ミュージシャンとして華々しい躍進を遂げているように見えたスティーヴィー・レイ・ヴォーン
でしたが、実は大きな問題を抱えていました。本ブログにおいて、これまで取り上げた多くの
ミュージシャン達がテンプレのように陥ってしまった問題でしたが、言うまでもなく
ドラッグとアルコールでした。(良い子のみんなはマネしちゃダメだぞ!☆(ゝω・)v)
80年代の急激な成功によって有頂天になってしまった為、という訳ではなく、70年代から
既に依存症の問題は始まっていたようです。彼の飲酒歴は何と6歳まで遡ります。父親の酒を
盗み飲んだところから始まったとの事。麻薬に関しては70年代の半ばから手を付けるように
なったと言われています。やがてアルコールとコカインの摂取が常態化していったそうです。
86年のヨーロッパツアーの時期が最もひどかったようで、毎日ウイスキーを約1L、コカインを
7g摂取していたとの関係者によるコメントがあります。7gのコカインというのがどれほどの
依存度を示すのかはわかりませんが(わかっちゃダメだけどね・・・)、ウイスキーの1Lと
いうのは相当重篤な状態だったというのは言うまでもないでしょう。
日本版のウィキだと3作目の「Soul to Soul」を発表後、麻薬・アルコール中毒に陥り入院、
その後は「In Step」(89年)のリリースまで活動の記述が無い為、約4年間全く活動して
いなかったかの様な印象を受けますが、英語版のウィキによるとその間の活動も記されています。
もっとも英語版のウィキが正しいという保証もありませんけれども・・・
86年9月、ドイツでの公演を終えた直後、レイ・ヴォーンは体調を崩し、死に瀕するほどの脱水症状に
苦しみます。流石にこれはやばいと思ったのか治療を受ける事となり、ロンドンの病院に入院した後、
アトランタの病院へと移る事となりました。アトランタでのリハビリは4週間程だったとの事。
ベースのトミー・シャノンがリハビリをチェックしていたそうです。
11月にリハビリから復帰したレイ・ヴォーンは、『ライヴ・アライヴ・ツアー』と銘打った
コンサートツアーの準備に取り掛かります。同月にリリースしたライヴ盤「Live Alive」の
プロモーションの為のツアーでした。本盤は85年のモントルーと86年7月のダラスとオースティンでの
演奏を収録したもの。上記はオースティン オペラハウスでのライヴ、兄のジミーも参加しています。
退院後ライヴを再開し、徐々に仕事への意欲を取り戻していったレイ・ヴォーンでしたが、酒と麻薬を
遠ざけた故のシラフでいることへの不安、妻との離婚問題などを抱えて、楽曲こそはこつこつと
書き溜めていたのですが、新作のリリースは滞ってしまいました。80年代中期から後半にかけては、
地味ではありますが、継続的にステージに立ち、シコシコと次作用の曲作りを行っていました。
しかし89年6月、離婚問題や薬物等への依存を解決したところでようやく新作の発表となります。
「In Step」=”足並みをそろえて・~と共に”の様な意。本人の言によると、ようやく「人生」
「自分自身」「音楽」と”イン・ステップ”することが出来た、といった意味合いから名付けたとの事。
待望の新作に世界中のファンは勿論大喜び、当然大ヒットとなり、更には初のグラミー賞を得ます。
本作では初期から曲作りに参加していた、同郷のドラマー・ソングライターであるドイル・ブラムホールが
大きく関わっています。ちなみに00年代にエリック・クラプトンバンドにサポートギタリストとして
参加していたドイル・ブラムホール二世は、名前からして一目瞭然の通り彼の息子です。
本作のエンディング「Riviera Paradise」と1st収録の「Lenny」をミックスした東京公演での演奏を。
90年8月26日、ウィスコンシン州で行われたコンサート終了後、移動の為に乗ったヘリコプターが墜落。
わずか35歳で帰らぬ人となってしまいました。有名な話ですが、同コンサートに出演していたエリック・
クラプトンも同乗を誘われたとの事。クラプトンは自伝でその時の事を、『霧がひどい状態で、風防を
パイロットが会場で販売していたTシャツで拭いていた、何かイヤな感じがして乗るのを断った』
の様に述べています。これはあくまで後付けの印象かもしれません、しかし人の運命というのはほんの
わずかな瞬間の選択で大きく変わってしまうのだと改めて思い知らされます。
レイ・ヴォーンのプレイスタイルは非常にオーソドックスなペンタトニックスケールに基づいたものです。
ジャズスタイルの演奏も披露していますし、勿論南部出身ですからカントリー&ウェスタンも演ります。
引き出しの広さも当然持ち合わせてはいるのですが、あくまでブルースに則った感情表現を第一義とする
スタイルでした。その意味ではクラプトンと同様だったと言えます。レイ・ヴォーンは更にもっと強い
アルバート・キングの様な感情表現(ビブラート・チョーキングなど)、ジミ・ヘンドリックスばりの
型破りかつアグレッシブなプレイを踏襲しながら、技術面では正確無比なフィンガリング・ピッキングを
行うことが出来、加えて意外と目立たないところかもしれませんが、ブラッシング・チョッピングなどの
小技も見事であって、音の飾り方が多彩で実に巧いのです。しかし何といっても、現在に至るまで彼を
信奉する人たちが絶えない一番の要因は、前回も触れたそのトーンにあります。シンガーやサックス奏者が
その歌声・ロングトーン一発で聴き手をシビれさせるように、彼のトーンにも魔性の魅力があったのです。
またトミー・シャノン(b)、クリス・レイトン(ds)の存在も忘れてはなりません。地味ではありますが
的確にレイ・ヴォーンのサポートに徹するシャノンのベース、竹を割った様にタイトなレイトンのドラム。
決して前面に出る事のなかった二人でしたが、このリズムセクションなくしてレイ・ヴォーンの名演は
生まれなかった事でしょう。『オレが!オレが!』『オレも!オレも!』といったタイプのプレイヤーで
あったなら、レイ・ヴォーンの持ち味をスポイルし、ダブルトラブルは早期に空中分解していたのでは。
亡くなる年である90年に、レイ・ヴォーンはあるアルバムをレコーディングしていました。最後に
ご紹介するのは、兄のジミー・ヴォーンと共に『ヴォーン・ブラザーズ』として、結果的に遺作と
なった「Family Style」。本作はレイ・ヴォーンの死の直前に全てを録り終えたと言われています。
私は全くの無神論者ですが、これが本当であれば何か運命的なものを感じてしまいます。
かねてよりレイ・ヴォーンはジミーとアルバムを作りたいと望んでいたそうです。心身の復調、
身の回りのゴタゴタなども片付き、ようやく念願であった兄との共作に取り掛かり、それを終えた
ところで急逝してしまうという、まるで物語のような人生であった様に思えてなりません。
本作はダブルトラブルにおける炎が出るような激しいプレイはありません。R&R、ソウル、カントリー、
ファンク、サザンロック、勿論ブルース、といった音楽そのものを楽しんで作った、(決して世間に
迎合したという意味ではない)聴きやすい作品となっています。したがって歌が重要なファクターと
なっており、シンガーとしてのレイ・ヴォーンの良さを再認識することが出来、全体的には非常に
アンサンブルを大事にした創りとなっています。これもまたレイ・ヴォーンの音楽の一つであるのです。