#267 Live Aid_3

「伝説的な~」という形容の仕方がよく用いられますが、伝説とは真実は定かではないが言い伝えられているものですので、映像的記録として残されるのが珍しくなくなる20世紀半ば以降において伝説は生まれにくくなっているはずです。それでも伝説的という飾り文句が付く事がありますが、これは正確には後世まで人々の間で語り継がれる様な、所謂 ” 語り草 ” という表現の方が正しいのでしょう。ただし語り草に関しては悪い意味で用いられる事もあります。例えば前回取り上げたライブエイドにおけるレッド・ツェッペリン再結成のような …

ライブエイドにおいて伝説的・語り草となっているステージとして良く言われるのはクイーンのものです。私は観ていないのですが映画『ボヘミアン・ラプソディ』ではハイライトとして寸分違わぬそのパフォーマンスが再現されているそうです。良く言われることですが当時クイーンは70年代における人気からするとやや低迷しており、過去の人的な扱いをされていました。

例えば上の「Radio Ga Ga」は前年である84年に発表された曲ですが、本国を含めたヨーロッパでこそヒットはしたものの、アメリカでは最高位16位とそれ以前に比べれば奮いませんでした。クイーンらしい劇的な楽曲というよりは、ドラムマシン・シンセサイザーを使用した当時で言う ” ピコピコサウンド ” でありクイーンらしくない、という評価が大勢でした。私は決してクイーンのファンという訳ではありませんし、そして本曲はスタジオ版だけを聴くと決して秀でたものとは思えません。しかしライブで演るとがらりと変わります。これはクイーンのライブバンドとしてクオリティーの高さ、特にフレディ・マーキュリーのエンターテイナーとしての天賦の才によるものでしょう。次曲「Hammer To Fall 」での有名な聴衆とのコール&レスポンスなど、72000人のオーディエンスを巻き込んだそのステージングが、映像で確認する事が出来る現代であっても後世まで語り継がれる、真実が定かとなっていてもなお ” 伝説的 ” パフォーマンスとされる所以なのでしょう。

大物同士が組んでも決して良い出来になるとは限りませんがそれは並みの大物の話。並外れた大物は ” 掛ける2 ” どころかその何倍にもクオリティーを高めてしまいます。
ミック・ジャガーとティナ・ターナーのステージはその典型です。ティナについては長く続いた不遇の時代、そしてその期間において彼女を支えたのはローリングストーンズ、ロッド・スチュワート、デヴィッド・ボウイといった英国のミュージシャンであり、その苦難を乗り越え「Private Dancer」(84年)によって見事な再復活を遂げた、というのは#103で既述ですので宜しければご一読。
とにかく ” カッチョイイイ!!! ” の一言です。涙が出るほどカッチョイイイです。多くは語りませんのでご視聴ください。ちなみにバックを務めているのはその前に出演したホール&オーツと彼らのバンド。ミックとティナの後ろにダリル・ホールの姿を観ることが所々出来ますが、なんと贅沢なステージなのでしょう。この場にいた人達がうらやましいの一言です …
あっ!結局多くを語っちゃいましたね …(*´∀`;)…

お次の超大物たちによるステージが言わずと知れたボブ・ディラン、キース・リチャーズ、ロン・ウッドによる「Blowin’ In The Wind」。この演奏が決して出来の良いものとは決して思いませんが、三人が同じステージに上がるというだけで価値のあるものになります。ディランは「ウィ・アー・ザ・ワールド」同様に出たくはなかったのでしょう。嫌々さがありありと感じられます … これが許されるのはディランと生前のジョン・レノンくらいだったでしょう。途中でディランのギターの弦が切れてロンが咄嗟に自分のを渡したのも有名な出来事。代替えのギターを渡されしばらくチューニングしていたロンが何か幕中のスタッフへ話しかけていますが何だったのでしょうね?ちなみにミックとキース及びロンが別々のステージに出たのは当時ストーンズの人間関係がそういう状態だったからに他なりません。というより仲が良い期間の方が圧倒的に少ないのでしょうが … でも意外にその方が割り切ってバンドは長持ちするのかもしれません。

本コンサートにおいて最も話題となったのはビートルズ再結成はあるのか?です。前年にデビューしたジョン・レノンの長男であるジュリアンを加えてステージに上がるのでは?とまことしやかに囁かれました。結果的にそれはガセネタだったのですが、大衆紙『サン』では一面で ” The Beatles reunited ” と報じていたそうなので信じてしまった人も多かったらしいです。今の様なネット社会ではありませんでしたから。
リンゴとジョージは打診を断ったそうです。ポールがギリギリまで決まらなかったと言われています。結果として大トリで出演したのは周知の事実。
そこで演奏した「Let It Be」において、ポールのマイクが不調であったのは有名なエピソードです。公式なDVDでは勿論問題はないのですが、ウェンブリーの会場では約2分間歌が殆ど聴こえなかったそうです。テレビやフィラデルフィアの会場では問題はなかったらしいので、上の動画で2:00過ぎ頃に異常に歓声が沸き上がるのが何故なのかその事実を知らないと?となります。ネット上ではウェンブリーの会場で録画したものが上がっていますけれども、それを観ると理由がわかります。それにしてもこんなアクシデントさえも糧にしてしまう、まさしく伝説・語り草になってしまうのはスーパースター ポール・マッカートニーだからです。それ以外に言いようがありません。
ちなみに英米会場それぞれで、エルビス・コステロの「All You Need Is Love」をはじめ、ジョン・レノンナンバーが4曲演奏されています。言うまでもなくこの場に、そしてこの世にいないジョンの魂を伝えるためでした。それにしてもジョンが生きていたら出演したでしょうか?皮肉屋の彼の事でしたから断っていたか(ポールが出るなら出ない!とか … )、それともディランの様に嫌々出たでしょうか?というよりディランが出るならオレも出る!となっていたかもしれません。そうするとディラン、ジョン、キース、ロンによる「Blowin’ In The Wind」が聴けたかもしれません。タラればを言っても仕方ないのですが、あれこれ夢想してみるのもまた楽しみの一つです。

順序は逆になりましたが一番上の動画がエルトン・ジョンとジョージ・マイケルの共演による「Don’t Let The Sun Go Down On Me」。ライブエイドでもっとも白眉のステージは?と問われたならば私はこれを挙げます。勿論クイーンやU2、デヴィッド・ボウイのパフォーマンスが素晴らしかったのは疑いようのない事実です。しかしどれか一つと言われたならこれに尽きます。
本曲について、そしてジョージ・マイケルと再録しそれがオリジナルを超える世界的大ヒットとなった経緯はエルトン回#238にて取り上げてますので詳しくはそちらをどうぞ。
本当に失礼を承知で言いますが、私はジョージ・マイケルがシンガーとして特に秀でている人とは思いません。しかし本曲へ対する思い入れ、エルトンのアレンジ、そして何よりあの72000人が集結したウェンブリースタジアムという会場が持つ魔力(勿論良い意味の)が全て混然一体となり素晴らしいものへと昇華されました。歌の出だしこそ緊張からか少し硬さや不安定さもありますが、しかし曲が進むにつれ変わっていきます。特に歌で言うと一番が終わった3:15辺りからジョージもリラックスして余裕が生まれてきたのが良くわかります。勿論エルトンやバックのメンバーたちはそれを手に取る様に把握出来た事でしょう。二番からのテンションの上がり方が尋常ではありません。3:50頃の(多分)エルトンによる掛け声が入った辺りからエルトンの肩越しにジョージの姿を捉えたカメラのセレクションも見事です。4:30頃嬉しそうに誰かを指さすエルトン。誰を指していたのでしょうかね?
4:50でオーディエンスに最もおいしい所であるタイトルを歌わせるジョージは完全にテンションが一つ上の次元に上がっています。そしてそこからハイライトである最後のサビからあまりにも見事な大団円へと突入して行くのです。聴衆と演者がこれほど見事に一体となったパフォーマンスにはなかなかお目にかかる事がありません。5:10頃からのエルトンの表情を観てわかりますが、彼もこの異様なテンションの上がり方に驚き、また数多のステージを経験してきた彼をしてもこの演奏は特別なものになったのだと思います。根拠はありませんがエルトンは始まるまでこれほどのものになる、とは思っていなかったのではないでしょうか?ところが蓋を開けてみると予想の斜め上をいく結果となり興奮が収まらなかったのだと思います。演奏が終わった次の瞬間、思わずジョージのもとに駆け寄っていくエルトンの姿が何よりも雄弁に全てを物語っています。

三回に渡って今から40年前に行われたライブエイドに関してつらつらと書き綴ってきました。当然触れる事が出来たのはほんの一部です。自分の好みからか殆どイギリス勢になってしまったのは書き終わってから気づいた事 … 勿論アメリカのミュージシャンについても書きたかったんですがそれはまたの機会にて。

ちなみに上の段落でつらつらと書き綴って、と表現しましたけれども、私これを何となく書き留める・書きなぐるといった程度の雑な文の作り方を表すのだと永年思っていました。ですが良く調べてみると本来は ” 熟考しながら文章を書く ” の意だそうです。とても私の文章からは程遠いものですね …
しかしながら伝説にも語り草にも、何物にも何者にも何文(こんな言葉無いですが)にもなるはずもない私の駄文においては、そのどちらでも差し支えはありませんね。
あっ! (´・ω・`) 誤用も時が経つとその意味として定着してくる、っていうのもありますよね!” 情けは人の為ならず ” みたいなやつ。それで押し通しましょうか?
大丈夫!どうせ誰も読んでねえから …(*´∀`;)…

#266 Live Aid_2

ライブエイドで一番忙しかった人は?と問われたならば間違いなくこの人でしょう。

言わずと知れたフィル・コリンズです。ウェンブリーでスティングと共演すると共に自身もソロで演奏、そののち超音速旅客機コンコルドでフィラデルフィアへ飛び、エリック・クラプトンのバックにてドラムを叩き、これまた自身のステージも務めた後にあの ” 悪名高い ” レッド・ツェッペリン再結成のプレゼンター役を果たした後これまたそのドラムも担当する。この時期の彼は仕事をしていないと死んでしまう回遊魚みたいな存在でした。ワーカホリックと言えばそれまでなんでしょうが、そのツケが来たのか後年身体の不調も相まって老年性のうつに悩まされるようになってしまったのも皮肉な話です。
本ライブにおけるツェッペリン再結成時のクオリティーの低さに関してフィルの責任とする向きがあるようですが、どう考えても先ずはロバート・プラントの歌のひどさです。80年に解散してからプラントはソロで活動していましたから歌っていない訳ではないはずなので、単に元キーで歌うのが難しくなっただけです。ジミー・ペイジは弾いてなかったらしいので当然と言えば当然の事 … 83年のアームズコンサートでもそのギタープレイが ” 堪能 ” 出来ます …
「胸いっぱいの愛を」と「天国への階段」は確かにリハ不足だな … とうかがえますが(それもフィルの責任かは不明)、「ロックンロール」に関しては全く何の問題もありません。ペイジとプラントはフィルの責任だ、とするコメントを後日残しているようですが、往生際が悪いとはこの事です …
ちなみにライブエイド公式チャンネルにてその動画が上がっていないのは二人がそれを許可しないから、というのは有名な話ですが、当時の放送を録画したものがアップされてますのでコワイもの(オモシロイもの?)観たさで視聴するのもまたご一興。
上はフィルによる単独パフォーマンスである前年の大ヒット曲「見つめて欲しい」ですが、ウェンブリーでは1:05辺りでピアノをミスっています。苦笑いするフィルがお茶目ですが、その後の歌唱は見事です。その下がフィラデルフィアでのプレイ。こちらは勿論ミスなくプレイしています。どちらも素晴らしいのは彼が素晴らしいシンガーでありエンターテイナーだからです。このあたりがペイジやプラントと違う所です。

コンサートの運営において直前までてんやわんやであったというのは前回述べましたが、その混乱ぶりを示すエピソードを一つ。出演者達はヘリにてウェンブリースタジアムへ移動させたのですが、その離発着場を確保しておらず直前になって大慌てしたらしいです。近くにあったクリケット場が唯一離発着出来る場所だったのですが、あいにくその日はクリケット界で非常に大事な試合がある日でした。ドキュメンタリーでその事について触れられていますが、はっきりとその結果は語られてはいないのですけれども、半分だけ使わせてもらったとかなんとか … クリケット関係者には本当に迷惑な話だった事でしょう。

意外と言えば失礼ですがオジー・オズボーンも出演しています。どうやらオジーは間際になってから参加を表明したらしく、その為母国ではなくフィラデルフィアにて、しかも午前中という早い時間をあてがわれてしまったとの事。これには本人達も不満たらたらだったらしいです。
ちなみに05年のエリザベス女王即位50周年記念コンサートにもオジーは出演しています。この人に ” 神よ、女王を守りたまえ ” とか言われるのも笑ってしまいますが、イギリスはブラックジョークが通じるお国柄なので許されてしまいます。話題はそれますがこのコンサートで最も盛り上がったのではないでしょうか。一応上げておきます。

その3へ。

#265 Live Aid

チャリティーというものは色々な意味で難しいものです。勿論それそのものが悪いはずは無いのですが、その目的、運営方法、集めた募金の流れやその使途などによっては本来の意味が歪められ、批判の的になることもあります。ちなみに欧米ではチャリティーに参加する著名人は絶対に報酬、所謂ギャラを受け取らないとされています。ノーギャラで参加するのが当たり前であり、金品を受け取るなど以ての外、というコンセンサスが成立しているようです。
我が国において、自称チャリティーテレビ番組というプログラムがかなり長くの間催されているようですが、どうやらその出演者にはギャラが支払われているとの事。欧米からするととても考えられな(コンコン … )おや?誰か来

今から40年前の1985年7月13日に行われた『ライブエイド』。英米同時開催され、ロンドンのウェンブリー・スタジアムで7万2千人、フィラデルフィアのJFKスタジアムでは10万人(数字には諸説あり)の観客を動員し、全世界衛星中継によりおよそ19億人が視聴したとされる、おそらくはポップミュージックにおける最大のイベントであった本コンサートが開始されたのがイギリス時間の正午、日本時間午後8時でした。私こういうメモリアル的な日時とかにあまりこだわりは無い方なのですが、当時リアルタイムでテレビでの中継を食い入る様に観ていた一人として、その40年後の同時刻に当ブログを投稿してみました。
募金がいくら集まったであるとか、その使途について色々な問題があったのではないか?という事については全く触れません。あくまで本コンサートに至る経緯や当日のよもやま話などに終始していきます。
ネット上では私以上にヒマな … 強者・好事家の方がおり今回かなり参考にさせて頂きました。それに関するドキュメンタリーや考察本も出版されているくらいですので、とても太刀打ち出来る程の内容は書けませんが、自分なりにピンと来た物事についてのみ書きなぐってみます。

ライブエイドのキッカケとなったのは言わずと知れた前年におけるバンドエイドの「Do They Know It’s Christmas?」です。詳しい事はウィキ等でご参照頂くとして、それが翌年更に有名なUSAフォー・アフリカ「We Are the World」へと繋がり、同年に本コンサートが催される事となりました。
バンドエイド及びライブエイド共にその立役者となったのはボブ・ゲルドフである事は有名ですが、当時を回想したドキュメンタリーなどを観るとかなり強気の、物おじせず積極的な性格、悪く言えば強引、独断専行かつ口が悪い人物だったそうです。しかしそのくらいでなければこれだけのイベントを実現する事は出来なかったのでしょう。テレビ中継の最中に思ったより募金額が低いことに業を煮やし、かなり口汚い物言いでスタジオから視聴者へ募金を募っているのがYouTubeで観る事が出来ます。我々日本人の感覚では逆効果では?と思ってしまいますが、どうやらそれも功を奏した要因の一つだそうです。勿論それだけではなく、伝説的になっているクイーンによるステージの見事さ、ウェンブリーにてデヴィッド・ボウイが自身のステージを終えた後にアフリカの惨状を伝える映像を挟むようにした事で、世界中にその飢えた子供達の様子が映し出された事なども当日募金額を急激に増加させる事に寄与しました。
ただしインターネット時代になってわかった事ですが、ゲルドフによる先の募金への呼びかけは英国BBCテレビにおけるものであり、彼が業を煮やしたのもBBCにおける募金額の低さでした。世界各国ではそれぞれ独自のテレビプログラムが組まれており、募金の集まり具合は各国によって異なった事でしょう。
そしてこれも今回わかった事ですが、ゲルドフは募金が集まることを第一義に考えていたので、それぞれの国において人気のミュージシャンなどを出演させて視聴率を稼ぐ、つまり募金が集まる様にして欲しいという要請がなされていたそうです。彼はこれを ” グローバルジュークボックス ” と名付けました。
日本ではフジテレビが本コンサートを伝えていましたが、その放送中に矢沢永吉さんが歌っていた記憶があります。別に矢沢さんが悪いとかそういう事ではなく、洋楽ファンとすれば出来るだけライブエイドの模様を映してくれればイイのに? … などと思ったご同輩が多かったのはやはりインターネット時代になってから知った事ですが、どうやらこれはゲルドフの意向に沿うものだったそうです。洋楽に詳しくない人達からすれば、よくわからない海外のミュージシャン達が出ているだけの退屈な番組になってしまいますからね。

これだけの大規模イベントですから舞台裏ではてんやわんやだったのは言わずもがなです。フィラデルフィアにおいては三週間前になっても出演者が決まらないという状況で、これもゲルドフ達主催者側をイラつかせました。ちなみに米側でのコーディネートをしていたのはウッドストックやモンタレー・ポップ・フェスティヴァルも仕掛けた有名プロモーター ビル・グレアム。良くも悪くもその界隈では有名人であり、やはりその一筋縄ではない人間性故に色々言われた人物ですが、そのくらいの強者でなければこのビッグイベントを取り仕切ることは出来なかったのでしょう。

ゲルドフは出演者の入れ替えをスムーズにする秘策として回転ステージなるものを考えたらしいです。円形のステージが180度回転して次の出演者がくるりと現れる、つまりそれまでの演者もくるりとハケる事が出来る、と。ただ重すぎてウィンチで引っ張ってもムリだったそうでこの構想は上手くいかなかったらしいです … 。ただしそれは出来るだけ多くのミュージシャンを出演させる、ひいてはより多くの募金を集めるが為の事でした。

その2へ続きます。