#111 David Garibaldi

デヴィッド・ガリバルディ。この名前を聞いてピンと来る人は、洋楽に通じている人でも
そう多くないのではないかと思います。
日本が世界に誇るドラマー 神保彰さん。圧倒的なテクニックと、エレクトリックドラムなどの
ツールを使って常に新しいプレイを追及し続ける神保さんが、昔ドラムマガジン誌上にて
影響を受けたドラマーは?と尋ねられ、その時に挙げたのがスティーヴ・ガッド、ハーヴィー・メイソン、
そしてデヴィッド・ガリバルディだった記憶があります。
70年代フュージョンシーンを担ったガッドとメイソンは、ドラムを演ってない音楽ファンでも
その名前くらいは聞いた事があるかもしれませんが、ガリバルディというと『誰?』、となるのでは
ないでしょうか。


 

46年、オークランド生まれ。10歳でドラムを始め、17歳からプロとして活動し始めましたが、
66年、つまり二十歳の時にベトナム戦争へ徴兵されます。空軍の軍楽隊に所属していたそうです。
除隊してから帰郷して70年7月にタワー・オブ・パワーへ加入します。9月から11月までレコーディングを
行い、そうして出来上がった1stアルバム「East Bay Grease」をその年のうちにリリースします。

前回既に述べた事ですので重複は避けますが、フィルモア・ウェスト/イーストの設立者 ビル・グレアムが立ち上げたばかりのレーベルから本作は発売されました。二作目以降のワーナーと比べれば録音環境は
劣っていたのでしょう。ドラムの音などは殆ど生音ですが、それが却ってガリバルディのプレイを
生々しく忠実に伝えてくれています。
オープニングナンバーである「Knock Yourself Out」。ガリバルディは17歳の時にサンノゼ公会堂で
ジェームス・ブラウンのステージを観て衝撃を受けたそうです。午後の早い時間に会場へ行くと
バンドがリハーサルを演っていて、間近でそれを観ることが出来たとの事(大らかな時代だったんですね)。
彼のファンクミュージックへの興味はこの辺りから湧いてきたようです。

ガリバルディのプレイにおける特徴であるスネアのゴーストノートや16分裏の強調はこの時点で既に
完成されています。ジェフ・ポーカロ回(#63~#66)でもゴーストノートについては触れましたが、
2・4拍で強く叩くスネアショットとは別に、ごく小さな音量でプレイされるスネアショットを
こう呼びます。このゴーストノートがある事によって独特なグルーヴ感が生まれ、特にファンクなどの
16ビートドラミングには欠かす事が出来ません。本作からもう一曲「The Price」。16分裏のリズムが、特にベースドラムによって強調されているナンバー。口で言えば『ッド・・・』という感じ。

二作目である「Bump City」は、前作にあった怒涛の様なファンク色はやや薄れています。ただし
良い意味で洗練され、音質も向上しています。大レコード会社ワーナーへの移籍に因るもので
あるのは言うまでもないでしょう。それに伴いガリバルディのプレイも、1stにあったようなゴリゴリの
16ビートドラミングは少し鳴りを潜めていますが、その本質は基本的に変わっていないものと私は
思っています。上はシャッフルビートの曲「Flash in the Pan」。シャッフルについては、これまた
ジェフ・ポーカロ回で述べていますが、『タッタタッタタッタタッタ・・・』と所謂 ”ハネる” リズム。
本曲では ”タッ” の裏拍に左手でハイハットやスネアを叩く事でよりオフビートを強調しています。
これは割と古いスタイルのブルース・R&Bのドラミングによくあったプレイスタイルですが、
ガリバルディがプレイすると古さなど微塵も感じさせず、彼のドラミングになってしまいます。
先達の技を踏襲しながら、その上で自身なりの新しいスタイルを築く、まさしく温故知新です。

https://youtu.be/ZbfU2ZYb3NI
私見ですが、インストゥルメンタルと ”歌もの” の演奏は別、との意見が散見されますけれども、
共感出来る部分も無くはないのですが、基本的に根っこは同じだと私は思っています。そして一流の
プレイヤーは例外なくどちらも巧い。上は初期におけるバラードの傑作「You’re Still A Young Man」。
歌ごころあふれるガリバルディのバッキングプレイが堪能できます。二代目ヴォーカリスト
リック・スティーブンスの名唱が見事。一昨年惜しくも他界してしまいました、合掌。

93年にVHSビデオで発売された「Tower of Groove」。ガリバルディ自身が自らのプレイに
ついて実演しながら解説し、バンドとのスタジオライヴを交えてその素晴らしいグルーヴを披露して
くれています。VOL1・2がありますが、DVDでは一枚にまとめられています。現在は
ユーチューブで観れてしまいます。上はその中の一曲「Lakeside Shuffle」。タイトルは
シャッフルですが、ただのシャッフルでは終わらぬ一筋縄ではない楽曲。四分の四のシャッフルと、
八分の六拍子のアフリカンビートが交錯する所謂ポリリズム。途中でジャズのスウィングの
パートもあり、ガリバルディとしては珍しい4ビートプレイを観ることが出来ます。
本編ではこの演奏の後に本曲のプレイについて解説していますので興味のある方は。もっとも
英語ですから何を言っているか私には断片的にしか判りませんが …
一点だけ気になったのは、4ビートのパートで、シンバルレガート(チーンチッチ・チーンチッチと
いったジャズの基本的なリズムをトップシンバルでプレイする事)の際に、裏拍にアクセントが
付いている箇所がかなりある事。口で言えば ”チーンチッ・チーンチッ・チッチーン・チーンチッ
の様な感じ。エルヴィン・ジョーンズなどもこういったレガートをよくしましたが、これは裏拍を
強調し、よりリズムをドライヴさせる効果があります。おそらくエルヴィンにしろガリバルディにしろ、
自然とそうなったのだと思いますが。

余談ですがその昔DCⅠビデオは非常に高価で、七・八千円から一万円以上しました。おいそれと手が
出るものではなかったです。その点日本の、リットーミュージックの教則ビデオなどは良心的で、
ものによっては三千円台で買えました。リットーミュージックさんお世話になりました。
えっ? (*゚▽゚) ナニ
のビデオでお世話になったって …( °∀ °c彡))Д´)( °∀ °c彡))Д´)( °∀ °c彡))Д´)

当然一回では書き切れないので次回以降へ続きます。一字一句を惜しんで少しでもガリバルディの
魅力をより多くの方たちへ伝えていく所存であります! (`・ω・´)キリッ ・・・・・・・・・・・・・・
だったら上みたいなくだらねえこと書いてんじゃねえよ!!!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ

#110 Back to Oakland

スティーヴ・フェローンが在籍したアヴェレージ・ホワイト・バンドを聴いていると、
どうしてもあるバンドを思い出し、また比較してしまいます。鉄壁のリズムセクション、
ソリッドなブラス隊、そしてソウルフルなヴォーカル、これでもか!というファンクグルーヴを
繰り出すそのバンドの名はタワー・オブ・パワー。カリフォルニア州オークランドで結成された
彼らの音楽は、それを指してオークランドスタイルファンクと呼ばれる一ジャンルとして語られる程、
ポップミュージック界において、特に同業者達へ影響を与えました。

 

 

 


#85のヒューイ・ルイス&ザ・ニュース回において彼らに触れ、いつか必ず取り上げますと
述べましたが、思ったよりも早く書くことが出来ました。

バンドの出発点は68年に創設メンバーであるエミリオ・カスティロとステファン・カップカが
出会った所から始まります。ただしこのバンドはメンバーが多く、またその変遷も激しい為、
それらについては割愛します。興味がある人はウィキ等で。
当初彼らは『ザ・モータウンズ』と名乗っていた、もしくは周りに勝手に名付けられたらしいです。
カスティロは後のフィルモア・ウェストの前身、フィルモア・オーディトリアムへの出演をオーナーである
ビル・グレアムへ交渉しようとしますが、『ザ・モータウンズ』では彼が出演を認めてくれないと
考え、バンド名の変更を容認するようになります。そうして70年までにはタワー・オブ・パワーという
新しいバンド名が確定し、当時ビル・グレアムが設立して間もないサンフランシスコレーベルから
1stアルバム
「East Bay Grease」をリリースします。
72年にはワーナーへ移籍し、二作目となる「Bump City」を発表。アルバムはR&Bチャートで16位、
シングルもTOP40に入り、徐々に世間への認知度を高めていきます。

73年、3rdアルバム「Tower of Power」をリリース。上はオープニングナンバー「What Is Hip?」。
百聞は一聴に如かず、問答無用のこの曲を聴けば彼らの凄さがわかるはず。

1stシングルである「So Very Hard to Go」は彼らにとって最大のシングルヒットとなりました
(ポップス17位・R&Bチャート11位)。本作はセールス的にバンドにとって最大の成功作と
なりました。ポップスチャートで最高位15位を記録し、ゴールドディスクに認定されます。

74年発表の「Back to Oakland」。セールス的にこそ前作には及びませんでしたが、彼らの
最高傑作と評するリスナーが絶えない名盤です。オープニングとエンディングを飾るナンバー
「Oakland Stroke」。最初は0:53、最後は1:08と短い曲。短くて良いでしょう、
あまりにも凄すぎて、この尺でも十分です。上はUP主が2曲を繋げたらしいですが、
オープニングもフェイドアウトで終わっているのに、境目が全く分かりません。一体どうやって
作ったのでしょうか?・・・・・ナゾの技術・・・才能のムダ・・・・・
(._+ )☆\(―.―メ)そこまでは言われる筋合いはない!
(※と、思っていたのですが、更に調べたところ、昔シングル盤で発売されたことがあったらしいです)

https://youtu.be/CfYy914PXwc
私が思う本作のベストトラックは二曲あるのですが、上はその甲乙付けられない内の一つである
「Can’t You See (You Doin’ Me Wrong)」。あまりごちゃごちゃは言いません、聴いて下さい。

https://youtu.be/RlLVRGb7g7Q
インストゥルメンタルパートが取りざたされる事の多い彼らですが、ヴォーカル曲も秀逸です。
ヴォーカリストは割と入れ替わりが激しいバンドでしたが、黄金期に在籍したのがレニー・ウィリアムズ。
レニーの素晴らしい名唱が堪能出来るのが上の「Just When We Start Makin’ It」。

私にとってもう一つのベストトラックがこれ、「Squib Cakes」。これもあまりごちゃごちゃは
言わないつもりでしたが … 少しだけ言わせて下さい・・・・・・・・・ごちゃごちゃ ……………
(._+ )☆\(―.―メ)言うとおもった!!!
完璧なグルーヴ、ソロプレイヤー各々のアドリブ、ブラスのソリ、どれを取っても超一級品の演奏。
全編に渡って素晴らしいプレイのオンパレードですが、やはり聴き所は4:55からのオルガンと
ギター・ベース・ドラムのリズム隊によるプレイ。途中からはワンコードになり、主役は完全に
ベースとドラム。派手な耳を引くソロプレイではない、リズムの掛け合いであるのに、これ程までに
甘美と言っても過言ではないグルーヴを私は他に知りません。6:02でコードチェンジする部分は、
カタストロフとでも呼ぶべきそれまでのテンション感が一気に弾ける鳥肌モノのパートです。

その後、セールス的にヒットを上げる事はなく低迷していたバンドでしたが、ヒューイ・ルイスの
力添えなどもあり地道に活動を続け、今日まで解散することなく、根強いファン、また同業者達からの
応援を受け続けています。
レコードセールス面だけを見れば、ゴールドディスクが一枚、TOP20入りしたシングルも一枚と、
決して大成功を収めたバンドではありません。インストゥルメンタルの比重が多いので、一般ウケしづらい
のは如何ともし難い所でしょう。卓越したシンガー達が在籍したバンドですので、もっとバラードなどを
フィーチャーした売り方をすれば、ひょっとすると違った結果があったかも
(たらればですけど…)。
しかし彼らは、自分たちの本分はグルーヴを重視したファンクミュージックであるとの自負が
あったのでしょう。そして、その様な姿勢を貫く彼らだからこそ、コアなリスナーや同業者達から常に
尊敬の念を受け続ける事が出来たのではないでしょうか。

一人か二人しかいない読者の中には、ドラマーについて全然書いてないじゃん、と思われた方も
いるかもしれません。…………… いない … かな?・・・・・゜:(つд⊂):゜。。
そうです。タワー・オブ・パワーのドラマー デヴィッド・ガリバルディについては、次からの
テーマとするためにあえて触れませんでした。という訳で次回からはデヴィッド・ガリバルディを
取り上げていきます。

#109 Steve Ferrone_2

私がドラムを始めた80年代半ば、スティーヴ・フェローンはパールドラムスのエンドーサーであり、
彼の姿はカタログに必ず載っていました。



 

 

 

 

最初に金を貯めて購入したドラムセットはラディックであったと述べています。英ジャズロックの草分けで
あるブライアン・オーガーのバンドなどで活動した後、アヴェレージ・ホワイト・バンド(以下AWB)へ
加入する事となります。

前々回でもあげた、75年ソウルトレイン出演時の映像ではグレッチのセットを使用しているのが
確認出来ます。シンバルは確認出来ませんが、その後フェローンが永く使用する事となるセイビアンは
81年の設立なので、この時点ではまだ存在しません、おそらくはジルジャンだと思いますが。
上は同じソウルトレインにおける「Person to Person」。それにしても1:50辺りからの
プレイは本当に素晴らしい・・・

この頃のフェローンのチューニングはスネアがハイピッチで、ベースドラムはローピッチ、つまり
高音から低音までまんべんなく音が出ているという事です。スネアはピッチが高くはあれども、
決してカンカン・パンパンという、ただヘッドをきつく締め上げただけの耳障りな音色ではなく、
高い音ではあるが甘い音でもあります。そしてベースドラムは ”ちゃんと鳴っている音” です。
ロックポップスのドラムにおけるベードラは、ともすれば ”ドッ” ”ボッ” のような、アタック音が
強調される事が多いです。勿論ハチマキを締めた応援団が叩くような大太鼓みたいに ”ドーン” と
いう音では全体的なサウンドにそぐわないのですが、やはり太鼓本来のサスティーン、余韻を
犠牲にしているのも確かです。彼のベードラは ”ドン” と、締まりはあるが、一方でちゃんと
ドラム本来のサスティーンも感じさせる音色です。ベードラの中に毛布を入れてミュートしたり、
フロントヘッド(お客さんから見える方)に穴を空けたり、ベードラはサスティーンを調整するのが
常ですが、フェローンはそれを最小限にしているのではないかと思われます。

チャカ・カーンの1stアルバムから「Some Love」。ロール( ”ザ~~~” と音が繋がって聴こえる
テクニック)に始まり、竹を割ったようなアクセントショットで締める、このスネアだけでシビれます。
ベースはウィル・リー。鉄壁のリズムセクションとはこの様なコンビを言うのでしょう。
70年代半ばにおいて、特にアメリカのファンクバンド、あるいはウェストコーストロックなどの
ドラマーは、裏面のヘッドを外してしまうのがトレンドでした。余韻の無い、乾いた音色を求めていた
ドラマーが多かったようです。それが確認出来る最も有名な映像がイーグルス「ホテル・カルフォルニア」
におけるドン・ヘンリーのドラム。ユーチューブにて『Eagles Hotel California』で検索すると、
多分一番上に出てきますので興味のある方は。しかし米のファンク・ソウルミュージックを追い求めた
AWB及びフェローンでしたが、音色はこれには倣わなかった様でした。ただし、それ以降に同じく
ソウルトレインへ出演した際には、ベードラのフロントヘッドを外していたり(79年)、以前より
大きく穴を空けていたり(80年代初頭)する映像も観られますので、当然ですが時代によって
その音色は変化していったようです。

80年代に入ってから、ドラムスはパール、シンバルはセイビアンというセッティングが定着します。
前回も述べた事ですが、80年代のドラムはゲートリバーブをかけるのが主流となり、フェローンも
それについてはご多分に漏れませんでした。何回か同様の事を書きましたが、ゲートリバーブの音は
生音では絶対に出ないようなド迫力のサウンドを生み出し、80年代の音楽にマッチングしたのは
事実なのですが、逆を言えば皆同じようなサウンドになってしまい、プレイヤー各々の個性が
損なわれたという一面も否定出来ません。
上はこの時代におけるレコーディングの一曲。アル・ジャロウ「L Is for Lover」(86年)に
収録されている「Across the Midnight Sky」。サンバフィールの本曲は、特にハイハットプレイが
印象的です。これまで取り上げてきたドラマーでも、ジェフ・ポーカロやスチュワート・コープランドを
ハイハットワークの名手と紹介してきましたが、フェローンもその名手の一人であると私は考えます。
冒頭の0:48辺りまでが特に聴き所で、チップ(スティックの先)でタイトに叩くノーアクセント、
ショルダー(スティックの ”お腹” に当たる部分)でハイハットの縁を荒々しく叩くアクセントショット
( ”ヂッ” ”ジャッ” といった音色)。左足の開閉によるオープン・クローズ奏法。そしてダブルストローク
(ワンストロークで2回ずつ叩く、右左一回ずつ叩くシングルストロークの中に織り込むと倍の音符を
叩くことが出来る。この場合はシングルで16分、ダブルで32分音符)の絶妙な組み込み方。
是非ヘッドフォーンでお聴きになる事を推奨します。
それにしてもスティックのお腹なのに ”ショルダー” とはこれいかに・・・
(._+ )☆\(―.―メ)うまいこと言ったつもりか!!!

フェローンのグリップはレギュラーグリップ。左右が同じマッチドグリップと異なり、左手が特有の
持ち方をします。彼のグリップの特徴は左手がスティックを逆に持っているという点。細くなっている
チップで叩くのが通常ですが、彼はその逆です。逆側はグリップエンドなどと呼びますが、チップの
様に細くなっておらず、それで叩くと荒々しい、悪く言えば汚い音色になります。理由は明快で、
レギュラーグリップのパワー不足を補う為。画像で検索して頂けるとマッチドとレギュラーグリップの
違いはお分かりになるかと思いますが、レギュラーは打面に対して角度が付いてしまいます。
ドラムは打面に対して並行に叩く方がパワフルなショットが出来るので、その点では不利なグリップです。
それを解消する為、ドラムの左手前を傾けたり、もしくは左肩を下げてプレイする事で打面に対して
並行にショットしたりもします。しかし左肩を常に下げてプレイする事に違和感を覚えたり、打面は
基本的に地面に対して並行にセッティングしたいと思うドラマーは少なくないので、それでも
レギュラーグリップで音量も稼ぎたい、という望みから音色は多少犠牲にしてもパワーが出る
グリップエンドで叩くドラマーが結構存在します。日本では東原力哉さんがその筆頭です。
右はチップ、左はエンドで叩くと音色にバラツキが生じるのではないかと思ってしまいますが、
人間というものは練習次第でそれを克服してしまう様です。フェローンのプレイを
聴く限り、特にその音色に差が出がちなハイハットにおいても、全くそんな事は感じさせません。
うっとりする程きれいなハイハットワークであるのがお分かりになる事かと。

フェローンが来日した際に行ったドラムクリニックを受講した方のブログに記されていたのですが、
そのクリニックでは超絶技巧などは披露せず、シンプルなリズムパターンを何かの歌を
口ずさみながら、ひたすら気持ち良さそうにプレイしていたのが印象的だったそうです。
テクニックが必要無いなどとは絶対に思いませんが、それだけに固執すると木を見て森を見ず、
大事なものを見失ってしまう事もあるのです。フェローンはそれを改めて教えてくれます。
それを肝に銘じながら練習しましょうね! (`・ω・´) ・・・・・・・・ 
オマエモナ (´∀` )

 

#108 Steve Ferrone

久しぶりに本ブログの本文を果たそうと前回の最後に書きましたが、そうなんです … 一応これ、
ドラム教室のブログなんですよ … ほ、本当です、本人が言ってるんですから間違いありません・・・・・


 

 

 

 チャカ・カーン、アヴェレージ・ホワイト・バンドと続いたのですから、当然今回取り上げるドラマーは
この人、スティーヴ・フェローンです。世界でもトップクラスの技術を持ちながら、決してこれ見よがしに
テクのひけらかしなどはせず、あくまで音楽本位。しかしその合間に超絶テクニックが何気なく垣間見え、
またそのフレーズのセンスが絶品なプレイヤー。セッションドラマーなので、当然あらゆるジャンル、
ジャズのスウィングだろうが、難解な変拍子だろうが、そして勿論エイトビートのR&Rでも素晴らしい
プレイを聴かせてくれるのですが、特に彼の真骨頂はファンク・ソウルにおける16ビートドラミングで
あると私は思っています。

50年、イギリス ブライトン生まれ。祖母がピアノを弾き、祖父はダンサーであったとの事。ドラムを
始めたのは12歳と、あるインタビューで語っていますが、別のコメントではなんと同じく12歳の時に、
ビートルズ・ストーンズと並んで英国を代表するバンド ザ・フーの前座を務めたと言っています。
これはいくら何でも辻褄が合いません。私の拙い英語力のせいもあるのですが・・・
最初に影響を受けたのはご多分に漏れずリンゴ・スター。その後、バーナード・パーディに興味を惹かれ、
やがてジャズの世界へ。エルビン・ジョーンズ、アート・ブレイキー、ジャック・ディジョネットなどに
傾倒する一方で、ジョン・ボーナムなどのロックドラマーにも興味を持ったとの事。

幾つかのセッションワークを経た後、彼の名を一躍世間に知らしめる事となったのは、前回取り上げた
アヴェレージ・ホワイト・バンドへの加入でした。前回ご紹介した、ソウルトレイン出演時の
「Cut the Cake」「School Boy Crush」などをお聴き頂ければわかるかと思いますが、
息づかいが感じられるようなグルーヴ、フォルティシモとピアニシモの対比が絶妙なボリュームにおける
強弱の付け方の妙(所謂 ”ダイナミクスレンジ” )、そして言うまでもないフレージングのカッコ良さ。
それら全てが凝縮されていると私が思うプレイが上の「If I Ever Lose This Heaven」。
エンディングにおけるフィルイン、特に4:20辺りの超高速32分音符の ”手手足足” などは圧巻ですが、
それ以外のさり気ない箇所、例えば2:05辺りのスネアショットとハイハットオープンは、
息を吐きだしている、つまりブレスをしているのが手に取るようにわかります。村上 “ポンタ” 秀一さんが『ドラムこそブレス(息つぎ)が大事なんだよ!』と、折に触れ仰っておられたのがよくわかります。
先に述べた32分音符のテクニカルなフレーズも、ただ難しいプレイも織り込んでやろう、という
浅ましい根性ではなく、音楽的に必要なものとして結果的にあのようなプレイなのです。このフィルは
本曲の終盤で演奏される短い四パターンのフィルの内の最後であり、つまり起承転結における ”結”
に相当するフレーズです。音楽的に必要として自然に出たフレーズで、その為に必要な技術を
駆使した迄なのでしょう。彼ほどの超越したプレイヤーになると、別にテクを見せびらかす事など
全く無用であり、全てが ”グッドミュージック・グッドドラミング” なのです。これは一流の
プレイヤー達全てにおいて言えることです。

76年のライヴアルバム「Person To Person」から「T.L.C.」。1stに収録されている本曲は、
初代ドラマーであるロビー・マッキントッシュのプレイと比較して聴くのも一興です。
ライヴなのでかなり長尺ですが、フェローンの16ビートドラミングを存分に堪能出来ます。
勿論バンドのアンサンブル自体そのものも素晴らしい名演です。

https://youtu.be/C-3oR3cGvfU
80年代に入るとフェローンはセッションドラマーとして引っ張りだこになりますが、上はその内の一曲。
前々回でも触れましたが、スティーヴ・ウィンウッドによる86年の大ヒットアルバム「Back in the High Life」に収録されている「Freedom Overspill」。音色はゲートリバーブ全盛だった80年代の音に
なっていますが、そのグルーヴはフェローンならではもの。ちなみにスライドギターはイーグルスの
ジョー・ウォルシュです。
おそらくフェローンの姿がメディアにおいて映っている機会が最も多いのは、エリック・クラプトンの
大ヒット作「アンプラグド」(92年)です。世にアコースティックブームをもたらす先駆けとなった
本作はクラプトン回(#11ご参照)にて既述ですが、至る所で観る事となる本作の映像にてフェローンの
姿を目にする事が出来ます。フェローンがクラプトンに関わるようになったのはアルバムで言うと
89年の「Journeyman」から。80年代後半から90年代前半におけるクラプトンの活動、つまり劇的な
再々ブレークの瞬間に携わった一人です。80年代半ばに引退まで考え、ようやくそれが吹っ切れた矢先に
起きた息子の悲劇的な事故死、しかしその時は麻薬や酒に溺れず、「アンプラグド」であまりにも見事な
再起を遂げ、結果的には自身にとって最大のヒットとなる。その過程にフェローンは居合わせました。

「アンプラグド」直前の作品「24 Nights」(91年)。91年2月5日から3月9日まで24公演(夜)を
行ったので「24ナイツ」という事。実際には前年の1~2月にも18公演を行っていますので都合42公演。
場所はあまりにも有名なロンドンのロイヤル・アルバート・ホール。余談ですがクリームの解散コンサートも
同ホール(68年)、そしてその再結成コンサートも同じく05年に。
「24ナイツ」から一曲、クリームの代表曲である「White Room」。
https://youtu.be/7ScVsf8JZSY
一回でまとめようかと最初は思いましたが、やはり無理の様です。ですので二回に分けます。
次回は奏法・使用機材などについても触れてみたいと思います。

#107 Average White Band

年初からブルーアイドソウルではない、黒人によるブラックミュージック(変な言い方だな … 馬から落ちて落馬、みたいな)を特集していますが、ここで一度ブルーアイドソウルに戻ります(撤回早ッ!Σq|゚Д゚|p)。
前回まで取り上げていた、チャカ・カーンのソロアルバムにて初期から参加していたイギリス勢、
ヘイミッシュ・スチュアートやスティーヴ・フェローン達によるアヴェレージ・ホワイト・バンド。
このタイミングで彼らを取り上げない訳にはいきません。

 

 

 


オリジナルメンバーは全員英国白人、しかもスコットランド人(別にスコットランド差別ではありません)。
スコットランドと言えば、イギリスでも特にケルト文化が色濃く残り、牧歌的な田園風景が残っていて、
時に神秘的な文化・風習が現在でも踏襲されている情景を思い描いてしまいますが、アヴェレージ・
ホワイト・バンドはアメリカのファンク・ソウル・R&Bといった黒人音楽を、ともすれば本場の人間よりも
グルーヴ感に溢れ、かつエネルギッシュに演奏したバンドです。でもこれは完全な偏見ですね、
エディンバラやグラスゴーにも黒人音楽を聴かせる・演奏する場所は当然あったはずですし。まるで、
日本人は今だにチョンマゲ結って、ハラキリしてる、というのと変わりません。

72年にロンドンで結成。それ以前に地元スコットランドで既に演奏していた仲であったらしいのですが、
ロンドンでトラフィック(スティーヴ・ウィンウッドが在籍していたバンド)のコンサートを
観に来た際に再会し、また一緒に演奏するようになったとの事。そして彼らの演奏を聴いた友人の一人が
その時期の彼らを評してこう述べました ”This is too much for the average white man” 、と。
『平均的白人としては過ぎる』。つまり白人とは思えない程、ブラックテイストに溢れたプレイだった、
という意味でしょうか。これがバンド名の由来となったのは言うまでもありません。
バンドの特色はアラン・ゴーリー(b、vo)とヘイミッシュ・スチュアート(g、vo)によるツイン
ヴォーカル、ファンキーかつソウルフルなホーンセクション、そして初代ドラマーであるロビー・
マッキントッシュのファンクフィールに溢れた16ビートドラミングです。ロビーはジャズフルート奏者
ハービー・マンや、あのチャック・ベリーのレコーディングに参加した程の名手でした。
デビューアルバムを73年にMCAレーベルから出した後、バンドに着目したアトランティックの
超大物プロデューサー アリフ・マーディンが、彼らをアメリカへ呼び寄せ、2ndアルバムを制作させます。
それが上の「Pick Up the Pieces」を含む代表作「AWB」(74年)です。
大変語弊のある言い方を敢えてしますが、スコットランドの田舎者達が組んだバンドを、わざわざ渡米させ、
超豪華ミュージシャン(ブレッカー兄弟、ラルフ・マクドナルド等)をあつらえ、大枚をかけてアルバムを
作らせたのには、マーディンのただならぬ期待があったのでしょう。それは見事に証明されます。
本アルバムとシングル「Pick Up the Pieces」は共に全米チャートで1位を記録。特に「Pick Up the Pieces」はインストゥルメンタル曲でありながらNo.1を獲得するという異例の出来事でした。
しかし本作リリース前にロビーが急逝してしまいます。若干24歳、突然の悲劇でした。
本作からもう一曲、アイズレー・ブラザーズのカヴァー曲「Work To Do」。

ロビーの突然の死という悲劇を、バンドは二代目ドラマー スティーヴ・フェローンの加入によって
乗り越えます。ドラムを演っている人間ならその名前くらいは聞いたことがあると思いますが、
その後世界的トップドラマーとなり、前回までのチャカ・カーンをはじめ、エリック・クラプトン、
ビージーズ、アル・ジャロウなど、数えきれないほどのセッションに参加する事となります。
上は三作目「Cut the Cake」(75年)からのシングルであるタイトル曲。アルバムは全米4位、
シングルは10位という、これまた大ヒットを記録します。
ロビーも素晴らしい16ビートドラミングをプレイするドラマーでしたが、何と言ってもフェローンは
技術・グルーヴ感・センスといった三拍子が完璧に揃ったドラマーでした。

「Cut the Cake」同様にソウルトレインに出演した際の「School Boy Crush」。ロビーが
この様なドラミングが出来なかったという訳では無いと思いますが、黒人ドラマーであるフェローンの
加入により、本作以降はより黒っぽいグルーヴ・フィーリングの楽曲を聴く事が出来ます。
4thアルバム「Soul Searching」(76年、全米9位)。

シングル曲「Queen of My Soul」。本作は再びブレッカー・ブラザーズが参加し、ホーンセクションが
フィーチャーされています。本曲はそれまでにはなかったラテンフィールを持った楽曲。当時一世を風靡した
クロスオーヴァー(フュージョン)の影響は当然にあります。2nd「AWB」こそ至高とするファンには、
洗練され過ぎてしまったという向きもあるかもしれませんが、そのクオリティーは3rd・4th共に
決して引けを取らないものです。後は各々の好みと言うしかありません。

https://youtu.be/PGI8YNa5f-M
その後、セールス的には当初の様な成功を上げる事はありませんでしたが、その音楽的内容も
低下していったのかと言うと、決してそうではありません。
時代の変化と共に当然バンドの音楽性にも変化が見られました。80年、アトランティックを
離れアリスタへ移籍し、デヴィッド・フォスターのプロデュースの下にアルバム「Shine」を発表。
実は当初、本作はアトランティックから出す予定だったのですが、途中で移籍の話が舞い込み、
出来上がっていた素材の一部はアトランティックへ渡し、残りで本作を構成したとの裏話があります
金澤寿和さんのブログに詳しくあるので興味がある人は)。
ディスコ・AORといった当時世間を席巻していた音楽を取り入れ、良くも悪くもソフィスティケート
された内容なので、昔ながらのファンは嫌がる人もいたでしょうし、AORファン、特にデヴィッド・
フォスターの音楽を好む人なら文句なしに気に入るでしょう。また同じ話になりますが、2ndこそ
彼らの真骨頂とするリスナーからすると物足りない内容なのかもしれませんけれども、それは
意固地になって時代の変化を受け入れないというのと紙一重です。AOR世代にとって、
本作は結構高い評価を得ている、というのもこれまた事実です。

そんな事言いながら、私も基本的に、80年代の音楽で止まっていたりするんですけどね・・・
ただ私の場合、これ以上新しいのを追っかけるのは無理だとある時期に思ったので … 実際、ユーチューブで幾らでも聴けるようになった現在においても、50~80年代を再確認するので手一杯です・・・
ですから、オールディーズから最新音楽まで、常にフォローしている人はある意味凄いな、とは思ってます。

チャカ・カーン、アヴェレージ・ホワイト・バンドと取り上げて来ましたので、久しぶりに本ブログの
本文を果たそうかな、と思っています・・・ところでこれって、何のブログだったっけ?(´・ω・`)…
100回以上書いてるのにそれかよ!!!・・・・・ ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ・・・・・

#106 I Feel for You

82年、チャカ・カーンは全編ジャズナンバーのアルバム「Echoes of an Era」をリリースします。
フレディ・ハバード、チック・コリアといったジャズ界の大物達に支えられた本作は、人によって
賛否両論ではあるようですが、チャカのあらゆるジャンルに挑戦していこうという姿勢の表れだった
のではないでしょうか。本作のみワーナーではなくエレクトラから発売されています。
同年暮れには5thアルバム「Chaka Khan」を発表。ますますダンサンブルなエレクトリックファンク
が際立つ様になりました。個人的にはこの手の音楽は決して好みではありませんが、80年代初頭は
猫も杓子もこういった音楽性・サウンドだったので、一概にこの時期のチャカを否定する気はありません。
ダンサンブルな楽曲以外はというと、これも当時の音楽シーンを席巻していた、ジャズフュージョン的な
コンテンポラリーR&B、所謂ブラックコンテンポラリー ”ブラコン” でした。

84年、アルバム「I Feel for You」をリリース。先行シングルであるタイトル曲がチャートを駆け上がり、
彼女のキャリアにおいて最大のヒットとなったのは前々回にて触れた通り(ポップス3位・R&B1位)。
プリンスによる本曲は、元は彼の2ndアルバムに収録されたもの(#49~51ご参照)。チャカの前にも
ポインター・シスターズが取り上げたりもしていたようですが、世間に知られる様になったのはチャカの
ヒットによるものでしょう。冒頭がラップで始まる本曲は、世間に ”ラップ” というものが浸透していった
最初期の楽曲だったのではないでしょうか。ハーモニカはスティービー・ワンダー、
一発でわかります。

本作からもう一つのシングルヒットである「Through the Fire」。日本でもTVなどで使用された
覚えがあるのでお馴染みなのでは。上は本曲の作曲者であるデイヴィッド・フォスターによる、
10年にラスベガスで行われたフォスター&フレンズにおけるコンサートより。本コンサートでは
他にもフィリップ・ベイリー、ケニー・ロギンス、ドナ・サマーなどの豪華ゲストが出演しています。
映像を見る限りドラムはジョン・ロビンソン(ルーファスに在籍していたのでチャカとは旧知)、
ベースは世界で一番忙しいベーシスト ネイザン・イースト、後は特定出来ませんでした…
アルバム「I Feel for You」は米でプラチナディスク、英でもゴールドディスクを獲得。
チャカのキャリアにおいて、商業的には頂点を極めた時期と言って良いでしょう。

ゲストヴォーカルとしても様々なレコーディングに引っ張りだこのチャカでしたが、その中でも
最大のヒットはこれでしょう。スティーヴ・ウィンウッド、86年の全米No.1ヒット「
Higher Love」。
ウィンウッドにとっても最大のヒットとなったアルバム「Back in the High Life」からのシングル曲。
ウィンウッドはアイランドレーベル、チャカはワーナーでしたが、レコード会社の垣根を越えた
デュエットの実現でした。

その後のR&Bシーン(90年代以降のR&Bは、従前のそれとはだいぶ音楽性が変わりましたが)において、
特に黒人女性シンガーの歌唱スタイルと言えば、チャカの様なものがスタンダードになったのでは
ないかと思います。ただし裏を返せば、皆金太郎飴の様になってしまう、と言った側面も
ありますが … しかし、だれでも最初は人の真似から始まるので、一概に否定は出来ません。
チャカだって、アレサ・フランクリンなどの先達をコピーする所から始まったのでしょうから。

最後にこぼれ話を一つ。ティナ・ターナー回(#103)でも触れた曲ですが、86年のロバート・パーマー
によるNo.1ヒット「Addicted To Love」、実はこれにチャカが参加するはずだったという事。
先述の通り、チャカはワーナー、パーマーはウィンウッドと同じくアイランドでしたが、この時は
ワーナー側が許可しなかったらしいのです(「Addicted To Love」のレコーディングは85年中)。
これまたトリビア的な話ですが、何故か本曲が収録されたアルバム「Riptide」のライナーノーツには
チャカの名がクレジットされています(大人の事情でしょうか?)。「Addicted To Love」は
確かにパーマーと、
おそらくは黒人女性であろうシンガーの掛け合いを聴く事が出来ます。
ボンヤリして聴くとチャカに聴こえなくもない感じですが … まあ違います。
(あっ!あれですね (*゚▽゚)!!例えれば『某アイドル(似の娘)がついに!×××で△△△しちゃって!!』みたいな〇Vを、薄目で見れば本人に見えてくる、的なやつ … ちがうがな!!!( °∀ °c彡))Д´)… )
・・・・・が、その後ワーナーもようやく許したらしく、翌年にはウィンウッドとの共演が実現し、
先の通りの大ヒットとなった訳です。ちなみにパーマーは98年のチャカのアルバムに参加しています。

この三人が出演しているコンサートがあります(三人で同時にステージに上がっている訳ではないですが)。
97年8月、ロンドンの有名なウェンブリーアリーナにて行われた『カールスバーグ・コンサート』。
念のためカールスバーグとはあの有名なデンマークのビールメーカー。そう言えばしばらく飲んでないな … どんな味だったっけ?・・・・・失礼 … もとい、ロッド・スチュワートなども出演したかなり大掛かりな
コンサートだったようです。まず、チャカとパーマーによる「サティスファクション」。言うまでもなく
ローリング・ストーンズの代表曲。そしてマーサ&ザ・ヴァンデラスの「Dancing in the Street」の
イントロが流れる中を一度二人は袖にはけ、お次にウィンウッドが登場。前半は一人で歌いますが、
途中からチャカが再登場し、ウィンウッドともデュエット。一つ目の動画などはかなり画質が悪いですが
(アップしてくれた人ゴメンなさい)、「Addicted To Love」で実現されなかったソウルフルな
掛け合いを目の当たりにする事が出来ます。チャカとウィンウッドの共演も言うまでもなく素晴らしい。
余談ですけども演奏屋の性で(あっ!念のため言っときますが、この ”性”  は「セイ」じゃなくって
「サガ」って読むんですよ (*゚▽゚)!。
やだなあ~!すぐエッチな方に・・・( °∀ °c彡))Д´)…)
ついバックのメンツを探ってしまいますが、ドラムは超絶テクニックを誇るヴィニー・カリウタ、
シンプルなエイトビートを演ってもやはり超一流です。ベースはこれまたネイザン・イースト、
この人いつ寝てるんでしょう?・・・

https://youtu.be/Qyq4GaPt8gk
https://youtu.be/viI3UeYT8yg
英国を代表するアリーナで、アメリカ人とイギリス人が双方の国の楽曲を共に歌う。
政治・経済などの他の分野では、この二国が無条件で良好な関係か否かはわかりませんが、
少なくともポップ・ミュージックの分野では良い関係の様です。それはお互いが、相手の音楽に
尊敬と敬意を持っているからに他なりません。
なにかと言えばイチャモンばかりつけてくる国々とは大違いで・・・(あっ!余計な事を!!(#゚Д゚))
・・・・・架空の国ですよ、私の頭の中にあるだけの夢物語です。・・・・・

#105 Chaka

ルーファス後期において、チャカ・カーンがソロ活動を並行して行っていたのは前回述べた通り
ですけれども、今回はチャカのソロワークに焦点を当てて書いていきます。

 

 

 


シングル「I’m Every Woman」と共に、1stソロアルバムが大ヒットした事も前の回で既述の所ですが、
本作「Chaka」は、ソウル・R&Bシーンに輝く名盤です。

その音楽性を言い表すならば、コンテンポラリーR&Bとでも呼ぶべきものでしょうか。二作目以降は
ダンサンブルなファンクミュージック色、手っ取り早く言えばクインシー・ジョーンズ&マイケル・
ジャクソンの様なカラーが強まっていきましたが、本作は正統派ソウル・R&Bのテイストを残しながら、
フュージョン、AOR、勿論当時一世を風靡していたディスコをうまい具合にブレンドした、78年時点に
おけるコンテンポラリーソウル・R&Bというものを
見事に体現した一枚です。
上の「Love Has Fallen on Me」は、リチャード・ティーのゴスペルフィーリングに溢れたピアノが
あまりにも素晴らしいナンバー(こういったピアノを弾かせたら彼の右に出るプレイヤーはいなかった
のではないでしょうか)。個人的には本作のベストトラックです。

お次の「Roll Me Through the Rushes」。プロデューサーはアトランティックソウルの立役者
アリフ・マーディンであるのですが、まるでフィラデルフィアソウルの様なスタイルを持った楽曲。
前曲においても同様であるコーラスとの見事な掛け合い、また中盤のチャカによるテンションの上がり方は
本当に素晴らしい。中身が良ければジャンル分けなどどうでも良いのです。

ジョージ・ベンソンとのデュエット曲「We Got the Love」。楽曲もベンソン作で、「ブリージン」に
収録されていても違和感の無い様なナンバー。根っからのジャズファンの中にはこの当時のベンソンを
嫌う人もいますが、本曲のような軽快感・爽快感は、70年代のクロスオーヴァー(フュージョン)ブームを
体験した人にはたまらないものでしょう。ちなみに本曲のみベースはギタリストのフィル・アップチャーチ。彼は「ブリージン」にてリズムギターとベースも担当しているので、それが本曲における起用の所以かと。

スティービー・ワンダーのこの曲もカヴァーしています。67年全米2位の大ヒット曲「I Was Made to Love Her(愛するあの娘に)」。チャカは ”Her” を ”Him” に変えて歌っています。スティーヴ・
フェローンのタイトなドラミングがあまりにも素晴らしい。

80年、2ndアルバム「Naughty」をリリース。基本的に前作の音楽性を踏襲した作品ですが、前述の通り、
よりダンサンブルかつポップな仕上がりとなっています。ですがクオリティーの高さは秀逸で、昔ながらの
ソウル・R&Bというものに拘らなければ前作同様の傑作と言って過言ではないと思います。
本作より「So Naughty」と「Move Me No Mountain」。「Move Me ~」はディオンヌ・ワーウィックがワーナーに在籍していた75年のアルバムに収められていた一曲のカヴァー。ディオンヌの中では決して
売れたアルバムではありませんでしたが、チャカ本人か、それともアリフ・マーディンによる選曲であるのか
は判りませんが、素晴らしいセレクションであり、先輩に敬意を表している所も立派。ちなみに本作では
ソロデビュー前のホイットニー・ヒューストンがコーラスで参加しています。前回も触れた所の
「I’m Every Woman」のホイットニーによるカヴァーはこの辺りから繋がっているのかと。
81年、3枚目のアルバム「What Cha’ Gonna Do for Me」を発表。よりファンキーでエレクトリックな
方向性となっています。リチャード・ティーやブレッカー兄弟といったニューヨーク勢、アヴェレージ・
ホワイト・バンドのヘイミッシュ・スチュアート、スティーヴ・フェローン達イギリス勢は引き続き参加。
更にジャズ界からハービー・ハンコック、ルー・ソロフ、そしてなんと超大御所ディジー・ガレスピーも。
自身によるスタンダードナンバー「A Night in Tunisia(チュニジアの夜)」にて演奏しています。

本作は1st同様にゴールドディスクを獲得。タイトル曲はシングルカットされR&BチャートでNo.1ヒットと
なります。
まだまだチャカの活躍は続くのですが、その辺りはまた次回にて。

#104 Once You Get Started

ティナ・ターナーの「What’s Love Got to Do with It(愛の魔力)」が全米1位の大ヒットと
なっていた頃(84年の9月に三週連続1位)、ある黒人女性シンガーの楽曲もチャートを急上昇
し始めました。チャカ・カーン「I Feel for You」。チャカにとって最大のシングルヒットとなる
その曲は、11月から12月にかけて最高位3位を記録します。圧倒的な歌唱力を誇り、ソウル・R&Bに
留まらず、ジャズ・フュージョンまで幅広くこなすその歌唱テクニックは、歴代女性シンガーの中でも
トップクラスのものではないでしょうか。

53年シカゴに生まれる。親はボヘミアン(定住しない人々)でビートニク(所謂 ”ヒッピー” )だった
そうです(括弧の定義はあくまで私の思う所なのでツッコミはご勘弁)。つまりかなりフリーキーな
環境で育ったという事。祖母の影響でジャズを聴き始め、やがてR&Bに傾倒していき、10代前半には
音楽活動を始めていました。地元シカゴでいくつかのバンドを経た後、同じく地元のバンド ルーファスに
加入します。言うまでもなくこれが彼女を名を全米に知らしめるキッカケとなります。
2ndアルバム「Rags to Rufus」(74年)からの第一弾シングルである、スティービー・ワンダー作の
上記「Tell Me Something Good」がポップス・R&B共に全米チャートにて3位の大ヒットを記録。
如何にもこの時期のスティービーらしい粘っこいファンクナンバーで、バンドはグラミー賞を受賞し、
アルバムもゴールドディスクを獲得します。

2ndシングルである「You Got The Love」も大ヒット(ポップス11位・R&B1位)。
上は『ソウル・トレイン』に出演した際のもの。本曲はチャカとレイ・パーカー, Jr. による共作。
レイ・パーカーは84年の大ヒット映画『ゴーストバスターズ』のテーマ曲で有名ですが、実は非常に
卓越したテクニックを持ったギタリスト・コンポーザーであります。

同年には早くも3rdアルバム「Rufusized」をリリース(凄いペース…)。1stシングルが上の
「Once You Get Started」(ポップス10位・R&B4位)。ベイエリアの超絶技巧ファンクバンド
タワー・オブ・パワーのブラス陣を従え、素晴らしいジャンプナンバーとなっています。
話は逸れますが、吉田美奈子さんのライヴアルバム「Minako Ⅱ」(75年)で本曲をオープニングナンバーに演っており、そちらも素晴らしいものです。松木恒秀さん(g)、佐藤博さん(key)、村上秀一さん(ds)、そしてコーラスで山下達郎さんと、その後大御所となるミュージシャン達がまだ若かりし頃の、
エネルギーに溢れた歌と演奏が堪能できる名盤です。(他にもビッグネームが参加していますが
書き切れないので割愛。こちらの方のブログに詳しく記載されています。)

その後もチャカが在籍したルーファスのアルバムは殆どがゴールド・プラチナを獲得し、それは彼女の
人気に因るものと衆目が一致するところでした。しかし、バンドと彼女との関係にはやがて暗雲が
立ち込み始め(特にドラムのアンディと)、作品毎にメンバーが変わる事態となりました。
チャカはバンドに在籍しながら、ソロとしてのデビューをワーナーと契約します。
ソロ活動で多忙になった為、バンドはチャカ抜きでレコーディングする機会が多くなりました。
それでも彼女は完全にバンドから離れる事はせず、ソロワークの傍らでルーファスに参加し続けます。

ミリオンセラーとなった79年のアルバム「Masterjam」からの1stシングル「Do You Love What
You Feel」。本作のプロデュースはクインシー・ジョーンズ。とにかく70年代半ば以降の
ミュージックシーンは、クインシーかヴァン・マッコイか、というくらいにディスコ・ダンスミュージックの時代だったようです。あのローリング・ストーンズでさえディスコを取り入れたほどでしたから。

https://youtu.be/P4p1k6YIc1U
チャカの1stソロアルバム「Chaka」(78年)はポップス12位・R&B2位という大ヒットを記録します。
とにかくワーナーの力の入れ様がありありと伺えます。プロデュースはアリフ・マーディン。参加
ミュージシャンを以下に列挙しますが名前だけ。詳しく知りたい人はコピペして自分で調べて下さい。
如何に物凄いメンツかが判ると思いますから。スティーヴ・フェローン、ウィル・リー、フィル・
アップチャーチ、リチャード・ティー、アンソニー・ジャクソン、マイケル・ブレッカー、ランディ・
ブレッカー、コーネル・デュプリー、ジョージ・ベンソン、デイヴィッド・サンボーン etc.・・・
念のため言っときますけど、復活の呪文とかじゃないですよ … わかっとるがな!!( °∀ °c彡))Д´)・・・
ジャズ・フュージョンに興味のある方なら、この人達がどれほどのビッグネームかがおわかりでしょう。
ワーナーの期待を裏切る事無く、アルバムはゴールドディスクを獲得。上は本作からの第一弾シングル
「I’m Every Woman」(ポップス21位・R&B1位)。一般的にはホイットニー・ヒューストンによる
93年のレコーディングの方が有名かとは思いますが、ホイットニーファンの方々には本当に申し訳
ありませんけども、この曲に関しては、その他のカヴァーを含めても圧倒的にチャカのヴァージョンが
白眉だと思っています(※あくまで個人の感想です)。もっともホイットニーもきちんと敬意を表して、
エンディングの方でチャカの名を上げてますけれども。

チャカのソロワークによる多忙さから、ルーファスが彼女抜きでの活動を余儀なくされたのは
前述した通りですが、83年のアルバム「Seal in Red」(チャカは参加せず)が最後のスタジオアルバムと
なりました。ただし、同年10月にリリースされたライヴ盤「Stompin’ at the Savoy – Live」には
スタジオ録音の新曲も含まれており、シングルカットされた「Ain’t Nobody」は最後のヒット曲と
なり(ポップス22位・R&B1位)、また二度目のグラミー賞の受賞をもたらしました。
この曲の成功をもって、ルーファスとチャカは別々の道を歩み始めます。良好な袂の分かち方だったと
言えるでしょう。そしてチャカは、最初の方でも触れた「I Feel for You」による世界的成功を収める事と
なるのですが、その辺りはまた次回以降にて。

#103 Private Dancer

アイク&ティナ・ターナーの解散による興行中止などから生じた負債を引き受けたティナは、
ラスベガスのキャバレーを巡業するようになります。ラスベガスでのキャバレーにおけるショーと
いうものが、日本で言う所の ”ドサ回り” と同じとは言えないかしれませんが、かつて全米TOP10
ヒットを出し、アルバムもミリオンセラーとなったシンガーとしては、やはりなりふり構わない仕事の
選び方だったのではないかと思われます。

 

 

 


ティナは当時マネージャーであった人物に対し、ロッド・スチュワートやローリング・ストーンズの様に、
アリーナを満席に出来るようになりたいとの思いを語りました。彼はティナに対し、バンドを今風のロック的に再構築するようアドバイスしたとの事です。この頃のティナのステージングがどの様なものであったかは
わかりませんが、おそらく従来のソウル・R&B的なショーを行っていたのでしょう。70年代半ばからソウルミュージックの人気が凋落していく中で、彼の助言は商業的には的を得たものだったでしょう。そして
ティナは実際にロッドやストーンズの前座としてステージに上がりました。

前回も触れた通り、83年にアル・グリーン「Let’s Stay Together」のカヴァーがヒットし、久しぶりに
メインストリームへと返り咲きました。キャピトルへ移籍しての第一弾シングルが当たった事もあったの
でしょう、翌84年リリースのアルバム「Private Dancer」はキャピトル側の並々ならぬ熱意が感じられる
豪華な顔ぶれです。ジェフ・ベック、元キング・クリムゾンのメル・コリンズ、マイケル・ジャクソンの
ビリー・ジーンにおけるドラムで有名なンドゥグ・チャンクラー、ジャズ界からはジョー・サンプルや
デイヴィッド・T・ウォーカーといった物凄いメンツです。またティナの復活劇にはデヴィッド・ボウイに
よる強い後押しがあったとされています。#77にてデヴィッド・ボウイを取り上げましたが、84年の
アルバム「Tonight」におけるタイトル曲で二人はデュエットしています。興味深いのは、この時期
低迷していた彼女を支えていたのが、ストーンズ、ロッド、ボウイといった英国のミュージシャンだった
という事。本国では飽きられていったかつてのソウルの女王を救ったのは海の向こうの同業者達でした。
イギリス人の根強いブラックミュージック志向がこの事からも伺い知れます。ちなみに本作の
レコーディングも二か月に渡ってロンドンにて行われました。本作からの最初のシングルカットが上の
「What’s Love Got to Do with It(愛の魔力)」。全米1位の大ヒットとなります。

タイトルトラックの「Private Dancer」。ダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーによる本曲は、
元は82年の自身達のアルバム用に作られた曲でしたが、ノップラーはこれは男性が歌う曲ではないと考え、
お蔵入りにしました。契約上の問題もあり2年の間塩漬けとなっていましたが、84年にその問題が解消し、
ティナに提供されたという訳です。ノップラーは録音には参加せず代わりにジェフ・ベックが弾いています。

上の「I Might Have Been Queen」から始まる本アルバムは、全米で500万枚以上を売り上げ、
ティナの見事な復活を象徴する作品であるのは、前回述べた通りです。
私はリアルタイムでこの当時の洋楽を経験しましたが、ちょっとオーバーな言い方かもしれませんけれども、
洋楽紹介番組などでは(そんなにありませんでしたが)、彼女に触れない時の方が少なかったのでは
ないかと言うくらいに至る所で取り上げられていました。「プライベート・ダンサー」でのグラミー賞の
受賞、チャリティーソング「ウィ・アー・ザ・ワールド」への参加など、その話題には事欠きませんでした。
また映画『マッドマックス』への出演など(観た事ないですが…)、女優としても活躍しています。

次作「Break Every Rule」(86年)も大ヒット。「Typical Male」(上は90年のライヴ)、下の
「What You Get Is What You See」などのシングルヒットを生み出します。

前作に引き続き、超豪華なメンツが参加しています。書き切れないので省略しますが・・・
上のシングルカットされた2曲を聴いてわかる通り、ダンサンブルなファンクナンバー、ストレートな
R&Rと、従来のソウル・R&B的な楽曲とサウンドではありません。これはティナに限った事ではなく、
85年にアレサ・フランクリンも「Freeway of Love」で久々にヒットチャートの上位に昇ってきましたが、
やはり従来のアレサ的なそれではありませんでした。これを歓迎したか、嘆いたかは人それぞれだった
でしょうが、時代がそういう時代だったのです。さらに言えば、ソウル・R&Bと呼ばれるものは共に
流行音楽の一つに過ぎないと言う事も出来ます、なので流行りを受けて変化していくのは仕方が無い面も
あるのです。ティナに関して言えば、先述の通り、アリーナを満杯に出来るようになりたいと思って
この音楽的変化を承知で演ったのです。彼女はそれで成功した黒人シンガーの筆頭だったでしょう。
しかし、ティナにしろアレサにしろ、その歌は紛うことなきティナ節・アレサ節だったと思います。ソウル
ミュージックの本質はその辺にあるのではないかと私は思うので、この時代の彼女達の一連のヒット曲を
一概に ”昔と変わってしまった・時代に迎合した” と否定するのもどうかと思うのです。

オリジナルアルバムのリリースこそ99年が最後となっていますが、その後も単発での楽曲の発表及び
コンサート活動は行ってきました。しかし10年代に入ってからは健康面で数々の問題が生じている様です。

最後に取り上げるのはロバート・パーマーの大ヒット曲「Addicted To Love」(86年)のカヴァー。
88年のライヴアルバム「Tina Live in Europe」に収録された本曲は、その後のベスト盤にも収録される
彼女の十八番と言っても良い楽曲。ティナは86年のツアーから本曲をレパートリーとしていたそうで、
パーマーのオリジナルに勝るとも劣らない名演です。
裸一貫で再出発を始めた時に、アリーナを満杯に出来るように願ったティナですが、「プライベート・
ダンサー」での再ブレーク以降はその思いを叶えました。実際ユーチューブで検索するとアリーナでの
ライヴ動画が山ほど出てきます。しかし、これはあくまで私個人の考えですが、特にティナのような
ソウルシンガーに関しては、所謂 ”ハコ” 、ライヴハウス・ある程度までの規模のコンサートホールで
聴くのがベストだと思います。ステージのミュージシャンは豆粒ほどにしか見えないアリーナ・ドーム・
野外フェスの最後列でも、最近のPA環境の発展により音質はだいぶ向上しており、前列の方と
遜色なくなってきていると聞きます。ですが、人間の声に関しては、たとえわずかばかりでも
その空気の振動が伝わる範囲で味わう方が良い気がするのです(それも気分的なものでしょうけど…)。
下はロンドンのカムデン・シアター(現ココ・クラブ)におけるライヴ。PV用に撮られた映像と
いうのも勿論ありますが、オーディエンスとの一体感はやはりホールならではのものでしょう。
まだまだそのワイルドかつエネルギッシュな歌声を世界中に届けて欲しいと願うばかりです。

#102 River Deep – Mountain High

前回のテーマであるアル・グリーン「Let’s Stay Together」について、私の世代ではこの人のカヴァーで
初めて耳にした人が多いかと思います。

83年11月にリリースされた本曲は、全米チャートにてポップス26位・R&B3位のヒットとなります。
当時はよくわかりませんでしたが、それまで公私共に長く続いた彼女の不遇の時代から抜け出すキッカケと
なった曲でした。そして翌年、本曲を含むアルバム「Private Dancer」は全米だけでも500万枚を超える
メガヒットとなり、まさしく ”ティナ・ターナーここにあり” 、という見事な復活劇を遂げたのでした。
前回の終わりの方で長いキャリアを持ち、現在でも活動中の黒人シンガーを列挙しましたが、「あれ、
ティナ・ターナーは?」と思わた方、あなたはするどい。今回から取りあげる為にあえて外したのです。
(べ、別に忘れていた訳じゃないんだからね!ご、誤解しないでよね!!)・・・

39年、テネシー州生まれ。セントルイスのクラブに出演していた、後に夫で音楽的パートナーとなる
アイク・ターナーの音楽に魅かれ、やがて17歳の時には彼のバンドで歌うようになっていました。
60年、上の「A Fool in Love」でシングルデビュー。それまで ”リトル・アンナ” と名乗っていたのを
(本名はアンナ・ブロック)、レコードデビュー前にティナへと改名します。アイクが好きなアメリカン
コミックで、『ジャングルの女王シーナ(Sheena)』という漫画があり、その主人公の名前にかけた
との事( ”シーナ” と ”ティナ” )。小柄で細身のティナでしたが、そのパワフルな歌はジャングルの女王を
想起させるものであり、実際その当時のステージでは、シーナというキャラクターの衣装を身に着けて
歌っていたようです。「A Fool in Love」はポップスチャートで27位・R&B2位のヒットとなります。

翌61年、「It’s Gonna Work Out Fine」がポップス14位・R&B2位と、ポップスチャートで
TOP20に入るヒットとなり、グラミー賞へもノミネートされました。アイク&ティナ・ターナーは
人気・実力ともに世間が認める所となっていきました。
初期におけるティナの歌唱スタイルはかなりヒステリックなシャウト(雄たけび?)が印象的です。
人によって好き好きは分かれる所ですが、これが彼女本来のスタイルであったのか、それとも『ジャングルの
女王シーナ』を意識して、アイクがその様な歌い方を要求したのか、以前は判りませんでした。
ちなみに62年に籍を入れる二人ですが、60年のデビュー頃には既にアイクによるティナへの
身体的・精神的虐待、所謂DVは始まっていたとの事です。

https://youtu.be/hzQnPz6TpGc
彼女たちのキャリアにおいて最大のヒットは71年の「Proud Mary」(ポップス4位・R&B5位)です。
言うまでもなくジョン・フォガティ作のCCRによる69年の大ヒットナンバー。本曲においてアイク&
ティナ・ターナーは初の、そして唯一のグラミー賞を獲得。同年に発売したカーネギー・ホールでの
コンサートを収録したライヴアルバムはミリオンセラーとなります。73年には彼女たちのアルバムとしては
最大のヒットとなる「Nutbush City Limits」(ポップス22位・R&B11位)をリリース。
アイク&ティナ・ターナーとしてはこの頃が黄金期がであったと言えるでしょう。

https://youtu.be/qHBEw9I999o
アイク&ティナ・ターナーの楽曲の中で、私がベストトラックと思うのが上の「River Deep –
Mountain High」(66年)。フィル・スペクターによるこの名曲は、本国ではレコード会社の
プロモーション不足などもあり(フィルはこれに対しかなり怒ったらしい)、ポップスチャートで
88位、R&Bチャートにいたっては圏外と振るいませんでした。しかし米以外のヨーロッパ各国や
豪においては、全英チャートの3位をはじめとして大ヒットを記録します。
今回調べている中で、ティナの自伝にて本曲のレコーディング時の事が記されている事を知りました。
はじめはフィルの ”変人” ぶりに面食らったティナでしたが、やがて曲の素晴らしさ、フィルの創作の
進め方に関心していったそうです。ティナはいつものようにアドリブでシャウトを入れましたが、
フィルにそれをたしなめられます、”メロディを素直に歌ってくれ”、と。ティナの歌唱スタイルについては
先述しましたが、どうやらそれはアイクに叩きこまれたスタイルだったようなのです。フィルはティナに
言いました、「僕は君のシャウトに対してではなく、声に惚れ込んだ。だから君とレコーディングが
したかったのだ。
」、と。そうしてこの傑作は完成します。フィル・スペクターが手掛けた数多の作品の
中でも、「Be My Baby」などと並び、所謂 ”ウォール・オブ・サウンド(フィル・スペクター・
サウンド)” を象徴する、彼のベストワークの一つと称えられています。

70年代半ばから、アイクのコカイン中毒と暴力がますます深刻化し、さらにデュオの人気は低迷、
長らく続いた法廷闘争などの末、78年に正式に離婚が成立しました。音楽的パートナーシップも
解消し、彼女はソロの道を歩み始めます。続きはまた次回にて。