#59 One on One

冒頭は、前回長くなりすぎて書き切れなかった話から。
「I Can’t Go for That」は歌詞も一筋縄ではありませんでした。ザックリとした内容は、『君の望むものはなんだってしてあげる、けど、そいつは無理だよ。それだけは勘弁してくれ俺にはそれはできないよ』。概ねこの様な歌詞です。当然男女間の事柄を歌っているものと一般的には捉えられています。勿論その意味合いにも取れるように書かれたのでしょう。ところが、ジョンは14年にあるインタビューにて語りました。『実はあの歌詞はミュージック・ビジネスについて書いたんだ。レコード会社・マネージメントサイドに左右されるのではなく、自身の創造性に正直になるべきだ、と。』30年以上経って驚きのカミングアウトです。ここから先は全くの推論です、よろしければお付き合いください。
キッス・オン・マイ・リストの大ヒットによって、周囲は再びあの類の曲を出せば売れる、と考えるでしょう。これは商業音楽ですから致し方ありません。二人にも、極端な言い方をすれば次作は全曲キッス・オン・マイ・リストの様な曲で、と望んだかもしれません。実際アルバム「プライベート・アイズ」はブラックミュージック色のナンバーは減っています(私見ではA-②、③、B-⑤の3曲)。しかしすべてをポップソングにすることは出来なかったのです。まさしく”そいつは無理だよ、それだけはできないよ”、と。「I Can’t Go for That」は男女間を歌った様に見せかけた、ショウビズ界へのアンチテーゼだったのではないでしょうか。
また本作では、アレン姉妹の活躍が目立ちます。それまではアルバムにつき1~3曲だったのが、11曲中7曲に関わっています。彼女たち(特にジャナ)はポップソングをつくる才に長けていたようです。これにも周囲から「サラとジャナの力をもっと借りたらイイんじゃない?」、という提言というか誘導があったのでは、と勘繰ってしまいます。もっとも単純に、アルバムを出すのにダリルとジョンだけでは曲が足りなかったから、というのが一番の理由だったかもしれないですが…

82年10月、アルバム「H2O」をリリース。1stシングル「Maneater」も当然のように全米No.1。この曲は所謂”モータウンビート”と呼ばれるリズムで、代表的なものはシュープリームズの代表曲の一つである「You Can’t Hurry Love(恋はあせらず)」(66年)。数多くのミュージシャンにカヴァーされているあまりにも有名な楽曲ですが、私の世代だとフィル・コリンズによるカヴァー(82年)の方に馴染みがあります。80年代前半はこの手の曲が結構流行りました。ビリージョエル「Tell Her About It(あの娘にアタック)」(83年)、カトリーナ&ザ・ウェーブズ「Walking on Sunshine」(85年)、スティーヴィー・ワンダー「Part-Time Lover」(85年)等々。日本では原由子さんが83年にリリースした「恋は、ご多忙申し上げます」(曲は桑田佳祐さんによるもの)などがありました。

今回のテーマである2ndシングル「One on One」。ダリルが自身の作において最も気に入っていると公言している曲です。「I Can’t Go for That」同様に機械然としたリズムマシンによるビートの上で展開される楽曲ですが、こちらはだいぶ印象が異なります。無味乾燥なものとはならず、ほんのりとした温かみを感じさせる楽曲です。バンドのベーシスト トム”Tボーン”ウォークと一緒にいる時にアイデアが浮かんだとの事。ウォークの素晴らしいベースラインが特筆に値すると共に、ダリルのヴォーカルはやはり見事としか言いようがありません。前回「I Can’t Go for That」を”クールでホットなソウル”と形容しましたが、本曲は”クールかつハートウォーミングなソウルバラード”といったところでしょうか。本曲の歌詞もまた非常に興味深いものです。一聴するとバスケットボールと恋愛事をかけた様な内容。『チームプレイ(グループ交際みたいな意か?)はもうウンザリだ。一対一で、今夜君とプレイ・ゲームをしたいんだ』かなりエロティックな意味に取れます。勿論その意味にも引っ掛けたのでしょうが、後のコメントにて実はコンポーザー・ミュージシャンとしてのスタンスを歌ったものだと語っています。ジョンやサラ、ジャナとの共同作業がイヤだったとかいう訳ではなかったのでしょうが、一人の表現者としての自身を確立したい、といったくらいの意味合いを含ませたのでなかったかと思われるのです。この意味においての”君”は「音楽」に他ならないでしょう。ダリルは若い頃、外で遊ぶよりも本を読むことが好きだった、という文学少年・青年であり、彼の創る歌詞にはこの様な、先述の「I Can’t Go for That」もそうですが、ダブルミーニング、裏の意味を持たせたものがしばしば見受けられます。「キッス・オン・マイ・リスト」もラブソングの様に思えますが、実はアンチラブソングだ、と本人が後に語っています。

3rdシングル「Family Man」。英国ミュージシャン マイク・オールドフィールド作のカヴァーです。オールドフィールドの名前は知らなくても、映画「エクソシスト」のテーマ、と言えば殆どの人はピンとくるのでは。あの印象的なフレーズは「チューブラー・ベルズ」(73年)のイントロ部分です。実は映画においては当初無断使用で、しかも勝手にアレンジされたもの。当然もめるのですが、結果的に映画の大ヒットにより皮肉にも「チューブラー・ベルズ」はベストセラーを記録することとなります。「Family Man」は「Five Miles Out」(82年)に収録されている楽曲。「サラ・スマイル」の頃や、「キッス・オン・マイ・リスト」以降のホール&オーツしか知らなければ、なぜ彼らがイギリスのプログレ系ミュージシャン マイク・オールドフィールドの曲を?、と首を傾げたでしょう。しかし70年代後半におけるダリル達の活動を見れば本曲の起用は全く違和感のないものです。「プライベート・アイズ」の大ヒットによって、この頃には彼らのレコード会社やマネージメントサイドへの発言力も増していたのではないかと思います。アルバム「H2O」は前作よりも実験色が強くなっていますが、時代の勢いもあったのでしょうけれども、本作はホール&オーツにおいて最も好セールスを記録したアルバムとなりました。

ホール&オーツ回はもうちょっと続きます(いつまで続くのかな・・・(´・ω・`))。

#58 I Can’t Go for That (No Can Do)

キッス・オン・マイ・リストの大ヒットによって、再びポップミュージックのメインストリームに躍り出たホール&オーツですが、そこからちょっとだけ時間を遡ります。80年3月、ダリル・ホールは初のソロアルバム「Sacred Songs」をリリースします。実はこのアルバム、77年には録り終えていたのですが、その後約3年に渡ってお蔵入りされていたといういわくつきの作品。理由はホール&オーツの音楽性とのギャップから、彼らの人気及び世間からの評価、といった影響をRCA側が考慮したものでした。

 

 

 


プロデューサーはキング・クリムゾンのロバート・フリップ。ブルーアイドソウルのダリルと英国プログレッシヴロック界を代表するフリップ、一見すると全く相容れない様な組み合わせに思えます。キング・クリムゾンについては#15~17で取り上げましたので、詳しくはそちらを(と言って、さりげなく過去記事へ誘導…)。
出会いのきっかけについては詳しくわからないのですが、二人の最初の出会いは74年の事。その時にはすでに互いの作品についてそれぞれ精通していて、一緒に仕事をしようと意気投合していたそうです。意外なのは、74年ということはホール&オーツに関して言えば「サラ・スマイル」がヒットする前、世間的には殆ど認知されていなかった彼らについて、海を隔てたフリップが彼らの音楽を知っていたという事です。77年、ヒットは出したものの、それよりも表現者としての自身にとってこれからの音楽、ひいては人生においてもっと重要なものがあるのではないかと、その見通しに限界を感じ悩んでいたダリルは再度フリップへ連絡を取ります。
前々回#56にて、3rdアルバム(74年)が奇才トッド・ラングレンによるプロデュースという事については触れましたが、これに関してダリル達からの要望だったか、レコード会社側からあてがわれたものなのか、そのいきさつについては調べてみてもわかりませんでした。トッドはアメリカ人であり、またその音楽がプログレにカテゴライズされることはあまりないと思いますが、一般的なアメリカンミュージックには収まり切らないワンアンドオンリーな音楽性でした。いずれにしろ74年時点において、ダリルがロック・ソウル・フォークといった音楽のみならず、プログレをはじめとした非アメリカ的音楽に関心を持った、あるいは既に持っていたのではないかと推測できます。
「Sacred Songs」については、フリップの曲及び二人の共作以外、つまりダリルの曲はホール&オーツ初期にあった様な比較的地味めの小作品集と呼べるもの。しかし、本作がその後のダリルの音楽性へ影響を与えた事は想像できます。ちなみに本アルバムが発売延期されたことで、今度はフリップのソロ作「Exposure」(79年)にダリルが参加する運びとなります。この時期、フリップは本作、ピーター・ガブリエルの2ndアルバム、及び自身の「Exposure」を三部作と位置付けていました。ピーターの作品にダリルは関わっていませんが、これら一連の活動を通じてそれまでには無かった”引き出し”を獲得出来たのではなかったでしょうか。

81年9月、アルバム「Private Eyes(プライベート・アイズ)」をリリース。先行シングルであるタイトル曲は全米No.1の大ヒット、あまりにも有名な彼らの代表曲です。元々この曲はジャナ・アレンとウォーレン・パッシュというソングライターによって作られた曲。だいぶ前ですが、BS-TBSの『SONG TO SOUL』という、過去の洋楽におけるヒット曲及びそれが生まれた背景を紹介する番組で本曲が取り上げられていました。ジャナのアルバム用に作られたものだったのですが、ある日ジャナからパッシュへ電話があり、この曲は使わない事にしたとの旨を告げられます。パッシュは「仕方ないね、イマイチの曲だったし…」と言いかけたところ、ジャナは「違うわよ、ホール&オーツが使いたいと言っているのよ!」との事、パッシュは仰天します。ダリルがコードを付け直す等のアレンジをし、サラと共に歌詞を書いて本曲は完成しました。ダリルいわく”ファミリーソング”。サラとは籍を入れる事はなかったのですが事実上の家族だった訳です。また番組ではホール&オーツ・バンドのギタリストであり、彼らの盟友であるG. E. スミスが出ていました。シンプルでありながら、あまりにも印象的な、ある意味「プライベート・アイズ」という楽曲を決定付けたような、あのイントロのフレーズについて語っています。当時、自分はあの界隈で”最もシンプルに弾くギタリスト”と言われていた、などと自嘲半分・ユーモア半分に述べていました。

今回のテーマである本アルバムからの2ndシングル「I Can’t Go for That (No Can Do)」。前曲に続いてNo.1ヒットとなり、ベスト盤が出れば必ず収録される代表曲の一つであることは勿論言うまでもないのですが、本曲は彼らのそれまでにおける他のヒット曲には無い、重要な要素・意味合いを持っていました。
中学生の時分に初めて聴いた時、悪い曲とは勿論思わなかったのですが、やはりまず気に入ったのはプライベート・アイズやキッス・オン・マイ・リストといったポップなナンバーであり、本曲はよくわからないけど不思議な印象の曲だな、と思った記憶があります。
まず耳につくのはリズムマシンによる、悪い言い方をすれば”チープな音色のリズム”。当時のテクノロジーは勿論今とは比較になりませんが、それにしてもあまりにも”機械然とした”音です。そしてこれまたあまり血の通った感じのしないギターとシンセによるリフ。ダリルの歌も他と比べると感情表現が抑えられたクールな歌い方、コーラスも同様です。
本曲が全米No.1になったと前述しましたが、実は彼らの本曲を含めた6曲のNo.1ヒットの中で、他と異なる点があります。ポップスチャートのみならず、R&Bチャートでも1位を記録したのです(ついでに言うとダンスチャートでも、全てビルボードにおいて)。R&BチャートでNo.1になる、つまり黒人層にも受け入れられたという事。これは白人ミュージシャンとしては珍しい事です。
現在では違うかもしれませんが、少なくとも80年代初頭においては、ソウルミュージックというとアレサ・フランクリンやオーティス・レディングといった魂が揺さぶられる様な歌、生楽器による血の通った演奏、といったイメージだったと思います。ところが本曲はおよそそれらとはかけ離れている、というよりむしろ真逆を張った様な楽曲です。この一聴すると無機質かつ人の”魂”を感じさせない様に思える本曲に対して、当時の黒人層は新しい魅力を感じたようです。
先ほどから無機質・血が通っていないなどと、まるで本曲を貶めるような言い方をしてきましたが、勿論私もそんな風には思っていません。例えるなら、本曲は陳腐な言い方ですが”クールでホットなソウル”とでも呼べるもの。チープに聴こえるリズムマシンや無機質なシンセ等の音色・フレーズは明らかに”狙った”ものでしょう。この様な”クールなグルーヴ”と呼べるリズムは、メインストリームのポップスにおいてはそれまで無かったものです。あえて感情表現を抑えた中に秘めたソウルを感じさせることに見事成功しており、また間奏のチャールズ・デチャントのサックスソロもそれによってより活きるのです。

前々回からトッド・ラングレンやロバート・フリップとのつながり、70年代後半における低迷期などつらつらと書いてきましたが、方向性を見失ったなどと言われる一連の活動は決して無駄だったのでなく、それらがあったからこそ本曲は生まれたのだと思います。機械然としたリズムマシンの使い方は、ポップス界では、その1~2年前からフィル・コリンズが自身のソロやジェネシスにて行っていました。ドラマーであるフィルが、あえて生ドラムとのコントラスト効果を引き立たせたその様なマシンの活かし方をしたのは興味深いものです。ダリルとフィルに直接の繋がりはなかったようですが、フリップをはじめとしたイギリスのミュージシャン達との交流から、一見ホール&オーツには全くそぐわない様に思えるプログレやテクノポップといった音楽から影響を受け、そして遂に本曲にてそれらが音楽的・商業的成功へと開花したのではないでしょうか。
この頃を境に、今度は本家の黒人ミュージシャン達が本曲の様にシンセサイザーやリズムマシンを積極的に使った、新しいソウル・R&B、ブラックコンテンポラリーと呼ばれるカテゴリーを創り上げていきます(一例だけ挙げればマーヴィン・ゲイ「Sexual Healing」(82年))。90年代以降についてはR&Bと言えば、その様な音楽を指すようになったと言われています。前々回で、ブルーアイドソウルという言葉が黒人側からの差別的ニュアンスもあったと述べました。しかしここに至って遂に白人側からソウルミュージックへ影響を与える、フィードバックさせる事となったのです。アンテナの鋭い当時の黒人層が本曲にこれまでには無い魅力を感じ、”碧い目の奴らがつくったソウルとか何とか関係ねえ!俺たちはこういうのが聴きたかったんだ!”
といった様な感じで受け入れられていったのでは、と思うのです。

また本曲にはあるエピソードがあります。マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」、これが本曲のベースラインからインスパイアされ作られた、というもの。「ウィ・アー・ザ・ワールド」(85年)のレコーディング時にマイケルはダリルへその事を告白します。その時ダリルが言ったのは、『僕の曲を参考にしたと君は言うが、それはそれまでに君が聴いてきた他の様々な曲、君の中にあるもの、血肉となっているものから生まれたんだよ。我々ミュージシャンは何かしらそういったものの積み重ねから、皆同じようなことをやってきているんだよ』の様な旨。少し意訳した部分もありますが、音楽というものはそれまでの色々なものがミクスチャーあるいはフィードバックされて産み出され、また次世代へ受け継がれていくんだということ。ダリルが言いたかったのは概ねこの様な意味であったのは間違いないでしょう。黒人音楽に憧れ、そのような音楽を作りたいとその道を志した白人であるダリルが、当時は既にCBSへ移籍していましたが、元はソウル本家であるモータウンの看板シンガーであった黒人のマイケルへ今度は影響を与える。すべては廻り回って繋がっているのです。

#57 Kiss on My List

77年の初めに「リッチ・ガール」がNo.1ヒットとなったホール&オーツですが、同年9月リリースのアルバム「Beauty on a Back Street(裏通りの魔女)」が30位、「Along the Red Ledge(赤い断層)」(78年)27位、「X-Static(モダン・ポップ)」(79年)33位と、何とかTOP40に入る程度。シングルは「It’s a Laugh」(78年)20位、「Wait for Me」(79年)18位というチャートアクションで、TOP20に辛うじて入っている、といった結果でした。「裏通りの魔女」と「赤い断層」は結果的にゴールドディスクとはなりましたが、やはりかつてはNo.1ヒットを飛ばしたグループとしてはその結果はやや寂しいものでした。率直に言って人気の低迷期といって差し支えないでしょう。

 

 

 


だからと言って内容的にも落ち込んでいたかというと決してそうとは言い切れませんでした。この時期を評して、昔よく言われたのが”過渡期・試行錯誤”といったものでした。一時期のデヴィッド・ボウイもそうでしたが、アルバム毎にカラーが変わったとされます。「裏通りの魔女」はハードロック、「赤い断層」がフィル・スペクターサウンド、そして「モダン・ポップ」はディスコやニューウェイヴ。サラ・スマイルやリッチ・ガールの頃のブルーアイドソウル色が薄れ、良く言えば新しい音楽性に果敢にチャレンジ、悪く言えば方向性を見失ったと言われます。私見ですが、作品毎にガラッと変わったという訳では無く、それまでの音楽性を3~5割踏襲しながら新しい試みに挑戦していった、といった所が実際だったと思っています。レコード会社もおざなりな扱いをした、とかいう事では決してなく、むしろ参加ミュージシャン達を見るとすごい面子が起用されていたりします。
今回調べていて初めて気が付いたのですが、「裏通りの魔女」のドラムはジェフ・ポーカロです。確かにあのドラムはジェフの音色です。30年以上経って改めて判る事がいまだにあります… 他にはトム・スコット、ジョージ・ハリスン、スティーヴ・ルカサー、さらには何とロバート・フリップまで。もっともフリップの参加には理由があります、これは次回にて。

80年7月、アルバム「Voices(モダン・ヴォイス)」を発表。よく”原点回帰”をした作品と評されます。つまり彼らのルーツであるソウルミュージックへ戻ったという事。半分当たっていて、半分は適当ではない評価かな、と個人的には思っています。先述したように全曲ソウルへと回帰したかというとそうではなく、具体的に言えばA面は1stシングルであるジョン作のA-①とA-⑥を除けばストレートなロックナンバー及びポップソングで固められており、B面がブラックミュージックサイドと呼べるものでした。余談ですが昔はA面とB面で楽曲やサウンドをはっきり分けているアルバムが結構ありました、レコードという媒体の特性があってこその事だった訳ですが、CDや配信の時代になって意味が無くなりましたが・・・

ライチャス・ブラザーズによるヒットであまりにも有名な、バリー・マン/シンシア・ワイル、そしてフィル・スペクターによる、ブルーアイドソウル並びにフィル・スペクターサウンドの名曲として名高い「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’(ふられた気持ち)」を2ndシングルとしてリリース。全米12位という久々のヒットを記録します。

3rdシングル「Kiss on My List」、今回のテーマです。元々はダリルと長年に渡り、公私共におけるパートナーであったサラ・アレンの妹 ジャナが歌う目的でダリルとジャナによって作られた楽曲。しかしダリルが歌ったデモテープを聴いたスタッフがそのあまりの出来の良さに、これはホール&オーツとして出すべきだ、とプッシュした事から「モダン・ヴォイス」へ収録されます。本当に人生というのは何をきっかけとして好転(勿論その逆も)するかわかりません。本曲はみるみるうちにチャートを駆け上がり、3週連続全米No.1の大ヒットとなり、その年のシングル年間チャートにおける第7位となります。
本曲は決してソウル色の強いナンバーという訳ではありません。リズムボックスが生ドラムと混在して使われているという点を除けば、非常にシンプルな楽器編成で特に実験的要素なども感じられないポップソングです。ヒットの要因はひとえに楽曲の良さ、楽曲に寄り添ったシンプルではあるがツボを得た好演、そして勿論のこと、不世出のシンガー ダリル・ホールによる素晴らしい歌、これらが人々の心を打ったのです。なおトリビア的な事柄ですが、本曲のビデオクリップは81年から始まったMTVの初回放送時において流されたものの一つです。

この大ヒットをきっかけとして彼らの第二次黄金期がスタートするのは周知の事実です。ソウルミュージックへの原点回帰と評されたアルバムからシングルカットされ、再ブレークの火付け役となった楽曲ですが、それはブルーアイドソウル的ナンバーではありませんでした。(しかし彼らがソウルを捨てた、とかいう訳ではありません。それはこの後すぐにわかります。)

多分本来はシングルカットされる予定は無かったのだと思われますが、前曲の大ヒットを受けてリリースされたのでしょう。4thシングル「You Make My Dreams」も全米5位の大ヒット。彼らの素晴らしい所は、二匹目のナンチャラを狙うのであれば前曲同様のポップソングをシングルとしてリリースしそうなものですが、それはせずに、自分たちの”根っこ”であるブラックミュージックをあえて持ってきたことです。結果、それは大成功しました。また、本作には大変重要な楽曲がもう一曲収録されていますが、それはまた次回以降で。

#56 She’s Gone

直近3回の記事にて、ブルーアイドソウルという言葉を使ってきましたが、”ブルーアイドソウルって何ぞや!”、と思われた方もいるかもしれませんので簡単にご説明。一言で言えば白人が演るソウルミュージック。ライチャス・ブラザーズやラスカルズといったミュージシャン達を指して、60年代から使われるようになったそうです。これには幾分黒人側からの差別的なニュアンスも含まれていたようで、”白い奴らに俺たちのソウルが出来るのかい?”という様な意味合いも昔はあったとのことです。それらの事はともかく、私の世代でブルーアイドソウルと言えば何と言ってもこの人達です。そう、それが今回からのテーマであるダリル・ホール&ジョン・オーツ(ホール&オーツ)です。

 

 

 


ペンシルベニア州フィラデルフィアにあるテンプル大学に在籍していた二人は、当初別々のバンドで活動していたらしいのですが、やがてルームシェアして活動を共にしていきます。ちなみに、その時アパートの郵便受けに”Hall & Oates”と表記した事がグループ名の由来。

72~74年の間にアトランティックより3枚のアルバムをリリースします。2ndはアリフ・マーディン、3rdは奇才トッド・ラングレンのプロデュースと、レコード会社も決してぞんざいな扱いをした訳ではありませんでしたが、残念ながらヒットには恵まれませんでした(ただし2nd「Abandoned Luncheonette」は大変重要な作品です、後述します)。
初期の音楽性はロック、ソウル、ソフトロック、フォークロック、当時流行していた内省的なシンガーソングライター的作風(ジェームス・テイラーやローラ・ニーロの様な)が垣間見え、後の彼らと比較すると興味深いものがあります。また、3rdはトッド・ラングレンの影響からプログレ色も感じられるロックに仕上がっているのかと思いがちですが、ところがどっこい、単にトッドの影響だけとは言い切れない事が後に露見します、これは次回以降にて。

75年にRCAへ移籍。4thアルバム「Daryl Hall & John Oates(サラ・スマイル)」を発表。そこからのシングルカット「Sara Smile」が全米4位の大ヒット。これで檜舞台へと躍り出ます。ちなみに”サラ”とは長きに渡って公私共にダリルのパートナーであったサラ・アレンのこと。余談ですが、日本が誇るピアノ・キーボードプレイヤー 深町純さんの名盤「深町純&ニューヨーク・オールスターズ・ライヴ」(78年)にて本曲はカヴァーされており、ジャズフュージョンファンの方にはそちらの方で馴染みが深いかも。デヴィッド・サンボーンによる”泣きのサックス”があまりにも素晴らしい名演です。

本作よりブルーアイドソウルと呼ばれる音楽性が定まってきたと言えるでしょう。それにしても、『アトランティックソウル』と呼ばれるカテゴリーがあるほどに、ソウルミュージックの本家本元でもあるアトランティックを離れてからソウル色が強まるというのも何だか皮肉な話です。
76年、5thアルバム「Bigger Than Both of Us(ロックン・ソウル)」をリリース。翌年1月に本作からの2ndシングル「Rich Girl」が見事に全米No.1となります。彼らの第一次黄金期がこの頃であったでしょう。

時系列はやや前後しますが、「サラ・スマイル」のヒットの後、アトランティックはそれにあやかってか、2nd「Abandoned Luncheonette」から2年前(74年)にリリースしたシングル曲「She’s Gone」を再発。この時見事に全米TOP10入りを果たします。ちなみに、「Abandoned Luncheonette」はその後長い期間に渡って、ホール&オーツ初期の隠れた名盤として売れ続け、結果的にプラチナディスクを獲得します。

フィラデルフィアソウル(フィリーソウル)の王道の様な本曲は、ダリルとジョンの共作。この後、ダリルのイニシアティブが強く押し出され、またそれが成功の要因となったことは否めない事実ですが、本曲はソングライティング・ヴォーカル共において、二人の力が結晶化された初期の傑作です。後年のジョンによるコメントで、まずジョンによりギターでサビの部分が作られましたが、それ以外にはアイデアが浮かばなかったので、ダリルにそれを聴かせ、他のパートを共に作っていったとの事。またこれは結構有名なエピソードですが、ダリルはサラと知り合う前の72年暮れに最初の結婚に失敗しており、ジョンも同年の大晦日に女性から”すっぽかし”を喰らっています。この別れ・失恋が本曲の歌詞の元となっているそうです。

私の世代ですと、本曲は83年発表のベスト盤「Rock ‘n Soul Part 1」に収録されていたものの方に圧倒的に馴染みがありますが、これはシングルヴァージョンで、「Abandoned Luncheonette」に収録されていたもの、つまりアルバムヴァージョンとはアレンジが異なります。今回はシングル版をご紹介しますが、現在はユーチューブでどちらも聴くことが出来ますので(本当に良い時代になったものです…
。゚(゚´Д`゚)゜。゚)、聴き比べてみるのもご一興。

ブルーアイドソウルのホープとしてポップミュージック界の頂点に昇りつめた二人。この後も更なる飛躍を続けるのか、はたまた否か。その辺りはまた次回にて。

#55 Shout to the Top!

前回の記事でも少し触れましたが、バブル景気で隆盛を極めていた80年代の日本において、スクリッティ・ポリッティなどと共にオシャレなポップスとして好まれていたイギリスのミュージシャンがいます。エヴリシング・バット・ザ・ガールやシャーデー、やや遅れてデビューしたフェアーグラウンド・アトラクションといった、ロックにとどまらずにジャズ、ソウル・R&B、ブラックコンテンポラリー、ラテン音楽、そしてもちろん英国人らしくブリティッシュトラッドをはじめとしたヨーロッパの音楽、といった様々な音楽性を持った人達でした。前回既に名前を出しているのでもうお分かりかもしれませんが、今回のテーマはその筆頭格とも言えるバンド、スタイル・カウンシルです。

 

 

 


70年代後半にデビューし、イギリスで、特に若者から絶大な人気を誇っていたザ・ジャムを解散し、その直後にポール・ウェラーが結成したバンド。正式メンバーはウェラーとミック・タルボット(key)の二人ですが、実質的にはスティーヴ・ホワイト(ds)とD.C.リー(cho)を加えた四人編成のバンドと捉えて良いでしょう。その音楽性はヴァラエティーに富んでいると呼べばよいでしょうか、ジャズ・ボサノヴァ・ラテンジャズ・イージーリスニング・フレンチポップス、ヒップホップ、もちろんの事ソウル・R&Bまで、と何でもあり。無いのは節操くらい…
(失礼 <(_ _)> )・・・
あと、もう一つありました。ザ・ジャム時代のストレートなR&Rだけはありませんでした。私はリアルタイムで本バンドから聴いたので、ザ・ジャムは後追いなのですが、確かによく言われる”青筋立てて”ウェラーがギターをジャカジャカかき鳴らしながら、当時の若者や労働者階級の不満を代弁してくれるような熱いロックに心酔していた従来のファン達はかなり戸惑った、というより失望してしまった人が多かったようです。オレたちの・アタシたちのウェラーが変わってしまった、と。もっとも初期こそパンクロックと捉えられていたザ・ジャムでしたが(70年代後半にイギリスでデビューするとみんなパンク扱いされたそうですけど…)、徐々にウェラーが本来持っていた黒っぽい要素が強まっていき、ある意味スタイル・カウンシルは必然的に結成されたとも言えるでしょう(それにしても変わり過ぎ、とされても仕方ないかと…)。

83年、1stシングル「Speak Like a Child」をリリース。同年ミニアルバム「Introducing The Style Council」を本国イギリス以外で発表します。84年に1stアルバム「Café Bleu(カフェ・ブリュ)」を本国でもリリースし、最高位2位を記録。先述した通り従来のザ・ジャムファンの戸惑いはありましたが、非常に高い評価を得ました。ただ単に色んなジャンルを演ってみました、ではなく楽曲のクオリティーが全て高く、統一感には欠けますが、非常に上質な作品に仕上がっています。

今回のタイトル「Shout to the Top!」は84年10月リリースのシングル。元はアメリカ映画のサントラの為に作られた曲です。一聴すると爽やか系で快活な楽曲ですが、歌詞は労働者階級の、特に若者たちへ向けて、トップ(上司や経営者、ひいては政治家、当時のサッチャー首相を頂点とする)にいる奴らに向かって叫べ!といった内容です。もっともサッチャー首相が強力に推し進めた市場原理を尊重した改革によって、イギリスではその後金融業をはじめとした好景気によって永く続いた不況を脱するのですが… あ、話がずれてしまいましたね・・・
前回も書きましたが、本バンドは当時、オシャレ系のポップスとしてナウでヤングな最先端スポットで(プールバーとかカフェバーとか)かかっていたようですが、その歌詞はとてもオシャレスポットにはそぐわないものだったようです。知らない方が良い事ってあるもんですね・・・

85年、2ndアルバム「Our Favourite Shop」をリリース。全英No.1に輝き、バンドとしての最盛期がこの頃であったでしょう。87年の3rdアルバム「The Cost of Loving」も全英2位を記録するヒットでしたが、これを境にバンドは勢いを失っていき、80年代末にバンドは自然消滅します。

ちなみに全米でのチャートアクションは、アルバムは一枚もTOP40には入らず、シングルも「My Ever Changing Moods」の29位が最高でした。アメリカ音楽に傾倒していき、その音楽性を発揮した作品が、その本場ではあまり受け入れられなかったというのは、皮肉めいたものを感じます。プロモーションの問題などもあって一概には言えませんけれども、スクリッティ・ポリッティもそうでしたが、英国流ブルーアイドソウルが本国にて受け入れられるか否かの基準はよくわかりません。シンプリー・レッド やシャーデーがアメリカでも受け入れられたのに対して、彼らがそうならなかったのは何故なのか。多分、明確な答えなどは永遠に出ないのでしょうけれども・・・

私の音楽の知識は80年代で止まっているので、90年代以降については殆どわからないのですが、オアシスをはじめとした、90年代以降のイギリスのミュージシャン達に絶大な影響を与えたそうです。日本でもウェラーの人気は根強いものがあり、日本とイギリスは文化的に相通じるものがあるのではないかと思っています。

ザ・ジャム時代からすると本バンドは音楽的には劇的に変容を遂げましたが、ウェラーが書く歌詞の内容は変わらなかったようです。彼は典型的な労働者階級の家に生まれた事もあってか、その思想はかなり左傾化されたものであり、人によって賛同出来るか否かは分かれる所で、またそのようなメッセージを音楽に乗せることを良しとするかどうかも賛否は様々です。ただその考え方は脇に置いておくとして、40年に渡って”ブレずに”一貫したスピリットを保っているのは、やはり並大抵の事ではないでしょう。

最後にご紹介するのは「Our Favourite Shop」のエンディング曲「Walls Come Tumbling Down!」。快活なソウルナンバーですが、その歌詞は、『我々が団結すれば壁(体制)は崩れる!』といった内容。当時のイギリスの事情を詳しくは知りませんが、先述した通りその体制が推し進めた政策によって永く続いた不況を、その後脱する事になったのも事実です… 何だかよくわからなくなってきますね・・・
ただしそのサウンドはゴキゲンそのものです。これも先述したことなのですけれども、歌詞が判らなくて良かったということも結構あるのです。

#54 Cupid & Psyche 85

前回のカルチャー・クラブが大ブレークしていたほぼ同時期に、同じくイギリスにてデビューし、非常に高い音楽性でもって注目されていたバンドがいました。それが今回のテーマであるスクリッティ・ポリッティです。

 

 

 


結成は77年ですが、リーダーであるグリーン・ガートサイド(vo、g)の病気療養その他の事情によりデビューアルバムのリリースは82年となります。1stアルバム「Songs to Remember」はファンや評論家筋からは、代表作とされる2ndよりも音楽的には優れていると評される作品です。2ndの様なサウンド的インパクトはありませんが、グリーンなりに消化したと思われる独自のソウル、ファンク、スカ等の音楽が、前面に押し出され過ぎない程度の実験的ニューウェイヴ色にて彩られた作品です。プログレ・カンタベリー色が仄かに香るのは、#48にて取り上げたソフト・マシーンのロバート・ワイアットが参加している事に起因するのではないかと私は思っています。1stはラフ・トレードというレーベルからリリースされました。初期のヴァージンの様に先進的なミュージシャンを見出していた会社でしたが、この1stは全英12位と、ラフ・トレードとしては画期的とも言えるヒットを記録しました。

1stから2ndアルバムの間にもグリーンは病気療養のため一時帰郷します。元々は共産主義に傾倒し、(バンド名はそれに由来するそうです、私はよく知りませんが)、パンクロックにのめり込んで音楽を始めたらしいのですが、一度目の療養の際にパンクに対する興味はすっかり失い、代わりに聴き込んでいったのはソウル・ファンクといったブラックミュージックでした。二度目の療養時には初めて姉(妹)の持っていた(それまで肉親の音楽趣味を知らなかったのか?)ブラックミュージックを耳にしたとの事。またN.Y.で旋風を巻き起こしつつあったヒップホップにも影響を受けます。83年にグリーンはヴァージンと契約します。悪い言い方をすれば、ラフ・トレードのプロモーションには限界があるとして見限ったとも言えるでしょう(当然この後しばらく揉める事となります。仕方ないことですが…)。ヴァージンは前回取り上げたカルチャークラブ辺りから、急激にメジャー化していく途上でしたので、お互いのニーズが上手く合ったのかもしれません。そして米ではワーナーからのリリースとなります。

本作を検索すると枕詞のように大物プロデューサー アリフ・マーディンが関わった事が出てきます。トム・ダウドなどと共にアトランティック/ワ-ナーを大レコード会社へとのし上げた立役者。彼がイギリスの弱小レーベルからアルバムを1枚出しただけのグリーンと何故関わることになったのか?
結論から言うと、グリーンが渡米してから知り合ったボブ・ラスト(本バンドのマネージャーとなります)という人物がカギを握っていました。オリジナルメンバーとは袂を分かち、1st製作中に知り合った米国人デヴィッド・ギャムソン(key)を頼って渡米して、そこで新ドラマー フレッド・マーを加えて新生スクリッティ・ポリッティが誕生します。当初はラフ・トレードとの法的イザコザが残っていた為シングルの発売も思うようになりませんでしたが、そのトラブルを解決して、ワ-ナーとつないでくれたのもボブ・ラストだったようです。

本作についてはとにかくサウンドが画期的でした。私もデジタル機材やレコーディング技術などには疎いので上っ面の知識しかありませんが、フェアライトや発売間もないヤマハDX-7といったデジタルシンセサイザーの効果的な使用、サンプリングやシーケンサーと言った当時における最先端の技術、及び80年代に一世を風靡したゲートリバーブを駆使してのエフェクト処理、といった点がよく語られます。これは実際その通りで、当時ウチのお世辞にもハイスペックとは言えなかったステレオで聴いた時にも、音が他とは全く違う、別次元だ、と思ったのを記憶しています。これについてはD・ギャムソンの功績が大きかったようです。またポール・ジャクソン Jr.(g)やスティーヴ・フェローン(ds)といった第一線で活躍する名うてのセッションプレイヤーの起用なども話題となりました。さらにあまり取り上げられない事なのですが、超有名ベーシストであるウィル・リー(A-③)とマーカス・ミラー(A-⑤)の二人も参加しています。少なくともクレジットを見る限りではそうなっているのです。

アルバムリリース(85年)の前年、本作に収録される事となる「Wood Beez」「Absolute」「Hypnotize」が先ずシングルとして発売されました。これらはアルバムヴァージョンとは違うアレンジで、オッサン世代には懐かしの”12インチシングル”として発売されたと記憶しています(多分…)。アルバム発売直前に先行してリリースされた1stシングルが先にあげた「The Word Girl」。英では最高位6位と彼ら最大のヒットとなりました。米では2ndシングル「Perfect Way」が最もチャートアクションの良かった楽曲です。先述したマーカス・ミラーの参加がきっかけとなったのか、”帝王”マイルス・デイヴィスが自身のアルバム「TUTU」(86年)で本曲を取り上げています。マーカスは当時マイルスの”腹心”でした。これらの経緯があってか、3rdアルバム「Provision」(88年)では本格的なマーカス・ミラーの参加、さらになんとマイルスが一曲ではありますがトランペットを吹いています。

本バンドは当時、スタイル・カウンシルなどと共に、とかく”おしゃれなポップス”として扱われていた様な記憶があります。私はリアルタイム時、中~高校生でしかも田舎住みだったのでわかりませんでしたが、今になって私より少し上の年齢で、東京に住んでいたであろう方のブログなどを読むと、当時の”オシャレスポット”(オッサン達懐かしの『プールバー』とか…)でそれらの音楽がよくかかっていて、バブリーな男連中がこれまたバブリーなワンレン・ボディコンのオネエチャン達を、それらの場所で口説いていた、との事。ですが、スタイル・カウンシルは実は英での階級闘争などを隠喩的に歌っていたり、スクリッティ・ポリッティはこれまた哲学的で難解な歌詞であったりと、とても女性を口説くのに適した曲ではなかったと知ったのは、ずっと後になってからだった … との記事も見受けられました。言葉がわからなくて良かった、という事も時にはあるようです・・・
また本作は米では最高位50位と今一つ奮いませんでしたが、本国を含めたヨーロッパやその他の地域(勿論日本を含む)では高い評価を得て、またその業界や玄人筋から絶賛されました。比較的最近の事ですが、エルトン・ジョンが自身のラジオ「ロケット・アワー」15年10月放送にて、本作を”the best produced electronic album of the 1980s” と評しているそうです。”エレクトリック・アルバム”というのがこの場合はどの様な意味なのか、おそらくアコースティックの反対、つまり80年代におけるエレクトリック・デジタル的な機材ないし技術を駆使したアルバムの中で最も優れたもの、といったくらいの意味でしょうか。

しかし、本作と同様に高音質でサウンドインパクトがあった作品が他に無い訳ではなかったと思います。やはり本質的な部分、つまり音楽性の高さがその評価の元になっているのは言わずもがなです。私がベストトラックと思っているのが次にご紹介する「Wood Beez (Pray Like Aretha Franklin)」。

副題の”Pray Like Aretha Franklin”は、勿論アレサの名唱でも御馴染のバート・バカラック作「I Say a Little Prayer」にちなんだもの。今で言うオマージュソングといったところでしょうか。言うまでもなくアレサと深く関わっていたA・マーディンがいた事が大きく影響しているでしょう。ただ単に音が良くて、煌びやかなサウンドで持て囃された、というだけではない、少し変わったスタイルではありますが、その根っこにはブラックミュージックの精神を宿した、グリーン流のブルーアイドソウルであったのではないか、と私は思うのです。

#53 Colour by Numbers

前回まで取り上げていた、プリンスやカーズといったアメリカ勢がヒットチャートの上位を賑わせていた時期、勿論イギリス勢も黙ってはいませんでした。この時期、第2次ブリティッシュインベンションと呼ばれた英国の、特に若手のミュージシャン達がアメリカで(つまり世界で)人気の猛威をふるっていました。第1次は言うまでもなく64年を皮切りとしたビートルズやストーンズをはじめとするイギリス勢の世界進出。そして第2次というのは、80年代前半に興ったニューロマンティックとも呼ばれるジャンルのミュージシャン達。デュラン・デュラン、スパンダー・バレエ、ウルトラヴォックスといったファッショナブルで非常に見栄えのする人達でした。おい!!あのバンドが抜けてるだろう!と、オッサン世代はすぐにお気付きのはず。その通り、今回のテーマはカルチャー・クラブです。

 

 

 


ボーイ・ジョージを中心とした白人3人、黒人1人から成るバンド(全員英国人)。82年にヴァージン・レコードよりレコードデビュー。このヴァージン・レコードというのが非常に重要な意味を持っていると私は思います。その後、大メジャーレーベルへとのし上がっていく会社ですが、ヴァージンの興りはマイク・オールドフィールドなどの非常に先進的なミュージシャンを見出した所から始まりました。ヴァージンやオールドフィールドについては必ず別の機会にて。

バンドははじめにデモテープをEMIへ持っていきますが契約には至りませんでした。しかし、そのデモを聴いたヴァージンが彼らと契約。英はヴァージン、米ではエピックレコードにてレコードデビューする運びとなりました。これは当時ヴァージンが米での拠点を持ってなかった為。
1stアルバム「Kissing to Be Clever」(82年)は全英5位・全米14位を記録。きっかけは当アルバムからの3rdシングル「Do You Really Want to Hurt Me(君は完璧さ)」の大ヒット。全英1位・全米2位のビッグヒットとなり、一躍スターダムへ昇りつめます。
1stの音楽性はサンバ・カリプソ・サルサ・レゲエ、果てはアルゼンチンタンゴやスパニッシュまで、といった多種多様なワールドミュージックの要素を盛り込んだダンサンブルポップス、と呼べるもの。そもそもカルチャー・クラブというネーミングは、アイルランド系でゲイであるB・ジョージ、英国黒人であるマイキー・クレイグ(b)、ユダヤ系のジョン・モス(ds)、そして
アングロサクソンであるロイ・ヘイ(g)、といった面子に因るもの。この場合のカルチャーは「多民族・多人種の文化、ひいては多文化主義」、といった意味合いでしょうか。

しかし、1stには既にその後の音楽性、というかB・ジョージの根っこにある要素だと私は思っていますが、ソウル・R&Bといったブラックミュージックの匂いが漂っています。今回かなり、英文のウェブページなども拙い英語力でもって漁ってみたのですが、B・ジョージの音楽的ルーツに関する情報は得られませんでした。どうしても、彼についてはゲイであること、それに基づく”超個性的”なファッション、そして80年代後半からの麻薬所持をはじめとする犯罪沙汰に関する情報等が先に立ってしまっているようです。それらの事の陰になって見過ごされてしまっていると思うのですが、彼が非常に優秀なシンガー、特にイギリスにおけるブラックミュージックをリスペクトしたシンガーの中において、類稀なる実力を持った人であるという事です。

それが開花したのが、2ndアルバムで彼らの代表作でもある83年発表の「Colour by Numbers」。全世界で1000万枚以上売り上げた本作にて彼らは時代の寵児となりました。特に本作からの1stシングル「Karma Chameleon(カーマは気まぐれ)」は全英・全米を含む世界12か国でNo.1ヒットを記録しました。

ブルースハープの使用、ギターの音色にややカントリー&ウェスタンっぽさ、が感じられ、全米市場を意識したのかな、と思わせる曲であり、結果的に大成功を収めます。ちなみに上記のPVは間違いなくアメリカを意識して作られました。設定は19世紀のアメリカ。ミシシッピ川を汽船で行き来する道中を描いたもの。もっともどう見てもリオのカーニヴァル的なオネエチャン達が出てきてますので、その辺の設定は滅茶苦… もとい、ワールドワイドですが・・・
1stでも参加していましたが、本作では女性シンガー ヘレン・テリーの存在感が更に増しています。声を聴いただけでは間違いなく黒人女性と思ってしまいますが、彼女は英国白人女性です。本作にてヘレンをよりフィーチャーしたのは明らかに”黒っぽさ”を狙っての事かと私は思っています。ゴスペル的ナンバーのA-⑤「That’s the Way」にて、それは特に成功しています。

時系列は前後しますが、彼らのブラックミュージックリスペクトが最も表れたナンバーが、「君は完璧さ」のヒット後にリリースされたシングル「Time (Clock of the Heart)」。全英3位・全米2位と前シングルに続き大ヒットとなった本曲は、私が思うに彼らの真骨頂であるソウル色が明らかに、そして初めて前面に押し出されたナンバーだと思っています。

ちなみに全米で1位を阻んだのは映画「フラッシュ・ダンス」主題歌であるアイリーン・キャラの「ホワット・ア・フィーリング」。また本曲は英盤では基本的にアルバム未収録でしたが、当時は日本盤のみ「Colour by Numbers」にボーナストラックとして収録されていました。

はじめにEMIへ持ち込んだデモテープの内容が1stの内容だったか、もしくは既に2ndの音楽性を示していたのか分からないので何とも言えませんが、#36の記事にて述べた通り、イギリス人には無いものねだりとでも言うのか、実は強いブラックミュージックへの傾倒があります。仮にこのデモにてその片鱗があったとすれば、ヴァージンによる先見の明の勝利、と呼べるものでしょう。逆にEMIは金の卵を逃したといったところでしょうか。もっとも1stの内容であっても非凡ならざる音楽性でしたが。

彼らについて語られる時、B・ジョージの外見等の属性ばかりが取り上げられ、また先述したニューロマンティックと呼ばれる当時の流行りの中で売れたこともあって、一時期栄華を極めたアイドルバンドの一つ、と後年になって見なされてしまっている部分があります。しかしその音楽性は先に述べた通り、当時における最先端のエレクトリックポップやワールドミュージックなどの要素を取り入れながらも、その根底にはソウル・R&Bといったブラックミュージックがしっかりと根差しており、確固とした高い音楽性を有していたバンドでありました。私は彼らを、イギリスにおける優れたブルーアイドソウルのバンドの一つだと思っています。35年経った今聴いても、それは全く色あせていないのです。

#52 Heatbeat City

前回までのプリンス回にて、84年の年間シングルチャート1位はプリンスの「When Doves Cry(ビートに抱かれて)」と述べました。私の様な洋楽好きのオッサン世代には改めて語る必要はないかもしれませんが、全米でもヒットチャートと呼ばれるものは一つだけではなく、主だったものは三つ、ビルボード・ラジオ&レコード・キャッシュボックスでした。順位の算出基準に違いがある為当然順位は異なります。「ビートに抱かれて」が1位だったのはビルボードであり、ちなみにラジオ&レコードではヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」でした。ベストヒットUSAにて採用していたチャートはラジオ&レコード。これはFMのリクエスト回数を元にしている為、レコードセールスその他を総合的に算出基準としていたビルボードとはかなり異なるチャートアクションになっていました。ついでに言うとキャッシュボックスは西海岸寄りのチャート付けだったそうです。アルバムチャートの方を見てみると、ビルボードでは言うまでもなく83・84年共にマイケル・ジャクソンの「スリラー」(82年12月発売だった為)でしたが、ラジオ&レコードにおける84年年間アルバムチャートの1位は意外とも言える作品でした。それが今回のテーマ、ボストン出身のバンド、カーズの5thアルバムである「Heatbeat City」。

 

 

 


リック・オケイセック(vo、g)を中心とし、78年に1stアルバム「The Cars(錯乱のドライブ/カーズ登場)」にてデビュー。600万枚の大ヒットとなり注目を浴びます。続く2ndアルバム「Candy-O(キャンディ・オーに捧ぐ)」もヒットし、初めから順調なスタートを切りました。その音楽性はアメリカンR&Rにクールなニューウェイヴ・テクノ色を混ぜたもの、とでも表現すれば良いでしょうか。シンプルなR&Rに、エリオット・イーストンの比較的ハードなギターが乗り、そこにテクノポップが加味された独特なサウンドでした。

FMのリクエスト回数は人気の先行指数、レコードセールスは遅行指数とでも呼べるでしょうか。またマイケルの「スリラー」を引き合いに出すのも何ですが、レコードは引き続いて売れていた84年において、ラジオ&レコードの方では既にチャートの上位から姿を消し、代わって伸びてきたのは前回まで取り上げていたプリンスの「パープル・レイン」やカーズの本作でした。

MTVが台頭し始めたこの時期に、実に魅力的なビデオクリップを制作したのもヒットの大きな要因でしょう。同年から創設されたMTVビデオミュージックアワードの第1回にて、マイケルやシンディ・ローパーなどの他ノミネートを抑え、上記のシングル曲「You Might Think」のプロモーションビデオは見事に最優秀ビデオ賞を受賞しました。

本作からの第3弾シングルであり、彼らにとって最大のシングルヒットとなった「Drive」。本作の、というよりも彼らの全作品中におけるベストトラックと私は思っています。浮遊感のあるカーズ独特のスローナンバー。”彼ららしく”ただの甘ったるいラブソングとはなっていません。歌詞の解釈はかなり人によりけりですが、”Who’s gonna drive you hometonight(今夜は誰がきみを家に送るんだろう…)”という一節はかなり意味深です。

翌85年には新曲を含むベスト盤をリリース。こちらも大ヒットし、この頃が全盛期であったでしょう。

決して米ポップミュージック界におけるメインストリームな存在というバンドではありませんでした。かといって超個性的な音楽を演り、一部のコアでマニアックなファンだけから好かれた、という訳でもない。本流・主流からは少し離れた所に居ながら一定の支持を集めていた、決して貶める言葉ではない良い意味での、”B級バンド”という表現がぴったりはまる様な存在だった気がします。

88年にバンドは解散。00年に中心メンバーであったベンジャミン・オール(vo、b)が亡くなった事により、オリジナルメンバーで再結成を果たすことはなくなってしまいました。しかし10年にはベンジャミン以外のメンバーにて活動を再開。11年には24年振りとなる新作をリリースしました。

ニューウェイヴやテクノポップといった音楽の要素が決して普遍性を持ったものではないため、35年余り経った現在では、勿論新しい波でもなく、そのテクノロジー(シンセやエレドラの音色等)などは古臭く感じるものでしょう。リアルタイムで聴いていた私などはノスタルジーが先に立ってしまい客観的に聴くことが困難な面があります。30代以下の若い世代の方たちには彼らの音楽がどのように聴こえるのか、ちょっと興味があります。古臭い・つまらないと一蹴されるか、逆に一周回って新鮮に感じたりするのか…。ただし一つだけ言えるのが、カーズというバンドはその時代の流行りに乗っただけではなかった、という事。ニューウェイヴ・テクノといった要素は表層に過ぎず、彼らの本質は他のアメリカンロックとは一線を画する、どこか冷めた、その歌詞などを含めた彼らなりの(イギリス人とはまた違った)皮肉・ペーソスを漂わせた音楽性にあったのではないかと私は思っています。先述の「You Might Think」や81年のシングルヒット「Shake it up」といった一聴するとポップでキャッチーなR&Rと、これも先にあげた「Drive」の様なスローナンバー
にも、そのいずれにおいても奥底には同じ様な”クールさ・憂い”があって、人々は意識的か無意識にか、彼らに他とは違う魅力を感じ取ったのではないか、と私は思っています。そしてそれは時代に左右されない彼ら独自の音楽性であるので、若い方の中にはその音楽に魅かれる人達もいるのではないでしょうか。もっともただのオッサンの妄想、と言われてしまえばそれまでなのですけど・・・

#51 Around the World in a Day

「パープル・レイン」のビッグセールスにより、プリンスは自らのレーベルである”ペイズリー・パーク・レコード”を設立します。これでこれまで所属していたワーナー・ブラザーズにあれこれ言われずに自身の望む作品が創れる、と思ったのでしょうか、彼はとんでもないものを創ってしまいました。勿論自身のレーベルとは言ってもワーナー傘下であることは変わりないのですが、それでもワーナーからの”横やり”はかなり少なくなったそうです。前作の超大ヒットによって、天下の大レコード会社ワーナーもプリンスには一目置くというか、慮った対応をしなければならない状況だったようです。前作からわずか10ヶ月余りで新作「Around the World in a Day」をリリースします。

 

 

 


”続・パープル・レイン”を作れば再度のメガヒットは間違いなかったでしょう。しかし彼の様な天才肌にとっては全くとまでは言いませんが、そのような事にはあまり関心が無かった、というか無くなってしまったのかもしれません。出来上がった新作は世間の期待を(良い意味で)裏切るものでした。

80年代版「サージェント・ペパーズ」とでも呼ぶべき本作。私はリアルタイムだったので断言出来ますが、当時、ファッション等の他分野では違ったかもしれませんが、少なくともロック・ポップス界において、60年代後半におけるサイケデリックのリバイバルブームなどはありませんでした。プリンスの新作がまさかこの様な内容とは…、皆があっけにとられたのです。
”パープル・レイン第2弾”を作っていたならば、評論家達はまた”前作に引き続き売れ線に走った…”とか、”天才プリンスと言えど商業戦略には抗えなかった”などとこき下ろしていたでしょう。前回の記事にて、少なくとも日本の評論家筋が前作に漂うサイケデリック臭には触れていなかったと断言できると大見得を切りました。その根拠は、皆が本作の内容に驚愕し、そして絶賛したのです。もしも「パープル・レイン」に本作の予兆を感じ、その事を発言ないし文章化していたとすれば、鬼の首を取ったように”それ見た事か!俺はこれを予言していたぜ!!”と自画自賛していたことでしょうが、当時の記憶でも、また今回かなりネット上で検索してみてもそれらは見受けられませんでした。売れっ子は批判するもの、という様なスタンスのロックミュージック売文家達も、流石にこれは見事と認めざるを得なかったのです。

今調べてみると、むしろ海外での評価の方が様々だったようです。日本の評論家は一般ウケしそうにない作品を作った方が高評価するきらいがあるようですが、欧米ではコマーシャリズムも大事な要素と捉えているのかもしれません。またプロモーションにもあまり力を入れず、1stシングル「Raspberry Beret」がシングルカットされたのもアルバムリリースより1ヶ月後でした。そもそも前作から1年も経ていないのに新作を出すということは営業戦略上好ましい事ではありません。前作をきっちり売り切って、あれ程のメガヒットであれば、シングルも出せるだけ出して、きっちり収益を回収したうえで、その後に次作の制作及び販売促進に取り掛かるのが通常です。80年代のプリンスは楽曲やアイデアが湧き出てきてしょうがない様な状態だったのでしょう。異常とも言えるハイペースでアルバムをリリースしていきます。「Parade」(86年)、「Sign o’ the Times」(87年)と従来の音楽性から別方向へ向かった様な作品へと変容を遂げていきます。本作のエンディングナンバー「Temptation」は、「Parade」の音楽性を既に表していました。R&R、R&B、ブルースといったルーツ的なアメリカンミュージックから、フリージャズやアヴァンギャルドミュージックといった要素までを含んだ8分超のこの曲は、その後の布石の様なものだったのかもしれません。

以前の記事#2にて、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」を取り上げましたが、その中で評論家の萩原健太さんによる”これはロックではなく、その時点におけるブライアン・ウィルソンなりのアメリカンミュージックの集大成では…”、といった言葉について触れました。
全くの私見ですが、この時期のプリンスは60年代半ば~後半におけるブライアンに少し相通じる様な気がします。「ペット・サウンズ」~「スマイル」にて既存のロック・ポップスといったカテゴリーには収まり切らなくなってしまったブライアンの溢れ出てくる創作意欲。80年代半ば~後半においてのプリンスもこれに近い感覚だったのではないかと私は勝手に思っています。
90年代以降は必ずしも順風満帆といったミュージシャン活動ではなくなったようです。詳しくはウィキ等をご参照ください。

亡くなる前年のグラミー賞にて、プレゼンターとして壇上に立った彼は、『アルバムって覚えてる?』というスピーチを残しました。00年代からダウンロードそしてストリーミングへと、音楽の購入の仕方が劇的に変わり、楽曲単位で買うことが出来るようになったため、アルバムを丸ごと購入せずに聴きたい曲だけを買えるようになりました。これの功罪については特に言及しません。ただ、60年代半ばから、「ペット・サウンズ」や「サージェントペパーズ」をはじめとして、アルバムがただ単にシングルないしは出来の良い楽曲の寄せ集めでなく、それらが同一のアルバムに収録された事、さらにはその曲順やジャケットデザインまでを含めて意味を持たせた先達たちの功績(勿論プリンス自身を含めた)を忘れて欲しくない(幾分皮肉も混じっていたかもしれませんが…)、という思いから先のスピーチに至ったのではないでしょうか。

以上で3回に渡ったプリンス回は終わりです。それで、これからしばらくは今回取り上げたプリンスが全盛期であった時代でもある80年代の音楽を中心に書いていきたいと思います。テレコ(ラジカセ)・FM雑誌・カセットレーベル・エアチェック、そしてLPレコード等々…
私を含めた40代後半から60歳位までのオッサン世代にとっては生唾ゴックンものの記事を書いていきます、乞うご期待・・・ あっ、念の為言っときますが、生唾ゴックンものといってもエッチなやつじゃないですよ…
わかっとるわ!!! ━━(゚Д゚#)━━(…とでも突っ込んどいて下さい…)

#50 When Doves Cry

クラシック音楽については全く無知な私ですが、ラヴェル作「ボレロ」には何故か興味を魅かれます。一定のリズムと、これまた決まったメロディの繰り返し、これらを徐々に楽器の構成を変えながら、リズムも同じものながら段々と勢いを増し、やがてエンディングへ。ほとんど展開しないこの様な楽曲はクラシック音楽では珍しいものだそうです。
今回のテーマ、プリンスが84年にリリースしたアルバム「Purple Rain(パープル・レイン)」に収録されている「When Doves Cry(ビートに抱かれて)」、私はこれをポップミュージックにおける「ボレロ」であり、またその類の楽曲で最も成功したものだと思っています。

 

 

 


今更説明不要な程、プリンスの代表作にして最も商業的に成功した作品。意外と忘れ去られているかもしれませんが、同名映画のサウンドトラックであります。そう、映画だったんですよ。

リアルタイムで体験した私の記憶では、所謂『評論家筋』からは、”プリンスも売れ線に走った”とか”内容的には前作「1999」の方が優れている”といった辛口の批評が結構あったような気がします。売れたものに対してはケチを付けるもんだという強迫観念があるのかどうか預かり知りませんが、30数年経った今聴いても、全く売れ線などとは思いません。むしろこの内容でよくぞ当時で1500万枚というセールスを上げたものだと感心するほどです。具体的にはコマーシャルな楽曲と、一般ウケしそうにないものが玉石混交(この例えもあまり適切ではないかな、どちらが玉とか石とかでもありません)になっています。

唯一難点を挙げるとすればエンディングのタイトル曲が”プリンスとしてはやや凡庸”であるかな、という気もします(※あくまで個人の感想です←これ書いときゃ何でも許されるんでしょ)。
(´・ω・`)
コマーシャルな方の楽曲、売れ線と評していた輩はこれらの楽曲を良く思ってなかったのでしょうか。「Let’s Go Crazy」「I Would Die 4 U」「Baby I’m A Star」及びタイトル曲がそれに当たるかと思われます。いずれも素晴らしい楽曲であり、タイトル曲に関しても先ほど少しケチを付けた様な形になりましたが、曲のエンディングではやはりプリンスらしい、一筋縄では終わらない”良い意味でのクドイ締め方”となっています。では一般ウケしなさそうな方について。
A-②「Take Me With U」は本作では中庸な部類の楽曲でしょう(ただし大変重要なナンバーです、後述します)。A-③「The Beautiful Ones」はテクノポップ臭を漂わせながらのスローナンバー。メロディックなバラードとは一線を画するもので、特に後半の気が触れたかの様なヴォーカルは圧巻(これが苦手、という人もいるでしょうが…)。
A-④「Computer Blue」。冒頭にて、バンドメンバーであるウェンディとリサによる大変妖しく、また悩ましい様なレズビアンかつSMチックな会話から始まります。楽曲自体は3rdアルバム以降のテクノ的R&Rと呼べるもの。ところがどっこい、二部構成になっており、途中からサンタナ張りのギターソロをフューチャーしたパートへと変わります(当初は三部構成だったらしいです)。そしてA-⑤「Darling Nikki」はプリンスの真骨頂である、粘っこいエロティシズムに満ちた楽曲。歌詞も大変に性的なものを連想させる(というかそのものズバリ)という事で物議を醸しました。すくなくともA-③~⑤はお世辞にも売れ線とは言えません。そして極め付けが今回のテーマ、B-①に収録され第一弾シングルとなった「When Doves Cry(ビートに抱かれて)」。

普通の楽曲にあるようなAメロ→Bメロ→サビといった展開ではなく、基本的にAメロだけというものなのですが、この一定のパートを手を変え品を変え、エンディングの大円団へと終結させる、当時としてはとんでもなくアヴァンギャルドな楽曲です。この曲の様に、展開せずに一定のリズム・フレーズを繰り返すものはある種の高揚感をもたらします。決してこの曲がポピュラーミュージックにおいて初という訳ではありません。以前の記事のキング・クリムゾン回である#16~#17にて述べましたが、「太陽と戦慄」「レッド」及び再結成後の「ディシプリン」の中で既にそれは行われていました。またトーキング・ヘッズ80年リリースの「リメイン・イン・ライト」では『リズム』(アフリカンやファンクといった)が大変重要なファクターとなり、80年代のポップスシーンを変えてしまうほどのエポックメイキングな作品となりました。ちなみに「ディシプリン」「リメイン・イン・ライト」共にエイドリアン・ブリューが関わっているのは偶然でも何でもありませんが、これについてはまたの機会に。

よくこんな曲を(こんな曲って…)1stシングルに持ってきたものだと後から思いました。売るためなら「Let’s Go Crazy」や「Baby I’m A Star」の様な快活なノリの良いジャンプナンバーを初めに持ってきて良さそうなものです。ジミ・ヘンドリックス張りのギターイントロに始まり、続いて呪術師の唸りの様な奇怪な声。基本的伴奏はドラムマシンによるビートとシンセのリフのみ、その上でプリンス一人によるメインのヴォーカル、及びオーヴァーダビングでのコーラスやオブリガード的フレーズ。また他の伴奏(と言ってもシンセとギター位)も徐々に加わりテンション感が上がっていきます。ただしオフィシャルPVだと後半がカットされている為是非ともアルバム版をお勧めします。

この曲に関しては、同じく彼の全米No.1シングル「Kiss」(86年)と共にベースが入っていないという点がよく語られます。ベースが無いということは、低音部が抜け音のトーンバランスが悪くなるという事です。基本的に人が心地よく感じるのは低~中~高音まで全てバランスよく鳴っている音です。またベースは楽曲において、基本的にはルートや5度の音などを鳴らして音楽的にも安定させる役割を持ちます。(勿論そんなベタな演奏だけじゃない、というお声もあるでしょう、あくまで基本…)英語版のウィキにありましたが、当初は普通にベースが入っていたそうです。しかしバックヴォーカルのジル・ジョーンズとの会話がきっかけとなり、このまま(ベースが普通に入ったテイク)では型にはまりすぎている(conventional)、としてベースレスのテイクを採用したそうです。この事による不安定感、言い換えれば浮遊感とも呼べるものと、先述した繰り返しから生まれる高揚感により、この楽曲は唯一無二のものとなったのです。初めに聴いた時は「何だこの曲は…」と大抵の人は思うでしょう。小林克也さんですらそう思ったそうです。しかし何度か聴いているうちにこの曲が持つ魔力の様なものに憑りつかれていくのです。
本曲は84年のシングル年間チャートで1位を獲得。先に述べましたが、この様な”ループミュージック”とでも呼ぶべきものはポップミュージックにおいては決してこれが初めてではありませんでしたが、商業的に大成功したものとしては初と言えるでしょう。

ロック・ポップスを聴き始めてから1年ちょっとのリアルタイム時には当然判りませんでしたが、本作にはサイケデリックな雰囲気が漂っています。「Take Me With U」「Darling Nikki」において特に顕著です。私の記憶では当時において、この点について指摘した評論家・ライター(勿論日本の)は皆無です。当然現在のネット時代ではありませんし、中学生としてはその手のラジオや雑誌によく目・耳を通していた方だとは思いますが、それでも彼らの全ての発言や文章を把握出来た訳では当然ありません。でも皆無だったと言える根拠があります。それについては次回述べます。ただウィキにはその要素に当時から触れていた評論家もいたとの記述がありますが根拠は分かりません。誰のどこにおける発言・記述か、といったものを一応探してみましたが出てきませんでした。あったとしても海外においてだったと思われます。

今回も長くなってしまいました。後年においても本作について語られる時、プリンスのキャリアにおいて最も成功した、そしてポップ志向の強い作品という評価がなされてしまうようですが、決してそれだけではないという事だけは言いたかったのであります。次もプリンス回です(多分…最後…だと思う……)。