#201 The Nylon Curtain

今回の記事をアップするのが12月21日であり、クリスマスの直近回です。
昨年は番外編のクリスマスソング特集などやりましたが(#149)、もうネタはないと思っていた所、
これは狙った訳でも何でもなく偶然この回になりました。
上はビリー・ジョエル唯一のクリスマスソングと言える「She’s Right on Time」。
82年におけるアルバム「The Nylon Curtain」のB面トップを飾る本曲は、
自分にとって最高のタイミングで現れてくれる彼女を称えた内容。別れと再会を歌っていますが、
本作の中では珍しく基本的にポジティブな歌詞です。でもビリーの事だからウラの意味が・・・・・

” ふたりには別々の部屋が必要なんだ ” という内容の「A Room of Our Own」。男女が、
というよりも人間がその関係を保っていくためにはある程度の節度を持った距離が必要である。
至極まともな事実です。でも結局は妻 エリザベスと離婚するのですが・・・・・

エリザベスとの離婚後においても、彼女の実兄と義弟はそのままビリーのスタッフとして
就いていたそうです。これが後に大問題へとなるのですが、それはいずれまた・・・・・
上は本作で最も地味な曲ですが、結構な佳曲である「Surprises」。

アルバムラストの「Where’s the Orchestra?」。幕が降りた舞台での虚無感、
とでもいった感じでしょうか。メッセージ性の強い作品であった「ナイロンカーテン」でしたが、
とどのつまりはただのエンターテインメント、ただの演目に過ぎない。
いかにもビリーらしい自虐的な最後です。「アレンタウン」のリフレインが流れてアルバムは幕を閉じます。

「ナイロンカーテン」はゴールドディスクにこそなりましたが(最終的にはダブルプラチナ)、
プラチナ以上が当たり前であった当時のビリー・ジョエルとしては決してヒットとは呼べない
結果に終わりました。
私は本アルバムが失敗作とは微塵も思いません。「ストレンジャー」~「イノセントマン」までの
五作中では評価が低いのは事実ですが、そのクオリティーにおいて劣っているとは全く思いません。
これがあと10年遅く世に出ていたならば、結果は少し違ったものになったかもしれません。
82年という、米も日も浮かれていた時代において、世間には受け入れられなかったのです。
90年代であったならひょっとして・・・・・ タラレバは意味がないですけどね。

#200 Goodnight Saigon

” 変わらないでおくれ、僕はそのままの君が好きなんだから ”
あまりにも有名な一節を含むビリー・ジョエルの名曲「素顔のままで(Just the Way You Are)」が
妻であるエリザベスに対して書いた曲であるというのは#183
で触れました。
しかしながら悲しい事に永遠の愛というものはなかなか存在せず、ビリーとエリザベスの仲にも
やがて終焉が訪れます。しかもかなり面倒な事になるのです・・・・・

エリザベスが妻であると同時に優秀なマネージャーでもあったという事は既述ですが、その優秀さは
良からぬ方向へも発揮されます。
80年頃にビリーの弁護士として実の兄、自分の後任マネージャーとして義理の弟を就けます。
ビリーは元々裕福な生まれのせいか、銭金勘定には疎かったらしくその点に関してはエリザベスまかせ
だったと言われています。
この頃から二人の間に亀裂が生じ始めたとも言われます。そして前回も触れた通り「The Nylon Curtain」
リリース直前にバイク事故を起こす訳です。
上はA-③の「Pressure」ですが、当時におけるビリーの状況でしょうか?・・・・・

82年の末に二人は離婚したそうですが、事故で入院中に離婚の書類やら財産分与に関する書類やらを
ギプスをはめた手でサインさせられたとかなんとか ……… 清々しい話です・・・・・・・・・・

A面ラストの「Goodnight Saigon」。言うまでもなくベトナム戦争について歌っています。
私はポップミュージックに政治的・社会的メッセージを込める事はあまり好ましく思えないので、
歌詞の内容についてはあまり興味が無いのですけれども、戦地へ赴いた名もなき兵士たちの事を
歌ったものです。興味がある方は検索してみてください。
楽曲についても、戦争反対を高らかに歌うより戦地における若者たちの同志愛を描いたものなので、
悲しみの中にも優しさがそこはかとなく感じられる曲調です。
「キャプテン・ジャック」や「イタリアンレストランにて」の様な物語的楽曲がビリーの十八番と
以前に書きましたが、これもビリー流物語の一つなのかもしれません。

あと一つ、何か書こうと思っていたのですが、それがどうしても思い出せません ………………
二百という数字が関係していたような、いないような ・・・・・・・・
思い出せないという事は大したことではないという事ですよね! ………………………………………

#199 Laura

自分にとっての「サージェント・ペパーズ(ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド)」を創る。
ビリー・ジョエルは「The Nylon Curtain」(82年)を上の様な想いから制作に取り掛かりました。
「サージェント・ペパーズ」は言うまでもなくビートルズが67年にリリースしたアルバム。
よく言われるのは3分間ポップソングでしかなかったロックを新たな高みまで引き上げた作品である、
という事。私は「サージェント・ペパーズ」が一番好きなアルバムという訳ではなく、また3分間ポップスも
悪いとは全く思いませんが、従来のロックミュージックとは一線を画した作品である事に異論はありません。
その辺は#3で触れていますので宜しければ。

82年の4月15日にビリーはバイク事故を起こします。かなりの重傷で、しかもピアニストにとって命である
指と手首にかなりの損傷を負いました。この事故により6月にリリース予定であったアルバムが
9月まで伸びることとなりました。
「The Nylon Curtain」は全体を内省的な雰囲気が覆っている作品ですが、まるでバイク事故によって
ビリーのスター人生に影を落とす事を予見していた様だ、とオカルト信者は言い出しそうですけれども、
事故はあくまでたまたまの出来事でしょう。もっともその前から妻であるエリザベスからバイク禁止令が
出されており、そのストレスが事故に繋がったという見方もあるので全く関係ないとは言い切れないかも …

上はA-②「Laura」。ビートルズファンや洋楽にある程度精通している人なら ” まるでジョン(レノン)
みたいだ ” と感じることでしょう。ビリーはそのメロディメーカーとしての世間的イメージから
ポールとよく比較されるところですが、精神的・音楽的にはジョンの影響が強いと思われます。
多分「レット・イット・ビー」や「ロング・アンド・ワインディングロード」の映像でピアノを
弾きながら歌うポールのイメージが強すぎての事だと思いますが、ポールは言うまでもなく卓越した
ベーシストであり、またギタリストとしても非常に優れたプレイヤーでした。ビートルズ初期において、
最もギターが上手かったのはポールだと言われています(ピアノが下手と言う訳ではなく)。
「Laura」から感じられるのはジョンの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」や
「アイ・ウォント・ユー」において感じられる ” 粘っこさ ” です。
歌詞においてもかなり難解な面があり、やはりジョンの影響かな?と思われる所があります。

自分にとっての「サージェント・ペパーズ(ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド)」を創る、
というのは唐突に思い立った事ではなく、言うまでもなく80年12月におけるジョンの悲劇的な死を
受けての事だったと思われます。エド・サリヴァンショーにおけるビリーを観てロックンロールの洗礼を
受けたビリーにとって当然ジョンはヒーローの一人でした。
ジョンの死、及び周囲との確執(妻 エリザベスやその親族)などがビリーの中で徐々に黒い影を
落とし始め、そして82年4月の大事故が起きてしまいます。
周囲との確執って何? というのは次回以降にてまた。

ところでこのブログを書いているのは12月7日。明日はジョンの命日です。ビリー・ジョエルに
関する記事なのですが、ジョンの話に繋がったところで何か一曲。これもビリーは相当好きだったのでは
ないかな? と思うものです。厭世的な歌詞などが特にビリー好みだったのでは・・・

#198 Allentown

社会学の分野において、欲求5段階説というものがあるそうです。
飢える事無く雨風しのげる住まいや生活用品を確保するという根源的な欲求から始まり、
家族・会社・地域社会といった仲間とのつながり(所属)及び愛(勿論性欲も含む)を
求めるようになり、やがてはさらに他社から認められたい(承認・尊厳)という欲求へと
発展していきます。
承認の欲求が最終段階化と思いきや、この学説ではさらに上のステージがあり、
それは自己実現の欲求だそうです。つまりこの段階になると他人の評価などは関係なくなり、
自分自身が満足できるか否かという欲求になります。
富も名声も得た人間が突然出家するなど、精神的満足を得る行動に移る事があるのはこれでしょう。

ビリー・ジョエルはプロデビューの当初はホームレス生活を経験するほどの困窮ぶりでした。
やがて「ピアノマン」のヒットによりミュージシャンとして生活は出来るようになり、
そして「ストレンジャー」の大ヒット以降は誰からも認められるメインストリームの大スターと
なりました。そんなビリーがやげて自己実現の欲求を満たそうとしたのは。上の学説からすると
当然の帰結なのかもしれません。
上は82年のアルバム「The Nylon Curtain」におけるオープニング曲でありシングルカットされた
「Allentown」。鉄鋼の街であるアレンタウン。かつては栄えたもののやがて製鉄業の衰退と共に
活気を失い、そこで暮らす若者たちはなかなか職にありつけない様な状況にある。
街を出ていく若者、あるいは葛藤を抱えながら残る者と、淡々とした曲調の上でリアリティあふれる
社会的問題が歌われます。

「The Nylon Curtain」の発売前後、ビリーに様々な問題が降りかかります。
その辺りは次回以降にて。

#197 Songs in the Attic

『屋根裏部屋の曲たち』。アルバムジャケットでも表している通りに銘打たれたビリー・ジョエル
81年リリースのライヴアルバムは、30秒にも渡る印象的なエフェクト音にて幕を開けます。
「ニューヨーク物語」(76年)のエンディングナンバーである本曲は、その快活な曲調とは
裏腹に近未来ディストピアSF的な内容であるのは#181で既述の事。
突っ走り気味なリバティ・デヴィートのドラムが素晴らしい、彼はこれでイイのです。

そのタイトルが物語る通り、本作はストレンジャーで大ブレイクする以前の楽曲で構成されており、
全てが80年6~7月における「グラスハウス」ツアーによるもの。当然「素顔のままで」「マイライフ」と
いったヒット曲もセットリストに入っていたわけなのですが、あえてそれらを一切収録せず、
最初のヒット曲「ピアノマン」さえ入れないという徹底振り。陽の目を見なかった作品たちに
スポットライトを当ててあげたいという気持ちも勿論あったのでしょうが、それだけではない
意地の様なビリーの意図も汲み取れないではありません。
上は「ストリートライフ・セレナーデ」(74年)中の「Los Angelenos」。

実際に頑なまでヒット曲を収録しなかったのはビリーのコロムビアへ対する反抗心であった様です。
時代の寵児となったビリーに対し、「グラスハウス」ツアーの終了後すぐに新作へ取り掛かるよう
ビリーへ要望しますが、彼はなかなかその気になれない。人気絶頂の内に少しでも売りたい、
間隔を空けて世間の興味が薄れるのを嫌がったレコード会社が、ではライヴ盤を出そう、
とビリーに持ち掛けて、ビリーも渋々同意した、というのが実情だったそうです。
それでもコロムビアの言いなりになるのが癪だったビリーが持ち出した折衷案がヒット曲を
一切に入れないというものだったようです。
それでも天下のビリー・ジョエル。本作は全米8位という大ヒットを記録します。
まだベスト盤が出ていなかった当時においては、「ストレンジャー」より前の曲を
本作で初めて知り、改めてビリーのファンになったというリスナーも少なくなかったとか。
好循環で回っている時は何をやってもうまくいきます。
#174で既述のデビュー作「She’s Got a Way」と「Say Goodbye to Hollywood」が
本ライヴ盤からシングルカットされ、これまたヒットします。

世界はビリーを中心に回っているのではないかと思えるほどの成功振りですが、
はたしてこの後は・・・・・

#196 Glass Houses

上はビリー・ジョエルのアルバム「Glass Houses」(80年)においてB面のトップを飾る
「I Don’t Want to Be Alone」。当時流行しつつあったレゲエ・スカのリズムを取り入れた
本曲はイギリス勢の影響を受けたのではないか? と思っています。そしてこの歌い方、
どこかで聴いた事が? と首をひねりがちになるんですけれども・・・
そう! エルヴィス・コステロにどことなく似ているんです。コステロは前年に3rdアルバムが
全米TOP10入りするほどに躍進していましたので、コステロをはじめ英国勢の若手が好んで取り入れた
レゲエ・スカといった音楽やその歌い方に関して影響を受けたとしてもなんら不思議はありません。
70年代後半にイギリスでパブロックと呼ばれる米のオールドスタイルR&Rをリスペクトしながら
独自の音楽が生み出されました。デイヴ・エドモンズ、ニック・ロウ、そしてエルヴィス・コステロ達が
その代表格であり、まだ売れる前のヒューイ・ルイスが欧州で武者修行していた時にエドモンズや
ニックと知り合い交流を深めた、というのは以前に書きました(#85ご参照)。
またストレイ・キャッツが認められたのも初めは英国においてです。
全くの推測ですが、ビリーは彼らの動きに先を越された!くらいの感じを受けたのではないでしょうか。
本国では廃れつつあったオールドスタイルR&Rのスピリットを、海を隔てた英国のミュージシャンたちが
復興させた事に本国のミュージシャンとして歯痒い想いを抱いたのではないかと。
ちなみにコステロの米における発売元はビリーと同じコロムビアレコードです。

再びタイトなロックチューンである「Sleeping with the Television On」。中間部のチープな
オルガンの間奏がこれまたコステロっぽく聴こえます。
” テレビをつけっぱなしで寝る ” というのは、むなしい朝を迎える、退屈な日常を繰り返す事の
比喩の様です。アメリカでは昔からテレビ(この場合は地上波というやつ)は無趣味・無教養な
人間が視るもの、貧乏人の娯楽と蔑まされていました。日本でもようやくアンテナの敏感な
若い人達の間ではそうなっていますね。まともな感性であんなくだらないものは視れません。

これまた素晴らしいロックナンバーである「Close to the Borderline」。本作においては
ドラムのリバティ・デヴィートとベースのダグ・ステグマイヤーが重要な役割を果たしている、
というのは前々回にて既述ですが、本曲においてそれが十二分に発揮されています。
憧れのジョージ・マーティンとの仕事を袖に振ってまで守り抜いた自身のバンド。それが本作で
見事に結実されたのです(#186ご参照)。特にデヴィートのドラムが素晴らしく、彼のドラム抜きに
本作は完成出来なかったのではないかと思えるほどです。

アルバムラストの「Through the Long Night」。多くの人が本曲だけがこのアルバムの中で
浮いていると思うのではないでしょうか。勿論私もそうです。内省的な曲調・歌詞は
本作のコンセプトからはベクトルが外れています。どう考えても次作である「ナイロン・カーテン」に
収録されていた方が良かったのでは?・・・ そうです。ビリーはこの時からすでに
「ナイロン・カーテン」の構想があったのでは? と私には思えてなりません。本曲はビリーが
最後に提示した次作の方向性だったのはないでしょうか。

” Glass Houses ” が諺中の単語であることを知らなかった頃は、冒頭のガラスが割れる音は
前作迄のイメージをぶっ壊してやる!的なビリーの意気込みくらい
だと思っていました。
勿論そういった想いもあったかもしれませんが、諺の意味を知ってからはまた別の意味合い、
これは好き勝手言ってばかりいるリスナーやプレス、特に評論家をはじめとしたプレス連中への
強烈な皮肉だったのではないかと個人的には解釈しています。
現在でも俗にいうマスコミの状況は全く変わっていませんけれども・・・・・

#195 It’s Still Rock and Roll to Me

ビリー・ジョエルが80年にリリースしたアルバム「Glass Houses」についてその2。
R&Rナンバーが二曲続いた後に少し箸休め的なナンバーである「Don’t Ask Me Why」。
本作からの第三弾シングルである本曲は全米19位というヒットを記録しましたが、
一つ前のシングル「It’s Still Rock and Roll to Me」がビリー初の全米No.1と
なったのでその陰に霞みがちです。
しかしライヴでは必ず披露される定番曲だったらしくファンの間では人気のナンバーです。
アコギの軽やかな印象によってロックンロール色が薄いように感じてしまいますが、
そこはどうして、ボ・ディドリーばりの所謂ジャングルビートでしっかりと ” ロック ” しています。

画質は最悪ですが84年のビリーが乗りに乗っていた頃の模様が上の動画。本曲はジャングルビートと
共にラテンビートも併せ持っています。ロックンローラーはラテンも好みます。初期のビートルズが
良い例です。会場との一体感が伝わる貴重な映像です。

先述の通りビリーにとって初の全米No.1シングルとなった「It’s Still Rock and Roll to Me」。
批判を顧みず率直言えば、ビリーによる数多の名曲の中において本曲は突出した楽曲ではありません。
ですけれども、ディスコの潮流がまだ蔓延り、さらにニューウェイヴが台頭しつつあった
80年初頭において、こんなド直球のロックンロールナンバーが天下を取ったのは奇跡です。
言い替えればビリーの人気・勢いが時代を凌駕したのです。誤解を恐れず言うとこの時点で
ビリーは何を演っても成功したと言う事が出来、それは良い意味における強者の特権でしょう。
ポール・マッカートニーですらこれほどの勢いはありませんでしたから。

A面ラストの「All for Leyna」。アルバム発売に先駆けてイギリスのみでシングルカットされました。
曲中の主人公が一夜限りの関係を持った女性にやがてのめり込んでいくという内容。
イントロにおけるピアノの連打が翌年のホール&オーツによる大ヒット「キッス・オン・マイ・リスト」
#57ご参照)と似ているな?影響を与えたのかな? と思っていましたが、よく考えたら
ホール&オーツのアルバム「モダン・ヴォイス」は80年7月のリリースで「Glass Houses」の
4カ月後。「キッス・オン・マイ・リスト」は随分時間が経ってからリリースされ、爆発的にヒットして
ホール&オーツ第二次黄金期の礎を築いた曲でした。
「モダン・ヴォイス」もプログレ、ハードロック、ニューウェイヴと色々チャレンジしてきた
ホール&オーツが、彼らのルーツであるソウル・R&B・R&R・ドゥーワップといった音楽へ
原点回帰した作品でした(ただし全部が全部という訳ではなく)。
時代を極めたビリーが商業性を(あまり)気にせず行う事が出来たのに対して、ホール&オーツは
「リッチガール」(77年)以来ヒットから遠ざかっていました。対照的な両者達が選んだ方向性が原点回帰、というのも興味深いものです。

#194 You May Be Right

People who live in glass houses should not throw stones
(ガラスの家に住む者は石を投げてはならない)
ということわざがあるそうです。
自分も完璧ではないのだから他者を批判するな、というくらいの意味です。
ガラスで出来た家に住んでいる人が誰かに石を投げると、その仕返しに石を投げ返されたら
大きな損害を被ります。よって自分から石を投げるようなことはしないでおきなさい、
という教訓を垂れているとする説。あるいはガラスで出来た家の中から外に向かって石を投げたら、
自分の家が壊れてしまうから止めておきなさい、という説もあるそうです。

ビリー・ジョエルが80年に発表したアルバム「Glass Houses」。実の所ビリーは「ストレンジャー」の
次作を本作の様にするつもりであったのではないかと推察しています。
「素顔のままで」にて世間に染みついてしまった ” ビリー=バラードシンガー ” というイメージを
粉々に砕いてやろうと思っていたのではないか? しかしさすがにプロデューサーである
フィル・ラモーンをはじめとした周囲から説き伏せられ「ニューヨーク52番街」に落ち着いたのでは
ないであろうかと勝手に思ってします。オープニング曲「ビッグ・ショット」のハードさは、
ビリーによるせめてもの抵抗では? とか想像したりしています。

二作続けてビッグヒットを飛ばしたので、さすがに周りもビリーの意見を尊重せざるを得なくなったのか?
「Glass Houses」は見事に世間を裏切り、予想の斜め上を行くものとなりました。
本作にはロックンローラーとしてのビリーの本性が炸裂しているのです。#186にて既述ですが、
ビリーも『エドサリヴァンショー』におけるビートルズを観てR&Rの洗礼を受けた一人です。
「ストレンジャー」や「ニューヨーク52番街」が偽りのビリーなどという事は勿論ありません、
あれらもビリーの音楽です。しかしあまりにもバラード、ジャズテイストの都会的ポップスなどの
イメージが定着してしまい、ビリーはこれに嫌気が差したのではないでしょうか。

ガラスが割れる音から始まるA-①「You May Be Right」は本作を象徴するナンバー。
本作では特にリズム隊であるダグ・ステグマイヤー(b)とリバティ・デヴィート(ds)が
重要な役割を担っています。R&Rはベースとドラム、そしてリズムギターが肝です。
速弾きギタリストの登場によって、70年代後半くらいから間奏のギターソロがやたらと
取り上げられる風潮になりましたが、元々はグルーヴが命の音楽です。
話しは少し飛びますが、布袋寅泰さんはギターソロは必ずしも無くて良いという考えだと
聞いた事があります。私は決して布袋さんについて詳しい訳ではありませんが、
この考えがギタリストである布袋さんによるものとは非常に興味深いです。
R&Rの本質を見失っていない、やはり真のロックンローラーなのでしょう。

ガラスの割れる音の次は、電話をダイヤル(といってもプッシュボタンによるもの)する音です。
A-②の「Sometimes a Fantasy」も極上のタイトなR&Rチューンです。
遠距離恋愛で会えない彼女に電話をかける、それだけ聞くと80年代のラブコメか?
と思ってしまいますが当然そんな訳はなく、 ” モヤモヤ ” した男が彼女に電話をして
エロチックな気分に浸ろうという、要はテレフォン〇ックスの事です。
アルバムヴァージョンはでPVのオチは無くフェイドアウトですが、曲中のテレフォン〇ックスは
電話をかける前のビリーによる妄想であり、現実には彼女は留守か寝てるかで電話には出なかった、
チャンチャン、というやつです。

R&Rへの原点回帰とは言っても、ただの50’S~60’sに対する懐古趣味には終わっていません。
本曲において聴くことが出来るシンセなど、時代の潮流はしっかり掴んでいます。ビリーと言えば
生ピアノやローズなどのエレピというイメージがありますが、勿論キーボード全般に明るく、
シンセサイザーも早くから取り入れています。
先の話で速弾きギターソロはロックの本質ではない、と言いましたが、アウトロで速弾きが
出てくるので ” なんだ、ちゃっかり時代に迎合してるじゃん… ” とか言う向きもあるかもしれませんが、
それはあくまで表面上、本質を理解していない人が言う事です。ちなみにこのアウトロがフェイドアウト
されずに最後まで収録されているのが上のシングルヴァージョンです。この ” 突っ走り感 ” が
本当に素晴らしい。ちなみにエンディングがビートルズの「ヘルタースケルター」における
ポールの叫び声 ” 指にマメが出来ちまった! ” にちなんでいるのは言うまでもない。

#193 52nd Street

ビリー・ジョエルが78年に発表したアルバム「52nd Street(ニューヨーク52番街)」は、
ビリーにとって初の全米アルバムチャートにおけるNo.1ヒットとなり、更にグラミー賞(80年)において
最優秀アルバム賞及び最優秀男性ポップボーカル賞を受賞します。「ストレンジャー」からの勢いは
留まる事を知らず、時代の寵児となりました。
上はB-③の「Half a Mile Away」。「マイライフ」同様にポップな曲調ですが、歌詞は「マイライフ」
の様に病んで(?)はいません。ものすごくざっくり言うと ” 毎日くたくたになるまで働いているんだ、
週末くらいは好きに遊ぼうぜ!半マイル向こうに別世界があるんだ!” のような内容だそうです。
N.Y. における市井の人々の暮らし・願望を歌った、くらいのビリーにとっては普通(?)の歌詞です。

B-④「Until the Night」を聴けば、知っている人はライチャス・ブラザーズの
「ふられた気持ち」じゃね? と思ってしまいますがそれは正解です。ビリーとプロデューサーである
フィル・ラモーンは明確な意図をもってフィル・スペクターによるこの稀代の名曲を
リスペクトしたそうです。もっともフィル・スペクターサウンドという点については「さよならハリウッド」ですでに取り入れていましたが。本曲が後の「イノセントマン」につながるのは言わずもがなです。

ダイナミックな「Until the Night」の後、アンコール的に歌われる様な形を取った小曲「52nd Street」
にてアルバムは終焉を迎えます。

私見ですが、「ストレンジャー」「ニューヨーク52番街」「グラス・ハウス」「ナイロン・カーテン」
「イノセント・マン」がビリーの黄金期であり、いずれも甲乙付け難い作品であります。
それでもこの中からどれか一つと問われれば、各楽曲のクオリティーやトータルバランスという点において、私は本作が頭ひとつ抜きん出ている、と思っています。
ほんとにちょっとです、どれも大好きなアルバムばかりです。

#192 Rosalinda’s Eyes

78年4月にビリー・ジョエルは初来日公演を行います。しかし本公演はぎりぎりまで実現出来るか
どうか危ういものだった、というのは意外な話しです。77年中には「素顔のままで」のヒットと共に
アルバムも売れていたのに何故?と思ってしまいますが、実は「素顔のままで」が全米チャートを
駆け上がっていったのは翌78年になってからであり、最高位3位を記録したのは2月18日の事。
勿論インターネットなど無い時代、最新の洋楽紹介番組である『ベストヒットUSA』も
まだ始まっておらず、海の向こうの最新音楽動向などは
一部の業界関係者、もしくはよほどの
マニアしか知る由がない所でした。

日本では同時期にビリーの知名度が上がる下地が作られます。ソニーのテレビCMに
「ストレンジャー」が使用されたのです。これは勿論米におけるビリーの大躍進の兆しを
知っている業界関係者によるものでした。ちなみにアルバム「ストレンジャー」の日本における
リリースは翌78年の事。またシングル「ストレンジャー」が日本のみの発売となったのは
このテレビCMが先にあった為、というのも言わずもがなです。
はじめに豪公演の後に日本へ寄りたい、という申し出がビリー側からあったそうです。
しかし会場の問題などで日本サイドは二の足を踏んでいました。ところが「素顔のままで」の大ブレイクと
日本における「ストレンジャー」の人気から、何とか調整をして来日公演を実現させたそうです。

ストレンジャーの世界的成功に気負う訳でもなく、かといって二番煎じを作るでもなく、
次作「52nd Street」が余裕さえ感じられる傑作となったのは既述の事です。
A面に有名曲が集まっている為にB面は地味な印象を一般的には受けてしまいますが、
実はA面に負けぬほど素晴らしい楽曲ばかりが収録されています。
上はB-①の「Stiletto(恋の切れ味)」。スティレットとは先の細く尖ったナイフを指します。
ナイフで切り付けられ様な恋愛、といったかなりマゾヒスティックな内容に取れますが、
もうちょっと深い意味があるのかな、と私は思っています。
本曲は妻エリザベスの事を表したとされていますが、後に離婚する二人ですけれども
まだこの頃は円満であったと言われています。
それにしても「素顔のままで」であれほど甘い歌を創った後に、同じ妻に対して真逆の歌を創ってしまうのは
興味深いです。ちなみにエリザベスはかなりやり手のマネージャーでもあったそうです。

今回のテーマであるB-②「Rosalinda’s Eyes」はビリーの中で決してメジャーな曲ではありません。
なのですが、私はともすれば「ビッグショット」と並んで本作のベストトラックではないかと思っています。
アルバム中少なくとも一曲はラテンテイストの曲を入れる事をポリシーにしている、というのは
以前に書きましたが「52nd Street」においては本曲がそれです。
かなりゆっくりめのサンバフィールとでも形容しましょうか、それはボサノヴァでは? と言う向きが
あるかもしれませんが、本曲のグルーヴは明らかにボサとは異なり、やはりサンバとしか言えません。
随所でエレクトリックピアノが印象的な本曲ですが、本アルバムにおいてビリーはフェンダーローズと
ヤマハCP70の両方を使用しています。私は鍵盤は門外漢なので自信はありませんけれども、
これはローズだと思います。CP70はクラヴィネットっぽい音色だそうですから。
ロザリンダはビリーの母親の名前(スペルは ” Rosalind ” でaが付いてないらしいですが)。
つまり本曲は母に捧げたものです。

舞台はN.Y. のスペイン街であり、ミュージシャンである主人公とロザリンダという(多分)踊り子の
物語です。決して生活が楽ではない主人公だが、ロザリンダはその才能を認めて信じてくれている。
ロザリンダの瞳を通して主人公はキューバの青空を見る(キューバはスペインの植民地であった)。
自分はそこに行くことはないだろうと語っているので、彼はキューバの出ではないのでしょう。
ビリーの母親は彼のミュージシャンになりたいという願いを肯定的に認めてくれていたそうです。

ポルトガル語にサウダージという言葉があります。翻訳家泣かせのワードらしいのですが、

郷愁、思慕、切なさといった憂いの感情を指し、ブラジル人気質を表す言葉と言われます。
明るい、あるいはのどかな曲調の中にもどこか切なく憂いを帯びた雰囲気を漂わせる、サンバやボサノヴァに限らずラテンミュージックには甘さと辛さが表裏一体となった独特のテイストがあります。
それは本曲でも感じる事が出来、特にリコーダーソロが終わって歌詞で言うと三番の歌いだしの所、
演奏が中断されビリーの歌のみとなり、そこにエレピの音色が素晴らしい栄えをもたらします。
この部分の歌詞は、バンド内でも孤独でなおかつ安月給の自分ではあるが結婚式のドレスを準備するんだ、
というもの。影と希望が同居し、それが明るくリズミックな曲調の中にも寂寥感を醸し出していて、
これこそまさに ” サウダージ ” なのだと私は思っています。

最後にユーチューブで面白いものを見つけたのでご紹介。「Rosalinda’s Eyes」のデモその1・その2が
上がっています。興味深いのは1の方で、最初の段階ではだいぶ印象の異なるものであった事。
このテイクも素晴らしいので、何なら本ヴァージョンでも仕上げて欲しかったと個人的には思ってしまう …