#86 Rockpile

エルビス・コステロとニック・ロウのイギリス勢から、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースとアメリカ勢へ話は移ってきましたが、ここでまたイギリスのバンドへ戻ります。この流れで取り上げておかないと、今後触れることが出来るかどうかわからないので。

今回取り上げるのはロックパイル。デイヴ・エドモンズとニック・ロウを中心としたバンドです。「Rockpile」とは元はエドモンズによるソロアルバムのタイトルであり、そこからデイヴ・エドモンズ&ロックパイルというバンド名として使用していました。しかし当バンドは短命に終わりエドモンズは再びソロ活動へ。そして76年にニック達と共にバンドを結成した際に、再度「ロックパイル」をバンド名に冠しました。エドモンズとニックの所属レーベルが異なるなどの問題があったため、レコードデビューまで間が空いた訳ですが、80年にようやく、そして彼ら唯一のスタジオアルバムである「Seconds of Pleasure」のリリースへとこぎつけました。同時期に発表されたエドモンズとニックのソロアルバムも実質的にロックパイルの活動の一環と捉えられる場合が多く、それらを含め、また彼らが当時のミュージックシーンに及ぼした影響などについても併せて触れていきたいと思います。

76年の結成から80年の「セカンド・オヴ・プレジャー」まで、エドモンズはロックパイルとは別に3枚のソロアルバムをリリースしています。ロックパイルとしてステージでの活動を行いながら、年1枚のペースで自身のアルバムも作る、かなりのペースの仕事量であったでしょう。さらに言えばロックパイル解散後も81~84年の間も年イチでアルバムをリリースしています。上はエルビス・コステロ作「Girls Talk」を先にエドモンズがシングルとしてリリースしたもの。全英4位の大ヒットとなります。コステロ自身も翌年にシングル曲のB面として収録しています。

ニックも78年に1stソロアルバム「Jesus of Cool」、79年に2nd「Labour of Lust」を立て続けにリリース。2ndからは前々回も触れた通り、最大のシングルヒットとなった「Cruel to Be Kind(恋するふたり)」が生まれました。そしてコステロ回でも述べたように、人のプロデュースも並行して行っていたのですから、そのワーカホリック振りには脱帽します。

「セカンド・オヴ・プレジャー」の音楽性は最初の動画「Teacher Teacher」の様なR&Rは勿論の事、カントリーロック、そしてR&Bと、エドモンズとニック双方が愛してやまないアメリカのルーツミュージックを基調としています。上の「A Knife and a Fork」などはブッカー・T&ザ・MG’sを彷彿とさせる様な黒っぽいナンバーです。しかし、作家としての二人のスタンスには違いがあり、エドモンズは自作・他作には拘らず、気に入った曲を自分の味付けで料理してしまうのに対して、ニックはオリジナルを重視したようです。

この時期のエドモンズとニックは創作意欲・アイデアが次から次へと浮かんできて仕方がなかったのではないでしょうか。実際この時期の彼らを70年代におけるレノン&マッカートニーと評する人たちもいる程です。決してポップミュージックの変革点となる、エポックメーキングな音楽を創った訳ではありませんが、自身たちの愛する音楽を踏襲しながら、そこにオリジナリティーを加味していくといった、簡単なようで決して一筋縄ではいかない事を行っていました。再度言いますが時代を変えるような音楽を創ろうとした訳ではありませんし、まして奇をてらう気などさらさらなく、音楽本位の姿勢でした。そこに若き日のコステロやヒューイ・ルイスなど、彼らを慕うミュージシャン達が自然と集まり、創造性に溢れた場が形成されていったそうです。

ニック作による「Heart」。シュープリームス「You Can’t Hurry Love(恋はあせらず)」に代表される所謂”モータウンビート”を取り入れた曲。しかしただの模倣に終わらず、ロカビリーのテイストと融合した独自の楽曲に仕上がっています。#59のホール&オーツ回でも触れた事ですが、80年代前~中期にかけてちょっとしたモータウンビートのリバイバルブームがありました。これの火付け役はイギリス勢によるものではないかと思っています。同時期にクラッシュにもモータウンビート風の楽曲があったと記憶しています。

ポール・ウェラーは#55にて取り上げましたが、ザ・ジャム後期における全英No.1ヒット「Town Called Malice(悪意という名の街)」のリリースが82年1月(翌2月には1位となる)、そしてフィル・コリンズによる「恋はあせらず」のカヴァーと、ホール&オーツ「Maneater」が同年秋と、ほぼ同時期に発売。そこからはビリー・ジョエル、カトリーナ&ザ・ウェーブズ、そしてモータウン本家のスティーヴィー・ワンダーまで、モータウンビートリバイバルといった感がありました。先日他界したアレサ・フランクリンをはじめ、アトランティックやモータウンといった60年代に一世を風靡したソウルミュージックは70年代に入って一時鳴りを潜めます。70年代半ばには黒人音楽と言えばEW&Fに代表される様なディスコミュージックが主流となりました。しかし海を隔てた英国ミュージシャン達によって、「このリズムカッコイイ!すっげえクールじゃん!」と見直されたのではないかと思うのです(”じゃん!”と言ったかどうかはともかくとして・・・)。

ロカビリーという単語が先ほど出ましたが、80年代初頭にロカビリー人気の再燃がありました。言わずと知れたブライアン・セッツァー率いるストレイ・キャッツがその代表格であり、彼らのデビューアルバムをプロデュースしたのがエドモンズです。アメリカの若者が十五歳も年の離れたイギリス人と、その時までは古臭いものとして本国では廃れていた音楽を、見事に復活させたのです。しかもそのブレイクは先ずイギリスから始まりました。1st及び2ndアルバムを英国で発売し、これらが大ヒット。そして3rdアルバム、米国では実質的にデビューアルバムとなる「Built for Speed」(82年、1stと2ndから選曲したもの)が全米2位の大ヒットを記録する事となります。

ロックの歴史を書いた本などがあると、60年代末からハードロック、プログレッシブロックが台頭し、やがてジャズの要素を取り入れたクロスオーヴァー(後に言うフュージョン)、70年代半ばからはディスコミュージックが全盛となり、ロックがどんどん商業主義化し、またテクニック重視となっていくのに対し、70年代後期にロンドンを中心とした怒れる若者たちがパンクムーヴメントを興し、やがてその流れはニューウェイヴへとシフトしていった、の様な内容がよく書かれているかと思います。
商業音楽に商業主義化するなと言うのがそもそも存在自体を否定している気がしてなりませんし、演奏技術・レコーディングテクニックを駆使したアレンジを追い求める事もさらさら悪いとは思いません、それらを否定すると音楽に限らず、全ての文化・芸能において発展はないのですから。しかし、上の様なロックの本に書かれているであろう70~80年代にかけての流れは、概ねにおいてその通りだと思います。そしてあまり目立つ存在ではありませんでしたが、パンク~ニューウェイヴの流れにおいて、実はエドモンズとニックの果たした役割が大きかったと言われています。彼らの音楽自体にパンクっぽさなどが感じられる訳ではないと思いますが、一貫して自身たちの愛する、本国では古臭いとされていたR&Rなどのアメリカンルーツをベースとした音楽を追及し続け、その真摯な音楽に対する姿勢に惹かれてイギリス人はもとより、ヒューイ・ルイスやブライアン・セッツァーなど、アメリカのミュージシャン達も彼らを信奉してその下に集い、エドモンズとニックは彼らの指南役、良きアドバイザーとなっていたのだと思います。

17年におけるコンサート活動を最後に惜しくもデイヴ・エドモンズは音楽界を引退しました。余談ですが公においてエドモンズ引退、というアナウンスを最初にしたのはセッツァーでした。前々回述べた通りニック・ロウは今も現役バリバリです。セールスだけを取れば、彼らは決して大ヒットを連発したミュージシャンという訳ではありませんが、半世紀以上に渡り多くのリスナー、またミュージシャン仲間達から支持された理由は、ギミックなどに走らず、常に音楽本位の姿勢を崩さなかった事でしょう。派手な宣伝広告、目立つ外観に頼った飲食店などより、地味ではあるが一貫してその味を大事にしてきたオヤジがやってる店の方が生き残る、といったようなものではないでしょうか。

#85 The Heart of Rock & Roll

ニック・ロウのアルバム「The Rose of England」(85年)にヒューイ・ルイス&ザ・ニュースが参加している事は前回触れましたが、エルビス・コステロの1stアルバム「My Aim Is True」(77年)が、ヒューイ・ルイスが当時在籍していたバンドによって全面的にサポートされている事もコアなロックファンには結構知られている事です。ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの2ndアルバム「Picture This」(82年)の邦題は『ベイエリアの風』と冠せられるほど、米西海岸を代表するバンドとされたヒューイ・ルイスがイギリスのミュージシャンとつながりが深いというのはなかなか興味深い事ですが、果たしてその理由は?

 

 

 


ヒューイ・ルイスは50年生まれの現在68歳。生まれはN.Y.ですが小学校入学前にカリフォルニアへ移り住み中学までを過ごした後、両親の離婚に伴い高校はニュージャージー州、
大学はN.Y.のコーネル大学と、東西を行った来たする少年期~青年期を送ったようです。彼の音楽にドゥーワップやR&Bといった要素が大きなウェイトを占めているのはこれに起因するようです。
父親はアイルランド系アメリカ人、母親はポーランド人と、意外にもそのルーツはヨーロッパにあります。その豪快かつパワフルなヴォーカルスタイルからアメリカを代表するシンガーと捉えられるヒューイですが、彼の血筋、また音楽的バックボーンに様々な要素が入り混じっているのは興味深いことです。高校までは学業・スポーツ(野球選手だった)共に優秀だったようですが、大学に入ると身を持ち崩してしまったそうです。69年、大学3年生の時に中退し、音楽の道を志してサンフランシスコのベイエリアへと、再度ウェストコーストへ戻ってきます。
71年、ヒューイはベイエリアのバンド「クローバー」へ加入。地元でローカルな好評価を得た後、76年にバンドはL.A.へ進出。クラブシーンで成功を収めると共にその頃ニック・ロウの目に留まり、ニックの勧めから渡英し、78年にカルフォルニアへ戻るまでイギリスで活動します。先述したコステロのデビューアルバムへの参加はこの時期の事です(もっともヒューイはそれには参加しませんでした)。

クローバーはアメリカへ戻ってすぐに解散。ヒューイはメンバーを集め、ザ・ニュースの前身となるバンドを結成。シングル1枚をリリースした後、80年にヒューイ・ルイス&ザ・ニュースへと改名し、バンド名を冠した1stアルバムを発表。82年に前述の2ndアルバム「ベイエリアの風」からのシングル曲「Do You Believe in Love」が全米7位の大ヒットを記録。バンドは檜舞台へと躍り出ます。

83年、彼らの人気を決定的なものとした代表作「Sports」をリリース。上記の3rdシングル「The Heart of Rock & Roll」を含め、4枚のTOP10ヒットを輩出し、世界で800万枚以上を売り上げた大ヒットアルバムです。本作からもう一曲「If This Is It」。

ストレートなR&R、美しいコーラスで彩られたウェストコーストサウンド、はたまたドゥーワップと、その多様な音楽性は他のウェストコースト系ロックバンドとは一線を画していました。ザ・ニュースのメンバーは器楽演奏は勿論一流ですが、全員がシンガーとしても優れていて、見事なコーラスワークを聴かせてくれます。この時期だったかと思いますが、ベストヒットUSAへ出演した際に、小林克也さんがその場で、コーラスを披露してくれないか?と頼んだところ、嫌な顔一つせずに快諾して素晴らしいアカペラを披露していたのを記憶しています。克也さんも彼らの度量の深さについて、後に(総集編だったかな?)褒めたたえるコメントをしていました。同番組にてカメラが回っている時と、そうでない時の態度が180度違う、ある女性シンガーとは全く正反対の対応です。(・・・誰も言ってませんよ、マ〇ンナなんて… 言ってませんからね・・・・・)

おそらく彼らの代表曲となるのは、超有名映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のテーマ曲である「The Power of Love」でしょう。有名すぎるのでここでは張りませんが、同曲は初の全米No.1ヒットとなりました。86年、4thアルバム「Fore!」をリリース。ここからも上の「Stuck with You」を含む2曲のNo.1シングルを生み、バンドの人気はピークに達しました。

ヒューイは大学入学前、ヨーロッパを無銭旅行で回った事があるそうです。ハーモニカを持って各地を巡り、スペインのマドリッドではブルースプレイヤーとしてストリートミュージシャンを演り、旅費を稼いでいたとの事。ちなみにヒューイはこの時マドリッドで初めての(路上ではない)コンサートを経験したそうです。
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの音楽からヨーロピアンロックのフレーバーが直接香り立つことは正直ないと思います。ストレートなR&R、カントリーロック、コーラスワークを生かしたウェストコーストサウンド、R&B・ドゥーワップ・ファンクといったブラックミュージックが、彼らの表立っての音楽性と言えます。ですが両親のルーツ、若き日のヨーロッパでの放蕩、クローバー時代のイギリスでの活動及びニック・ロウをはじめとしたブリティッシュミュージシャンとの交流が、その音楽に深みを与えている様な気がしてなりません。

90年代以降のヒューイ・ルイス&ザ・ニュースは80年代の様なヒットを飛ばすことはなくなりましたが、一度も解散することなく今日までその活動を続けています。結成以来比較的メンバーの異動も少なく、コンスタントに活動を続けて来られたのは、ヒューイをはじめメンバーの人柄及び結束力が大きな要因かと思われます。ヒューイは決してぽっと出で成功した人ではなく、下積みを経験した人ですので、80年代のブレイク以降も驕り高ぶることなく、非常に義理堅く真摯な人柄であるそうです。前述のニック・ロウとのコラボレート、同郷(ベイエリア)の超絶技巧ブラスファンクバンドタワー・オブ・パワー(いつか必ず取り上げます)のサポートなど、仲間たちとの関係を非常に大切にしてきた人物です。

リアルタイムで聴いていたというひいき目を考慮しても、現在でもその音楽には当時を想起させてくれる(別に良い思い出ばかりだった訳では決してありませんが・・・(´Д`))、私の心の琴線に触れる音楽となっています。昔の音楽が全て良かったなどとはつゆも思いません(50’s~80’sにもくだらないものはたくさんありました)。しかし現在でも多くのリスナーが支持する彼らの音楽は、断じてオッサン達の懐メロというだけではない、普遍的、言い換えればエバーグリーンな輝きを持った音楽として存在し続けているのだと思います。

#84 The Rose of England

前回も少し触れましたが、エルヴィス・コステロの初期作品群をプロデュースしたのがニック・ロウです。コステロは79年にニック・ロウ作の「(What’s So Funny ‘Bout) Peace, Love And Understanding」をカヴァーしています。

ニック・ロウのオリジナルはこちら。ブリンズリー・シュウォーツ による74年のシングル曲。

両者の個性が表れており、聴き比べると興味深いものがあります。本曲は決してヒットナンバーであった訳ではないのですが、その後も多くのミュージシャンによって取り上げられ続けています。

 

 

 


ニック・ロウのデビューは67年、つまり50年以上のキャリアを持つミュージシャンです。バンドでの活動を経て、76年にソロでレコードデビュー。最大のヒットは79年のシングル「Cruel to Be Kind(恋するふたり)」(全米・全英共に12位)。

コステロ回でも述べた事ですが、オールディーズのR&Rやポップス、カントリー&ウェスタンといったアメリカのルーツミュージックを演奏するイギリス人ミュージシャンの代表格です。予備知識なしに一聴すると、てっきりアメリカのミュージシャンと思ってしまうでしょう。上は84年発表の「Nick Lowe and His Cowboy Outfit」のオープニングナンバーである「Half a Boy and Half a Man」。小気味良いR&Rですが、やはりどこかに英国臭さを感じるのは私だけでしょうか?

ニック・ロウは自身の活動以外にも、プロデューサーとしての手腕も良く知られるところです。先述のコステロをはじめ、英国パンクの祖であるダムド、米ロカビリー・カントリー界のカリスマ ジョニー・キャッシュ、デビュー間もないプリテンダーズなど、そのプロデュースワークは多岐に渡っています。

「The Rose of England」(85年)からの1stシングル「I Knew the Bride (When She Used to Rock ‘n’ Roll)」。当時は全米77位とお世辞にもヒットしたとは言えませんが、現在YOUTUBE上で200万回超の再生回数を誇っています。時代がようやくニックの音楽性に追いついたのでは?
本曲には当時人気絶頂であったヒューイ・ルイス&ザ・ニュースが参加、というよりもこの曲に限りヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの演奏及びコーラスによるもの(プロデュースもヒューイ)。

タイトルトラックである「The Rose of England」。私が思う本作のベストトラックであり、ニックの音楽性を最も表していると思うのが本曲です。カントリーを基調としたR&R、アメリカで言えばサザンロック、スワンプロックに相当するのでしょうが、やはりヨーロッパ的哀愁が漂っており、コステロにも通じる所がありますが(というよりコステロがニックを踏襲したのでしょうけど)、この雰囲気はニック・ロウにしか出せないものです。

よくよく考えればカントリー&ウェスタン、ブルーグラスといった米白人によるアメリカンルーツとされる音楽も、元をたどればイギリス・アイルランドで根付いていたポピュラーの変化版と言えます。アメリカでは西部劇よろしく、ウェスタン扉を押しのけてバーボンをあおりながら演るところを、イギリス・アイルランドでは、パブでエールやスタウト(ギネスビールなど)といったビールや、スコッチウィスキー(ヴァランタインやグレンリベット等々 いかん、飲みたくなってきた…)を嗜みながら飲めや歌えやの宴を催す、といっただけの違いです。その根っこは同じものなのでは?

今年4月、ニックは来日公演を行いその健在ぶりを日本のファンに披露しました。セールスやチャートアクションだけを取れば、大成功を収めたミュージシャンという訳ではありません。しかし半世紀以上に渡り継続的な活動を続けてきたのは、コアなファンからの支持や、同業者達から一目置かれる存在であり続けた”Musician’s Musician”としての功績によるものではないかと私は思うのです。

#83 Punch the Clock

直近のブルース・スプリングスティーン回にて、ブルースが70年代後期に興ったパンクムーヴメントに影響を与えたであろう事を書きました。ロンドンを中心としたロックンロールへの回帰、とでも言える様な音楽的な波が一般的にそう呼ばれます。もっともこの時期にイギリスでデビューしたミュージシャン達は皆パンク扱いされました。後になって『この人(達)ってパンクか?』というようなケースもありましたが、流行・時代の波といったものは往々にしてそういうものでしょう。

 

 

 


エルヴィス・コステロもそのパンクムーヴメントの真っ只中にレコードデビューした一人です。後にその音楽性の多様さ(節操のなさ?)を発揮しますが、デビュー当時はパンク調の音楽であったのは確かです。しかし他のパンクロッカー達と一線を画していたのは、コステロのバックボーンにはオールディーズR&R、カントリー&ウェスタン、ジャズ等のアメリカンミュージックが染み付いていた事。大ヒットとまでは行きませんでしたが、初期から米において比較的チャートアクションが良かったのは、一過性に終わったパンクの流行に乗っただけではない、これらの要因があったからなのではと思われます。

今回取り上げる80年代の作品、私がリアルタイムで聴いていた「Punch the Clock」(83年)「Goodbye Cruel World」(84年)の二つは生粋のコステロファンにとってはあまり芳しくない評価のものです。というよりも、コステロ自身が気に入っていない、と公言しているものです。「Goodbye Cruel World」などは後にCDで再発された時に、コステロ自身によるライナーノーツにて、『Congratulations! You just bought the worst album of my career.(おめでとうございます。あなたは我々のワーストアルバムを購入しました。)』という文言が入っていた程だそうです。自虐ネタにもほどがあるでしょうが・・・
私的にはリアルタイムで体験したというひいき目を差し引いても、決して出来の悪いアルバムだとは今聴いても全く思いませんが、コステロ的には”売れ線”に走ってしまったのがどうにも許せなかったらしいです。確かに80年代の日本のロック雑誌にてそのようなコメントがあったのを記憶しています。

その”売れ線”と言われた一つが上の「The Only Flame in Town」。当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったホール&オーツのダリル・ホール(#56~#61ご参照)をゲストに迎えた一曲。ダリルとデュエットするからにはやはりソウルミュージック、となったのかと推測されますが(ダリルはどんなスタイルでも見事に歌う事が出来るシンガーですけど)、言うほど売れ線か?と思うような楽曲です。先程デュエットと書きましたが、正確にはダリルがバッキングヴォーカルに回った、というのが正しいでしょう。コステロはかなり個性的な声・歌唱スタイル、悪く言えばかなりアクの強い歌い方をするシンガーですが、ダリルはそれを引き立て出しゃばり過ぎず、それでいてちゃんと存在感を示しているという素晴らしいプレイを披露しています。超一流のシンガーでなければ出来ない事です。

もう一つの”売れ線”がこれ「I Wanna Be Loved」。スクリッティ・ポリッティ(#54ご参照)のグリーン・ガートサイドをコーラスに起用したバラード。シンセの音色が如何にも80年代を感じさせ、またグリーンの個性的な声でもってより特色ある楽曲へと仕上がっています。ちなみに本曲はオリジナルではなく、シカゴのR&Bコーラスグループ「Teacher’s Edition」という、お世辞にも有名とは言えないグループの、しかもアルバム未収録のシングルB面曲との事。コステロが本曲を知ったのは訪日時にたまたま買ったその手のコンピレーションものに入っていたらしいです。参考までに原曲を。

ポップに歩み寄ったつもりでもチャート的にはイマイチ振るわず、コステロはアメリカに渡り「King of America」(86年)を制作。前述した様なアメリカのルーツミュージックに傾倒した作品となりました。また2ndアルバム以降その活動を共にしてきたバックバンド アトラクションズとの関係もこの時期に一度断ち切っています。私生活では離婚問題などを抱え、80年代中期~後期はコステロにとって比較的苦難の時代となっていました。

89年、コロンビアからワーナーに移籍。アルバム「Spike」をリリースし、そこからの第一弾シングルでありポール・マッカートニーとの共作として話題を呼んだ「Veronica」。コステロのキャリアにおいてはアメリカで最もチャートアクションが良かった曲です(全米19位)。果たして何かが吹っ切れたのでしょうか?。90年代以降のコステロはその奇才ぶりを発揮していきます。バート・バカラックとの共作、ジャズへの傾倒(3番目の奥さんがジャズシンガー)、さらにはインスタントラーメンの生みの親である日清食品の創業者をタイトルに冠したアルバムのリリースなど、その創作意欲はとどまる事を知らないかのようです。

パンクムーヴメントでデビューし、果てはジャズまで。決して一筋縄で括ることが出来ないミュージシャンではありますが、基本的にこの人はオールディーズやカントリー&ウェスタンといったアメリカンルーツをイギリス人的解釈で演る人だと私は思っています。それに関しては先輩であり盟友でもあるニック・ロウ、デイヴ・エドモンズなどと同系譜のミュージシャンと言えます。
決してビッグセールスを連発したミュージシャンという訳ではありません。しかし40年に渡る根強いファンからの支持、また同業者であるミュージシャン達から一目置かれる存在であり続けているエルヴィス・コステロという人は、ポップミュージック界におけるワンアンドオンリーだと思います。