環境が変わると気分が一新され、良い結果へと物事が成されるということは往々にしてあります。
どうしても書けなかった作家が普段の仕事場を離れたとたんにするすると筆が進んだとか、
演技がマンネリと評されていた役者が充電と称して海外でしばらく過ごした後、帰国してからの
それは一皮剝けたものになっていたとか、倦怠期が訪れた夫婦の間でカミさんにセーラー服を
着せてみるとか、( … ん?話がおかしくなってきてねえか?? (´∀` ) …… )、
普段は右手ばかりなのでたまには左手で・・・・・下ネタ禁止!!!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ
エルトンの成功が70年8月に行われた L.A. 公演をきっかけとしたことは以前に述べましたが、
翌71年も北米ツアーに長い期間が費やされました。本ツアーはやがてエルトンのワンマンショー的な
性格を帯びていき、これも既述ですがそのコスチュームやステージアクションはどんどん派手さを増し、
アメリカのオーディエンス達を大いに沸かせたのです。
悪い言い方をあえてするならば、エルトンのメロディックかつ、エモーショナルかつ、グルーヴィーかつ、
深淵な音楽性は蚊帳の外とされ、ぱっと見受けするようなパフォーマンスで注目された訳です。
一年半もの間あまりにツアーに明け暮れたため、明けて72年1月からエルトン達は腰を据えて
アルバム創りに取り掛かります。それが「Honky Château」。言わずと知れたエルトン快進撃の序章を
飾る作品で、初の全米1位を獲得したアルバムです。
上はオープニング曲である「Honky Cat」とA-②「Mellow」。「Honky Cat」はエルトン流
ニューオリンズスタイルといった楽曲。「Mellow」は後半のエレクトリックヴァイオリンが印象的。
パリから北に40キロ行ったところにあるエルヴィルという村。そこに建つ古城を改装したスタジオで
本作のレコーディングはなされました。タイトルである「Honky Château」とはそのスタジオ(城)を
指します。もっとも当時はストロベリースタジオと称して貸し出されていたそうです。
勿論10ccで有名な英マンチェスターの同名スタジオ(#171ご参照)とは別物。
本作よりツアーメンバーとレコーディングのそれが同一となります。つまりディー・マレイ(b)や
ナイジェル・オルソン(ds)が基本的には全てのトラックでプレイするようになりました。
さらに前作からも参加していたギタリスト デイヴィー・ジョンストンが本作よりエルトンバンドの
メインギタリストとなり、スライドやバンジョー、マンドリンなども多彩にプレイする彼によって
バンドは新境地を開きます。
この古城における制作作業はエルトンに良い結果をもたらしたそうです。
バーニーが朝食時に歌詞が書かれた紙の束を持ってきては、エルトンがそれを ” ビジュアル ” として想像し、そこからメロディーが流れ出るように生まれた。まるでモータウンのヒット工場のようだった。
そこでの制作過程はこの様に表現されています。二人は一時期エルトンの家で暮らしていました。
もっとも空軍大尉であった実父と母親はその時既に別れており、エルトンの母と再婚相手が
暮らしている家でした。二段ベットの上でバーニーが詩を書き、出来上がると下のエルトンが
それを受け取ってすぐさまピアノの向かって曲を創り始める。コンビを組んだ当初、駆け出しの二人は
そのような事をして作品を創りためていました。その古城でまた二人の黎明期におけるコラボレーションが
再現されたのです。バーニーが上の階で曲を書き、マキシン(バーニーの妻。「タイニーダンサー」の
モデルである事は既述)が急いでスペルを修正し、ピアノに置かれた歌詞にエルトンが取り掛かり、
バンドメンバーたちはすぐ後ろでその作業が終わるのを待っている、という状況だったそうです。
前作「マッドマン」は第一章の終わりであり、全く違う新しい何かを始める時を迎えていた、
そうして創られたアルバム、それが「Honky Château」でした。
長くなったので「Honky Château」については次回も続けます。