#69 Tooth and Nail

前回も触れましたが、イアン・マクドナルド アル・グリーンウッドが脱退した事により(実際ははじめのうちはレコーディングに参加していた)、4thアルバム「4」からその音楽性も変化したと一般には言われます。前作がロック色の強いアルバムであったことと、シングルヒットした「Waiting for a Girl Like You(ガール・ライク・ユー)」の印象が強いせいもあってか、ポップになった、バラードで売れ線を意識するようになったなど、毎度の如く(特に日本の一部の評論家による)批判的な評価がなされたそうです。二人の脱退が影響を及ぼした事は間違いありませんが、その音楽が軟弱になったなどとは私は全く思いません。

前回の枕の部分で話に出した「ガール・ライク・ユー」のチャートアクションについてですが、ある意味No.1ヒットとなるよりもかえって後世に語り継がれる結果となったのかもしれません。ちなみに2位どまりだったのはビルボードとキャッシュボックスであり、ラジオ&レコードでは1位を記録していて、逆にオリビア・ニュートン・ジョンの「フィジカル」が2位どまりだったそうです。

 

 

 


フォリナーにとって最大のヒットにて代表作「4」。本作について昔は1000万枚以上のセールスを記録したと言われていて、現在本作について検索してみるとその売り上げは1500万枚に及んでいるとの記述が幾つかのサイトで見られました。80年代で既に1000万以上だったのだから、今日ではその位のセールスに達していてもおかしくはないかと私も思っていたのですが、調べてみるとこの数字には疑義がある事が判りました。1500万枚という数字の元になったのは、日本版ウィキのフォリナーに関するページに記述されているダリル・ホールのコメントの様です。#58でも取り上げた「プライベート・アイズ」をレコーディングしている時期に、隣のスタジオでフォリナーも「4」の制作に取り掛かり始めたらしく、ホール&オーツが録音を終えツアーに出て、また同じスタジオに戻り次作の制作を始めた時点でも、彼らは隣でまだ「4」のレコーディングを行っていた。しかしそれは自身達の「プライベート・アイズ」の15倍も売れたのだけれど… つまりそれだけ時間がかかった作品の様だったけど、自分達よりも爆発的に売れたんだけどね、というちょっとした笑い話。このインタビューがいつ頃、何処でのものなのかは調べても判りません。「プライベート・アイズ」もプラチナディスク(米では100万枚)を獲得していますので、その15倍という事で1500万枚という売り上げの根拠になったのだと思います。このコメントが本当にあったものだとすれば、ダリルが単に間違っていただけで、その位「4」はバカ売れしたという例え話です。しかし英語版のウィキを見ると、1500万枚はおろか1000万以上という記述もなく、あるのはRIAA(全米レコード協会)が認定した”6 Platinum”(つまり600万枚)の記述です。ウィキも絶対ではないので、念の為RIAAのサイトに行って確認しましたが(物好きだね…(´・ω・`))91年8月に『6x Multi-Platinum』と認定されていますので、これは信頼できる数字でしょう。
欧州各国では英での30万枚を筆頭に数十万から数万枚(ヨーロッパではこれでも大ヒットです)のセールスですので、1500万は勿論のこと1000万枚というのも怪しくなってきます。実際は世界中で700~800万枚といったところだと思われます。それでもビッグヒットには変わりませんが・・・

84年12月、「Agent Provocateur」を発表。1stシングル「I Want To Know What Love Is」が初の全米No.1シングルとなります。「ガール・ライク・ユー」の無念を晴らしたと言った所でしょうか。本作は基本的に前作の流れを汲むもの。しかし81年と84年、たった3年の差ですがこの時期ポップス界は楽器の音色・レコーディング技術に関して目覚ましい変化が起こっていたことはこれまでの記事でも触れてきましたが、本作も例外ではなく特にシンセやドラムの音色がこの時代らしいものになっています。1stシングルがバラードだったこともあってか、先述の様な評論家達による批判がこの時もあったように記憶しています。人の創ったものにケチをつけるだけのカンタンなオシゴトです
(´・ω・`)………

オープニング曲「Tooth And Nail」。骨のある硬派なロックナンバーです、売れ線とかほざいていた人達の気が知れません。もう一つガッツリとしたロックチューンを、A面ラスト「Reaction to Action」。

ミック・ジョーンズは決して速弾きを得意とするテクニカルなギタリストではありませんが、硬質でありながら粘り気の様なものも併せ持つ非常に個性的なプレイヤーだと思います。この点ではAC/DCのアンガス・ヤングに通じるところがあるように感じています。どちらもギブソン使い(ミックはレスポール、アンガスはSG)という共通点もあり、パワフルなトーンはそれに起因する所も大きいでしょう。そういえばギブソンは破産してしまいましたね、無理な事業多角化が裏目に出たらしいですが、ギター事業は継続するようです。高くて手は届きませんが……
…(´Д`)

これだけのビッグセールスを誇ったフォリナーですが、よく同じジャンルにカテゴライズされるジャーニー、スティックスなどと比べると日本での知名度はいまいち低いものでした。80年代までは情報源が雑誌・ラジオ・テレビと限られていたため、それらで取り上げられないと売れないという側面があったためでしょう。
オリジナルメンバーはミックのみとなりましたが、現在でもフォリナーは現役です。40年以上に渡り一度も解散せず活動を続けており、ビーチ・ボーイズ、ローリング・ストーンズがロック・ポップス界における現役最古参ではありますが、フォリナーは彼らに次いで継続した活動を歩んできた数少ないバンドでしょう。懐メロを期待するリスナー向けのバンド、の様な酷評をする人達もいますが、続けても続けなくてもケチをつける人はいつの世にもいるものです………懐メロ、大いに結構! 時が経てばどんな最先端でもいつかは懐メロになる日が来るのですから。

#68 Feels Like the First Time

前回の80年代に活躍した女性シンガー回にて、奇しくも80年と81年の年間シングルチャートNo.1について触れました(ブロンディとキム・カーンズ)。そして82年の年間シングル1位も女性シンガーによるものでした。言わずと知れたオリビア・ニュートン・ジョン最大のヒット、ビルボードで9週に渡って(10週という説もあり)首位を独走した「Physical(フィジカル)」。あまりにも有名な曲なので今更説明の必要もないでしょうし、また今回取り上げるのは本曲やオリビアについてではありません。この頃の洋楽にある程度詳しい人なら既知の事でしょうが、「フィジカル」に阻まれて1位になれず、史上最も長くチャートの2位に甘んじた(悲劇の?)曲というのがあります。フォリナーによる81年発表の「Waiting for a Girl like You(ガール・ライク・ユー)」がそれです。

 

 

 


フォリナーは76年、N.Y.にて結成されたバンド。イギリス人とアメリカ人それぞれ3人ずつ、6名から成るグループで、バンド名の「Foreigner」(=外人・よそ者)はそれに由来するもの。#15~17で取り上げたキング・クリムゾンの結成メンバーであったイアン・マクドナルドやミック・ジョーンズ(g)らの英国側と、ルー・グラム(vo)をはじめとする米国側の混成バンドでしたが、イアンをはじめとして各々が既に活躍の実績があったので、所謂”スーパーグループ”と結成当時は持て囃されたそうです。

77年、1stアルバム「Foreigner(栄光の旅立ち)」にてレコードデビュー。上記のシングル曲「Feels Like the First Time(衝撃のファースト・タイム)」と共に大ヒットし、バンドは順風満帆の出発となりました。やはりイアン・マクドナルドの影響からか、初期のフォリナーにはプログレッシヴロックの香りが漂っています。これは2nd以降は薄れていき、ミックとルーがイニシアティブを取るようになるにつれてイアン色は影を潜めていき、やがて脱退に至ります。2ndアルバム「Double Vision」(78年)は1stを上回るセールスを記録し、バンドは更に上り調子に。本作からシングルカットされた「Hot Blooded」(全米3位)、「Double Vision」(全米2位)も共に大ヒット。その人気を決定的なものとしました。

3rdアルバム「Head Games」はタイトなロック色を強めたアルバムとなり、これまた大ヒット。本作を最後にイアンとアル・グリーンウッド(key)が脱退したと一般には言われていますが、実は二人は、次作でバンド最大のヒットとなった代表作「4」のレコーディングに途中までは参加していたそうです。本作から「Dirty White Boy」、多分口パクですが・・・

この様に、70年代の彼らは当初においてはプログレ色も併せ持ったロックンロールバンドであり、次第にその音楽性はタイトかつハードなロックへと移り変わっていきました。やがてフォリナーは「ガール・ライク・ユー」に代表作されるバラードがシングルとしてヒットしたこともあり、特に日本の一部の評論家・ライターと称する人物達から、バラード重視の売れ線バンドの様なレッテルを張られる事が多々ありました。この点においてはジャーニーなどと同じく不当かつ無礼な評価がなされていました。ロックバンドがバラードを作る事が悪いなどと微塵も思いませんし、そもそも商業音楽において売れるのを意識する事を否定していたら、その音楽自体が成立しません。80年代までは情報が限られていた事もあり、先の評論家と言われる人物たちの影響を受けてしまう事がなかなか避けられなかったのですが、インターネット時代になり彼らの評価が非常に偏った、言ってしまえばただ彼らの好みに基づくものだったのだということに気づく人が大勢を占めるようになって、現在ではさすがに先述の様な不当な評価を鵜呑みにする人は減ったようです。結局は聴き手がそれぞれ自分で判断すれば良いのです。

70年代のフォリナーの音楽が最も端的に表れていると私が思うのが、2ndに収録された「Hot Blooded」。私の世代だと82年にリリースされたベスト盤「Records」のエンディングに収録されたライヴヴァージョンが印象に残っています。本盤に収録された演奏がいつのものなのか、調べても結局わかりませんでしたが、記憶の限り下の動画が一番近い様な気がしますので今回はこちらを。81年ドイツでのライヴという事なので、時期的にもこの頃だったのではないかと勝手に思っています。ライヴならではのテンション感が素晴らしい。

思ったより長くなってしまい、今回は70年代についてまでしか書くことが出来ませんでした。なので2回に分けます。次回は80年代に入ってからのフォリナーについてです。

#67 Girls Just Want to Have Fun

前回までのジェフ・ポーカロ及びTOTO回にて、ジェフとスティーヴのポーカロ兄弟がジャズ界の”帝王” マイルス・デイヴィスと交流があり、TOTOのアルバムにおいてマイルスがプレイした、という事は書きました。80年代のマイルスはロック・ポップスの曲を積極的に取り上げていました。スティーヴ・ポーカロがマイケル・ジャクソンへ提供したビッグヒット「ヒューマン・ネイチャー」、#54で触れたスクリッティ・ポリッティの「Perfect Way」等。特にヒューマン・ネイチャーと共にステージでも好んで演奏していたナンバーがあります。今回取り上げる、シンディ・ローパーが83年にリリースした「She’s So Unusual(当時の邦題は『N.Y.ダンステリア』)」からのNo.1ヒット「Time After Time」がそれです。今回はシンディをはじめ、80年代に活躍した女性シンガー達を取り上げてみたいと思います。80年代にデビュー及び活躍した女性シンガーと言えば、マドンナ、ホイットニー・ヒューストン、ぎりぎり80年代後半にデビューしブレイクしたカイリー・ミノーグなどが挙げられると思いますが、先に言っときます、彼女たちは取り上げません… ━(# ゚Д゚)━なんでやねん!! と言われてもしようがありません。私が彼女たちについて詳しくないからです・・・

シンディは1953年、ニューヨーク生まれ。決して恵まれた少女時代を過ごした人ではありません、この生い立ちが彼女の歌にある、明るいのにそこはかとなく哀愁を感じさせる要素なのかと私は勝手に思っています。音楽の道を志してからも決して順風満帆な道のりではありませんでした(詳しくはウィキ等をご参照)。当アルバムから翌84年にシングルカットした上記の「Girls Just Want to Have Fun(当時の邦題は『ハイ・スクールはダンステリア』)」が大ヒット、この時シンディは既に30歳を過ぎています、遅咲きのブレイクでした。前述の「タイム・アフター・タイム」や映画『グーニーズ』のメインテーマ、2ndアルバム「True Colors」からのやはりNo.1シングルであるタイトルナンバーなど、ヒット曲は数多くありますが、シンディのオリジナリティを最も端的に表しているのは上の「ハイ・スクールはダンステリア」だと思います。ちなみにビデオクリップの冒頭に登場している女性はシンディの実のおかあさんです。
当時のベストヒットUSAにて彼女が出演した際、小林克也さんに『・・・ハリウッドスマイルはこうよ」と言って歯をむき出しにしてニカっと笑う彼女のサービス精神は微笑ましいものでした。ちなみにマドンナについて同番組では、『こんなにもオンエア時とそうでない時の差が激しい人はいませんでした』と、非オンエア時の愛想無くつまらなさそうな顔をしている彼女と、オンエア時のニコニコしている顔を対照的に続けて放送していました(多分総集編の回にて)。結構辛辣ですよね、克也さんも・・・
大変な親日家であり、売れない頃に日本人が経営するレストランで世話になった経緯があるそうです。

お次はN.Y.で結成されたバンド ブロンディ。紅一点のヴォーカリスト デボラ・ハリーを中心とし、70年代後半から80年代前半に活躍。80年の年間シングルチャート1位を記録した「Call Me」が最も有名でしょう。こういう事を言うのは何ですが、デボラの容姿がとにかく端麗で、それが人気の一因になったことは否めないでしょう。マドンナの登場によりそのお株を奪われた感がありますが、それ以前の米ポップス界におけるセックスシンボルはデボラとされていたそうです。
「コール・ミー」がビートの効いたロックナンバーなので、バンド自体がそういう音楽性なのかと私も昔は思っていましたが、どちらかと言えばニューウェイヴやディスコを基調としていたとの事。今回調べて初めて知ったのですが、「コール・ミー」は確かに作詞作曲はバンドによるものですが、映画『アメリカン・ジゴロ』のサントラとしてリリースされた本曲は、演奏はバンドによるものではなく、デボラも歌入れに3時間ほどスタジオに入っただけで、それ以外は彼女達とは無縁の所で作られたらしく、それが最大のヒットになってしまったのは皮肉めいた気がします。なので今回取り上げるのは「コール・ミー」に次ぐヒット曲、79年の「Heart of Glass」です。ギリギリ80年代ではありませんが、1年くらい大目に見てください。こちらの方がブロンディらしいですし、PVのデボラがとにかく美しい…

最後に取り上げるのは「コール・ミー」の翌年、81年における年間シングルチャートNo.1である超ビッグヒット キム・カーンズ「Bette Davis Eyes(ベティ・デイビスの瞳)」。

そのキャリアは長く、66年にフォークグループでのデビュー以降、80年まで決して目立ったヒットはありませんでした。しかし潮目が変わったのが80年、「More Love」のヒットにより一躍スターダムへ。彼女の魅力はとにかくそのハスキーヴォイスにあるでしょう、唯一無二の声とは彼女の様な声です。ジャニス・ジョプリンを彷彿させ、また男性で言えば#36で取り上げたジョー・コッカーやロッド・スチュワート的な声質と呼べるものでしょうか。
「ベティ・デイビスの瞳」の原曲はジャッキー・デシャノンが75年に発表したもの。私も名前くらいしか知らなかったのですが、オリジナルを聴いてよくぞこの様にアレンジしたものだと改めて関心しました。

シンディは勿論の事、デボラとカーンズも1945年生まれの同い年ですが、共にシンガー・女優業を含めて現役活動中です(なんと御年72歳!女性に失礼・・・)。彼女たちの様なたくましい女性を見ると、50歳も近いから最近は心身共に調子が・・・などと言っている己が恥ずかしく思えてきます・・・
(´Д`)・・・

年初からの80年代特集はまだまだ続きますよ・・・誰も覚えてませんかね・・・( つω;`)ウッ …

#66 Jeff Porcaro_4

ジェフ・ポーカロ回その4、今回が最後となります。
ジェフはドラムソロを演りませんでした、頑ななまでにそれを拒み、否定しました。インタビューの中でジェフが唯一認めたものは、エルビン・ジョーンズなどごく一部のジャズドラマー達によるソロプレイでした。おそらくジェフが嫌っていたドラムソロというのは70年代辺りから始まった、ヘヴィメタル・ハードロックなどにおける長尺のドラムソロを指していたのではないかと思われます。音楽の流れとは無縁の、ジェフが言う所の”これ見よがし”のソロプレイを否定していたようです。ドラムに限らず単一の楽器で長いソロ演奏を行うのは大変難しいものです。ただの技術のひけらかしにならず、ストーリー・起承転結がしっかりとしていて”音楽”として成り立っているものは、ジャズにおいても難しく、ましてやロック界ではあるのかどうかも疑問です。ジェフは”音楽本位”の考え方で、どんな超絶技巧も音楽を阻害してしまっては意味が無い、というスタンスだったのでしょう。この考えは全く正しいと思います。
上の様な事を書いておいてなんですが、でもやはりジェフが”はじけて”プレイしているところも聴いてみたい、という気持ちもあります。それであれば何と言ってもこれ、#64でも触れた「The Baked Potato Super Live!」です。スティーヴ・ルカサーもそうですが、全編に渡って実に”はじけた”演奏を繰り広げている、80年代フュージョンシーンにおける名盤の一つです。当アルバムから私がベストトラックと思うものを。

ジェフとルカサーの羽目を外した様なプレイも圧巻ですが、グレッグ・マティソンは勿論の事、クルセイダーズにも在籍していたベーシスト ロバート・ポップウェルのプレイも大変素晴らしく、ジェフとポップウェルの絡みをもっと聴いてみたかったものです。ちなみに動画ではタイトルは「I Dont Know」となっていますが、正しくは「Go」のようです。

ジェフはジャズドラミングには自信をもっていなかったそうです。父親がジャズドラマーで、幼少からその手ほどきを受けてきたのですから、テクニックのルーツがジャズにあるのは間違いない事なのですが、本人が自身のプレイに納得いっていなかったようです。しかし数少ないながらジャズドラミングのプレイも残しています。#63でも触れたスティーリー・ダン「Katy Lied(うそつきケイティ)」に収録されている「Your Gold Teeth II」。一筋縄ではないかなりの難曲ですが、本人が苦手だ、などと言っているのは信じられないほど、ジャズビートのパートは見事にスウィングしています。

上記のジャズドラミングの話ともつながる事ですが、ジェフはかなり自分に厳しい人だったようで、これだけのテクニックとグルーヴ感を持っていながら、自身のプレイには簡単に納得しませんでした。あるインタビューで自身のプレイについて尋ねられた彼は以下のように答えています。『だいたいタイムがひどい。そりゃ上を見ればジム・ゴードンとかバーナード・パーディ、ジム・ケルトナーとかきりがないが、それにしても僕のタイムはカスだよ。~(中略)~自分で納得のいく出来だと思えるのは今までにふたつくらいだな。ひとつはスティーリー・ダンとのやつ。あれが自分としては最高のパフォーマンスだと思う。それからボズ・スキャッグスの「シルク・ディグリーズ」だ。』貴方にそんなことを言われたら我々はどうすれば良いのか・・・
(´Д`)と思ってしまう様なコメントです。
しかし全くの私見ですが、この発言は同時に”だけどオレのようにプレイできるやつは何人いるかな?・・・”
のような、ある意味逆説的な自信も表すコメントであったのではないかと私は勝手に思っています。

またジェフはドラム、ひいては音楽に対して一歩距離を取った姿勢を貫いていました。インタビューで、『音楽が全てなんて姿勢でいたら消耗してしまう。僕の場合は美術とか庭造りとか、他にもいろいろ関心があるし、そうやってバランスをとっている。僕は庭師かインテリアコーディネーターになりたかったんだ。』と答えています。この考え方はとても興味深いものです。勿論音楽が嫌いだったなどという訳ではないでしょう。しかし創造的な仕事をするためには、視野が狭くならないように、木を見て森を見ずにならないように、その他の事柄からもインスパイアを受けられる状態・環境に身を置いていた方が良い、という様な意味合いだったのではないしょうか。

ドラムという楽器はリズムを打ち出すものであり、伴奏・バッキングをその役割としているので、当然の事ながらフロントに出てくるパートではありません。ジェフは更にソロプレイをも否定したプレイヤーでしたので、なおさら矢面に立つはずではない人だったのですが、死後25年以上経った現在でも彼の功績は讃えられ続けています。それはひとえに音楽本位のプレイを貫き、下手なギミックなどを決して演らず、自らの職分を果たすことに一途な姿勢が、数々の名曲・名演を産み出した事への、本質をわかっている聴衆達からの評価が絶えないからに他なりません。
最後にお届けするのは上記の事が最も表れていると私が思うもの。スティーリー・ダンの活動を休止したドナルド・フェイゲンが82年に発表したポップミュージック史に残る傑作「The Nightfly」。本作に収録の「Ruby Baby」。リーバー&ストーラーによるこのオールディーズの名曲を、フェイゲンが見事に”料理”したもの。ジェフは徹底してタイトかつシンプルなプレイを貫き、この”クール”な名曲を形創る事に成功しています。決して超絶技巧といったプレイではありません。しかし本曲におけるフレーズ・音色・グルーヴ感は、これをなくして本曲は成立しなかったと言えるものです。

以上でジェフ・ポーカロ回はおしまいです。多分忘れ去られていると思いますが、年初からの80年代について取り上げていくというテーマは続いております。次はなんでしょう・・・

#65 Jeff Porcaro_3

ジェフ・ポーカロ回その3。
10インチのタムタム(中太鼓)をドラムセットに組み込み、一般化させたのもジェフの影響が大です。一般的なドラムセットはハイタムが12インチ、ロータムが13インチ、演奏者から見て右側に直接床に置く(勿論脚を立てて)フロアタムが16インチでした、今でも基本はそうだと思います。ジェフはハイタムの左側に10インチのタムをセッティングしました。通常のハイタムよりさらにピッチの高いタムが加わることにより、フレーズ(特にフィルイン)に幅で出て、また個性も増しました。80年代はジェフの様な3タムのセッティングがロックドラムのスタンダードとされた程でした。同じく10インチのタムを一般化させた人にスティーヴ・ガッドがいます。ただガッドはハイタムの位置に10インチを持ってきているのが異なります。タムタムの中では普通ハイタムが最も使用頻度が高いので、ここに二人のドラマーの個性が表れています。ガッドも勿論ポップス寄りのセッションも数え切れない程こなしましたが、小口径のドラムに柔らかくドラムヘッドを張り、全体的なピッチはロックドラマーのそれよりは高いものでした。そしてそれはその後におけるフュージョンドラマーの音色のスタンダードとなりました。それに対してジェフは、フュージョン系の仕事もたくさんやりながらも、基本的にはロックドラムの音色でした。10インチの音色は必要としましたが、やはり迫力あるロックドラムのサウンドを欲したのでハイタム(12インチ)の脇にセッティングしたのでしょう。もっともインタビューにてタムの配置を入れ替える時もあると言っていたので、この限りではない場合もあったようです。ガッドの10インチは「トゥーン」といった感じの日本の鼓を思わせる柔らかい音。一方ジェフのそれはもっとパーカッシヴで、大げさに表現すると「パカッ」といったインパクトのあるサウンドでした。

70年代中期から80年代にかけて、第一線のセッションドラマーとしてよく比較されたこの二人。東(N.Y.)のガッド、西(L.A.)のポーカロといった具合に米国を代表するドラマーとされました。年齢は10歳近く違いますが(ジェフの方が下)、とにかく様々な作品で彼らの名がクレジットされています。同じアルバムで二人がそれぞれプレイしているというものもかなりあり、比較して聴くのも面白いです。マイケル・マクドナルドの1stソロアルバム「If That’s What It Takes(思慕:ワン・ウェイ・ハート)」などがその好例で、ガッドが6曲・ジェフが3曲をプレイしています。ここでそれぞれのプレイを聴いてみましょう。ジェフによる「That’s Why」並びにガッドの「Love Lies」です。

ジェフはハードウェア面でも独自のアイデアを産み出しました。パール社と共同開発したラックシステムがそれです。普通ドラムセットでは、タムタムはベースドラムにマウントしたホルダーにセッティングし、シンバルはシンバルスタンドにセットします。ラックシステムではアルミ製のラックにこれらをセッティングするのです。タムタムをホルダーを介してでもベースドラムと繋がっているということは、多少なりとも互いの鳴りに干渉しているという事なので、これを防ぎより自然な鳴りを引き出すことが可能です。またシンバルの枚数が多くなると、シンバルスタンドが林立することになり、これの解消にもつながります。スタジオやコンサート会場でのセッティング作業の効率化を図るための、セッションミュージシャンとしてのジェフならではのアイデアです。

ボズ・スキャッグスの一連の作品などで、ジェフは多少エレクトリック・ドラムを使用していますが、基本的にエレドラ等については否定的考えを持っていました。今回押し入れの奥のダンボール箱から引っ張り出して読み返してみたドラムマガジン87年冬号に、以下の様なジェフのインタビューが載っています。余談ですけどドラムマガジンって(確かベースマガジンも)、昔は年4回の季刊誌だったんですよ。
『・・・でも僕にとってドラムマシンは音楽じゃない。魂も心もない機械に過ぎない。ドラムマシンは大嫌いだよ。悲しくなってくる。~(中略)~アーティストたちはそろそろ機械の音に飽きてきた。どのアルバムも同じ音に聴こえる。みんな、フェアライト等の同じアーティストのスネアドラムのサンプル、融通のきかないビート、こういったものにね。本物のドラマーやリズムセクションでやりたいというミュージシャンは増えてきている。』80年代後半におけるこのコメントは意味深いものです。シンセサイザー・サンプリングマシン・エレドラ・リズムマシン等のデジタルテクノロジーは確かにポップミュージックの在り方を劇的に変化させましたが、やはりそれだけでは満足しない、創り手も聴き手も、本物志向・生楽器への回帰といった方向性が既にこの時期から表れていた。これはジェフだけの特別な考え方ではなかったと思われます。
ただしジェフと言えども、世の流れに全く反していられた訳ではありません。80年代中頃から、TOTOのアルバムで言えば「Isolation」(84年)からゲートリバーブ、コンプレッサーを効かせた”当時の音”となっていきました。派手で、煌びやかで、迫力のある音色が当時のトレンドでしたので、ジェフに限らず多くのドラマーがこの様な音色を採用し、またドラム以外の楽器に関しても同様の事が言えました。音楽がそういうサウンドを欲していたのですから、この流れは致し方なかったと言えます。ただこれは個人的な意見ですが、この様な音色は全てが似たようなものになる傾向があり、プレイヤーのオリジナリティが薄れてしまうという点もありました。十把一絡げでみんな一緒に聴こえてしまうのです。

次回へ続きます。

#64 Jeff Porcaro_2

前回からの続き、ジェフ・ポーカロ回その2です。
おそらくジェフのプレイにおいて最も取り上げられる事の多い4thアルバム収録の「Rosanna」。#62でも触れましたが、この曲自体大ヒットシングルでありTOTOの代表曲の一つであるのですが、ジェフのドラミングを語る上でも大変重要とされるものです。なのですが・・・
あまりにも色々な所で取り上げられており、なにしろジェフによる唯一の教則ビデオ「Jeff Porcaro – Instructional Drum」において、本人がそのドラミングについて語っています。現在はYOUTUBEで観れてしまいますので(なんと良い時代なのでしょう… (*´▽`*)…)、興味のある方はそちらを。ただし「ロザーナ」に代表される”シャッフルビート”というのはジェフのプレイを語る上で欠かせないものなので、今回は他の曲で私が重要と思うものを。そもそも”シャッフル”とは何ぞや?、と思われる方も多いでしょう。どうしても止まらない時は誰かに驚かしてもらう………それは”しゃっくり”!!!
>>>ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ

所謂8ビートと言われるリズムは『タタタタタタタタ』と均等なビートですが、俗に”ハネる”と表現されるビートがシャッフルです。口で言えば『タッタタッタタッタタッタ』という感じ。スキップを踏む様なリズムとでも言えば分かり易いでしょうか。ドラムにおいてはこれを大抵右手でハイハットないしはトップシンバルで刻みます、『チッチチッチチッチチッチ』という感じ。「ロザーナ」を含めたジェフのシャッフルの特徴はこの右手のシャッフルの合間に入る”インサイドスネア” ”ゴーストノート”と呼ばれる左手によるショットにあります。上の『ッ』の所に聴こえるか聴こえないかくらいの音量でスネアをショットします。『チチチチチチチチ』という連続したパターンに2拍・4拍には強いスネアのアクセントショットが入ってあのフレーズが完成します。『チチチチ』、「ロザーナ」の様な16ビートのシャッフルならスネアの入る間隔が倍に長くなり『チチチチチチチチチチチチ』といった具合です。

「ロザーナ」以外でジェフによるシャッフルのプレイで私が推すのは、前回も触れたボズ・スキャッグスの「Silk Degrees」に収録の「Lido Shuffle」。先述のインサイドスネアはとにかくその音量がポイントで、大きすぎてはダメ。かすかに聴こえる位がリズムをグルーヴさせるコツであり、ジェフはそれが絶妙です。技術的には2・4拍の強いスネアショット直後のそれが他のインサイドスネアと均一な音量・タッチで叩かれなければ流れるようなグルーヴになりません。本曲では曲の展開に伴うニュアンスの付け方も絶品であり、はじめはタイトに、盛り上がるにつれてどんどんラフになってきます。ハイハットシンバルのニュアンスの付け方に特にそれが顕著であり、きっちり踏み込んで叩く・少しだけ踏み込みを甘くする・半開きにしてシャーシャーと鳴らす(所謂”ハーフオープン”)。右手もシャッフルのリズムと、シンプルな4分音符を使い分け、さりげない所で楽曲をより良いものに仕上げるプレイがなされています。
シャッフルのインサイドスネアがジェフの専売特許かと言うと勿論その様な事は無く、多くのドラマーが行っています。先述の教則ビデオの中で本人が語っている事ですが、ジェフは偉大なるセッションドラマーの先達の一人であるバーナード・パーディから参考にしたそうです。”パーディ・シャッフル”という言葉がある程にパーディもシャッフルの名手でした。スティーリー・ダンによる80年発表の名作「Gaucho」のオープニング曲「Babylon Sisters」などにおいてそれを聴くことが出来ます。ジェフ・ポーカロ回ではありますが、パーディのプレイも参考のために張ります、是非ご一聴を。

ジェフはサンバをはじめとするラテンフィールのリズムも得意としました。TOTOの4thアルバムからシングルカットされ、No.1ヒットとなった「Africa」が最も知られているかと思います。ラテンフィールを得意としていたドラマーと言えばスティーヴ・ガッドも有名ですが、ジェフのそれはガッドよりもシンプル・タイトなプレイでした。どちらが良い・悪いではなく、ただ”違い”があるだけです。偉大なるジャズフュージョン・ギタリスト ラリー・カールトンの70年代フュージョンを代表する1stソロアルバム「Larry Carlton」。本作に収録されている「Rio Samba」はラリーの重要なライヴレパートリーであるとともに、ジェフのラテンフィールを象徴する楽曲だと私は思っています。

とにかくシンプルです。普通のロック・ポップスにおける16ビートに比べてスネアのアクセントの位置がほんのちょっとずれただけ、と言ってしまえばそれまでです、なのですが・・・
テクニックが必要ないなどとは毛頭思いません(勿論ジェフはやろうと思えば複雑なプレイも出来ました)、しかし本曲のグルーヴは言葉では説明のしようがないのですが、ジェフにしか出来ないものなのです。ちなみに本曲はテンポがどんどん速くなっていきますが、多分意図的なものでしょう。中盤のキーボードソロ辺りが最も速くなり、エンディングでは遅くなっています。ジェフのタイプキープは正確無比とされますが、結果として音楽的に良ければあまりそれにはこだわらなかったのでしょう。アメリカ人は割とそういう所があるようで、日本人やイギリス人の方がこだわるみたいです。「テンポがハシった?それがどうした!グッドミュージックならOKだろ!AHAHA!!」みたいな…

ジェフの技術的な面で特筆されるものとして、ベースドラムによる高速の2連打(ダブル打ち)もよく挙げられます。セットドラムではベースドラム(大太鼓)を床にセッティングし、フットペダルを踏んでそれを打ち鳴らすのですが、速いダブル打ちは技術的にとても難しいものです。ジェフはこれを得意とし、先述の教則ビデオにおいても自ら解説しています。人によってこの場合の奏法は様々ですが、ジェフはスライド奏法と呼ばれるものを使いました。1打目と2打目をペダル上で少しずらして踏む、ペダルの上をスライドされる様に演奏するのでこう呼ばれています。一般的なのは演奏者から見て手前側から向こう側、つまりベースドラム側へ押し出すタイプで、ジェフもこれでした。逆に手前側に引くタイプ、横にずらすタイプ、勿論踏む位置は全く動かさない人もいます。ジェフの場合、脚全体の動きは最小限で、足だけが平行移動している様に見えます。非常にスムーズかつ高速な連打で、ビデオでは9分過ぎ辺りで観れます。このダブル打ちはジェフのプレイの至る所で聴くことが出来ますが、極めつけは何と言ってもこれ。
グレッグ・マティソン・プロジェクトに参加した際の81年のライヴが「The Baked Potato Super Live!」として翌年にレコード化されました。スティーヴ・ルカサーも参加しており、二人とも普段はセッションマンとしては勿論の事、TOTOにおいてもこの頃は抑制の効いたプレイが多かったので、81年12月にL.A.のクラブ『The Baked Potato』で行われたこのライヴでは、共に弾きまくり・叩きまくっています。本作から「Thank You」を。5分50秒過ぎ辺りからのプレイに注目してください、圧巻の一言です。

ジェフ・ポーカロ回はまだ続きます。

#63 Jeff Porcaro

おそらく一人か二人しかいない読者の方にも忘れ去られているかもしれませんが(ひ、一人もいないって言うなー!!━━━(# ゚Д゚)━━━ )、一応ドラム教室のブログです…
前回、TOTOを取り上げましたが、それでこの人に触れない訳にはいきません。そう、今回からのテーマはTOTOの結成メンバーであり、数々のセッションワークで数多の名演を残してきたドラマー ジェフ・ポーカロ(Jeff Porcaro)です。ちなみにドラマー個人を取り上げるのは#20~21でのビル・ブラッフォード回以来であります。一年以上書いてきてようやく二人目です・・・

1954年コネチカット州生まれ。ドラム・パーカッションプレイヤーであるジョー・ポーカロを父に持ち、7歳頃からドラムを始める。プロドラマーとしてのキャリアは、「I Got You Babe」等の大ヒットで知られる夫婦デュオ ソニー&シェール(Sonny & Cher)のオーディションに受かった所から始まります。高校を中退して彼らのツアーに同行したのが72年の事。この頃のソニー&シェールによる作品における演奏者のクレジットが定かではないので、私が調べた限りで間違いなくジェフによるプレイと断定出来る最初のものは、L.A.で結成され「Summer Breeze(想い出のサマー・ブリーズ)」(72年)のヒットで有名なシールズ&クロフツ(Seals & Croft)による73年発表「Diamond Girl (僕のダイアモンド・ガール)」に収録の「We May Never Pass This Way Again(この道は一度だけ)」。本作にはハーヴィー・メイスンやジム・ゴードンといった当時L.A.における所謂”ファーストコール”のトップドラマー達も参加していますが、本曲は間違いなくジェフによるプレイです。ちなみに後にTOTOを共に結成するデヴィッド・ペイチも参加しています。

この時ジェフは若干19歳、しかしツボを心得た”歌モノ”のバッキングの仕方は既に完成されています。ちなみに本曲はアメリカでは卒業式・結婚式など門出の席で歌われる定番曲だそうです。ソニー&シェールの下では週に1500ドルの稼ぎを得ていたジェフですが、何とその後週給400ドルでスティーリー・ダンと契約します。以前から彼らの音楽には強い興味を覚えていて、是が非でも参加したいと思ったそうです。ジェフがほぼ全面的にプレイしているのは75年の「Katy Lied(うそつきケイティ)」。ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーの二人は勿論、当時スティーリーに参加していたマイケル・マクドナルドともここで接点を持ちます。後に彼らと素晴らしい名盤を創り上げていくのは周知の事実です。本作ではオープニング曲の「Black Friday」が有名であり、ここでのシャッフルビートも勿論素晴らしいのですが、ジェフのグルーヴ・音色を最も堪能できると私が思うのは次の「Bad Sneakers」です。

ジェフの使用機材と言えばパールのドラムにパイステシンバルというイメージが強いですが、パールとエンドース契約を結ぶのは83年の事。わずかな資料しか探せなかったのですが、70年代はラディック・グレッチ等を使用していたとの事で、ラディックはリンゴ・スターの影響によるもの。スネアはスリンガーランドの名器『ラジオキング』をメインに使っていたそうです。タイトでありながらしっかりと鳴っているそのスネアは少なくとも80年代初頭まで使われたのではないかと思われます。木胴(単板メイプル)らしい温かみのある音はこの時期のジェフを象徴する音色です。80年代前半辺りから、ラディック ブラックビューティーやパールのスネア(共に金属胴 ブラスシェル)を使用するようになりましたが、個人的にはジェフのスネアはウッドシェルの音色が好みです。勿論セッションによって機材は変えていたらしいので、全てがそうではない事は言わずもがなです。

おそらくジェフのセッションワークで最も語られることの多いボズ・スキャッグスの名盤「Silk Degrees」(76年)。ジェフ本人もインタビューにて、自身のプレイの中で最も納得している一つと語っています。

ジェフのドラミングではそのタイトに刻まれるハイハットワークもよく取り上げられます。皆がドラムに興味がある方という訳でもないでしょうから、簡単にハイハットとは何かを。まず主に銅や錫といった金属を溶かして鋳型に流し込んで固めた後職人が丹精込めてコツンコツンと…長いわ!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ
左足で操作する合わせシンバルですね。叩いて良し・踏んで鳴らして良し、また足による開閉と手のショットを組み合せた”チッ・チー・チッ・チー”といったオープン・クローズ奏法と、ヴァリエーションに富みます。
ジェフが刻むハイハットはそれだけ聴いているだけで気持ちよくなるほどです。前述の通りパイステのイメージが強いのですが、ある時期まではジルジャンを使用していたとの事。正直70年代中期のこの音がどちらのメーカーであるかは判別出来ません。私見では何となくジルジャンっぽい気もしますが…
あまりにもベタですが、そのハイハットワークを味わうなら何と言ってもこの曲。「シルク・ディグリーズ」からの大ヒットシングル「Lowdown」。ちなみにオーヴァーダビングされ、左右に振り分けられています。ジェフは当初シンプルに4分・8分で刻んだそうですが、周囲の人達の”16分音符でも刻んでみれば?”という要望に応え、結果その両方が採用されこの名演が出来上がりました。実際にジェフにはハイハットのみを叩いて欲しいという依頼もよく来たそうです。

私も今回調べていて初めて知ったのですが、「シルク・ディグリーズ」と同時期にほぼ同様の面子でボズがプロデュースしたあるアルバムのレコーディングが行われていました。レス・デューデック(Les Dudek)の1stアルバム「Les Dudek」。デューデックという人はボズと同じくスティーヴ・ミラー・バンドに在籍し、ボズのバックでギターを弾いていた事もあり、その縁から彼のプロデュースの下にアルバム制作となったようです。ここでのジェフのプレイもシルク・ディグリーズに負けず劣らず素晴らしいものです。本作からオープニングナンバーである「City Magic」。

当然の事ながら、とても一回では書き切れませんのでジェフ・ポーカロ回は次回以降も続きます。

#62 Rosanna

前回まで続けてきたホール&オーツ回の#57にて、彼らの70年代後半のアルバムにおいて、豪華な顔ぶれのセッションミュージシャンが参加していることについて少し触れました。RCAに移籍してからはN.Y.とL.A.のそれぞれで録音することがあったようですが、その参加ミュージシャンの面子の中で、ジェフ・ポーカロ、スティーヴ・ルカサー、スティーヴ・ポーカロの名前があります。彼らの名前を聞けば昔の洋楽がお好きな方ならすぐにピンとくるでしょう。そう、今回のテーマは76年にL.A.で結成されたTOTOです。

 

 

 


ジェフ・ポーカロ(ds)とデヴィッド・ペイチ(key)を中心にバンドは形成されました。メンバーの参加した経緯とその変遷を記すとそれだけでかなりのボリュームになってしまいますので、その辺を知りたい方は日本版のウィキ等をご参照ください。このバンドについて語られる時よく挙げられる事柄が二つ、スタジオミュージシャンが作ったバンドであるという事と、もう一つがそのユニークなバンド名の由来です。前者は事実であり、特にボズ・スキャッグスの代表作「Silk Degrees」(76年)に主要メンバーが関わっている事はよく語られます。もう一つのバンド名について、様々な説があり、メンバーのコメントも一貫していないということもありますが、ただ一つ言えるのは、昔日本では真実と思われていた、某大手衛生機器メーカーを元にしたという説は正しくないということです。日本ではTOTOと全て大文字で表記されるのですが、欧米ではTotoと表記されます。本ブログでは日本式で。

その音楽性はアメリカ的プログレッシブロック(イギリスのそれとは異なる、明るく開放的なスペイシーサウンドと呼べるもの)、ストレート&ハードなロックナンバー、メロディックなバラード、と、ここまでは同時期に活躍し、よく並んで比較されるジャーニー、スティックス、ボストン、カンサスといったバンドと同様ですが、彼らはそれプラス、AOR・クロスオーヴァー的な音楽性を持ち合わせていました。メンバーの全てが腕利きのセッションミュージシャンであり、西海岸を拠点にロック・ポップスからジャズフュージョン寄りのセッションまでをこなしていた彼らの幅広く優れた技術・音楽的素養に裏付けされたものでした。それらが関係しているかどうかは定かではありませんが、ボストンやジャーニー達が圧倒的にアメリカ本国やカナダといった北米圏での人気が高かったのに対し、TOTOについては、ヨーロッパ圏・その他においてもその人気が高く(勿論日本でも)、それらの国でもゴールド・プラチナディスクを獲得しています。

あまりにいつもレコーディングで顔を会わせていたので、「オレたちでバンド組んだらよくネ?!」と、言ったとか言わないとか(”よくネ?!”、とは言ってないと思う………絶対に…)。この点においては、同じ様な経緯でバンドを結成したN.Y.の『Stuff』が比較されます。ただStuffがジャズフュージョン・R&Bをその音楽性の根底にしているのに対し、TOTOはあくまで”ロックバンド”である、という点が異なりました。

デビューアルバム「Toto(宇宙の騎士)」(78年)は全世界で400万枚以上を売り上げるビッグヒット。後述する最大のヒット作である4thアルバムまで、基本的にその音楽性はこの1stから一貫しています。何よりも成功の要因で最も大きなものは”わかりやすさ”、この言葉に語弊があるならば”ギミックに陥る事のないカッコ良さ”、とでも言い換える事が出来ると思っています。前述の通り、一流のセッションミュージシャンの集まりであり、その気になれば超絶技巧を尽くして聴衆を圧倒させる様な音楽も出来るのですが、彼らはそれはしませんでした。例えばフロントマンであるギターのルカサー。ライヴでは別として、スタジオ盤ではあえて音数を抑えて、そのトーンやニュアンスを優先したプレイです。シンプルでタイトなカッティング、速さや複雑さよりも琴線に触れる様なソロプレイ。しかしその合間、何気に超絶テクニックがさらりと顔を出す瞬間があり、それがまたニクイのです。これは他のメンバー全てに言える事です。2nd「Hydra」、3rd「Turn Back」も続けてミリオンセラー、しかしこれはまだ序章でした。

全世界で1200万枚を売り上げ、最大のヒット作にて言わずと知れた代表作「Toto IV(聖なる剣)」。本作からの1stシングルである「Rosanna」。ジェフの流れるようなシャッフルビートの上で展開される本曲は、高度な演奏技術とアレンジに基づきながら、決して難しい音楽と認識させずにポップさを失わない、といった相反するものを両立させた彼ららしい、そしてこの時代を切り取った様なコマーシャルな楽曲です。本作は82年のグラミー賞を総なめにし、その実力は勿論、世間からの評価も揺るぎないものとしました。先述の通り、米国・カナダのみならず世界各国でもその人気は高いものでした。英・仏・独・蘭・豪・フィンランド、そして日本でもゴールド・プラチナを獲得、その幅広い音楽性と技術によるものでしょう。

86年発表の「Fahrenheit」には何とも豪華なゲストが目立ちます。マイケル・マクドナルド、ドン・ヘンリー、デヴィッド・サンボーン(彼らはジェフの友達)だけでもすごい面子ですが、エンディング曲である上記の「Don’t Stop Me Now」には何とマイルス・デイヴィスが参加しています。スティーヴ・ポーカロ(ジェフの弟)がマイケル・ジャクソンに提供し、ビッグヒットとなった「ヒューマン・ネイチャー」。マイルスはこれを自身の作品で取り上げ、当時ライヴでもレパートリーとしており、スティーヴに作曲の依頼もしてきました。その縁でジェフとも交流が生まれました。ある日マイルスがジェフの家に来た時に、ジェフの描いた絵をマイルスが気に入りそれを欲しがりました。勿論プレゼントしましたが、「絵の代わりに何が欲しい?」と聞かれ、マイルスも絵を描くことを知っていたジェフは、「では貴方の描いた絵と交換しましょう」と言うと、マイルスは二つ返事でその場にて描き始めて、それが出来上がった後に、「もっと何かあげなければいけない」と言いました。マイルスが簡単にプレイすることは無いのをジェフは知っていましたが、思い切ってTOTOの作品でトランペットを吹いてくれないかと頼みました。するとマイルスは「君の為に吹こう、もし気に入ってくれたらどうぞ使ってくれ」と言ったのです。マイルスは義理・付き合いなどでプレイする事は無かったと言われています。ジェフ達を認めたからこその、先の発言となったのです。

92年8月、ジェフが38歳の若さで急逝してしまいます。新作の収録を終えた直後の事でした。ヨーロッパではその翌月に急遽リリース(この辺りからも彼らのヨーロッパでの人気が伺えます)、本国では93年5月にジェフの遺作となる「Kingdom of Desire(欲望の王国)」が発売されます。ジェフの後任にはイギリスが誇るセッションドラマー サイモン・フィリップスを迎え入れ、バンドはその後も活動を続けます。しかし、本国アメリカでは90年代以降は目立ったヒットはなく、過去の人扱いされているかもしれませんが、ヨーロッパその他の地域では依然として根強い人気を誇り、現在のところ最新作である「Toto XIV(聖剣の絆)」(15年)のチャートアクションを見てみると、米での98位に対し、日本とオランダでは2位、スイスでは3位となっています。ポップミュージックの中心がアメリカであることは紛れもない事実ですので、アメリカで売れていないと人気が無いと、ややもすれば捉えられがちですが、当然の事ながら音楽の市場は米国のみならず世界中にあるのです。彼らの存在はそれを改めて教えてくれます。

#61 I’m in a Philly Mood

90年代以降のホール&オーツについては、前回の終わりで少し触れた通り、アルバムのTOP40入りはベスト盤を除き一枚もなく、シングルもTOP20以内にランキングされたのは「So Close」(90年)のみです。レコード・CDセールスだけを取ってみれば、完全に”過去の人”となってしまいました。
実は80年代後半から、彼らの周りでは色々問題が起こっていたようです。まずはそれまで長年に渡り彼らのマネージメントを務めてきたトミー・モトーラが彼らの元を去ります。このモトーラという人物、洋楽に詳しい方ならその名前を耳にしたことがあるかもしれません。CBSとコロンビアという大レコード会社をソニーが買収し、その後ソニー・ミュージックエンタテインメント(SME)という一大音楽事業会社となります。モトーラは同社の初代最高経営責任者となります。マライア・キャリーを世へ送り出し、その後彼女と結婚・離婚。またマイケル・ジャクソンには”悪魔”とまで罵られた人物。モトーラの人となりや功績についてはここで詳しくは言及しませんが、SMEに移る直前までホール&オーツと関わっていました。金銭面の管理など一切を任せていたモトーラがいなくなることはかなり影響があったようです。また同時期にジョンは離婚し、そして91年にはホール&オーツはその活動を一旦休止します。これらの経緯だけを見ると、内部的なゴタゴタを抱え、やがて世間からその音楽も飽きられていった過去のミュージシャンと捉えられてしまうかもしれません。勿論その取りようは人それぞれなので構いませんが、別の見方も出来るのです。それは無理してメインストリームに居続ける気もなくなった、また時代の最先端の音楽を作り続ける考えもなくなったのではないかと。すこしおぼろげな記憶なのですが、当時のインタビューで、40歳も過ぎた事だしこれからは少し落ち着きたい、音楽性についてもこれまでとは違った、例えばカントリー&ウェスタンの様なものにもチャレンジしてみようかと思う、といった様なコメントがあったような記憶があります(ひょっとしたら私の勘違いかも・・・)。

00年代になって、彼らは80年代について振り返って言及しています、『クレージーな日々だった』、と。飛ぶ鳥を落とす勢いだったあの時代は、プライバシーもなく、買い物へもおちおち出ていけない、全く気が滅入る状況だったと。さらに、自身達をスターダムへのし上げる一助となったMTVについて、実は決して快く思っていなかった事をも告白しています。始めのうちこそ上手く利用しようと立ち回っていたものの、あまりにその陳腐さ、創造性の無さに辟易としていったと語っています。
前回触れた85年のテンプテーションズとの共演を果たした時点で、やる事はやり尽した様な、所謂”燃え尽き症候群”となってしまったそうです。日本版のウィキでも記述されている通り、91年からの活動休止は割と知られていますが、実はそれ以前に、85年から三年間に渡りホール&オーツとしての活動は一時休止しています。ダリルはソロ活動を、ジョンは充電期間を過ごします。先述の通り、90年代以降は決して以前の様なビッグヒットは産み出さなくなりましたが、その音楽性自体も低下したかのどうか、これは聴く人の主観によるものなので一概には言えませんが、一つ言える事は、デビュー当時にあったような内省的な曲調が再び垣間見られるようになった事です。上記の動画は前述した「So Close」のアコースティックヴァージョン(95年のライヴ)ですが、内省的かつ、それまではダリルのソロにおいてしか感じられなかったヨーロッパ的感性が、ホール&オーツの楽曲においても表れてきています。一生贅沢出来るだけの金を稼いだので、あとは好き勝手に音楽をやろう、といった訳ではありません。どころか、80年代後半の活動休止が響いて、90年頃には経済的に困窮してしまいます。不動産、飛行機、高級車を売り払うまでして対処しなければならない状況でした。90年発表の「Change of Season」は、狂騒的だった80年代を自戒を込めて総括した作品だったのかもしれません。

91年からの活動休止中に、彼らにとって大変ショッキングな出来事が起こります。ダリルの恋人であるサラ・アレンの妹 ジャナが93年8月、37歳の若さで急逝します。前回までの記事にても触れてきましたが、姉のサラと共に、ホール&オーツを作詞・作曲面でサポートしてきた、というよりも、80年代に関して言えば、四人一組で作品を創り上げていったと言っても過言ではありません。姉のサラは言うまでもありませんが、ダリルの悲しみも筆舌に尽くしがたいものだったそうです、ジャナの誕生日にはわざわざ飛行機で駆けつけて、彼女が欲しがっていたギターをプレゼントしに行ったほどの可愛がりようだったそうです。翌9月にリリースとなったダリルのソロアルバム「Soul Alone」のエンディングにはジャナが作曲に関わった「Written in Stone」が収録されています。

同作に収録され、第一弾シングルとなった「I’m in a Philly Mood」。曲調こそは当時流行のブラックコンテンポラリー的なものですが、タイトルが示す通り、少なくともその音楽的精神はダリルの原点へと立ち返った事を歌ったものではないかと私は思っています。

ホール&オーツについて語られる時、どうしてもダリルの話題が中心となってしまいます。かくいう本ブログでも、取り上げてきたのは#56の「She’s Gone」以外は基本的にダリルの曲となってしまいました。00年代のインタビューにて、ジョンは自身の事を「世界で最も高給取りのバックシンガーさ」などと、かなり自虐的なジョークを飛ばしていますが、ジョンは非常に優れたシンガーであります。
ジョンの曲・リードヴォーカルでどれか一曲と言われれば、「モダン・ヴォイス」(80年)収録の「How Does It Feel to Be Back」か、こちらか悩む所なのですが、リアルタイムで聴いていたこともあって今回はこちらを選びます。「Big Bam Boom」(84年)のエンディングに収録された「Possession Obsession」(曲はダリル・ジョン・サラの共作)。「How Does~」も是非聴いてみてください。

01年にダリルとサラは、その30年近くに渡って続いた恋人関係に終止符を打ちます。しかしその後も良好なフレンドシップの関係は続いていると言われています(一緒にインタビューも受けてたりします)。各々がソロ活動を行いながら、ホール&オーツとしての作品は06年のクリスマスアルバムが最後ですが、二人でのツアーは行っており、一番最近の活動としては17年10月にロンドンで演奏しています。かなりの日本びいきであり、日本版のウィキに書いてある通り来日公演もかなりの回数をこなしています。ちなみにベストヒットUSAの最多出演回数もホール&オーツの二人です(勿論小林克也さんを除く…)。

最後にご紹介するのは、90~00年代にかけて彼ら、ないしダリルがソロでレパートリーとしていた曲。72年のビリー・ポールによるNo.1ヒット「Me and Mrs. Jones」。”最後はオリジナルを取り上げるべきだろ!”、というお声は勿論承知の事ですが、このフィラデルフィアソウルを代表する名曲は、彼らのその当時の音楽的姿勢が表れているものと私が思っている事と、役者で”ハマリ役”という言い方がありますが、ダリルにとっての”ハマリ歌”と言えるこの歌唱・演奏があまりにも見事なので取り上げざるを得ませんでした。ホール&オーツ回の最後なので、二人の演奏を取り上げるのは当然なのですが、ダリルのソロもあまりに素晴らしいので、どうせなら両方張ります。是非どちらも聴いてください。

以上、6回に渡ってホール&オーツを取り上げて来ました。こんなに長く書くつもりは当初なかったのですが、実は彼らは洋楽を聴き始めた頃、能動的に聴いてみたいとおもった初めてのミュージシャンです。初めの頃はヒットチャートの上位に入った曲だけを聴いていたものですが、彼らはその中で初めて”この人達の音楽をもっと知りたい”、と思い過去に遡って聴くようになったミュージシャンでした。ただのオッサンのノスタルジーと思って下さって結構ですが、若い方達にも少しでも伝わればこれ幸いです。

#60 Method of Modern Love

83年10月、ホール&オーツは新曲2曲を含むベストアルバム「Rock ‘n Soul Part 1」を発表。本作からのシングルカット「Say It Isn’t So」も全米2位の大ヒット。ちなみに1位を阻んだのはポール・マッカートニーとマイケル・ジャクソンによるデュエット曲「Say Say Say」でした。ダリルいわく”80年代におけるフィラデルフィアサウンド”という楽曲。シングルとアルバムヴァージョンが異なりますが(上記はシングル)、個人的にはアルバム版の方が秀逸かと。「Rock ‘n Soul Part 1」も当然大ヒット。私の世代だと本作にて過去のヒット曲を知った、という人が多いのでは。80年代前半はこの様にベストアルバムだけど新曲も入っている、というパターンが多かったような気がします。スティービー・ワンダー、ビリー・ジョエル、カーズなど
同様のベスト盤をリリースしていました。新しい客層は勿論、既存のファンもちゃんと買えよ、というあこぎ… もとい、商売上手なリリースの仕方です。本アルバムとあわせて、ライヴの模様を収めたビデオ「Rock ‘n Soul Live」(同年3月のカナダ ケベック州公演)も発売されました。現在はユーチューブで観れてしまいます。

「Rock ‘n Soul Part 1」のエンディングに収録されたカナダ公演での「Wait for Me」。オリジナルは「モダン・ポップ」(79年)に収録され、同作からの1stシングルとして全米18位と、彼らとしてはスマッシュヒットといった程度のチャートアクションでしたが、本ベスト盤に収められたこのライヴヴァージョンは、ファンの間で非常に人気の高いテイクです。

 

 

 


84年10月、アルバム「Big Bam Boom」をリリース。1stシングル「Out of Touch」はこれまた全米No.1ヒット。本作はヒップホップ色が強くなり、また当時流行しつつあったラップも取り入れるなど、かなり時代の最先端を行ったサウンドでした。ゲートリバーブの効いたドラム、金属的なベース音、煌びやかなシンセの音色などはこの時代らしいものです。

今回のテーマである同作からの2ndシングル「Method of Modern Love」。初めて聴いた時は「何かヘンな曲…」、と思ってしまいます。テーマの部分が全てにおいて、脱力しているというか、悪い言い方をすれば腑抜けたように聴こえます。ブラス音のシンセによるフレーズ、パーカッション、そして『M-E-T-H-・・・』と連呼するコーラス、これら全てが”やる気あるんかい!”というようなものです。歌のパートに入ると、浮遊感と言えば聞こえは良いのですがやはり気が抜けています。唯一G. E. スミスによるボリューム奏法を駆使したギターがやや緊張感を保っている程度で、とにかく全てにおいて緊張感に乏しい楽曲です、途中までは・・・
しかし後半から一変します(上の動画で言うと3:50辺り)。一聴すると転調でもしたのかと思うほどガラッと変わりますが、このコーダのパートは歌でのBメロにおけるコード進行の上で成り立っています(若干違う部分も出てきますが)。テーマでひたすら繰り返されてきた『M-E-T-H-・・・』のコーラスが当該パートのコードに基づいて改めて歌われ、シンセの音色が煌びやかなものに変わり、そして何よりダリルのヴォーカルが変わります。これだけで全く曲の印象・曲調が変わる事は非常に興味深いものです。勿論全てはコーダにおけるダリルの歌をより引き立たせるため。そのために中盤までの気の抜けた様な曲調・サウンドがあったのです(少しヒドイ言い方かな…)。ここにおけるダリルのヴァーカルは圧巻の一言。当時ダリルは30代後半、シンガーとして最も”脂の乗っていた”時期だったと言えるでしょう。ビデオもその曲調に沿って制作されています。中盤まではコミカルな作り、特にドラムのミッキー・カリーが手に持って叩いているものに注目してください、トイレ用のブラシと所謂”スッポン(ズッポン)”です(正確にはラバーカップというらしいですが)、いくら何でも・・・

飛ぶ鳥を落とす勢いのホール&オーツにさらに嬉しい出来事が起こります。85年7月、イギリスのブルーアイドソウル・シンガー ポール・ヤングによる彼らのカヴァー曲「Everytime You Go Away」が全米1位となります。本曲は「モダン・ヴォイス」(80年)に収録された曲。#57にて本アルバムにはもう一つ重要な楽曲がある、と述べたのはこの事です。私のおぼろげな記憶では、ダリルとP・ヤングが一緒に歌った映像を観た記憶があるのですが(多分ヤングが何某かの賞を受けた時のステージにて)、今回いくら探しても出てきませんでした。代わりに85年5月に黒人音楽の殿堂 アポロシアターにて彼らのアイドルであったテンプテーションズのデヴィッド・ラフィン、エディ・ケンドリックスと共演した際に取り上げていますので、今回はこちらを。ちょうどヤングのヴァージョンがチャートを駆け上っていた頃であり、冒頭でカヴァーの事に触れています。

このコンサートは「Live at the Apollo」としてレコード化され、これまたヒットしています。

86年8月、ダリルは2枚目のソロアルバム「Three Hearts in the Happy Ending Machine」を発表。1stシングル「Dreamtime」は全米5位の大ヒット。本作はユーリズミックスのデイブ・スチュアートがプロデュースを務めており、前作同様、ホール&オーツとは異なるカラーを打ち出しています。やはりダリルの中にはイギリス・ヨーロッパ的感性が潜んでいるのではないかと思われます。ちなみに、「Dreamtime」は90年代前半に日本でミリオンセラーとなったある曲の元ネタになったのでは、としてその手の話としては定番です。興味のある人はググってみてください。
88年、アルバム「Ooh Yeah!」をリリース。第一弾シングル「Everything Your Heart Desires」が全米3位の大ヒットとなり、アルバムもプラチナディスクを獲得します。しかしオリジナルアルバムとしては本作が最後のプラチナとなり(01年のベスト盤は獲得しましたが)、商業的勢いはこの頃を境に、徐々に下降線をたどる事となっていきます。ではその中身、音楽的にも低迷していったのでしょうか?そのあたりは次回にて。