#57 Kiss on My List

77年の初めに「リッチ・ガール」がNo.1ヒットとなったホール&オーツですが、
同年9月リリースのアルバム「Beauty on a Back Street(裏通りの魔女)」が30位、
「Along the Red Ledge(赤い断層)」(78年)27位、「X-Static(モダン・ポップ)」
(79年)33位と、何とかTOP40に入る程度。シングルは「It’s a Laugh」(78年)
20位、「Wait for Me」(79年)18位というチャートアクションで、TOP20に
辛うじて入っている、といった結果でした。「裏通りの魔女」と「赤い断層」は結果的に
ゴールドディスクとはなりましたが、やはりかつてはNo.1ヒットを飛ばしたグループとしては
その結果はやや寂しいものでした。率直に言って人気の低迷期といって差し支えないでしょう。

 

 

 


だからと言って内容的にも落ち込んでいたかというと決してそうとは言い切れませんでした。
この時期を評して、昔よく言われたのが”過渡期・試行錯誤”といったものでした。
一時期のデヴィッド・ボウイもそうでしたが、アルバム毎にカラーが変わったとされます。
「裏通りの魔女」はハードロック、「赤い断層」がフィル・スペクターサウンド、そして
「モダン・ポップ」はディスコやニューウェイヴ。サラ・スマイルやリッチ・ガールの頃の
ブルーアイドソウル色が薄れ、良く言えば新しい音楽性に果敢にチャレンジ、悪く言えば
方向性を見失ったと言われます。私見ですが、作品毎にガラッと変わったという訳では無く、
それまでの音楽性を3~5割踏襲しながら新しい試みに挑戦していった、といった所が
実際だったと思っています。
レコード会社もおざなりな扱いをした、とかいう事では決してなく、むしろ参加ミュージシャン達を
見るとすごい面子が起用されていたりします。
今回調べていて初めて気が付いたのですが、「裏通りの魔女」のドラムはジェフ・ポーカロです。
確かにあのドラムはジェフの音色です。30年以上経って改めて判る事がいまだにあります…
他にはトム・スコット、ジョージ・ハリスン、スティーヴ・ルカサー、さらには何とロバート・
フリップまで。もっともフリップの参加には理由があります、これは次回にて。

80年7月、アルバム「Voices(モダン・ヴォイス)」を発表。よく”原点回帰”をした作品と
評されます。つまり彼らのルーツであるソウルミュージックへ戻ったという事。半分当たっていて、
半分は適当ではない評価かな、と個人的には思っています。先述したように全曲ソウルへと
回帰したかというとそうではなく、具体的に言えばA面は1stシングルであるジョン作のA-①
とA-⑥を除けばストレートなロックナンバー及びポップソングで固められており、
B面がブラックミュージックサイドと呼べるものでした。余談ですが昔はA面とB面で
楽曲やサウンドをはっきり分けているアルバムが結構ありました、レコードという媒体の特性が
あってこその事だった訳ですが、CDや配信の時代になって意味が無くなりましたが・・・

ライチャス・ブラザーズによるヒットであまりにも有名な、バリー・マン/シンシア・ワイル、
そしてフィル・スペクターによる、ブルーアイドソウル並びにフィル・スペクターサウンドの
名曲として名高い「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’(ふられた気持ち)」を2ndシングル
としてリリース。全米12位という久々のヒットを記録します。

3rdシングル「Kiss on My List」、今回のテーマです。元々はダリルと長年に渡り、公私共に
おけるパートナーであったサラ・アレンの妹 ジャナが歌う目的でダリルとジャナによって
作られた楽曲。しかしダリルが歌ったデモテープを聴いたスタッフがそのあまりの出来の良さに、
これはホール&オーツとして出すべきだ、とプッシュした事から「モダン・ヴォイス」へ収録されます。
本当に人生というのは何をきっかけとして好転(勿論その逆も)するかわかりません。
本曲はみるみるうちにチャートを駆け上がり、3週連続全米No.1の大ヒットとなり、その年の
シングル年間チャートにおける第7位となります。
本曲は決してソウル色の強いナンバーという訳ではありません。リズムボックスが生ドラムと
混在して使われているという点を除けば、非常にシンプルな楽器編成で特に実験的要素なども
感じられないポップソングです。ヒットの要因はひとえに楽曲の良さ、楽曲に寄り添った
シンプルではあるがツボを得た好演、そして勿論のこと、不世出のシンガー ダリル・ホール
による素晴らしい歌、これらが人々の心を打ったのです。なおトリビア的な事柄ですが、本曲の
ビデオクリップは81年から始まったMTVの初回放送時において流されたものの一つです。

この大ヒットをきっかけとして彼らの第二次黄金期がスタートするのは周知の事実です。
ソウルミュージックへの原点回帰と評されたアルバムからシングルカットされ、再ブレークの
火付け役となった楽曲ですが、それはブルーアイドソウル的ナンバーではありませんでした。
(しかし彼らがソウルを捨てた、とかいう訳ではありません。それはこの後すぐにわかります。)

多分本来はシングルカットされる予定は無かったのだと思われますが、前曲の大ヒットを受けて
リリースされたのでしょう。4thシングル「You Make My Dreams」も全米5位の大ヒット。
彼らの素晴らしい所は、二匹目のナンチャラを狙うのであれば前曲同様のポップソングを
シングルとしてリリースしそうなものですが、それはせずに、自分たちの”根っこ”である
ブラックミュージックをあえて持ってきたことです。結果、それは大成功しました。
また、
本作には大変重要な楽曲がもう一曲収録されていますが、それはまた次回以降で。

#56 She’s Gone

直近3回の記事にて、ブルーアイドソウルという言葉を使ってきましたが、
”ブルーアイドソウルって何ぞや!”、と思われた方もいるかもしれませんので簡単にご説明。
一言で言えば白人が演るソウルミュージック。ライチャス・ブラザーズやラスカルズと
いったミュージシャン達を指して、60年代から使われるようになったそうです。これには
幾分黒人側からの差別的なニュアンスも含まれていたようで、”白い奴らに俺たちのソウルが
出来るのかい?”という様な意味合いも昔はあったとのことです。
それらの事はともかく、私の世代でブルーアイドソウルと言えば何と言ってもこの人達です。
そう、それが今回からのテーマであるダリル・ホール&ジョン・オーツ(ホール&オーツ)です。

 

 

 


ペンシルベニア州フィラデルフィアにあるテンプル大学に在籍していた二人は、当初別々の
バンドで活動していたらしいのですが、やがてルームシェアして活動を共にしていきます。
ちなみに、その時アパートの郵便受けに”Hall & Oates”と表記した事がグループ名の由来。

72~74年の間にアトランティックより3枚のアルバムをリリースします。2ndはアリフ・
マーディン、3rdは奇才トッド・ラングレンのプロデュースと、レコード会社も決して
ぞんざいな扱いをした訳ではありませんでしたが、残念ながらヒットには恵まれませんでした
(ただし2nd「Abandoned Luncheonette」は大変重要な作品です、後述します)。
初期の音楽性はロック、ソウル、ソフトロック、フォークロック、当時流行していた内省的な
シンガーソングライター的作風(ジェームス・テイラーやローラ・ニーロの様な)が
垣間見え、後の彼らと比較すると興味深いものがあります。また、3rdはトッド・ラングレンの
影響からプログレ色も感じられるロックに仕上がっているのかと思いがちですが、ところが
どっこい、単にトッドの影響だけとは言い切れない事が後に露見します、これは次回以降にて。

75年にRCAへ移籍。4thアルバム「Daryl Hall & John Oates(サラ・スマイル)」を発表。
そこからのシングルカット「Sara Smile」が全米4位の大ヒット。これで檜舞台へと躍り出ます。
ちなみに”サラ”とは長きに渡って公私共にダリルのパートナーであったサラ・アレンのこと。
余談ですが、日本が誇るピアノ・キーボードプレイヤー 深町純さんの名盤「深町純&ニューヨーク・
オールスターズ・ライヴ」(78年)にて本曲はカヴァーされており、ジャズフュージョンファンの
方にはそちらの方で馴染みが深いかも。デヴィッド・サンボーンによる”泣きのサックス”が
あまりにも素晴らしい名演です。

本作よりブルーアイドソウルと呼ばれる音楽性が定まってきたと言えるでしょう。それにしても、
『アトランティックソウル』と呼ばれるカテゴリーがあるほどに、ソウルミュージックの
本家本元でもあるアトランティックを離れてからソウル色が強まるというのも何だか皮肉な話です。
76年、5thアルバム「Bigger Than Both of Us(ロックン・ソウル)」をリリース。翌年1月に
本作からの2ndシングル「Rich Girl」が見事に全米No.1となります。彼らの第一次黄金期が
この頃であったでしょう。

https://youtu.be/_pDCI8-ifaE
時系列はやや前後しますが、「サラ・スマイル」のヒットの後、アトランティックはそれに
あやかってか、2nd「Abandoned Luncheonette」から2年前(74年)にリリースした
シングル曲「She’s Gone」を再発。この時見事に全米TOP10入りを果たします。
ちなみに、「Abandoned Luncheonette」はその後長い期間に渡って、ホール&オーツ
初期の隠れた名盤として売れ続け、結果的にプラチナディスクを獲得します。

フィラデルフィアソウル(フィリーソウル)の王道の様な本曲は、ダリルとジョンの共作。
この後、ダリルのイニシアティブが強く押し出され、またそれが成功の要因となったことは
否めない事実ですが、本曲はソングライティング・ヴォーカル共において、二人の力が
結晶化された初期の傑作です。後年のジョンによるコメントで、まずジョンによりギターで
サビの部分が作られましたが、それ以外にはアイデアが浮かばなかったので、ダリルに
それを聴かせ、他のパートを共に作っていったとの事。またこれは結構有名なエピソードですが、
ダリルはサラと知り合う前の72年暮れに最初の結婚に失敗しており、ジョンも同年の大晦日に
女性から”すっぽかし”を喰らっています。この別れ・失恋が本曲の歌詞の元となっているそうです。

私の世代ですと、本曲は83年発表のベスト盤「Rock ‘n Soul Part 1」に収録されていたものの
方に圧倒的に馴染みがありますが、これはシングルヴァージョンで、「Abandoned Luncheonette」
に収録されていたもの、つまりアルバムヴァージョンとはアレンジが異なります。今回はシングル版を
ご紹介しますが、現在はユーチューブでどちらも聴くことが出来ますので(本当に良い時代になった
ものです… 。゚(゚´Д`゚)゜。゚)、聴き比べてみるのもご一興。

https://youtu.be/AVUOtH8feoI
ブルーアイドソウルのホープとしてポップミュージック界の頂点に昇りつめた二人。この後も
更なる飛躍を続けるのか、はたまた否か。その辺りはまた次回にて。

#55 Shout to the Top!

前回の記事でも少し触れましたが、バブル景気で隆盛を極めていた80年代の日本において、
スクリッティ・ポリッティなどと共にオシャレなポップスとして好まれていたイギリスの
ミュージシャンがいます。エヴリシング・バット・ザ・ガールやシャーデー、やや遅れて
デビューしたフェアーグラウンド・アトラクションといった、ロックにとどまらずに
ジャズ、ソウル・R&B、ブラックコンテンポラリー、ラテン音楽、そしてもちろん
英国人らしくブリティッシュトラッドをはじめとしたヨーロッパの音楽、といった様々な
音楽性を持った人達でした。前回既に名前を出しているのでもうお分かりかもしれませんが、
今回のテーマはその筆頭格とも言えるバンド、スタイル・カウンシルです。

 

 

 


70年代後半にデビューし、イギリスで、特に若者から絶大な人気を誇っていたザ・ジャムを
解散し、その直後にポール・ウェラーが結成したバンド。正式メンバーはウェラーと
ミック・タルボット(key)の二人ですが、実質的にはスティーヴ・ホワイト(ds)と
D.C.リー(cho)を加えた四人編成のバンドと捉えて良いでしょう。
その音楽性はヴァラエティーに富んでいると呼べばよいでしょうか、ジャズ・ボサノヴァ・
ラテンジャズ・イージーリスニング・フレンチポップス、ヒップホップ、もちろんの事
ソウル・R&Bまで、と何でもあり。無いのは節操くらい…(失礼 <(_ _)> )・・・
あと、もう一つありました。ザ・ジャム時代のストレートなR&Rだけはありませんでした。
私はリアルタイムで本バンドから聴いたので、ザ・ジャムは後追いなのですが、確かに
よく言われる”青筋立てて”ウェラーがギターをジャカジャカかき鳴らしながら、当時の若者や
労働者階級の不満を代弁してくれるような熱いロックに心酔していた従来のファン達は
かなり戸惑った、というより失望してしまった人が多かったようです。オレたちの・アタシたちの
ウェラーが変わってしまった、と。もっとも初期こそパンクロックと捉えられていたザ・ジャム
でしたが(70年代後半にイギリスでデビューするとみんなパンク扱いされたそうですけど…)、
徐々にウェラーが本来持っていた黒っぽい要素が強まっていき、ある意味スタイル・カウンシルは
必然的に結成されたとも言えるでしょう(それにしても変わり過ぎ、とされても仕方ないかと…)。

https://youtu.be/fo0lMI7bynE

83年、1stシングル「Speak Like a Child」をリリース。同年ミニアルバム「Introducing
The Style Council」を本国イギリス以外で発表します。
84年に1stアルバム「Café Bleu(カフェ・ブリュ)」を本国でもリリースし、最高位2位を記録。
先述した通り従来のザ・ジャムファンの戸惑いはありましたが、非常に高い評価を得ました。
ただ単に色んなジャンルを演ってみました、ではなく楽曲のクオリティーが全て高く、統一感には
欠けますが、非常に上質な作品に仕上がっています。

今回のタイトル「Shout to the Top!」は84年10月リリースのシングル。元はアメリカ映画の
サントラの為に作られた曲です。一聴すると爽やか系で快活な楽曲ですが、歌詞は労働者階級の、
特に若者たちへ向けて、トップ(上司や経営者、ひいては政治家、当時のサッチャー首相を
頂点とする)にいる奴らに向かって叫べ!といった内容です。もっともサッチャー首相が強力に
推し進めた市場原理を尊重した改革によって、イギリスではその後金融業をはじめとした好景気に
よって永く続いた不況を脱するのですが… あ、話がずれてしまいましたね・・・
前回も書きましたが、本バンドは当時、オシャレ系のポップスとしてナウでヤングな最先端スポットで
(プールバーとかカフェバーとか)かかっていたようですが、その歌詞はとてもオシャレスポットには
そぐわないものだったようです。知らない方が良い事ってあるもんですね・・・

85年、2ndアルバム「Our Favourite Shop」をリリース。全英No.1に輝き、バンドとしての
最盛期がこの頃であったでしょう。
87年の3rdアルバム「The Cost of Loving」も全英2位を記録するヒットでしたが、これを
境にバンドは勢いを失っていき、80年代末にバンドは自然消滅します。

ちなみに全米でのチャートアクションは、アルバムは一枚もTOP40には入らず、シングルも
「My Ever Changing Moods」の29位が最高でした。アメリカ音楽に傾倒していき、
その音楽性を発揮した作品が、その本場ではあまり受け入れられなかったというのは、
皮肉めいたものを感じます。プロモーションの問題などもあって一概には言えませんけれども、
スクリッティ・ポリッティもそうでしたが、英国流ブルーアイドソウルが本国にて
受け入れられるか否かの基準はよくわかりません。シンプリー・レッド やシャーデーが
アメリカでも受け入れられたのに対して、彼らがそうならなかったのは何故なのか。
多分、明確な答えなどは永遠に出ないのでしょうけれども・・・

私の音楽の知識は80年代で止まっているので、90年代以降については殆どわからないのですが、
オアシスをはじめとした、90年代以降のイギリスのミュージシャン達に絶大な影響を与えた
そうです。日本でもウェラーの人気は根強いものがあり、日本とイギリスは文化的に相通じる
ものがあるのではないかと思っています。

ザ・ジャム時代からすると本バンドは音楽的には劇的に変容を遂げましたが、ウェラーが書く
歌詞の内容は変わらなかったようです。彼は典型的な労働者階級の家に生まれた事もあってか、
その思想はかなり左傾化されたものであり、人によって賛同出来るか否かは分かれる所で、
またそのようなメッセージを音楽に乗せることを良しとするかどうかも賛否は様々です。
ただその考え方は脇に置いておくとして、40年に渡って”ブレずに”一貫したスピリットを
保っているのは、やはり並大抵の事ではないでしょう。

最後にご紹介するのは「Our Favourite Shop」のエンディング曲「Walls Come
Tumbling Down!」。快活なソウルナンバーですが、その歌詞は、『我々が団結すれば
壁(体制)は崩れる!』といった内容。当時のイギリスの事情を詳しくは知りませんが、
先述した通りその体制が推し進めた政策によって永く続いた不況を、その後脱する事に
なったのも事実です… 何だかよくわからなくなってきますね・・・
ただしそのサウンドはゴキゲンそのものです。これも先述したことなのですけれども、
歌詞が判らなくて
良かったということも結構あるのです。

#54 Cupid & Psyche 85

前回のカルチャー・クラブが大ブレークしていたほぼ同時期に、同じくイギリスにてデビューし、
非常に高い音楽性でもって注目されていたバンドがいました。それが今回のテーマである
スクリッティ・ポリッティです。

 

 

 


結成は77年ですが、リーダーであるグリーン・ガートサイド(vo、g)の病気療養その他の
事情によりデビューアルバムのリリースは82年となります。
1stアルバム「Songs to Remember」はファンや評論家筋からは、代表作とされる2ndよりも
音楽的には優れていると評される作品です。2ndの様なサウンド的インパクトはありませんが、
グリーンなりに消化したと思われる独自のソウル、ファンク、スカ等の音楽が、前面に押し出され
過ぎない程度の実験的ニューウェイヴ色にて彩られた作品です。プログレ・カンタベリー色が
仄かに香るのは、#48にて取り上げたソフト・マシーンのロバート・ワイアットが参加している
事に起因するのではないかと私は思っています。
1stはラフ・トレードというレーベルからリリースされました。初期のヴァージンの様に先進的な
ミュージシャンを見出していた会社でしたが、この1stは全英12位と、ラフ・トレードとしては
画期的とも言えるヒットを記録しました。

1stから2ndアルバムの間にもグリーンは病気療養のため一時帰郷します。元々は共産主義に傾倒し、
(バンド名はそれに由来するそうです、私はよく知りませんが)、パンクロックにのめり込んで
音楽を始めたらしいのですが、一度目の療養の際にパンクに対する興味はすっかり失い、代わりに
聴き込んでいったのはソウル・ファンクといったブラックミュージックでした。二度目の療養時には
初めて姉(妹)の持っていた(それまで肉親の音楽趣味を知らなかったのか?)ブラックミュージック
を耳にしたとの事。またN.Y.で旋風を巻き起こしつつあったヒップホップにも影響を受けます。
83年にグリーンはヴァージンと契約します。悪い言い方をすれば、ラフ・トレードのプロモーション
には限界があるとして見限ったとも言えるでしょう(当然この後しばらく揉める事となります。
仕方ないことですが…)。ヴァージンは前回取り上げたカルチャークラブ辺りから、急激に
メジャー化していく途上でしたので、お互いのニーズが上手く合ったのかもしれません。
そして米ではワーナーからのリリースとなります。

本作を検索すると枕詞のように大物プロデューサー アリフ・マーディンが関わった事が出てきます。
トム・ダウドなどと共にアトランティック/ワ-ナーを大レコード会社へとのし上げた立役者。彼が
イギリスの弱小レーベルからアルバムを1枚出しただけのグリーンと何故関わることになったのか?
結論から言うと、グリーンが渡米してから知り合ったボブ・ラスト(本バンドのマネージャーとなります)
という人物がカギを握っていました。オリジナルメンバーとは袂を分かち、1st製作中に知り合った
米国人デヴィッド・ギャムソン(key)を頼って渡米して、そこで新ドラマー フレッド・マーを
加えて新生スクリッティ・ポリッティが誕生します。当初はラフ・トレードとの法的イザコザが残って
いた為シングルの発売も思うようになりませんでしたが、そのトラブルを解決して、ワ-ナーと
つないでくれたのもボブ・ラストだったようです。

本作についてはとにかくサウンドが画期的でした。私もデジタル機材やレコーディング技術などには
疎いので上っ面の知識しかありませんが、フェアライトや発売間もないヤマハDX-7といった
デジタルシンセサイザーの効果的な使用、サンプリングやシーケンサーと言った当時における
最先端の技術、及び80年代に一世を風靡したゲートリバーブを駆使しての
エフェクト処理、
といった点がよく語られます。これは実際その通りで、当時ウチのお世辞にも
ハイスペックとは
言えなかったステレオで聴いた時にも、音が他とは全く違う、別次元だ、と
思ったのを記憶しています。
これについてはD・ギャムソンの功績が大きかったようです。
またポール・ジャクソン Jr.(g)やスティーヴ・フェローン(ds)といった第一線で活躍する
名うてのセッションプレイヤーの起用なども話題となりました。さらにあまり取り上げられない
事なのですが、超有名ベーシストであるウィル・リー(A-③)とマーカス・ミラー(A-⑤)の
二人も参加しています。少なくともクレジットを見る限りではそうなっているのです。

アルバムリリース(85年)の前年、本作に収録される事となる「Wood Beez」「Absolute」「Hypnotize」が先ずシングルとして発売されました。これらはアルバムヴァージョンとは違う
アレンジで、オッサン世代には懐かしの”12インチシングル”として発売されたと記憶しています
(多分…)。アルバム発売直前に先行してリリースされた1stシングルが先にあげた
「The Word Girl」。英では最高位6位と彼ら最大のヒットとなりました。
米では2ndシングル「Perfect Way」が最もチャートアクションの良かった楽曲です。先述した
マーカス・ミラーの参加がきっかけとなったのか、”帝王”マイルス・デイヴィスが自身の
アルバム「TUTU」(86年)で本曲を取り上げています。マーカスは当時マイルスの”腹心”でした。
これらの経緯があってか、3rdアルバム「Provision」(88年)では本格的なマーカス・ミラーの参加、
さらになんとマイルスが一曲ではありますがトランペットを吹いています。

本バンドは当時、スタイル・カウンシルなどと共に、とかく”おしゃれなポップス”として扱われていた
様な記憶があります。私はリアルタイム時、中~高校生でしかも田舎住みだったのでわかりません
でしたが、今になって私より少し上の年齢で、東京に住んでいたであろう方のブログなどを読むと、
当時の”オシャレスポット”(オッサン達懐かしの『プールバー』とか…)でそれらの音楽がよく
かかっていて、バブリーな男連中がこれまたバブリーなワンレン・ボディコンのオネエチャン達を、
それらの場所で口説いていた、との事。ですが、スタイル・カウンシルは実は英での階級闘争などを
隠喩的に歌っていたり、スクリッティ・ポリッティはこれまた哲学的で難解な歌詞であったりと、
とても女性を口説くのに適した曲ではなかったと知ったのは、ずっと後になってからだった…
との記事も見受けられました。言葉がわからなくて良かった、という事も時にはあるようです・・・
また本作は米では最高位50位と今一つ奮いませんでしたが、本国を含めたヨーロッパや
その他の地域(勿論日本を含む)では高い評価を得て、またその業界や玄人筋から絶賛されました。
比較的最近の事ですが、エルトン・ジョンが自身のラジオ「ロケット・アワー」15年10月放送にて、
本作を”the best produced electronic album of the 1980s” と評しているそうです。
”エレクトリック・アルバム”というのがこの場合はどの様な意味なのか、おそらくアコースティックの
反対、つまり80年代におけるエレクトリック・デジタル的な機材ないし技術を駆使したアルバムの
中で最も優れたもの、といったくらいの意味でしょうか。

しかし、本作と同様に高音質でサウンドインパクトがあった作品が他に無い訳ではなかったと思います。
やはり本質的な部分、つまり音楽性の高さがその評価の元になっているのは言わずもがなです。私が
ベストトラックと思っているのが次にご紹介する「Wood Beez (Pray Like Aretha Franklin)」。

副題の”Pray Like Aretha Franklin”は、勿論アレサの名唱でも御馴染のバート・バカラック作
「I Say a Little Prayer」にちなんだもの。今で言うオマージュソングといったところでしょうか。
言うまでもなくアレサと深く関わっていたA・マーディンがいた事が大きく影響しているでしょう。
ただ単に音が良くて、煌びやかなサウンドで持て囃された、というだけではない、少し変わった
スタイルではありますが、その根っこにはブラックミュージックの精神を宿した、グリーン流の
ブルーアイドソウルであったのではないか、と私は思うのです。

#53 Colour by Numbers

前回まで取り上げていた、プリンスやカーズといったアメリカ勢がヒットチャートの上位を
賑わせていた時期、勿論イギリス勢も黙ってはいませんでした。この時期、第2次
ブリティッシュインベンションと呼ばれた英国の、特に若手のミュージシャン達が
アメリカで(つまり世界で)人気の猛威をふるっていました。第1次は言うまでもなく
64年を皮切りとしたビートルズやストーンズをはじめとするイギリス勢の世界進出。
そして第2次というのは、80年代前半に興ったニューロマンティックとも呼ばれるジャンルの
ミュージシャン達。デュラン・デュラン、スパンダー・バレエ、ウルトラヴォックスといった
ファッショナブルで非常に見栄えのする人達でした。おい!!あのバンドが抜けてるだろう!
と、オッサン世代はすぐにお気付きのはず。その通り、今回のテーマはカルチャー・クラブです。

 

 

 


ボーイ・ジョージを中心とした白人3人、黒人1人から成るバンド(全員英国人)。82年に
ヴァージン・レコードよりレコードデビュー。このヴァージン・レコードというのが非常に
重要な意味を持っていると私は思います。その後、大メジャーレーベルへとのし上がっていく
会社ですが、ヴァージンの興りはマイク・オールドフィールドなどの非常に先進的な
ミュージシャンを見出した所から始まりました。ヴァージンやオールドフィールドについては
必ず別の機会にて。

バンドははじめにデモテープをEMIへ持っていきますが契約には至りませんでした。しかし、
そのデモを聴いたヴァージンが彼らと契約。英はヴァージン、米ではエピックレコードにて
レコードデビューする運びとなりました。これは当時ヴァージンが米での拠点を持ってなかった為。
1stアルバム「Kissing to Be Clever」(82年)は全英5位・全米14位を記録。きっかけは
当アルバムからの3rdシングル「Do You Really Want to Hurt Me(君は完璧さ)」の大ヒット。
全英1位・全米2位のビッグヒットとなり、一躍スターダムへ昇りつめます。
1stの音楽性はサンバ・カリプソ・サルサ・レゲエ、果てはアルゼンチンタンゴやスパニッシュまで、
といった多種多様なワールドミュージックの要素を盛り込んだダンサンブルポップス、と呼べるもの。
そもそもカルチャー・クラブというネーミングは、アイルランド系でゲイであるB・ジョージ、
英国黒人であるマイキー・クレイグ(b)、ユダヤ系のジョン・モス(ds)、そして
アングロサクソン
であるロイ・ヘイ(g)、といった面子に因るもの。この場合のカルチャーは「多民族・多人種の
文化、ひいては多文化主義」、といった意味合いでしょうか。

しかし、1stには既にその後の音楽性、というかB・ジョージの根っこにある要素だと私は思って
いますが、ソウル・R&Bといったブラックミュージックの匂いが漂っています。
今回かなり、英文のウェブページなども
拙い英語力でもって漁ってみたのですが、B・ジョージの
音楽的ルーツに関する情報は得られませんでした。どうしても、彼についてはゲイであること、
それに基づく”超個性的”なファッション、そして80年代後半からの麻薬所持をはじめとする
犯罪沙汰に関する情報等が先に立ってしまっているようです。
それらの事の陰になって見過ごされてしまっていると思うのですが、彼が非常に優秀なシンガー、
特にイギリスにおけるブラックミュージックをリスペクトしたシンガーの中において、類稀なる
実力を持った人であるという事です。

それが開花したのが、2ndアルバムで彼らの代表作でもある83年発表の「Colour by Numbers」。
全世界で1000万枚以上売り上げた本作にて彼らは時代の寵児となりました。特に本作からの
1stシングル「Karma Chameleon(カーマは気まぐれ)」は全英・全米を含む世界12か国で
No.1ヒットを記録しました。

ブルースハープの使用、ギターの音色にややカントリー&ウェスタンっぽさ、が感じられ、
全米市場を意識したのかな、と思わせる曲であり、結果的に大成功を収めます。ちなみに上記の
PVは間違いなくアメリカを意識して作られました。設定は19世紀のアメリカ。ミシシッピ川を
汽船で行き来する道中を描いたもの。もっともどう見てもリオのカーニヴァル的なオネエチャン達が
出てきてますので、その辺の設定は滅茶苦… もとい、ワールドワイドですが・・・
1stでも参加していましたが、本作では女性シンガー ヘレン・テリーの存在感が更に増しています。
声を聴いただけでは間違いなく黒人女性と思ってしまいますが、彼女は英国白人女性です。
本作にてヘレンをよりフィーチャーしたのは明らかに”黒っぽさ”を狙っての事かと私は思っています。
ゴスペル的ナンバーのA-⑤「That’s the Way」にて、それは特に成功しています。

時系列は前後しますが、彼らのブラックミュージックリスペクトが最も表れたナンバーが、
「君は完璧さ」のヒット後にリリースされたシングル「Time (Clock of the Heart)」。
全英3位・全米2位と前シングルに続き大ヒットとなった本曲は、私が思うに彼らの真骨頂である
ソウル色が明らかに、そして初めて前面に押し出されたナンバーだと思っています。

ちなみに全米で1位を阻んだのは映画「フラッシュ・ダンス」主題歌であるアイリーン・キャラの
「ホワット・ア・フィーリング」。また本曲は英盤では基本的にアルバム未収録でしたが、
当時は日本盤のみ「Colour by Numbers」にボーナストラックとして収録されていました。

はじめにEMIへ持ち込んだデモテープの内容が1stの内容だったか、もしくは既に2ndの音楽性を
示していたのか分からないので何とも言えませんが、#36の記事にて述べた通り、イギリス人には
無いものねだりとでも言うのか、実は強いブラックミュージックへの傾倒があります。仮にこのデモ
にてその片鱗があったとすれば、ヴァージンによる先見の明の勝利、と呼べるものでしょう。
逆にEMIは金の卵を逃したといったところでしょうか。もっとも1stの内容であっても非凡
ならざる音楽性でしたが。

彼らについて語られる時、B・ジョージの外見等の属性ばかりが取り上げられ、また先述した
ニューロマンティックと呼ばれる当時の流行りの中で売れたこともあって、一時期栄華を極めた
アイドルバンドの一つ、と後年になって見なされてしまっている部分があります。しかし
その音楽性は先に述べた通り、当時における最先端のエレクトリックポップやワールドミュージック
などの要素を取り入れながらも、その根底にはソウル・R&Bといったブラックミュージックが
しっかりと根差しており、確固とした高い音楽性を有していたバンドでありました。
私は彼らを、イギリスにおける優れたブルーアイドソウルのバンドの一つだと思っています。
35年経った今聴いても、それは全く色あせていないのです。

#52 Heatbeat City

前回までのプリンス回にて、84年の年間シングルチャート1位はプリンスの「When Doves Cry
(ビートに抱かれて)」と述べました。私の様な洋楽好きのオッサン世代には改めて語る必要は
ないかもしれませんが、全米でもヒットチャートと呼ばれるものは一つだけではなく、
主だったものは三つ、ビルボード・ラジオ&レコード・キャッシュボックスでした。
順位の算出基準に違いがある為当然順位は異なります。「ビートに抱かれて」が1位だったのは
ビルボードであり、ちなみにラジオ&レコードではヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」でした。
ベストヒットUSAにて採用していたチャートはラジオ&レコード。これはFMのリクエスト回数を
元にしている為、レコードセールスその他を総合的に算出基準としていたビルボードとはかなり異なる
チャートアクションになっていました。ついでに言うとキャッシュボックスは西海岸寄りの
チャート付けだったそうです。
アルバムチャートの方を見てみると、ビルボードでは言うまでもなく83・84年共にマイケル・
ジャクソンの「スリラー」(82年12月発売だった為)でしたが、ラジオ&レコードにおける
84年年間アルバムチャートの1位は意外とも言える作品でした。
それが今回のテーマ、ボストン出身のバンド、カーズの5thアルバムである「
Heatbeat City」。

 

 

 


リック・オケイセック(vo、g)を中心とし、78年に1stアルバム「The Cars(錯乱のドライブ/
カーズ登場)」にてデビュー。600万枚の大ヒットとなり注目を浴びます。続く2ndアルバム
「Candy-O(キャンディ・オーに捧ぐ)」もヒットし、初めから順調なスタートを切りました。
その音楽性はアメリカンR&Rにクールなニューウェイヴ・テクノ色を混ぜたもの、とでも
表現すれば良いでしょうか。シンプルなR&Rに、エリオット・イーストンの比較的ハードな
ギターが乗り、そこにテクノポップが加味された独特なサウンドでした。

FMのリクエスト回数は人気の先行指数、レコードセールスは遅行指数とでも呼べるでしょうか。
またマイケルの「スリラー」を引き合いに出すのも何ですが、レコードは引き続いて売れていた
84年において、ラジオ&レコードの方では既にチャートの上位から姿を消し、代わって
伸びてきたのは前回まで取り上げていたプリンスの「パープル・レイン」やカーズの本作でした。

MTVが台頭し始めたこの時期に、実に魅力的なビデオクリップを制作したのもヒットの大きな
要因でしょう。同年から創設されたMTVビデオミュージックアワードの第1回にて、マイケルや
シンディ・ローパーなどの他ノミネートを抑え、上記のシングル曲「You Might Think」の
プロモーションビデオは見事に最優秀ビデオ賞を受賞しました。

本作からの第3弾シングルであり、彼らにとって最大のシングルヒットとなった「Drive」。
本作の、というよりも彼らの全作品中におけるベストトラックと私は思っています。
浮遊感のあるカーズ独特のスローナンバー。”彼ららしく”ただの甘ったるいラブソングとは
なっていません。歌詞の解釈はかなり人によりけりですが、”Who’s gonna drive you home
tonight(今夜は誰がきみを家に送るんだろう…)”という一節はかなり意味深です。

翌85年には新曲を含むベスト盤をリリース。こちらも大ヒットし、この頃が全盛期であったでしょう。

決して米ポップミュージック界におけるメインストリームな存在というバンドではありませんでした。
かといって超個性的な音楽を演り、一部のコアでマニアックなファンだけから好かれた、という訳でも
ない。本流・主流からは少し離れた所に居ながら一定の支持を集めていた、決して貶める言葉ではない
良い意味での、”B級バンド”という表現がぴったりはまる様な存在だった気がします。

88年にバンドは解散。00年に中心メンバーであったベンジャミン・オール(vo、b)が亡くなった事に
より、オリジナルメンバーで再結成を果たすことはなくなってしまいました。しかし10年には
ベンジャミン以外のメンバーにて活動を再開。11年には24年振りとなる新作をリリースしました。

ニューウェイヴやテクノポップといった音楽の要素が決して普遍性を持ったものではないため、
35年余り経った現在では、勿論新しい波でもなく、そのテクノロジー(シンセやエレドラの音色等)
などは古臭く感じるものでしょう。リアルタイムで聴いていた私などはノスタルジーが先に立って
しまい客観的に聴くことが困難な面があります。30代以下の若い世代の方たちには彼らの
音楽がどのように聴こえるのか、ちょっと興味があります。古臭い・つまらないと一蹴されるか、
逆に一周回って新鮮に感じたりするのか…。ただし一つだけ言えるのが、カーズというバンドは
その時代の流行りに乗っただけではなかった、という事。ニューウェイヴ・テクノといった要素は
表層に過ぎず、彼らの本質は他のアメリカンロックとは一線を画する、どこか冷めた、その歌詞など
を含めた彼らなりの(イギリス人とはまた違った)皮肉・ペーソスを漂わせた音楽性にあったのでは
ないかと私は思っています。先述の「You Might Think」や81年のシングルヒット「Shake it up」
といった一聴するとポップでキャッチーなR&Rと、これも先にあげた「Drive」の様なスローナンバー
にも、そのいずれにおいても奥底には同じ様な”クールさ・憂い”があって、人々は意識的か無意識にか、
彼らに他とは違う魅力を感じ取ったのではないか、と私は思っています。そしてそれは時代に
左右されない彼ら独自の音楽性であるので、若い方の中にはその音楽に魅かれる人達もいるのでは
ないでしょうか。もっともただのオッサンの妄想、と言われてしまえばそれまでなのですけど・・・

#51 Around the World in a Day

「パープル・レイン」のビッグセールスにより、プリンスは自らのレーベルである”ペイズリー・パーク・
レコード”を設立します。これでこれまで所属していたワーナー・ブラザーズにあれこれ言われずに
自身の望む作品が創れる、と思ったのでしょうか、彼はとんでもないものを創ってしまいました。
勿論自身のレーベルとは言ってもワーナー傘下であることは変わりないのですが、それでもワーナーからの
”横やり”はかなり少なくなったそうです。前作の超大ヒットによって、天下の大レコード会社ワーナーも
プリンスには一目置くというか、慮った対応をしなければならない状況だったようです。
前作からわずか10ヶ月余りで新作「Around the World in a Day」をリリースします。

 

 

 


”続・パープル・レイン”を作れば再度のメガヒットは間違いなかったでしょう。しかし彼の様な天才肌に
とっては全くとまでは言いませんが、そのような事にはあまり関心が無かった、というか無くなって
しまったのかもしれません。出来上がった新作は世間の期待を(良い意味で)裏切るものでした。

80年代版「サージェント・ペパーズ」とでも呼ぶべき本作。私はリアルタイムだったので断言出来ますが、
当時、ファッション等の他分野では違ったかもしれませんが、少なくともロック・ポップス界において、
60年代後半におけるサイケデリックのリバイバルブームなどはありませんでした。
プリンスの新作がまさかこの様な内容とは…、皆があっけにとられたのです。
”パープル・レイン第2弾”を作っていたならば、評論家達はまた”前作に引き続き売れ先に走った…”とか、
”天才プリンスと言えど商業戦略には抗えなかった”などとこき下ろしていたでしょう。
前回の記事にて、少なくとも日本の評論家筋が前作に漂うサイケデリック臭には触れていなかったと
断言できると大見得を切りました。その根拠は、皆が本作の内容に驚愕し、そして絶賛したのです。
もしも「パープル・レイン」に本作の予兆を感じ、その事を発言ないし文章化していたとすれば、
鬼の首を取ったように”それ見た事か!俺はこれを予言していたぜ!!”と自画自賛していたことでしょうが、
当時の記憶でも、また今回かなりネット上で検索してみてもそれらは見受けられませんでした。
売れっ子は批判するもの、という様なスタンスのロックミュージック売文家達も、流石にこれは見事と
認めざるを得なかったのです。

今調べてみると、むしろ海外での評価の方が様々だったようです。日本の評論家は一般ウケしそうにない
作品を作った方が高評価するきらいがあるようですが、欧米ではコマーシャリズムも大事な要素と
捉えているのかもしれません。
またプロモーションにもあまり力を入れず、1stシングル「Raspberry Beret」がシングルカット
されたのもアルバムリリースより1ヶ月後でした。そもそも前作から1年も経ていないのに新作を
出すということは営業戦略上好ましい事ではありません。前作をきっちり売り切って、あれ程の
メガヒットであれば、シングルも出せるだけ出して、きっちり収益を回収したうえで、その後に
次作の制作及び販売促進に取り掛かるのが通常です。
80年代のプリンスは楽曲やアイデアが湧き出てきてしょうがない様な状態だったのでしょう。
異常とも言えるハイペースでアルバムをリリースしていきます。「Parade」(86年)、
「Sign o’ the Times」(87年)と従来の音楽性から別方向へ向かった様な作品へと
変容を遂げていきます。
本作のエンディングナンバー「Temptation」は、「Parade」の音楽性を既に表していました。
R&R、R&B、ブルースといったルーツ的なアメリカンミュージックから、フリージャズや
アヴァンギャルドミュージックといった要素までを含んだ8分超のこの曲は、その後の布石の様な
ものだったのかもしれません。

以前の記事#2にて、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」を取り上げましたが、その中で
評論家の萩原健太さんによる”これはロックではなく、その時点におけるブライアン・ウィルソン
なりのアメリカンミュージックの集大成では…”、といった言葉について触れました。
全くの私見ですが、この時期のプリンスは60年代半ば~後半におけるブライアンに少し相通じる
様な気がします。「ペット・サウンズ」~「スマイル」にて既存のロック・ポップスといった
カテゴリーには収まり切らなくなってしまったブライアンの溢れ出てくる創作意欲。80年代半ば~
後半においてのプリンスもこれに近い感覚だったのではないかと私は勝手に思っています。
90年代以降は必ずしも順風満帆といったミュージシャン活動ではなくなったようです。
詳しくはウィキ等をご参照ください。

亡くなる前年のグラミー賞にて、プレゼンターとして壇上に立った彼は、『アルバムって覚えてる?』
というスピーチを残しました。00年代からダウンロードそしてストリーミングへと、音楽の購入の
仕方が劇的に変わり、楽曲単位で買うことが出来るようになったため、アルバムを丸ごと購入せずに
聴きたい曲だけを買えるようになりました。これの功罪については特に言及しません。ただ、
60年代半ばから、「ペット・サウンズ」や「サージェントペパーズ」をはじめとして、
アルバムがただ単にシングルないしは出来の良い楽曲の寄せ集めでなく、それらが同一のアルバムに
収録された事、さらにはその曲順やジャケットデザインまでを含めて意味を持たせた先達たちの功績
(勿論プリンス自身を含めた)を忘れて欲しくない(幾分皮肉も混じっていたかもしれませんが…)、
という思いから先のスピーチに至ったのではないでしょうか。

以上で3回に渡ったプリンス回は終わりです。それで、これからしばらくは今回取り上げたプリンスが
全盛期であった時代でもある80年代の音楽を中心に書いていきたいと思います。
テレコ(ラジカセ)・FM雑誌・カセットレーベル・エアチェック、そしてLPレコード等々…。
私を含めた40代後半から60歳位までのオッサン世代にとっては生唾ゴックンものの記事を
書いていきます、乞うご期待・・・ あっ、念の為言っときますが、生唾ゴックンものといっても
エッチなやつじゃないですよ… わかっとるわ!!! ━━(゚Д゚#)━━(…とでも突っ込んどいて下さい…)

#50 When Doves Cry

クラシック音楽については全く無知な私ですが、ラヴェル作「ボレロ」には何故か興味を
魅かれます。一定のリズムと、これまた決まったメロディ
の繰り返し、これらを徐々に
楽器の構成を変えながら、リズムも同じものながら段々と勢いを増し、やがてエンディングへ。
ほとんど展開しないこの様な楽曲はクラシック音楽では珍しいものだそうです。
今回のテーマ、プリンスが84年にリリースしたアルバム「Purple Rain(パープル・レイン)」に
収録されている「When Doves Cry(ビートに抱かれて)」、私はこれをポップミュージックに
おける「ボレロ」であり、またその類の楽曲で最も成功したものだと思っています。

 

 

 


今更説明不要な程、プリンスの代表作にして最も商業的に成功した作品。意外と忘れ去られて
いるかもしれませんが、同名映画のサウンドトラックであります。そう、映画だったんですよ。

リアルタイムで体験した私の記憶では、所謂『評論家筋』からは、”プリンスも売れ線に走った”とか
”内容的には前作「1999」の方が優れている”といった辛口の批評が結構あったような気がします。
売れたものに対してはケチを付けるもんだという強迫観念があるのかどうか預かり知りませんが、
30数年経った今聴いても、全く売れ線などとは思いません。むしろこの内容でよくぞ当時で
1500万枚と
いうセールスを上げたものだと感心するほどです。具体的にはコマーシャルな
楽曲と、一般ウケしそうにないものが玉石混交(この例えもあまり適切ではないかな、どちらが
玉とか石とかでもありません)になっています。

唯一難点を挙げるとすればエンディングのタイトル曲が”プリンスとしてはやや凡庸”であるかな、
という気もします(※あくまで個人の感想です←これ書いときゃ何でも許されるんでしょ(´・ω・`))。
コマーシャルな方の楽曲、売れ先と評していた輩はこれらの楽曲を良く思ってなかったのでしょうか。
「Let’s Go Crazy」「I Would Die 4 U」「Baby I’m A Star」及びタイトル曲がそれに
当たるかと思われます。いずれも素晴らしい楽曲であり、タイトル曲に関しても先ほど少しケチを
付けた様な形になりましたが、曲のエンディングではやはりプリンスらしい、一筋縄では終わらない
”良い意味でのクドイ締め方”となっています。
では一般ウケしなさそうな方について。A-②「Take Me With U」は本作では中庸な部類の
楽曲でしょう(ただし大変重要なナンバーです、後述します)。A-③「The Beautiful Ones」は
テクノポップ臭を漂わせながらのスローナンバー。メロディックなバラードとは一線を画するもので、
特に後半の気が触れたかの様なヴォーカルは圧巻(これが苦手、という人もいるでしょうが…)。
A-④「Computer Blue」。冒頭にて、バンドメンバーであるウェンディとリサによる大変妖しく、
また悩ましい様なレズビアンかつSMチックな会話から始まります。楽曲自体は3rdアルバム以降の
テクノ的R&Rと呼べるもの。ところがどっこい、二部構成になっており、途中からサンタナ張りの
ギターソロをフューチャーしたパートへと変わります(当初は三部構成だったらしいです)。そして
A-⑤「Darling Nikki」はプリンスの真骨頂である、粘っこいエロティシズムに満ちた楽曲。
歌詞も大変に性的なものを連想させる(というかそのものズバリ)という事で物議を醸しました。
すくなくともA-③~⑤はお世辞にも売れ線とは言えません。そして極め付けが今回のテーマ、
B-①に収録され第一弾シングルとなった「When Doves Cry(ビートに抱かれて)」。

普通の楽曲にあるようなAメロ→Bメロ→サビといった展開ではなく、基本的にAメロだけという
ものなのですが、この一定のパートを手を変え品を変え、エンディングの大円団へと終結させる、
当時としてはとんでもなくアヴァンギャルドな楽曲です。この曲の様に、展開せずに一定のリズム・
フレーズを繰り返すものはある種の高揚感をもたらします。決してこの曲がポピュラーミュージック
において初という訳ではありません。以前の記事のキング・クリムゾン回である#16~#17にて
述べましたが、「太陽と戦慄」「レッド」及び再結成後の「ディシプリン」の中で既にそれは
行われていました。またトーキング・ヘッズ80年リリースの「リメイン・イン・ライト」では
『リズム』(アフリカンやファンクといった)が大変重要なファクターとなり、80年代の
ポップスシーンを変えてしまうほどのエポックメイキングな作品となりました。ちなみに
「ディシプリン」「リメイン・イン・ライト」共にエイドリアン・ブリューが関わっているのは
偶然でも何でもありませんが、これについてはまたの機会に。

よくこんな曲を(こんな曲って…)1stシングルに持ってきたものだと後から思いました。
売るためなら「Let’s Go Crazy」や「Baby I’m A Star」の様な快活なノリの良いジャンプ
ナンバーを初めに持ってきて良さそうなものです。
ジミ・ヘンドリックス張りのギターイントロに始まり、続いて呪術師の唸りの様な奇怪な声。
基本的伴奏はドラムマシンによるビートとシンセのリフのみ、その上でプリンス一人による
メインのヴォーカル、及びオーヴァーダビングでのコーラスやオブリガード的フレーズ。また
他の伴奏(と言ってもシンセとギター位)も徐々に加わりテンション感が上がっていきます。
ただしオフィシャルPVだと後半がカットされている為是非ともアルバム版をお勧めします。

この曲に関しては、同じく彼の全米No.1シングル「Kiss」(86年)と共にベースが
入っていないという点がよく語られます。ベースが無いということは、低音部が抜け
音のトーンバランスが悪くなるという事です。基本的に人が心地よく感じるのは
低~中~高音まで全てバランスよく鳴っている音です。またベースは楽曲において、
基本的にはルートや5度の音などを鳴らして音楽的にも安定させる役割を持ちます。
(勿論そんなベタな演奏だけじゃない、というお声もあるでしょう、あくまで基本…)
英語版のウィキにありましたが、当初は普通にベースが入っていたそうです。しかし
バックヴォーカルのジル・ジョーンズとの会話がきっかけとなり、このまま(ベースが
普通に入ったテイク)では型にはまりすぎている(conventional)、として
ベースレスのテイクを採用したそうです。この事による不安定感、言い換えれば
浮遊感とも呼べるものと、先述した繰り返しから生まれる高揚感により、この楽曲は
唯一無二のものとなったのです。初めに聴いた時は「何だこの曲は…」と大抵の人は
思うでしょう。小林克也さんですらそう思ったそうです。しかし何度か聴いている
うちにこの曲が持つ魔力の様なものに憑りつかれていくのです。
本曲は84年のシングル年間チャートで1位を獲得。先に述べましたが、この様な
”ループミュージック”とでも呼ぶべきものはポップミュージックにおいては決してこれが
初めてではありませんでしたが、商業的に大成功したものとしては初と言えるでしょう。

ロック・ポップスを聴き始めてから1年ちょっとのリアルタイム時には当然判りませんでしたが、
本作にはサイケデリックな雰囲気が漂っています。「Take Me With U」「Darling Nikki」に
おいて特に顕著です。私の記憶では当時において、この点について指摘した評論家・ライター
(勿論日本の)は皆無です。当然現在のネット時代ではありませんし、中学生としてはその手の
ラジオや雑誌によく目・耳を通していた方だとは思いますが、それでも彼らの全ての発言や
文章を把握出来た訳では当然ありません。でも皆無だったと言える根拠があります。それに
ついては次回述べます。ただウィキにはその要素に当時から触れていた評論家もいたとの記述が
ありますが根拠は分かりません。誰のどこにおける発言・記述か、といったものを一応探して
みましたが出てきませんでした。あったとしても海外においてだったと思われます。

今回も長くなってしまいました。後年においても本作について語られる時、プリンスのキャリアに
おいて最も成功した、そしてポップ志向の強い作品という評価がなされてしまうようですが、
決してそれだけではないという事だけは言いたかったのであります。
次もプリンス回です(多分…最後…だと思う……)。

#49 1999

#43~#47でジミ・ヘンドリックス、#40にてサンタナを取り上げましたが、両者のDNAとでも
呼ぶべきものを受け継いでいたギタリストがいたと私は思っています。それはプリンスです。
(゚Д゚)ハァ?そうかあ? プリンスがギター上手いのは知ってるけど、他にもっといるんじゃね?
と、声があがるのはもっともです。あくまで私見ですし、プリンスはギタリストとしてだけでなく
トータルなミュージシャンとして評価すべきというのもごもっともです。これは話の枕的なもの…

 

 

 


16年に惜しくも亡くなってしまいましたが、たぐいまれなる才能を持ったミュージシャンで
あった事は衆目の一致するところです。ジャズ・ピアニストの父、シンガーの母の下に生まれ、
当然の様に幼少より音楽に親しみます。作曲・編曲の才能は勿論のこと、いわゆるマルチ・
プレイヤーでもあります。ピアノとギターを弾きこなすプレイヤーというのは割といますが、
彼はドラムまで叩きます。それが少し叩ける、といった程度のものではなく本職顔負けのプレイです。
1stアルバム「For You」(78年)は楽曲作りから演奏まで全てを一人でこなしていますが、
エンディング曲「I’m Yours」を聴けばそのドラミングの実力がわかります。
79年、2nd「Prince(愛のペガサス)」をリリース。
シングル「I Wanna Be Your Lover」が
ポップスチャートで全米11位(R&Bでは1位)のヒットを記録し、世間にその名を知らしめます。
初期のプリンスの音楽性を具体的に述べると、当時流行のディスコ、あるいはもう少し”濃ゆい”
ジェームス・ブラウン的な(声質は全く違いますが)ファンクの16ビート。及びこれまた当時、
巷で流行っていたフュージョン(クロスオーヴァー)的なソフト&メローな楽曲(例えば
アル・ジャロウの様な)。そしてハードなロックチューン。と、大まかに分類できます。
その後も「Dirty Mind」(80年)、「Controversy(戦慄の貴公子)」(81年)と
スマッシュ・ヒットを続けます。

そのギターに関して言えば、ジミ・ヘンドリックスの影響が語られます。確かにジミ張りの
ステージアクト(ギターを生殖器に見立てたパフォーマンス等)を行っていたようですが、
しかしリードギターのプレイスタイルとしてはサンタナに近かったと良く言われます。叙情的、
言い換えれば分かり易く感情に訴えかけるフレージングが特徴でした。しかしプリンスのギターの
真骨頂はステージアクトや激しいギターソロではなくリズムギター、ファンキーな16ビートの
カッティングにあると私は思っています(じゃあ枕の話はなんだったんだよ、とは思わずに・・・)。
そしてギタースタイルと同様に、初期プリンスの音楽性における肝は16ビートのファンクに
あると
言えるでしょう。そこに両親からの影響であるジャズや、当時のディスコやAORを含んだ
”プリンス流ファンク”とでも呼ぶべき音楽性が主軸になっていたと思います。

先述した「I Wanna Be Your Lover」が初期の曲では最も親しみやすいでしょう。もっとも
これだけ聴くとクインシー・ジョーンズ(つまりマイケル・ジャクソン)かよ! と、思って
しまうかもしれませんが、「オフ・ザ・ウォール」とほとんど同時期のリリースなので、決して
パクリではないでしょう。彼のファンクはもっと多様性がありました(クインシー=マイケルが
一本調子だった、とか言う意味ではありません)。ちなみにその2ndアルバム
 には、
後にチャカ・カーンのカヴァーで大ヒットすることとなる「I Feel for You」が収録されています。

ギターの話に戻りますと、彼は70年代に日本のモリダイラ楽器が製造したブランドである
”H.S.Anderson”のテレキャスターモデル(MAD CAT)をデビュー時から愛用しており、
初期によく聴くことが出来る気持ちのいい16ビートのカッティングは同器によるものの
ようです。ちなみに先の「I Wanna Be Your Lover」のビデオクリップではレスポールを
弾く姿が出てきますが、多分レコーディングではテレキャスあるいはシングルコイルのギターを
使っていたと思われます。余談ですがH.S.Andersonは所謂”ジャパン・ヴィンテージ”として
現在でも高く評価され、根強い人気を誇っています。

82年、アルバム「1999」をリリース。遂にブレイクを迎えます。全米で400万枚のセールス、
「Little Red Corvette」「Delirious」がTOP10ヒットとなるなど、この頃になって
ようやく世間がその音楽性に気付き始めたといったところだったのでしょうか。
前作・前々作から、つまり80年以降は時代の影響もあって、ニューウェイヴ・テクノポップと
いった要素が強くなっていったのはプリンスも同様でした。シンセサイザーの音色などは
今から聴くと”安っぽい”と思われるかもしれませんが(でもリアルタイムのオジサン世代は
これを”未来の音だ”と感じていたんですよ)、当時における最先端のテクノロジーを貪欲に
取り入れていました。やがて流行などはお構いなし、といった唯我独尊的な音楽性へと
変容していった人ですが、この頃まではある意味”柔軟”な姿勢だったようです。
タイトル曲は世紀末を歌った曲(本当の世紀末は2000年らしいですけど)。サウンドは
80年代風テクノ味ソウルミュージックとでも呼ぶべき快活な曲調ですが、歌詞は世界の終末に
ついて書かれています。”2000年にはパーティは終わってしまう。だから今夜1999年みたいに
パーティするんだ” の様な歌詞で、解釈は人それぞれのようですが、幕末の”ええじゃないか”
みたいな雰囲気を歌っているのかもしれません。

このようにして、着々と成功への足元を固めてきたプリンスですが、これはまだほんの序章と
呼べるものでした。次回は勿論次作である「パープル・レイン」についてです。
しかし2018年の冒頭に「1999」って、なんだよ!狙って書きやがったか!ヽ(`Д´#)ノ
とか、思わないでください。本当に以前から予定していたこの回がたまたま年初に来ただけです
(あっ、でも、ちょっとオイシイかな、とか思わなかった訳では…)。今年もよろしくノシ

#48 Summer of Love

#31から続けてきました、60年代後半から70年頃にかけてエポックメイキングと
なったロックを取り上げてきたテーマは前回をもって終了しましたが、今回はそのオマケ編。
”サマー・オブ・ラブ”と呼ばれる67年夏にサンフランシスコを中心に起こったムーヴメントが
ありました。現在から振り返るとかなり極端な文化的・政治的主張や価値観であったりして、
賛同出来るか否かは人それぞれですので、ここではそれについては触れず、ロックミュージックに
おける同ムーヴメントに影響を与えた、またはそれに感化されて作られた音楽を軽く見ていきます。
季節的にまったく真逆ですが、どうぞ全然気にしないでください。
え、クリスマス? ナニそれ? たべられるモノ???(´・ω・`)???


スコット・マッケンジー「San Francisco」。超ベタなとこですが、そのものずばりのタイトル、

同ムーヴメントの象徴とされる楽曲。お次はリリースこそ65年12月と若干遡りますが、ウェストコーストに
おけるフォーク・ロックの象徴的楽曲 ママス&パパス「California Dreamin’(夢のカリフォルニア)」。
ちなみに先のスコット・マッケンジー「San Francisco」はジョン・フィリップスの作。

2曲続けてベタベタなとこから始まりましたが、これまた超ベタなやつ。というより今回はほとんど
ベタなのしかありません。”シスコサウンド”の象徴的存在であったジェファーソン・エアプレイン
「Somebody To Love(あなただけを)」。

#31で触れましたが、ロックにおいて最初のサイケデリックナンバーとされる(勿論人によって諸説あり)
バーズの「Eight Miles High(霧の8マイル)」。

https://youtu.be/yoSwOrytf_M
こちらは#2で書きましたが、名盤「ペット・サウンズ」の後、世界一有名な未完のアルバム「スマイル」に
収録されるはずだった(本作の各トラックは、この曲をはじめその後の作品にてバラバラに採用されて
いますが)ビーチ・ボーイズ「HEROES AND VILLAINS(英雄と悪漢)」。「スマイル」が04年に
ブライアン・ウィルソン名義で日の目を見ることも#2の記事にて述べた通り。

続いてはイギリス勢。67年と言えばビートルズ「サージェント・ペパーズ」ですが、ここではその前作
「リボルバー」より
ビートルズ初のサイケデリックナンバーとされるTomorrow Never Knows」。
https://youtu.be/Ah2ckzXgrx4
#25から#28にてピンク・フロイドは取り上げましたが、プログレッシヴロックの雄とされるフロイドも
デビュー当初はサイケデリックロックバンドの急先鋒でした。ロンドンにおけるアンダーグラウンドシーンの
中心地であった伝説的存在であるUFOクラブにて、ライティングを駆使した独自のステージを繰り広げて
いました。ここではデビュー作「夜明けの口笛吹き」より「Astronomy Domine(天の支配)」。

エリック・クラプトンは#8~#12で書きましたが、伝説的ロックトリオであるクリームも時代の影響を
受けてサイケ色からは逃れられませんでした。デビュー曲「I Feel Free」。曲自体は真面目に作ったのか
どうか疑わしいような曲ですが、クラプトンのギターソロだけはとにかく素晴らしいの一言。

お次はムーディー・ブルース。ピンク・フロイドやプロコル・ハルムと共に、プログレの黎明期を
支えた存在。言うまでもなく「Nights In White Satin(サテンの夜)」。

最後は”カンタベリー・ロック”の礎を築いたソフト・マシーン。ハットフィールド・アンド・ザ・ノース、
ナショナル・ヘルスなどにより、イギリス南東部のカンタベリーをその中心地として、後にフュージョン
(クロスオーヴァー)とは一線を画する独自のジャズロックを創り上げました。80年代、日本において
この様なジャンルはまったくと言って良い程見向きもされませんでしたが、90年代以降徐々に
認知度が上がってきたようです。オシャレでポップ(軽佻浮薄とも言う)な80年代にはこれに限らず、
少しマニアックなジャンルを聴いているだけで、「ネクラ」とか「オタク」とか言われたものですが、
オタクという呼称が必ずしも蔑称ではなくなってきた様に、ロックに限らずマニアックなものが
認められるようになってきたのは、オジサンからすると大変良い時代になったものです。今の30代
以下の方たちは、物心ついた時から基本的にずっと不景気の世の中で育ったと思いますが、逆にバブル
世代以前の連中(私も含めた)よりもよほど文化的アンテナが鋭いのではないかと思っています。
ゆめゆめ”最近の若いもんは…”などと言っては失礼です。むしろ”まったく最近のオッサンは…”と
いう言葉こそこれからは使われるべきでは・・・。

https://youtu.be/x7y_pA-L2ww
以上駆け足で見てきましたが、先に述べた通り今回は前回まで続いてきたテーマのオマケ編、
もしくは補完編とでもいうものでした。あ、そうそう、別に全然大したことではないのですが、
今年の記事はこれにて最後です。別に年が変わるのにあまり意味はないので。それでは、またノシ