#11 From the Cradle

私がリアルタイムで洋楽を聴いていた80年代、クラプトンは割と”過去の人”扱いだったと記憶しています。
当然新作を出せばある程度ヒットはするのですが、それは60~70年代における売れ方とは違いました。
”オシャレでポップで、なおかつダンサンブル”な80年代の音楽シーンにおいて、クラプトンは試行錯誤
していたようです。マネージメントサイドからフィル・コリンズをプロデューサーに、と提案された事は
戸惑いであったと後に語っています。フィルとはそれ以前から知り合いであり、フィルの人の良さから、
人間関係はとても良いものが築けたようですが、音楽性はあまりにも違う、というのが正直な感想だった
ようです(これは衆目の一致する所)。フィルは
 80年代、最も忙しい男、と言われた程、シンガー、
ソングライター、プロデューサー、そして本職のドラマー(本当に忘れ去られているかもしれませんが、
彼はとてもテクニカルで、素晴らしいグルーヴを持ったドラマーなのです。キャリアの出発点は
あくまでジェネシスのドラマー)として、その余りある才能で、世界中を飛び回っていました。
しかしクラプトンの音楽性とは相容れないのではないか、というのは従来のそれぞれのファン達、
そして本人たちも感じていました。一言で言えば”過渡期”であったということでしょう。
また。アルコール依存症もかなり悪化しており、さらにパティとの関係も終焉へと向かいつつある
ような状況で、80年代半ば、クラプトンは引退まで考えてしまう程になりました。

あまりのアルコール依存症に、さすがに本人も、このままではいけないと決意し、禁酒プログラムに
通うようになります。色々あったようですが、80年代後半には、何とか酒も絶つことが出来た様です。
その時期に、彼には子供が出来ます。イタリア人女性との間に生まれた息子「コナー」です。
パティとのエピソード同様、あまりにも有名な話ですので、あくまで簡潔に。
91年3月20日、コナーは当時、母親・祖母と共に住んでいたN.Y.の高層マンションから転落死します。
ちょっとした不幸なタイミングの悪さ、偶然が積み重なって起きた事故でした。前日19日、
クラプトンは
初めてコナーと、誰も伴わずに二人きりで出かけました。
サーカスを観に連れていってあげたそうです。
コナーは象を見てとても喜こび、
これからはコナー達の家に行った時は、自分一人で彼の面倒を見ようと
思ったそうです。
世界中から悔やみの手紙などが届き(ケネディ家からチャールズ皇太子まで)、大変驚いたとの事ですが、
最初に封を開けた手紙は、10代の頃からの”悪友・先輩”でもあった、キース・リチャーズからのもの
だったそうです。そこには「何かできることがあったら、知らせてくれ」とだけ書いてあったそうです。
クラプトンはこれには大変感謝したと後に語っています。
世界中のファン達が、またドラッグとアルコールに溺れてしまうのではないか、このまま引退して
しまうのではないかと心配しました。当然、しばらくは喪に服し、表舞台からは消えていましたが、
この間クラプトンは常に古いガットギターを側に置き、特にリリースする意図をもって作った
訳でもなく、何ともなしに曲を作っていたりしたそうです。
その時期に書き上げたのが、「Tears In Heaven」「Circus left the town」(コナーが亡くなる
前日に、一緒にサーカスを観に行った時のことを歌った曲)です。
まず92年初頭、「Tears In Heaven」が映画のサントラに使用され大ヒット、さらにかねてから
打診されていたMTVの番組として「Unplugged」が収録・放映されます。これにはクラプトン自身も
満足し、評判も非常に良かった。しかしアルバム化が決まった時、自身はそれ程のものではない、
限定版で発売すべきだと言っていた様なのですが、蓋を開けてみれば空前の大ヒットを記録します。

ここから先は説明不要なほど、見事な”クラプトン復活”といった状況になったのは周知の事。
しかし、私は彼が凄いのはこの後だと思っています。”「Unplugged」第二弾”の様なアルバムを
作れば、再度のビッグセールスは間違いなかったでしょう(実際マネージメントサイドは
それを望んでいた)。だがそれをしなかった。勝って兜の緒を締めよ、ではないですが、
ここでクラプトンは時流に乗らず、自分のルーツを見つめなおす「原点回帰」を行いました。
「From the Cradle 」。マディ・ウォーターズ、エルモア・ジェイムス、そして最もクラプトンに
影響を与えたであろう ロバート・ジョンソン。全曲ブルースのスタンダードカバーで占められた
本作は、周囲の懸念を他所に、アルバムチャートで見事にǸo1ヒットとなりました。そして
そのまま2年近く、「wonderful tonight」も、あろうことか「layla」すら演らないという、
『Nothing But The Blues』ツアーを行います。「Unplugged」で初めてクラプトンを知った、
アコギを座って弾きながら、「Tears In Heaven」の様なバラードを歌っている渋いオジサン
(勿論これが悪いと言っているわけではないです)といった認識しかなかった人たちには、
良かれ悪しかれ刺激が強かったのではないでしょうか。
更に、映画のサントラに提供した「Change the World」も大ヒット、勢いは留まることなく、
00年には、B.B.キングとの共作「Riding with the King」をリリース、これも大ヒットします。
大物同士の共演というのは、企画倒れ、エゴのぶつかり合い、などに終わってしまうことが
珍しくないのですが、当アルバムはお互いを認め合った、時に相手を尊重し、時に火花が出る様な
プレイが繰り広げられ、誠に素晴らしい共演作となっています。これもクラプトンの、ブルースに
対する造詣の深さ、尊敬の念、そしてそれを認めた故の、B.B.の全てを包み込むようなスケールの
大きなプレイ、といったものの結晶だったのではないでしょうか。生半可な”ブルースが好きです”
といったミュージシャンでは、このような作品はB.B.と共に作れなかったでしょう。

この時期、全てが順風満帆で、楽しい事ばかり、クラプトンも浮かれていた、というわけでは
なかったようです。先述した「Unplugged」後に生じたマネージメントサイドとの亀裂が
深まり、弁護士が介入する程のトラブルになり(結局その長年のマネージャーとは決裂)、
さらにストーカーのような女性も出現したりしていたそうです。
また、クラプトンは自身の薬物・アルコール依存の反省から、自分同様の人たちを救済する
手段を考えていました。「クロスロード・センター」の設立です。自身が発起人の一人となり
設立・運営に携わりました。その資金の為に、自身のギターコレクションをオークションに
かけます(99年と04年)。70~80年代にかけて彼の愛器であった ストラトキャスター
”ブラッキー” が約1億円の値で競り落とされたのは、かなり話題になりました。

この時期、彼にはある出会いがありました。(先のストーカーじゃないですよ(´・ω・`))
長くなりましたので、続きはまた次回に。(いつまで続くのかな・・・(´・ω・`))

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