#60 Method of Modern Love

83年10月、ホール&オーツは新曲2曲を含むベストアルバム「Rock ‘n Soul Part 1」を発表。
本作からのシングルカット「Say It Isn’t So」も全米2位の大ヒット。ちなみに1位を阻んだのは
ポール・マッカートニーとマイケル・ジャクソンによるデュエット曲「Say Say Say」でした。
ダリルいわく”80年代におけるフィラデルフィアサウンド”という楽曲。シングルと
アルバムヴァージョンが異なりますが(上記はシングル)、個人的にはアルバム版の方が秀逸かと。
「Rock ‘n Soul Part 1」も当然大ヒット。私の世代だと本作にて過去のヒット曲を知った、
という人が多いのでは。80年代前半はこの様にベストアルバムだけど新曲も入っている、という
パターンが多かったような気がします。スティービー・ワンダー、ビリー・ジョエル、カーズなど
同様のベスト盤をリリースしていました。新しい客層は勿論、既存のファンもちゃんと買えよ、
というあこぎ… もとい、商売上手なリリースの仕方です。
本アルバムとあわせて、ライヴの模様を収めたビデオ「Rock ‘n Soul Live」(同年3月の
カナダ ケベック州公演)も発売されました。現在はユーチューブで観れてしまいます。

「Rock ‘n Soul Part 1」のエンディングに収録されたカナダ公演での「Wait for Me」。
オリジナルは「モダン・ポップ」(79年)に収録され、同作からの1stシングルとして全米18位と、

彼らとしてはスマッシュヒットといった程度のチャートアクションでしたが、本ベスト盤に
収められたこのライヴヴァージョンは、ファンの間で非常に人気の高いテイクです。

 

 

 


84年10月、アルバム「Big Bam Boom」をリリース。1stシングル「Out of Touch」は
これまた全米No.1ヒット。本作はヒップホップ色が強くなり、また当時流行しつつあった
ラップも取り入れるなど、かなり時代の最先端を行ったサウンドでした。ゲートリバーブの
効いたドラム、金属的なベース音、煌びやかなシンセの音色などはこの時代らしいものです。

今回のテーマである同作からの2ndシングル「Method of Modern Love」。
初めて聴いた時は「何かヘンな曲…」、と思ってしまいます。テーマの部分が全てにおいて、
脱力しているというか、悪い言い方をすれば腑抜けたように聴こえます。ブラス音のシンセによる
フレーズ、パーカッション、そして『M-E-T-H-・・・』と連呼するコーラス、これら全てが
”やる気あるんかい!”というようなものです。歌のパートに入ると、浮遊感と言えば聞こえは
良いのですがやはり気が抜けています。唯一G. E. スミスによるボリューム奏法を駆使したギターが
やや緊張感を保っている程度で、とにかく全てにおいて緊張感に乏しい楽曲です、途中までは・・・
しかし後半から一変します(上の動画で言うと3:50辺り)。一聴すると転調でもしたのかと
思うほどガラッと変わりますが、このコーダのパートは歌でのBメロにおけるコード進行の上で
成り立っています(若干違う部分も出てきますが)。テーマでひたすら繰り返されてきた
『M-E-T-H-・・・』のコーラスが当該パートのコードに基づいて改めて歌われ、
シンセの音色が煌びやかなものに変わり、そして何よりダリルのヴォーカルが変わります。
これだけで全く曲の印象・曲調が変わる事は非常に興味深いものです。勿論全てはコーダに
おけるダリルの歌をより引き立たせるため。そのために中盤までの気の抜けた様な曲調・サウンドが
あったのです(少しヒドイ言い方かな…)。ここにおけるダリルのヴァーカルは圧巻の一言。
当時ダリルは30代後半、シンガーとして最も”脂の乗っていた”時期だったと言えるでしょう。
ビデオもその曲調に沿って制作されています。中盤まではコミカルな作り、特にドラムの
ミッキー・カリーが手に持って叩いているものに注目してください、トイレ用のブラシと所謂
”スッポン(ズッポン)”です(正確にはラバーカップというらしいですが)、いくら何でも・・・

飛ぶ鳥を落とす勢いのホール&オーツにさらに嬉しい出来事が起こります。85年7月、イギリスの
ブルーアイドソウル・シンガー ポール・ヤングによる彼らのカヴァー曲「Everytime You Go Away」
が全米1位となります。本曲は「モダン・ヴォイス」(80年)に収録された曲。
#57にて本アルバムにはもう一つ重要な楽曲がある、と述べたのはこの事です。
私のおぼろげな記憶では、ダリルとP・ヤングが一緒に歌った映像を観た記憶があるのですが
(多分ヤングが何某かの賞を受けた時のステージにて)、今回いくら探しても出てきませんでした。
代わりに85年5月に黒人音楽の殿堂 アポロシアターにて彼らのアイドルであったテンプテーションズの
デヴィッド・ラフィン、エディ・ケンドリックスと共演した際に取り上げていますので、今回はこちらを。
ちょうどヤングのヴァージョンがチャートを駆け上っていた頃であり、冒頭でカヴァーの事に触れています。

このコンサートは「Live at the Apollo」としてレコード化され、これまたヒットしています。

86年8月、ダリルは2枚目のソロアルバム「Three Hearts in the Happy Ending Machine」を発表。
1stシングル「Dreamtime」は全米5位の大ヒット。本作はユーリズミックスのデイブ・スチュアートが
プロデュースを務めており、前作同様、ホール&オーツとは異なるカラーを打ち出しています。やはり
ダリルの中にはイギリス・ヨーロッパ的感性が潜んでいるのではないかと思われます。ちなみに、
「Dreamtime」は90年代前半に日本でミリオンセラーとなったある曲の元ネタになったのでは、
としてその手の話としては定番です。興味のある人はググってみてください。
88年、アルバム「Ooh Yeah!」をリリース。第一弾シングル「Everything Your Heart Desires」が
全米3位の大ヒットとなり、アルバムもプラチナディスクを獲得します。
しかしオリジナルアルバムとしては本作が最後のプラチナとなり(01年のベスト盤は獲得しましたが)、
商業的勢いはこの頃を境に、徐々に下降線をたどる事となっていきます。
ではその中身、音楽的にも低迷していったのでしょうか?そのあたりは次回にて。

#59 One on One

冒頭は、前回長くなりすぎて書き切れなかった話から。
「I Can’t Go for That」は歌詞も一筋縄ではありませんでした。ザックリとした内容は、
『君の望むものはなんだってしてあげる、けど、そいつは無理だよ。それだけは勘弁してくれ
俺にはそれはできないよ』。概ねこの様な歌詞です。当然男女間の事柄を歌っているものと
一般的には捉えられています。勿論その意味合いにも取れるように書かれたのでしょう。
ところが、ジョンは14年にあるインタビューにて語りました。『実はあの歌詞はミュージック・
ビジネスについて書いたんだ。レコード会社・マネージメントサイドに左右されるのではなく、
自身の創造性に正直になるべきだ、と。』30年以上経って驚きのカミングアウトです。
ここから先は全くの推論です、よろしければお付き合いください。
キッス・オン・マイ・リストの大ヒットによって、周囲は再びあの類の曲を出せば売れる、
と考えるでしょう。これは商業音楽ですから致し方ありません。二人にも、極端な言い方を
すれば次作は全曲キッス・オン・マイ・リストの様な曲で、と望んだかもしれません。
実際アルバム「プライベート・アイズ」はブラックミュージック色のナンバーは減っています
(私見ではA-②、③、B-⑤の3曲)。しかしすべてをポップソングにすることは出来なかったのです。
まさしく”そいつは無理だよ、それだけはできないよ”、と。「I Can’t Go for That」は男女間を
歌った様に見せかけた、ショウビズ界へのアンチテーゼだったのではないでしょうか。
また本作では、アレン姉妹の活躍が目立ちます。それまではアルバムにつき1~3曲だったのが、
11曲中7曲に関わっています。彼女たち(特にジャナ)はポップソングをつくる才に長けて
いたようです。これにも周囲から「サラとジャナの力をもっと借りたらイイんじゃない?」、という
提言というか誘導があったのでは、と勘繰ってしまいます。もっとも単純に、アルバムを出すのに
ダリルとジョンだけでは曲が足りなかったから、というのが一番の理由だったかもしれないですが…

82年10月、アルバム「H2O」をリリース。1stシングル「Maneater」も当然のように全米No.1。
この曲は所謂”モータウンビート”と呼ばれるリズムで、代表的なものはシュープリームズの代表曲の
一つである「You Can’t Hurry Love(恋はあせらず)」(66年)。数多くのミュージシャンに
カヴァーされているあまりにも有名な楽曲ですが、私の世代だとフィル・コリンズによるカヴァー(82年)の
方に馴染みがあります。80年代前半はこの手の曲が結構流行りました。ビリージョエル「Tell Her About It
(あの娘にアタック)」(83年)、カトリーナ&ザ・ウェーブズ「Walking on Sunshine」(85年)、
スティーヴィー・ワンダー「Part-Time Lover」(85年)等々。日本では原由子さんが83年にリリースした
「恋は、ご多忙申し上げます」(曲は桑田佳祐さんによるもの)などがありました。

今回のテーマである2ndシングル「One on One」。ダリルが自身の作において最も気に入っていると
公言している曲です。「I Can’t Go for That」同様に機械然としたリズムマシンによるビートの上で
展開される楽曲ですが、こちらはだいぶ印象が異なります。無味乾燥なものとはならず、ほんのりとした
温かみを感じさせる楽曲です。バンドのベーシスト トム”Tボーン”ウォークと一緒にいる時にアイデアが
浮かんだとの事。ウォークの素晴らしいベースラインが特筆に値すると共に、ダリルのヴォーカルは
やはり見事としか言いようがありません。前回「I Can’t Go for That」を”クールでホットなソウル”と
形容しましたが、本曲は”クールかつハートウォーミングなソウルバラード”といったところでしょうか。
本曲の歌詞もまた非常に興味深いものです。一聴するとバスケットボールと恋愛事をかけた様な内容。
『チームプレイ(グループ交際みたいな意か?)はもうウンザリだ。一対一で、今夜君とプレイ・ゲームを
したいんだ』かなりエロティックな意味に取れます。勿論その意味にも引っ掛けたのでしょうが、
後のコメントにて実はコンポーザー・ミュージシャンとしてのスタンスを歌ったものだと語っています。
ジョンやサラ、ジャナとの共同作業がイヤだったとかいう訳ではなかったのでしょうが、一人の表現者と
しての自身を確立したい、といったくらいの意味合いを含ませたのでなかったかと思われるのです。
この意味においての”君”は「音楽」に他ならないでしょう。
ダリルは若い頃、外で遊ぶよりも本を読むことが好きだった、という文学少年・青年であり、
彼の創る歌詞にはこの様な、先述の「I Can’t Go for That」もそうですが、ダブルミーニング、
裏の意味を持たせたものがしばしば見受けられます。「キッス・オン・マイ・リスト」も
ラブソングの様に思えますが、実はアンチラブソングだ、と本人が後に語っています。

https://youtu.be/wXSeuPf4–U
3rdシングル「Family Man」。英国ミュージシャン マイク・オールドフィールド作のカヴァーです。
オールドフィールドの名前は知らなくても、映画「エクソシスト」のテーマ、と言えば殆どの人は
ピンとくるのでは。あの印象的なフレーズは「チューブラー・ベルズ」(73年)のイントロ部分です。
実は映画においては当初無断使用で、しかも勝手にアレンジされたもの。当然もめるのですが、結果的に
映画の大ヒットにより皮肉にも「チューブラー・ベルズ」はベストセラーを記録することとなります。
「Family Man」は「Five Miles Out」(82年)に収録されている楽曲。「サラ・スマイル」の頃や、
「キッス・オン・マイ・リスト」以降のホール&オーツしか知らなければ、なぜ彼らがイギリスの
プログレ系ミュージシャン マイク・オールドフィールドの曲を?、と首を傾げたでしょう。
しかし70年代後半におけるダリル達の活動を見れば本曲の起用は全く違和感のないものです。
「プライベート・アイズ」の大ヒットによって、この頃には彼らのレコード会社やマネージメントサイド
への発言力も増していたのではないかと思います。アルバム「H2O」は前作よりも実験色が強くなって
いますが、時代の勢いもあったのでしょうけれども、本作はホール&オーツにおいて最も好セールスを
記録したアルバムとなりました。

ホール&オーツ回はもうちょっと続きます(いつまで続くのかな・・・(´・ω・`))。

#58 I Can’t Go for That (No Can Do)

キッス・オン・マイ・リストの大ヒットによって、再びポップミュージックの
メインストリームに躍り出たホール&オーツですが、そこからちょっとだけ時間を遡ります。
80年3月、ダリル・ホールは初のソロアルバム「Sacred Songs」をリリースします。
実はこのアルバム、77年には録り終えていたのですが、その後約3年に渡ってお蔵入り
されていたといういわくつきの作品。理由はホール&オーツの音楽性とのギャップから、
彼らの人気及び世間からの評価、といった影響をRCA側が考慮したものでした。

 

 

 


プロデューサーはキング・クリムゾンのロバート・フリップ。ブルーアイドソウルの
ダリルと英国プログレッシヴロック界を代表するフリップ、一見すると全く相容れない
様な組み合わせに思えます。キング・クリムゾンについては#15~17で取り上げましたので、
詳しくはそちらを(と言って、さりげなく過去記事へ誘導…)。
出会いのきっかけについては詳しくわからないのですが、二人の最初の出会いは74年の事。
その時にはすでに互いの作品についてそれぞれ精通していて、一緒に仕事をしようと意気投合していた
そうです。意外なのは、74年ということはホール&オーツに関して言えば「サラ・スマイル」が
ヒットする前、世間的には殆ど認知されていなかった彼らについて、海を隔てたフリップが彼らの
音楽を知っていたという事です。77年、ヒットは出したものの、それよりも表現者としての自身に
とってこれからの音楽、ひいては人生においてもっと重要なものがあるのではないかと、その見通しに
限界を感じ悩んでいたダリルは再度フリップへ連絡を取ります。
前々回#56にて、3rdアルバム(74年)が奇才トッド・ラングレンによるプロデュースという事に
ついては触れましたが、これに関してダリル達からの要望だったか、レコード会社側からあてがわれた
ものなのか、そのいきさつについては調べてみてもわかりませんでした。トッドはアメリカ人であり、
またその音楽がプログレにカテゴライズされることはあまりないと思いますが、一般的なアメリカン
ミュージックには収まり切らないワンアンドオンリーな音楽性でした。いずれにしろ74年時点において、
ダリルがロック・ソウル・フォークといった音楽のみならず、プログレをはじめとした非アメリカ的音楽に
関心を持った、あるいは既に持っていたのではないかと推測できます。
「Sacred Songs」については、フリップの曲及び二人の共作以外、つまりダリルの曲は
ホール&オーツ初期にあった様な比較的地味めの小作品集と呼べるもの。しかし、本作がその後の
ダリルの音楽性へ影響を与えた事は想像できます。
ちなみに本アルバムが発売延期されたことで、今度はフリップのソロ作「Exposure」(79年)に
ダリルが参加する運びとなります。この時期、フリップは本作、ピーター・ガブリエルの2ndアルバム、及び自身の「Exposure」を三部作と位置付けていました。ピーターの作品にダリルは関わっていませんが、
これら一連の活動を通じてそれまでには無かった”引き出し”を獲得出来たのではなかったでしょうか。

81年9月、アルバム「Private Eyes(プライベート・アイズ)」をリリース。先行シングルである
タイトル曲は全米No.1の大ヒット、あまりにも有名な彼らの代表曲です。元々この曲は
ジャナ・アレンとウォーレン・パッシュというソングライターによって作られた曲。
だいぶ前ですが、BS-TBSの『SONG TO SOUL』という、過去の洋楽におけるヒット曲
及びそれが生まれた背景を紹介する番組で本曲が取り上げられていました。ジャナのアルバム用に
作られたものだったのですが、ある日ジャナからパッシュへ電話があり、この曲は使わない事に
したとの旨を告げられます。パッシュは「仕方ないね、イマイチの曲だったし…」と言いかけたところ、
ジャナは「違うわよ、ホール&オーツが使いたいと言っているのよ!」との事、パッシュは仰天します。
ダリルがコードを付け直す等のアレンジをし、サラと共に歌詞を書いて本曲は完成しました。
ダリルいわく”ファミリーソング”。サラとは籍を入れる事はなかったのですが事実上の家族だった訳です。
また番組ではホール&オーツ・バンドのギタリストであり、彼らの盟友であるG. E. スミスが
出ていました。シンプルでありながら、あまりにも印象的な、ある意味「プライベート・アイズ」という
楽曲を決定付けたような、あのイントロのフレーズについて語っています。当時、自分はあの界隈で
”最もシンプルに弾くギタリスト”と言われていた、などと自嘲半分・ユーモア半分に述べていました。

今回のテーマである本アルバムからの2ndシングル「I Can’t Go for That (No Can Do)」。
前曲に続いてNo.1ヒットとなり、ベスト盤が出れば必ず収録される代表曲の一つであることは
勿論言うまでもないのですが、本曲は彼らのそれまでにおける他のヒット曲には無い、重要な要素・
意味合いを持っていました。
中学生の時分に初めて聴いた時、悪い曲とは勿論思わなかったのですが、やはりまず気に入ったのは
プライベート・アイズやキッス・オン・マイ・リストといったポップなナンバーであり、
本曲はよくわからないけど不思議な印象の曲だな、と思った記憶があります。
まず耳につくのはリズムマシンによる、悪い言い方をすれば”チープな音色のリズム”。当時のテクノロジーは
勿論今とは比較になりませんが、それにしてもあまりにも”機械然とした”音です。そしてこれまた
あまり血の通った感じのしないギターとシンセによるリフ。ダリルの歌も他と比べると感情表現が
抑えられたクールな歌い方、コーラスも同様です。
本曲が全米No.1になったと前述しましたが、実は彼らの本曲を含めた6曲のNo.1ヒットの中で、
他と異なる点があります。ポップスチャートのみならず、R&Bチャートでも1位を記録したのです
(ついでに言うとダンスチャートでも、全てビルボードにおいて)。R&BチャートでNo.1になる、
つまり黒人層にも受け入れられたという事。これは白人ミュージシャンとしては珍しい事です。
現在では違うかもしれませんが、少なくとも80年代初頭においては、ソウルミュージックというと
アレサ・フランクリンやオーティス・レディングといった魂が揺さぶられる様な歌、生楽器による
血の通った演奏、といったイメージだったと思います。ところが本曲はおよそそれらとはかけ離れている、
というよりむしろ真逆を張った様な楽曲です。この一聴すると無機質かつ人の”魂”を感じさせない様に
思える本曲に対して、当時の黒人層は新しい魅力を感じたようです。
先ほどから無機質・血が通っていないなどと、まるで本曲を貶めるような言い方をしてきましたが、
勿論私もそんな風には思っていません。例えるなら、本曲は陳腐な言い方ですが”クールでホットなソウル”
とでも呼べるもの。チープに聴こえるリズムマシンや無機質なシンセ等の音色・フレーズは明らかに
”狙った”ものでしょう。この様な”クールなグルーヴ”と呼べるリズムは、メインストリームのポップスに
おいてはそれまで無かったものです。あえて感情表現を抑えた中に秘めたソウルを感じさせることに
見事成功しており、また間奏のチャールズ・デチャントのサックスソロもそれによってより活きるのです。

前々回からトッド・ラングレンやロバート・フリップとのつながり、70年代後半における低迷期など
つらつらと書いてきましたが、方向性を見失ったなどと言われる一連の活動は決して無駄だったのでなく、
それらがあったからこそ本曲は生まれたのだと思います。機械然としたリズムマシンの使い方は、
ポップス界では、その1~2年前からフィル・コリンズが自身のソロやジェネシスにて行っていました。
ドラマーであるフィルが、あえて生ドラムとのコントラスト効果を引き立たせたその様なマシンの
活かし方をしたのは興味深いものです。ダリルとフィルに直接の繋がりはなかったようですが、
フリップをはじめとしたイギリスのミュージシャン達との交流から、一見ホール&オーツには全く
そぐわない様に思えるプログレやテクノポップといった音楽から影響を受け、そして遂に本曲にて
それらが音楽的・商業的成功へと開花したのではないでしょうか。
この頃を境に、今度は本家の黒人ミュージシャン達が本曲の様にシンセサイザーやリズムマシンを
積極的に使った、新しいソウル・R&B、ブラックコンテンポラリーと呼ばれるカテゴリーを
創り上げていきます(一例だけ挙げればマーヴィン・ゲイ「Sexual Healing」(82年))。
90年代以降についてはR&Bと言えば、その様な音楽を指すようになったと言われています。
前々回で、ブルーアイドソウルという言葉が黒人側からの差別的ニュアンスもあったと述べました。
しかしここに至って遂に白人側からソウルミュージックへ影響を与える、フィードバックさせる
事となったのです。アンテナの鋭い当時の黒人層が本曲にこれまでには無い魅力を感じ、
”碧い目の奴らがつくったソウルとか何とか関係ねえ!俺たちはこういうのが聴きたかったんだ!”
といった様な感じで受け入れられていったのでは、と思うのです。

また本曲にはあるエピソードがあります。マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」、これが本曲の
ベースラインからインスパイアされ作られた、というもの。「ウィ・アー・ザ・ワールド」(85年)の
レコーディング時にマイケルはダリルへその事を告白します。その時ダリルが言ったのは、
『僕の曲を参考にしたと君は言うが、それはそれまでに君が聴いてきた他の様々な曲、君の中に
あるもの、血肉となっているものから生まれたんだよ。我々ミュージシャンは何かしらそういった
ものの積み重ねから、皆同じようなことをやってきているんだよ』の様な旨。少し意訳した部分も
ありますが、音楽というものはそれまでの色々なものがミクスチャーあるいはフィードバックされて
産み出され、また次世代へ受け継がれていくんだということ。ダリルが言いたかったのは概ねこの様な
意味であったのは間違いないでしょう。黒人音楽に憧れ、そのような音楽を作りたいとその道を
志した白人であるダリルが、当時は既にCBSへ移籍していましたが、元はソウル本家であるモータウンの
看板シンガーであった黒人のマイケルへ今度は影響を与える。すべては廻り回って繋がっているのです。

#57 Kiss on My List

77年の初めに「リッチ・ガール」がNo.1ヒットとなったホール&オーツですが、
同年9月リリースのアルバム「Beauty on a Back Street(裏通りの魔女)」が30位、
「Along the Red Ledge(赤い断層)」(78年)27位、「X-Static(モダン・ポップ)」
(79年)33位と、何とかTOP40に入る程度。シングルは「It’s a Laugh」(78年)
20位、「Wait for Me」(79年)18位というチャートアクションで、TOP20に
辛うじて入っている、といった結果でした。「裏通りの魔女」と「赤い断層」は結果的に
ゴールドディスクとはなりましたが、やはりかつてはNo.1ヒットを飛ばしたグループとしては
その結果はやや寂しいものでした。率直に言って人気の低迷期といって差し支えないでしょう。

 

 

 


だからと言って内容的にも落ち込んでいたかというと決してそうとは言い切れませんでした。
この時期を評して、昔よく言われたのが”過渡期・試行錯誤”といったものでした。
一時期のデヴィッド・ボウイもそうでしたが、アルバム毎にカラーが変わったとされます。
「裏通りの魔女」はハードロック、「赤い断層」がフィル・スペクターサウンド、そして
「モダン・ポップ」はディスコやニューウェイヴ。サラ・スマイルやリッチ・ガールの頃の
ブルーアイドソウル色が薄れ、良く言えば新しい音楽性に果敢にチャレンジ、悪く言えば
方向性を見失ったと言われます。私見ですが、作品毎にガラッと変わったという訳では無く、
それまでの音楽性を3~5割踏襲しながら新しい試みに挑戦していった、といった所が
実際だったと思っています。
レコード会社もおざなりな扱いをした、とかいう事では決してなく、むしろ参加ミュージシャン達を
見るとすごい面子が起用されていたりします。
今回調べていて初めて気が付いたのですが、「裏通りの魔女」のドラムはジェフ・ポーカロです。
確かにあのドラムはジェフの音色です。30年以上経って改めて判る事がいまだにあります…
他にはトム・スコット、ジョージ・ハリスン、スティーヴ・ルカサー、さらには何とロバート・
フリップまで。もっともフリップの参加には理由があります、これは次回にて。

80年7月、アルバム「Voices(モダン・ヴォイス)」を発表。よく”原点回帰”をした作品と
評されます。つまり彼らのルーツであるソウルミュージックへ戻ったという事。半分当たっていて、
半分は適当ではない評価かな、と個人的には思っています。先述したように全曲ソウルへと
回帰したかというとそうではなく、具体的に言えばA面は1stシングルであるジョン作のA-①
とA-⑥を除けばストレートなロックナンバー及びポップソングで固められており、
B面がブラックミュージックサイドと呼べるものでした。余談ですが昔はA面とB面で
楽曲やサウンドをはっきり分けているアルバムが結構ありました、レコードという媒体の特性が
あってこその事だった訳ですが、CDや配信の時代になって意味が無くなりましたが・・・

ライチャス・ブラザーズによるヒットであまりにも有名な、バリー・マン/シンシア・ワイル、
そしてフィル・スペクターによる、ブルーアイドソウル並びにフィル・スペクターサウンドの
名曲として名高い「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’(ふられた気持ち)」を2ndシングル
としてリリース。全米12位という久々のヒットを記録します。

3rdシングル「Kiss on My List」、今回のテーマです。元々はダリルと長年に渡り、公私共に
おけるパートナーであったサラ・アレンの妹 ジャナが歌う目的でダリルとジャナによって
作られた楽曲。しかしダリルが歌ったデモテープを聴いたスタッフがそのあまりの出来の良さに、
これはホール&オーツとして出すべきだ、とプッシュした事から「モダン・ヴォイス」へ収録されます。
本当に人生というのは何をきっかけとして好転(勿論その逆も)するかわかりません。
本曲はみるみるうちにチャートを駆け上がり、3週連続全米No.1の大ヒットとなり、その年の
シングル年間チャートにおける第7位となります。
本曲は決してソウル色の強いナンバーという訳ではありません。リズムボックスが生ドラムと
混在して使われているという点を除けば、非常にシンプルな楽器編成で特に実験的要素なども
感じられないポップソングです。ヒットの要因はひとえに楽曲の良さ、楽曲に寄り添った
シンプルではあるがツボを得た好演、そして勿論のこと、不世出のシンガー ダリル・ホール
による素晴らしい歌、これらが人々の心を打ったのです。なおトリビア的な事柄ですが、本曲の
ビデオクリップは81年から始まったMTVの初回放送時において流されたものの一つです。

この大ヒットをきっかけとして彼らの第二次黄金期がスタートするのは周知の事実です。
ソウルミュージックへの原点回帰と評されたアルバムからシングルカットされ、再ブレークの
火付け役となった楽曲ですが、それはブルーアイドソウル的ナンバーではありませんでした。
(しかし彼らがソウルを捨てた、とかいう訳ではありません。それはこの後すぐにわかります。)

多分本来はシングルカットされる予定は無かったのだと思われますが、前曲の大ヒットを受けて
リリースされたのでしょう。4thシングル「You Make My Dreams」も全米5位の大ヒット。
彼らの素晴らしい所は、二匹目のナンチャラを狙うのであれば前曲同様のポップソングを
シングルとしてリリースしそうなものですが、それはせずに、自分たちの”根っこ”である
ブラックミュージックをあえて持ってきたことです。結果、それは大成功しました。
また、
本作には大変重要な楽曲がもう一曲収録されていますが、それはまた次回以降で。

#56 She’s Gone

直近3回の記事にて、ブルーアイドソウルという言葉を使ってきましたが、
”ブルーアイドソウルって何ぞや!”、と思われた方もいるかもしれませんので簡単にご説明。
一言で言えば白人が演るソウルミュージック。ライチャス・ブラザーズやラスカルズと
いったミュージシャン達を指して、60年代から使われるようになったそうです。これには
幾分黒人側からの差別的なニュアンスも含まれていたようで、”白い奴らに俺たちのソウルが
出来るのかい?”という様な意味合いも昔はあったとのことです。
それらの事はともかく、私の世代でブルーアイドソウルと言えば何と言ってもこの人達です。
そう、それが今回からのテーマであるダリル・ホール&ジョン・オーツ(ホール&オーツ)です。

 

 

 


ペンシルベニア州フィラデルフィアにあるテンプル大学に在籍していた二人は、当初別々の
バンドで活動していたらしいのですが、やがてルームシェアして活動を共にしていきます。
ちなみに、その時アパートの郵便受けに”Hall & Oates”と表記した事がグループ名の由来。

72~74年の間にアトランティックより3枚のアルバムをリリースします。2ndはアリフ・
マーディン、3rdは奇才トッド・ラングレンのプロデュースと、レコード会社も決して
ぞんざいな扱いをした訳ではありませんでしたが、残念ながらヒットには恵まれませんでした
(ただし2nd「Abandoned Luncheonette」は大変重要な作品です、後述します)。
初期の音楽性はロック、ソウル、ソフトロック、フォークロック、当時流行していた内省的な
シンガーソングライター的作風(ジェームス・テイラーやローラ・ニーロの様な)が
垣間見え、後の彼らと比較すると興味深いものがあります。また、3rdはトッド・ラングレンの
影響からプログレ色も感じられるロックに仕上がっているのかと思いがちですが、ところが
どっこい、単にトッドの影響だけとは言い切れない事が後に露見します、これは次回以降にて。

75年にRCAへ移籍。4thアルバム「Daryl Hall & John Oates(サラ・スマイル)」を発表。
そこからのシングルカット「Sara Smile」が全米4位の大ヒット。これで檜舞台へと躍り出ます。
ちなみに”サラ”とは長きに渡って公私共にダリルのパートナーであったサラ・アレンのこと。
余談ですが、日本が誇るピアノ・キーボードプレイヤー 深町純さんの名盤「深町純&ニューヨーク・
オールスターズ・ライヴ」(78年)にて本曲はカヴァーされており、ジャズフュージョンファンの
方にはそちらの方で馴染みが深いかも。デヴィッド・サンボーンによる”泣きのサックス”が
あまりにも素晴らしい名演です。

本作よりブルーアイドソウルと呼ばれる音楽性が定まってきたと言えるでしょう。それにしても、
『アトランティックソウル』と呼ばれるカテゴリーがあるほどに、ソウルミュージックの
本家本元でもあるアトランティックを離れてからソウル色が強まるというのも何だか皮肉な話です。
76年、5thアルバム「Bigger Than Both of Us(ロックン・ソウル)」をリリース。翌年1月に
本作からの2ndシングル「Rich Girl」が見事に全米No.1となります。彼らの第一次黄金期が
この頃であったでしょう。

https://youtu.be/_pDCI8-ifaE
時系列はやや前後しますが、「サラ・スマイル」のヒットの後、アトランティックはそれに
あやかってか、2nd「Abandoned Luncheonette」から2年前(74年)にリリースした
シングル曲「She’s Gone」を再発。この時見事に全米TOP10入りを果たします。
ちなみに、「Abandoned Luncheonette」はその後長い期間に渡って、ホール&オーツ
初期の隠れた名盤として売れ続け、結果的にプラチナディスクを獲得します。

フィラデルフィアソウル(フィリーソウル)の王道の様な本曲は、ダリルとジョンの共作。
この後、ダリルのイニシアティブが強く押し出され、またそれが成功の要因となったことは
否めない事実ですが、本曲はソングライティング・ヴォーカル共において、二人の力が
結晶化された初期の傑作です。後年のジョンによるコメントで、まずジョンによりギターで
サビの部分が作られましたが、それ以外にはアイデアが浮かばなかったので、ダリルに
それを聴かせ、他のパートを共に作っていったとの事。またこれは結構有名なエピソードですが、
ダリルはサラと知り合う前の72年暮れに最初の結婚に失敗しており、ジョンも同年の大晦日に
女性から”すっぽかし”を喰らっています。この別れ・失恋が本曲の歌詞の元となっているそうです。

私の世代ですと、本曲は83年発表のベスト盤「Rock ‘n Soul Part 1」に収録されていたものの
方に圧倒的に馴染みがありますが、これはシングルヴァージョンで、「Abandoned Luncheonette」
に収録されていたもの、つまりアルバムヴァージョンとはアレンジが異なります。今回はシングル版を
ご紹介しますが、現在はユーチューブでどちらも聴くことが出来ますので(本当に良い時代になった
ものです… 。゚(゚´Д`゚)゜。゚)、聴き比べてみるのもご一興。

https://youtu.be/AVUOtH8feoI
ブルーアイドソウルのホープとしてポップミュージック界の頂点に昇りつめた二人。この後も
更なる飛躍を続けるのか、はたまた否か。その辺りはまた次回にて。

#55 Shout to the Top!

前回の記事でも少し触れましたが、バブル景気で隆盛を極めていた80年代の日本において、
スクリッティ・ポリッティなどと共にオシャレなポップスとして好まれていたイギリスの
ミュージシャンがいます。エヴリシング・バット・ザ・ガールやシャーデー、やや遅れて
デビューしたフェアーグラウンド・アトラクションといった、ロックにとどまらずに
ジャズ、ソウル・R&B、ブラックコンテンポラリー、ラテン音楽、そしてもちろん
英国人らしくブリティッシュトラッドをはじめとしたヨーロッパの音楽、といった様々な
音楽性を持った人達でした。前回既に名前を出しているのでもうお分かりかもしれませんが、
今回のテーマはその筆頭格とも言えるバンド、スタイル・カウンシルです。

 

 

 


70年代後半にデビューし、イギリスで、特に若者から絶大な人気を誇っていたザ・ジャムを
解散し、その直後にポール・ウェラーが結成したバンド。正式メンバーはウェラーと
ミック・タルボット(key)の二人ですが、実質的にはスティーヴ・ホワイト(ds)と
D.C.リー(cho)を加えた四人編成のバンドと捉えて良いでしょう。
その音楽性はヴァラエティーに富んでいると呼べばよいでしょうか、ジャズ・ボサノヴァ・
ラテンジャズ・イージーリスニング・フレンチポップス、ヒップホップ、もちろんの事
ソウル・R&Bまで、と何でもあり。無いのは節操くらい…(失礼 <(_ _)> )・・・
あと、もう一つありました。ザ・ジャム時代のストレートなR&Rだけはありませんでした。
私はリアルタイムで本バンドから聴いたので、ザ・ジャムは後追いなのですが、確かに
よく言われる”青筋立てて”ウェラーがギターをジャカジャカかき鳴らしながら、当時の若者や
労働者階級の不満を代弁してくれるような熱いロックに心酔していた従来のファン達は
かなり戸惑った、というより失望してしまった人が多かったようです。オレたちの・アタシたちの
ウェラーが変わってしまった、と。もっとも初期こそパンクロックと捉えられていたザ・ジャム
でしたが(70年代後半にイギリスでデビューするとみんなパンク扱いされたそうですけど…)、
徐々にウェラーが本来持っていた黒っぽい要素が強まっていき、ある意味スタイル・カウンシルは
必然的に結成されたとも言えるでしょう(それにしても変わり過ぎ、とされても仕方ないかと…)。

https://youtu.be/fo0lMI7bynE

83年、1stシングル「Speak Like a Child」をリリース。同年ミニアルバム「Introducing
The Style Council」を本国イギリス以外で発表します。
84年に1stアルバム「Café Bleu(カフェ・ブリュ)」を本国でもリリースし、最高位2位を記録。
先述した通り従来のザ・ジャムファンの戸惑いはありましたが、非常に高い評価を得ました。
ただ単に色んなジャンルを演ってみました、ではなく楽曲のクオリティーが全て高く、統一感には
欠けますが、非常に上質な作品に仕上がっています。

今回のタイトル「Shout to the Top!」は84年10月リリースのシングル。元はアメリカ映画の
サントラの為に作られた曲です。一聴すると爽やか系で快活な楽曲ですが、歌詞は労働者階級の、
特に若者たちへ向けて、トップ(上司や経営者、ひいては政治家、当時のサッチャー首相を
頂点とする)にいる奴らに向かって叫べ!といった内容です。もっともサッチャー首相が強力に
推し進めた市場原理を尊重した改革によって、イギリスではその後金融業をはじめとした好景気に
よって永く続いた不況を脱するのですが… あ、話がずれてしまいましたね・・・
前回も書きましたが、本バンドは当時、オシャレ系のポップスとしてナウでヤングな最先端スポットで
(プールバーとかカフェバーとか)かかっていたようですが、その歌詞はとてもオシャレスポットには
そぐわないものだったようです。知らない方が良い事ってあるもんですね・・・

85年、2ndアルバム「Our Favourite Shop」をリリース。全英No.1に輝き、バンドとしての
最盛期がこの頃であったでしょう。
87年の3rdアルバム「The Cost of Loving」も全英2位を記録するヒットでしたが、これを
境にバンドは勢いを失っていき、80年代末にバンドは自然消滅します。

ちなみに全米でのチャートアクションは、アルバムは一枚もTOP40には入らず、シングルも
「My Ever Changing Moods」の29位が最高でした。アメリカ音楽に傾倒していき、
その音楽性を発揮した作品が、その本場ではあまり受け入れられなかったというのは、
皮肉めいたものを感じます。プロモーションの問題などもあって一概には言えませんけれども、
スクリッティ・ポリッティもそうでしたが、英国流ブルーアイドソウルが本国にて
受け入れられるか否かの基準はよくわかりません。シンプリー・レッド やシャーデーが
アメリカでも受け入れられたのに対して、彼らがそうならなかったのは何故なのか。
多分、明確な答えなどは永遠に出ないのでしょうけれども・・・

私の音楽の知識は80年代で止まっているので、90年代以降については殆どわからないのですが、
オアシスをはじめとした、90年代以降のイギリスのミュージシャン達に絶大な影響を与えた
そうです。日本でもウェラーの人気は根強いものがあり、日本とイギリスは文化的に相通じる
ものがあるのではないかと思っています。

ザ・ジャム時代からすると本バンドは音楽的には劇的に変容を遂げましたが、ウェラーが書く
歌詞の内容は変わらなかったようです。彼は典型的な労働者階級の家に生まれた事もあってか、
その思想はかなり左傾化されたものであり、人によって賛同出来るか否かは分かれる所で、
またそのようなメッセージを音楽に乗せることを良しとするかどうかも賛否は様々です。
ただその考え方は脇に置いておくとして、40年に渡って”ブレずに”一貫したスピリットを
保っているのは、やはり並大抵の事ではないでしょう。

最後にご紹介するのは「Our Favourite Shop」のエンディング曲「Walls Come
Tumbling Down!」。快活なソウルナンバーですが、その歌詞は、『我々が団結すれば
壁(体制)は崩れる!』といった内容。当時のイギリスの事情を詳しくは知りませんが、
先述した通りその体制が推し進めた政策によって永く続いた不況を、その後脱する事に
なったのも事実です… 何だかよくわからなくなってきますね・・・
ただしそのサウンドはゴキゲンそのものです。これも先述したことなのですけれども、
歌詞が判らなくて
良かったということも結構あるのです。

#54 Cupid & Psyche 85

前回のカルチャー・クラブが大ブレークしていたほぼ同時期に、同じくイギリスにてデビューし、
非常に高い音楽性でもって注目されていたバンドがいました。それが今回のテーマである
スクリッティ・ポリッティです。

 

 

 


結成は77年ですが、リーダーであるグリーン・ガートサイド(vo、g)の病気療養その他の
事情によりデビューアルバムのリリースは82年となります。
1stアルバム「Songs to Remember」はファンや評論家筋からは、代表作とされる2ndよりも
音楽的には優れていると評される作品です。2ndの様なサウンド的インパクトはありませんが、
グリーンなりに消化したと思われる独自のソウル、ファンク、スカ等の音楽が、前面に押し出され
過ぎない程度の実験的ニューウェイヴ色にて彩られた作品です。プログレ・カンタベリー色が
仄かに香るのは、#48にて取り上げたソフト・マシーンのロバート・ワイアットが参加している
事に起因するのではないかと私は思っています。
1stはラフ・トレードというレーベルからリリースされました。初期のヴァージンの様に先進的な
ミュージシャンを見出していた会社でしたが、この1stは全英12位と、ラフ・トレードとしては
画期的とも言えるヒットを記録しました。

1stから2ndアルバムの間にもグリーンは病気療養のため一時帰郷します。元々は共産主義に傾倒し、
(バンド名はそれに由来するそうです、私はよく知りませんが)、パンクロックにのめり込んで
音楽を始めたらしいのですが、一度目の療養の際にパンクに対する興味はすっかり失い、代わりに
聴き込んでいったのはソウル・ファンクといったブラックミュージックでした。二度目の療養時には
初めて姉(妹)の持っていた(それまで肉親の音楽趣味を知らなかったのか?)ブラックミュージック
を耳にしたとの事。またN.Y.で旋風を巻き起こしつつあったヒップホップにも影響を受けます。
83年にグリーンはヴァージンと契約します。悪い言い方をすれば、ラフ・トレードのプロモーション
には限界があるとして見限ったとも言えるでしょう(当然この後しばらく揉める事となります。
仕方ないことですが…)。ヴァージンは前回取り上げたカルチャークラブ辺りから、急激に
メジャー化していく途上でしたので、お互いのニーズが上手く合ったのかもしれません。
そして米ではワーナーからのリリースとなります。

本作を検索すると枕詞のように大物プロデューサー アリフ・マーディンが関わった事が出てきます。
トム・ダウドなどと共にアトランティック/ワ-ナーを大レコード会社へとのし上げた立役者。彼が
イギリスの弱小レーベルからアルバムを1枚出しただけのグリーンと何故関わることになったのか?
結論から言うと、グリーンが渡米してから知り合ったボブ・ラスト(本バンドのマネージャーとなります)
という人物がカギを握っていました。オリジナルメンバーとは袂を分かち、1st製作中に知り合った
米国人デヴィッド・ギャムソン(key)を頼って渡米して、そこで新ドラマー フレッド・マーを
加えて新生スクリッティ・ポリッティが誕生します。当初はラフ・トレードとの法的イザコザが残って
いた為シングルの発売も思うようになりませんでしたが、そのトラブルを解決して、ワ-ナーと
つないでくれたのもボブ・ラストだったようです。

本作についてはとにかくサウンドが画期的でした。私もデジタル機材やレコーディング技術などには
疎いので上っ面の知識しかありませんが、フェアライトや発売間もないヤマハDX-7といった
デジタルシンセサイザーの効果的な使用、サンプリングやシーケンサーと言った当時における
最先端の技術、及び80年代に一世を風靡したゲートリバーブを駆使しての
エフェクト処理、
といった点がよく語られます。これは実際その通りで、当時ウチのお世辞にも
ハイスペックとは
言えなかったステレオで聴いた時にも、音が他とは全く違う、別次元だ、と
思ったのを記憶しています。
これについてはD・ギャムソンの功績が大きかったようです。
またポール・ジャクソン Jr.(g)やスティーヴ・フェローン(ds)といった第一線で活躍する
名うてのセッションプレイヤーの起用なども話題となりました。さらにあまり取り上げられない
事なのですが、超有名ベーシストであるウィル・リー(A-③)とマーカス・ミラー(A-⑤)の
二人も参加しています。少なくともクレジットを見る限りではそうなっているのです。

アルバムリリース(85年)の前年、本作に収録される事となる「Wood Beez」「Absolute」「Hypnotize」が先ずシングルとして発売されました。これらはアルバムヴァージョンとは違う
アレンジで、オッサン世代には懐かしの”12インチシングル”として発売されたと記憶しています
(多分…)。アルバム発売直前に先行してリリースされた1stシングルが先にあげた
「The Word Girl」。英では最高位6位と彼ら最大のヒットとなりました。
米では2ndシングル「Perfect Way」が最もチャートアクションの良かった楽曲です。先述した
マーカス・ミラーの参加がきっかけとなったのか、”帝王”マイルス・デイヴィスが自身の
アルバム「TUTU」(86年)で本曲を取り上げています。マーカスは当時マイルスの”腹心”でした。
これらの経緯があってか、3rdアルバム「Provision」(88年)では本格的なマーカス・ミラーの参加、
さらになんとマイルスが一曲ではありますがトランペットを吹いています。

本バンドは当時、スタイル・カウンシルなどと共に、とかく”おしゃれなポップス”として扱われていた
様な記憶があります。私はリアルタイム時、中~高校生でしかも田舎住みだったのでわかりません
でしたが、今になって私より少し上の年齢で、東京に住んでいたであろう方のブログなどを読むと、
当時の”オシャレスポット”(オッサン達懐かしの『プールバー』とか…)でそれらの音楽がよく
かかっていて、バブリーな男連中がこれまたバブリーなワンレン・ボディコンのオネエチャン達を、
それらの場所で口説いていた、との事。ですが、スタイル・カウンシルは実は英での階級闘争などを
隠喩的に歌っていたり、スクリッティ・ポリッティはこれまた哲学的で難解な歌詞であったりと、
とても女性を口説くのに適した曲ではなかったと知ったのは、ずっと後になってからだった…
との記事も見受けられました。言葉がわからなくて良かった、という事も時にはあるようです・・・
また本作は米では最高位50位と今一つ奮いませんでしたが、本国を含めたヨーロッパや
その他の地域(勿論日本を含む)では高い評価を得て、またその業界や玄人筋から絶賛されました。
比較的最近の事ですが、エルトン・ジョンが自身のラジオ「ロケット・アワー」15年10月放送にて、
本作を”the best produced electronic album of the 1980s” と評しているそうです。
”エレクトリック・アルバム”というのがこの場合はどの様な意味なのか、おそらくアコースティックの
反対、つまり80年代におけるエレクトリック・デジタル的な機材ないし技術を駆使したアルバムの
中で最も優れたもの、といったくらいの意味でしょうか。

しかし、本作と同様に高音質でサウンドインパクトがあった作品が他に無い訳ではなかったと思います。
やはり本質的な部分、つまり音楽性の高さがその評価の元になっているのは言わずもがなです。私が
ベストトラックと思っているのが次にご紹介する「Wood Beez (Pray Like Aretha Franklin)」。

副題の”Pray Like Aretha Franklin”は、勿論アレサの名唱でも御馴染のバート・バカラック作
「I Say a Little Prayer」にちなんだもの。今で言うオマージュソングといったところでしょうか。
言うまでもなくアレサと深く関わっていたA・マーディンがいた事が大きく影響しているでしょう。
ただ単に音が良くて、煌びやかなサウンドで持て囃された、というだけではない、少し変わった
スタイルではありますが、その根っこにはブラックミュージックの精神を宿した、グリーン流の
ブルーアイドソウルであったのではないか、と私は思うのです。

#53 Colour by Numbers

前回まで取り上げていた、プリンスやカーズといったアメリカ勢がヒットチャートの上位を
賑わせていた時期、勿論イギリス勢も黙ってはいませんでした。この時期、第2次
ブリティッシュインベンションと呼ばれた英国の、特に若手のミュージシャン達が
アメリカで(つまり世界で)人気の猛威をふるっていました。第1次は言うまでもなく
64年を皮切りとしたビートルズやストーンズをはじめとするイギリス勢の世界進出。
そして第2次というのは、80年代前半に興ったニューロマンティックとも呼ばれるジャンルの
ミュージシャン達。デュラン・デュラン、スパンダー・バレエ、ウルトラヴォックスといった
ファッショナブルで非常に見栄えのする人達でした。おい!!あのバンドが抜けてるだろう!
と、オッサン世代はすぐにお気付きのはず。その通り、今回のテーマはカルチャー・クラブです。

 

 

 


ボーイ・ジョージを中心とした白人3人、黒人1人から成るバンド(全員英国人)。82年に
ヴァージン・レコードよりレコードデビュー。このヴァージン・レコードというのが非常に
重要な意味を持っていると私は思います。その後、大メジャーレーベルへとのし上がっていく
会社ですが、ヴァージンの興りはマイク・オールドフィールドなどの非常に先進的な
ミュージシャンを見出した所から始まりました。ヴァージンやオールドフィールドについては
必ず別の機会にて。

バンドははじめにデモテープをEMIへ持っていきますが契約には至りませんでした。しかし、
そのデモを聴いたヴァージンが彼らと契約。英はヴァージン、米ではエピックレコードにて
レコードデビューする運びとなりました。これは当時ヴァージンが米での拠点を持ってなかった為。
1stアルバム「Kissing to Be Clever」(82年)は全英5位・全米14位を記録。きっかけは
当アルバムからの3rdシングル「Do You Really Want to Hurt Me(君は完璧さ)」の大ヒット。
全英1位・全米2位のビッグヒットとなり、一躍スターダムへ昇りつめます。
1stの音楽性はサンバ・カリプソ・サルサ・レゲエ、果てはアルゼンチンタンゴやスパニッシュまで、
といった多種多様なワールドミュージックの要素を盛り込んだダンサンブルポップス、と呼べるもの。
そもそもカルチャー・クラブというネーミングは、アイルランド系でゲイであるB・ジョージ、
英国黒人であるマイキー・クレイグ(b)、ユダヤ系のジョン・モス(ds)、そして
アングロサクソン
であるロイ・ヘイ(g)、といった面子に因るもの。この場合のカルチャーは「多民族・多人種の
文化、ひいては多文化主義」、といった意味合いでしょうか。

しかし、1stには既にその後の音楽性、というかB・ジョージの根っこにある要素だと私は思って
いますが、ソウル・R&Bといったブラックミュージックの匂いが漂っています。
今回かなり、英文のウェブページなども
拙い英語力でもって漁ってみたのですが、B・ジョージの
音楽的ルーツに関する情報は得られませんでした。どうしても、彼についてはゲイであること、
それに基づく”超個性的”なファッション、そして80年代後半からの麻薬所持をはじめとする
犯罪沙汰に関する情報等が先に立ってしまっているようです。
それらの事の陰になって見過ごされてしまっていると思うのですが、彼が非常に優秀なシンガー、
特にイギリスにおけるブラックミュージックをリスペクトしたシンガーの中において、類稀なる
実力を持った人であるという事です。

それが開花したのが、2ndアルバムで彼らの代表作でもある83年発表の「Colour by Numbers」。
全世界で1000万枚以上売り上げた本作にて彼らは時代の寵児となりました。特に本作からの
1stシングル「Karma Chameleon(カーマは気まぐれ)」は全英・全米を含む世界12か国で
No.1ヒットを記録しました。

ブルースハープの使用、ギターの音色にややカントリー&ウェスタンっぽさ、が感じられ、
全米市場を意識したのかな、と思わせる曲であり、結果的に大成功を収めます。ちなみに上記の
PVは間違いなくアメリカを意識して作られました。設定は19世紀のアメリカ。ミシシッピ川を
汽船で行き来する道中を描いたもの。もっともどう見てもリオのカーニヴァル的なオネエチャン達が
出てきてますので、その辺の設定は滅茶苦… もとい、ワールドワイドですが・・・
1stでも参加していましたが、本作では女性シンガー ヘレン・テリーの存在感が更に増しています。
声を聴いただけでは間違いなく黒人女性と思ってしまいますが、彼女は英国白人女性です。
本作にてヘレンをよりフィーチャーしたのは明らかに”黒っぽさ”を狙っての事かと私は思っています。
ゴスペル的ナンバーのA-⑤「That’s the Way」にて、それは特に成功しています。

時系列は前後しますが、彼らのブラックミュージックリスペクトが最も表れたナンバーが、
「君は完璧さ」のヒット後にリリースされたシングル「Time (Clock of the Heart)」。
全英3位・全米2位と前シングルに続き大ヒットとなった本曲は、私が思うに彼らの真骨頂である
ソウル色が明らかに、そして初めて前面に押し出されたナンバーだと思っています。

ちなみに全米で1位を阻んだのは映画「フラッシュ・ダンス」主題歌であるアイリーン・キャラの
「ホワット・ア・フィーリング」。また本曲は英盤では基本的にアルバム未収録でしたが、
当時は日本盤のみ「Colour by Numbers」にボーナストラックとして収録されていました。

はじめにEMIへ持ち込んだデモテープの内容が1stの内容だったか、もしくは既に2ndの音楽性を
示していたのか分からないので何とも言えませんが、#36の記事にて述べた通り、イギリス人には
無いものねだりとでも言うのか、実は強いブラックミュージックへの傾倒があります。仮にこのデモ
にてその片鱗があったとすれば、ヴァージンによる先見の明の勝利、と呼べるものでしょう。
逆にEMIは金の卵を逃したといったところでしょうか。もっとも1stの内容であっても非凡
ならざる音楽性でしたが。

彼らについて語られる時、B・ジョージの外見等の属性ばかりが取り上げられ、また先述した
ニューロマンティックと呼ばれる当時の流行りの中で売れたこともあって、一時期栄華を極めた
アイドルバンドの一つ、と後年になって見なされてしまっている部分があります。しかし
その音楽性は先に述べた通り、当時における最先端のエレクトリックポップやワールドミュージック
などの要素を取り入れながらも、その根底にはソウル・R&Bといったブラックミュージックが
しっかりと根差しており、確固とした高い音楽性を有していたバンドでありました。
私は彼らを、イギリスにおける優れたブルーアイドソウルのバンドの一つだと思っています。
35年経った今聴いても、それは全く色あせていないのです。

#52 Heatbeat City

前回までのプリンス回にて、84年の年間シングルチャート1位はプリンスの「When Doves Cry
(ビートに抱かれて)」と述べました。私の様な洋楽好きのオッサン世代には改めて語る必要は
ないかもしれませんが、全米でもヒットチャートと呼ばれるものは一つだけではなく、
主だったものは三つ、ビルボード・ラジオ&レコード・キャッシュボックスでした。
順位の算出基準に違いがある為当然順位は異なります。「ビートに抱かれて」が1位だったのは
ビルボードであり、ちなみにラジオ&レコードではヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」でした。
ベストヒットUSAにて採用していたチャートはラジオ&レコード。これはFMのリクエスト回数を
元にしている為、レコードセールスその他を総合的に算出基準としていたビルボードとはかなり異なる
チャートアクションになっていました。ついでに言うとキャッシュボックスは西海岸寄りの
チャート付けだったそうです。
アルバムチャートの方を見てみると、ビルボードでは言うまでもなく83・84年共にマイケル・
ジャクソンの「スリラー」(82年12月発売だった為)でしたが、ラジオ&レコードにおける
84年年間アルバムチャートの1位は意外とも言える作品でした。
それが今回のテーマ、ボストン出身のバンド、カーズの5thアルバムである「
Heatbeat City」。

 

 

 


リック・オケイセック(vo、g)を中心とし、78年に1stアルバム「The Cars(錯乱のドライブ/
カーズ登場)」にてデビュー。600万枚の大ヒットとなり注目を浴びます。続く2ndアルバム
「Candy-O(キャンディ・オーに捧ぐ)」もヒットし、初めから順調なスタートを切りました。
その音楽性はアメリカンR&Rにクールなニューウェイヴ・テクノ色を混ぜたもの、とでも
表現すれば良いでしょうか。シンプルなR&Rに、エリオット・イーストンの比較的ハードな
ギターが乗り、そこにテクノポップが加味された独特なサウンドでした。

FMのリクエスト回数は人気の先行指数、レコードセールスは遅行指数とでも呼べるでしょうか。
またマイケルの「スリラー」を引き合いに出すのも何ですが、レコードは引き続いて売れていた
84年において、ラジオ&レコードの方では既にチャートの上位から姿を消し、代わって
伸びてきたのは前回まで取り上げていたプリンスの「パープル・レイン」やカーズの本作でした。

MTVが台頭し始めたこの時期に、実に魅力的なビデオクリップを制作したのもヒットの大きな
要因でしょう。同年から創設されたMTVビデオミュージックアワードの第1回にて、マイケルや
シンディ・ローパーなどの他ノミネートを抑え、上記のシングル曲「You Might Think」の
プロモーションビデオは見事に最優秀ビデオ賞を受賞しました。

本作からの第3弾シングルであり、彼らにとって最大のシングルヒットとなった「Drive」。
本作の、というよりも彼らの全作品中におけるベストトラックと私は思っています。
浮遊感のあるカーズ独特のスローナンバー。”彼ららしく”ただの甘ったるいラブソングとは
なっていません。歌詞の解釈はかなり人によりけりですが、”Who’s gonna drive you home
tonight(今夜は誰がきみを家に送るんだろう…)”という一節はかなり意味深です。

翌85年には新曲を含むベスト盤をリリース。こちらも大ヒットし、この頃が全盛期であったでしょう。

決して米ポップミュージック界におけるメインストリームな存在というバンドではありませんでした。
かといって超個性的な音楽を演り、一部のコアでマニアックなファンだけから好かれた、という訳でも
ない。本流・主流からは少し離れた所に居ながら一定の支持を集めていた、決して貶める言葉ではない
良い意味での、”B級バンド”という表現がぴったりはまる様な存在だった気がします。

88年にバンドは解散。00年に中心メンバーであったベンジャミン・オール(vo、b)が亡くなった事に
より、オリジナルメンバーで再結成を果たすことはなくなってしまいました。しかし10年には
ベンジャミン以外のメンバーにて活動を再開。11年には24年振りとなる新作をリリースしました。

ニューウェイヴやテクノポップといった音楽の要素が決して普遍性を持ったものではないため、
35年余り経った現在では、勿論新しい波でもなく、そのテクノロジー(シンセやエレドラの音色等)
などは古臭く感じるものでしょう。リアルタイムで聴いていた私などはノスタルジーが先に立って
しまい客観的に聴くことが困難な面があります。30代以下の若い世代の方たちには彼らの
音楽がどのように聴こえるのか、ちょっと興味があります。古臭い・つまらないと一蹴されるか、
逆に一周回って新鮮に感じたりするのか…。ただし一つだけ言えるのが、カーズというバンドは
その時代の流行りに乗っただけではなかった、という事。ニューウェイヴ・テクノといった要素は
表層に過ぎず、彼らの本質は他のアメリカンロックとは一線を画する、どこか冷めた、その歌詞など
を含めた彼らなりの(イギリス人とはまた違った)皮肉・ペーソスを漂わせた音楽性にあったのでは
ないかと私は思っています。先述の「You Might Think」や81年のシングルヒット「Shake it up」
といった一聴するとポップでキャッチーなR&Rと、これも先にあげた「Drive」の様なスローナンバー
にも、そのいずれにおいても奥底には同じ様な”クールさ・憂い”があって、人々は意識的か無意識にか、
彼らに他とは違う魅力を感じ取ったのではないか、と私は思っています。そしてそれは時代に
左右されない彼ら独自の音楽性であるので、若い方の中にはその音楽に魅かれる人達もいるのでは
ないでしょうか。もっともただのオッサンの妄想、と言われてしまえばそれまでなのですけど・・・

#51 Around the World in a Day

「パープル・レイン」のビッグセールスにより、プリンスは自らのレーベルである”ペイズリー・パーク・
レコード”を設立します。これでこれまで所属していたワーナー・ブラザーズにあれこれ言われずに
自身の望む作品が創れる、と思ったのでしょうか、彼はとんでもないものを創ってしまいました。
勿論自身のレーベルとは言ってもワーナー傘下であることは変わりないのですが、それでもワーナーからの
”横やり”はかなり少なくなったそうです。前作の超大ヒットによって、天下の大レコード会社ワーナーも
プリンスには一目置くというか、慮った対応をしなければならない状況だったようです。
前作からわずか10ヶ月余りで新作「Around the World in a Day」をリリースします。

 

 

 


”続・パープル・レイン”を作れば再度のメガヒットは間違いなかったでしょう。しかし彼の様な天才肌に
とっては全くとまでは言いませんが、そのような事にはあまり関心が無かった、というか無くなって
しまったのかもしれません。出来上がった新作は世間の期待を(良い意味で)裏切るものでした。

80年代版「サージェント・ペパーズ」とでも呼ぶべき本作。私はリアルタイムだったので断言出来ますが、
当時、ファッション等の他分野では違ったかもしれませんが、少なくともロック・ポップス界において、
60年代後半におけるサイケデリックのリバイバルブームなどはありませんでした。
プリンスの新作がまさかこの様な内容とは…、皆があっけにとられたのです。
”パープル・レイン第2弾”を作っていたならば、評論家達はまた”前作に引き続き売れ先に走った…”とか、
”天才プリンスと言えど商業戦略には抗えなかった”などとこき下ろしていたでしょう。
前回の記事にて、少なくとも日本の評論家筋が前作に漂うサイケデリック臭には触れていなかったと
断言できると大見得を切りました。その根拠は、皆が本作の内容に驚愕し、そして絶賛したのです。
もしも「パープル・レイン」に本作の予兆を感じ、その事を発言ないし文章化していたとすれば、
鬼の首を取ったように”それ見た事か!俺はこれを予言していたぜ!!”と自画自賛していたことでしょうが、
当時の記憶でも、また今回かなりネット上で検索してみてもそれらは見受けられませんでした。
売れっ子は批判するもの、という様なスタンスのロックミュージック売文家達も、流石にこれは見事と
認めざるを得なかったのです。

今調べてみると、むしろ海外での評価の方が様々だったようです。日本の評論家は一般ウケしそうにない
作品を作った方が高評価するきらいがあるようですが、欧米ではコマーシャリズムも大事な要素と
捉えているのかもしれません。
またプロモーションにもあまり力を入れず、1stシングル「Raspberry Beret」がシングルカット
されたのもアルバムリリースより1ヶ月後でした。そもそも前作から1年も経ていないのに新作を
出すということは営業戦略上好ましい事ではありません。前作をきっちり売り切って、あれ程の
メガヒットであれば、シングルも出せるだけ出して、きっちり収益を回収したうえで、その後に
次作の制作及び販売促進に取り掛かるのが通常です。
80年代のプリンスは楽曲やアイデアが湧き出てきてしょうがない様な状態だったのでしょう。
異常とも言えるハイペースでアルバムをリリースしていきます。「Parade」(86年)、
「Sign o’ the Times」(87年)と従来の音楽性から別方向へ向かった様な作品へと
変容を遂げていきます。
本作のエンディングナンバー「Temptation」は、「Parade」の音楽性を既に表していました。
R&R、R&B、ブルースといったルーツ的なアメリカンミュージックから、フリージャズや
アヴァンギャルドミュージックといった要素までを含んだ8分超のこの曲は、その後の布石の様な
ものだったのかもしれません。

以前の記事#2にて、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」を取り上げましたが、その中で
評論家の萩原健太さんによる”これはロックではなく、その時点におけるブライアン・ウィルソン
なりのアメリカンミュージックの集大成では…”、といった言葉について触れました。
全くの私見ですが、この時期のプリンスは60年代半ば~後半におけるブライアンに少し相通じる
様な気がします。「ペット・サウンズ」~「スマイル」にて既存のロック・ポップスといった
カテゴリーには収まり切らなくなってしまったブライアンの溢れ出てくる創作意欲。80年代半ば~
後半においてのプリンスもこれに近い感覚だったのではないかと私は勝手に思っています。
90年代以降は必ずしも順風満帆といったミュージシャン活動ではなくなったようです。
詳しくはウィキ等をご参照ください。

亡くなる前年のグラミー賞にて、プレゼンターとして壇上に立った彼は、『アルバムって覚えてる?』
というスピーチを残しました。00年代からダウンロードそしてストリーミングへと、音楽の購入の
仕方が劇的に変わり、楽曲単位で買うことが出来るようになったため、アルバムを丸ごと購入せずに
聴きたい曲だけを買えるようになりました。これの功罪については特に言及しません。ただ、
60年代半ばから、「ペット・サウンズ」や「サージェントペパーズ」をはじめとして、
アルバムがただ単にシングルないしは出来の良い楽曲の寄せ集めでなく、それらが同一のアルバムに
収録された事、さらにはその曲順やジャケットデザインまでを含めて意味を持たせた先達たちの功績
(勿論プリンス自身を含めた)を忘れて欲しくない(幾分皮肉も混じっていたかもしれませんが…)、
という思いから先のスピーチに至ったのではないでしょうか。

以上で3回に渡ったプリンス回は終わりです。それで、これからしばらくは今回取り上げたプリンスが
全盛期であった時代でもある80年代の音楽を中心に書いていきたいと思います。
テレコ(ラジカセ)・FM雑誌・カセットレーベル・エアチェック、そしてLPレコード等々…。
私を含めた40代後半から60歳位までのオッサン世代にとっては生唾ゴックンものの記事を
書いていきます、乞うご期待・・・ あっ、念の為言っときますが、生唾ゴックンものといっても
エッチなやつじゃないですよ… わかっとるわ!!! ━━(゚Д゚#)━━(…とでも突っ込んどいて下さい…)