#67 Girls Just Want to Have Fun

前回までのジェフ・ポーカロ及びTOTO回にて、ジェフとスティーヴのポーカロ兄弟が
ジャズ界の”帝王” マイルス・デイヴィスと交流があり、TOTOのアルバムにおいてマイルスが
プレイした、という事は書きました。80年代のマイルスはロック・ポップスの曲を積極的に
取り上げていました。スティーヴ・ポーカロがマイケル・ジャクソンへ提供したビッグヒット
「ヒューマン・ネイチャー」、#54で触れたスクリッティ・ポリッティの「Perfect Way」等。
特にヒューマン・ネイチャーと共にステージでも好んで演奏していたナンバーがあります。
今回取り上げる、シンディ・ローパーが83年にリリースした「She’s So Unusual(当時の
邦題は『N.Y.ダンステリア』)」からのNo.1ヒット「Time After Time」がそれです。
今回はシンディをはじめ、80年代に活躍した女性シンガー達を取り上げてみたいと思います。
80年代にデビュー及び活躍した女性シンガーと言えば、マドンナ、ホイットニー・ヒューストン、
ぎりぎり80年代後半にデビューしブレイクしたカイリー・ミノーグなどが挙げられると思いますが、
先に言っときます、彼女たちは取り上げません… ━(# ゚Д゚)━なんでやねん!! と言われても
しようがありません。私が彼女たちについて詳しくないからです・・・

シンディは1953年、ニューヨーク生まれ。決して恵まれた少女時代を過ごした人ではありません、
この生い立ちが彼女の歌にある、明るいのにそこはかとなく哀愁を感じさせる要素なのかと私は
勝手に思っています。音楽の道を志してからも決して順風満帆な道のりではありませんでした
(詳しくはウィキ等をご参照)。当アルバムから翌84年にシングルカットした上記の
「Girls Just Want to Have Fun(当時の邦題は『ハイ・スクールはダンステリア』)」が
大ヒット、この時シンディは既に30歳を過ぎています、遅咲きのブレイクでした。前述の
「タイム・アフター・タイム」や映画『グーニーズ』のメインテーマ、2ndアルバム「True Colors」
からのやはりNo.1シングルであるタイトルナンバーなど、ヒット曲は数多くありますが、シンディの
オリジナリティを最も端的に表しているのは上の「ハイ・スクールはダンステリア」だと思います。
ちなみにビデオクリップの冒頭に登場している女性はシンディの実のおかあさんです。
当時のベストヒットUSAにて彼女が出演した際、小林克也さんに『・・・ハリウッドスマイルはこうよ」
と言って歯をむき出しにしてニカっと笑う彼女のサービス精神は微笑ましいものでした。ちなみに
マドンナについて同番組では、『こんなにもオンエア時とそうでない時の差が激しい人はいませんでした』
と、非オンエア時の愛想無くつまらなさそうな顔をしている彼女と、オンエア時のニコニコしている顔を
対照的に続けて放送していました(多分総集編の回にて)。結構辛辣ですよね、克也さんも・・・
大変な親日家であり、売れない頃に日本人が経営するレストランで世話になった経緯があるそうです。

お次はN.Y.で結成されたバンド ブロンディ。紅一点のヴォーカリスト デボラ・ハリーを中心とし、
70年代後半から80年代前半に活躍。80年の年間シングルチャート1位を記録した「Call Me」が
最も有名でしょう。こういう事を言うのは何ですが、デボラの容姿がとにかく端麗で、それが人気の
一因になったことは否めないでしょう。マドンナの登場によりそのお株を奪われた感がありますが、
それ以前の米ポップス界におけるセックスシンボルはデボラとされていたそうです。
「コール・ミー」がビートの効いたロックナンバーなので、バンド自体がそういう音楽性なのかと
私も昔は思っていましたが、どちらかと言えばニューウェイヴやディスコを基調としていたとの事。
今回調べて初めて知ったのですが、「コール・ミー」は確かに作詞作曲はバンドによるものですが、
映画『アメリカン・ジゴロ』のサントラとしてリリースされた本曲は、演奏はバンドによるものではなく、
デボラも歌入れに3時間ほどスタジオに入っただけで、それ以外は彼女達とは無縁の所で作られたらしく、
それが最大のヒットになってしまったのは皮肉めいた気がします。なので今回取り上げるのは
「コール・ミー」に次ぐヒット曲、79年の「Heart of Glass」です。ギリギリ80年代ではありませんが、
1年くらい大目に見てください。こちらの方がブロンディらしいですし、PVのデボラがとにかく美しい…

最後に取り上げるのは「コール・ミー」の翌年、81年における年間シングルチャートNo.1である
超ビッグヒット キム・カーンズ「Bette Davis Eyes(ベティ・デイビスの瞳)」。

そのキャリアは長く、66年にフォークグループでのデビュー以降、80年まで決して目立ったヒットは
ありませんでした。しかし潮目が変わったのが80年、「More Love」のヒットにより一躍スターダムへ。
彼女の魅力はとにかくそのハスキーヴォイスにあるでしょう、唯一無二の声とは彼女の様な声です。
ジャニス・ジョプリンを彷彿させ、また男性で言えば#36で取り上げたジョー・コッカーや
ロッド・スチュワート的な声質と呼べるものでしょうか。
「ベティ・デイビスの瞳」の原曲はジャッキー・デシャノンが75年に発表したもの。私も名前くらいしか
知らなかったのですが、オリジナルを聴いてよくぞこの様にアレンジしたものだと改めて関心しました。

シンディは勿論の事、デボラとカーンズも1945年生まれの同い年ですが、共にシンガー・女優業を含めて
現役活動中です(なんと御年72歳!女性に失礼・・・)。彼女たちの様なたくましい女性を見ると、
50歳も近いから最近は心身共に調子が・・・などと言っている己が恥ずかしく思えてきます・・・(´Д`)

年初からの80年代特集はまだまだ続きますよ・・・誰も覚えてませんかね・・・( つω;`)ウッ …

#66 Jeff Porcaro_4

ジェフ・ポーカロ回その4、今回が最後となります。
ジェフはドラムソロを演りませんでした、頑ななまでにそれを拒み、否定しました。
インタビューの中でジェフが唯一認めたものは、エルビン・ジョーンズなどごく一部の
ジャズドラマー達によるソロプレイでした。おそらくジェフが嫌っていたドラムソロというのは
70年代辺りから始まった、ヘヴィメタル・ハードロックなどにおける長尺のドラムソロを指していた
のではないかと思われます。音楽の流れとは無縁の、ジェフが言う所の”これ見よがし”のソロプレイを
否定していたようです。ドラムに限らず単一の楽器で長いソロ演奏を行うのは大変難しいものです。
ただの技術のひけらかしにならず、ストーリー・起承転結がしっかりとしていて”音楽”として
成り立っているものは、ジャズにおいても難しく、ましてやロック界ではあるのかどうかも疑問です。
ジェフは”音楽本位”の考え方で、どんな超絶技巧も音楽を阻害してしまっては意味が無い、という
スタンスだったのでしょう。この考えは全く正しいと思います。
上の様な事を書いておいてなんですが、でもやはりジェフが”はじけて”プレイしているところも
聴いてみたい、という気持ちもあります。それであれば何と言ってもこれ、#64でも触れた
「The Baked Potato Super Live!」です。スティーヴ・ルカサーもそうですが、全編に渡って
実に”はじけた”演奏を繰り広げている、80年代フュージョンシーンにおける名盤の一つです。
当アルバムから私がベストトラックと思うものを。

ジェフとルカサーの羽目を外した様なプレイも圧巻ですが、グレッグ・マティソンは勿論の事、
クルセイダーズにも在籍していたベーシスト ロバート・ポップウェルのプレイも大変素晴らしく、
ジェフとポップウェルの絡みをもっと聴いてみたかったものです。

ちなみに動画ではタイトルは「I Dont Know」となっていますが、正しくは「Go」のようです。

ジェフはジャズドラミングには自信をもっていなかったそうです。父親がジャズドラマーで、幼少から
その手ほどきを受けてきたのですから、テクニックのルーツがジャズにあるのは間違いない事なのですが、
本人が自身のプレイに納得いっていなかったようです。しかし数少ないながらジャズドラミングのプレイも
残しています。#63でも触れたスティーリー・ダン「Katy Lied(うそつきケイティ)」に収録されている
「Your Gold Teeth II」。一筋縄ではないかなりの難曲ですが、本人が苦手だ、などと言っているのは
信じられないほど、ジャズビートのパートは見事にスウィングしています。

上記のジャズドラミングの話ともつながる事ですが、ジェフはかなり自分に厳しい人だったようで、
これだけのテクニックとグルーヴ感を持っていながら、自身のプレイには簡単に納得しませんでした。
あるインタビューで自身のプレイについて尋ねられた彼は以下のように答えています。
『だいたいタイムがひどい。そりゃ上を見ればジム・ゴードンとかバーナード・パーディ、ジム・ケルトナー
とかきりがないが、それにしても僕のタイムはカスだよ。~(中略)~自分で納得のいく出来だと思えるのは
今までにふたつくらいだな。ひとつはスティーリー・ダンとのやつ。あれが自分としては最高の
パフォーマンスだと思う。それからボズ・スキャッグスの「シルク・ディグリーズ」だ。』
貴方にそんなことを言われたら我々はどうすれば良いのか・・・(´Д`)と思ってしまう様なコメントです。
しかし全くの私見ですが、この発言は同時に”だけどオレのようにプレイできるやつは何人いるかな?・・・”
のような、ある意味逆説的な自信も表すコメントであったのではないかと私は勝手に思っています。

またジェフはドラム、ひいては音楽に対して一歩距離を取った姿勢を貫いていました。インタビューで、
『音楽が全てなんて姿勢でいたら消耗してしまう。僕の場合は美術とか庭造りとか、他にもいろいろ
関心があるし、そうやってバランスをとっている。僕は庭師かインテリアコーディネーターに
なりたかったんだ。』と答えています。この考え方はとても興味深いものです。勿論音楽が嫌いだった
などという訳ではないでしょう。しかし創造的な仕事をするためには、視野が狭くならないように、
木を見て森を見ずにならないように、その他の事柄からもインスパイアを受けられる状態・環境に
身を置いていた方が良い、という様な意味合いだったのではないしょうか。

ドラムという楽器はリズムを打ち出すものであり、伴奏・バッキングをその役割としているので、
当然の事ながらフロントに出てくるパートではありません。ジェフは更にソロプレイをも否定した
プレイヤーでしたので、なおさら矢面に立つはずではない人だったのですが、死後25年以上経った
現在でも彼の功績は讃えられ続けています。それはひとえに音楽本位のプレイを貫き、下手なギミック
などを決して演らず、自らの職分を果たすことに一途な姿勢が、数々の名曲・名演を産み出した事への、
本質をわかっている聴衆達からの評価が絶えないからに他なりません。
最後にお届けするのは上記の事が最も表れていると私が思うもの。スティーリー・ダンの活動を休止した
ドナルド・フェイゲンが82年に発表したポップミュージック史に残る傑作「The Nightfly」。
本作に収録の「Ruby Baby」。リーバー&ストーラーによるこのオールディーズの名曲を、フェイゲンが
見事に”料理”したもの。ジェフは徹底してタイトかつシンプルなプレイを貫き、この”クール”な名曲を
形創る事に成功しています。決して超絶技巧といったプレイではありません。しかし本曲における
フレーズ・音色・グルーヴ感は、これをなくして本曲は成立しなかったと言えるものです。

https://youtu.be/G187v1HEjqs
以上でジェフ・ポーカロ回はおしまいです。多分忘れ去られていると思いますが、年初からの80年代に
ついて取り上げていくというテーマは続いております。次はなんでしょう・・・

#65 Jeff Porcaro_3

ジェフ・ポーカロ回その3。
10インチのタムタム(中太鼓)をドラムセットに組み込み、一般化させたのもジェフの影響が大です。
一般的なドラムセットはハイタムが12インチ、ロータムが13インチ、演奏者から見て右側に
直接床に置く(勿論脚を立てて)フロアタムが16インチでした、今でも基本はそうだと思います。
ジェフはハイタムの左側に10インチのタムをセッティングしました。通常のハイタムよりさらに
ピッチの高いタムが加わることにより、フレーズ(特にフィルイン)に幅で出て、また個性も増しました。
80年代はジェフの様な3タムのセッティングがロックドラムのスタンダードとされた程でした。
同じく10インチのタムを一般化させた人にスティーヴ・ガッドがいます。ただガッドはハイタムの位置に
10インチを持ってきているのが異なります。タムタムの中では普通ハイタムが最も使用頻度が高いので、
ここに二人のドラマーの個性が表れています。ガッドも勿論ポップス寄りのセッションも数え切れない程
こなしましたが、小口径のドラムに柔らかくドラムヘッドを張り、全体的なピッチはロックドラマーの
それよりは高いものでした。そしてそれはその後におけるフュージョンドラマーの音色のスタンダードと
なりました。それに対してジェフは、フュージョン系の仕事もたくさんやりながらも、基本的にはロック
ドラムの音色でした。10インチの音色は必要としましたが、やはり迫力あるロックドラムのサウンドを
欲したのでハイタム(12インチ)の脇にセッティングしたのでしょう。もっともインタビューにて
タムの配置を入れ替える時もあると言っていたので、この限りではない場合もあったようです。
ガッドの10インチは「トゥーン」といった感じの日本の鼓を思わせる柔らかい音。一方ジェフのそれは
もっとパーカッシヴで、大げさに表現すると「パカッ」といったインパクトのあるサウンドでした。

70年代中期から80年代にかけて、第一線のセッションドラマーとしてよく比較されたこの二人。
東(N.Y.)のガッド、西(L.A.)のポーカロといった具合に米国を代表するドラマーとされました。年齢は10歳近く違いますが(ジェフの方が下)、とにかく様々な作品で彼らの名がクレジットされています。
同じアルバムで二人がそれぞれプレイしているというものもかなりあり、比較して聴くのも面白いです。
マイケル・マクドナルドの1stソロアルバム「If That’s What It Takes(思慕:ワン・ウェイ・ハート)」などがその好例で、ガッドが6曲・ジェフが3曲をプレイしています。ここでそれぞれのプレイを聴いて
みましょう。ジェフによる「That’s Why」並びにガッドの「Love Lies」です。

ジェフはハードウェア面でも独自のアイデアを産み出しました。パール社と共同開発したラックシステムが
それです。普通ドラムセットでは、タムタムはベースドラムにマウントしたホルダーにセッティングし、
シンバルはシンバルスタンドにセットします。ラックシステムではアルミ製のラックにこれらをセッティングするのです。タムタムをホルダーを介してでもベースドラムと繋がっているということは、多少なりとも
互いの鳴りに干渉しているという事なので、これを防ぎより自然な鳴りを引き出すことが可能です。
またシンバルの枚数が多くなると、シンバルスタンドが林立することになり、これの解消にもつながります。スタジオやコンサート会場でのセッティング作業の効率化を図るための、セッションミュージシャンとしてのジェフならではのアイデアです。

ボズ・スキャッグスの一連の作品などで、ジェフは多少エレクトリック・ドラムを使用していますが、
基本的にエレドラ等については否定的考えを持っていました。今回押し入れの奥のダンボール箱から引っ張り
出して読み返してみたドラムマガジン87年冬号に、以下の様なジェフのインタビューが載っています。
余談ですけどドラムマガジンって(確かベースマガジンも)、昔は年4回の季刊誌だったんですよ。
『・・・でも僕にとってドラムマシンは音楽じゃない。魂も心もない機械に過ぎない。ドラムマシンは
大嫌いだよ。悲しくなってくる。~(中略)~アーティストたちはそろそろ機械の音に飽きてきた。
どのアルバムも同じ音に聴こえる。みんな、フェアライト等の同じアーティストのスネアドラムの
サンプル、融通のきかないビート、こういったものにね。本物のドラマーやリズムセクションで
やりたいというミュージシャンは増えてきている。』
80年代後半におけるこのコメントは意味深いものです。シンセサイザー・サンプリングマシン・エレドラ・
リズムマシン等のデジタルテクノロジーは確かにポップミュージックの在り方を劇的に変化させましたが、
やはりそれだけでは満足しない、創り手も聴き手も、本物志向・生楽器への回帰といった方向性が既に
この時期から表れていた。これはジェフだけの特別な考え方ではなかったと思われます。
ただしジェフと言えども、世の流れに全く反していられた訳ではありません。80年代中頃から、TOTOの
アルバムで言えば「Isolation」(84年)からゲートリバーブ、コンプレッサーを効かせた”当時の音”と
なっていきました。派手で、煌びやかで、迫力のある音色が当時のトレンドでしたので、ジェフに限らず
多くのドラマーがこの様な音色を採用し、またドラム以外の楽器に関しても同様の事が言えました。
音楽がそういうサウンドを欲していたのですから、この流れは致し方なかったと言えます。ただこれは
個人的な意見ですが、この様な音色は全てが似たようなものになる傾向があり、プレイヤーのオリジナリティが薄れてしまうという点もありました。十把一絡げでみんな一緒に聴こえてしまうのです。

次回へ続きます。

#64 Jeff Porcaro_2

前回からの続き、ジェフ・ポーカロ回その2です。
おそらくジェフのプレイにおいて最も取り上げられる事の多い4thアルバム収録の「Rosanna」。
#62でも触れましたが、この曲自体大ヒットシングルでありTOTOの代表曲の一つであるのですが、
ジェフのドラミングを語る上でも大変重要とされるものです。なのですが・・・
あまりにも色々な所で取り上げられており、なにしろジェフによる唯一の教則ビデオ
「Jeff Porcaro – Instructional Drum」において、本人がそのドラミングについて語っています。
現在はYOUTUBEで観れてしまいますので(なんと良い時代なのでしょう… (*´▽`*)…)、
興味のある方はそちらを。ただし「ロザーナ」に代表される”シャッフルビート”というのは
ジェフのプレイを語る上で欠かせないものなので、今回は他の曲で私が重要と思うものを。
そもそも”シャッフル”とは何ぞや?、と思われる方も多いでしょう。どうしても止まらない時は
誰かに驚かしてもらう………それは”しゃっくり”!!! >>>ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ
所謂8ビートと言われるリズムは『タタタタタタタタ』と均等なビートですが、俗に”ハネる”と
表現されるビートがシャッフルです。口で言えば『タッタタッタタッタタッタ』という感じ。
スキップを踏む様なリズムとでも言えば分かり易いでしょうか。ドラムにおいてはこれを大抵
右手でハイハットないしはトップシンバルで刻みます、『チッチチッチチッチチッチ』という感じ。
「ロザーナ」を含めたジェフのシャッフルの特徴はこの右手のシャッフルの合間に入る”インサイドスネア”
”ゴーストノート”と呼ばれる左手によるショットにあります。上の『ッ』の所に聴こえるか聴こえないか
くらいの音量でスネアをショットします。『チチチチチチチチ』という連続したパターンに
2拍・4拍には強いスネアのアクセントショットが入ってあのフレーズが完成します。
『チチチチ』、「ロザーナ」の様な16ビートのシャッフルならスネアの入る間隔が
倍に長くなり『チチチチチチチチチチチチ』といった具合です。

「ロザーナ」以外でジェフによるシャッフルのプレイで私が推すのは、前回も触れたボズ・スキャッグスの「Silk Degrees」に収録の「Lido Shuffle」。先述のインサイドスネアはとにかくその音量がポイントで、
大きすぎてはダメ。かすかに聴こえる位がリズムをグルーヴさせるコツであり、ジェフはそれが絶妙です。
技術的には2・4拍の強いスネアショット直後のそれが他のインサイドスネアと均一な音量・タッチで
叩かれなければ流れるようなグルーヴになりません。本曲では曲の展開に伴うニュアンスの付け方も
絶品であり、はじめはタイトに、盛り上がるにつれてどんどんラフになってきます。ハイハットシンバルの
ニュアンスの付け方に特にそれが顕著であり、きっちり踏み込んで叩く・少しだけ踏み込みを甘くする・
半開きにしてシャーシャーと鳴らす(所謂”ハーフオープン”)。右手もシャッフルのリズムと、シンプルな
4分音符を使い分け、さりげない所で楽曲をより良いものに仕上げるプレイがなされています。
シャッフルのインサイドスネアがジェフの専売特許かと言うと勿論その様な事は無く、多くのドラマーが
行っています。先述の教則ビデオの中で本人が語っている事ですが、ジェフは偉大なるセッションドラマーの
先達の一人であるバーナード・パーディから参考にしたそうです。”パーディ・シャッフル”という言葉が
ある程にパーディもシャッフルの名手でした。スティーリー・ダンによる80年発表の名作「Gaucho」の
オープニング曲「Babylon Sisters」などにおいてそれを聴くことが出来ます。
ジェフ・ポーカロ回ではありますが、パーディのプレイも参考のために張ります、是非ご一聴を。

ジェフはサンバをはじめとするラテンフィールのリズムも得意としました。TOTOの4thアルバムから
シングルカットされ、No.1ヒットとなった「Africa」が最も知られているかと思います。
ラテンフィールを得意としていたドラマーと言えばスティーヴ・ガッドも有名ですが、ジェフのそれは
ガッドよりもシンプル・タイトなプレイでした。どちらが良い・悪いではなく、ただ”違い”があるだけです。
偉大なるジャズフュージョン・ギタリスト ラリー・カールトンの70年代フュージョンを代表する
1stソロアルバム「Larry Carlton」。本作に収録されている「Rio Samba」はラリーの重要なライヴ
レパートリーであるとともに、ジェフのラテンフィールを象徴する楽曲だと私は思っています。

とにかくシンプルです。普通のロック・ポップスにおける16ビートに比べてスネアのアクセントの
位置がほんのちょっとずれただけ、と言ってしまえばそれまでです、なのですが・・・
テクニックが必要ないなどとは毛頭思いません(勿論ジェフはやろうと思えば複雑なプレイも出来ました)、
しかし本曲のグルーヴは言葉では説明のしようがないのですが、ジェフにしか出来ないものなのです。
ちなみに本曲はテンポがどんどん速くなっていきますが、多分意図的なものでしょう。中盤の
キーボードソロ辺りが最も速くなり、エンディングでは遅くなっています。ジェフのタイプキープは
正確無比とされますが、結果として音楽的に良ければあまりそれにはこだわらなかったのでしょう。
アメリカ人は割とそういう所があるようで、日本人やイギリス人の方がこだわるみたいです。
「テンポがハシった?それがどうした!グッドミュージックならOKだろ!AHAHA!!」みたいな…

ジェフの技術的な面で特筆されるものとして、ベースドラムによる高速の2連打(ダブル打ち)もよく
挙げられます。セットドラムではベースドラム(大太鼓)を床にセッティングし、フットペダルを踏んで
それを打ち鳴らすのですが、速いダブル打ちは技術的にとても難しいものです。ジェフはこれを得意とし、
先述の教則ビデオにおいても自ら解説しています。人によってこの場合の奏法は様々ですが、ジェフは
スライド奏法と呼ばれるものを使いました。1打目と2打目をペダル上で少しずらして踏む、ペダルの上を
スライドされる様に演奏するのでこう呼ばれています。一般的なのは演奏者から見て手前側から向こう側、
つまりベースドラム側へ押し出すタイプで、ジェフもこれでした。逆に手前側に引くタイプ、横にずらす
タイプ、勿論踏む位置は全く動かさない人もいます。ジェフの場合、脚全体の動きは最小限で、足だけが
平行移動している様に見えます。非常にスムーズかつ高速な連打で、ビデオでは9分過ぎ辺りで観れます。
このダブル打ちはジェフのプレイの至る所で聴くことが出来ますが、極めつけは何と言ってもこれ。
グレッグ・マティソン・プロジェクトに参加した際の81年のライヴが「The Baked Potato Super Live!」
として翌年にレコード化されました。スティーヴ・ルカサーも参加しており、二人とも普段はセッションマン
としては勿論の事、TOTOにおいてもこの頃は抑制の効いたプレイが多かったので、81年12月にL.A.の
クラブ『The Baked Potato』で行われたこのライヴでは、共に弾きまくり・叩きまくっています。
本作から「Thank You」を。5分50秒過ぎ辺りからのプレイに注目してください、圧巻の一言です。

ジェフ・ポーカロ回はまだ続きます。

#63 Jeff Porcaro

おそらく一人か二人しかいない読者の方にも忘れ去られているかもしれませんが
(ひ、一人もいないって言うなー!!━━━(# ゚Д゚)━━━ )、一応ドラム教室のブログです…
前回、TOTOを取り上げましたが、それでこの人に触れない訳にはいきません。そう、今回からの
テーマはTOTOの結成メンバーであり、数々のセッションワークで数多の名演を残してきた
ドラマー ジェフ・ポーカロ(Jeff Porcaro)です。ちなみにドラマー個人を取り上げるのは
#20~21でのビル・ブラッフォード回以来であります。一年以上書いてきてようやく二人目です・・・

1954年コネチカット州生まれ。ドラム・パーカッションプレイヤーであるジョー・ポーカロを
父に持ち、7歳頃からドラムを始める。プロドラマーとしてのキャリアは、「I Got You Babe」
等の大ヒットで知られる夫婦デュオ ソニー&シェール(Sonny & Cher)のオーディションに
受かった所から始まります。高校を中退して彼らのツアーに同行したのが72年の事。
この頃のソニー&シェールによる作品における演奏者のクレジットが定かではないので、私が調べた
限りで間違いなくジェフによるプレイと断定出来る最初のものは、L.A.で結成され「Summer Breeze
(想い出のサマー・ブリーズ)」(72年)のヒットで有名なシールズ&クロフツ(Seals & Croft)による
73年発表「Diamond Girl (僕のダイアモンド・ガール)」に収録の「We May Never Pass This Way Again(この道は一度だけ)」。本作にはハーヴィー・メイスンやジム・ゴードンといった当時L.A.に
おける所謂”ファーストコール”のトップドラマー達も参加していますが、本曲は間違いなくジェフによる
プレイです。ちなみに後にTOTOを共に結成するデヴィッド・ペイチも参加しています。

この時ジェフは若干19歳、しかしツボを心得た”歌モノ”のバッキングの仕方は既に完成されています。
ちなみに本曲はアメリカでは卒業式・結婚式など門出の席で歌われる定番曲だそうです。
ソニー&シェールの下では週に1500ドルの稼ぎを得ていたジェフですが、何とその後週給400ドルで

スティーリー・ダンと契約します。以前から彼らの音楽には強い興味を覚えていて、是が非でも参加したいと
思ったそうです。ジェフがほぼ全面的にプレイしているのは75年の「Katy Lied(うそつきケイティ)」。
ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーの二人は勿論、当時スティーリーに参加していたマイケル・
マクドナルドともここで接点を持ちます。後に彼らと素晴らしい名盤を創り上げていくのは周知の事実です。
本作ではオープニング曲の「Black Friday」が有名であり、ここでのシャッフルビートも勿論素晴らしいの
ですが、ジェフのグルーヴ・音色を最も堪能できると私が思うのは次の「Bad Sneakers」です。

https://youtu.be/u_jPs5lUdBc
ジェフの使用機材と言えばパールのドラムにパイステシンバルというイメージが強いですが、パールと
エンドース契約を結ぶのは83年の事。わずかな資料しか探せなかったのですが、70年代はラディック・
グレッチ等を使用していたとの事で、ラディックはリンゴ・スターの影響によるもの。スネアは
スリンガーランドの名器『ラジオキング』をメインに使っていたそうです。タイトでありながら
しっかりと鳴っているそのスネアは少なくとも80年代初頭まで使われたのではないかと思われます。
木胴(単板メイプル)らしい温かみのある音はこの時期のジェフを象徴する音色です。80年代前半
辺りから、ラディック ブラックビューティーやパールのスネア(共に金属胴 ブラスシェル)を
使用するようになりましたが、個人的にはジェフのスネアはウッドシェルの音色が好みです。
勿論セッションによって機材は変えていたらしいので、全てがそうではない事は言わずもがなです。

おそらくジェフのセッションワークで最も語られることの多いボズ・スキャッグスの名盤「Silk Degrees」
(76年)。ジェフ本人もインタビューにて、自身のプレイの中で最も納得している一つと語っています。

ジェフのドラミングではそのタイトに刻まれるハイハットワークもよく取り上げられます。皆がドラムに
興味がある方という訳でもないでしょうから、簡単にハイハットとは何かを。まず主に銅や錫といった金属を溶かして鋳型に流し込んで固めた後職人が丹精込めてコツンコツンと…長いわ!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ
左足で操作する合わせシンバルですね。叩いて良し・踏んで鳴らして良し、また足による開閉と手のショットを組み合せた”チッ・チー・チッ・チー”といったオープン・クローズ奏法と、ヴァリエーションに富みます。
ジェフが刻むハイハットはそれだけ聴いているだけで気持ちよくなるほどです。前述の通りパイステの
イメージが強いのですが、ある時期まではジルジャンを使用していたとの事。正直70年代中期のこの音が
どちらのメーカーであるかは判別出来ません。私見では何となくジルジャンっぽい気もしますが…
あまりにもベタですが、そのハイハットワークを味わうなら何と言ってもこの曲。「シルク・ディグリーズ」
からの大ヒットシングル「Lowdown」。ちなみにオーヴァーダビングされ、左右に振り分けられています。
ジェフは当初シンプルに4分・8分で刻んだそうですが、周囲の人達の”16分音符でも刻んでみれば?”
という要望に応え、結果その両方が採用されこの名演が出来上がりました。実際にジェフにはハイハット
のみを叩いて欲しいという依頼もよく来たそうです。

私も今回調べていて初めて知ったのですが、「シルク・ディグリーズ」と同時期にほぼ同様の面子でボズが
プロデュースしたあるアルバムのレコーディングが行われていました。レス・デューデック(Les Dudek)の1stアルバム「Les Dudek」。デューデックという人はボズと同じくスティーヴ・ミラー・バンドに
在籍し、ボズのバックでギターを弾いていた事もあり、その縁から彼のプロデュースの下にアルバム制作と
なったようです。ここでのジェフのプレイもシルク・ディグリーズに負けず劣らず素晴らしいものです。
本作からオープニングナンバーである「City Magic」。

https://youtu.be/jMrOVfYaebI
当然の事ながら、とても一回では書き切れませんのでジェフ・ポーカロ回は次回以降も続きます。

#62 Rosanna

前回まで続けてきたホール&オーツ回の#57にて、彼らの70年代後半のアルバムにおいて、
豪華な顔ぶれのセッションミュージシャンが参加していることについて少し触れました。
RCAに移籍してからはN.Y.とL.A.のそれぞれで録音することがあったようですが、
その参加ミュージシャンの面子の中で、ジェフ・ポーカロ、スティーヴ・ルカサー、
スティーヴ・ポーカロの名前があります。彼らの名前を聞けば昔の洋楽がお好きな方なら
すぐにピンとくるでしょう。そう、今回のテーマは76年にL.A.で結成されたTOTOです。

 

 

 


ジェフ・ポーカロ(ds)とデヴィッド・ペイチ(key)を中心にバンドは形成されました。
メンバーの参加した経緯とその変遷を記すとそれだけでかなりのボリュームになってしまいますので、
その辺を知りたい方は日本版のウィキ等をご参照ください。
このバンドについて語られる時よく挙げられる事柄が二つ、スタジオミュージシャンが作った
バンドであるという事と、もう一つがそのユニークなバンド名の由来です。前者は事実であり、
特にボズ・スキャッグスの代表作「Silk Degrees」(76年)に主要メンバーが関わっている事は
よく語られます。もう一つのバンド名について、様々な説があり、メンバーのコメントも一貫して
いないということもありますが、ただ一つ言えるのは、昔日本では真実と思われていた、
某大手衛生機器メーカーを元にしたという説は正しくないということです。日本ではTOTOと
全て大文字で表記されるのですが、欧米ではTotoと表記されます。本ブログでは日本式で。

https://youtu.be/aOl9QiIhYA0
その音楽性はアメリカ的プログレッシブロック(イギリスのそれとは異なる、明るく開放的な
スペイシーサウンドと呼べるもの)、ストレート&ハードなロックナンバー、メロディックなバラード、
と、ここまでは同時期に活躍し、よく並んで比較されるジャーニー、スティックス、ボストン、
カンサスといったバンドと同様ですが、彼らはそれプラス、AOR・クロスオーヴァー的な
音楽性を持ち合わせていました。メンバーの全てが腕利きのセッションミュージシャンであり、
西海岸を拠点にロック・ポップスからジャズフュージョン寄りのセッションまでをこなしていた
彼らの幅広く優れた技術・音楽的素養に裏付けされたものでした。それらが関係しているか
どうかは定かではありませんが、ボストンやジャーニー達が圧倒的にアメリカ本国やカナダと
いった北米圏での人気が高かったのに対し、TOTOについては、ヨーロッパ圏・その他においても
その人気が高く(勿論日本でも)、それらの国でもゴールド・プラチナディスクを獲得しています。

あまりにいつもレコーディングで顔を会わせていたので、「オレたちでバンド組んだらよくネ?!」
と、言ったとか言わないとか(”よくネ?!”、とは言ってないと思う………絶対に…)。
この点においては、同じ様な経緯でバンドを結成したN.Y.の『Stuff』が比較されます。
ただStuffがジャズフュージョン・R&Bをその音楽性の根底にしているのに対し、TOTOは
あくまで”ロックバンド”である、という点が異なりました。

デビューアルバム「Toto(宇宙の騎士)」(78年)は全世界で400万枚以上を売り上げるビッグヒット。
後述する最大のヒット作である4thアルバムまで、基本的にその音楽性はこの1stから一貫しています。
何よりも成功の要因で最も大きなものは”わかりやすさ”、この言葉に語弊があるならば”ギミックに
陥る事のないカッコ良さ”、とでも言い換える事が出来ると思っています。前述の通り、一流のセッション
ミュージシャンの集まりであり、その気になれば超絶技巧を尽くして聴衆を圧倒させる様な
音楽も出来るの
ですが、彼らはそれはしませんでした。例えばフロントマンであるギターのルカサー。ライヴでは別として、スタジオ盤ではあえて音数を抑えて、そのトーンやニュアンスを優先したプレイです。シンプルでタイトな
カッティング、速さや複雑さよりも琴線に触れる様なソロプレイ。しかしその合間、何気に超絶テクニックがさらりと顔を出す瞬間があり、それがまたニクイのです。これは他のメンバー全てに言える事です。2nd「Hydra」、3rd「Turn Back」も続けてミリオンセラー、しかしこれはまだ序章でした。

全世界で1200万枚を売り上げ、最大のヒット作にて言わずと知れた代表作「Toto IV(聖なる剣)」。
本作からの1stシングルである「Rosanna」。ジェフの流れるようなシャッフルビートの上で展開される
本曲は、高度な演奏技術とアレンジに基づきながら、決して難しい音楽と認識させずにポップさを失わない、といった相反するものを両立させた彼ららしい、そしてこの時代を切り取った様なコマーシャルな楽曲です。
本作は82年のグラミー賞を総なめにし、その実力は勿論、世間からの評価も揺るぎないものとしました。
先述の通り、米国・カナダのみならず世界各国でもその人気は高いものでした。英・仏・独・蘭・豪・
フィンランド、そして日本でもゴールド・プラチナを獲得、その幅広い音楽性と技術によるものでしょう。

86年発表の「Fahrenheit」には何とも豪華なゲストが目立ちます。マイケル・マクドナルド、
ドン・ヘンリー、デヴィッド・サンボーン(彼らはジェフの友達)だけでもすごい面子ですが、
エンディング曲である上記の「Don’t Stop Me Now」には何とマイルス・デイヴィスが参加しています。
スティーヴ・ポーカロ(ジェフの弟)がマイケル・ジャクソンに提供し、ビッグヒットとなった
「ヒューマン・ネイチャー」。マイルスはこれを自身の作品で取り上げ、当時ライヴでもレパートリーと
しており、スティーヴに作曲の依頼もしてきました。その縁でジェフとも交流が生まれました。
ある日マイルスがジェフの家に来た時に、ジェフの描いた絵をマイルスが気に入りそれを欲しがりました。
勿論プレゼントしましたが、「絵の代わりに何が欲しい?」と聞かれ、マイルスも絵を描くことを
知っていたジェフは、「では貴方の描いた絵と交換しましょう」と言うと、マイルスは二つ返事で
その場にて描き始めて、それが出来上がった後に、「もっと何かあげなければいけない」と言いました。
マイルスが簡単にプレイすることは無いのをジェフは知っていましたが、思い切ってTOTOの作品で
トランペットを吹いてくれないかと頼みました。するとマイルスは「君の為に吹こう、もし気に入って
くれたらどうぞ使ってくれ」と言ったのです。マイルスは義理・付き合いなどでプレイする事は
無かったと言われています。ジェフ達を認めたからこその、先の発言となったのです。

92年8月、ジェフが38歳の若さで急逝してしまいます。新作の収録を終えた直後の事でした。
ヨーロッパではその翌月に急遽リリース(この辺りからも彼らのヨーロッパでの人気が伺えます)、
本国では93年5月にジェフの遺作となる「Kingdom of Desire(欲望の王国)」が発売されます。
ジェフの後任にはイギリスが誇るセッションドラマー サイモン・フィリップスを迎え入れ、
バンドはその後も活動を続けます。しかし、本国アメリカでは90年代以降は目立ったヒットはなく、
過去の人扱いされているかもしれませんが、ヨーロッパその他の地域では依然として根強い人気を
誇り、現在のところ最新作である「Toto XIV(聖剣の絆)」(15年)のチャートアクションを
見てみると、米での98位に対し、日本とオランダでは2位、スイスでは3位となっています。
ポップミュージックの中心がアメリカであることは紛れもない事実ですので、アメリカで売れて
いないと人気が無いと、ややもすれば捉えられがちですが、当然の事ながら音楽の市場は
米国のみならず世界中にあるのです。彼らの存在はそれを改めて教えてくれます。

#61 I’m in a Philly Mood

90年代以降のホール&オーツについては、前回の終わりで少し触れた通り、アルバムの
TOP40入りはベスト盤を除き一枚もなく、シングルもTOP20以内にランキングされた
のは「So Close」(90年)のみです。レコード・CDセールスだけを取ってみれば、完全に
”過去の人”となってしまいました。
実は80年代後半から、彼らの周りでは色々問題が起こっていたようです。まずはそれまで
長年に渡り彼らのマネージメントを務めてきたトミー・モトーラが彼らの元を去ります。
このモトーラという人物、洋楽に詳しい方ならその名前を耳にしたことがあるかもしれません。
CBSとコロンビアという大レコード会社をソニーが買収し、その後ソニー・ミュージック
エンタテインメント(SME)という一大音楽事業会社となります。モトーラは同社の初代
最高経営責任者となります。マライア・キャリーを世へ送り出し、その後彼女と結婚・離婚。
またマイケル・ジャクソンには”悪魔”とまで罵られた人物。モトーラの人となりや功績については
ここで詳しくは言及しませんが、SMEに移る直前までホール&オーツと関わっていました。
金銭面の管理など一切を任せていたモトーラがいなくなることはかなり影響があったようです。
また同時期にジョンは離婚し、そして91年にはホール&オーツはその活動を一旦休止します。
これらの経緯だけを見ると、内部的なゴタゴタを抱え、やがて世間からその音楽も飽きられていった
過去のミュージシャンと捉えられてしまうかもしれません。勿論その取りようは人それぞれなので
構いませんが、別の見方も出来るのです。それは無理してメインストリームに居続ける気もなくなった、
また時代の最先端の音楽を作り続ける考えもなくなったのではないかと。すこしおぼろげな記憶なのですが、
当時のインタビューで、40歳も過ぎた事だしこれからは少し落ち着きたい、音楽性についても
これまでとは違った、例えばカントリー&ウェスタンの様なものにもチャレンジしてみようかと思う、
といった様なコメントがあったような記憶があります(ひょっとしたら私の勘違いかも・・・)。

00年代になって、彼らは80年代について振り返って言及しています、『クレージーな日々だった』、と。
飛ぶ鳥を落とす勢いだったあの時代は、プライバシーもなく、買い物へもおちおち出ていけない、
全く気が滅入る状況だったと。さらに、自身達をスターダムへのし上げる一助となったMTVについて、
実は決して快く思っていなかった事をも告白しています。始めのうちこそ上手く利用しようと立ち回っていた
ものの、あまりにその陳腐さ、創造性の無さに辟易としていったと語っています。
前回触れた85年のテンプテーションズとの共演を果たした時点で、やる事はやり尽した様な、所謂
”燃え尽き症候群”となってしまったそうです。日本版のウィキでも記述されている通り、91年からの
活動休止は割と知られていますが、実はそれ以前に、85年から三年間に渡りホール&オーツとしての活動は
一時休止しています。ダリルはソロ活動を、ジョンは充電期間を過ごします。
先述の通り、90年代以降は決して以前の様なビッグヒットは産み出さなくなりましたが、その音楽性自体も
低下したかのどうか、これは聴く人の主観によるものなので一概には言えませんが、一つ言える事は、
デビュー当時にあったような内省的な曲調が再び垣間見られるようになった事です。上記の動画は前述した
「So Close」のアコースティックヴァージョン(95年のライヴ)ですが、内省的かつ、それまでは
ダリルのソロにおいてしか感じられなかったヨーロッパ的感性が、ホール&オーツの楽曲においても
表れてきています。一生贅沢出来るだけの金を稼いだので、あとは好き勝手に音楽をやろう、といった
訳ではありません。どころか、80年代後半の活動休止が響いて、90年頃には経済的に困窮してしまいます。
不動産、飛行機、高級車を売り払うまでして対処しなければならない状況でした。90年発表の
「Change of Season」は、狂騒的だった80年代を自戒を込めて総括した作品だったのかもしれません。

91年からの活動休止中に、彼らにとって大変ショッキングな出来事が起こります。ダリルの恋人である
サラ・アレンの妹 ジャナが93年8月、37歳の若さで急逝します。前回までの記事にても触れて
きましたが、姉のサラと共に、ホール&オーツを作詞・作曲面でサポートしてきた、というよりも、
80年代に関して言えば、四人一組で作品を創り上げていったと言っても過言ではありません。
姉のサラは言うまでもありませんが、ダリルの悲しみも筆舌に尽くしがたいものだったそうです、
ジャナの誕生日にはわざわざ飛行機で駆けつけて、彼女が欲しがっていたギターをプレゼントしに
行ったほどの可愛がりようだったそうです。翌9月にリリースとなったダリルのソロアルバム「Soul Alone」のエンディングにはジャナが作曲に関わった「Written in Stone」が収録されています。

同作に収録され、第一弾シングルとなった「I’m in a Philly Mood」。曲調こそは当時流行のブラック
コンテンポラリー的なものですが、タイトルが示す通り、少なくともその音楽的精神はダリルの原点へと
立ち返った事を歌ったものではないかと私は思っています。

ホール&オーツについて語られる時、どうしてもダリルの話題が中心となってしまいます。かくいう
本ブログでも、取り上げてきたのは#56の「She’s Gone」以外は基本的にダリルの曲となって
しまいました。00年代のインタビューにて、ジョンは自身の事を「世界で最も高給取りのバックシンガーさ」などと、かなり自虐的なジョークを飛ばしていますが、ジョンは非常に優れたシンガーであります。
ジョンの曲・リードヴォーカルでどれか一曲と言われれば、「モダン・ヴォイス」(80年)収録の
「How Does It Feel to Be Back」か、こちらか悩む所なのですが、リアルタイムで聴いていたことも
あって今回はこちらを選びます。「Big Bam Boom」(84年)のエンディングに収録された「Possession Obsession」(曲はダリル・ジョン・サラの共作)。「How Does~」も是非聴いてみてください。

01年にダリルとサラは、その30年近くに渡って続いた恋人関係に終止符を打ちます。しかしその後も
良好なフレンドシップの関係は続いていると言われています(一緒にインタビューも受けてたりします)。
各々がソロ活動を行いながら、ホール&オーツとしての作品は06年のクリスマスアルバムが最後ですが、
二人でのツアーは行っており、一番最近の活動としては17年10月にロンドンで演奏しています。
かなりの日本びいきであり、日本版のウィキに書いてある通り来日公演もかなりの回数をこなしています。
ちなみにベストヒットUSAの最多出演回数もホール&オーツの二人です(勿論小林克也さんを除く…)。

最後にご紹介するのは、90~00年代にかけて彼ら、ないしダリルがソロでレパートリーとしていた曲。
72年のビリー・ポールによるNo.1ヒット「Me and Mrs. Jones」。”最後はオリジナルを
取り上げる
べきだろ!”、というお声は勿論承知の事ですが、このフィラデルフィアソウルを代表する名曲は、
彼らのその当時の音楽的姿勢が表れているものと私が思っている事と、役者で”ハマリ役”という言い方が
ありますが、ダリルにとっての”ハマリ歌”と言えるこの歌唱・演奏があまりにも見事なので取り上げざるを
得ませんでした。ホール&オーツ回の最後なので、二人の演奏を取り上げるのは当然なのですが、
ダリルのソロもあまりに素晴らしいので、どうせなら両方張ります。是非どちらも聴いてください。

以上、6回に渡ってホール&オーツを取り上げて来ました。こんなに長く書くつもりは当初なかったの
ですが、実は彼らは洋楽を聴き始めた頃、能動的に聴いてみたいとおもった初めてのミュージシャンです。
初めの頃はヒットチャートの上位に入った曲だけを聴いていたものですが、彼らはその中で初めて
”この人達の音楽をもっと知りたい”、と思い過去に遡って聴くようになったミュージシャンでした。
ただのオッサンのノスタルジーと思って下さって結構ですが、若い方達にも少しでも伝わればこれ幸いです。

#60 Method of Modern Love

83年10月、ホール&オーツは新曲2曲を含むベストアルバム「Rock ‘n Soul Part 1」を発表。
本作からのシングルカット「Say It Isn’t So」も全米2位の大ヒット。ちなみに1位を阻んだのは
ポール・マッカートニーとマイケル・ジャクソンによるデュエット曲「Say Say Say」でした。
ダリルいわく”80年代におけるフィラデルフィアサウンド”という楽曲。シングルと
アルバムヴァージョンが異なりますが(上記はシングル)、個人的にはアルバム版の方が秀逸かと。
「Rock ‘n Soul Part 1」も当然大ヒット。私の世代だと本作にて過去のヒット曲を知った、
という人が多いのでは。80年代前半はこの様にベストアルバムだけど新曲も入っている、という
パターンが多かったような気がします。スティービー・ワンダー、ビリー・ジョエル、カーズなど
同様のベスト盤をリリースしていました。新しい客層は勿論、既存のファンもちゃんと買えよ、
というあこぎ… もとい、商売上手なリリースの仕方です。
本アルバムとあわせて、ライヴの模様を収めたビデオ「Rock ‘n Soul Live」(同年3月の
カナダ ケベック州公演)も発売されました。現在はユーチューブで観れてしまいます。

「Rock ‘n Soul Part 1」のエンディングに収録されたカナダ公演での「Wait for Me」。
オリジナルは「モダン・ポップ」(79年)に収録され、同作からの1stシングルとして全米18位と、

彼らとしてはスマッシュヒットといった程度のチャートアクションでしたが、本ベスト盤に
収められたこのライヴヴァージョンは、ファンの間で非常に人気の高いテイクです。

 

 

 


84年10月、アルバム「Big Bam Boom」をリリース。1stシングル「Out of Touch」は
これまた全米No.1ヒット。本作はヒップホップ色が強くなり、また当時流行しつつあった
ラップも取り入れるなど、かなり時代の最先端を行ったサウンドでした。ゲートリバーブの
効いたドラム、金属的なベース音、煌びやかなシンセの音色などはこの時代らしいものです。

今回のテーマである同作からの2ndシングル「Method of Modern Love」。
初めて聴いた時は「何かヘンな曲…」、と思ってしまいます。テーマの部分が全てにおいて、
脱力しているというか、悪い言い方をすれば腑抜けたように聴こえます。ブラス音のシンセによる
フレーズ、パーカッション、そして『M-E-T-H-・・・』と連呼するコーラス、これら全てが
”やる気あるんかい!”というようなものです。歌のパートに入ると、浮遊感と言えば聞こえは
良いのですがやはり気が抜けています。唯一G. E. スミスによるボリューム奏法を駆使したギターが
やや緊張感を保っている程度で、とにかく全てにおいて緊張感に乏しい楽曲です、途中までは・・・
しかし後半から一変します(上の動画で言うと3:50辺り)。一聴すると転調でもしたのかと
思うほどガラッと変わりますが、このコーダのパートは歌でのBメロにおけるコード進行の上で
成り立っています(若干違う部分も出てきますが)。テーマでひたすら繰り返されてきた
『M-E-T-H-・・・』のコーラスが当該パートのコードに基づいて改めて歌われ、
シンセの音色が煌びやかなものに変わり、そして何よりダリルのヴォーカルが変わります。
これだけで全く曲の印象・曲調が変わる事は非常に興味深いものです。勿論全てはコーダに
おけるダリルの歌をより引き立たせるため。そのために中盤までの気の抜けた様な曲調・サウンドが
あったのです(少しヒドイ言い方かな…)。ここにおけるダリルのヴァーカルは圧巻の一言。
当時ダリルは30代後半、シンガーとして最も”脂の乗っていた”時期だったと言えるでしょう。
ビデオもその曲調に沿って制作されています。中盤まではコミカルな作り、特にドラムの
ミッキー・カリーが手に持って叩いているものに注目してください、トイレ用のブラシと所謂
”スッポン(ズッポン)”です(正確にはラバーカップというらしいですが)、いくら何でも・・・

飛ぶ鳥を落とす勢いのホール&オーツにさらに嬉しい出来事が起こります。85年7月、イギリスの
ブルーアイドソウル・シンガー ポール・ヤングによる彼らのカヴァー曲「Everytime You Go Away」
が全米1位となります。本曲は「モダン・ヴォイス」(80年)に収録された曲。
#57にて本アルバムにはもう一つ重要な楽曲がある、と述べたのはこの事です。
私のおぼろげな記憶では、ダリルとP・ヤングが一緒に歌った映像を観た記憶があるのですが
(多分ヤングが何某かの賞を受けた時のステージにて)、今回いくら探しても出てきませんでした。
代わりに85年5月に黒人音楽の殿堂 アポロシアターにて彼らのアイドルであったテンプテーションズの
デヴィッド・ラフィン、エディ・ケンドリックスと共演した際に取り上げていますので、今回はこちらを。
ちょうどヤングのヴァージョンがチャートを駆け上っていた頃であり、冒頭でカヴァーの事に触れています。

このコンサートは「Live at the Apollo」としてレコード化され、これまたヒットしています。

86年8月、ダリルは2枚目のソロアルバム「Three Hearts in the Happy Ending Machine」を発表。
1stシングル「Dreamtime」は全米5位の大ヒット。本作はユーリズミックスのデイブ・スチュアートが
プロデュースを務めており、前作同様、ホール&オーツとは異なるカラーを打ち出しています。やはり
ダリルの中にはイギリス・ヨーロッパ的感性が潜んでいるのではないかと思われます。ちなみに、
「Dreamtime」は90年代前半に日本でミリオンセラーとなったある曲の元ネタになったのでは、
としてその手の話としては定番です。興味のある人はググってみてください。
88年、アルバム「Ooh Yeah!」をリリース。第一弾シングル「Everything Your Heart Desires」が
全米3位の大ヒットとなり、アルバムもプラチナディスクを獲得します。
しかしオリジナルアルバムとしては本作が最後のプラチナとなり(01年のベスト盤は獲得しましたが)、
商業的勢いはこの頃を境に、徐々に下降線をたどる事となっていきます。
ではその中身、音楽的にも低迷していったのでしょうか?そのあたりは次回にて。

#59 One on One

冒頭は、前回長くなりすぎて書き切れなかった話から。
「I Can’t Go for That」は歌詞も一筋縄ではありませんでした。ザックリとした内容は、
『君の望むものはなんだってしてあげる、けど、そいつは無理だよ。それだけは勘弁してくれ
俺にはそれはできないよ』。概ねこの様な歌詞です。当然男女間の事柄を歌っているものと
一般的には捉えられています。勿論その意味合いにも取れるように書かれたのでしょう。
ところが、ジョンは14年にあるインタビューにて語りました。『実はあの歌詞はミュージック・
ビジネスについて書いたんだ。レコード会社・マネージメントサイドに左右されるのではなく、
自身の創造性に正直になるべきだ、と。』30年以上経って驚きのカミングアウトです。
ここから先は全くの推論です、よろしければお付き合いください。
キッス・オン・マイ・リストの大ヒットによって、周囲は再びあの類の曲を出せば売れる、
と考えるでしょう。これは商業音楽ですから致し方ありません。二人にも、極端な言い方を
すれば次作は全曲キッス・オン・マイ・リストの様な曲で、と望んだかもしれません。
実際アルバム「プライベート・アイズ」はブラックミュージック色のナンバーは減っています
(私見ではA-②、③、B-⑤の3曲)。しかしすべてをポップソングにすることは出来なかったのです。
まさしく”そいつは無理だよ、それだけはできないよ”、と。「I Can’t Go for That」は男女間を
歌った様に見せかけた、ショウビズ界へのアンチテーゼだったのではないでしょうか。
また本作では、アレン姉妹の活躍が目立ちます。それまではアルバムにつき1~3曲だったのが、
11曲中7曲に関わっています。彼女たち(特にジャナ)はポップソングをつくる才に長けて
いたようです。これにも周囲から「サラとジャナの力をもっと借りたらイイんじゃない?」、という
提言というか誘導があったのでは、と勘繰ってしまいます。もっとも単純に、アルバムを出すのに
ダリルとジョンだけでは曲が足りなかったから、というのが一番の理由だったかもしれないですが…

82年10月、アルバム「H2O」をリリース。1stシングル「Maneater」も当然のように全米No.1。
この曲は所謂”モータウンビート”と呼ばれるリズムで、代表的なものはシュープリームズの代表曲の
一つである「You Can’t Hurry Love(恋はあせらず)」(66年)。数多くのミュージシャンに
カヴァーされているあまりにも有名な楽曲ですが、私の世代だとフィル・コリンズによるカヴァー(82年)の
方に馴染みがあります。80年代前半はこの手の曲が結構流行りました。ビリージョエル「Tell Her About It
(あの娘にアタック)」(83年)、カトリーナ&ザ・ウェーブズ「Walking on Sunshine」(85年)、
スティーヴィー・ワンダー「Part-Time Lover」(85年)等々。日本では原由子さんが83年にリリースした
「恋は、ご多忙申し上げます」(曲は桑田佳祐さんによるもの)などがありました。

今回のテーマである2ndシングル「One on One」。ダリルが自身の作において最も気に入っていると
公言している曲です。「I Can’t Go for That」同様に機械然としたリズムマシンによるビートの上で
展開される楽曲ですが、こちらはだいぶ印象が異なります。無味乾燥なものとはならず、ほんのりとした
温かみを感じさせる楽曲です。バンドのベーシスト トム”Tボーン”ウォークと一緒にいる時にアイデアが
浮かんだとの事。ウォークの素晴らしいベースラインが特筆に値すると共に、ダリルのヴォーカルは
やはり見事としか言いようがありません。前回「I Can’t Go for That」を”クールでホットなソウル”と
形容しましたが、本曲は”クールかつハートウォーミングなソウルバラード”といったところでしょうか。
本曲の歌詞もまた非常に興味深いものです。一聴するとバスケットボールと恋愛事をかけた様な内容。
『チームプレイ(グループ交際みたいな意か?)はもうウンザリだ。一対一で、今夜君とプレイ・ゲームを
したいんだ』かなりエロティックな意味に取れます。勿論その意味にも引っ掛けたのでしょうが、
後のコメントにて実はコンポーザー・ミュージシャンとしてのスタンスを歌ったものだと語っています。
ジョンやサラ、ジャナとの共同作業がイヤだったとかいう訳ではなかったのでしょうが、一人の表現者と
しての自身を確立したい、といったくらいの意味合いを含ませたのでなかったかと思われるのです。
この意味においての”君”は「音楽」に他ならないでしょう。
ダリルは若い頃、外で遊ぶよりも本を読むことが好きだった、という文学少年・青年であり、
彼の創る歌詞にはこの様な、先述の「I Can’t Go for That」もそうですが、ダブルミーニング、
裏の意味を持たせたものがしばしば見受けられます。「キッス・オン・マイ・リスト」も
ラブソングの様に思えますが、実はアンチラブソングだ、と本人が後に語っています。

https://youtu.be/wXSeuPf4–U
3rdシングル「Family Man」。英国ミュージシャン マイク・オールドフィールド作のカヴァーです。
オールドフィールドの名前は知らなくても、映画「エクソシスト」のテーマ、と言えば殆どの人は
ピンとくるのでは。あの印象的なフレーズは「チューブラー・ベルズ」(73年)のイントロ部分です。
実は映画においては当初無断使用で、しかも勝手にアレンジされたもの。当然もめるのですが、結果的に
映画の大ヒットにより皮肉にも「チューブラー・ベルズ」はベストセラーを記録することとなります。
「Family Man」は「Five Miles Out」(82年)に収録されている楽曲。「サラ・スマイル」の頃や、
「キッス・オン・マイ・リスト」以降のホール&オーツしか知らなければ、なぜ彼らがイギリスの
プログレ系ミュージシャン マイク・オールドフィールドの曲を?、と首を傾げたでしょう。
しかし70年代後半におけるダリル達の活動を見れば本曲の起用は全く違和感のないものです。
「プライベート・アイズ」の大ヒットによって、この頃には彼らのレコード会社やマネージメントサイド
への発言力も増していたのではないかと思います。アルバム「H2O」は前作よりも実験色が強くなって
いますが、時代の勢いもあったのでしょうけれども、本作はホール&オーツにおいて最も好セールスを
記録したアルバムとなりました。

ホール&オーツ回はもうちょっと続きます(いつまで続くのかな・・・(´・ω・`))。

#58 I Can’t Go for That (No Can Do)

キッス・オン・マイ・リストの大ヒットによって、再びポップミュージックの
メインストリームに躍り出たホール&オーツですが、そこからちょっとだけ時間を遡ります。
80年3月、ダリル・ホールは初のソロアルバム「Sacred Songs」をリリースします。
実はこのアルバム、77年には録り終えていたのですが、その後約3年に渡ってお蔵入り
されていたといういわくつきの作品。理由はホール&オーツの音楽性とのギャップから、
彼らの人気及び世間からの評価、といった影響をRCA側が考慮したものでした。

 

 

 


プロデューサーはキング・クリムゾンのロバート・フリップ。ブルーアイドソウルの
ダリルと英国プログレッシヴロック界を代表するフリップ、一見すると全く相容れない
様な組み合わせに思えます。キング・クリムゾンについては#15~17で取り上げましたので、
詳しくはそちらを(と言って、さりげなく過去記事へ誘導…)。
出会いのきっかけについては詳しくわからないのですが、二人の最初の出会いは74年の事。
その時にはすでに互いの作品についてそれぞれ精通していて、一緒に仕事をしようと意気投合していた
そうです。意外なのは、74年ということはホール&オーツに関して言えば「サラ・スマイル」が
ヒットする前、世間的には殆ど認知されていなかった彼らについて、海を隔てたフリップが彼らの
音楽を知っていたという事です。77年、ヒットは出したものの、それよりも表現者としての自身に
とってこれからの音楽、ひいては人生においてもっと重要なものがあるのではないかと、その見通しに
限界を感じ悩んでいたダリルは再度フリップへ連絡を取ります。
前々回#56にて、3rdアルバム(74年)が奇才トッド・ラングレンによるプロデュースという事に
ついては触れましたが、これに関してダリル達からの要望だったか、レコード会社側からあてがわれた
ものなのか、そのいきさつについては調べてみてもわかりませんでした。トッドはアメリカ人であり、
またその音楽がプログレにカテゴライズされることはあまりないと思いますが、一般的なアメリカン
ミュージックには収まり切らないワンアンドオンリーな音楽性でした。いずれにしろ74年時点において、
ダリルがロック・ソウル・フォークといった音楽のみならず、プログレをはじめとした非アメリカ的音楽に
関心を持った、あるいは既に持っていたのではないかと推測できます。
「Sacred Songs」については、フリップの曲及び二人の共作以外、つまりダリルの曲は
ホール&オーツ初期にあった様な比較的地味めの小作品集と呼べるもの。しかし、本作がその後の
ダリルの音楽性へ影響を与えた事は想像できます。
ちなみに本アルバムが発売延期されたことで、今度はフリップのソロ作「Exposure」(79年)に
ダリルが参加する運びとなります。この時期、フリップは本作、ピーター・ガブリエルの2ndアルバム、及び自身の「Exposure」を三部作と位置付けていました。ピーターの作品にダリルは関わっていませんが、
これら一連の活動を通じてそれまでには無かった”引き出し”を獲得出来たのではなかったでしょうか。

81年9月、アルバム「Private Eyes(プライベート・アイズ)」をリリース。先行シングルである
タイトル曲は全米No.1の大ヒット、あまりにも有名な彼らの代表曲です。元々この曲は
ジャナ・アレンとウォーレン・パッシュというソングライターによって作られた曲。
だいぶ前ですが、BS-TBSの『SONG TO SOUL』という、過去の洋楽におけるヒット曲
及びそれが生まれた背景を紹介する番組で本曲が取り上げられていました。ジャナのアルバム用に
作られたものだったのですが、ある日ジャナからパッシュへ電話があり、この曲は使わない事に
したとの旨を告げられます。パッシュは「仕方ないね、イマイチの曲だったし…」と言いかけたところ、
ジャナは「違うわよ、ホール&オーツが使いたいと言っているのよ!」との事、パッシュは仰天します。
ダリルがコードを付け直す等のアレンジをし、サラと共に歌詞を書いて本曲は完成しました。
ダリルいわく”ファミリーソング”。サラとは籍を入れる事はなかったのですが事実上の家族だった訳です。
また番組ではホール&オーツ・バンドのギタリストであり、彼らの盟友であるG. E. スミスが
出ていました。シンプルでありながら、あまりにも印象的な、ある意味「プライベート・アイズ」という
楽曲を決定付けたような、あのイントロのフレーズについて語っています。当時、自分はあの界隈で
”最もシンプルに弾くギタリスト”と言われていた、などと自嘲半分・ユーモア半分に述べていました。

今回のテーマである本アルバムからの2ndシングル「I Can’t Go for That (No Can Do)」。
前曲に続いてNo.1ヒットとなり、ベスト盤が出れば必ず収録される代表曲の一つであることは
勿論言うまでもないのですが、本曲は彼らのそれまでにおける他のヒット曲には無い、重要な要素・
意味合いを持っていました。
中学生の時分に初めて聴いた時、悪い曲とは勿論思わなかったのですが、やはりまず気に入ったのは
プライベート・アイズやキッス・オン・マイ・リストといったポップなナンバーであり、
本曲はよくわからないけど不思議な印象の曲だな、と思った記憶があります。
まず耳につくのはリズムマシンによる、悪い言い方をすれば”チープな音色のリズム”。当時のテクノロジーは
勿論今とは比較になりませんが、それにしてもあまりにも”機械然とした”音です。そしてこれまた
あまり血の通った感じのしないギターとシンセによるリフ。ダリルの歌も他と比べると感情表現が
抑えられたクールな歌い方、コーラスも同様です。
本曲が全米No.1になったと前述しましたが、実は彼らの本曲を含めた6曲のNo.1ヒットの中で、
他と異なる点があります。ポップスチャートのみならず、R&Bチャートでも1位を記録したのです
(ついでに言うとダンスチャートでも、全てビルボードにおいて)。R&BチャートでNo.1になる、
つまり黒人層にも受け入れられたという事。これは白人ミュージシャンとしては珍しい事です。
現在では違うかもしれませんが、少なくとも80年代初頭においては、ソウルミュージックというと
アレサ・フランクリンやオーティス・レディングといった魂が揺さぶられる様な歌、生楽器による
血の通った演奏、といったイメージだったと思います。ところが本曲はおよそそれらとはかけ離れている、
というよりむしろ真逆を張った様な楽曲です。この一聴すると無機質かつ人の”魂”を感じさせない様に
思える本曲に対して、当時の黒人層は新しい魅力を感じたようです。
先ほどから無機質・血が通っていないなどと、まるで本曲を貶めるような言い方をしてきましたが、
勿論私もそんな風には思っていません。例えるなら、本曲は陳腐な言い方ですが”クールでホットなソウル”
とでも呼べるもの。チープに聴こえるリズムマシンや無機質なシンセ等の音色・フレーズは明らかに
”狙った”ものでしょう。この様な”クールなグルーヴ”と呼べるリズムは、メインストリームのポップスに
おいてはそれまで無かったものです。あえて感情表現を抑えた中に秘めたソウルを感じさせることに
見事成功しており、また間奏のチャールズ・デチャントのサックスソロもそれによってより活きるのです。

前々回からトッド・ラングレンやロバート・フリップとのつながり、70年代後半における低迷期など
つらつらと書いてきましたが、方向性を見失ったなどと言われる一連の活動は決して無駄だったのでなく、
それらがあったからこそ本曲は生まれたのだと思います。機械然としたリズムマシンの使い方は、
ポップス界では、その1~2年前からフィル・コリンズが自身のソロやジェネシスにて行っていました。
ドラマーであるフィルが、あえて生ドラムとのコントラスト効果を引き立たせたその様なマシンの
活かし方をしたのは興味深いものです。ダリルとフィルに直接の繋がりはなかったようですが、
フリップをはじめとしたイギリスのミュージシャン達との交流から、一見ホール&オーツには全く
そぐわない様に思えるプログレやテクノポップといった音楽から影響を受け、そして遂に本曲にて
それらが音楽的・商業的成功へと開花したのではないでしょうか。
この頃を境に、今度は本家の黒人ミュージシャン達が本曲の様にシンセサイザーやリズムマシンを
積極的に使った、新しいソウル・R&B、ブラックコンテンポラリーと呼ばれるカテゴリーを
創り上げていきます(一例だけ挙げればマーヴィン・ゲイ「Sexual Healing」(82年))。
90年代以降についてはR&Bと言えば、その様な音楽を指すようになったと言われています。
前々回で、ブルーアイドソウルという言葉が黒人側からの差別的ニュアンスもあったと述べました。
しかしここに至って遂に白人側からソウルミュージックへ影響を与える、フィードバックさせる
事となったのです。アンテナの鋭い当時の黒人層が本曲にこれまでには無い魅力を感じ、
”碧い目の奴らがつくったソウルとか何とか関係ねえ!俺たちはこういうのが聴きたかったんだ!”
といった様な感じで受け入れられていったのでは、と思うのです。

また本曲にはあるエピソードがあります。マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」、これが本曲の
ベースラインからインスパイアされ作られた、というもの。「ウィ・アー・ザ・ワールド」(85年)の
レコーディング時にマイケルはダリルへその事を告白します。その時ダリルが言ったのは、
『僕の曲を参考にしたと君は言うが、それはそれまでに君が聴いてきた他の様々な曲、君の中に
あるもの、血肉となっているものから生まれたんだよ。我々ミュージシャンは何かしらそういった
ものの積み重ねから、皆同じようなことをやってきているんだよ』の様な旨。少し意訳した部分も
ありますが、音楽というものはそれまでの色々なものがミクスチャーあるいはフィードバックされて
産み出され、また次世代へ受け継がれていくんだということ。ダリルが言いたかったのは概ねこの様な
意味であったのは間違いないでしょう。黒人音楽に憧れ、そのような音楽を作りたいとその道を
志した白人であるダリルが、当時は既にCBSへ移籍していましたが、元はソウル本家であるモータウンの
看板シンガーであった黒人のマイケルへ今度は影響を与える。すべては廻り回って繋がっているのです。