#9 Layla

クリーム解散後、ブラインド・フェイス、ジョン・レノン・バンド、デラニー&ボニー、その他一曲~数曲のみのセッションワークを含めると、挙げ切れない程、60年代末から70年初頭にかけてクラプトンはスタジオ及びライブで精力的に活動しています…いや、精力的というよりは、正しくは”やけくそ”、じっとしてはいられない、決して充実した音楽活動とは言い難い、満たされない思いを埋めるため、ドラッグとアルコールと共にやみくもに突っ走っていた、という表現の方が適当なのではないかと私は思っています(ただし、結果的に素晴らしい演奏として昇華されているものも少なくありません)。
その根底には、言うまでもなく、パティ・ボイドの存在があったからです。もし初めて知った方の為にざっくりと(後はご自身で検索を)、公私ともに、尊敬するミュージシャン、そして親友でもあったジョージ・ハリスンの妻を愛してしまったのです。親友の妻に対する、許されざる愛の葛藤から生まれた名曲「Layla」。これを全く否定するつもりは毛頭ありませんが、この三角関係に関しては、かなり美化して語られていることが多いように見受けられる為、若干、天邪鬼的な心持ちも込めて、知り得る限り客観的事実を。

ジョージとパティの結婚は66年、しかし天下のビートルズ ジョージ・ハリスン。女性にモテない訳がない、結婚後も他の女性との関係はあったそうです。一方、クラプトンもとにかくハンパなくモテる、当然本人もキライな方ではない、というか人一倍女性が好きな健全な男性でした(ひどい書き方だな…)。そして、パティも当時、ツイッギーと並ぶトップファッションモデルの中の一人で、当然、女性としての自意識は高かったでしょう。「アタシの旦那は、天下のジョージ・ハリスン。でも天才ギタリスト エリック・クラプトンもこのアタシに惚の字なのよ♡」といった気持ちがなかった訳ではないと思います。要は三者三様、異性関係にルーズだった、という側面は決して否定出来ないと思います。以前BSで、「Layla」が作られた経緯、その周辺のドキュメンタリー番組があったのですが、当時周りにいた関係者の証言によれば、最初にモーション(表現が古いな…)をかけたのはパティの方と言われています。ジョージが女性関係やその他で、最近自分に振り向いてくれなくなった、の様な相談を持ち掛けたのが始まりとか何とか。
クラプトンも後に率直に語っていますが、ジョージは大親友であったと同時に、大きな家、高級車、そして美しい妻を持っている、男として対抗心を燃やす対象でもあったようです。ある日クラプトンは、ついに意を決して、君の妻を好きになってしまった、と告白したそうです。当然ジョージは憤然として、その場を立ち去ったそうです(当たり前だ(´・ω・`))。
一方、パティの方はと言うと、自分で”色目”を使っておいたものの、タイミングが良いと言うべきか、悪いと言うべきか、クラプトンから”告白”された時は、ジョージとの関係が修復されてていた時期であったこともあって、その時は”ごめんなさい<(_ _)>”したそうです。

「Layla」や「Bell bottom blues」は、その様な時期に作られた曲です。さらに70年は、ジミヘンドリックス及び”父”であった祖父の死、と彼の周りで不幸が続きます。人間誰しも、肉親や近しい友人との別れ、また思い通りにならない事は、程度の差はあれ避けられない事なので、これらをもってクラプトンの麻薬や酒に対するのめり込みを、仕方のない事などと言うつもりは毛頭ありません。端的に言って、メンタルが弱かった、と言われてしまえばそれまでの事です。
また「Layla」を語る際、この三角関係を、”親友の妻を愛してしまった男が、苦しみの中から創り上げた狂おしいほどのラブソング”の様な、かなり美化されて紹介されているのがしばしば見受けられますが、(当たり前ですが)実際はそんな物語のような話ではなかった様です。

ここまでこんな書き方をしてきて言うのもなんですが、この曲が、ここまで多くの人々を現在に至るまで魅了してきたのは、やはりクラプトンのパティに対する想いだと思います。「オマエ、さっきまで随分、幻滅させる様なことばかり書いてこなかったか?( ゜д゜)」
と言われても無理ないことなのですが、しかし、やはり、この曲には何か言いようもない、得体の知れない力が宿っているのではないでしょうか
。勿論、楽曲が優れていることは言わずもがなです。非常にキャッチーで、それでいて思わず拳に力が入ってしまう様な、あの印象的なリフが何より、と思えば、歌のパートに入ると転調するといった、一筋縄ではない構成になっており、そして後半のピアノから始まるパートへと、異なる曲をつなぎ合わせたアレンジなど。ただの凡庸なR&Rやブルースに終始してはいません。
しかし(本当に私、この曲をdisってる訳じゃないんですよ、鼻血が出るほど好きです(´・ω・`;))、スティービー・ワンダーやエルトン・ジョンなどの数多の名曲と比べて、単純に、音楽的に楽曲だけを取り上げた場合、同列に挙がる曲かと言われると、残念ながらそうではないと思うのです。じゃあ、何故、この曲を聴くたび血沸き肉躍り、随分長い事聴いてきたにも関わらず、時にはこんなオッサンの涙腺を崩壊させるのか、月並みな言葉になりますが、やはり、この曲にはHEART、そしてSOULがあるから、という一言に尽きると思うのです。
さらにタイミングが良かった。クラプトン自身のコンディション、出会えた仲間たちなど。自身も後に語っていますが、ギタリストとして一番ノっていた時期が、デレク&ザ・ドミノスの頃であった。歌は、ドラッグとアルコールでかなり苦しいそうな歌い方に聴こえなくもないですが、ギリギリの感じで、より切なさが増すような声になっていると思います。あと1~2年遅かったら、酷い状態になっていました。実際72年は全く活動をせず、未成年の少女と隠遁生活に陥っていました。デラニー&ボニーから”引き抜いた”、ウィットロック、レイドル、ゴードンという、素晴らしいリズムセクション。名プロデューサー トム・ダウドが関わったこと、そして何よりも、本アルバム「Layla and Other Assorted Love Song」の楽曲の殆どに参加し、クラプトンと共に素晴らしいプレイを繰り広げたデュアン・オールマンの存在があります。

”三角関係”等の経緯の話でスペースを費やしてしまい、本作の音楽的部分等にはあまり触れることが出来ませんでした。で、二回に分けます。ちなみに少しだけ「Layla」以降の話を。ジョージとパティの間はまた冷え込んでいき、パティはロン・ウッドと浮気を、ジョージはリンゴの奥さんとこれまた関係を、結局二人は74年に離婚。クラプトンは徐々にパティにアプローチしていき、離婚後に同棲を始め、79年に遂に結婚。しかしクラプトンもその間、パティ一筋だったかというと、”当然”そんなことはなく、星の数ほどの女性と付き合っていたそうです(もう何がなんやら…(´Д`))。

やはり一回でこの話を書き切るのは無理でした
(だから言ったでしょ、長くなるって・・・( ̄m ̄*))

次回、その2へ。次は本作の音楽的部分・制作経緯等を。
(二回で終わるかな~… (´・ω・`))

#8 Crossroads

ロンドンのやや南に位置するリプリーという町に、1945年3月30日、一人の男の子が誕生しました。母親が十代半ばという若さでの出産だった故、祖父母を両親、母を姉、そして叔父を兄として、少年はある時期まで育てられました。”兄”エイドリアンが音楽好きだったため、ベニー・グッドマンなどのジャズ、初期のR&Rといったアメリカ音楽を、その少年は”兄”の影響あって聴き育ち、やがてその中の一つである” ブルース ”に少年は魅せられてしまいます。中古で買ってもらったギターで、ひたすら寝食を忘れて練習する日々が続きました。少年の名はエリック・パトリック・クラプトン。言わずと知れた”ギターの神様” エリック・クラプトンその人です。

クラプトンの公式な音源として最も古いものは、63年12月にアメリカのブルースマンサニー・ボーイ・ウィリアムソンのバックをヤードバーズの一員として務めたものです。ここでのプレイは決してその後の様なものではなく、クラプトンだと知っていて聴けば、その後の片鱗を見い出せるかな、といったプレイであり、知らずに聴いたら、言い方は本当に申し訳ないですが、凡庸なブルースギタリスト、といった印象を個人的には受けるものです。実際、ウィリアムソンは「ロンドンでブルースを演っているという若い連中とプレイしてきたが、退屈な演奏だった」の様な旨を後に語っていたそうです。(余談ですが、その語った相手は後にクラプトンにも多大な影響を与える「ザ・バンド」のメンバーでした)。ところが翌64年3月、「Five Live Yardbirds」においては、技術面・フィーリング等において、クラプトンのスタイルは基本的に完成されています。このたった三ヶ月ほどの間に何があったのか?ある著書で述べられていたことですが、”まさしく「十字路」で悪魔に魂を売り渡す契約をしてしまったのではないか?それ程までに驚くべき進歩だ” とでも思わざるを得ないほどの劇的な成長なのです。

”ポップ化”していくヤードバーズに嫌気が差し、当時イギリスにおいては、希代のブルースコレクターでもあった、”ブルースの師匠” ジョン・メイオールのバンドに参加し、ここでレスポール&マーシャルアンプという、その後のロックギターサウンドに多大な影響を与えるトーンを創り出します(クラプトンの使用機材遍歴については、語っているとそれだけで一冊本が書けてしまうので、今回はあまり詳しくは記さないこととします)。その後、”最強のロックトリオ” クリームを結成し、大きな話題を集めます。
このバンドの様な長い即興演奏は、人によって好みが分かれる所でしょうが、ロックにおいて、ブルースをベースに各メンバーの力量を思う存分振るう、といったスタイルの音楽は当時としてはかなり斬新であり、また衝撃的だったことでしょう。

ロバート・ジョンソン 作の「Crossroads」。アルバム「Wheels of Fire」に収められているこのライブ演奏は、50年近く経った現在でも、クラプトンの、というよりロック史に燦然と輝く名演として取り上げられるプレイです。この時期の本曲の演奏はブートレグを含めて、幾つか聴くことが出来ますが、本作収録の68年3月10日ウィンターランドでの演奏が白眉です(だからこそ収録されたのでしょうけれども)。
ヘヴィメタル・ハードロックを好んで聴く方達からすると、”そんなに速く弾いてないじゃん”と思う向きもあるかもしれませんが、このフレーズセンス、音色、そしてグルーヴの素晴らしさが、半世紀を経た今の世でも語り継がれる理由でしょう。ジミ・ヘンドリックスのような革新的なプレイではありませんが、流麗で艶っぽく、時に泣き叫ぶ(またはむせび泣く=ウーマントーン)様なクラプトンのプレイが、多くの人たちの心を掴んで離さないのでしょう。
この当時でも、クラプトンがロックギタリストの中で最も上手かった(速く、複雑、かつ正確に演奏する、という意味における技術において)かというと、必ずしもそうではないと思います。既にデビューしていた中では、例えばイエスのスティーヴ・ハウ、テンイヤーズ・アフターのアルヴィン・リーなどは、その意味のテクニックにおいてはクラプトンより上だったかもしれません。また先述したザ・バンドのロビー・ロバートソンもかなりの技巧派だったようです。
なぜクラプトンが同時期に活躍していた彼らよりも突出して注目を浴びるようになったのか?私見ですが、”分かり易さ”だと思っています。シンプルであるが、それでいて人間の根源的な感情に訴えかけてくる様なマイナーペンタトニックスケールに根ざしたフレーズ(演歌民謡に通じる様な)、うっとりするほど綺麗なチョーキングビブラートなどは、かなり長い年月を聴いてきた現在でも今だに惚れ惚れしてしまいます。スティーヴ・ハウはバリバリにクラシックを、アルヴィン・リーはジャズをかじっていた人なので、テクニックのバックボーンはクラプトンとは異なる、というか上であったと言っても良いでしょう。Charさんが以前テレビにて、「自分がどうして少年時代、あれほどクラプトンに魅かれたのか、それはフレーズが全部口で歌えた、からではないかと思う。当時はまだよく分からなかったが、クラプトン自身もシンガーであることに起因していたのではないか」の様なことを仰っていました。口で歌える、言い換えれば「歌心があるギター」と言えるでしょうか。
ハウやアルヴィンのクラシック・ジャズ的要素は、ポップミュージックにおいては、時に容易な音楽的理解を妨げる、有体に言えば、分かりずらい・難しい、という側面も持ち合わせしまっています。さらにもう一つ、これを言ったら身も蓋も無い事なのですが、クラプトンは見た目が良かった、という点もあったと思います。あのルックスで、あのギターの腕前で、人気が出ない方がどうかしてしている、と言って良い程でしょう。ハウやアルヴィンがもっとイケメンだったら、少しロック史が違っていたかもしれません(お二人とも、本当すいません <(_ _)><(_ _)><(_ _)>)。

人間関係等からバンドが長続きせず、またザ・バンドの様に歌と音楽に心を注ぐ方向を目指したくても、テクニック面のみに注目が集まってしまい、音楽そのものに対する評価が得られない状況などにストレスを抱え、クラプトンはドラッグとアルコールに溺れていきます・・・・・それだけではないですね。当然ご存じの方は「一番大きな問題があっただろう!」とツッコミが入るでしょう。
それは次回のネタですので……… あまりにも有名なエピソードですので、普通に語られているのとは、ちょっと変わった切り口でその件については書いてみたいと思っています。

もっと簡潔に書くつもりだったのですが、随分長い文章になってしまいました。おじさん、クラプトンの事になると筆が止まらなくなっちゃうんです。
(´・ω・`)
次はもっと長いかもしれません。覚悟していなさい。

#7 There and Back

78年暮からヤン・ハマーと共にレコ-ディングに取り掛かった、本作「There and Back」は、一度制作が中断され、79年6月からジェフは再びツアーに出ることとなります。ウィキ等では、その仕上がりに満足がいかなかった為と述べられている所ですけれども、真偽の程は不明ですが、実はヤンが他のメンバーの彼女に手を出したことで、人間関係に亀裂が生じたことによる、という話もあります。いずれにしろツアー終了後に、共演したトニー・ハイマス(key)、サイモン・フィリップス(ds)そしてモー・フォスター(b)というオール英国人の布陣で制作が再開されました。ハイマスは王立音楽院卒のエリート、フォスターはイギリスのジャズロックシーンにおいて名うてのセッションベーシスト、そしてサイモンは70年代後半から、イギリスプログレ界のスター達が集結した「801 Live」や、マイク・オールドフィールドのアルバムなどで、めきめき頭角を現しつつあった新進気鋭の若手セッションドラマーでした。

 

 

 


①~③がヤン加入時、④~⑧がその後、と曲順の並びで分かり易くなっています。しかしそれによって、ガラッと楽曲・サウンドの印象が変わっているという事はなく、本作全体に”孤高のギタリスト ジェフ・ベックが紡ぎ出す宇宙的音世界”とでも呼ぶにふさわしい、独特で一貫した印象の素晴らしいアルバムに仕上がっています。ジェフは、全く出来ないというわけではないでしょうが、アレンジ・プロデュースといった能力にはあまり長けていない、根っからの”ギター職人”の様な人なので、本作の統一感は、ハイマスが、ヤンの作って行った楽曲・サウンドのコンセプトを踏襲した、またプロデューサー ケン・スコットによるものかと思われます。スコットは、ビートルズのエンジニアとして有名なジェフ·エメリックとともに、アビーロードスタジオで仕事をしていました。エメリックと同様、特に後期ビートルズのサウンドメイキングに関わった人物です。
「Star Cycle」は、私を含めたオッサン世代は耳にしたことがあるはず、プロレスがまだゴールデンタイムでテレビ放映されていた頃、新日本プロレスのオープニングテーマに使われた曲。ちなみにこの曲、ドラムはヤンによるプレイ。前作でも叩いていますが、それはとても上手いのですが、やはり本職ではない人、特有の感じがありました。(もっとも、S・ワンダーなどもそうですが、本職でないプレイヤーは目からうろこ的な、大胆でシンプルなフレーズをいともあっさりとプレイしてしまったりして、非常に驚かされることがあります。また、ヤンもスティーヴィーも、そのグルーヴは素晴らしいものです。)しかし、本曲におけるドラムは上手過ぎます。恥ずかしながら、かなり長い間、サイモンのプレイだと信じて疑わなかった程です。ただ、それ以外の曲とは少しドラムの音色が違うな、と感じてはいましたが。
「Space Boogie」におけるサイモンの怒涛のプレイが有名ですが、「The Pump」「The Golden Road」などでのセンシティブなプレイも必聴ものです。サイモンのドラミングに関しては、ここで語り尽くすにはスペースが足りないので、是非また別の機会に。

R&R、ブルース、R&B、ファンク、そしてジャズ・フュージョンと、様々なスタイルを経てきたジェフですが、本作にてその後のサウンドが確立された様に思います。全編インストゥルメンタルであるのは前2作同様ですが、本作はジャズ・フュージョンとはカテゴライズ仕切れない、まさしく、”ジェフ・ベック・サウンド”としか言いようのない音楽が成立しています。
エリック・クラプトンと同じく、ジェフのプレイが、ブルースにそのルーツがあることは間違いないのですが、オーソドックスな、ペンタトニック・スケールに根ざしたブルースを追及するクラプトンに対して、ジェフは(クラプトンに比べれば)トリッキーで、革新的なサウンド・奏法(機材の扱いを含め)を追い求めてきた、と言えるでしょう。ジミ・ヘンドリックスと共にロックギターに革命を起こした、と常々評されるのは衆目の一致するところです。
つい先日、来日公演を果たし、その際のインタビューにて「尊敬する友人であり、勿論最高のギタリストであるが、エリック(・クラプトン)みたいに同じスタイルの音楽(ブルース)を延々とやり続けるのは自分には出来ない、音楽で実験することを楽しむタイプなんだ」と語っていました。無論どちらが良い悪いということではありません。ですが、72歳で” まだ新しいことやるんすか!! (゜ロ゜) ”というのは驚愕です。
顔のシワこそ深く刻まれてはきていますが、まだまだ”ロック”しているジェフを見ていると、自分もこんな年寄りになれれば良いなと、少しでも近づくことが出来ればと思い、日々練習に励むようにしております。

3回に渡り、ジェフ・ベックについて書いてきましたが、具体的な奏法・テクニック面についてあまり触れることが出来ませんでした。その辺は是非また別の機会にて、という事でジェフ・ベック編はひとまず終了です。

#6 Wired

ジェフ・ベックが「Blow by Blow」を制作するに至ったのは、その当時、マハヴィシュヌ・オーケストラなどのジャズロックに傾倒していた為で、G・マーティンにプロデュースを依頼したのも、彼が当時、マハヴィシュヌの最新アルバムを手がけたことが理由と言われています。そして、本家マハヴィシュヌのオリジナルメンバーヤン・ハマーもプロデューサーに迎えて作り上げたのがこの「Wired」。
前作よりも、アグレッシブな”バトル”色が強まった感があるのは、ヤンの加入があったことによるものかと思われます。オープニング曲「 Led Boots」のドラミングを聴いて、「何じゃ、こりゃ~!Σ(゚◇゚;)」と、かなりの方がぶっ飛んだのでは。その後80年代からは、ホイットニー・ヒューストンなどのプロデュースで有名になるナラダ・マイケル・ウォルデン。ミュージシャンとしてのキャリアのスタートはあくまでドラマー。当時、マハヴィシュヌにいたナラダをヤンが引っ張って来たのでしょう。
前作から引き続き、マックス・ミドルトン(key)もほぼ全編に渡りプレイしています。
本作ではクラヴィネット・エレピにて殆どバッキングに徹していて、シンセでの目立つソロはヤンによるものと思われますが、二人のプレイスタイルを聴き比べるのも、また一興です。(一例として「Play With Me」にて、クラビネットによるイントロ~バッキングがミドルトン、シンセでのソロがヤン)ヤンは「Blue Wind」にてドラムもプレイしており、これが結構上手い、天は二物をうんちゃら…ってのは絶対ウソです。

 

 

 


本作中、唯一のカバー曲「Goodbye Pork Pie Hat」はジャズベーシストチャールズ・ミンガス作のものですが、他の曲における派手なプレイに耳を奪われがちですけれども、本曲中でのジェフのプレイ、とりわけ音色、場面場面におけるそのトーンセレクションは素晴らしいの一言に尽きます。ジェフの多彩なトーンコントロール、そのチョイスの巧みさは、彼の特徴としてよく挙げられる所ですが、本曲におけるそれは、個人的にはジェフの全プレイ中でも一二を争うものだと思っています。ドラムは更に、これも前作から引き続きのR・ベイリー、LAのセッションドラマー エド・グリーンも参加していて、非常に贅沢なリズムセクションのラインアップとなっています。

ロック畑のプレイヤーが、ジャズ・フュージョンの人たちと組むと、そのテクニックに”喰われて”しまうこともあるのですが、ジェフの凄い所は、それをものともしない堂々っぷりではないでしょうか。速く、複雑に、かつ正確な演奏をする、という技術の点においては、ジェフはヤンやナラダより、率直に言って明らかに劣っています。しかし全くそんなことに気後れもせず、”これが俺の音だー!”と彼にしか弾けない唯一無二のプレイを、これらの猛者に対しても何の躊躇いもなく演奏しているように聞こえます。(ただ意外にも、G・マーティンのコメントによると、ジェフは案外、自分のプレイに「これで良かったのだろうか?」と後から悩む一面もあったとの事)更に言えば、ジェフは音楽面にて「俺が!俺が!」的な性格では決してなく、例えば「Play With Me」において、ジェフはテーマを弾く以外はカッティングに回っていて、ヤンのソロの方がフィーチャーされています。これはコメントなどの裏付けがあるわけでなく、あくまで私の憶測なのですが、この曲において、ジェフは決して”喰われて”しまった訳ではなく、制作段階にて、「この曲は君(ヤン)のシンセのプレイを際立たせた方が良い、俺はバッキングに徹した方が良いと思う。」の様なやり取りがなされたのでは、と勝手に思っています。そしてそれは見事な演奏として成功しております。我が強いと言われているジェフですが、
前回の記事で記した通り、マーティンの提案をあっさりと受け入れたエピソードなどからも、ジェフはそれが良い結果をもたらす事なら、全く意に介せず、引くところは引くような人なのではないでしょうか。
「それがどうした?グッドサウンド・グッドミュージックならイイじゃん!」
の様な感じで。ただし、自分が(音楽面、それ以外でも)納得いかない事は、テコでも譲らない性格故に、周囲との衝突も多かったので、と思うのです。

#5 Blow by Blow

恐らく一人か二人しかいないと思いますが(…いなかったりして…(´;ω;`))、このブログを一回目から読んで下さっている物好……オールド洋楽ファンの中にはお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、このブログ、何かしら前回から関連するテーマを引き継いで書いております。今後もそのように続けて行こうと、(あっ、でも公言しといて、やっぱり出来なかったりしたら格好悪いんで、….゚。(゚Д゚;)≡(;゚Д゚)・。゚・・・)
思っていますん!! (・`ω´・)✧

という訳で、今回はG・マーティンつながり。ビートルズ以外のプロデュースワークで、まず挙がるのはこれでしょう。ジェフ・ベック「Blow by Blow」。70年代のフュージョンブーム(当時の言葉でクロスオーヴァー)の火付け役となった一枚。
そのわがま……自由奔放な性格故に、バンドが長続きせず、ソロ名義で初のアルバムとなった本作は大ヒットしました。個人的な事ですが、私がジャズ・フュージョンのドラムに開眼させられるきっかけとなった一枚です。本作を耳にしたのは、高校に入学してドラムを始めた頃、それまで聴いていたロックのドラミングとは何かが違う、当時はまだ分かりませんでしたが、それがダブルストロークやパラディドルといった”ルーディメンツ”、複雑な両手両足のコンビネーション、所謂”4WAYインディペンデンス”によるものだと理解できるのは、もうすこし後の事でした。

 

 

 


”第二期ジェフ・ベック・グループ”からの盟友 マックス・ミドルトン(key)、セッションベーシストのフィル・チェン、そしてレコーディング時若干18歳のリチャード・ベイリー(ds)という布陣。本作におけるベイリーのドラミングはまだ超絶技巧といったものではありませんが、緻密に練られたフレージング、その音色とグルーヴは非常に素晴らしく、この強者達と十分、いやそれ以上に互角に渡り合っています。
ジェフのプレイにおいては、スティービー・ワンダー作の「Cause We’ve Ended as Lovers」(哀しみの恋人達)における、俗に言う、”泣きのギター”が有名ですが、そのサブタイトル「ロイ・ブキャナンに捧げる」にて、殆どのロックファン(私も)は、ロイの名前を知ったのではないでしょうか(ロイについては是非別の機会に)。”意外”な事に、ジェフはマーティンの提案などを驚く程素直に受け入れていたそうです。「Scatterbrain」 「Diamond Dust」におけるストリングスアレンジはマーティンからのものだったそうですが、最初、ジェフから反発があるかと思っていた所、彼は微笑みを見せ、「うん、あなたがそういうなら、
それでいいんだろうね」と言ったとの事。そしてその出来上がりにジェフはとても驚き、そして興奮したそうです。実際にこの2曲における演奏及びアレンジは見事としか言いようがありません。
ミドルトンの存在も大きく、楽曲の提供は勿論、マーティンの考えをジェフに分かり易く伝える”仲介役”の役割を果たしてくれた事が、本作の音楽的成功に寄与したとの旨をマーティンは後に語っています。
トリビア的な事ですが、「哀しみの恋人達」と並んでもう一曲のスティービー・ワンダー作による「Thelonius」、これはクレジットはされていませんが、実は本曲でのクラヴィネットはスティービーによる演奏とのこと。元々はスティーヴィーのアルバム「Talking Book」のアウトテイクだったそうです。

全くの余談ですが、私ずっと「Blow by Blow」の意味を、風が次から次へと、びゅーびゅー吹いている様を表す熟語だと思っていました。が、今回ブログを書くにあたって調べてみたら、”(ボクサーの一挙一動を解説するように)「非常に詳細な説明」、「詳細に・詳しく」”といった意味だというのが初めて分かりました。”風”ではなく、ボクシングの”パンチ”の方のBlowだったんですね。「Scatterbrain」などは”風”の方がむしろぴったりな曲なんですが・・・。
三十年以上、ずっと間違ってたんですね………… (´・ω・`)
ジェフ・ベックネタはもう少し続きます。

#4 Abbey Road

意外と知られているか、いないか。発売順では「Let it be」が最後ですが、録音された時点においては、本作「Abbey Road」が実質的ラストアルバムだと言われていました、少なくとも80年代までは。
しかし90年代に入って、「Let it be」に本作後の音源が含まれていることが判明し、何をもって実質的ラストアルバムか、というのがちょっとした議論になりました。しかし四人とプロデューサーG・マーティンが、”一応”一丸となって、一つのアルバムに取り組んだという意味においては、本作を実質的ラストとして良いと私は思っています。そして、このバンドがエルヴィス・プレスリーと並んで、ポップミュージック界を代表する存在として、いまだに神格化されているのも、本作があったからこそではないか、と思うのです。
気持ちがバラバラになっていたメンバー達が、ポールの「もう一度」という声かけに応じ、とても解散寸前のバンドとは思えない、この様な大傑作を作ってしまった。もし、ホワイトアルバムの後、”ゲット・バック・セッション”が頓挫し、「Let it be」がリリースされたにしろ、されなかったかにしろ、いずれにしろ、そのまま尻切れトンボで終わっていたとしたら、これほどの伝説的存在にはなっていなかったのではないでしょうか。

 

 

 


あくまで私見ですが、本作を大傑作たらしめているのは、B面途中からのメドレーによるもので、そしてそれは主にポールとG・マーティンの功績、と思っています。” ちょっとまて、ジョンの曲も素晴らしいのは勿論、ジョージは「Something」と「Here Comes the Sun」でソングライターとしての才能が開花した。そして、リンゴのプレイは、グルーヴ、フレーズのセンス、そしてそのアイデアにおいて、もはや円熟の域に達しているではないか。” といった意見が出るのはごもっとも。異論は大いに認めます
(…………でもお手柔らかに♫ (ゝω・)v …………)

ポールから「もう一枚レコードをプロデュースして欲しい」と声がかかった時、ゲット・バック・セッションが悲惨な結果に終わり、ビートルズとして、彼らから声がかかる事はないと思っていたマーティンは驚き、そして、四人がまとまって制作に取り掛かり、そして”本当の意味で”(バンド内のいざこざのツケが押し付けられるだけの役目ではなく、音楽的に)プロデュースさせてくれるなら、との条件で引き受けたそうです。
多分初めは疑心暗鬼だったのではないかと思います。しかし、制作が進むにつれ、「こいつは凄いのが出来上がるかも」という思いが胸中に芽生えていった(勿論メンバー達にも)のではないでしょうか。
B面メドレーは、一つ一つの楽曲がそれ単体では完結しなかったことにより、その結果としてあの様な形になった、と言われています。が、一部には、
いや、少なくともポールの楽曲に限っては、初めからその構想が
あったんじゃないか?と、これまたマニア達には議論の的です。
制作途中にジョンが交通事故で入院するといったアクシデントもあり、私は前者の方が真相ではないかと思っていますが、そのアクシデントまで含めて、全てが良い方に向かうように、制作時には”風”のようなものが吹いていた気がしてなりません。私は無神論者で、運命論など微塵にも信じない不信心者ですが、音楽の神様か何か分からないが、”上の方にいる見えない何か”から、「おまいらに最後もう一度傑作を作るチャンスをやるよ (゚Д゚)ノ⌒○」
の様な力が働いたのでは、と思わざるを得ないことが稀にあります。
勿論それは、基本的に関係者全員の才能及び努力によるものだというのは言わずもがなですが・・・

その後、70年4月にポールが脱退を表明、裁判沙汰や、その後もメンバー間の確執が残るなど、決して有終の美を飾った終わり方ではないですが、年が経つにつれ徐々に仲直りすることが出来た様で、近年のインタビューにてポールは、「ジョンが亡くなる前に仲直り出来て良かった」の様なコメントを残しています。昨16年には、G・マーティンも亡くなり、携わった人達がいなくなっていくのは誠に寂しい限りですが、ポールとリンゴはいまだ現役で活動しています。なにより、ビートルズがその終焉を迎える前、一時ではあったにせよ、奇跡の様な音楽が作り上げられた幸福な時間を、本作を聴くたび、後世の我々も共有することが出来るのです。
これはちょっと素晴らしいことではないでしょうか。

#3 Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band

ビートルズファンの間で議論になる定番ネタとして、前期・後期いずれの方が好きか?というのがあります。永遠に尽きないネタですが、その分かれ目は「Rubber Soul」より前、それ以降、として良いと私は思っております(これ自体議論のネタですが)。そして、後期、というより全キャリアを通しての最高傑作と評されるのがこの「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」どのアルバムが一番好きか?というのも定番ネタで、必ずしもこれ、という人ばかりでないでしょうが(私もその一人)、その後のポップミュージックを劇的に変化させたアルバムであるのは間違いありません。

当初、制作は架空の”ペパー軍曹のロンリーハーツクラブバンド”というショー仕立てのストーリーを持った所謂「コンセプトアルバム」として始まりました。しかしレコード会社の(マネージャーB・エプスタインとの説も有)”レコード早く出せ!早く売れ!”の圧力によって、「Strawberry Fields Forever」「Penny Lane」を切り売りされてしまったことにより、特にジョンが、コンセプト云々としての制作意欲を削がれる結果となりました。ジョンは後に「あのアルバムがコンセプトアルバムなんて言われるけど、そんなつもりで作った訳ではないんだ。せいぜいタイトル曲のリプライズがB面最後の方に入っているくらいさ」などと、インタビューにて、いかにも皮肉屋のジョンらしいコメントを残しています。
よくロックを革命的に変えたと評されますが、その主な”革命性”を簡潔に、具体的に一つずつ列挙すると(曲名長いので収録順のみ記載)、
◆①テーマから、架空の”ビリー・シアーズ”というシンガーのショー②へと繋がる、また⑫にてオープニングテーマのリプライズ、そしてレコードジャケットまで含めて一つの作品、というトータル・コンセプト性
◆隠喩的にドラッグについて歌った②③⑤
◆パイプオルガンの演奏を録音した磁気テープをバラバラに切り刻み、繋ぎ合わせてSE(サウンドエフェクト)的に使用した⑦
◆インド音楽のフレーバー(ラーガロック)を取り入れた⑧
◆異なる2曲を繋ぎ合わせた⑬その実験性の例として、よく⑦のSEが挙げられますが、これが本作を傑作たらしめているということではなく、出来る事は何でも試してみよう、という制作時にみなぎっていた”機運”をあらわす象徴的出来事として捉えるのが適当でしょう。

 

 

 

しかし後の世に生まれた世代の残念な所は、これらを発売当時の人々程の、衝撃・感動をもって聴く事が出来にくいのではないか、ということ。なぜなら、ここで行われたサウンドアプローチ・手法などは、後のミュージシャン達によって、子引き・孫引きの形で踏襲され、後世のリスナーは本アルバムを聴く以前に、大抵はどこかでそれを耳にしてしまっているからです。また⑦のSEなども、後の世、特に80年代以降なら、もっと劇的かつ効果的なSEを(しかももっと容易に)作り出すことが可能になりました。
しかしながら(
映画に全く詳しくないのでが)、初期のディズニー映画やゴジラなどの特撮物は、そのアニメーション技術・特撮効果といったテクノロジーにおいては、後世とは比較にならない程チープなものでしょう。しかしそれらや本作は時代を超えて名作と親しまれています。その理由は、先駆けとなった精神性、またなにより、そのストーリーや楽曲が優れている、といったテクノロジー云々以前の要素は勿論の事、そして本作に関しては、質の高さとエンターテインメントが両立している、という面があります。「内容は高度だけど、玄人にしか受けない」、「面白いけど売れ線だな」といったものは他にありますが、これが両立しているのはロック・ポップスにおいても、あまり多くないのではないかと私は思っています。

ビートルズネタは難しいです。私などはマニアとまでは言えない普通の一ファンに過ぎないので、客観的事実の誤りは勿論、主観的意見を述べただけでも、日本に限っても巨万といるビートルズマニア達から、「それ間違ってるよ!」「何言っとんじゃ、ゴルァ!!」
(#゚Д゚)・・・・(((((゚Å゚;)))))

といった事になりかねません。(ウソですw。ビートルズファンにそんな怖い人達はいません。…………………いないんじゃないかな…………)

本作の音楽的・商業的成功とは相反して、その後、バンド内における亀裂の深まり、B・エプスタインの死など様々な理由により、その活動は徐々に終焉へと向かうことになります。

#2 Pet Sounds

例えば”ロック名盤100選”の様な本があったとしたら、ビートルズのサージェント・ペパーズと並んで、必ず最初の方に載っているアルバム。日本では、山下達郎氏、評論家の萩原健太氏などによって、専門誌・ラジオ等の媒体で評価されることによって、認知度が上がりました。しかしながらこのアルバム、洋楽に割と精通している人でも、”「Pet Sounds」は理解できない”、という人が結構います。萩原さんが以前、専門誌で以下の様な趣旨の事を書かれていました。「このアルバムはロックとは言えないかもしれない、これはG・ガーシュインやL・バーンスタインといった音楽家達の流れを汲んだ、当時におけるブライアンなりのアメリカ音楽の集大成の様なものではないか」とても的を得た評価だと思います。ロックのカテゴリーに収まりきるものでは
ないからこそ、ロックファンには受け付けない人がいるのかもしれません。それでも当アルバムに対する評価は先のお二人をはじめ、その他のミュージシャン・ライター達の”啓蒙活動”によってか、日本でも名盤と評されることが揺るぎないものとなりました。達郎さんなどは、あまりにもその評価ばかりが一人歩きした為か、
以前ラジオにて次の様な事を仰っていました。「日本じゃビーチボーイズって言えば、ペットサウンズ、ペットサウンズってばかり言われますけどね、彼らはそれだけじゃないんですよ!…………まっ、私もその片棒担いでいる一人なんであまり言えませんけど………」
自覚あるんじゃん……達郎さん………(´・ω・`)

 

 

 


このアルバムを音楽的に分析・解説しているサイトは山のようにあるので、私が今更、四の五のそれについて語るのは控えます。また音を文章で語るのは、難しく、時として野暮になってしまうことがあります。…… と、これだけ伏線張っとけば十分でしょうか?音を文章で語りますね(´・ω・`) 「Pet Sounds」を形容するなら、”脆く、儚く、絶望的なまでの美しさに満ち溢れたアルバム” とでも言いましょうか。達郎さんはライナーノーツにて” 浮遊感 ”という言葉を使われていました。実に言い得て妙な表現だと思います。
このアルバムは、それまでの”ビーチボーイズ=サーフィン・車・女の子”といったイメージとかけ離れていたため、レコード会社側が難色を示しました。実際、本国では当初、セールス的にもそれまでと比べて振るわなかったようです。しかし面白いことに海を渡ったイギリスにおいては、好意的な評価を得て、特に同業者達には衝撃を与えた様です。ビートルズ(特にポール)はこれに大いにインスパイアされ、サージェント・ペパーズの制作へと向かい、ミック・ジャガーは、ロンドン中の知り合いのDJ達に、このアルバムをかけろ、と言って回ったとか。36分余りに渡るこの夢の様な音楽は、エンディング「Caroline, No 」の後、列車の通過音、それに続く犬の鳴き声にて、唐突に終わります。まるでブライアンに、「おまいら、ショーはこれにて閉幕だ、とっとと現実に戻れよ」と突き放されているかの如く。我々は夢から覚めるのを余儀なくされます。

周囲から思った程の評価を得られず、更に心身の状態が悪化したこと等から、次作「Smile」は”世界一有名な未完のアルバム”となってしまいました。片や海の向こうでは、ビートルズがサージェント・ペパーズを発表し、”ロックを芸術の域まで高めた画期的アルバム”の様な称賛を浴びます。これ以降、ブライアンは隠遁生活に陥り始めるようになり、80年代後半まで積極的な活動は徐々になくなっていきます。
一時期は廃人同様となり、ウィルソン三兄弟では一番初めにダメになるかと思われましたが、皮肉なもので、弟のデニス、カールが先に亡くなり、ブライアンが最後まで残りました。
88年、1stソロアルバム「Brian Wilson」でカムバックを果たし、04年、先述の「Smile」が日の目を見ることとなり、ブライアンは今日も音楽活動を続けています。ポール・マッカートニーと並び、ポップミュージック界における現役最古参の一人です。御年74歳、一日でも長く活動を続けて欲しい、というのが世界中のファンの願いであることは間違いありません。

最後に、このアルバムを拙い語彙力にて、美辞麗句を並べ立ててお薦めしようと試みましたが、無理そうなのでシンプルに締めたいと思います。素晴らしいアルバムです。是非聴いてみてください。

#1 Fun Fun Fun

記念すべき、我がfドラムスクールのブログ第1回目は、ウチのキャッチコピーにもなっている「Fun Fun Fun」について。”ドラム・ギター教室のブログなのに、演奏技術や楽器についてではないのか?”というお声も聞こえてきそうですが…、そのうち書きます………
多分(´・ω・`)
言うまでもなく、アメリカのロックバンド ビーチボーイズ初期の代表曲。チャック・ベリー風ギターイントロから始まるこの曲、一聴すると当時流行のサーフィンホットロッド(所謂テケテケサウンド)の様ですが、一筋縄ではないコード進行、フォー・フレッシュメン等に影響されたコーラスワークなど、他とは一線を画しています。そのイントロについてですが、これより前の、やはり代表曲「Surfin’ USA」にて、実はチャック・ベリーと盗作騒ぎで裁判沙汰になっています。共作者としてチャックの名前をクレジットに入れるという事で落ち着いたとの事。余談ですが、チャックを敬愛して止まなかったジョン・レノンも「Come Together」で同じく裁判沙汰になっています。
「Come Together」がチャック・ベリーの「You Can’t Catch Me」に似ているという件についてJ・レノン 「チャックは僕のR&Rアイドルなんだ。この曲は尊敬するチャックに敬意を表して作ったんだ。」C・ベリー 「ふざけんな!訴えてやる!!」こんな感じだったんでしょうか
………(´Д`)
(※ネタとして少々面白おかしく書いた向きがありますm(_ _)m 詳細は各自で検索を)

 

 

 


初期の音楽性については、リーダー ブライアン・ウィルソンによるところが殆どでした。その特異さが顕著に現れ始めたのは、3rdアルバム「Surfer Girl」からというのが、衆目の一致するところでしょう。タイトル曲や「Your Summer Dream」などのメロディー・ハーモニーの美しさ、元祖”引きこもりソング”とでも言うべき内省的な「In My Room」から、同時期における他のR&Rバンドとの違いは明白です。
「Fun Fun Fun」は5thアルバム「Shut Down Volume 2」のオープニング曲。美しいバラード「Keep An Eye On Summer」「The Warmth Of The Sun」、ブライアンの愛聴曲である、フィル・スペクターによるロネッツ「Be My Baby」にインスパイアされた「Don’t Worry Baby」など、初期ビーチボーイズの
音楽スタイルはここで確立されたと言っても良いでしょう。またまた余談ですが、ブライアンが憧れのフィルに初めて会った時、「君の作る音楽はなってないな~」の様な言葉で酷評され、ひどく落ち込んだとのこと
………(´Д`)
過酷なツアースケジュール、ヒット曲を量産することへの周囲からのプレッシャー、また元来の精神的弱さなどから、64年の冬に、彼は移動中の飛行機上にて錯乱状態に陥ります。以降ブライアンはスタジオワーク、コンサートツアーは残りのメンバーにて、という仕事の分担がなされました。結果的にこれが、彼をますます創作に専念させることとなり、やがて、かの名盤「Pet Sounds」の誕生へと繋がるわけですが、そのあたりはまた次回にて。