#103 Private Dancer

アイク&ティナ・ターナーの解散による興行中止などから生じた負債を引き受けたティナは、
ラスベガスのキャバレーを巡業するようになります。ラスベガスでのキャバレーにおけるショーと
いうものが、日本で言う所の ”ドサ回り” と同じとは言えないかしれませんが、かつて全米TOP10
ヒットを出し、アルバムもミリオンセラーとなったシンガーとしては、やはりなりふり構わない仕事の
選び方だったのではないかと思われます。

 

 

 


ティナは当時マネージャーであった人物に対し、ロッド・スチュワートやローリング・ストーンズの様に、
アリーナを満席に出来るようになりたいとの思いを語りました。彼はティナに対し、バンドを今風のロック的に再構築するようアドバイスしたとの事です。この頃のティナのステージングがどの様なものであったかは
わかりませんが、おそらく従来のソウル・R&B的なショーを行っていたのでしょう。70年代半ばからソウルミュージックの人気が凋落していく中で、彼の助言は商業的には的を得たものだったでしょう。そして
ティナは実際にロッドやストーンズの前座としてステージに上がりました。

前回も触れた通り、83年にアル・グリーン「Let’s Stay Together」のカヴァーがヒットし、久しぶりに
メインストリームへと返り咲きました。キャピトルへ移籍しての第一弾シングルが当たった事もあったの
でしょう、翌84年リリースのアルバム「Private Dancer」はキャピトル側の並々ならぬ熱意が感じられる
豪華な顔ぶれです。ジェフ・ベック、元キング・クリムゾンのメル・コリンズ、マイケル・ジャクソンの
ビリー・ジーンにおけるドラムで有名なンドゥグ・チャンクラー、ジャズ界からはジョー・サンプルや
デイヴィッド・T・ウォーカーといった物凄いメンツです。またティナの復活劇にはデヴィッド・ボウイに
よる強い後押しがあったとされています。#77にてデヴィッド・ボウイを取り上げましたが、84年の
アルバム「Tonight」におけるタイトル曲で二人はデュエットしています。興味深いのは、この時期
低迷していた彼女を支えていたのが、ストーンズ、ロッド、ボウイといった英国のミュージシャンだった
という事。本国では飽きられていったかつてのソウルの女王を救ったのは海の向こうの同業者達でした。
イギリス人の根強いブラックミュージック志向がこの事からも伺い知れます。ちなみに本作の
レコーディングも二か月に渡ってロンドンにて行われました。本作からの最初のシングルカットが上の
「What’s Love Got to Do with It(愛の魔力)」。全米1位の大ヒットとなります。

タイトルトラックの「Private Dancer」。ダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーによる本曲は、
元は82年の自身達のアルバム用に作られた曲でしたが、ノップラーはこれは男性が歌う曲ではないと考え、
お蔵入りにしました。契約上の問題もあり2年の間塩漬けとなっていましたが、84年にその問題が解消し、
ティナに提供されたという訳です。ノップラーは録音には参加せず代わりにジェフ・ベックが弾いています。

上の「I Might Have Been Queen」から始まる本アルバムは、全米で500万枚以上を売り上げ、
ティナの見事な復活を象徴する作品であるのは、前回述べた通りです。
私はリアルタイムでこの当時の洋楽を経験しましたが、ちょっとオーバーな言い方かもしれませんけれども、
洋楽紹介番組などでは(そんなにありませんでしたが)、彼女に触れない時の方が少なかったのでは
ないかと言うくらいに至る所で取り上げられていました。「プライベート・ダンサー」でのグラミー賞の
受賞、チャリティーソング「ウィ・アー・ザ・ワールド」への参加など、その話題には事欠きませんでした。
また映画『マッドマックス』への出演など(観た事ないですが…)、女優としても活躍しています。

次作「Break Every Rule」(86年)も大ヒット。「Typical Male」(上は90年のライヴ)、下の
「What You Get Is What You See」などのシングルヒットを生み出します。

前作に引き続き、超豪華なメンツが参加しています。書き切れないので省略しますが・・・
上のシングルカットされた2曲を聴いてわかる通り、ダンサンブルなファンクナンバー、ストレートな
R&Rと、従来のソウル・R&B的な楽曲とサウンドではありません。これはティナに限った事ではなく、
85年にアレサ・フランクリンも「Freeway of Love」で久々にヒットチャートの上位に昇ってきましたが、
やはり従来のアレサ的なそれではありませんでした。これを歓迎したか、嘆いたかは人それぞれだった
でしょうが、時代がそういう時代だったのです。さらに言えば、ソウル・R&Bと呼ばれるものは共に
流行音楽の一つに過ぎないと言う事も出来ます、なので流行りを受けて変化していくのは仕方が無い面も
あるのです。ティナに関して言えば、先述の通り、アリーナを満杯に出来るようになりたいと思って
この音楽的変化を承知で演ったのです。彼女はそれで成功した黒人シンガーの筆頭だったでしょう。
しかし、ティナにしろアレサにしろ、その歌は紛うことなきティナ節・アレサ節だったと思います。ソウル
ミュージックの本質はその辺にあるのではないかと私は思うので、この時代の彼女達の一連のヒット曲を
一概に ”昔と変わってしまった・時代に迎合した” と否定するのもどうかと思うのです。

オリジナルアルバムのリリースこそ99年が最後となっていますが、その後も単発での楽曲の発表及び
コンサート活動は行ってきました。しかし10年代に入ってからは健康面で数々の問題が生じている様です。

最後に取り上げるのはロバート・パーマーの大ヒット曲「Addicted To Love」(86年)のカヴァー。
88年のライヴアルバム「Tina Live in Europe」に収録された本曲は、その後のベスト盤にも収録される
彼女の十八番と言っても良い楽曲。ティナは86年のツアーから本曲をレパートリーとしていたそうで、
パーマーのオリジナルに勝るとも劣らない名演です。
裸一貫で再出発を始めた時に、アリーナを満杯に出来るように願ったティナですが、「プライベート・
ダンサー」での再ブレーク以降はその思いを叶えました。実際ユーチューブで検索するとアリーナでの
ライヴ動画が山ほど出てきます。しかし、これはあくまで私個人の考えですが、特にティナのような
ソウルシンガーに関しては、所謂 ”ハコ” 、ライヴハウス・ある程度までの規模のコンサートホールで
聴くのがベストだと思います。ステージのミュージシャンは豆粒ほどにしか見えないアリーナ・ドーム・
野外フェスの最後列でも、最近のPA環境の発展により音質はだいぶ向上しており、前列の方と
遜色なくなってきていると聞きます。ですが、人間の声に関しては、たとえわずかばかりでも
その空気の振動が伝わる範囲で味わう方が良い気がするのです(それも気分的なものでしょうけど…)。
下はロンドンのカムデン・シアター(現ココ・クラブ)におけるライヴ。PV用に撮られた映像と
いうのも勿論ありますが、オーディエンスとの一体感はやはりホールならではのものでしょう。
まだまだそのワイルドかつエネルギッシュな歌声を世界中に届けて欲しいと願うばかりです。

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