#29 David Gilmour

エレキギターの代名詞と言っても過言ではないフェンダー社製ストラトキャスター。この楽器には数多の使い手・名手がいます、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、勿論ジミ・ヘンドリックス。ですが私個人的にストラトキャスターらしさを存分に引き出しているギタリストとして、若干意外と思われるかもしれませんが、この人を挙げずにはいられません。それが前回まで取り上げていたピンクフロイドのギタリスト デヴィッド・ギルモアです。
1946年イングランド生まれ。幼少の頃からギターを始めます。#25でも少し触れましたが、ドラッグの過剰摂取によって音楽活動がままならなくなった初代リーダー・ギタリストであったシド・バレットの後任として、シド在籍中からバンドに加入しました。

ギルモアについて語る前に、ストラトキャスターという楽器についての講釈に少しばかりお付き合いを。51年に世界初の量産型ソリッドギター(=ボディに空洞が無いタイプ。あと厳密に言えば49年には別名で基本的に同じ様な製品が出ていたのですがその辺は割愛)として世に出た「テレキャスター」の後継機種として54年に発売。テレキャスの扱いづらいとされた幾つかの点(それがテレキャスの持ち味と言うファンもいっぱいいます、私も…)を改良したストラトは当初不人気で、フェンダー社は本気で生産の打ち切りを検討したそうです。それを180度変えたのは他ならぬジミ・ヘンドリックスです。エレキギター・メーカーにおけるもう一方の雄であるギブソン社製ギターは、太くて甘い音色を特徴としてジャズギタリストに好まれていたのに対し、フェンダー社はヌケの良い、高音が良く透る、枯れた音色が特徴、カントリーやブルースギタリスト達を客層としていました。それが60年代中期に一変します。ギブソン・レスポールはエリック・クラプトンによって(#8 Crossroadsの記事ご参照)、ストラトは先述の通りジミヘンによって。共にロックミュージックに欠かすことの出来ない楽器の双璧となります。どの位ジミヘンによるストラトの使い方が横紙破りだったかと言うと、ストラトの代表的特徴であるトレモロユニット(ブリッジ下部にあるトレモロアームを動かすことで音程を下げる事が出来る機能)は、当初はカントリーなどで曲のエンディングに和音を軽く揺らす程度の使い方を想定したものでした。ところがジミヘンは”これでもか”と音程を極端に変えるワイルドなピッチダウンやヴィブラートを多用し、有名なエピソードですが、フェンダー創業者であるレオ・フェンダーはそれを観て、「あれ(トレモロ)はあんな使い方をするためのもんじゃない!」と憤慨したとか・・・。

そのストラトキャスターと英国製アンプ「Hiwatt (ハイワット)」からギルモアサウンドは産み出されました。ハイワットは音量を上げても歪みにくい、クリーントーンを身上としたと言っても過言ではないアンプでした。先述のクラプトンによるレスポール&マーシャルのディストーションサウンドが注目を浴びるまで、現在では信じられない事ですが、ギターアンプが音量を上げたときに生じる”歪み”はあまり良くないものとされていたそうです。同じフェンダー社製のツインリバーブなどがクリーントーン向けと良く言われますが、その意味ではクリーントーンを持ち味とするフェンダーギターには、ハイワットとの組み合わせもベストマッチの一つであったかもしれません。
(ただし値段も高い・・・(´Д`))
そしてピンク・フロイドと言えば、前回までの記事でも述べましたが、エコー処理の妙、空間的音響技術の巧みさを売りとしていので、当然ギルモアもリバーブ、コーラス、ディレイといった、ギタリスト用語でいうところの”空間系・揺らし系”のエフェクターも重要なファクターでした。ただし私はエフェクターマニアではありませんし、その辺りまで述べるとかなり冗長になってしまいますので割愛します。
またギルモアのギタープレイを語る上でか欠かせないのは、スライドギター(スティールギター)です。ブルース、カントリー、ハワイアンなどでは欠かせないものでしたが、ロックミュージックではデュアン・オールマンやライ・クーダーによって取り込まれました。通常のギターをスライドバーで弾く奏法と、ハワイアンなどで御馴染の横に置いて弾くスティールギターがありますが、当然どちらもプレイしたのでしょうが、ギルモアは膝の上に置いて弾ける小型のラップスティールを好んで使っていたようです。

決して所謂”速弾き”をするプレイヤーではありませんが、情感溢れるチョーキングやヴィブラート、ピッキングの微妙なニュアンス、場面場面での絶妙なトーンセレクトなど、ブルースをそのルーツとする非常に感情表現に長けたギタリストです。”速く、複雑、かつ正確に”といったファンダメンタルなテクニックが必要無いなどとは決して思いません。しかし何でもかんでも、速けりゃイイのか?難しけりゃイイのか?と所謂テクニック至上主義を考え直させてくれる、ワンアンドオンリーなプレイヤーの一人であることは間違いありません。

また、あまり取り上げられない面かもしれませんが、ギタリストとしてだけではなく、その朴訥・無骨なスタイルを持った独特なシンガーとしての側面、そして全く無名であったケイト・ブッシュという、オリジナリティという点においてはイギリスが世界に誇る超個性的女性シンガーを発掘し、世に売り出すことに成功した、非凡ならざるプロデューサー音楽家としての顔もあります。

次回パート2では、具体例を挙げてその”ギルモアワールド”をご紹介したいと思います。

#28 The Final Cut

「Animals(アニマルズ)」コンサートツアー最終日のカナダ公演にて、演奏そっちのけで大騒ぎする最前列の観客達に対して、ロジャーが唾を吐きかけるというアクシデントが起こります。それまで溜まった様々なフラストレーション、具体的には昔の曲ばかりを聴きたがる聴衆、大規模なツアーによる心身の疲弊、大会場で行われる故に生じる聴衆との溝、などによるストレスが極限まで達して先の暴挙に至ったようです。後にロジャーは反省したようですが、この経験から、オーディエンスとの溝=”壁”をイメージし、次作である「The Wall(ザ・ウォール)」の制作へと向かいます。かねてからロジャーはレコード・映画・コンサート現在で言う所の”メディアミックス”的展開を構想しており、それにはこのアイデアはうってつけでした。「ザ・ウォール」の内容をあくまでざっくりと。主人公ピンクはロックスターという設定。先ず冒頭にある短いメロディと一言”….we came in?(来たの、おれたち?)” これについては後述します。その直後オープニング曲「In The Flesh?」はコンサートの開始を彷彿させる楽曲(歌詞は非常にシニカル)。爆撃音のような音の後に、赤ん坊の泣き声。ピンクの誕生した瞬間へ遡ります。かなり割愛しますが(本気で全内容を知りたい人は、和訳と解説を丁寧に記しているサイトが幾つかありますのでそちらをご参照)、行き過ぎた管理教育、親の過保護、やがてロックスターへと成長、しかしお決まりのドラッグへの傾倒、スターであるのにも関わらず孤独・疎外感を感じ、ますます”壁”を構築。終盤でオープニングのリプライズ「In The Flesh」(?がとれている)ではこれまで溜まっていた観客への罵倒。その後ピンクの気がふれた精神世界における、蛆虫達による自らへの弾劾裁判。母親や妻などが関係者として証言の後、”ピンクの壁を崩せ”という大合唱とともに壁が崩れ落ちる大音量のSE。エンディング「Outside The Wall」では牧歌的なメロディーの上で、”何だ、結局壁の外とは結局こんな所なのか?…”の様な失望と諦めの境地のような歌詞。そして最後に一言”Isn’t this where(ここって?)”。先の冒頭部におけるメロディはエンディングと同じもの。ラストの歌詞冒頭の一言をつなげると”Isn’t this where we came in?(ここってはぼくらが入って来たとこじゃないのかい?”という意味。つまり振り出しに戻るということ。SFなどにある所謂”ループもの”の様なオチ、しかもかなりバッドエンドの・・・。

 

 

 


前作の「アニマルズ」から宇宙的・神秘的音世界はなりを潜め、現実社会における矛盾を怒りでもって
歌い上げ、サウンドもストレートなロックサウンドとなっていきました。特にそれまでフロイドの”売り”とも言えた、広がりのあるサウンド、具体的にはエコー処理・音響空間の創造の巧みさがなくなっていってしまったのです。従来からのファンは、当時ややもするとフロイドを見限り始めた所だったようなのですが、意外にも若いロックファンに受け入れられたそうです。フロイドのような大作主義は70年代後半にムーヴメントとして興ったパンク世代達などには、嫌悪される標的だったそうですが、「ザ・ウォール」のように、ここまで徹底した大作であるとかえって新鮮に映ったのかもしれません(あとパンクというのは一過性のもので79年頃は既に廃れ始めていました)。結果的にはこれも特大のヒットを記録。当時で既に1,000万枚を超えるセールスを上げました。
バンドは「ザ・ウォール」ツアーを行いますが、何と1ステージ毎に本作の世界を再現するといった暴挙… 斬新な試みに出ます。具体的にはステージと客席の間に実際に”壁”を作り、エンディングでそれを崩し去る、といったとんでもないセットを組みました。当然話題になり大盛況でしたが、当たり前の事に経費もとてつもなく掛かったために莫大な赤字を被りました …
…(´Д`)…

83年、ロジャー在籍時最後のアルバム「The Final Cut」発表。実質的にロジャーのソロ、そして内省的・私小説的作品とでも呼べるもの。人によって好き嫌いは分かれるでしょうが、イギリスでは1位を記録。「ザ・ウォール」のアウトテイクも収録されており、楽曲的・サウンド的に秀逸なアルバムとは思いませんが、フロイドファン、ロジャー・ウォーターズファンにはその内面をうかがい知ることが出来る作品であり、ジョン・レノンにおける「ジョンの魂」的アルバムと私は思っています。
その後実質的にバンドは解散状態に。各々がソロ活動を経て、87年にロジャー抜きで活動を再開。ロジャーとギルモア達は長い間反目し合いますが、00年頃から雪解けムードが漂い始め、05年にはチャリティー・イベントにて一時的ではあるものの再結成。しかし06年にシド・バレット、08年にはリチャード・ライトが死去。14年にリックへの追悼を込めたスタジオ録音のアルバム(ロジャーは不参加)を発表しますが、これを最後にピンク・フロイドとしてはその活動に終止符を打ちます。

#26の記事の内容と重複しますが、彼らは決して突出した作曲能力や演奏技術の持ち主ではありません。元々はブルースのカヴァーを演っていたバンドであり、やがて時代の波であったフラワームーヴメント・サイケデリックロックの一翼として世に出ました。それらの殆どが一過性のブームとして消えていってしまったと言えるもので、フロイドと同時期のデビューでその後息の長い活動を続けられたのはグレイトフル・デッドとジェファーソン・エアプレイン(←名前も音楽性も移り変わって行きましたが…)くらいではなかったでしょうか。そのようなバンドがここまでモンスター級の成功を収めたのは、先の記事でも述べましたが、非常にレコード(アルバム)制作に長けていた、つまりそれまではラジオでかけるのが前提である3分位の曲の寄せ集めでしかなかったアルバムを、トータルに音楽作品として昇華せしめたのは、若干の例外を除いて彼らが初めてで、そして最も秀逸だったと言って過言ではなかったと思うのです。ちなみにその例外の一つはザ・フーの二枚組ロックオペラ「Tommy(トミー)」(余談ですが「トミー」「ザ・ウォール」共にプロデュースはボブ・エズリン。これは偶然でも何でもなく、「トミー」の様な超大作を仕上げた実績があるからこそロジャーはエズリンを起用したと言われています)。アルバムが”作品”と呼ぶに値するに相応しかった70年頃から90年代半ば位までの限られた時期に出現した、ポップミュージックにおけるある種の究極形音楽と言えるのではないかと思うのです。この期間は、今はまだそう感じられないかもしれませんが、もっと後世にポピュラーミュージック史が語られる時、極々短い期間として扱われるのではないでしょうか。サイケの時代には、意識の垂れ流しと呼んでも過言ではないような感性のみに頼ったバンドが多かった中、彼らは感性+理性(=構築力、この場合は一般的な音楽の編曲能力と言うよりは、以前に述べた様な美術・アート建築的なもの)を併せ持った稀有な存在だったのだと思います。

またまただいぶ長くなってしまいました。中~高校生にかけて鼻血が出るほど聴きまくったバンドの事ですので、筆が止まらなくなってしまうことは何とぞご容赦を。これにてピンク・フロイド編は終了です。プログレッシヴロックで続いてきた流れもここで一旦終了しようと思います。はて、次は何を書こうか?… ま、どうせ昔の洋楽ネタには変わらないんですけど・・・

#27 Wish You Were Here

特に日本のピンク・フロイドファンの間では人気の高い作品、それが今回のテーマ「Wish You Were Here(炎〜あなたがここにいてほしい)」です。前作「狂気」までにあった前衛・実験色が薄れ、抒情味が前面に押し出された比較的素直な”ロック”として完成しています。それが日本のファンには好意的に受け入れられたようですが、リリース時の評価はあまり芳しいものではなかったそうです。「狂気」の次作としてどれほど、今度はどんな驚くようなサウンドアプローチをしてくれるのか、と過剰な期待を抱いていたファン達には肩透かしを喰った形となってしまったからです。あまりにも成功し過ぎてしまった「狂気」がバンドにもたらした変化は、決して良いものばかりではなかったようです。「狂気」制作後、”やり尽してしまった”症候群的な虚無感の様な感情が芽生え、また軽佻浮薄なショービジネス界への嫌悪感、さらに聴衆は自分達の音楽の本質を本当に理解してくれているのかという懐疑心(特にロジャー)、勿論次作への期待に対するプレッシャー等々。様々な試行錯誤の後、難産の末に2年以上の歳月を経て本作は世に出ます。当初こそ好意的でない評価があったのは先述の通りですが、結果的には英米共に1位となり、「狂気」や79年の「The Wall(ザ・ウォール)」にこそ及ばないものの(この2枚が異常なのです)、全世界で2,200万枚というビッグセールスを記録します。

 

 

 


その音楽性は従来とは比べ物にならないほど親しみやすく、効果音などは使われてこそいるものの、全体に溶け込んでいてそれらが突出して耳目を引くようなことはありません。シンセサイザーの音色はよりコズミックサウンド(宇宙的音世界)を効果的に演出しており、これに関しては前作までの流れを踏襲しています。また音楽的にはブルースフィーリングに満ち溢れていて、ある意味では原点回帰とも言える側面もあるのでは?と私は思っています。
アルバムのオープニングとラストを飾る「Shine On You Crazy Diamond(狂ったダイアモンド)」は初期メンバー シド・バレットについて歌ったものとされていますが、後のロジャーのコメントにはそれを否定するものもあります。「Have A Cigar(葉巻はいかが)」は旧友ロイ・ハーパーがリードヴォーカルを務め、先述したショービジネス界への皮肉を込めた歌詞となっています。タイトル曲は明らかにシドについて歌った曲。精神を病み音楽界、ひいては通常の現実生活をも去って行ってしまったと言っても過言ではないシドに対しての、朴訥でありながら、それでいて慈しみに溢れた歌詞・歌唱であり、サウンドは非常にシンプルでアコースティックなもの。それが余計にシドへの思いを表している名曲です。ちなみに ”あなたがここにいてほしい” という邦題はバンドがわざわざ日本のレコード会社側へ指定してきたもの。ここからも彼らの思い入れがうかがい知れます。ですが、この作品で何より白眉なのは「狂ったダイアモンド」に他なりません。

オープニング曲「狂ったダイアモンド」パート1。冒頭部、無機的な宇宙空間を想起させるようなシンセの音色とフレーズ。そこに仄かな光と温かみを与える抒情的なギター、これだけで本作の世界へ引き込まれてしまいます。やがてアンサンブルパートへ。ギルモアのストラトキャスターによる乾いていて、それでありながらハリがあり、時に泣き叫ぶ様なブルージーなギタープレイ。個人的にはこのパートはギルモアのプレイのなかで一二を争うものと思っています。ヴォーカルは無骨でありながら、それでいてそこはかとなく優しい。シド、あるいは現実からドロップアウトしてしまった者達すべてに語り掛けているような歌です。終盤は前作から引き続き参加しているディック・パリーのサックスソロで一旦幕を閉じます。
エンディング曲「狂ったダイアモンド」パート2。パート1同様、スペイシーサウンドとでも呼ぶべきイントロ。リックによる短いシンセのソロ、その途中からギルモアのギターが絡んできます。本曲のクライマックスは何と言ってもこの後のギターソロで、スライドによるまさしく”泣き叫ぶ”プレイが聴き処。随所におけるギターのオーバーダビングも素晴らしい効果をもたらしています。曲は展開し、パート1同様のヴォーカルパートへ。その後二つのインストゥルメンタルパート、前者はややリズミックな楽曲であり、そして後者はエンディングを飾るに相応しい、例えるなら宇宙からの旅路を終え、まさしく今地球に帰還するようなサウンドです(我々オッサン世代ならイメージするのは、間違いなくイスカンダルから帰ってきた宇宙戦艦ヤマト…(´・ω・`))。

本作制作時にシドがレコーディング現場にふらっと現れたというエピソードがあります。すっかり容姿が様変わりした彼は、スタジオで奇行を繰り広げ、メンバー達は非常にショックを受けたそうです。この事が本作の出来に影響を与えたか否かはわかりませんが、この後、06年にシドが亡くなるまでメンバー達は彼と会うことはなかったと言われています。

77年「Animals(アニマルズ)」発表。”資本主義は豚だ!”の様な旨の強烈な社会風刺を効かせたコンセプトアルバム。ますますロジャーのイニシアティヴ(=独裁化)が強まり、他メンバーとの溝は深まっていきます(特にリックと)。それまでのコズミックサウンド志向から、現実世界の不条理、人間の内面におけるネガティブな部分について歌われており、その作風は次作「The Wall(ザ・ウォール)」へとつながることとなります。その辺りはまた次回にて。

#26 The Dark Side of the Moon

「Atom Heart Mother(原子心母)」の成功後、バンドは初めて自分達のみでアルバム制作に取り掛かります。ピンク・フロイドにとってその後の重要なナンバーとなる「Echoes」を含む「Meddle(おせっかい)」を71年11月にリリース。「Echoes」はB面全てを費やした一大組曲。2ndアルバム「神秘」タイトル曲にて萌芽していた、宇宙的音世界の発展・完成形とも言える傑作。「原子心母」同様にサウンドコラージュ、20以上に渡る楽曲素材の構築力が見事であり、23分30秒という長さを全く感じさせません。これはあくまで私個人の主観なのですが、「原子心母」まであった”怖さ”の様なものがだいぶ和らぎ、抒情味・ロマンティシズムが全編に流れているように感じます。勿論大衆に迎合したなどということは全くなく(そうであったらもっとコマーシャルな作品を作るでしょう)、この時期メンバー達に何某かの変化が生じたのではないかと勝手に推測しています。
A面の楽曲群も秀作ぞろいで、特にオープニング曲「One Of These Days(吹けよ風、呼べよ)」は私以上のオッサン世代なら御馴染、アブドーラ・ザ・ブッチャーの入場曲。延々と繰り返されるベースの上で、やはりサウンドコラージュを駆使したフロイド流音楽世界が展開されます。このベースラインは、ワンフレーズだけ弾いて録音したテープをループ状にして再生したものとか。80年代以降なら、サンプリングマシーンやシーケンサーで難なく出来ることですが、当時は涙ぐましいほどの労力、またそのアイデアに至るまでの試行錯誤がなされたのです。しかしだからこそ、技術が発達した時代においては得られない素晴らしい効果をもたらしたのも事実です。テクノロジーが乏しい方が良いなどとはゆめゆめ思いませんが、やはりそれだけではないという事も思い知らされます。また71年8月には来日を果たし、野外フェスティバル『箱根アフロディーテ』に出演。夕暮れ時に霧が立ち込める状況で、これ以上ない、と言う程絶妙なシチュエーションでのライヴは、勿論その演奏の素晴らしさも相まって伝説となっています。

 

 

 


「おせっかい」リリース時にはすでに曲作りは始まっていたと言われています。それらは断片的にはコンサートで演奏され、ブートレグでは聴くことが出来るそうですが、よほどのマニア以外にはそれだけを聴いてもあまり意味のないものでしょう。しかし発売前半年余りにかけて行われたレコーディング、その後の編集作業によって、その一つ一つのピースはとんでもない怪物のようなアルバムへと変容を遂げます。
主語を入れるのを忘れていました、それはあまりにも有名な、ロック史においてエポックメイキングとなるアルバム、言わずと知れた今回のテーマ「The Dark Side Of The Moon(狂気)」です。一度見たら決して忘れられない様なヒプノシスによるジャケットデザインとともに、本作は多くのロックファンに強烈な印象として焼き付いているのではないでしょうか。
”コンセプトアルバム”とは何ぞや? と問えば、ロックファンによって百人百様でしょうが、もし私が人に説明するとしたら、”ピンク・フロイドの「狂気」の様なアルバム”と言います。ビートルズが「SGTペパーズ」で成し遂げられなかった事を(#3の記事ご参照)、その後、彼らが具現化出来たのだと私は思っています。

売上通算5,000万枚、全米TOP200に741週チャートインなど、本作を語る時に枕詞の様に出てくる説明はどうぞ各々でググってください。この作品がどうしてここまで怪物的に支持を得たのか?あまり長いと飽きられるので私見を出来るだけ簡潔に。私は青春時代に鼻血が出るほどフロイドを聴きまくったのであえて言いますが、彼らはポール・マッカートニーやエルトン・ジョンの様な希代のメロディーメイカーではないですし、レッド・ツェッペリンの様なソリッドかつヘヴィーなロックチューンをプレイするでもなし、また同じプログレッシヴロックと言われるイエスやキング・クリムゾンの様な高度な演奏技術も持ち合わせてはいません。じゃあ何故に?
先ずブルースをベースにした根源的な感情に訴えかける音楽性があります。彼らのルーツがブルースにあるのは前回の記事にて述べましたが、それはギルモアのギタープレイにもっとも顕著に表れています。この様な言い方は身も蓋もないかもしれませんが、イエスやクリムゾンなどよりは分かり易い音楽です。またお世辞にもポップでコマーシャルな音楽ではありません、どころか、重く、陰鬱な音楽です。これが70年代にはまった、としか言いようがありません。60年代の”ウッドストック幻想”のようなものが破れて、心に隙間が空いたようなロックエイジ達にドンピシャにヒットしたのではないでしょうか。更にSFブームや、(これは日本だけかもしれませんが)オカルトブームなど、宇宙的・神秘的なものに対する興味の高まりもあったと思います。そして、私は英語が得意ではないのであまりわかりませんが、彼らの歌詞(主にロジャー)は、平易な英語で、それでいてイメージが喚起される様な、分かり易く、しかし奥深いものだそうです。英語圏ではない人間が英米のポピュラーミュージックを聴くとき、見落としがちですが、商業的成功の為にはこれは非常に重要なファクターでしょう。各国のポップスシーンに置き換えてみれば同様の事が言えるのでは(日本は?…)。音質的にも従来のロックアルバムよりも群を抜いて素晴らしく、エコー処理やSEなどは後のレコード制作に多大な影響を与えました。これにはエンジニアであるアラン・パーソンズとクリス・トーマスの功績が挙げられるところです。

モンスター級のビッグセールス・成功を収めたバンドはその後どのような変遷をたどったのか。順風満帆にスターダムを駆け上がっていったのか、はたまた否か。その辺りはまた次回にて。

#25 Atom Heart Mother

『プログレッシブ・ロック』と呼ばれるロックミュージックのカテゴリーがありますが、一口に言ってもその音楽性は様々で、実際には一つには括れないものと私は考えております。直訳すると”進歩的・先進的なロック”という意味なのでしょうが、いざその定義は? と、問われると思わず考え込んでしまいます。ものの本によると”クラシック・ジャズ・前衛音楽などの手法を取り入れ、従来の価値観にとらわれないロック”の様な旨が書いてあります。概ねこの説明で間違ってはいないと私も思いますが、その定義によれば、クラシック色・オーケストラを取り入れた「ペットサウンズ」や「SGTペパーズ」も当てはまりますし(実際これらをプログレの元祖と呼ぶ人もいます)、ムーディー・ブルース、プロコル・ハルム、初期のディープ・パープルなどはもろにそうです。また、ジャズ的であるというならば、ソフト・マシーンはその先駆けですし、前衛音楽的ロックと言えばフランク・ザッパにとどめを刺すのではないでしょうか。このようにカテゴリーの定義はかなり曖昧かつ難しいのです。では、そのプログレッシブ・ロックにおいて最も有名な、すぐに名前が挙がるバンドと言えば、これに関しては殆ど衆目が一致するのではないでしょうか。それがピンク・フロイドです。

ロンドンで結成されたバンドは、67年にレコードデビュー。全英では初めからヒットを飛ばします。デビュー前結成当初はブルースのカヴァーなどを演っていたようですが、やがて時代の波もあったのでしょうが、サイケデリックロック色を強め、ライティング(照明効果)を巧みに使った”トリップ”する音楽が売りとなります。勿論それにはこの時代のお約束としてLSDなどのドラッグが、演奏者・オーディエンス共にその傍らにあったのは言うまでもありません。
(良い子のみんなはマネしちゃダメだぞ!☆(ゝω・)v)
オリジナルメンバーはシド・バレット(vo、g) ロジャー・ウォーターズ(vo、b)リチャード・ライト(key) ニック・メイスン(ds)の四人。1stアルバム「The Piper at the Gates of Dawn(夜明けの口笛吹き)」は全英6位を記録。殆どの曲をシドが書き、その後のバンドの音楽性とはカラーを異にする作品です。しかしシドはこの時点で既にドラッグの過剰摂取、また元々精神を病んでいた様で、このアルバムも無理くり仕上げた様な状況だったそうです。トリビア的なこぼれ話ですが、アビーロードスタジオにて本作をレコーディング中、隣のブースではビートルズとジョージ・マーティンが「SGTペパーズ」の仕上げ作業中だったとの事。2ndアルバム「A Saucerful Of Secrets(神秘)」の制作途中でシドは脱退。シド在籍中から既に加入していたデヴィッド・ギルモア(g)と共にバンドは新体制で再スタートします。つまり後に世間一般で認知される事となる”ピンク・フロイド”の誕生です。

 

 

 


「神秘」は前作の流れを踏襲しつつ、しかしながらその後のコズミックサウンド(宇宙的音世界)の片鱗がすでに見え始めています。特にタイトル曲にそれが顕著です。その後映画のサントラ、ライヴとスタジオ録音から成る二枚組アルバムを発表し、いずれも全英TOP10ヒットとなります。特に後者の二枚組アルバム「Ummagumma」のスタジオ盤は非常に実験的・アヴァンギャルドな作風で、これがTOP10ヒットとなるイギリスは、時代の波もあったのでしょうが、つくづく凄いお国柄だと思います。ちなみに私は数回ターンテーブルに乗せただけで断念しました・・・。
ミュージック・コンクレートという音楽の一分野があります。基本的に楽器を用いず、具体音(=グラスの割れる音や、人の足音、はたまた風が吹く音など、自然物・人工物問わず現実世界に存在する(楽器以外の)音を組み合わせて音楽を創り上げようとしたものです。私はこの手の音楽をちゃんと聴いたことがありませんので、どうこう言える知識はありません。ただ60年代から、ポップミュージックにおいても、この手法を取り入れようとする動きが現れました。結論から言うと、これらを音楽に昇華できたのはポップミュージック界ではピンク・フロイドだけだと私は思っています。ジョン・レノンも「ホワイト・アルバム」の「Revolution 9」という楽曲でチャレンジしていますが、私見ですが観念的なものだけが先走り、音楽の体を成していないというのが感想です。ピンク・フロイドにしても丸々一曲ミュージック・コンクレートで楽曲を仕上げたというのは先述した「Ummagumma」のスタジオ盤やその他少々で、基本的には”ちゃんとした音楽” つまり器楽・声楽演奏と、SE(サウンドエフェクト)や電子音を含んだミュージック・コンクレートとのバランスを保った楽曲構成として成立させています。なぜ彼らはそれを音楽として成立せしめることが出来たのか? 一言で言えば、”起承転結がしっかりしている”、という事に尽きるでしょう。「神秘」のタイトル曲にてそれは既に表れていました。

これらが全て音楽的に素晴らしいものとして最初に結晶化されたのが、今回のテーマである「Atom Heart Mother(原子心母)」でしょう。あまりにも印象的なそのジャケットデザインと共にロック史に刻み込まれています。23分強に及ぶタイトル曲は、元はギルモアが西部劇をイメージして作ったメロディに、様々なアレンジの変遷を経て(=収拾がつかなくなり)、前衛音楽家 ロン・ギーシンに協力を仰ぎ、膨大な音的素材群から、気の遠くなるような編集作業の末に完成したものです。
本曲を傑作たらしめているのは、全体を通しての編集・構築感覚の見事さでしょう。音楽であると同時に、優れた絵画・建築物を鑑賞しているような感覚に陥ります。通常のポップミュージックとは制作へのベクトルが異なる、むしろ美術におけるコラージュ、創造的建築物の構築に近い感覚だったのではないでしょうか(実際ロジャー、リック、ニックはアートスクールの建築学科出身)。ミュージック・コンクレートをきちんとした音楽に昇華出来たのも、その様な能力に秀でていたことが理由としてあるのではないかと思われます。

本作は初の全英1位を記録、アメリカや日本でもヒットしました。一躍ロックのスターダムへとのし上がった彼らは更に飛躍を続けます。その辺りはまた次回以降にて。

#24 Duke

78年の「…And Then There Were Three…(そして3人が残った)」発表後、メンバーは各々ソロ活動に力を入れ、良い意味でバンドの活動にインターバルを挟んだ後、レコーディングに入ります。そして出来上がったのが80年発表の「Duke」。非常にポップでコマーシャル性に富みながら、音楽性(ジェネシスらしさ)の充実度も兼ね備えた中期の傑作です。
本作は初の全英1位、全米でも最高位11位。シングルヒットも生み出し、その勢いは留まることを知りませんでした。シングル向けのポップチューンも勿論良いのですが、やはりその真骨頂はジェネシスらしさを存分に発揮した、プログレッシヴナンバーです。アルバムラストを飾る「Duke’s Travels」から「Duke’s End」へのメドレーは見事としか言いようがありません。あくまで私見ですが、”古き良きジェネシスらしさ”があったのは本作までと私は勝手に思ってます。
その後「Abacab」「Genesis」と続けて全英アルバムチャート1位、全米でもTOP10入り。また82年のライヴアルバム「Three Sides Live」(米盤はスタジオ録音含)は「Abacab」ツアーを収録した快作。特にコンサートのハイライトである「The Cinema Show」を含むメドレーはお見事。本曲は発表以降、ライヴで様々なアレンジの変遷を経て演奏され続けてきましたが、ここでのヴァージョンにて遂に極まったかなという感が個人的にはあります。
(他のライヴでの演奏も勿論良いですよ(´・ω・`))

 

 

 


86年、「Invisible Touch(インヴィジブル・タッチ)」を発表。バンド最大のヒットとなり、シングルカットされたタイトル曲は遂に全米チャートNo1に。更に全く同時期、元リーダーピーター・ガブリエルの5thアルバム「So」もチャートを駆け上がり、そこからの1stシングル「Sledgehammer(スレッジハンマー)」は、「インヴィジブル・タッチ」と1位の座に取って代わってチャートイン。つまり奇しくもジェネシスファミリーが全米チャートのTOPの座を続けて占めたのです。往年のジェネシスファンは涙を流し、赤飯を炊いて祝ったとか。
(本当かな…(´・ω・`)、でもそのくらい嬉しい出来事だったという事です)
時系列は前後しますが、フィル・コリンズは81年のソロアルバム「Face Value(夜の囁き)」を皮切りに、次々と大ヒットを連発。それ以外にも映画のサントラ「カリブの熱い夜」、EW&Fのフィリップ・ベイリーとのデュエット「Easy Lover」も大ヒット。エリック・クラプトンを
はじめとする他ミュージシャンのプロデュース、また有名なエピソードですが、80年代ミュージシャンによるチャリティーの先駆け、『ライヴエイド』では、ロンドンでのステージの後、コンコルドでアメリカへ飛び、そちらのステージにも出演。”いつ寝てるんだ!!Σ(゚Д゚;”という程の多忙ぶり。

フィルの活動だけが目立ちがちですが、トニー・バンクスやマイク・ラザフォードも80年頃からソロ活動を始めます。つまり全員がバンドとソロ活動をそれぞれ両立していったのです。これは多分丁度良い距離の取り方になったのでしょう。フィルやマイクは温厚な人柄と言われていますが、トニーはかなり神経質な人(ピーターと衝突していたのは以前の記事に書いた通り)らしく、そのエピソードとして、楽器は人に触らせない、の様な事が「Three Sides Live」映像版(現在でもDVDで発売されているようですが、輸入盤なので当然インタヴューに字幕などはついてないでしょう…)の中で関係者から語られています。搬入出や運搬は勿論スタッフが行うでしょうが、セッティングやサウンドチェックなどはローディー(所謂”ボーヤ”)に任せっきりのプロが少なくないところを、自分でやらないと気が済まない、というのは彼の几帳面さ・完璧主義を物語るエピソードです。また、フィルが歌に専念するためツアーサポートメンバーとしてチェスター・トンプソンが(ただしライヴでは必ず”見せ場”としてドラム・デュエットがあります)、スティーヴ・ハケット脱退後は同じくダリル・スチューマーが参加します。70年代後半からは永らくこの不動のメンバーで活動します。キング・クリムゾンやイエスの様に、頻繁なメンバーチェンジを繰り返したバンドから見ると、非常に安定していたと言えるでしょう。これは非常に全員が”大人な距離感”を大事にしていた事。そしてもう一つ、意外に知られていないことかもしれませんが、舞台照明装置として有名な『バリライト』というライティングシステム、実はこれの特許はジェネシスの三人が持っていて(具体的にはアメリカの照明会社が彼らにこのシステムのアイデアを持ち寄り、フィル達が資金を出してあげてそのパテントを取得したらしい)、この特許収入だけで十分生活ができるらしいのです。これがさらに”心の余裕”のようなものを生み出している側面もあるのではないかと推測しています。もっとも三人とも類まれなる才能を持ったミュージシャンですから、食うに困らないと言っても音楽を辞めるわけはなかったでしょう。フィルはワーカホリックのようなところがあったので特に・・・。

90年代初頭までは栄華の限りを尽くしていた様な彼らでしたが、96年にフィルがバンドを脱退。新ヴォーカリストを迎えてニューアルバムを発表しますが、以前の様な成功は得られず、やがて活動停止。06年に再びフィルが加わりその活動を開始しますが、00年代に入ってから、フィルは難聴や脊髄の病気を患い、また加齢と共に老年性のうつも発症していたそうです。08年に一度引退を公表、これは撤回して活動を続けますが、11年にまた引退を表明。しかし15年にこれまた活動再開を表明。ビリー・ジョエルもそうですが、口の悪い連中は”引退するする詐欺”などとのたまう輩もおりますが、彼らのような突出した才能を持った人間はこれでも良いのです。某アニメキャラによるセリフを借りれば ”何度でも蘇るさ!”といったところでしょうか・・・。

白状しますと私はかなりのジェネシスフリークで、彼らに関しては人並み以上の知識と思い入れがあります。だからこそあまりにマニアックな、また主観の強い文章は極力避けようと思いながら書きました。しかし、はたしてこれらの記事が読者の方々にはどのように映ったでしょうか・・・
(´・ω・`)?

これにてジェネシス編は終了です。キング・クリムゾン、イエス、そしてジェネシスと続きましたが、お分かりの方には言うまでもなく… そう、あのバンドがまだ残ってますよね・・・

#23 Selling England by the Pound

調子が上向いてきたジェネシスでしたが一つ重大な問題が。コンサートは大入り満員なのですが、赤字になってしまっていました。理由は簡単、それ以上に経費を掛け過ぎていたからです。芸術家やエンターテイナーはともすれば、自分の表現の為には採算などは度外視してしまうきらいが往々にしてありますが、彼ら(特にピーター)も御多分に漏れませんでした。こりゃいかんとマネージメントに長けた人間を探し、フーやEL&Pのプロモーターも務めたトニー・スミスを迎えることでこの問題は解消されました。バンドは次作「Selling England by the Pound(月影の騎士)」の制作に取り掛かります。

前作「Foxtrot」と比べると大分聴きやすく仕上がっています。それでいて音楽性は素晴らしく充実していて、個人的には前作と甲乙付け難いジェネシス最高傑作の双璧だと思っています。
オープニング曲「Dancing with the Moonlit Knight(月影の騎士)」が本作の世界観を象徴しています。英国貴族風ロマンティシズムとでも呼ぶべき冒頭部から、劇的かつ動的なインストゥルメンタルパートへと移行するところは圧巻の一言です。ちなみにアルバム邦題の「月影の騎士」は本曲にちなみます。本曲中に”Selling England by the Pound”という歌詞が出てきますので、事実上のアルバムタイトルナンバーと解して良いでしょう。
それまで前面に押し出されていたピーターのオリジナリティーが良い意味で薄れ、メンバー全員が一丸となって創った(その意味では最後と言ってもよい)結晶の様なアルバムです。
それが最も顕著な曲「Firth of Fifth」。美しいピアノのイントロに始まり、アンサンブルパートに入ると非常にドラマティックで荘厳なサウンド・歌詞が堪能できます。この曲はトニー・バンクスがイニシアティヴを握っていたと言われており、ピーターに負けるものか、という競合精神が良い意味で昇華された楽曲です。さらに特筆すべきは後半のギターソロ。スティーヴ・ハケットによる、思わず「キング・クリムゾンかよ!」と言ってしまいそうになるくらい、抒情的かつ哀愁を帯びた名演が聴けます(というか、ロバート・フリップはクリムゾンで、少なくともこの当時までにおいて、こんなに素直でメロディックなソロは弾いたことはありませんが…)。またフィル・コリンズが「More Fool Me」でリードヴォーカルを取っており(以前にも取ったことはあります)、更に「I Know What I Like」はバンドとしては全英で初めてシングルヒット。そしてB面終盤にて、その後の重要なライヴナンバーとなる「The Cinema Show」が収録されています。
ジャケットを見ればお分かりになると思いますが、それまでよりかなり垢ぬけています。これが何よりも象徴しており、この時期が初期ジェネシスの最も良い時代だったのだと思います。本作は全英チャートで3位となり、本国にてその人気を不動のものとしました。

74年の夏からバンドは次作の制作に取り掛かりますが、バンド内の関係は綻びが見え始めました。コンセプトアルバムを作ることでは一致していたのですが、ピーターは一人で歌詞を書くことを望み、それに対して他メンバー(特にトニー)は納得がいきませんでした。結果的にはピーターが詩を書き、それとは全く別に他メンバーが曲を作るという無秩序な制作過程を経てしまう事となりました。
そうして出来上がったのが二枚組コンセプトアルバム「The Lamb Lies Down on Broadway(眩惑のブロードウェイ)」です。発表当時はかなり賛否両論分かれたそうです。前作にてかなり親しみやすくなったのが、本作では舞台こそ現代のニューヨークに移しはしましたが、前々作までのシュールかつ難解な作風が復活しています。
この時期ピーターには子供が出来ます。ピーターは家庭を顧みる時間を増やすのが当然という考えなのに対し、他メンバー達は仕事を優先すべきだという考えでした。ますます溝は深まり、遂にピーターは脱退を決意し、バンドは新しいヴォーカリストを探します。ピーターの脱退は公には伏せたままだったので、”ジェネシスタイプのバンド”という文句でオーディションの広告を打ちますが、思った通りの人材に巡り合えず、以前からヴォーカルを取っていたフィルが歌うことで落ち着きます。
世の中というものは何が良し悪しに働くか全くわからないものです。結果的にこれが、バンドの世界的成功のきっかけとなるのです。フィルの声質はピーターに驚く程似ており、従前のナンバーを歌っても全く違和感はなく、更にそれまでにはなかった、良い意味でのポップさ、躍動感の様なものをもたらしました。ピーター脱退後初となる、76年発表の「A Trick of the Tail」は全米でTOP40に入り、結果的にこれまでのどのアルバムよりもセールス的に成功を収めます。それまでの英国的哀愁・ロマンティシズムといった作風は踏襲しつつ、よりシンプルで、躍動感のある(アフリカンリズムのテイストを取り入れたと言っても良い程)リズムを前面に押し出します。
フィルはフロントに立つべくして立った人なのでしょう。子役として演劇活動をしていた幼少期(実はビートルズの映画「ハードデイズ・ナイト」にエキストラとして出演もしている)の経験もあったでしょうし、また非常に人懐っこい、ヒューマンな人柄も功を奏したと言えるでしょう。ここからバンドはヨーロッパのみならず、全米での(つまり世界での)人気を着実なものにしていきます。

その後、スティーヴ・ハケットが脱退しバンドは3人となり、78年に「…And Then There WereThree…(そして3人が残った)」という、超有名小説をもじりながら、当時のバンド状況を自嘲・自虐的に表したタイトルのアルバムを発表します(このセンスはブラックユーモアを解するイギリス人ならではだと思います)。しかしながら、これがまた大ヒット。初の全米TOP20にチャートインすることとなります。北米にとどまらず中南米、そしてアジア圏(勿論日本を含む)でもその名声はとどろいて行きます。
やがて時代は80年代へ。快進撃はさらに加速します、その辺りはまた次回にて。

#22 Supper’s Ready

80年代、フィル・コリンズの来日公演を観ていた女子大生風の女の子達が、「フィルってドラムも叩けるのねw」の様な事をのたまわった、という笑い話がありました。つまりその位、フィルがソロミュージシャンとして名声を確立してしまい過ぎて、元々はジェネシスのドラマーとしてが、そのキャリアの出発点だということを忘れ去れているというたとえ話、都市伝説のようなものだと思っていました。しかし00年代になって、この話が本当であることが、その時その場にいた本人の口から語られました。
日本を代表するピアノ・キーボードプレイヤー 難波弘之さんです。某公共放送の洋楽紹介番組のジェネシス回でご本人が仰っていました。この話の出所はなんと難波さんだったのです。
「マジで!Σ(゚Д゚;」と、その時は驚愕しました(そこまで大げさな話ではないか・・・)。
やや強引な枕でしたが、今回から取り上げるのはジェネシスです。

このバンドについて述べられるとき、”貴族がつくったバンド”という形容詞で語られるときがあります。確かにそれは間違いではありません。創設メンバーは全員パブリックスクール(英国で貴族の子弟が通う学校)に在籍していた人達でした。しかしごく初期の内にメンバーチェンジが行われ、71年の3rdアルバム時にて、フィル・コリンズ(ds)、スティーヴ・ハケット(g)が加入し(二人は庶民階級)、オリジナルメンバーであったピーター・ガブリエル(vo)、トニー・バンクス(key)、マイク・ラザフォード(b)とともにバンドは”第一次黄金期”を迎えることとなります。

先述の3rdアルバム「Nursery Cryme(怪奇骨董音楽箱)」にて初期ジェネシスの音楽性は確立されました。神話や寓話(マザーグース等)をモチーフにし、そこに”ひねり”を加えたシュールな歌詞、ジャズやクラシックの要素を取り入れた高度な音楽性と演奏技術。そして何より話題となったのは、リーダーかつフロントマンである、ピーター・ガブリエルの奇抜なコスチュームと、その演劇的なパフォーマンスでした。
正直言ってピーターの創る歌詞や演劇的ステージは私もあまり理解出来ません。(歌詞は英語が分からないので当たり前、と言うか、たとえネイティヴであっても理解できるかどうかは疑問符が付くところです)その位シュール(悪く言えば荒唐無稽)なのです。しかし時代がそういうものを求めていたのかどうか、そのパフォーマンスはかなり好意的に受け入れられ、イギリスの音楽専門誌 メロディーメーカー誌のライヴアクト部門では数年に渡って一位に選出されました。
難解な歌詞の中でも比較的理解し易く、また初期ジェネシスの世界観を最も堪能出来るのが、「怪奇骨董音楽箱」のエンディング曲「The Fountain of Salmacis(サルマシスの泉)」。(神話に詳しくないので間違っていたらご勘弁…)泉の精サルマシス(両性具有の象徴)は、泉に近づき、そしてその水を飲んだ神の子ヘルマプロディートスと一つになろうとする。荘厳かつ抒情的なサウンドと歌詞で中盤まで進行するこの曲は、突然超展開します。サルマシス、ヘルマプロディートス、そしてナレーター役と一人三役を演じてきたピーターの真骨頂とも言えるパートです。そのパートの歌詞をあえて意訳(超訳)しますと、
ヘルマプロディートス:「こっちに来んな!お前と一緒になる気などない!!(`Д´)、」
サルマシス:「私たちは一つになるのよおおおおー!!ε=ε=ε=ε=(;゜д゜)ノ ノ」・・・
サウンドもそれまでの荘厳・神秘的なものから一転、リズミックでコミカル(ギャグパートと呼んでも良い様な)な曲調に変わります。この様な発想の源泉はピーターの幼少期にあるようです。貴族の家だけあって、彼は毎晩乳母に寝付くまで話をしてもらっていたそうです。しかし彼はその話の”ウラ”を常に考えていたとのこと。また彼は屋敷の中でたびたび幽霊の様なものを見たと語っています。それが本物なのか、幻覚、または彼の想像上の産物なのか分かりませんが、これらの事が彼の書く歌詞、パフォーマンスの源になっているようです。
「怪奇骨董音楽箱」は大変な力作にも関わらず、当初セールス的には奮いませんでした。ところが思わぬ所から人気に火が付きます。ベルギーのチャートで前作「Trespass(侵入)」が1位を記録。早速海外公演の準備に取り掛かっている所へ更に朗報が。イタリアで「怪奇骨董音楽箱」が最高位4位を記録。本国以外のヨーロッパの国で高評価を得て、それにつられるように本国イギリスでも注目を集めるようになります。

勢いが出てきたところでバンドは次作に取り掛かります。今回のテーマ「Supper’s Ready」を含む4thアルバム「Foxtrot」は最高傑作と評される作品です。全英12位を記録し、本国でもその人気を確実なものとします。「Supper’s Ready」はB面の殆どを費やした23分の大作。
その創作の元になったのはドラッグです。ピーター、妻のジル、そして友人の三人にてLSD(幻覚剤)を嗜んでいた時の事、突然ジルが普段とは違う声で(さながらエクソシストの様に)喋り出し、大変な状況になったそうです。所謂”バッドトリップ”だったのでしょうが。
(良い子のみんなはマネしちゃダメだぞ!☆(ゝω・)v)
ピーターはこの経験から人間の中に潜む善と悪、二面性について思いを巡らします。そして書き上げたのが本曲の歌詞です。舞台はリビングでの男女のひとときに始まり、いつの間にか戦闘シーン、その後の惨憺たる人肉の山、奇怪な植物が登場する農場、と目まぐるしくシーンを変えながら最後は黙示録にあるような天使と悪魔による一大決戦の場を迎えて、その物語は幕を閉じます。正直言って、あまりにシュール過ぎて和訳を読んでも意味は分かりません(先述の通りはたして英国人でも理解出来ているのか…?)。この様な歌詞は意味を追うより、単語・フレーズが持つイメージや、言葉の響き、韻の踏み方などを味わうのが正解だと私は思っています。しかし、楽曲構成、サウンド、そして演奏は完璧と呼べるものです。この様な組曲ではコンセプト性を持たせる為、序盤でのテーマ・リフなどが、その後の曲中にて形を変えて演奏されるというクラシックでの手法が使われることがありますが、本曲でも序盤のテーマが、エンディングのパートにて見事なリプライズとしてプレイされます。
ただ、御多分にもれずバンド内には不和が生じ始めていました。ピーターのステージアクトは時に、その楽曲とは全く無縁のものがなされることがあり、特にサウンド面でイニシアティヴを担っていたトニー・バンクスはそれを快く思っていなかったそうです。

多少の問題を内部に抱えていたバンドでしたが、基本的には、その後も上り調子にて活動を続けていくこととなります。その辺りはまた次回にて。

#21 Bill Bruford_2

ドラムの基礎テクニックに「ルーディメント」と呼ばれるものがあります。意味は”基本”の様なものらしいです(そのまんまや…)。右左を交互に打つ、オルタネイトスティッキングも”シングルストローク”として立派なルーディメントの一つなのですが、普通ルーディメントというと、もうちょっと小難しいスティッキング・手順のことを指します。代表的なのはパラディドル(変形の手順)やフラム(装飾音符)などです。
ジャズにおいては、その初期からドラミングに取り入れられていましたが、ロック・ポップスのドラムにおいては、あまり馴染みのないものでした。それをこれほどまでに積極的、かつ音楽的に(決していたずらに無理やり取り入れたりせず、必要かつ自然に、と言う意味合いで)ロックドラミングに取り入れ、そして見事なまでに昇華せしめたドラマーは、間違いなくビル・ブラッフォードが最初です。
ジャズドラミングをルーツとするブラッフォードにしてみれば、当然の事だったのでしょうが、イエスのデビューアルバムから既にそのプレイは聴くことが出来ます。特にそれが印象的なフレーズとして最初に聴くことが出来るのは、「Fragile(こわれもの)」のエンディング曲「Heart of the Sunrise(燃える朝焼け)」です。テーマのフレーズのバッキングそのものが高速のパラディドルフレーズで組み立てられており、非常にスリリングなプレイです。そしてその延長・発展形とも言えるのが、#19の記事にて取り上げた「Close to the Edge(危機 )」です。18分超の長い曲ですがとにかく聴いてみてください。


「燃える朝焼け」同様、高速のパラディドルプレイがこれでもかと繰り広げられます。手順は
RLRRLL(多分・・・)。00:57秒頃~と、14:15秒頃~にて聴けます。更にこのパートでは、所謂”ポリリズム”(異なるリズムの同居・混在)が駆使されています。
チタチチタタタチチタタチタチチタタタチチタタ(12/8拍子の16ビート)
タ ッ タ  ッ タ タ ッ タ  ッ タ (4/4拍子での所謂”シャッフル”)
赤で塗りつぶした箇所が2・4拍のアクセントです。上記の二つの異なるリズム、グルーヴが、アンサンブルの中でメンバー全員によって見事にプレイされています。この様なリズムトリックやポリリズムはロックにおいては、私が知る限りでは、本曲にて初めて行われたと記憶しています。ジャズ・フュージョンの分野では、60年代末以降のマイルス・デイヴィス、ウェザーリポート、マハヴィシュヌ・オーケストラなどによって導入されていたかも、というより、あった様な記憶があるのですが、それが思い出せません。
(歳を取るっていやですね・・・(´・ω・`))

もう一つ、彼のプレイにて重要な要素はファンク的な16ビートです。ブラッフォード流ファンクとでも呼べるプレイが存分に堪能できる私のイチ押しはこれです。キング・クリムゾン アルバム「Red」収録の「One More Red Nightmare」。


チャイナシンバルの音色が印象的なリズムパターン、アイデアの”てんこ盛り”の様なフィルイン。実はこの動画は途中でフェイドアウトされていて、これより後に、もう一度テーマのプレイが繰り返され、そこではまた前半とは違うフレーズがプレイされます。

またクラシックや現代音楽における打楽器や、短い期間でしたがキング・クリムゾンのアルバム「太陽と戦慄」で一緒にプレイしたジェイミー・ミューアの前衛的なパーカッションプレイも、彼のプレイにエッセンスとして加えられているのは間違いありません。そして、勿論ブラッフォードといえば言わずと知れた変拍子の使い手であり、これに関しては枚挙にいとまがありません。変拍子プレイは彼の演奏ではいたるところにて聴くことが出来ますが、お勧めするといえばベタな所ですが「太陽と戦慄 パートI」等、また前衛的なパーカッシヴプレイと言えば、#17の記事で取り上げた「Starless」での中間部のソロ、特にライヴアルバム「USA」のヴァージョンが白眉です。
彼の演奏技術に関して、こんな短い文章で語りつくすことは当然不可能です。しかしこのブログがそのほんの一端、さわりだけでも紹介することが出来、彼の素晴らしい数々の演奏に触れるきっかけになることが出来れば幸いです。

09年、60歳になったことをもって、演奏活動からの引退を発表しました。これはかねてから温めていた考えであると語っており、ファンとしては少し早いような気もしますが、本人の熟慮の上の決断なのですから、致し方無い事でしょう。

20回目にしてやっとドラムに関する記事を書くことが出来ました
(次はいつに
なることか・・・(´・ω・`))。
これにてビル・ブラッフォード編は終了です。

#20 Bill Bruford

イエス、キング・クリムゾン、ジェネシス、ナショナル・ヘルス、UK、と所謂”プログレッシヴロック”とカテゴライズされる、英国を代表するこれらのバンドに関わり、ブリティッシュロックの”生き字引”と行っても過言ではないドラマー、それが今回取り上げる ビル・ブラッフォード(Bill Bruford)です。

1949年生まれ。英国ケント州出身。幼少の頃からジャズを聴いて育ち、自然とドラムに親しむようになる。彼の名を一躍世間に知らしめたのは、言うまでもなく前回までの記事にて触れたイエスへの加入によってです。技術的にこれまでのロックドラマーとは明らかに一線を画していました。それは勿論ルーツにジャズがあるからであり、本人もその旨を公言しています。と、言っておきながら何ですが、技術の部分に関して述べるのは後回しにして、先ず触れたいのはその音色についてです。それまでのドラマー(ジャズ、ロック含めて)は基本的に、エレキギターで当然に行われているような、音色で個性を表現するというアプローチは無かったと断言出来ます。(もっとも普通の楽器はそれが当たり前であり、基本的にはその楽器のナチュラルな音色を最大限に引き出すことが至上命題なのであり、コロコロ音色を変えられるエレキギターや電子キーボードの方が特殊なのですが…)
ドラマーで初めて”意識的に”その音色に個性を持たせたのはブラッフォードが最初です。ちょっとまて!ボンゾのスネアの音や、あまりに強力なキックで歪んでしまった様なベースドラムのサウンドは個性ではないのか?と異論・反論があるのはごもっともです。しかしあれは”結果的に”あのようなサウンドになったのです。ボンゾ、ジンジャー・ベイカー、イアン・ペイス、カーマイン・アピス。皆24~26インチの特大のベースドラムに、22インチのこれまた口径の大きいトップシンバル、ドラムにはミュートなど一切せず、シンバルは床に対して平行にセッティングして減衰(サスティーン)を長くする、といった音作りは彼らがドラムを始めた頃にお手本としたビッグバンドドラマー ジーン・クルーパやルイ・ベルソンといった人たちのセッティングを模倣したものでした。これらは、まだPA環境が全然整っていないスウィングジャズ時代に、大勢の管楽器奏者達に音量で負けないために施された措置でした。それをジンジャーやボンゾ達が模倣し、今日では
ハードロックドラムの定番セッティングとなっているのです。
ただし、一人だけ例外と言えなくもないドラマーがいます。言わずと知れたリンゴ・スターです。タオルミュートなどの独特のアイデアで、ビートルス後期のサウンドにて、それまでのいかなるドラマーとも異なる音色を作り出しました。ただそれは、”ドラマー リンゴ・スターとして個性を発揮してやるぜ!” といった意図ではなく、その時期のビートルズの音楽性から自然と生まれたものでしょう(アルバムで言えば「Sgt.Pepper’s」以降)。それまでは”普通に”比較的ハイピッチの、ドラムの自然な鳴りを引き出すようなチューニングであったのが、後期は重く沈み込むようなローピッチの音色、先述したタオルミュートなど、軽快なロックンロールが主だった前期の音楽性とは、方向性が異なってきたバンドの音楽性に寄与するためのリンゴの試行錯誤の末の結論としての”あの音色”だったのでしょう。

以前BS-TBSで、洋楽の名曲が生まれた背景をドキュメントする番組があったのですが、イエスの「Roundabout」を取り上げた回で、ブラッフォード本人が出演し、あの当時使っていたスネアを紹介し、実際に叩いていました。その映像を見る限りではメーカーの特定は出来ませんでしたが、スティール(ステンレス)シェルのスネアでした。初期はラディックやハイマンを使用していたとのことなので、ラディックのLM-400あたりかもしれないと思っているのですが、知っている人いたらどうか教えてください。
(´・ω・`)
そのスネアの音は非常にハイピッチでありながらも”甘い”音がする、つまりハイのみでなく、ミドル~ローまでしっかり出ているということです。普通ドラムヘッドをただ”きちきち”にきつく張っても、”カッ” ”パッ”という、やたらハイだけの耳障りな音にしかなりません。しかも彼の場合は、オープンリムショット(ヘッドとリム=縁の部分、を同時に叩く。”カン” ”ゴッ”の様なけたたましい大きな音がします)をすることが非常に多く、ともすれば余計に耳障りになってしまいそうなものなのですが、それが全く感じられません。楽器全般に言えることですが、基本的に良い音色と感じるのは、ハイ~ローレンジまでバランス良くなっていることが必須です。勿論ある程度以上のスペックの機材であること、また同じ製品でも当たりはずれもあります。それらを前提として、更にチューニングの妙が彼にはあるのです。言わば”ブラッフォードマジック”とでも呼ぶべき秘伝のチューニングが。そしてこれも一流のプレイヤーに言える事ですが、例えそれまで使っていた機材と異なるものを扱っても、自分の音にしてしまう、こうなるとそのトーンは楽器の良し悪しだけでなく、演奏者の指・手・足、全てに起因するものと言えるでしょう。生半可なプレイヤーが一流のプレイヤーと全く同じ機材・セッティングにしても同じ音にならないのは当然とも言えます。
実際ブラッフォードは80年頃に日本のTAMAを使用するようになりましたが、その音色は基本的に、やはりそれまでと変わらぬ紛うことなきブラッフォードの音です。また、ロートタムをいち早く取り入れ、80年代に入るとこれまた先駆けてシモンズ(電子ドラム)を導入しました。これは勿論、彼が活躍していたフィールドが、プログレッシヴロックという多彩な音色によって成り立っている音楽である、という部分が大きかったのは間違いないことであり、自然と音色にも貪欲になっていったのでしょう。

ここまで偉そうに書いてきましたが、白状しますと実はかなりの部分で、ある方の著書から引用させて頂いております。
※「Basic Method」ベーシック・メソッド 製作 リズム教育研究所 編著 江尻憲和
https://www.dlmarket.jp/manufacture/index.php?consignors_id=13896
私がドラムを始めた80年代中期、ネットなど当然無い時代、ドラミングに関する情報は基本的に活字媒体によってしか得られませんでした。むさぼるように読んだこの教則本。江尻先生(勝手に先生呼ばわりしております…(´・ω・`))のドラミング理論は非常に合理的で、分かり易く、何しろ読んでいて楽しい。その他の著書も含めて、現在の私の血と肉になっているものと思っております。ブラッフォードに関する音色の話はその中のこぼれ話的な一つですが(そのこぼれ話の数々も大変興味深い、”金属にも意識がある?”のくだりは非常に興味をそそられたものです)、ドラムを始める前からイエスやクリムゾンを聴いて、ブラッフォードのドラムに関心を寄せていた私は、「そうか!他のドラマーと何か違うと感じていたのはそこだったのか!!」と納得しました。現在でも電子書籍で入手可能です(上のリンクから)。興味のある方は、というか、ドラムをプレイする人間は必読書と言っても過言ではないと思っております。

今回は音色の話だけでスペースを費やしてしまいました。本当は音色だけでもまだまだ書きたいことは山ほどあるのですが、あまり長くなるとただでさえ少ない読者の方に愛想をつかされてしまいそうなので、涙を飲んでこの辺で。
(´;ω;`)
次回はやっと、テクニック編です。”ビル・ブラッフォードpart2” 乞うご期待。