#224 Rocket Man_2

エルトン・ジョンの「Rocket Man」はアルバム「ホンキー・シャトー」からの
先行シングルとして72年4月にリリースされます。全米6位・全英2位の大ヒットを記録し、
「ユアソング」以来のTOP10ヒットとなりました。
「ユアソング」「キャンドル・イン・ザ・ウインド」「クロコダイル・ロック」などと
共にベスト盤には必ず収録され、エルトン・ジョン代表曲の一つに数えられます。

「Rocket Man」というタイトルからして、当然宇宙ロケットの乗組員を歌ったものです。
歌詞が全くわからなかった頃は大いなる宇宙への憧れを抱いて創った曲、くらいに思っていました。
インターネット時代になってその内容を知ると、それはむしろ全然違うものでした。

” 宇宙空間は淋しい場所だ 時の流れさえわからない旅 … ”
” 火星は子どもを育てるような場所じゃない実のところ 地獄のように寒い場所さ ”
” たかがこんな科学技術さ ちっともわからないよ。ただの仕事さ週5日間働くだけだ ”
” ロケット飛行士。ロケットを仕事にしてるお父さんさ ”

憧れどころか、宇宙が如何に退屈で酷い所であるかを歌っているのです。
勿論これは本当に宇宙開発や飛行士を否定している訳ではなく、” ただの仕事さ週5日間働くだけ ”
という箇所が表す通り、サラリーマンを宇宙飛行士に例えてその虚しさを歌ったものと解されています。
今でいうところの ” 社畜 ” の悲哀を歌詞に込めたというところでしょうか。
そしてそれはこの頃のエルトン自身を重ね合わせていると言われています。
過酷なツアー、契約によるアルバムのリリースという重圧、それらに追い立てられる自分は
サラリーマンとなんら変わらないではないか?と当時の心情を、相方バーニー・トーピンが
見事に代弁(勿論バーニー自身も似たような状況であった)したのでしょう。
本歌詞には元ネタとなった小説があり、バーニーはそれにインスパイアされた事を公言しています。
レイ・ブラッドベリという米SF小説家の同名作品だそうです。興味がある方はご自身で
ググってみてください。

おそらくはデヴィッド・ボウイ「スペイス・オディティ」にもヒントを得ている事でしょう。
勿論プロデューサー ガス・ダッジョンがエルトンに携わる前、「スペイス・オディティ」を
含むボウイの作品を手掛け、それによって知名度を上げたのも有名であり、既述の事。
エルトンとボウイは良き友人であったらしく、当時はマーク・ボランなどとつるんで、
よくゲイバーに行っていたとか … (*´∀`;) もっとも後年は必ずしも良好な関係ではなかったそうです。
宇宙的音楽、コズミックサウンドを表現する為には電子楽器、とりわけ当時の最先端機材であった
アナログシンセサイザーが不可欠でした。ピンク・フロイドやイエス、ドイツのタンジェリン・ドリーム
など枚挙にいとまがありませんけれども、「スペイス・オディティ」ではスタイロフォンという
電子楽器とお馴染みメロトロンが効果的に使われています。ちなみにこのメロトロンはイエスに
加入する前の学生であったリック・ウェイクマンが演奏しています。ウェイクマンが在籍していた
大学とは英王立音楽院、つまり彼はエルトンの後輩に当たる訳です。
「Rocket Man」でもアープというシンセサイザーが使用されており、当時はムーグシンセと並ぶ
電子楽器だったそうです。ちなみに本曲でそのアープを弾いているのは、のちにジェネシスの
プロデューサーとして活躍するデヴィッド・ヘンツェル。
アコースティックギターが使われているのも「スペイス・オディティ」を踏襲しているのかな?
と想像したりします。「スペイス・オディティ」のPVでボウイがアコギを弾きながら歌っているのは
あまりにも印象的です。
ギターと言えば「Rocket Man」ではスライドが独特な効果をあげています。ピンク・フロイドでも
デヴィッド・ギルモアがスライドギターをよく演奏していました。元はブルースや
カントリー&ウェスタンといった土臭い音楽で使用されていたスライドギターが、宇宙的サウンド、
スペーシーロックと称される音楽で好んで使われるのは興味深いものがあります。ちなみにギルモアは
所謂ボトルネック奏法の他に、膝の上に乗せて弾くラップスティールも多用していました
#29ご参照)。本曲でギタリスト デイヴィー・ジョンストンが行っているのはボトルネック奏法
だと思われます。
上の動画は72年、ロイヤルフェスティバルホールにおける演奏。他にもユーチューブに上がっている
ライヴの模様をいくつか以下に(76・85・00年と時系列順)。

たとえ言語の壁によって歌詞の意味がわからずとも、本曲を良いと思って聴いていた感覚に間違いはなく、
楽曲自体が持つ魅力に惹かれたことは紛れもない事実です。
しかし後年になってその意味を知ると、より本曲の創造性・世界観を奥深く味わえるようになったのも、
これまた事実に相違ありません。たしかに一番及び二番の出だしである、
” She packed my bags last night,Pre flight(旅立つ僕に昨日 妻が荷造りをしてくれた)”
” Mars ain’t the kind of place to raise your kids(火星は子供を育てる様な場所じゃない)”
これらの節の陰鬱さはとても大いなる宇宙への希望、などとは真逆のものですね・・・・・

それで今回書いていてふと思ったのですが、洋楽を聴き始めてかれこれ四十年近く経ちますけれども、
いまだに思い違いをしている楽曲などまだまだあるのではないかと ……… ( ̄∇ ̄)・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・考えるのはやめましょう (´・ω・`)

#223 Rocket Man

前回までの「Honky Château」回にて、” なんであの超有名曲が入ってないんだ? ” と思われた方 …
は …… いませんよね ……… 誰も見てませんから・・・このブログ・・・・・・・ ( ;∀;)


言葉がわからないと良くも悪くも勘違い・思い違いをするものです。
スタイル・カウンシルを取り上げた回で(#55ご参照)、ヒットナンバーである「Shout to the Top!」や「Walls Come Tumbling Down!」がその爽やかで快活な曲調とは裏腹に、権力者への不満や
現体制を打倒しよう!のような内容であったのを、言葉を理解出来ずにオシャレ系のちょっとソウル風の
ポップスだと思って、80年代当時の小洒落たカフェバーやプールバーといった店でよくかかっていた、
という事を書きました。もちろん私も歌詞などさっぱり理解していなかった一人です。
逆を言えば、厳かな雅楽風の調べにのせて、とても口に出来ない様な卑猥な単語を羅列しても
( ”〇〇×◇” とか ” \+⊆” とか ”◇◆△※〒” とか、うわ~!そんなコトふつう言えない・・・
っていうような言葉とかね ……………………… (*´∀`*)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、
外国人には”オー!ジャパニーズビューティー!!|゚∠゚)ノ とか賞賛されるのかもしれません。
・・・・・・・・・・・・・・オメエだけだ、そんなこと考えるのは ……  (´∀` )

エルトン・ジョンの「Rocket Man」もそんな曲の一つです。
あっ!念のため言っときますけど、口にするのもはばかられる様な卑猥な歌詞であるとか、
そういう事ではないですよ (´・ω・`) ・・・・・・・・・知ってるよ!  (´∀` )
冒頭の超有名曲とは勿論本曲の事。別個に取り上げるため前回・前々回では省きました。

くだらない前置きで長くなりましたので、その中身については次回以降にて。

#222 Honky Château_2

71年1月に前年末からチャートを駆け上がってきた「ユアソング」が全米8位/全英7位の大ヒットとなり、
エルトン・ジョンが世界中に知られる存在となった事は既述であり、また同年におけるコンサートツアーが
それに拍車をかけ、またそのツアーが熾烈(内容そしてエルトン達にかけるストレスという両方の
意味
にて … )であったことも書きました。

同年におけるエルトンのスケジュールをちょっとだけ書き出してみると、年明けにフランスで催された
音楽フェスに参加する為渡仏し、その後少しではあるが北欧ツアーをこなし、その後に長い北米ツアーへと
旅立ちます。これも既述ですが、その合間をぬって2月と8月に「マッドマン」のアルバムレコーディングも
行っている訳です。そしてこの時期、実はマネージャー不在で営業を行っていたらしく、前年の米ツアー時に
クビにしてから一年の間マネージメントするスタッフ無しで、営業面は行き当たりばったりだった様との事
(その後スコットランド人のマネージャーを迎え、その面は解消された)。
上はB-①「Salvation」。作詞家 バーニー・トーピンはキリスト教徒というわけではなく、
むしろそれらには辛辣な姿勢であったらしく、本曲は単純な内容ではないらしい・・・

そのバーニーはツアーにも同行して、ステージの最中にエルトンから呼ばれるのを舞台袖で待ち続け、
ほんの一瞬ステージで挨拶をした後、オーディエンスに小さく手を振ってまた舞台袖に戻っていく、
という事を繰り返していたそうです。
エルトンだけではなく、バーニーもこの様な日々の繰り返しに相当なストレスをため込んでいたらしく、
お互い心身ともに疲弊していきます。エルトンはアルコールと過食、バーニーはドラッグへと
溺れていくのでした・・・
B-②の「Slave」はエルトンお得意のカントリー調ナンバー。牧歌的な曲調ですがアメリカにおける
奴隷の奴隷の辛い境遇を歌ったものらしい・・・

皮肉なことに「ユアソング」のヒット以降、ミュージシャンとしては成功の一途をたどり続けるのと
反比例して、その肉体と精神はどんどん病んでいく事となった訳です。
ちなみにDJMレーベルとの間ではこの時期年に2枚のアルバムをリリースする契約となっていて、
これがエルトン達へのプレッシャーとなっていたことも言わずもがな。
自分たちを拾ってくれたDJM社長 ディック・ジェームズへは恩義もあったでしょうが、
不満も持っていた事は事実で、これがのちにおける泥沼の裁判沙汰へとつながったのかも・・・・・
「Amy」は一筋縄ではないファンクナンバー。エレクトリックヴァイオリンと相まって
魔訶不可思議な雰囲気がプンプンします。レオン・ラッセル調とよく評されますが、私は少し
スティービー・ワンダー臭も感じます。同時期に活躍した天才・鬼才(奇才)たちですから、
影響を受けあって何ら不思議はないです。ちなみにレオンが42年生まれ、エルトン47年、
スティービーは50年生まれです。

かようにツアーに明け暮れた71年が明けて、翌72年初頭からシャトウスタジオにて腰を据えて
制作に取り組んだ作品が「Honky Château」であるというのが前回の内容でした。
そこではコンビを組みたての頃の様にするすると楽曲たちが生み出されていった、と書きましたが、
別の資料によればこの時期のエルトンもかなり精神的に不安定だったとあり、生来の癇癪が
いつ爆発するか、回りは最新の注意を払いながら何とか5月の発売へこぎつけたとあります。
もっともこの資料というのは児童書の ” 伝記 エルトン・ジョン ” みたいな本なんですけどね …
地元の図書館で検索したら唯一ヒットしたのがこの児童書でした・・・ (*´∀`*) ………
B-④「Mona Lisas and Mad Hatters」は隠れた名曲として知られてます(こういう言い方は
よく目(耳)にしますが隠れてるのか知られてるのかどっちなんでしょう? (´・ω・`) ……… )。
エルトン自身が ” one of my all-time favourites ” と称している楽曲であり、N.Y. を歌った
ナンバーである本曲はアメリカ同時多発テロ事件への鎮魂曲として捧げられました。
ベン・E・キングの「スパニッシュ・ハーレム」にインスパイアされて創られたことも
ファンにはおなじみの事。

同年にエルトンはレジナルド・ケネス・ドワイトからエルトン・ハーキュリーズ・ジョンへと
改名します。25歳の時でした。またロンドンから小一時間の所に家を買い、その家を
「ヘラクレス(ハーキュリーズ)」と名付けました。エルトンはステージでしばしば椅子などを
持ち上げたりして怪力を誇示するようなパフォーマンスを行っていたそうで、ギリシャ神話の英雄で
怪力の持ち主である象徴のヘラクレスに何か思い入れがあったのでしょうか?
そして本アルバムのラストを飾るのが「Hercules」。

#221 Honky Château

環境が変わると気分が一新され、良い結果へと物事が成されるということは往々にしてあります。
どうしても書けなかった作家が普段の仕事場を離れたとたんにするすると筆が進んだとか、
演技がマンネリと評されていた役者が充電と称して海外でしばらく過ごした後、帰国してからの
それは一皮剝けたものになっていたとか、倦怠期が訪れた夫婦の間でカミさんにセーラー服を
着せてみるとか、( … ん?話がおかしくなってきてねえか?? (´∀` ) …… )、
普段は右手ばかりなのでたまには左手で・・・・・下ネタ禁止!!!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ

エルトンの成功が70年8月に行われた L.A. 公演をきっかけとしたことは以前に述べましたが、
翌71年も北米ツアーに長い期間が費やされました。本ツアーはやがてエルトンのワンマンショー的な
性格を帯びていき、これも既述ですがそのコスチュームやステージアクションはどんどん派手さを増し、
アメリカのオーディエンス達を大いに沸かせたのです。
悪い言い方をあえてするならば、エルトンのメロディックかつ、エモーショナルかつ、グルーヴィーかつ、
深淵な音楽性は蚊帳の外とされ、ぱっと見受けするようなパフォーマンスで注目された訳です。
一年半もの間あまりにツアーに明け暮れたため、明けて72年1月からエルトン達は腰を据えて
アルバム創りに取り掛かります。それが「Honky Château」。言わずと知れたエルトン快進撃の序章を
飾る作品で、初の全米1位を獲得したアルバムです。
上はオープニング曲である「Honky Cat」とA-②「Mellow」。「Honky Cat」はエルトン流
ニューオリンズスタイルといった楽曲。「Mellow」は後半のエレクトリックヴァイオリンが印象的。

パリから北に40キロ行ったところにあるエルヴィルという村。そこに建つ古城を改装したスタジオで
本作のレコーディングはなされました。タイトルである「Honky Château」とはそのスタジオ(城)を
指します。もっとも当時はストロベリースタジオと称して貸し出されていたそうです。
勿論10ccで有名な英マンチェスターの同名スタジオ(#171ご参照)とは別物。

本作よりツアーメンバーとレコーディングのそれが同一となります。つまりディー・マレイ(b)や
ナイジェル・オルソン(ds)が基本的には全てのトラックでプレイするようになりました。
さらに前作からも参加していたギタリスト デイヴィー・ジョンストンが本作よりエルトンバンドの
メインギタリストとなり、スライドやバンジョー、
マンドリンなども多彩にプレイする彼によって
バンドは新境地を開きます。
この古城における制作作業はエルトンに良い結果をもたらしたそうです。
バーニーが朝食時に歌詞が書かれた紙の束を持ってきては、エルトンがそれを ” ビジュアル ” として想像し、そこからメロディーが流れ出るように生まれた。まるでモータウンのヒット工場のようだった。
そこでの制作過程はこの様に表現されています。二人は一時期エルトンの家で暮らしていました。
もっとも空軍大尉であった実父と母親はその時既に別れており、エルトンの母と再婚相手が
暮らしている家でした。二段ベットの上でバーニーが詩を書き、出来上がると下のエルトンが
それを受け取ってすぐさまピアノの向かって曲を創り始める。コンビを組んだ当初、駆け出しの二人は
そのような事をして作品を創りためていました。その古城でまた二人の黎明期におけるコラボレーションが
再現されたのです。バーニーが上の階で曲を書き、マキシン(バーニーの妻。「タイニーダンサー」の
モデルである事は既述)が急いでスペルを修正し、ピアノに置かれた歌詞にエルトンが取り掛かり、
バンドメンバーたちはすぐ後ろでその作業が終わるのを待っている、という状況だったそうです。
前作「マッドマン」は第一章の終わりであり、全く違う新しい何かを始める時を迎えていた、
そうして創られたアルバム、それが「Honky Château」でした。

長くなったので「Honky Château」については次回も続けます。