#101 Let’s Stay Together

昨年の間、長々と書き垂れてきた80年代特集の中で、ブルーアイドソウルという単語をしばしば
用いましたが(ブルーアイドソウルの意味については#56のホール&オーツ回で触れましたので、
よろしければそちらをご参照の程)、ではブルーアイドではないソウル、本物の、
黒人によるソウルミュージックって何?と問われると、意外に答えに戸惑うかもしれません。
黒人が演る音楽は全てソウルなのか?R&Bとソウルは何が違うのか?ゴスペルは?ファンクと
呼ばれるブラックミュージックもあるよね?と、様々な疑問が湧いて出てきます。
結論から言うと、明確な定義付けなどありません。クラシックの様に音楽用語全てが厳密に
定められているのとは異なり、ポピュラー音楽ではこれらは曖昧なのです。以上 ( ・`ω・´) キリッ!
・・・・・・・・・・・・・・あっ、( ;゚д゚) … これでは、このブログが終わってしまうので …
お願いです、もうちょっとだけ続けさせてください ……… 。゚・(´;ω;`)・゚。
という訳で、しばらくの間、ソウルに代表されるブラックミュージックを取り上げていきます。

白状しますと、私も英米の白人によるロック・ポップスをメインで聴いていたので、黒人音楽を
偉そうに語るほどの知識があるかどうかは疑問なのですが、自分にとっての再確認の意味も込めて
書いていきます。
誰にしようかと思いましたが、何となく真っ先に浮かんだのがこの人・この曲でした。71年の大ヒット、
アル・グリーン「Let’s Stay Together」。ポップスチャートとR&Bチャートにて全米1位を
記録した本曲は、マーヴィン・ゲイの「What’s Going on」などと共に、70年代における
ソウルミュージックを代表する楽曲です。

 

 

 


46年、アーカンソー州生まれ。10人兄弟の6番目の子供であり、幼少期は兄弟でゴスペルを
歌っていたそうです。しかし、彼の音楽的興味はジャッキー・ウィルソン(サム・クックなどと
並びソウルの開祖とされるシンガー)、ウィルソン・ピケットやエルヴィス・プレスリーなど
へと移っていったようです。彼の父親的にはそれはお行儀の良くない音楽だったらしく、
アルは兄弟で組んでいたゴスペルグループを追い出されたとの事。

67年にマイナーレーベルからアルバム1枚を出した後、ハイ・レーベルへ移籍。2枚のアルバムを
リリースし、やがて71年に前述した「Let’s Stay Together」の大ヒットへと相成る訳ですが、
上はその一つ前のシングルであり最初にゴールドディスクを獲得したヒット曲「Tired of Being Alone」
(71年、ポップス11位・R&B7位)。アル・グリーンと言えば、一般的には甘く囁くように歌いあげる
ヴォーカルスタイルが特徴と思われているのですが(私も昔はそう思っていました)、本曲が収録されている
「Al Green Gets Next to You」(71年)迄は結構違っていました。先述の通りウィルソン・ピケット、エルヴィス・プレスリー、そしてジェームス・ブラウンを好み、初期の歌唱スタイルは彼らに影響を受けたものだったようです。ハイ・レーベルへ移ってから、アルのソフトな歌声にセールスポイントを見出した
マネージメントサイドが、徐々に変えるようにアルへ促していったと言われています。
シングル「Let’s Stay Together」の世界的ヒット、翌年に発表した同名アルバムも大ヒットを記録
(ポップス8位・R&B1位)。本作においてソフト路線はさらに極まり、アル=ソフトなラブソングシンガーというイメージが定着したようです。これがアルが本当に望んだ事だったのかどうかは測りかねる事ですが、
それまでソウル界において、男性のセックスシンボル的存在であり、愛や性について歌ってきたマーヴィン・ゲイが「ホワッツ・ゴーイン・オン」で社会派なメッセージを発し、スティーヴィー・ワンダーは成人して
モータウンの言いなりにはならずに独自の音世界を構築し始め、そしてダニー・ハサウェイやカーティス・
メイフィールド達によって ”ニュー・ソウル” と呼ばれる、それまでとは異なるソウルミュージックが
創り上げられました。これらは勿論素晴らしいものであり、私も大好きなミュージシャン達ですが、
世間一般には ”難しい” ものとして受け取られるという側面もありました。あのセクシーなマーヴィンが、
可愛い天才シンガー リトル・スティーヴィーが変わってしまったと。
悪い言い方をすれば、アルはその隙間を突いた様な形となったのです(アルの本望であったかどうか
疑わしいのは先述の通り)、特に社会的メッセージを歌うようになったマーヴィン・ゲイに代わる
セックスシンボル的存在として祭り上げられていったようです。上のアルバムにおける右側
「Al Green’s Greatest Hits」(75年)のジャケットを見ればわかる通り、上半身裸のアルの姿が
それを象徴しています。ちなみに本ベスト盤がアルにとって最も売れた作品でした(ダブルプラチナ)。

次作「I’m Still in Love with You」(72年)は前作を上回る大ヒットを記録(ポップス4位・
R&B1位、プラチナアルバムに認定)。上はそのタイトルトラック(ポップス3位・R&B1位)。
アルはハイ・レーベルの看板シンガー、というよりも70年代ソウルを代表する存在へと成って
いきました。

さらにソフト路線を推し進めたアルバム「Call Me」(73年、ポップス10位・R&B1位)も
大ヒット。上記のタイトル曲を含む2曲のTOP10ヒットを生み出しました。

ハイ・レーベルに在籍した69年から78年の間にオリジナルアルバム12枚とベスト盤2枚を
リリースしています。シングルカットされた枚数は、数えるのを止めました…(物好きな人は
数えてみてください。英語版のウィキに載ってます)。ちょっと異常とも言えるペースです。
如何にアルの人気が凄かったか(レコード会社がアルに依存していたか)という証拠です。

アルだけに限った事ではなく、70年代半ばからソウルミュージックの人気には陰りが
見え始めました。世間の興味はディスコミュージックなどの新しい音楽へと移っていったのです。
78年のアルバムを最後にアルはポップス・エンターテインメント界を離れ、ゴスペルシンガーと
しての道を歩み始めます。74年にガールフレンドとの間にトラブルが起きた末、彼女が自殺して
しまった事が彼へ転身を決意させたと言われています。勿論それが大きな要因だったのでしょうが、
自身を含めたソウルミュージック界の低迷、あまりにも忙しすぎたそれまでの約10年間など、
諸々の事が複合的に絡み合って彼に決意させたのではなかったのでしょうか。

80年代後半、アルはショービズ界へ戻ってきます。前回の中でも触れたユーリズミックス アン・レノックス
とのデュエット「Put a Little Love in Your Heart」(88年)は、アルとしては74年以来の
全米TOP10ヒットとなりました。
03年からはジャズの名門ブルーノート・レーベルへ移籍し、3枚のアルバムをリリースしました。
昨18年にはカヴァー曲ですが、アマゾンミュージックオリジナルとしてレコーディングしています。
アレサ・フランクリン亡き現在、ブラックミュージック界のシンガーで現役最古参として活動している
一人でしょう(72歳)。あとはディオンヌ・ワーウィック(78歳)、ダイアナ・ロス(74歳)、
スティーヴィー・ワンダーは意外にまだ若く68歳です、何しろデビューが12歳でしたから。
ロバータ・フラック(81歳)がいますが、去年の4月にアポロ・シアターの壇上で体調を崩し、
そのままステージを降りてしまい、後に脳卒中であったとマネージメントサイドから発表があったそうです。
あとは 
… 誰がいましたっけね?・・・

特にソウルシンガーはライヴにおいてその真価が発揮される、とよく言われます。確かに同感です。
アルのオフィシャルなライヴ盤は81年にリリースされた「Tokyo Live」が唯一のものです。
78年6月の中野サンプラザにおけるコンサートを収録した本作は、私も今回初めて聴いたのですが、
”素晴らしい” の一言です。アルを甘くソフトなラブソングシンガーと認識していた昔の自分が恥ずかしい。
まるでジェームス・ブラウンやオーティス・レディング張りのシャウトがさく裂し、エネルギッシュな
歌声と抑制の効いたそれによる緩急の付け方は見事。これが本来におけるアルの姿であったのでは
ないかと考えてしまいます。
最後にご紹介するのはやはり生演奏。あまりにも有名な米における音楽番組『ソウル・トレイン』に
出演した際のもので、74年のシングルヒット「Sha-La-La (Make Me Happy)」。喉が若干本調子では
ない様な気もしますが、そんな事は些末に思えてしまう程伸び伸びと歌うアルの姿が素晴らしい。

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