#49 1999

#43~#47でジミ・ヘンドリックス、#40にてサンタナを取り上げましたが、両者のDNAとでも呼ぶべきものを受け継いでいたギタリストがいたと私は思っています。それはプリンスです。
(゚Д゚)ハァ?そうかあ? プリンスがギター上手いのは知ってるけど、他にもっといるんじゃね?と、声があがるのはもっともです。あくまで私見ですし、プリンスはギタリストとしてだけでなくトータルなミュージシャンとして評価すべきというのもごもっともです。これは話の枕的なもの…

 

 

 


16年に惜しくも亡くなってしまいましたが、たぐいまれなる才能を持ったミュージシャンであった事は衆目の一致するところです。ジャズ・ピアニストの父、シンガーの母の下に生まれ、当然の様に幼少より音楽に親しみます。作曲・編曲の才能は勿論のこと、いわゆるマルチ・プレイヤーでもあります。ピアノとギターを弾きこなすプレイヤーというのは割といますが、彼はドラムまで叩きます。それが少し叩ける、といった程度のものではなく本職顔負けのプレイです。1stアルバム「For You」(78年)は楽曲作りから演奏まで全てを一人でこなしていますが、エンディング曲「I’m Yours」を聴けばそのドラミングの実力がわかります。
79年、2nd「Prince(愛のペガサス)」をリリース。
シングル「I Wanna Be Your Lover」がポップスチャートで全米11位(R&Bでは1位)のヒットを記録し、世間にその名を知らしめます。初期のプリンスの音楽性を具体的に述べると、当時流行のディスコ、あるいはもう少し”濃ゆい”ジェームス・ブラウン的な(声質は全く違いますが)ファンクの16ビート。及びこれまた当時、巷で流行っていたフュージョン(クロスオーヴァー)的なソフト&メローな楽曲(例えばアル・ジャロウの様な)。そしてハードなロックチューン。と、大まかに分類できます。その後も「Dirty Mind」(80年)、「Controversy(戦慄の貴公子)」(81年)とスマッシュ・ヒットを続けます。

そのギターに関して言えば、ジミ・ヘンドリックスの影響が語られます。確かにジミ張りのステージアクト(ギターを生殖器に見立てたパフォーマンス等)を行っていたようですが、しかしリードギターのプレイスタイルとしてはサンタナに近かったと良く言われます。叙情的、言い換えれば分かり易く感情に訴えかけるフレージングが特徴でした。しかしプリンスのギターの真骨頂はステージアクトや激しいギターソロではなくリズムギター、ファンキーな16ビートのカッティングにあると私は思っています(じゃあ枕の話はなんだったんだよ、とは思わずに・・・)。
そしてギタースタイルと同様に、初期プリンスの音楽性における肝は16ビートのファンクにあると言えるでしょう。そこに両親からの影響であるジャズや、当時のディスコやAORを含んだ”プリンス流ファンク”とでも呼ぶべき音楽性が主軸になっていたと思います。

先述した「I Wanna Be Your Lover」が初期の曲では最も親しみやすいでしょう。もっともこれだけ聴くとクインシー・ジョーンズ(つまりマイケル・ジャクソン)かよ! と、思ってしまうかもしれませんが、「オフ・ザ・ウォール」とほとんど同時期のリリースなので、決してパクリではないでしょう。彼のファンクはもっと多様性がありました(クインシー=マイケルが一本調子だった、とか言う意味ではありません)。ちなみにその2ndアルバム には、後にチャカ・カーンのカヴァーで大ヒットすることとなる「I Feel for You」が収録されています。

ギターの話に戻りますと、彼は70年代に日本のモリダイラ楽器が製造したブランドである
”H.S.Anderson”のテレキャスターモデル(MAD CAT)をデビュー時から愛用しており、初期によく聴くことが出来る気持ちのいい16ビートのカッティングは同器によるもののようです。ちなみに先の「I Wanna Be Your Lover」のビデオクリップではレスポールを弾く姿が出てきますが、多分レコーディングではテレキャスあるいはシングルコイルのギターを使っていたと思われます。余談ですがH.S.Andersonは所謂”ジャパン・ヴィンテージ”として現在でも高く評価され、根強い人気を誇っています。

82年、アルバム「1999」をリリース。遂にブレイクを迎えます。全米で400万枚のセールス、「Little Red Corvette」「Delirious」がTOP10ヒットとなるなど、この頃になってようやく世間がその音楽性に気付き始めたといったところだったのでしょうか。前作・前々作から、つまり80年以降は時代の影響もあって、ニューウェイヴ・テクノポップといった要素が強くなっていったのはプリンスも同様でした。シンセサイザーの音色などは今から聴くと”安っぽい”と思われるかもしれませんが(でもリアルタイムのオジサン世代はこれを”未来の音だ”と感じていたんですよ)、当時における最先端のテクノロジーを貪欲に取り入れていました。やがて流行などはお構いなし、といった唯我独尊的な音楽性へと変容していった人ですが、この頃まではある意味”柔軟”な姿勢だったようです。タイトル曲は世紀末を歌った曲(本当の世紀末は2000年らしいですけど)。サウンドは80年代風テクノ味ソウルミュージックとでも呼ぶべき快活な曲調ですが、歌詞は世界の終末について書かれています。”2000年にはパーティは終わってしまう。だから今夜1999年みたいにパーティするんだ” の様な歌詞で、解釈は人それぞれのようですが、幕末の”ええじゃないか”みたいな雰囲気を歌っているのかもしれません。

このようにして、着々と成功への足元を固めてきたプリンスですが、これはまだほんの序章と呼べるものでした。次回は勿論次作である「パープル・レイン」についてです。しかし2018年の冒頭に「1999」って、なんだよ!狙って書きやがったか!
ヽ(`Д´#)ノ
とか、思わないでください。本当に以前から予定していたこの回がたまたま年初に来ただけです(あっ、でも、ちょっとオイシイかな、とか思わなかった訳では…)。今年もよろしくノシ

#48 Summer of Love

#31から続けてきました、60年代後半から70年頃にかけてエポックメイキングとなったロックを取り上げてきたテーマは前回をもって終了しましたが、今回はそのオマケ編。”サマー・オブ・ラブ”と呼ばれる67年夏にサンフランシスコを中心に起こったムーヴメントがありました。現在から振り返るとかなり極端な文化的・政治的主張や価値観であったりして、賛同出来るか否かは人それぞれですので、ここではそれについては触れず、ロックミュージックにおける同ムーヴメントに影響を与えた、またはそれに感化されて作られた音楽を軽く見ていきます。季節的にまったく真逆ですが、どうぞ全然気にしないでください。
え、クリスマス? ナニそれ? たべられるモノ???(´・ω・`)???


スコット・マッケンジー「San Francisco」。超ベタなとこですが、そのものずばりのタイトル、
同ムーヴメントの象徴とされる楽曲。お次はリリースこそ65年12月と若干遡りますが、ウェストコーストにおけるフォーク・ロックの象徴的楽曲 ママス&パパス「California Dreamin’(夢のカリフォルニア)」。ちなみに先のスコット・マッケンジー「San Francisco」はジョン・フィリップスの作。

2曲続けてベタベタなとこから始まりましたが、これまた超ベタなやつ。というより今回はほとんどベタなのしかありません。”シスコサウンド”の象徴的存在であったジェファーソン・エアプレイン「Somebody To Love(あなただけを)」。

#31で触れましたが、ロックにおいて最初のサイケデリックナンバーとされる(勿論人によって諸説あり)バーズの「Eight Miles High(霧の8マイル)」。

こちらは#2で書きましたが、名盤「ペット・サウンズ」の後、世界一有名な未完のアルバム「スマイル」に収録されるはずだった(本作の各トラックは、この曲をはじめその後の作品にてバラバラに採用されていますが)ビーチ・ボーイズ「HEROES AND VILLAINS(英雄と悪漢)」。「スマイル」が04年にブライアン・ウィルソン名義で日の目を見ることも#2の記事にて述べた通り。

続いてはイギリス勢。67年と言えばビートルズ「サージェント・ペパーズ」ですが、ここではその前作「リボルバー」よりビートルズ初のサイケデリックナンバーとされるTomorrow Never Knows」。

#25から#28にてピンク・フロイドは取り上げましたが、プログレッシヴロックの雄とされるフロイドもデビュー当初はサイケデリックロックバンドの急先鋒でした。ロンドンにおけるアンダーグラウンドシーンの中心地であった伝説的存在であるUFOクラブにて、ライティングを駆使した独自のステージを繰り広げていました。ここではデビュー作「夜明けの口笛吹き」より「Astronomy Domine(天の支配)」。

エリック・クラプトンは#8~#12で書きましたが、伝説的ロックトリオであるクリームも時代の影響を受けてサイケ色からは逃れられませんでした。デビュー曲「I Feel Free」。曲自体は真面目に作ったのかどうか疑わしいような曲ですが、クラプトンのギターソロだけはとにかく素晴らしいの一言。

お次はムーディー・ブルース。ピンク・フロイドやプロコル・ハルムと共に、プログレの黎明期を支えた存在。言うまでもなく「Nights In White Satin(サテンの夜)」。

最後は”カンタベリー・ロック”の礎を築いたソフト・マシーン。ハットフィールド・アンド・ザ・ノース、ナショナル・ヘルスなどにより、イギリス南東部のカンタベリーをその中心地として、後にフュージョン(クロスオーヴァー)とは一線を画する独自のジャズロックを創り上げました。80年代、日本においてこの様なジャンルはまったくと言って良い程見向きもされませんでしたが、90年代以降徐々に認知度が上がってきたようです。オシャレでポップ(軽佻浮薄とも言う)な80年代にはこれに限らず、少しマニアックなジャンルを聴いているだけで、「ネクラ」とか「オタク」とか言われたものですが、オタクという呼称が必ずしも蔑称ではなくなってきた様に、ロックに限らずマニアックなものが認められるようになってきたのは、オジサンからすると大変良い時代になったものです。今の30代以下の方たちは、物心ついた時から基本的にずっと不景気の世の中で育ったと思いますが、逆にバブル世代以前の連中(私も含めた)よりもよほど文化的アンテナが鋭いのではないかと思っています。ゆめゆめ”最近の若いもんは…”などと言っては失礼です。むしろ”まったく最近のオッサンは…”という言葉こそこれからは使われるべきでは・・・。

以上駆け足で見てきましたが、先に述べた通り今回は前回まで続いてきたテーマのオマケ編、もしくは補完編とでもいうものでした。あ、そうそう、別に全然大したことではないのですが、今年の記事はこれにて最後です。別に年が変わるのにあまり意味はないので。それでは、またノシ

#47 The Cry of Love

69年8月に開催されたウッドストック・フェスティバルにて、ジミ・ヘンドリックスは大トリを務めます。その事実が当時、ジミの人気が如何ほどであったかの何よりの証明でしょう。もっとも悪天候等の為、大幅にプログラムが遅れてしまい(予定の翌朝)、ジミのステージが始まる前に帰ってしまった人が多かったというのも有名な話です。同年12/31から1/1にかけてフィルモアイーストにて公演。この模様を収録したのが前回の記事でも述べたアルバム「バンド・オブ・ジプシーズ」です。当初はスタジオ盤を目論んでいたのが、思う様な出来にならず、苦肉の策としてライヴ盤をリリースしたとの事。バンド・オブ・ジプシーズはメンバー間の不和、及びジミがますますドラッグに依存するようになっていった事などから短命に終わります。
ベースのビリー・コックスはそのままに、ジミは再びドラムにミッチ・ミッチェルをイギリスより呼び寄せ新バンドを結成。『クライ・オブ・ラヴ・ツアー』と称してアメリカツアーに出ます。7~8月にハワイのマウイ島及びホノルルでのステージをもって当ツアーは終幕。そのままイギリスのワイト島を皮切りにヨーロッパツアーに向かいます。
70年9月18日、ロンドンのホテルにてジミ・ヘンドリックスは亡くなります。享年27歳。大量のアルコールと睡眠薬を摂取し、睡眠中におう吐物を詰まらせての窒息死でした。ジャニス・ジョプリン同様にその死については、ゴシップ誌などによって無い事無い事書き立てられ、トンデモ話にまで発展したりするのですがくだらないので当然省きます。

 

 

 


ジミの死後も続々とアルバムがリリースされますが、よほどのマニアでなければ訳が分からなくなる様な乱売ぶりです。エンジニア エディ・クレイマー、ジミの遺族(後に財団を設立)、敏腕(悪徳?)マネージャー マイク・ジェフリー、プロデューサー アラン・ダグラスなどが様々な形で関わり、ライヴ及びスタジオ録音の未発表音源が作品化されたのは周知の通りです。ここでは取りあえず主要なものだけ。71年3月「The Cry of Love」 4枚目のスタジオ盤となるはずだった作品。ジミが設立し、その死の直前に完成したN.Y.のエレクトリックレディスタジオにてほとんどのトラックが収録されています。オープニングナンバー「Freedom」はジミの新境地を感じる事が出来る楽曲で、もし亡くならなければその後のジミの方向性はこの様な音楽だったのではなかったかと。バラード「Angel」は亡き母を夢に見たときにインスパイアされて作った曲。97年に本作は他アルバムに既収録の楽曲と共に再編集され「First Rays Of The New Rising Sun」としてリリース。現在はこちらで聴くのが容易。
ライヴ盤と言えば「バンド・オブ・ジプシーズ」を除くと、私のリアルタイム(80年代)ではワイト島か「Hendrix in the West」でした。今でも押入のダンボール箱を漁ればLPレコードが出てくるはずです(プレーヤーが無いから聴けないですけど・・・)。本盤で有名なのは「Johnny B. Goode」と「Sgt. Pepper’s」でしょう。「Johnny B. Goode」は70年5月バークレイ・センターでの演奏。バックのプレイとイマイチ合ってなかったりするのですが、その勢い・パワーは素晴らしいの一言。「Sgt. Pepper’s」は言わずと知れたビートルズナンバー。
幻に終ったマイルス・デイヴィスとの共演作、及びそこでポール・マッカートニーへ参加を依頼していた事については前回の記事で触れましたが、ジミとポールはお互いを尊敬し合っていました。イギリスでジミの噂が広まり始めた頃からポールは頻繁にそのステージを観に行っていたそうです。ジミのモンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演にポールの後押しがあった事は有名ですが、ママス&パパスのジョン・フィリップスからモンタレー出演を打診されたポールでしたが、レコーディングで多忙の為それは断り、「その代わり今イギリスで凄い奴がいる、そいつを押すよ、ジミ・ヘンドリックスだ」と言うと、フィリップスは「誰それ?」という反応だったとの事。モンタレー以前のアメリカにおけるジミの知名度とはそういうものだったそうです。

アメリカのローリング・ストーン誌が03年に”歴史上最も偉大な100人のギタリスト”という企画を行いました。ジミはその第1位に選出。11年の改訂版でも同じく。余談ですが2位はクラプトンかと思いきや、デュアン・オールマン。3位がB.B.キングでクラプトンは4位、だったと思います…
この選出基準が良いか悪いかは人それぞれでしょう。そもそも順位を付ける事に意味があるのかどうかも。しかしジミ・ヘンドリックスという存在がその死後数十年を経過した世でも、大変な影響力を与えて続けている事の証にはなるかと思います。

ジミヘンって良く名前聞くけど何が凄いの?と、尋ねられたらどう答えるでしょう。一言や三行で語りつくす事は不可能です。だからと言って「ジミのプレイには他者には無い魂があるのさ」とか、テキトーな言葉で済ますのも、曲がりなりにも音楽に関わっている者の端くれとしてミジンコ並みの自尊心が許しません。既述のものもありますが列挙してみます。
①最も特徴があるのはインプロヴィゼイション(即興演奏)であるのは言わずもがなでしょう。ブルースをルーツとするのは他のロックギタリスト達と同様ですが、インド音楽・スパニッシュ・ジャズetc…と、全く躊躇なく貪欲に様々なスタイルの音楽を取り入れ、それを自分なりに消化しそれらのフレーズ、及び常人では考えも付かない、または考えたとしてもそれまでの音楽的常識ではプレイするのは気が引けるような大胆なフレーズでも気後れすることなくプレイ出来た事。これは紙一重です、凡人がやれば駄演になるところを天才が演ると名演になるのでしょう。
②そのプレイと同じ位に特徴的だったのはエフェクターを始めとした機材の扱い方です。ファズ・ワウペダル・オクタヴィア等のエフェクター類を駆使し、独自のサウンドを作り上げ、後のロックギターの道筋を示したと言えます。現在では当たり前の様に思われていますが、瞬時にして音色を180度切り替えて
場面場面にて変化をつけるような演奏は、60年代末にジミやジェフ・ベックなどによって行われてから広まった事であり、それまではこれ程までに頻繁かつ大胆なトーン・コントロールはなされませんでした。そしてそれは他の楽器では基本的には不可能なことです(エレキギター以外ではシンセサイザーくらいでしょうか)。また#29でも触れましたが、ストラトキャスターというそれまで全く人気の無かった楽器を、トレモロアームをはじめとして、こんな使い方があったのか!と製作した側をも驚愕させるような可能性を見い出させました。
③ノイズでさえ音楽にしてしまった。②と少し被るかもしれませんが、フィードバック奏法などプレイによるもの、及び録音技術を駆使した特殊効果的なものまで併せて、意図的さらには自然偶発的なものまで含んでノイズをも音楽の一部として取り込んでしまった。
④ステージアクト。モンタレーでのステージが何よりも良い例ですが、暴力的な、またはセクシャルなパフォーマンスが当時のオーディエンスの度肝を抜いた。
⑤私はまったく疎いのですが、当時のロックにおける
ファッションリーダー的役割も担っていた様です。モンタレーやウッドストックでのステージ衣装を典型として、様々なフォトで見る事が出来る衣装・アクセサリー・ヘアスタイルなどは斬新で当時の若者達に強い影響を与えたそうです。

上の全てがジミによって初めて、という訳では決してないですし、以前の記事でも書きましたが当時のロックギタリスト達の中でジミが技術的に最も優れていたという事でもありませんでした。しかし60年代後期から70年にかけて、ロックミュージックにおける音楽性の転換期に、これらの革新性を全て持ち合わせ、なおかつ商業的に成功した稀有なミュージシャンだったのではないでしょうか。それを可能にしたのは何より”わかり易かった”、言い換えれば感情の根源に訴えかけてくるフレーズやトーンだったというのが大きいでしょう。ポピュラーミュージックにおいてはある意味最も重要な事です。いくら革新的・音楽的に充実した内容ではあっても、一部の玄人にしか理解してもらえない、というものでは成立しません。
ビートルズが3分のR&R・ポップソングをより深遠なロックへと深化させ、マイルス・デイヴィスがストレートアヘッドなジャズからフュージョン(クロスオーヴァー)へ、新しいジャズミュージックの可能性を指し示し、ジミ・ヘンドリックスはエレクトリックギターという楽器の新たな可能性を見い出させたのです。”ポピュラーミュージック維新”とも言えたこの時代のエポックメイキングなミュージシャンの一人であり、それがいまだに神格化される理由でしょう。

ジミはその死の直前に、ロンドンにあるチャス・チャンドラーの家を訪ねています。チャスがジミの下を去った後も、ジミはチャスに戻ってきて欲しいと頼んでいたそうなのですけれども、先述のマイク・ジェフリーとソリが合わず、その時は断ったそうなのですが、ジミがチャスの子供に会うという名目で来訪した時には、また一緒にやろうと約束したとのこと。それがジミが亡くなる前々日の事だったそうです。「ロックの歴史を追いかける」というサイトにてチャスのインタビューが載っており、亡くなる前日の大変貴重な写真も掲載されています(コチラ)。当サイトは他にも非常に興味深いロックにまつわるブログが掲載されています(私もちょくちょく読ませて頂いております)。
一時期は調子に乗ってしまい袂を分かつようになってしまいましたが、やはり自分を育ててくれた、兄貴分のような存在のチャスを頼りにしていたようです。またノエル・レディングにもまた一緒に演ろうと持ち掛けていた、という関係者の証言もあり、破天荒な言動が取り上げられる事の多いジミでしたが、実は人間くさい、寂しがり屋の一面もあったというのが少し微笑ましいです。

以上をもって5回に渡ったジミ・ヘンドリックス編は終了です。まだまだ書きたいエピソード、例えばエリック・クラプトンとの友情など、いくらでもあるのですが、それはまたの機会に。

#46 Electric Ladyland

一応現在ではそれなりに洋楽に関する知識はある方だと自負しておりますが、ジミ・ヘンドリックスを聴き始めたのは、洋楽ロックを聴き始めてまだ2~3年の中学生の時分だったと記憶しています。まだ洋楽に対する”免疫力”の弱かった当時の私にはそのアルバムの、多くの外国人女性達が裸で床に座り込み、又は横たわりながら不敵な笑みを浮かべるジャケットデザインは大変なインパクトがありました。決してカマトトぶる訳ではありません。ヌードもそれまで見たことが無いなどというつもりはありませんし、性への目覚めも既に済んでいました(威張って言うことじゃないな・・・)。しかしそのジャケットはリビドーを刺激するというより、とにかく妖しげで何だか怖い、という印象でした。そのアルバムとは今回のテーマである3rdアルバム「Electric Ladyland」です。ちなみにそのジャケットは英国版(日本版も)仕様で、米国版はジミの顔写真を加工したもの。ジミはそのヌードジャケットを嫌っていたと言われており、現在では本作のジャケットは米国版のそれに統一されています。ピーター・バラカンさんも当時はこのジャケットが嫌で本作を買わなかったと仰っています。”免疫力”の弱かった私もジャケットの印象に引きずられ、音楽自体も何か禍々しい、聴いてはいけないものを聴いてしまったような気がした記憶があります。しかしその1~2年後にはもっともっとディープな音楽を聴きあさるようになり、すっかり免疫力のついた私はその中身も普通に聴けるようになりました。あっ、一応念の為言っときますけど、決して女性の裸は散々見慣れたから、とかそういう事ではないですからね!………
ほほほ、本当です! し、信じて下さい ゜。(゜Д゜;)≡(;゜Д゜)・。゜・・・・・

 

 

 


68年10月発表の二枚組アルバムである本作は、初の全米1位、全英でも6位と大ヒット。前2作よりもセッション色が濃くなった本作、豪華なゲストミュージシャンも目立ちます。本作において、特に重要なナンバーは「Voodoo Chile(ヴードゥー・チャイル)」とボブ・ディラン作の「All Along the Watchtower」でしょう。オリジナルを見事なまでの大胆なアレンジでカヴァーし、ディラン本人からも称賛されたこのナンバーはシングルカットされ全米20位まで昇りつめています。ちなみにジミのシングルでは全米で最もチャートアクションが良かったシングル。20位というとそれ程のヒットでは?…と、思われる方もおられるかもしれませんが、シングルに重きを置いた商業戦略を取らなかった事、及びジミが黒人であった事、つまり当時はまだ一部を除いた黒人ミュージシャンは(R&Bの専門局等を除いて)ラジオ・TVではオンエアさせない、という風潮がまだまだ残っていた事から鑑みると十分なヒットでした。もっともジミは”ロック”として白人寄りの扱いでしたので、オンエアされていた方と言えるでしょうが。「ヴードゥー・チャイル」は長尺のスタジオライヴ版と、スライトリターンの2テイクを共に収録。長尺版ではスティーヴ・ウィンウッドとジェファーソン・エアプレインのジャック・キャサディが参加。曲中にて聴こえる拍手と歓声はスタジオに居合わせたスタッフのものだそうです。スライトリターンはジミの代表曲の一つになっています。ジミを敬愛して止まなかったスティーヴィー・レイ・ヴォーンによるカヴァーでも有名です。長尺版においてはJ・キャサディがベースを弾いていますが、これはノエル・レディングが怒ってスタジオを出て行ってしまった為。当時の関係者の証言によると、スタジオはジミが連れてくる人で溢れかえっていて、それはセッションではなくパーティーの様だったとの事です。増長したジミの振る舞いにノエルやプロデューサー チャス・チャンドラーの不満は増加していきました。大勢の取り巻き連中をスタジオへ連れてきて、とりとめのない演奏の様な事をして過ごし、挙句が一曲も仕上がらないといった日々が続き、とうとうチャスはジミのマネージメント・プロデュースを降りてしまいます。本作はセッション色が強くなり、多額の費用・膨大な時間を費やしたアルバムと説明されますが、実はかじ取り役であるチャスが途中で降板し、まとめ役がいなくなった結果、無駄に時間及びスタジオ代がかさんだという側面もあるようです。

やがてエクスペリエンスは解散。ジミは軍隊時代に同僚だったビリー・コックス(b)、及びバディ・マイルス(ds)とバンド・オブ・ジプシーズを結成し、70年3月に生前としては最後のアルバムとなる同名の「Band Of Gypsys」を発表します。これには前回の記事で書きましたPPXレーベルとの契約消化の絡みもあったのですが詳しくは割愛。ウィキ等でご参照の程。

結構有名な話ですが、ジャズトランぺッター”帝王”マイルス・デイヴィスがジミの才能に惚れ込み、ラブコールを送っていたと言われています。これには異説もあり、確かにジミの事を気に入ってはいた様だがマイルスはそれ程でもなかった、とする人もいます。真相は判りませんが事実とされているのは以下の事です。
①二人には交流があり少なくともマイルスの家で音合わせはしていた
②69年10月にジミがポール・マッカートニーに”今度マイルス達とアルバムを制作するのでベースを担当してくれないか”という旨の電報を打っている(実現はせず)
③この当時マイルスは常々共演したギタリストに対して「ジミの様に弾け」と語っていたこと
④ジミの葬儀にマイルスが参列している事(マイルスは本人がインタビューで語っているが、葬儀に出席するのが嫌いだったにも関わらず)。
60年代後半からマイルスは従来のジャズとは異なるエレクトリックジャズ・フュージョンへ傾倒していきます。モードジャズ(詳しくはウィキ等で。ザックリと言えば素材の楽曲のコード進行等はお構いなしに、最低限の約束〔音階〕さえ守れば自由にアドリブ〔即興演奏〕していいよ、みたいな)の先駆者であるマイルスにしてみればジミのプレイは自分の望むそれに大変合致したプレイヤーだったようです。正規の音楽教育など受けていないジミは、先述した音合わせの際にマイルスがピアノで弾いたコードが何であるのかは判らなかったが、その音の中でプレイすればいいんだね、と延々ソロを弾き続けマイルスを満足させたと言われています。マイルスから見れば旧態依然としたジャズ界、つまりエレクトリックはダメ、ロックのリズムなどもっての外、という凝り固まった考えに終始し世間から見放されていくジャズより、音楽理論や技術的には劣っていても、エネルギッシュでグルーヴ感に溢れたロックの方が、そのファッションなども含めて魅力的に感じたのでしょう。

ジミは譜面を殆ど読めなかったと言われているのは先述した通りですが、当時のロックミュージシャンには特別珍しいことではありません。ブルースをルーツとするその音楽性から必然的にマイナーペンタトニックスケールに基づくフレージングが主となり、少ない音・和音でもって、力を注ぐべきベクトルは如何にその中に感情表現を込められるか、というものでした。それは理論など知らなくても出来、プロアマ問わず多くのブルース及びロックミュージシャンがそうでした。ジミもブルースがそのルーツであり、必然的にマイナーペンタが主になるのは同様なのですが、それだけでは満足出来なかったのでしょう。インド音楽等の東洋的音階からスパニッシュ(フラメンコ)まで、独自にそのフレージングに取り込んでいきました。譜面の読めなかったジミがこれらを取り入れる事が出来たのは、それらを聴き取り又再現できる、ひとえにその耳の良さがあったからと言われています。この事から、ジミヘンは一度も練習したことがないフレーズでも本番で弾けたとか、ひどいのになると初めてギターを手にした日から既に弾けた、などというトンデモ話が昔は飛び交っていたものですが、絶対にそれはないと断言出来ます。当たり前ながら練習してない事はいかに天才であっても出来ないのです。出来たように聴こえても、それはそれまでの積み重ねが有機的に組み合わさって新しいフレーズの様に聴こえたのです。アドリブで出てくるのはそれまで練習してきた、指・手足に染み込んだフレーズ達なのです。優れたアドリブプレイヤーとはそのフレーズの”引き出し”を数多くストックし、そこから瞬時に思った(感じた)フレーズを取り出せる様になる、という鍛錬をしてきた人達です。ジミの場合は音楽教育を受けなかった故にかえって既存の音楽的常識に縛られず、自由にフレーズを作り上げることが出来、そうしてため込んだ”引き出し”から天才的なセンスで時にオーソドックス、時に誰も考えつかない様な良い意味での横紙破り的なシンプルかつ大胆なフレージングを展開する事が出来たギタリストであったのではないでしょうか。

だいぶ長くなってしましました。これでも書きたい事のほんの一部だけなのですが、あまり長いとただでさえ少ない読者の方がさらに少なくなってしまうので…
… 。゜ (´;ω;`)゜。… 今回はこの位で・・・
勿論次回はウッドストックへの出演から、その突然すぎる死までについて書くつもりです。それではまた。

#45 Axis: Bold As Love

前作からわずか半年あまりでリリースされたジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの2ndアルバム「Axis: Bold As Love」。一般的な評価としては衝撃的なデビュー作、重厚な2枚組である3rdより、良く言えばメロディック・親しみやすいと言われ、悪く言えばインパクトに欠ける・軽い・緩いとされています。評価はそれぞれですが、着目すべきは先述の通り短期間にて、しかもレコーディングに専念出来ていた訳でもなく(むしろモンタレー以降あちこち引っ張りだことなりました)、それでありながらこれだけの完成度を誇るアルバムを完成させた事でしょう。時間的余裕が無かったからと言って、決しておざなりな制作となった訳ではなく、むしろ気が付かないところで手が掛けられていたりします。前作同様に、当時としては先進的なレコーディングテクニックが用いられており、事実、本作の収録曲は一部を除いて、コンサートで披露されることがまれだったという事実があります。その真意は分かりませんが、ライブでは再現が難しいという理由があったからではないかとの見方もあります。その制作に関しては、プロデューサー チャス・チャンドラーや、エンジニア エディ・クレイマーの力が大きかったようです。また、多忙の中で作られたことにより、かえってジミのナチュラルな面が引き出された、と見る向きもあります。そのギタープレイはもとより、ジミのシンガー及びソングライターとしての優れた側面が結果的に前面に押し出された、という評価もなされます。

 

 

 


オープニングナンバー「EXP(放送局EXP)」は架空の放送局という設定での、フィードバック等のサウンドエフェクトやステレオにおける左右の定位を変化させる”パンニング”などの当時としては斬新なレコーディングテクニックを駆使したサイケデリックナンバー。それに続く「Up from the Skies」はポップでサイケな曲。ジミが有名にしたといっても過言ではないエフェクター”ワウ・ペダル”が実に効果的に使われています。冒頭の2曲と、映画「イージーライダー」でも使用されたA面ラストの「If 6 Was 9」を聴く限りは、ジャケットデザイン通りの摩訶不思議でサイケデリックなサウンドですが、これら以外の楽曲は”意外と”普通です(決して凡庸という意味ではなく)。本作で最も知名度がある楽曲は言うまでもなく「Little Wing」でしょう。正統派R&B風バラードである本曲は、偉大なる先達たちの影響を受けて作られたと言われますが、特にカーティス・メイフィールドを意識して作られたのではないかとされています。コメントでもカーティスへの尊敬の念が語られており、実際ジミは63年にカーティス・メイフィールド&ザ・インプレッションズの前座を務めています。正統派の楽曲でありながら、サウンド面では非常に画期的なトライアルがなされており、今では当たり前である、ストラトキャスターのハーフトーン(2つのピックアップのミックス)が用いられています。当時のストラトにはピックアップセレクターにハーフトーンの位置など無く(そんな使い方は想定していなかった)、ガムテープでフロントとセンターの中間に固定してレコーディングに臨んだとのことです。また後半のソロにおける独特の”ゆらぎ”の様なサウンドは、ハモンドオルガンで有名なレスリースピーカー(回転スピーカー)によるもの。これはエディ・クレイマーのアイデアと言われています。余談ですが、私昔はレスリースピーカーとはスピーカーユニット(コーン紙の部分)が鳴門の渦潮みたいにぐるぐる回るのだと思ってました。実際はキャビネット・ボックス内にローターがあって、それが回転してあの様な効果をもたらすものだと知ったのはだいぶ後の大人になってからでした・・・バカですね。
(´・ω・`)
またタイトル曲においても同様の試みが、こちらは電気的にレスリー同様の音程・音量・音質のゆらぎを作り出す、当時としては最先端のエフェクターであったフェイザーが使用されています。後半のソロで用いられていますが、ギターでばかり語られていますけどドラムにもかかっています。70年代に入るとボンゾやカーマイン・アピスなどがドラムソロなどでこの様なサウンドエフェクトを使用しましたが、私が知る限りドラムにフェイザー・フランジャー等のエフェクトをかけたのは本曲が初めてではないかと思います。もしもこれより前に使っていたのを知っている、という方は教えてください。

「Wait Until Tomorrow」は堪らないほどのシャープなカッティングが印象的な曲。型破りなフレージングやサウンドエフェクトなどで語られる事の多いジミですが、この様な基本的なテクニックからして一流です。それもそのはず、アメリカでの下積み時代にはアイズレー・ブラザーズなどのバックで嫌というほどこうしたリズムギターを演ってきたのですから。本人はそれが退屈で、つい派手なソロを取ってしまって、バンマスから怒られたりしたそうですが・・・
「Castles Made of Sand(砂のお城)」は「The Wind Cries Mary」同様の、
ジミとしてはナチュラルでナイーヴなナンバー。テープの逆回転によるエフェクトが必要だったかどうかは人によって意見が分かれるところですが、この当時はそういう時代だったのでしょう。

本作も全英5位・全米3位の大ヒット、ますます多忙を極めます。68年初頭からヨーロッパで公演、2月にはアメリカへ舞い戻り、カルフォルニアから始まるアメリカツアーとなります。5月にはマイアミ・ポップ・フェスティバルへ出演。後年になって当フェスの演奏は音源化されます。また、あまり知られていない事かもしれませんが、この殺人的スケジュールの合間を縫って、ジミはエクスペリエンスバンドとは別の仕事もこなしています。実はアメリカ下積み時代の後期に、ジミはPPXレーベルという会社と3年の契約をしてしまいます。仕事もそれ程なかったので軽い気持ちでサインしてしまったようなのですが、これが後にジミへの負担の一つとなります。アメリカツアー中の当該レコーディングもその契約を消化するためでした。それらの音源は様々な形でジミの死後に、次から次へと未発表音源として出回る事になるのは周知の通りです。またこの頃からジミの内面に変化が生じます。エキセントリックなステージパフォーマンスなどより、自分のルーツであるブルースなどをじっくり聴かせるライヴにしたいと思うようになっていった様なのですが、聴衆が求めるのは相変わらずモンタレーのようなギターの破壊や派手なステージアクトでした。

また仲間内においても不穏な空気が流れ始めます。有名なところではベースのノエル・レディングとの確執ですが、育ての親であるチャスとの関係もおかしくなっていったそうです。簡単に言うとスーパースターになっていったジミが増長してチャスのいう事を聞かなくなっていったそうです。このような不協和音が流れる中、バンドは次作の制作へと取り掛かりますがその辺りはまた次回にて。

#44 Are You Experienced

#37のジャニス・ジョプリン編でも書きましたが、ジャニス、そしてジミ・ヘンドリックスを一夜にしてスターダムへ押し上げたモンタレー・ポップ・フェスティバル。そこでのジミのステージアクトがどれ程衝撃的であったかは、余りにも有名で、映像化もされていますのでここで改めて詳しくは述べませんが、昔のロックにあまり詳しくない方もおられるかと思いますので簡単にザックリと。歯で弾く、背中で弾く、ギターを男性器に見立てて扱う、楽器を壊す、そして伝説となった”ギターを燃やす”。これには裏話があります。イギリスではピート・タウンゼント率いるフーもステージで楽器を壊す事を売りにしていたのですが、モンタレーでは、ジミもフーも共に先にやったもの勝ちと考えていたらしく、結果的にはフーのステージが先となり(コイントスで決めたらしい)、思惑通りフーはその滅茶苦茶なステージで聴衆を沸かせました。「どうだジミ、後からやっても俺たちほどのインパクトはないぜ」と、ほくそ笑んでいたところ、ジミはステージの最後であろうことかギターに火をつけてしまいました(その後”ちゃんと”壊します)。
( ´゚д゚)´゚д゚)´゚д゚)´゚д゚)・・・フーのメンバー達はこんな感じだったことでしょう。

 

 

 


モンタレーの前月67年5月に英で先駆けてリリースされた1stアルバム「Are You Experienced」。全米でも8月に発売され、モンタレーでのパフォーマンスも相まって、全英2位・全米5位を記録する大ヒットとなります。ちなみに英での1位を阻んだのはビートルズ「サージェント・ペパーズ」。アルバムリリースとモンタレーの出演が絶妙のタイミングだったと言えます。本作にジミのエッセンスの全てが詰め込まれているといっても過言ではないと私は思っています。「パープル・ヘイズ」と共に♯9thコード(所謂”ジミヘンコード”)を用いた代表曲「Foxy Lady」。ブルージーなロックナンバー「Can You See Me」「I Don’t Live Today」。サイケデリックな「May This Be Love」「Third Stone from the Sun」及びタイトル曲。ジミとしては珍しいアップテンポのストレートなロックチューン「Fire」。本作ではポップで親しみやすいRemember」。そして正統派のブルース「Red House」。只のサイケ・ヒッピームーヴメントに乗っただけのバンドではありませんでした。ジミは勿論、ノエルとミッチも含めて確固とした技術と音楽性に裏付けられたものでした。ジミの音楽の根っこにあったのがブルースであることに間違いはありません。イギリスではこの時期、ジミやクラプトンの活躍によってブルースブームが巻き起こります。しかしジミの音楽性は先述した通りブルースだけに収まるものではありませんでした。更にジミはそのギターテクニック、機材の扱い方、ステージアクト、ファッション、それらすべてにおいて型破りだったのです。ちなみに先述した所謂”ジミヘンコード”(♯9thコード)について、ジミが作り出したコード、と書かれているものが時折見受けられますが、さすがにそれはなく、ジャズやボサノヴァでは昔から使われていました。ただロックミュージックにおいて、ジミの様にこのコードを前面に押し出し、楽曲を決定付けるような使い方をしたのはジミが初めてと言えるでしょう。非常にテンション感、言い換えれば不安定感を醸し出す独特の響きです。ギターで弾いた事がある方は分かるでしょうが最初は小指が難しいです…

ジミの革新性をいっぺんに述べる事は難しいので、今後何回かに渡って書いていきたいと思います。クラプトン編でも同様の事を書きましたが、当時のロックギタリスト達の中でジミとクラプトンが最も正確無比かつ速く複雑に演奏出来るプレイヤー、という訳ではありませんでした。勿論かなりハイレベルなギタリストであったことは間違いありませんが。では何故ジミはここまで伝説的なギタリストとして現在まで語り継がれているのでしょうか。技術的な部分で取りあえず一つだけ。ジミはピッキングに特徴があり(黒人ギタリストに多くみられるタイプ)、教則本などでは親指は弦と並行、人差し指は弦に垂直にして(第一関節より先は曲げますが)、上から見れば十字を形作るように持つのが良い持ち方とされています。これに対してジミは”十字”は作らず親指と人差し指の角度は45度位で、非常に軽く、リラックスした様に持ち、さらに弦に対してピックの先が上を向くように構えるスタイルでした(教科書的には弦と並行ないしは下向き)。このスタイルの利点はアタックの強いピッキングがしやすいと言われます。勿論デメリットもありますが、ハリがあり、かつ太い音が出せます。ジミと言えば、当時としてはエフェクターを多用して変化に富んだ音色を作り出していた事が良く語られますが、根本的な部分からして良い音色を作り出す為の技術を有していたのです。デビューシングル「ヘイ・ジョー」は、クリーントーンで演奏されておりその豊かなトーンが味わえる曲です。決してそれ程太い弦を張っていた訳ではない様なのですが、ストラトキャスターらしい抜けの良いクリアな音色でありながら、尚且つ芯のしっかりとしたインパクトのあるトーンです。ご一聴ください。

シンガーは声の良し悪しが当然語られます(この場合は一般的な”声がキレイ”ということではなく歌うことにおいての良し悪し。ダミ声でも良いのです、ジェームス・ブラウンの様に)。楽器も同様です。音色が悪ければどんなにテクニックがあってもダメなのです。その音色は機材やセッティングだけではなく、当然の事ながら人間の口・指・手足から生み出されるものなのです。ともすると忘れがちな事ですが、プレイヤーはこれを肝に銘じるべきです。

モンタレーでその話題をかっさらい、デビューアルバムも大ヒットと、成功を収めたジミ達は活動の拠点をアメリカに移します。ここから破竹の勢いでの活躍が始まるのですが、その辺りはまた次回にて。

#43 Purple Haze

#31から続けてきました、60年代後半~70年頃にかけてのロック史において、エポックメイキングとなった音楽をご紹介してきた本テーマを締めくくるのは勿論この人、ジミ・ヘンドリックスです。
(でも、どうせ、こんなテーマ誰も覚えてないですよね…覚え…て…ない……かな………
……(/д\)゜o。……)

42年シアトル生まれ。母親がインディアン、父親の祖母もインディアンであって、この事が彼の音楽性(歌詞を含め)に少なからず影響を与えたと言われます。軍隊を除隊した後、本格的な音楽活動を始めます。リトル・リチャードのバンドに参加していた事は有名ですが、キング・カーティスのバンドにも一時身を置いていました。ここでジミはコーネル・デュプリーと短期間ではありますが活動を共にします。ロック史を塗り替えるようなギタースタイルを確立したジミと、派手さは決してないがいぶし銀の様な職人技ともいえるデュプリー。プレイスタイルもおよそ全く違うこの二人の名ギタリストに接点があったのは意外ですが、生まれ年も同じ彼らはすぐに仲良くなり、ジミはデュプリーからインプロビゼーション(即興演奏)を学んだと言われています。しかしジミのあまりの”自由奔放さ”からカーティスは数ヶ月でクビにしてしまいます。
・・・(´Д`)
Music web page “Cross Your Heart”さんのサイトにて、その辺りについて詳しく書かれています(
)。特に①のページにて、ウィルソン・ピケット、パーシー・スレッジといった当時のR&B・ソウルにおける大物シンガーのバックにて演奏を務めている大変貴重な写真が掲載されています。興味のある方は是非一読を。

業界内ではジミのプレイは噂になる程だった様なのですが、如何せん黒人のセッションギタリストという立場では、R&B畑で如何に活躍しても一般的知名度には限度があります。黒人シンガーであってもビルボードのR&Bチャートではなく、ポップスチャートの上位に入るような人達がいなかった訳ではありません。スティーヴィー・ワンダー、シュープリームス、ロネッツなどはR&B・ソウルのフィールドにいながら白人層にも受け入れられました。しかし、ジミが目指していた音楽性はおよそそれらとはかけ離れたものでした(ちなみにスティーヴィーも60年代の自身の音楽は必ずしも望むものとイコールではありませんでした)。それどころか既存のR&B等のブラックミュージックにもとても収まり切るものでもなかったのです。この当時、アメリカで活動している限りはその地位に大きな変化はなかったと思われます。

そんな折、ジミの運命を変える人物との出会いがありました。全米ツアー中のアニマルズのメンバー チャス・チャンドラーです。ジミの噂を事前に仕入れていたチャスは、当時ジミがリーダーを務めていたバンドを観に行きます。そこで大変な衝撃を受けたチャスはジミへ熱心に渡英を勧めます。丁度自身のミュージシャンとしての限界を感じていたチャスは、音楽界の裏方として生きていこうと思っていた矢先でした。当然ジミは二つ返事で了承した訳ではありませんでした。イギリスで果たして自分の音楽が受け入れられるのかどうか、始めは疑心暗鬼だったとの事です。今の様に海の向こうにおける音楽事情でも詳しく知る事が出来る様な時代では当然ありません。不安がるジミでしたが、アメリカにいたジミでもその名を知る在英のブルースギタリストがいました。言わずと知れたエリック・クラプトンです。ヤードバーズやブルース・ブレーカーズにて既に知名度のあったクラプトンの事はジミも一目置いていたようです。ジミはチャスにイギリスへ行ったらクラプトンに会わせてくれるか?と尋ねます。チャスは「君のプレイを聴いたら彼の方から会いに来るよ」と言ったそうです。

チャスの目に狂いはありませんでした。ノエル・レディング(b)とミッチ・ミッチェル(ds)をそのメンバーとし、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成させます。渡英した翌月の66年10月からすぐにも活動を開始。デビューシングル「Hey Joe」は全英6位の大ヒット。この時期、ロンドン中のミュージシャン達がこぞってジミを観に来ていたと言っても過言ではないほどにそのプレイは衝撃を与えたそうです。以前ピート・タウンゼントがある映像の中で、ジミについて語ったインタビューにおいて、初めてジミの演奏を観たピートはそのショックのあまりすぐにクラプトンへ電話をして、「とんでもない奴が現れた、俺たちギタリストは全員失業する。奴は宇宙人だ。」と言ったそうです。「Hey Joe」は実はジミのオリジナルではありません。最初にレコーディングしたのはLeavesというL.A.のバンドです。YouTubeで聴けますので興味のある方は。所謂、Aメロ・Bメロ・サビといった一般的な楽曲の展開はせず、4小節の繰り返しという単純な構成。コードも5つだけ。Leavesのヴァージョンと比べると一聴瞭然ですが、ストレートなロックフィールに対し、ジミ版は妖しげ(サイケ)で、かつヘヴィーな仕上がりとなっています。ビートが違うのと、ジミは単調なコード進行である原曲にテンション感を与える事によって(本曲においては9th〔ナインス、9度の音〕の混ぜ具合による)、当時としてはワンアンドオンリーな楽曲へ仕立て上げています。

ジミは自分の歌に全く自信をもっていなかったそうです。チャスはそのシンガーとしての実力にも早くから気付き、ジミを説き伏せヴォーカルを取らせたそうです。白人2人を従えて黒人のギタリスト&シンガーというバンド。アメリカではまず成功しなかった、というよりデビューすら実現出来なかったかもしれません。イギリスにも人種差別が全くないわけではなかったでしょうが、他の事には非常に保守的といわれる英国ですが、こと音楽に関しては ”白いのも黒いのも関係ねえ!音楽が良ければイイんだよ!” と、特にアンテナの鋭い若年層に受け入れられました。

67年3月(米では6月)、2ndシングル「Purple Haze」をリリース。全英3位を記録。全米では65位とスマッシュヒットと呼べる程度でしたが、徐々にアメリカでの、つまり世界へ向けての成功の足掛かりを固めつつありました。そしてあの伝説的ステージとなるモンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演となる訳ですがその辺りはまた次回にて。

#42 The Live Adventures of Mike Bloomfield and Al Kooper

アルバム「スーパー・セッション」の続編・ライヴ版として企画されたのが本作「The Live Adventures of Mike Bloomfield and Al Kooper(フィルモアの奇蹟)」。スティーヴン・スティルスは参加出来ませんでしたので、このフィルモアウェストにおける3日間公演はマイク・ブルームフィールドのギターの独壇場となる、予定でした…(3日目にダウンしたのは前々回の記事で触れた通り)。その代役として駆り出された人達、C面2曲目にカルロス・サンタナ、3曲目にエルヴィン・ビショップの演奏が収録され、また本作に収録こそされませんでしたがスティーヴ・ミラーもそのステージに立ったそうです。

 

 

 


アル・クーパーの力量不足が語られる事の多い本作ですが、私はそうは思いません。超絶テクニックのキーボーディストとは言いませんが、それが本作のクオリティを下げているなどということは決してありません。クーパーはプレイヤーというよりはプロデューサーのスタンスで作品を創る人だったようで、「スーパー・セッション」「フィルモアの奇蹟」が共に成功したのもその辺りが大きな要因の一つだったように思われます。

本作の魅力はやはり全編を通して(勿論先述した不在時の曲を除き)ブルームフィールドの素晴らしいギタープレイにあります。そのフレーズ・音色は神がかっていると言えるほど。この時期がプレイヤーとしてのピークであったことは間違いありません。クラプトンが彼のプレイに嫉妬した程だというのが頷けます。同時期のクラプトンのプレイ、つまりクリーム時代におけるそれは、良く言えばアグレッシヴ、悪く言えばブルームフィールドと比較して”とげとげしい”部分があるのは否めなかった様な気がします。ブルースにおける”色気”や”艶っぽさ”というものに関しては、ブルームフィールドに軍配が上がったとしか言いようがありません。クリームにはバトルの様なインタープレイが 求められていた、と言う面もありますが、クラプトン自身、ブルースフィーリングにおいてはブルームフィールドには敵わない、という自覚があったのでしょう。やがてクラプトンもそのバトルの様なインタープレイに嫌気が差し、アメリカへその活動の拠点を移したことは以前のクラプトン編で述べた通りです。

本作の収録(公演)が68年9月、同年12月にはフィルモアイーストでもコンサート及び収録が行われました。しかし当時は未発売に終わり、テープも長い間行方不明となっていましたが、後年になって再発見され、03年「Fillmore East: The Lost ConcertTapes 12/13/68(フィルモア・イーストの奇蹟)」としてリリースされました。ちなみに本公演ではまだ無名のジョニー・ウィンターがブルームフィールドの紹介によってゲスト参加する機会を得て、これを機に大手レコード会社と契約し、その後スターダムへとのし上がっていきます。ここではそのナンバーをご紹介。「It’s My Own Fault」。このチャンスをものにしようとするウィンターの血気溢れる歌とギターは素晴らしく、レコード会社間にて争奪戦が行われたというもの頷けます。ブルームフィールドも彼としては珍しく、瞬間的にはですが非常にスピーディかつ攻撃的なプレイが垣間見えます。やはりエネルギッシュなウィンターに触発されたのでしょうか。しかし根本的にはブルームフィールドらしいプレイです。一流のプレイヤー皆に言える事ですが、その時々のシチュエーションに沿いながらも自身のオリジナリティは決して失わないというスタイルは見事です。

サンタナもジョニー・ウィンターも(参加した経緯は異なりますが)、ブルームフィールドと関わったことにより、その後大成功を収めたのと相反して、ブルームフィールド自身はこの頃を境にその活動に陰りが出てきたというのも皮肉な話です。もっともそれは彼の薬物依存による側面が大きいので自業自得と言えばそれまでなのですが・・・

ブルームフィールドという人は決してフロントマン向きのプレイヤーではなく、ましてやエンターテインメント性に溢れた人とはとても言えない、まさしく”ギター職人”という表現がピッタリな人でした。どちらかと言えば静かに(演奏が静かという意味ではなく、プレスなどにあれこれ取材されたり、矢面に立たされないという意味で)ギターを弾いていたい、というタイプだったようなのですが、60年代の一連の輝かしいプレイがそれを許さず、周りは当然の様にあのすばらしいブルースギターを求め、勿論ビジネスとしての成功も望むわけですが、その周囲の期待や本人の葛藤などからますます薬へ逃避した様です。ブルームフィールドの人柄を表すエピソードを一つ。デビュー当初のサンタナは非常に”尖がっていた”そうで、「あんたをいつかつぶしてやる!」と言ってしまったそうです。するとブルームフィールドは、決して”大人の対応”などではなく、ニッコリ笑って、「君なら出来るかも。がんばってくれよ」と言ったそうです。サンタナはそれで虚勢を張っていた自分がアホらしくなったとのこと。当然サンタナは憧れ半分、その才能への嫉妬半分、といったところから出た言葉だったのは勿論の事、ブルームフィールドも若きサンタナの才能を認めて本心から出た言葉だったのでしょう。

81年2月、マイク・ブルームフィールドはヘロインの過剰摂取により亡くなります。駐車場で車内にて意識不明の状態で発見され、そのまま息を引き取ったとの事。享年37歳。70年代は様々な事情から(本人のドラッグ依存を含め)表舞台に出ることも少なくなり、作品のリリースもマイナーレーベルへ移行するなど、60年代の輝かしい活動と比べると寂しい晩年となってしまった感は否めません。
最後にご紹介するのは「If You Love These Blues,Play’em as You Please」(76年)から。実はこれ、米のギター専門誌による企画ものの”教則盤”。短いタイトル曲の上で本人が”このような機会を持てて嬉しい”という旨を述べ、様々なスタイルのブルースを演奏していき、曲間ではその解説をしているようです。英語が不得意なのであまり理解できないのが残念ですが、BBキング、ジミー・ロジャース、ジョン・リー・フッカーといった固有名詞や、「Eフラット」「フィンガーピッキング」「ギターとピアノのデュオ」など、単語の端々は聴き取ることは出来ます。
そのエンディングナンバー「THE ALTAR SONG」。レイドバックした演奏に乗せてブルームフィールドが、おそらくは彼が敬愛するギタリスト等の名を連呼していくという曲。私も全て聴き取れる訳ではありませんが、レイ・チャールズの名も出てくるので、ギタリストのみならず、彼が尊敬する、あるいは影響を受けたミュージシャン達を可能な限り列挙しているのではないかと思われます。当作品は本人も後年のインタビューにてお気に入りの一枚と語っているアルバムです。
本曲をご紹介してマイク・ブルームフィールド編後編を締めたいと思います。なお本動画において、「THE ALTAR SONG」自体は2:28辺りまで。残りの時間はUP主の方が編集した音源と映像から成っています。ブルームフィールドへの思いが伝わる動画となっており少しほっこりします。

#41 Super Session

前回のサンタナ編で少し触れましたが、アル・クーパーとマイク・ブルームフィールドを中心としたライヴ盤「The Live Adventure of Mike Bloomfield and Al Kooper(フィルモアの奇蹟)」の発端となったのが、68年5月(リリースは7月)に行われた、その名の通りセッション・ブームの走りとなった今回のテーマ「Super Session(スーパー・セッション)」です。
多分どなたも覚えておられないと思いますが…・(ノД`;)・゚・、
#31の記事からロック史においてエポックメイキングとなった、それらの影響を及ぼしたミュージシャン達を取り上げてきました。今回はそのテーマに沿っているかどうかは微妙ですが、その音楽の素晴らしさに免じてご容赦を。

マイク・ブルームフィールドは43年シカゴ生まれ。シカゴブルースの本場で育ったという事が彼の音楽性に大きく寄与しているのは言うまでもない事です。白人でありながら黒人のブルースマンとジャムセッションを重ねることで、その技術・感性ともに磨かれて行きました。ポール・バターフィールド・バンドへの加入が彼のキャリアの始まりであり、その直後におけるボブ・ディランの名盤「追憶のハイウェイ61」(65年)のレコーディングへの参加、及びライブにてバックバンドを務めたことが彼の名を世へ知らしめるきっかけとなります。バターフィールド・バンド、エレクトリック・フラッグ、モビー・グレープなどで活動し、68年、先述したディランのバックバンドを共に務めたアル・クーパーからセッションアルバム制作の話を持ち掛けられます。これこそがブルースロックの金字塔となる「スーパー・セッション」の誕生へと繋がります。

 

 

 


オープニングナンバー「Albert’s Shuffle」の出だしのフレーズでまずノックアウトされます。私が知る得る限り白人ミュージシャンによる、これ程までにブルースフィーリングに満ち溢れた名演は本曲を含めごくわずかしかありません。ブルームフィールドは凄く速く弾いたりするプレイスタイルではありませんが(多分やれば出来るのだけれどあえてやらなかったのではないかと勝手に思っています)、その”歌わせ方”は天下一品です。以前エリック・クラプトン編の最後(#12)でも少し触れましたが、イギリスのクラプトン、アメリカのブルームフィールドと、天才的白人ブルースギタリストとして良く比較されたこの二人。私見ですが、ブルースフィーリングに関してはブルームフィールドの方が上だったのではないかと思っています。これがシカゴで生まれ育ったという事がイギリス生まれのクラプトンよりアドバンテージとして働いたのか、はたまたそんな事は関係ない天賦の才であるのか、考察すると興味が尽きません。答えは永遠に出ないでしょうが・・・

フィーリングと言うと曖昧なのでもう少し具体的に言えば、○所謂”コブシ”の効かせ方(ビブラートやチョーキングのかけ方)○ピッキングによるヴォリュームのコントロールは勿論の事、そのニュアンス(ピックを弦にどの様に当てるのか等)○左手のフィンガリング(滑らかに運指するのか、あえてスタッカート気味にぶつ切り的な音にするのか、等々)”フィーリング”、言い換えればギター演奏による”歌心”というものを具体的に列挙すれば上の様な要素ではないでしょうか、勿論これ以外のテクニックもありますし、あとは何よりプレイヤーの”ハート”と”ソウル”であることは言わずもがなです。ちなみに念の為に記しておきますと、ブルームフィールドの演奏はA面のみ、レコーディング2日目は参加せず(バックレたそうです…)、急遽スティーヴン・スティルスが代役として演奏し、それらはB面に収録される事となりました。勿論スティルスのプレイも素晴らしいものです。「フィルモアの奇蹟」3日目にダウンしてしまい(不眠症による)、サンタナが参加することになったのは前回の記事で触れましたが、ブルームフィールドという人はメンタルが弱い人だったらしく、それがドラッグへの逃避の原因の一つだったようです。この辺りはクラプトンと相通じるものがあります。

今回はマイク・ブルームフィールド編前編として、2曲をご紹介して締めたいと思います。次回は勿論「フィルモアの奇蹟」及びそれ以降についてです。コロムビアレコードのオーディションテープより、後年になってリリースされた音源から「 I’m A Country Boy」。若干二十歳のブルームフィールドによる演奏です。そのブルースフィーリングは既に卓越されたものです。

もう一曲は先述の「Albert’s Shuffle」。本作の、というよりブルームフィールドのキャリアにおけるベストプレイだと私は思っています。

#40 Abraxas

69年8月、N.Y.州のベセルで催されたウッドストック・フェスティバルはロック史に残る大規模な野外コンサートとして、名前くらいは耳にしたことがある方も多いのでは。結果的に約40万人の聴衆が集い、「ラブ&ピース」「音楽で社会を変えられる」と言う様な理想とも幻想とも言えるような考えの下に当時の”ヒッピー”達が詰めかけたそうです。いささか美化され過ぎて語られている面がかなりあるとは思うのですが、日本においてもその時代に青春時代を過ごした現在60~70代の方たちには、遠い外国での事とは言えども、時代を象徴する出来事として印象に残っているのではないでしょうか。ロック・フォーク界から多数の大物ミュージシャンが参加し、悪天候やトラブルが起こる中、後世にて語り草となるプレイも繰り広げられました。カルロス・サンタナ率いるバンド”サンタナ”もウッドストックでのステージが注目され、その後の大躍進へと繋がりました。

ラテンロックと言われるジャンルを切り開いたのはサンタナによってでしょう。勿論それ以前からラテン調の楽曲はロックにおいてもありました。例えばビートルズも実はかなりラテン好きで、「アイ・フィール・ファイン」はアフロキューバン、「Mr.ムーンライト」「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」等はルンバのリズム、またレコードデビュー前はステージで「ベサメ・ムーチョ」などを好んで演奏していたそうです。しかしサンタナほど情熱的・躍動的なラテンフィーリングをロックに取り入れたミュージシャンはいませんでした。そしてそのフィーリング・リズムに、サンタナの情感あふれる、所謂”泣きのギター”は見事にマッチしました。メキシコ出身という事がその音楽性に寄与しているのは言わずもがなです。

 

 

 


ウッドストックと同月発売の1stアルバム「Santana」は、同コンサートにおけるその素晴らしいプレイも相まって全米4位の大ヒットとなりました。翌年リリースの2ndアルバム「Abraxas(天の守護神)」にて全米No.1を獲得。シングルカットされた代表曲となる「ブラック・マジック・ウーマン」も大ヒット。ちなみに豆知識的ですが、本曲はサンタナのオリジナルではなく、イギリスのロックバンドフリートウッド・マックのカヴァー。70年代中期以降は「Rumours(噂)」などのポップ路線でのビッグセールスが良く知られるところですが、実は結成当初はブリティッシュブルースロックにおける急先鋒の一員でした。続く3rdアルバム「Santana III」も全米No.1。本作では、後にジャーニーを結成する事となるニール・ショーンがサンタナに見い出されて参加しています(若干17歳)。4thアルバム「Caravanserai(キャラバンサライ)」はそれまでのラテンロック色はやや影を潜め、ジャズフュージョン色が強く打ち出されていますが、そのプレイの素晴らしさには全く変わりはありません。

時系列は前後しますが、ウッドストックでのプレイがあまりにも有名になりすぎて意外に知られていない事ですが、実はカルロス・サンタナのレコードデビューはそれよりも前、名盤「フィルモアの奇蹟」においてなのです。アル・クーパー、マイク・ブルームフィールドを中心として、68年9月にフィルモアウェストにて行われたコンサートを収録した作品。3日間公演だった最終日にブルームフィールドが体調を崩し、急遽サンタナを含むギタリスト達が参加しました。サンタナのプレイはC面2曲目「Sonny Boy Williamson」にて聴けます。ラテンミュージック同様にブルースにも傾倒していたサンタナの非常にブルージーなプレイが堪能できる、その後のサンタナバンドとはまた一味違ったサンタナを聴くことが出来ます。

80年代~90年代中期において、70年代ほどのセールスには恵まれない時代が続きましたが、99年「Supernatural(スーパーナチュラル)」が特大のセールスを記録します。グラミー賞の受賞など、見事な”サンタナ復活”を遂げました。その後もコンスタントに活動を続け、今日に至ります。御年70歳。まだまだ現役バリバリなのは素晴らしい事です。

数多の素晴らしいプレイがありすぎて、どれか一曲などとは選べないところですが、あえてチョイスするならば、本当のホントにベタですがこの曲です。「Europa(哀愁のヨーロッパ)」。本曲においてはYAMAHA-SGが使用されています。74年よりサンタナは本器を使い始め、ポール・リード・スミスに取って代わられるまでサンタナの愛器でした。日本が世界に誇る名器です、その素晴らしい音色も是非ご堪能ください。