#82 Born in the U.S.A.

直近のブライアン・アダムス回でブルース・スプリングスティーンについて触れましたが、二人は昨年9月にトロントで共演しているそうです。”熱きロックンローラー”として、また後にそれぞれの代表作となるアルバムが同時期にチャートを賑わしていた事などもあって、とかく比較される事の多い二人だったと記憶しています。

 

 

 


アダムスの「Reckless」とチャートの首位を争ったアルバム、それは言うまでもなくブルース最大のヒットとなった「Born in the U.S.A.」(84年)。

全米で1500万枚、全世界では推定で3000万枚以上は売れているであろうとされているアルバム(この位のレベルになると実数はよくわからないそうです)。85年の年間チャートにて第1位(2位がブライアン・アダムス「Reckless」)。特筆すべきはそのロングセラーぶり。発売月である84年6月には初登場9位、二週間後にはTOPとなりそれを7週連続保持します。その後ビルボードTOP200に140週チャートインし続けたというモンスターアルバムです。ちなみに84年の年間チャートでは28位、86年は16位(どんだけ息が長いんだよ!)。

サウンド的には流石のブルースも時代には抗えなかったのか、シンセサイザーが前面に押し出された作りとなっています。問題作とされた前作「Nebraska」(82年)が基本的にアコギとハーモニカのみで録音された非常に内省的なアルバムだったこともあってか(90年代のアンプラグドブーム以降であったら特に奇異に思われる事もなかったでしょうが、時代がまだそれを受け入れられるような耳を持っていませんでした。それでもプラチナディスクだったんですからね…)、コマーシャリズムを意識した内容です。商業音楽ですからこれは全く悪いことではありません。スタッフ・レコード会社の人々・その他諸々ブルースの音楽に携わっている人達を食べさせていかなくてはならないのですから。彼はその意味でのバランス感覚をしっかり持っている人なのでしょう。「ボーン・イン・ザ・U.S.A.』後の作品もまた内省的なものへと移り変わっていきましたが、商業性と創造性・トライアル的なものをきちんと両立させており、それは真摯で真面目な性格がそうさせていたのかもしれません。しかしまたそれ故であったのか、鬱病に悩まされていた事も後年に語っています。

73年にアルバムデビュー、ブレイクのきっかけは3作目「Born to Run(明日なき暴走)」(75年)。熱いロックンローラーのイメージは本作のタイトル曲に因る所が大きいでしょう。”あの声”で、青筋立てて、汗だくになって歌われた日にゃ、こっちも拳を握られずにはいられません。個人的には決してその手のロックが得意という訳ではないのですが、ブルースだけは唯一の例外です。

80年、「The River」が初のアルバムチャート1位となります。1stシングル「Hungry Heart」は初のTOP10ヒット(最高位5位)。今回初めて判ったのですが、シングル曲の「明日なき暴走」は最高位で23位と、TOP20に入ってなかったようです(もっとヒットしていたと思ってました…)。トリビア的な事ですが、これだけの成功を収めたブルースでも唯一得られなかったのがシングルNo.1でした。「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」からの第一弾シングル「Dancing in the Dark」が2位と、惜しくも1位を阻まれてしまったのでした。84年6月から7月にかけて4週連続2位をマーク、ちなみに1位を阻止したのはデュランデュラン「The Reflex」と、プリンス「When Doves Cry」(#50ご参照)でした。もっともこんだけ売れりゃあ1位でも2位でも、どっちでもイイ気がしますが・・・

ブルースが日本のミュージシャン達に与えた影響も多大なものでしょう。佐野元春さんと浜田省吾さんはその双璧と言えます。お二人が自身の口からブルースによる影響云々、というコメントは見当たらないようですが、80年代は”和製スプリングスティーン”と呼ばれるほど、楽曲・サウンド・歌詞それぞれの面において、その影響を感じさせるスタイルでした。
海を渡ったイギリスでもブルースはリスペクトされました。70年代後半のパンクムーヴメントにおいて、”怒れる若者”達の中にブルースの影響があったことは間違いありません。80年代以降はパンクのイメージはすっかりなくなってしまいましたが、エルヴィス・コステロのロックンロール調楽曲及び歌唱スタイルにはブルースの雰囲気が見え隠れします。コステロはブルースのトリビュートアルバムに参加、またグラミー賞の舞台でも共演したりしています。

御年68歳(もうすぐ69歳)ですがまだまだ現役バリバリです。一昨年16年9月には自身でも最長となる4時間越えのコンサートを行い話題となりました。元々彼はライヴが長い事で有名でしたが(最低でも3時間以上は当たり前)、60代後半でこの体力はどこから・・・。また同年の3月にはコンサートに来た9歳の子供が彼のライヴが長いことを知っていたため『明日学校に遅れちゃうよ。どうか、先生宛ての手紙に署名して』と”遅刻届”にサインしてくれるよう頼んだ所、ブルースはその子と校長先生の名前とそのスペルを確認し、『この子は夜遅くまでロックン・ロールしていたんです。もし遅刻しても、許してあげてください』と直筆で綴ってあげたそうです。ブルースの人柄が垣間見える素敵なエピソードではありませんか。

#81 Reckless

スティーヴィー・レイ・ヴォーン回その1にて、ブライアン・アダムスの前座としてステージに上がったところ、メインアクトのアダムスを凌ぐプレイであったと新聞に評されていた、といったエピソードを書きました。アダムスの名誉の為にも今回は彼を取り上げてみたいと思います。

 

 

 


59年、カナダ オンタリオ州生まれ。15歳の時にはバンクーバーでバックコーラスの仕事を始めていました。70年代半ばにはバンドを結成した事もあったようですが、80年に自身の名を冠したアルバムでデビュー。83年、3rdアルバム「Cuts Like a Knife」が大ヒット。本国カナダで3プラチナ(カナダは10万枚でプラチナなので30万枚)、米でもミリオンセラーを記録します。

そのキャリアにおいて最大のヒットであり、世界にブライアン・アダムスの名を轟かせたのが84年発表の「Reckless」。本国ではダイアモンド・ディスク(10プラチナ=100万枚)、米でも500万枚のメガヒットを記録します。ちなみにカナダでダイアモンドを獲得した初のアルバムであり、全世界では1200万枚のセールスを上げたと言われています。本作からの4thシングル「Heaven」は初の全米No.1となりました。

その独特のハスキーヴォイスで、愛と青春(及びその苦悩)を歌う熱き血潮を持ったロックンローラー、というイメージの典型だったと思います。同じく熱きロックンローラーという点では、先輩格に当たるアメリカのブルース・スプリングスティーンがいますが、ブルースほど”個性的”な声ではなく、またルックスも良かったので、それもブレイクの一因かと。ブルースのルックスが悪い、という意味ではありません、決して・・・
(#゚Д゚) 謝れ!!ブルースに全力で謝れ!!! <(_ _)><(_ _)><(_ _)>・・・・・
私の勝手なイメージですが、最もジーンズと白いTシャツが似合うミュージシャンではないでしょうか。

現在58歳、まだまだ現役バリバリです(よく考えると自分と10歳程しか違わない…10年後、こんなに若々しくいられるでしょうか・・・)。全世界で7500万枚以上のセールスを上げ、国を代表するミュージシャンの一人として、カナダ勲章も授与されました。”エバーグリーン”という言葉がこれほどよく似合うロックンローラーは他にはなかなかいないと思います。

#80 Stevie Ray Vaughan_3

ミュージシャンとして華々しい躍進を遂げているように見えたスティーヴィー・レイ・ヴォーンでしたが、実は大きな問題を抱えていました。本ブログにおいて、これまで取り上げた多くのミュージシャン達がテンプレのように陥ってしまった問題でしたが、言うまでもなくドラッグとアルコールでした。
(良い子のみんなはマネしちゃダメだぞ!☆(ゝω・)v)
80年代の急激な成功によって有頂天になってしまった為、という訳ではなく、70年代から既に依存症の問題は始まっていたようです。彼の飲酒歴は何と6歳まで遡ります。父親の酒を盗み飲んだところから始まったとの事。麻薬に関しては70年代の半ばから手を付けるようになったと言われています。やがてアルコールとコカインの摂取が常態化していったそうです。86年のヨーロッパツアーの時期が最もひどかったようで、毎日ウイスキーを約1L、コカインを7g摂取していたとの関係者によるコメントがあります。7gのコカインというのがどれほどの依存度を示すのかはわかりませんが(わかっちゃダメだけどね・・・)、ウイスキーの1Lというのは相当重篤な状態だったというのは言うまでもないでしょう。

日本版のウィキだと3作目の「Soul to Soul」を発表後、麻薬・アルコール中毒に陥り入院、その後は「In Step」(89年)のリリースまで活動の記述が無い為、約4年間全く活動していなかったかの様な印象を受けますが、英語版のウィキによるとその間の活動も記されています。もっとも英語版のウィキが正しいという保証もありませんけれども・・・
86年9月、ドイツでの公演を終えた直後、レイ・ヴォーンは体調を崩し、死に瀕するほどの脱水症状に苦しみます。流石にこれはやばいと思ったのか治療を受ける事となり、ロンドンの病院に入院した後、アトランタの病院へと移る事となりました。アトランタでのリハビリは4週間程だったとの事。ベースのトミー・シャノンがリハビリをチェックしていたそうです。
11月にリハビリから復帰したレイ・ヴォーンは、『ライヴ・アライヴ・ツアー』と銘打ったコンサートツアーの準備に取り掛かります。同月にリリースしたライヴ盤「Live Alive」のプロモーションの為のツアーでした。本盤は85年のモントルーと86年7月のダラスとオースティンでの演奏を収録したもの。上記はオースティン オペラハウスでのライヴ、兄のジミーも参加しています。

退院後ライヴを再開し、徐々に仕事への意欲を取り戻していったレイ・ヴォーンでしたが、酒と麻薬を遠ざけた故のシラフでいることへの不安、妻との離婚問題などを抱えて、楽曲こそはこつこつと書き溜めていたのですが、新作のリリースは滞ってしまいました。80年代中期から後半にかけては、地味ではありますが、継続的にステージに立ち、シコシコと次作用の曲作りを行っていました。

しかし89年6月、離婚問題や薬物等への依存を解決したところでようやく新作の発表となります。「In Step」=”足並みをそろえて・~と共に”の様な意。本人の言によると、ようやく「人生」「自分自身」「音楽」と”イン・ステップ”することが出来た、といった意味合いから名付けたとの事。待望の新作に世界中のファンは勿論大喜び、当然大ヒットとなり、更には初のグラミー賞を得ます。本作では初期から曲作りに参加していた、同郷のドラマー・ソングライターであるドイル・ブラムホールが大きく関わっています。ちなみに00年代にエリック・クラプトンバンドにサポートギタリストとして参加していたドイル・ブラムホール二世は、名前からして一目瞭然の通り彼の息子です。
本作のエンディング「Riviera Paradise」と1st収録の「Lenny」をミックスした東京公演での演奏を。

90年8月26日、ウィスコンシン州で行われたコンサート終了後、移動の為に乗ったヘリコプターが墜落。わずか35歳で帰らぬ人となってしまいました。有名な話ですが、同コンサートに出演していたエリック・クラプトンも同乗を誘われたとの事。クラプトンは自伝でその時の事を、『霧がひどい状態で、風防をパイロットが会場で販売していたTシャツで拭いていた、何かイヤな感じがして乗るのを断った』の様に述べています。これはあくまで後付けの印象かもしれません、しかし人の運命というのはほんのわずかな瞬間の選択で大きく変わってしまうのだと改めて思い知らされます。

レイ・ヴォーンのプレイスタイルは非常にオーソドックスなペンタトニックスケールに基づいたものです。ジャズスタイルの演奏も披露していますし、勿論南部出身ですからカントリー&ウェスタンも演ります。引き出しの広さも当然持ち合わせてはいるのですが、あくまでブルースに則った感情表現を第一義とするスタイルでした。その意味ではクラプトンと同様だったと言えます。レイ・ヴォーンは更にもっと強いアルバート・キングの様な感情表現(ビブラート・チョーキングなど)、ジミ・ヘンドリックスばりの型破りかつアグレッシブなプレイを踏襲しながら、技術面では正確無比なフィンガリング・ピッキングを行うことが出来、加えて意外と目立たないところかもしれませんが、ブラッシング・チョッピングなどの小技も見事であって、音の飾り方が多彩で実に巧いのです。しかし何といっても、現在に至るまで彼を信奉する人たちが絶えない一番の要因は、前回も触れたそのトーンにあります。シンガーやサックス奏者がその歌声・ロングトーン一発で聴き手をシビれさせるように、彼のトーンにも魔性の魅力があったのです。またトミー・シャノン(b)、クリス・レイトン(ds)の存在も忘れてはなりません。地味ではありますが的確にレイ・ヴォーンのサポートに徹するシャノンのベース、竹を割った様にタイトなレイトンのドラム。決して前面に出る事のなかった二人でしたが、このリズムセクションなくしてレイ・ヴォーンの名演は生まれなかった事でしょう。『オレが!オレが!』『オレも!オレも!』といったタイプのプレイヤーであったなら、レイ・ヴォーンの持ち味をスポイルし、ダブルトラブルは早期に空中分解していたのでは。

亡くなる年である90年に、レイ・ヴォーンはあるアルバムをレコーディングしていました。最後にご紹介するのは、兄のジミー・ヴォーンと共に『ヴォーン・ブラザーズ』として、結果的に遺作となった「Family Style」。本作はレイ・ヴォーンの死の直前に全てを録り終えたと言われています。私は全くの無神論者ですが、これが本当であれば何か運命的なものを感じてしまいます。かねてよりレイ・ヴォーンはジミーとアルバムを作りたいと望んでいたそうです。心身の復調、身の回りのゴタゴタなども片付き、ようやく念願であった兄との共作に取り掛かり、それを終えたところで急逝してしまうという、まるで物語のような人生であった様に思えてなりません。
本作はダブルトラブルにおける炎が出るような激しいプレイはありません。R&R、ソウル、カントリー、ファンク、サザンロック、勿論ブルース、といった音楽そのものを楽しんで作った、(決して世間に迎合したという意味ではない)聴きやすい作品となっています。したがって歌が重要なファクターとなっており、シンガーとしてのレイ・ヴォーンの良さを再認識することが出来、全体的には非常にアンサンブルを大事にした創りとなっています。これもまたレイ・ヴォーンの音楽の一つであるのです。

#79 Stevie Ray Vaughan_2

84年5月、スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブルとしての2ndアルバム「Couldn’t Stand the Weather(テキサスハリケーン)」をリリース。発売後わずか2週間で前作の売り上げを抜き、1ヶ月あまりで100万枚のセールスを叩き出しました。前作の成功が決してまぐれ当たりなどではない、確固とした実力によるものとの評価を得ました。

 

 

 


基本的には前作の延長上にある作品ですが、やや新しい試みも。ジャズスタイルの演奏にトライした「Stang’s Swang」などもあります。古いブルースのスタンダード「Tin Pan Alley」を取り上げていますが、プロデューサーのジョン・ハモンドは本曲がレイ・ヴォーンのベストトラックとしています。本曲はファーストテイクでOKになったとの事。録音を終えた直後、ハモンドは思わずブース内にいるメンバー達へ向けてマイクにて、”今までで最高の出来だ!ワンダフルだよ!!”と言ったそうです。確かにレイ・ヴォーンの中で、フレーズ・音色共に白眉のプレイの一つです。

レイ・ヴォーンを語る上で欠かせない先達のギタリストに、言わずと知れたジミ・ヘンドリックスがいます(#43~47ご参照。もっともロックギタリストで直接的あるいは間接的にジミの影響を受けていない人の方が少ないと思いますが…)。兄のジミー・ヴォーンや、巨匠 アルバート・キングと並んで、多大な影響を受けたプレイヤーの一人と折に触れコメントし、そのリスペクトの程がうかがえます。本作ではジミの代表曲の一つ「Voodoo Child」をカヴァーしています。

レイ・ヴォーンの使用ギターは、そのジミと同様にフェンダー・ストラトキャスターがメインでした。最も有名なのは『ナンバーワン』と呼ばれたもの。
当然ストラトだけでも何本も所有していたのですが、レイ・ヴォーンの使用ギターとしては本器が最も良く知られています。70年代前半に地元オースティンの楽器店にて、それまで使用していたストラトと物々交換したと言われています。本器は製造されたそのままの状態ではなく、ネックとボディは年式のそれぞれ異なるものを合わせており(フェンダータイプはボルトで容易に着脱出来るのでそういうものがよくあります)、ジミ・ヘンドリックスと同様にトレモロアームが上部に付いています。ジミは左利きであったのに右利き用のギターをひっくり返して使用していたためそうなったのですが、レイ・ヴォーンは右利きですけれどもあえてその様に加工しました。通常の下部に位置するアームでは出来ないような独特なプレイを可能にしたと言われています。
アンプに関しては80年代初期は同じくフェンダー社のスーパーリバーブやヴァイブロバーブを使用。同社の代表的なツインリバーブよりも小口径・小出力のアンプです。後期はオーダーメイドであるダンブルアンプをメインとしていたようです。
圧倒的な正確無比かつアグレッシブなプレイも勿論ですが、レイ・ヴォーンの魅力は何といってもその音色にあります。#29のデヴィッド・ギルモア回でも少し触れましたが、ストラトキャスターというギターは元々カントリー&ウェスタン等で使用されるのを念頭に開発されたため、太く甘い音よりもヌケの良い枯れた音色を狙って作られました。しかし彼のトーンはストラトらしいハリのある、ガラスがはじける音などという表現がありますが、フェンダーらしい美しい高音とヌケの良さに、ギブソン的なパワフルさも兼ね備えた、ズルい程にイイとこ取りしたような音色です。
多くのレイ・ヴォーンフリークが彼と同じギター・アンプ・エフェクターを入手してその音色にトライしたようですが、殆どの人が口を揃えて言うのが”同じ音にはならない”という事。これは当たり前と言えばそれまでなのですが、ギタリストの場合、そのトーンはプレイヤーの指から生まれるという事です。確かイギリスのミュージシャンの間の言葉で”トーンは指から生まれる”(The tone is in one’s finger だったかな?… 原語はちょっと怪しいかも・・・)というのがあります。機材・セッティングだけ真似てみてもそのプレイヤーの音色と全く同じにはならないのです。

それでもレイ・ヴォーンの音色の秘密に少しでも近づきたいというのがファンの心情であるのも事実です。よく言われるのは、とにかく太い弦を使っていたという事。ギターの弦(ゲージ)は一番細い1弦の太さで表わされますが、通常エレキギターの弦として一般的なのは直径0.09インチ(ゼロキュー)、ジャズやブルースなどを好むギタリストは少し太めの0.10インチ(イチゼロ)などが使用されます。レイ・ヴォーンは0.12やともすれば0.13などという極太のゲージを使っていたと言われています。アコギで使われるようなゲージであり、当然弾きにくくてしょうがありません。それであれほどのスピーディーかつ正確無比なフィンガリングを実現出来ていたのですから驚愕します。そしてそれだけ太い弦を張っていれば当然なのですが、弦の張力によってネックが反ってしまいます。ゴメンナサイした様な状態の所謂”順反り”になってしまい、弦と指板の距離が遠くなる、ギター用語で言う”弦高”が高くなってしまい、これまた弾きにくさに拍車をかけてしまいます。実際レイ・ヴォーン存命中に彼のギターを弾かせてもらったという人の話では、極度の弦高の高さに極太の弦で、とても弾けたものではなかったというものがあります。しかしこれにもメリットが、弦高は低い方が弾きやすいのは当然なのですがその一方で音色のハリを失います。特にアコギではそれが顕著で、あえて弾きにくくても弦高を高くするプレイヤーもいます。レイ・ヴォーンの場合は狙ってそうなったか、結果的だったのかはわかりませんが、その異常な程の弦高もその独特なトーンへ起因しているのではないかと推測されます。
またピックアップが高出力のものに載せ換えられているのでは?、と存命中はよく言われたらしいのですが、彼の死後、フェンダー社がシグネイチャーモデルを製作するために兄のジミーの了承を得て分解してみたところ、他社製のピックアップなどに換えられた形跡は無かったとされています。ちなみにそのレイ・ヴォーンモデル『ナンバーワン』は現在でもフェンダー社の数あるシグネイチャーモデルにおいて、エリック・クラプトンモデルと双璧をなすロングセラーモデルとなっているそうです。そして当然の事ながらフィンガリングやピッキング、あとは気合(?)などが全てミクスチャーされてあのトーンが生まれたのは言うまでもありません。またジミヘン同様、ギブソン・フライングⅤも使用することがありました。これはジミもレイ・ヴォーンも、彼らのヒーローであったアルバート・キングからの影響と言われています。

85年7月、3年前は歓声とブーイングが入り乱れて微妙なリアクションに終わった、因縁のモントルー・ジャズ・フェスティバルへ再び出演します。

既にスーパースターとなっていたバンドは当然大歓声に迎えられてのステージとなります。個人的には82年のステージが特に出来が悪かったなどとは思えませんので、如何に売れているから、メディアで取り上げられているから、という属性でもって世間の評価というものが変わるのかという良い例でしょう。レイ・ヴォーン達にしてみれば、してやったり!と、リベンジを果たしたといったところだったでしょうか。

85年9月、3rdアルバム「Soul to Soul」をリリース。こちらもプラチナディスクを獲得。順風満帆に見えるそのミュージシャン人生でしたが、実はある問題を抱えていました。その辺りはまた次回にて。