#102 River Deep – Mountain High

前回のテーマであるアル・グリーン「Let’s Stay Together」について、私の世代ではこの人のカヴァーで
初めて耳にした人が多いかと思います。

83年11月にリリースされた本曲は、全米チャートにてポップス26位・R&B3位のヒットとなります。
当時はよくわかりませんでしたが、それまで公私共に長く続いた彼女の不遇の時代から抜け出すキッカケと
なった曲でした。そして翌年、本曲を含むアルバム「Private Dancer」は全米だけでも500万枚を超える
メガヒットとなり、まさしく ”ティナ・ターナーここにあり” 、という見事な復活劇を遂げたのでした。
前回の終わりの方で長いキャリアを持ち、現在でも活動中の黒人シンガーを列挙しましたが、「あれ、
ティナ・ターナーは?」と思わた方、あなたはするどい。今回から取りあげる為にあえて外したのです。
(べ、別に忘れていた訳じゃないんだからね!ご、誤解しないでよね!!)・・・

39年、テネシー州生まれ。セントルイスのクラブに出演していた、後に夫で音楽的パートナーとなる
アイク・ターナーの音楽に魅かれ、やがて17歳の時には彼のバンドで歌うようになっていました。
60年、上の「A Fool in Love」でシングルデビュー。それまで ”リトル・アンナ” と名乗っていたのを
(本名はアンナ・ブロック)、レコードデビュー前にティナへと改名します。アイクが好きなアメリカン
コミックで、『ジャングルの女王シーナ(Sheena)』という漫画があり、その主人公の名前にかけた
との事( ”シーナ” と ”ティナ” )。小柄で細身のティナでしたが、そのパワフルな歌はジャングルの女王を
想起させるものであり、実際その当時のステージでは、シーナというキャラクターの衣装を身に着けて
歌っていたようです。「A Fool in Love」はポップスチャートで27位・R&B2位のヒットとなります。

翌61年、「It’s Gonna Work Out Fine」がポップス14位・R&B2位と、ポップスチャートで
TOP20に入るヒットとなり、グラミー賞へもノミネートされました。アイク&ティナ・ターナーは
人気・実力ともに世間が認める所となっていきました。
初期におけるティナの歌唱スタイルはかなりヒステリックなシャウト(雄たけび?)が印象的です。
人によって好き好きは分かれる所ですが、これが彼女本来のスタイルであったのか、それとも『ジャングルの
女王シーナ』を意識して、アイクがその様な歌い方を要求したのか、以前は判りませんでした。
ちなみに62年に籍を入れる二人ですが、60年のデビュー頃には既にアイクによるティナへの
身体的・精神的虐待、所謂DVは始まっていたとの事です。

彼女たちのキャリアにおいて最大のヒットは71年の「Proud Mary」(ポップス4位・R&B5位)です。
言うまでもなくジョン・フォガティ作のCCRによる69年の大ヒットナンバー。本曲においてアイク&
ティナ・ターナーは初の、そして唯一のグラミー賞を獲得。同年に発売したカーネギー・ホールでの
コンサートを収録したライヴアルバムはミリオンセラーとなります。73年には彼女たちのアルバムとしては
最大のヒットとなる「Nutbush City Limits」(ポップス22位・R&B11位)をリリース。
アイク&ティナ・ターナーとしてはこの頃が黄金期がであったと言えるでしょう。

アイク&ティナ・ターナーの楽曲の中で、私がベストトラックと思うのが上の「River Deep –
Mountain High」(66年)。フィル・スペクターによるこの名曲は、本国ではレコード会社の
プロモーション不足などもあり(フィルはこれに対しかなり怒ったらしい)、ポップスチャートで
88位、R&Bチャートにいたっては圏外と振るいませんでした。しかし米以外のヨーロッパ各国や
豪においては、全英チャートの3位をはじめとして大ヒットを記録します。
今回調べている中で、ティナの自伝にて本曲のレコーディング時の事が記されている事を知りました。
はじめはフィルの ”変人” ぶりに面食らったティナでしたが、やがて曲の素晴らしさ、フィルの創作の
進め方に関心していったそうです。ティナはいつものようにアドリブでシャウトを入れましたが、
フィルにそれをたしなめられます、”メロディを素直に歌ってくれ”、と。ティナの歌唱スタイルについては
先述しましたが、どうやらそれはアイクに叩きこまれたスタイルだったようなのです。フィルはティナに
言いました、「僕は君のシャウトに対してではなく、声に惚れ込んだ。だから君とレコーディングが
したかったのだ。
」、と。そうしてこの傑作は完成します。フィル・スペクターが手掛けた数多の作品の
中でも、「Be My Baby」などと並び、所謂 ”ウォール・オブ・サウンド(フィル・スペクター・
サウンド)” を象徴する、彼のベストワークの一つと称えられています。

70年代半ばから、アイクのコカイン中毒と暴力がますます深刻化し、さらにデュオの人気は低迷、
長らく続いた法廷闘争などの末、78年に正式に離婚が成立しました。音楽的パートナーシップも
解消し、彼女はソロの道を歩み始めます。続きはまた次回にて。

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