#116 Music of My Mind

スティーヴィー・ワンダーは50年5月生まれ、ですので70年5月に20歳になった訳です。
そして翌年の21歳をもってモータウンレコードとの契約期間終了を控えていました。
モータウンにはこの頃から内部で不協和音が響き始めていました。社長のベリー・ゴーディは
独断で会社をデトロイトからL.A. へ移しミュージシャン達から反感を買いました。また、
世の音楽は転換点を迎えており、アルバムを一つのトータルな作品とみなし、コマーシャリズムだけを
追及する音楽スタイルからの脱却を図り始めていましたが、ゴーディはあくまで3分弱のポップソング
こそが理想、という考え方でした。であるから当然曲に社会的・政治的メッセージ性を込める事にも
否定的で、マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」にも決して良い顔をしませんでした。

スティーヴィーは既にマーヴィンやダイアナ・ロスと並んでモータウンのドル箱スターと
なっていましたので、勿論ゴーディも契約更改をさせようと目論んでいました。しかし、
スティーヴィーも当然ミュージシャンとしての自我(かなり強烈な)が芽生えており、
今までの様なモータウンのやり方には素直に従うつもりはなかったのです。二人の間で具体的に
どのようなやり取りがあったかはわかりませんので、その後の作品から推して知るべしですが、
プロデュースは自身で行う、共同作曲者も付けない等、少なくとも音楽的には好きに演らせてもらうと、
出来得る限り余計な干渉はしてくれるな、というものだったのでしょう。
という訳で二十歳になったスティーヴィーは70年の夏頃から次作の制作に取り掛かり、そうして
出来上がったのが71年4月リリースの「Where I’m Coming From(青春の軌跡)」です。
前回、71年という年が重要な意味を持つような言い方をしたのはこういう訳です。
上はオープニングナンバー「Look Around」。いきなりクラシック的雰囲気を漂わせる本曲を
一曲目に持ってくる所からして、作風の変化が一聴瞭然です。アルバム全体を通して、
これまでよりも内省的、悪く言えば地味で暗い作品です。チャートアクションだけを取れば
ポップス62位・R&B7位と、芳しくないものでした。唯一の例外はシングル
「If You Really Love Me」がポップス8位・R&B4位というヒットを記録した事。本曲は
”60年代モータウン的スティーヴィー” のカラーを残しつつ、良い意味で新しいスタイルと
巧く折り合いをつけた佳曲です。

地味で暗い、などと酷い言い方をしましたが、本作はその後のスティーヴィーにとって大変重要な
意味を持つアルバムです。上の「Never Dreamed You’d Leave in Summer」は、その後の
「You and I」や「Lately」といった、スティーヴィーならではの劇的なバラードの萌芽的楽曲です。

エンディング曲「Sunshine in Their Eyes」。アレンジに旧モータウン色を脱して切れていない感も
若干ありますが、7分に渡る本曲は、ソングライティング面における彼の新境地を見出す事が出来ます。
ちなみに70年9月にスティーヴィーはソングライターであったシリータ・ライトと結婚しています。
結婚生活自体は18ヶ月間と短いものでしたが、シリータは妹のイヴォンヌと共にスティーヴィーの
作品と深く関わる事となった人物であり、「青春の軌跡」は全て共作名義となっています。

70年代のスティーヴィーを語る上で欠かせないのがシンセサイザーです。彼はこの時期にその後の
音楽性に多大な影響を与えるものと出会います。TONTOシンセサイザー。私は電子キーボード類に
明るくないので、詳細に興味がある方は自身で調べてください。ムーグシンセサイザーを改良、
発展させた本器の音を聴いたスティーヴィーはすぐさま開発者達に会いに行ったそうです。
本器を使用し、また開発者達にもエンジニアとして加わってもらい新作が完成します。72年3月に
リリースされた「Music of My Mind(心の詩)」です。

76年の超大作にて代表作である「キー・オブ・ライフ」、そしてそれにつながるとされる
「トーキング・ブック」「インナーヴィジョンズ」「ファースト・フィナーレ」を俗に ”三部作”
と呼んだりしますが、実際は「心の詩」からつながっていると思います。もっとも三部作という
言い方を欧米でもするのかはわかりません。 ”三大ギタリスト” と同じく日本だけのものかも。
オープニング曲「Love Having You Around」。まさしくニューソウルと呼ぶに相応しい、
前作にてその片鱗を覗かせてはいましたが、それが見事に開花したナンバーです。
様々なアイデア、従来とは異なる手法が採用されています。音質は非常にクリアで、ステレオの
定位(左右の振分け)が実に巧妙、ヴァリエーションに富んだバッキングヴォーカル、その中でも
トーキングモジュレーター(管に声を通して音色を変化させる)が効果的に使われています。
エレクトリックピアノに関しては、本作からフェンダー社のローズピアノが使用されていると言われ、
それが前作より表情豊かなプレイを可能にしているようです。非常に計算されつくしたバッキング
トラックでありますが、それが要であるスティーヴィーの歌を邪魔する事は全くなく、全てが
渾然一体となって、このブラックフィーリング溢れるナンバーを盛り立てる事に成功しています。

シンセやエレピと並んで、スティーヴィーの音楽にとって重要なキーボードがクラビネットです。
「迷信」のイントロが良く知られる所ですが、上の「Happier Than the Morning Sun」も
クラビが印象的な曲。マルチで重ねたようにも聴こえますが、エフェクターのコーラスをかけたものと
言われています。ビートルズの「ヒア・カムズ・ザ・サン」に影響されたとかされないとか。

「Seems So Long」も新境地が垣間見える楽曲。フリーなコンテンポラリージャズのような
スタイルのバラードは、淡々と始まり、やがて劇的なエンディングを迎えるといったスティーヴィーの
バラードにおける一つの型が出来上がった初期の作品と言えます。パーカッション的なフリーな
ドラミングも素晴らしく、彼のセンス・グルーヴを堪能出来ます。

私が思う本作のベストトラックであり、黄金期の幕開けを象徴するナンバーが上の「Superwoman」。
異なる二曲をつなぎ合わせたこの8分に渡る大曲は、先の「Seems So Long」同様にTONTOシンセが
効果的に使用されています。楽曲、アレンジ、演奏、そして勿論スティーヴィーの歌といった全ての要素が
非常に高い次元で結び付き、更に高みへと昇華されている初期の名曲です。

「心の詩」はポップス21位・R&B6位と、前作よりはだいぶ良かったものの、次作「トーキング・ブック」
以降と比べるとチャートアクション的には決してヒットとは呼べないもので、それが現在においても
今一つ評価が低い原因かと思われますが、所謂スティーヴィーの黄金期は本作から始まったと
私は思っています。
また音楽的な面ではないのですが、21歳時の契約更新の際にはやり手弁護士を雇い、スティーヴィー本人は
創作に専念出来たというのも、この時期に急激な(異常とも言える)音楽的飛躍を遂げた遠因に
なっていると言う人もいます。

かくして黄金期へのお膳立ては揃った訳ですが、今回はここまで。
次回は当然「トーキング・ブック」についてです。

#115 My Cherie Amour

前回の最後の方にて触れたスティーヴィー・ワンダー。年初からブラックミュージック特集を
続けていますが( 誰もおぼえてませんよね!(*゚▽゚) )、本当は特集のトリを飾る人に
しようと思っていました。ですが、ちょうどスティーヴィーの名前が出てきた所で取り上げて
しまおうと思います。人間いつどうなるか先はわからないので、例えば無実の罪で投獄されたり
∥||Φ(|’Д`|)Φ||∥、突如来襲してきた宇宙人にさらわれてしまったり ~👽👽👽Φ(‘Д`)Φ👽👽👽~、
朝目が覚めると一度も来た事がないダンジョンの最深部に取り残されていたり /~~\(‘Д`)/~~\、
かように、人生は何があるかわかりませんので書けるうちに書いておきます・・・ネーヨ (´∀` )

https://youtu.be/Xhmq8JuPfJA
ポップミュージック史上、最も才能を持ったミュージシャンだと私は思っています。
その音楽的才能においてはジョン・レノン、ポール・マッカートニーをも凌ぐ存在です。
数多くのヒット作を放ち、今更説明不要な程・・・と思ったのですが … 。これだけのビッグネームで
ありながらその全キャリアにおいて、特に60年代における彼の音楽性及びその背景については
意外と語られていないのでは。それは彼の黄金期が70年代前半から80年代初頭にあるので、
致し方ありません。かく言う私もその時代こそが彼の真骨頂だと思っている一人です。
しかし60年代の活動に触れずしてその後の音楽性を語ることも片手落ちであるので、出来るだけ
簡潔に60年代をまとめていきます。機会があればこの時代についてはいずれまた触れます。
上は63年の全米No.1ヒット「Fingertips」。レコードではA面がパート1、B面がパート2と
分かれています。そして同日発売のライヴ盤も同じく全米1位。レコーディング時は12歳であった
少年のプレイがNo.1となった、これは快挙としか言いようがありません。
スティーヴィーを語る上で、モータウンレコードの創設者 ベリー・ゴーディに触れない事は
不可能ですが、彼のプロフィールはどうぞウィキ等で。
きっかけはスティーヴィーの少年期における音楽的相棒の親族に、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズの
メンバーがいた事。凄い子供がいるといってモータウンのスタジオで、ゴーディの前にてお披露目が
行われました(ダイアナ・ロスもその場にいたらしい)。ゴーディは最初、その歌声よりも器楽演奏の腕前に目を付けたそうです。ピアノ・ハーモニカ・ドラム・パーカッションを巧みにこなすその天賦の才に将来性を感じたとの事。意外にも歌声にはそれほど魅かれなかったらしいです。それは致し方なかったかも
しれません。声変わり前の少年なので、今後その歌声がどの様になっていくかは未知数であったのですから。もっともその心配は全く的外れなものとなりましたが。
「Fingertips」及びアルバムの中にはその後の、具体的に言えば60年代後半からの
スティーヴィーの才能の片りんを見出す事は難しいです。ミュージシャンによっては10代でデビューし、
その時点で既に音楽が完成されているという人もいますが、スティーヴィーは決してそうでは
ありませんでした(12歳ですからね)。当時における彼の才能は、むしろ聴衆を盛り上げる
ステージパフォーマンス、テンションの高さに顕著で、ゴーディ達もその天性の素質に注目していました。
この頃のステージでは、興奮し過ぎたスティーヴィーが持ち時間が終わってもステージを降りないので、
大人たちが抱えて引きずりおろすという事もあったそうです。
しかし、その後二年半の間は「Fingertips」の様なヒットには恵まれませんでした。スティーヴィーの
音楽的才能が開花し切っておらず、またモータウン側もどのように彼を扱えば、売り出していけば
良いのか試行錯誤が続いていたようです。

潮目が変わったのは65年暮れ、上の「Uptight (Everything’s Alright)」が「Fingertips」以来の
大ヒットとなります(ポップスチャート3位・R&B1位)。絵に描いた様な快活なソウルナンバーである
本曲は、ローリング・ストーンズの「サティスファクション」にインスパイアされた曲。アメリカの
ソウル・R&Bに心酔したロンドンの若者たちによる楽曲が本場の黒人少年に影響を与える、
このあたりは誠に興味深いものがあります。

https://youtu.be/C6ZSpuTwy7c
ここから60年代におけるスティーヴィーの快進撃が幕を開けます。70年までにポップスチャートにて、
「アップタイト」を含め10曲のTOP10ヒットを世に送り出す事となりました(60年代って
言っているのになんで70年を含めるの?というのには理由があります、それは次回にて)。
全てがオリジナルという訳ではありませんが、彼のソングライティング能力が萌芽した時期と言えます
(ただしこの時期は全て共同作曲者が付いていました)。そしてゴーディが懸念していた
声変わりという点においても全く問題なく、シンガーとして更なる飛躍を遂げたのです。
上の二つはこの時期において、自作曲でなおかつその歌唱が素晴らしいと私が独断で選んだもの。
「I Was Made to Love Her」(67年、ポップス2位・R&B1位)はチャカ・カーンも
カヴァーしたのは以前取り上げた通り(#105ご参照)。「I’m Wondering」(67年、ポップス12位・R&B4位)はアルバム未収録曲ですが歌声が見事で、「I Was Made・・・」同様にその後の
ヴォーカルスタイルが確立されたものの一つではないかと思っています。

今回のテーマである「My Cherie Amour」(69年、ポップス4位・R&B4位)。本曲はビートルズの
「ミッシェル」に影響を受けて創られた曲、なので仏語の ”Amour” が冠せられたという訳。
ビートルズ、とりわけポール・マッカートニーとは縁が深く、82年の「エボニー・アンド・アイボリー」は
あまりにも有名ですが、二人は60年代半ばには既に会っていたとの事。曲は16歳(66年)の時に既に
書き上げていたらしく(「ミッシェル」の発売直後)、恋人との別れが元になっています。67年中には
ヴォーカル以外のパートが録音され、翌68年1月には歌が録られたそうですが、モータウン側が歌に
問題があるとして一年後の69年1月まで取り直し、ようやくリリースにこぎつけたそうです。67年頃
(17歳)には、その歌唱スタイルはほぼ完成されていたと思うのですが、何が問題であったのかは謎です。
メロディメイカーとしての才能が開花されたこの名曲は、はじめは「I Don’t Know Why」という曲の
B面でした。本曲はモータウンらしくない ”硬派” な曲で、玄人には評価が高いのですが(ストーンズが
後にカヴァー)、一般ウケはしそうにないのですぐに「マイ・シェリー・アモール」をA面として
再発されました。人によっては売れ線、アレンジが古臭いと揶揄する人もいるようですが、そのメロディの
素晴らしさは文句の付けようがなく、スティーヴィーによる傑作の一つと位置づけて良いでしょう。

この他にも、ボブ・ディランのカヴァー「Blowin’ in the Wind(風に吹かれて)」(66年、
ポップス9位・R&B1位)はスティーヴィーが社会的メッセージ、政治観を歌詞へ反映させる契機と
なった作品ですし、バート・バカラックの名作「Alfie」(68年、ポップス66位)はハーモニカによる
インストゥルメンタルであり、イージーリスニング的と敬遠するファンもいますが、そのハーププレイは
素晴らしいもので、一概に否定は出来ない楽曲と私は思っています。
この様に、色々な切り口からスティーヴィーを取り上げると、60年代だけでもまだまだ書き尽くせない
のですが、きりがないのでその辺りは機会があればいずれまた。
次回は71年からのスティーヴィーについてです。

#114 Kiss

アヴェレージ・ホワイト・バンドとタワー・オブ・パワーを続けて取り上げてきましたが、
彼らの音楽において基礎的部分を担っているのがファンクミュージックである事は
間違いありません。ファンクと言えば、ジェイムズ・ブラウンやスライ&ザ・ファミリー・ストーンが
真っ先に思い浮かぶ方が多いのではないかと思われますが、私にとってはこの曲です。

プリンスによる86年のNo.1ヒット「Kiss」。プリンスは昨年のはじめに80年代特集の皮切りとして
取り上げましたが(#49~#51ご参照)、これ程までに才能の塊の様な天才的ミュージシャンは
何度触れても触れ足りないほどですので再度取り上げます。
本曲が収録されているアルバム「Parade」及びその時期のプリンスの音楽性については、#51で
多少なりとも既述ですので重複は避けますが、ファンク・ロック・ポップスといった枠には収まり切らなく
なっていった、転換点とでも呼ぶべき作品です。

#51でも書いたことですが、これは86年時点におけるプリンスなりのアメリカンミュージック集大成的作品
ではないかと私は思っています。「Kiss」はその中の一音楽、端的に言うとジェイムズ・ブラウンを

米音楽における重要な構成要素として織り込んだ楽曲です。
前回までのデヴィッド・ガリバルディも少年期にジェイムズのステージを観て、その後のミュージシャン
人生に多大な影響を及ぼされた人である事は述べましたが、プリンスも同様です。というよりも、
60年代以降、ジェイムズに直接、或いは間接的に影響を受けなかったミュージシャンは、ビートルズに
おけるそれと同様に、存在しないのではないでしょうか。

「Kiss」は上のジェイムズによる大ヒットナンバー「Papa’s Got A Brand New Bag
(パパのニュー・バッグ)」を良く言えばリスペクト、悪く言えば模倣した楽曲です。実はこの曲、
元はプリンスファミリーの為に書かれた楽曲であり、当初は全く違うアレンジであり、
しかもエンジニアであった人物がある程度仕上げた段階のものを、プリンスが一方的に手を加え
(この段階で「パパのニュー・バッグ」的なギターカッティングを加えるなどしてジェイムズのように
仕上げ直したらしい)、しかも『やはりこれは自分の曲にする』と言い放ったそうです。
工エエェェ(´゚д゚`)ェェエエ工 周囲の人間はたまったもんじゃないでしょう …………
しかし天才とはそういうものなのです。個人的に付き合いたくはないですが、絶対に・・・
クロスオーヴァー(フュージョン)の16ビートと混同してしまいがちですが、ファンクのそれは
元来とてもシンプルなものです。「Kiss」はムダな音を極限まで排除した楽曲、とよく言われます。
確かにその通りで、本質だけを見事に切り取ったものでしょう。ジェイムズとプリンスの歌唱スタイルが
似ているとは決して言えませんが、プリンスはファンクが持つ、人間を根源的に踊り揺さぶらせる様な
ファンクビートのエッセンスを抽出し、この曲を創り上げました。そしてそのお手本となったのが
やはり彼をおいては他ならない、ジェイムズ・ブラウンその人だったのではないでしょうか。

前述の通り、黒いの白いの問わず、アメリカ音楽総まとめの様なアルバムであったので、ファンク・
R&Bなどに限らず様々な要素が盛り込まれています。上のオープニングナンバー「Christopher Tracy’s Parade」は、華やかな幕開けの様に始まったと思いきや、途中からおかしくなっていきます・・・
前作「Around the World in a Day」(85年)の流れを汲んで「サージェント・ペパーズ」的な
サイケデリックカラーを漂わせ、これが評論家達曰くヨーロッパ風になっていったと言わしめて
いるのでしょうが、私は「サージェント・ペパーズ」よりもブライアン・ウィルソンの「スマイル」を
イメージした創った様な気がします。
なので、本作は20世紀以降のアメリカ音楽、レナード・バーンスタイン、ジョージ・ガーシュウィン、
映画及びミュージカル音楽、デューク・エリントンなどのジャズ、勿論ファンク・R&R・ソウル、
その他諸々のポップミュージックがごった煮になっている状態です。その中で私がある意味
一番面白いと思うのが次のナンバー。

B面トップを飾るナンバー「Mountains」。フックのパートはプリンスらしいキモい(ホメ言葉です)
歌い方になるのですが、それより前は楽曲・歌共に誰かっぽくないですか? そうです、言うまでもなく
マイケル・ジャクソンです。同じ歳でよく比較され、CBSのマイケル、ワーナーのプリンスと対立軸に
されてしまった二人。マイケルファンには先に謝っときますが、音楽的才能はプリンスの圧勝だと思って
います、あくまで私見ですよ! ε=ε=ε=ε= (#゚Д゚)( °∀ °c彡)ヽ( ・∀・)ノ┌┛・・・
 (((((゚Å゚;)))))
本曲をマイケル&クインシー・ジョーンズへのからかいと見なす事も出来なくはないのですが、
人間性はともかく・・・プリンスという人は音楽に関しては真摯な人物であったらしいので、
やはりこの曲は80年代初頭からのマイケル&クインシー達によるダンサンブルファンクを
認めた上でのセレクションだったのではないかと思います。プリンス本人もデビュー当時は
ダンサンブルなファンクナンバーを得意としていましたし。

アメリカンポップミュージックにおいて、大変重要な意義を持つ音楽がまだあります。上の
「Anotherloverholenyohead」を聴いて『何かに似ている…』、と思われる洋楽ファンは
私だけでしょうか?その ”何か” は言わずと知れたスティーヴィー・ワンダー、更に言えば
スティーヴィーを含めたニューソウルと呼ばれるもの。マーヴィン・ゲイ、ダニー・ハサウェイ達と
共に70年代以降、新時代のソウルミュージックを切り開きました。
タイプは違いますが、米音楽界における天才であるこの二人は、お互いを尊敬し合っており、
互いのステージにゲスト、ともすれば飛び入りで出ることもあったとか。
16年にプリンスが急逝した際には、スティーヴィーはいち早く追悼のコメントを発表しました。

プリンスはこの後も素晴らしい、かつ問題作?とも言われる作品を発表し続けます。またワーナーとの
確執などもあり、そのミュージシャン人生は波乱に満ちたものでした。
また折に触れ、プリンスは取り上げて行きたいと思いますが、今回はこの辺で。

#113 David Garibaldi_3

デヴィッド・ガリバルディ特集の3回目、今回が最後です。
https://youtu.be/GkqXd2kQPjs
ガリバルディのグリップは映像を観る限りではマッチドグリップ(左右が同じ握り方)ですが、
本人の弁によると74年頃までにおいてはレギュラーグリップで、またフットペダルの
奏法についてもヒールダウン(踵を付けたまま足首の動きだけでペダルを踏む)を用いていたと
語っており、つまり昔ながらのジャズドラマー的スタイルでした。75年頃からマッチド、
そして足も踵を上げて足全体で踏み込むヒールアップを使用するようになったそうです。
細かいニュアンスはレギュラーグリップ、パワーを出したいならマッチドグリップが
向いているとよく言われます。確かに一般的にはそうであるとは思います。思いますが・・・
ガリバルディをはじめ、ジェフ・ポーカロ、ビル・ブラッフォード(#20~21)、そして神保彰さんなど
マッチドグリップの使い手を観ていると、とてもマッチドが細かいニュアンスを付けるのに
不向きなどとは思いません。逆にレギュラーはパワーが出ないからロックは出来ない、などと言う人は
スチュワート・コープランド(#94~95)
のプレイを観た方が良いでしょう。要はそのプレイヤー
次第なのです。上は教則ビデオ「タワー・オブ・グルーヴ」に収録の「Escape From Oakland」。
左手のプレイを視覚的に十分確認する事が出来ます。それにしても「Back to Oakland」に対して「Escape From Oakland」とは皮肉が効いています。もっとも本編では苦笑まじりに
『いや、オークランドはイイ所だけどね・・・』とフォローしていますが…

タワー・オブ・パワー時代のセッティングはスリンガーランドのセットで、ベースドラム20インチ、
タム12インチ、フロアタム14インチという小口径の所謂3点セット。スネアはラディックの
定番スティール(ステンレス)シェルで浅胴と深胴の二種類を使っていたとの事。「Back to Oakland」
制作時辺りから裏面ヘッドを外すようになったと述べており、打面側にテープでミュートをし、とにかく
タイトなサウンドを、目指したのはジェームス・ブラウン(のドラマー)だったと語っています。
上は73年、ソウルトレイン出演時の模様。あまり映りませんが、裏面ヘッドを外しグリップは
レギュラーグリップを用いているのが確認出来ます。ユーチューブで ”tower of power live” にて
検索するとこれ以外にも若干ですが70年代の映像が出てきます。30分超の画質音質共にこの時代と
しては良好な、やはり73年のライヴ映像も上がってますので興味がある人は。
80年代以降はヤマハドラムスのエンドーサーとなり、シンバルに関してはパイステ、比較的最近の
映像を観るとセイビアンを使用している様です。

タワー・オブ・パワーを離れてからはセッションワークをこなすようになります。上はその内の一つ。
ドゥービー・ブラザーズ トム・ジョンストンのソロ作「Everything You’ve Heard Is True」(79年)に収録されている「I Can Count On You」。タワー・オブ・パワーにおける様な手数の多いプレイでは
流石にありませんが、ツボを押さえた16ビートファンクグルーヴは彼ならではのもの。
しかしガリバルディはそのままセッションドラマーとして、例えば同じウェストコーストでも
ジェフ・ポーカロやハーヴィー・メイスンといったプレイヤーの様には多くのセッションワークを
残す事はありませんでした。本人曰く、『ポーカロ達の様なドラマーは ”unique vibe” ( ”独特の雰囲気”
みたいな意味かな?と私は思います)を持っていながら、それをOFFにする事も出来る。自分には
それが出来なかった』、と語っています。個性が強すぎるプレイスタイル故に、セッションドラマーと
しては大成出来なかった、また本人にもそこまでして仕事をこなそうという意識もなかったようです。

こうして90年代後半までは、地道なライブ活動や音楽学校での指導に就きます。教則ビデオの制作も
この時期です。そして98年、古巣タワー・オブ・パワーへ復帰します。これ以降の映像はユーチューブで
かなり上がっていますので容易に観ることが出来ます。
しかし、一昨年17年1月に信じられない様なニュースがありました。ガリバルディが列車にはねられた
というものでした。その後詳細が判り、路面電車との事故であったとのことで、バンドメンバーである
もう一人もはねられたそうです。ガリバルディは手術を受けるほどの怪我ではなかったそうですが、
もう一人は一時意識が無い状態だったそうです。インターネットでそのニュースを読んだ時は、
驚きましたが、どうやら演奏に支障が出るような怪我ではなかったようで、18年のライヴ動画を
幾つか確認すると、ちゃんとガリバルディが叩いています。ヨカッタ・・・(*´∀`*)
ベーシストのロッコ・プレスティアは10年代前半辺りから体調不良により、演奏に参加出来ない事が
多いそうです(ちなみに列車事故に遭ったのは代役のベーシスト)。再び二人による鉄壁のリズム
セクションを聴く事が出来るのを願って止みません。

最後にガリバルディとロッコがプレイしている映像を観ながら。98年に催された『Bass Day 1998』に
おける「Oakland Stroke」。ロッコのステージにガリバルディがゲスト参加した際のものです。
タワー・オブ・パワーのステージでは後ろに隠れてしまう二人ですが、この様にフィーチャーされた
映像は極レアです。こういうのを本当の音楽と言うのです。