Zero」くらいでしょうか。
また1stシングル「Harlem Shuffle」がカヴァーだったというのも彼らとしては異例ではありましたが、
基本的にはブルース・R&Bを根っこに持つ,彼ららしいタイトなR&Rに溢れた好アルバムだと思います。
この時期のミックとキースの不仲もよく言われることですが、バンドの人間関係の良し悪しが必ずしも
作品のクオリティーに反映されるものでもないでしょう。ビートルズの「アビー・ロード」(#4ご参照)の
様な例も決して少なくありません。もっともこの二人、仲が良かった時期の方が少なかったのでは・・・

時代は前後しますが82年リリースのライヴ盤「Still Life」。前年の全米ツアーを収録したものですが、
個人的にはストーンズの中で最もよく聴いたアルバムです。往年のヒット曲とオールディーズのカヴァーが
程よくミックスされた選曲で、もし『ローリング・ストーンズを聴いてみたいんだけど,何にしたらイイ?』
と、尋ねられたならば私は先ず本作を勧めます。アメリカツアーにおいて、コンサートのオープニングテーマが「A列車で行こう」というのが少し安直な気もしますがこれもご愛敬。余談ですけど「A列車で行こう」を
初めて耳にしたのは本作においてだったかもしれません。

有名な幻に終わった73年の来日公演以降、ストーンズは永いこと”日本は遠いから行かない”などと我が国に
対して冷たい態度を貫いていました。入国拒否されたという恨みもあったのかもしれませんが、80年代は
このまま永遠に来日しないのではないかと思われていたくらいです。しかし90年に初来日を果たし、
その後も計6回の来日公演を行っているので、日本も毛嫌いされることはなくなったようです。
やっぱりお金の力って偉大ですね・・・・・ ちがうがな!!! (#゚Д゚)!!!!

#75 She’s the Boss

前回、記事を書き終えようとした辺りで見知らぬ訪問者がやって来たのですが、その後気づくと
布団の上で寝ており、それらの前後の記憶が曖昧になっています… 気のせいですよね・・・

前の記事の最後でミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイのデュエットについて取り上げましたが、
同年にミックは自身初のソロアルバムをリリースしています、それが「She’s the Boss」(85年)です。
天下のミック・ジャガーの初ソロアルバムという事で当時はかなり話題になったと記憶しています。
さすがレコーディングの面子がもの凄い。ギターにジェフ・ベック、ピート・タウンゼント、ナイル・
ロジャーズ他。ベース バーナード・エドワーズ、ビル・ラズウェル他。ドラム スティーヴ・フェローン、
トニー・トンプソン他。パーカッションには英国を代表するパーカッショニスト レイ・クーパー。
そして何とピアノ・キーボードにはジャズフュージョン界から大御所 ハービー・ハンコックと
ヤン・ハマー(ジェフ・ベック回#6ご参照)その他。これだけ贅沢な布陣を揃えられたのは、
当時において他にはボブ・ディランかポール・マッカートニーくらいしか考えられません。

オープニングナンバー「Lonely at the Top」。とっぱじめからかっとんだロック・チューンに痺れます。
リードギターはジェフ・ベック。問答無用のジェフ節といったフレーズ・音色が炸裂します。ロック界で
ジェフより速く、複雑、かつ正確に弾けるギタリストは大勢います(失礼を承知で <(_ _)>)。
しかしその音を聴いただけで”あっ!!これってジェフ・ベックじゃね?!”の様に思わせることが出来る
プレイヤーはそう多く無いのではないでしょうか。ストーンズファンとジェフ・ベックファンには既出の事
でしょうが、ジェフは74年のミック・テイラー脱退時にストーンズへ誘われています。しかし当時のジェフはフュージョン的音楽を目指しておりその時は袂を分かちました。(しつこですがジェフ・ベック回#5~7
ご参照の事、
お願いです…ちょっとでイイですから読んでください……… オネガイシマス… 。゜:(つд⊂):゜。遂に泣き落としか・・・)私見ですがジェフはこの時加入しなくて良かったと思います。多分すぐ喧嘩別れ
していたのが目に見える様ですので・・・ 実は本曲はストーンズのために作られた楽曲、なのでミックと
キース・リチャーズの共作名義。参考までにストーンズによるデモヴァージョンを、だいぶ印象が違います。

本作は全英6位・全米13位のチャートアクションを記録し、プラチナディスクを獲得。1stシングル
「Just Another Night」は全米12位のヒットとなりました。

プロデュースはビル・ラズウェルとナイル・ロジャーズ。ハービー・ハンコックが参加した事もあってか、
エレクトリックファンク、つまり後に言うヒップホップ色が強いと感じる向きもある様ですが、個人的には
さほどそれは気にならないです。この時代は皆こぞってこの手のサウンドを取り入れていたので、
本作だけ突出してヒップホップ然としている訳ではないと思います。ただ昔ながらのストーンズファンは
どうしても”ストーンズらしさ”を求めてしまったのでギャップを感じた人も少なくなかったのでしょう。
2ndシングル「Lucky in Love」は、エレクトリックファンクとミック・ジャガーらしさが見事に
融合した楽曲だと思います。もっともミックが歌えば何でもミックの音楽になってしまうのですが。
こういうシンガーはポピュラーミュージック界でも数える程しかいないような気がします。

キースはミックがソロアルバムを出す事を快く思っていなかったそうです。ストーンズの活動を第一義に
優先させるべき、と考えているキースにとってはミックの活動がそうは映らなかった様です。
ミックはその後現在まで4枚のソロアルバムを発表していますが、本作が最も好セールスを上げた
作品となっています。レコーディング時は41歳、シンガーとして最も脂の乗っていた時期に収録された、
一人の”シンガー ミック・ジャガー”を知る上では格好の一枚ではないかと思います。

#74 Dancing in the Street

ポピュラーミュージックにおける「バンド」の定義というのは、厳密に定められている訳では
ありませんが、概ね次の様に定義付け出来るのではないでしょうか。
・トリオ(3人)編成以上であり。
・ベースとドラムから成るリズムセクションを従え。
・残る一パートはコード楽器、つまりギターないしピアノ・キーボードのいずれかから成る事。
クリームやグランド・ファンク・レイルロード、そしてエマーソン・レイク・アンド・パーマーは
ロックにおいて言うまでもなくバンドと認識されており、ジャズではピアノトリオは数え切れない程、
またギタートリオも数は少ないですがこれもあります。しかしホール&オーツやカーペンターズを
バンドと呼ぶのは聞いたことがありません。例外として後期のジョン・コルトレーンがピアノレス
トリオという編成を好みました、つまりベース、ドラム、そしてテナーサックスという編成。
”コード楽器が無い事により空間が広がる”、評論家によればその様なサウンドであるそうです。私も
幾つかトライして聴いてみましたが、20分余りに渡ってベース・ドラムだけの上で延々とアドリブを
紡いでいくそのコルトレーン独自の音世界を、”これがジャズなんじゃ~!モードでござる~!(@∀@l|)°。” と、アタマからバネが飛び出そうになるのを必死で押さえながら理解しようとした事もありましたが、
私には向いてなかったようです・・・
前回スーパーグループについて語りましたが、グループと言うくらいなので当然バンド編成です。そして
80年代を境にそれは流行らなくなっていったという事も述べました。では、大物シンガー二人による
デュエットは?、と言えばこれは枚挙にいとまがありません。
今回は80年代における大物デュエットについて取り上げたいと思います。

”とっぱじめからこんなベタベタな曲からかあ~~~い!!(#゚Д゚)!!!! ” と、批判は覚悟の上・・・
説明不要な程の超有名曲ですね(じゃあ、するな!( `・ω・´) ……… 説明させてください。゚(´;ω;`)゚。 )。
ポール・マッカートニーとスティーヴィー・ワンダーによるあまりにも有名なデュエット曲
「Ebony and Ivory(エボニー・アンド・
アイボリー)」(82年)。
全米で7週連続No.1、その年の年間シングルチャート第4位という大ヒットを記録。楽曲はポールに
よるもので、アルバム「Tug of War」(82年)に収録。ピアノの黒鍵と白鍵のように左右に並んで
皆一緒に生きよう、つまり肌の色の違いで差別などしないで、という人種差別反対の曲。
PVでピアノに並んで歌う二人が印象的ですが、実はこれは合成の映像。スケジュールがどうしても合わず
その様な方法を取ったとの事。ただし原曲の歌入れはちゃんと二人でスタジオライヴの形で、つまりマルチ
トラックで別々に録るのではなく一緒に歌っているそうです。ハーモニーや、特にエンディングにおける
コール&レスポンス(掛け合い)などはその賜物でしょう。ビートルズ後のポールにとっては最も長く
チャートの首位を保持した楽曲となりました(ビートルズ時代は「ヘイ・ジュード」が9週連続第1位)。

お次もこれまたポールに関する曲であり超ベタなやつですが、マイケル・ジャクソンとのデュエット曲
「Say Say Say」(83年)。ポールのアルバム「Pipes of Peace」からの先行シングルとしてリリース。
大物二人による夢の競演、また当時のマイケルのスリラー人気も相まって当然の様に全米No.1ヒット。
本曲のレコーディングが始まったのは実は81年5月まで遡り、先述したポールの「Tug of War」の制作と
同時期という事になります。最終的に完成し終えたのは83年2月。プロデュースがジョージ・マーティン、
エンジニアがジェフ・エメリックと、要はビートルズの制作陣によるもの。
本曲制作中のいつ頃の事かはわかりませんが、マイケルは英国滞在中(ロンドンのスタジオだった為)は
ポールの家に泊まっていて(勿論リンダも一緒=当時のポールの奥さん、ウィングスのメンバーでもある)、
これを機に大変親密になったそうです。その滞在中におけるある晩の夕食にて、ポールはマイケルに対し
楽曲の版権類を見せながら、『こいつらが金を生むんだ。誰かが演奏したり、ラジオで流したりする毎に
金を稼ぐことが出来るから』と話したそうです。何か大変生々しい話でポールの印象が悪くなりそうな
逸話ですが、ミュージシャンの生業として割り切って考えれば当たり前のことでしょう。この晩の話が、
後にマイケルがビートルズの楽曲の版権を買い取ることにつながったのは間違いありません。

https://youtu.be/9G4jnaznUoQ
最後はミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイによる「Dancing in the Street」(85年)。
最初に吹き込んだのはモータウンのガールグループ マーサ&ザ・ヴァンデラス(64年)。彼女たちの
代表曲であり、モータウンを象徴する楽曲の一つ。これまで色々な人達にカヴァーされてきました。

ミックとボウイという一人でさえ”濃ゆい”シンガーが組んだら一体どうなるの?と、思ってしまいますが
意外にもそれが”中和(?)”されてなのか、クドさはそれ程感じずに絶妙なロック&ソウルナンバーへと
仕上がっています(全英1位・全米7位)。本曲は同年の英国ミュージシャン達によるチャリティー
『ライヴ・エイド』の為の企画ものでした。当初の計画ではボウイはロンドン(ウェンブリー・
スタジアム)、ミックがフィラデルフィア(ジョン・F・ケネディ・スタジアム)の異なる二会場で
衛星同時中継で共演する予定だったらしいのですが、0.5秒のディレイ(遅れ)が生じてしまう為
その計画は断念することになってしまいました(代わりにPVを流した)。

スーパーグループにしろ大物同士のデュエットにしろ、話題性が先行してしまい、時としてその中身が
正しく語られる事が少ない場合もありますが、チャリティーなどに関してはその話題性・注目を集める
方法としてはうってつけの面はあるでしょう。ちなみに欧米でのこうしたチャリティーは如何に
拘束時間が長くとも出演者に報酬が支払われる事はまず無いそうです。噂に聞いた程度なのですが、
チャリティーなのに出演者へ報酬が支払われるイベントが毎年あり、それは主催会社もしっかりと利益を
得ているチャリティー番組であるとの事(走る人がいるとか何とか…どこの国の話かは知りませんよ…)。
しかしそれではチャリティーの意味が無いのでは…(コンコン)おや?誰か来たようだ・・・