#115 My Cherie Amour

前回の最後の方にて触れたスティーヴィー・ワンダー。年初からブラックミュージック特集を
続けていますが( 誰もおぼえてませんよね!(*゚▽゚) )、本当は特集のトリを飾る人に
しようと思っていました。ですが、ちょうどスティーヴィーの名前が出てきた所で取り上げて
しまおうと思います。人間いつどうなるか先はわからないので、例えば無実の罪で投獄されたり
∥||Φ(|’Д`|)Φ||∥、突如来襲してきた宇宙人にさらわれてしまったり ~👽👽👽Φ(‘Д`)Φ👽👽👽~、
朝目が覚めると一度も来た事がないダンジョンの最深部に取り残されていたり /~~\(‘Д`)/~~\、
かように、人生は何があるかわかりませんので書けるうちに書いておきます・・・ネーヨ (´∀` )

ポップミュージック史上、最も才能を持ったミュージシャンだと私は思っています。
その音楽的才能においてはジョン・レノン、ポール・マッカートニーをも凌ぐ存在です。
数多くのヒット作を放ち、今更説明不要な程・・・と思ったのですが … 。これだけのビッグネームで
ありながらその全キャリアにおいて、特に60年代における彼の音楽性及びその背景については
意外と語られていないのでは。それは彼の黄金期が70年代前半から80年代初頭にあるので、
致し方ありません。かく言う私もその時代こそが彼の真骨頂だと思っている一人です。
しかし60年代の活動に触れずしてその後の音楽性を語ることも片手落ちであるので、出来るだけ
簡潔に60年代をまとめていきます。機会があればこの時代についてはいずれまた触れます。
上は63年の全米No.1ヒット「Fingertips」。レコードではA面がパート1、B面がパート2と
分かれています。そして同日発売のライヴ盤も同じく全米1位。レコーディング時は12歳であった
少年のプレイがNo.1となった、これは快挙としか言いようがありません。
スティーヴィーを語る上で、モータウンレコードの創設者 ベリー・ゴーディに触れない事は
不可能ですが、彼のプロフィールはどうぞウィキ等で。
きっかけはスティーヴィーの少年期における音楽的相棒の親族に、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズの
メンバーがいた事。凄い子供がいるといってモータウンのスタジオで、ゴーディの前にてお披露目が
行われました(ダイアナ・ロスもその場にいたらしい)。ゴーディは最初、その歌声よりも器楽演奏の腕前に目を付けたそうです。ピアノ・ハーモニカ・ドラム・パーカッションを巧みにこなすその天賦の才に将来性を感じたとの事。意外にも歌声にはそれほど魅かれなかったらしいです。それは致し方なかったかも
しれません。声変わり前の少年なので、今後その歌声がどの様になっていくかは未知数であったのですから。もっともその心配は全く的外れなものとなりましたが。
「Fingertips」及びアルバムの中にはその後の、具体的に言えば60年代後半からの
スティーヴィーの才能の片りんを見出す事は難しいです。ミュージシャンによっては10代でデビューし、
その時点で既に音楽が完成されているという人もいますが、スティーヴィーは決してそうでは
ありませんでした(12歳ですからね)。当時における彼の才能は、むしろ聴衆を盛り上げる
ステージパフォーマンス、テンションの高さに顕著で、ゴーディ達もその天性の素質に注目していました。
この頃のステージでは、興奮し過ぎたスティーヴィーが持ち時間が終わってもステージを降りないので、
大人たちが抱えて引きずりおろすという事もあったそうです。
しかし、その後二年半の間は「Fingertips」の様なヒットには恵まれませんでした。スティーヴィーの
音楽的才能が開花し切っておらず、またモータウン側もどのように彼を扱えば、売り出していけば
良いのか試行錯誤が続いていたようです。

潮目が変わったのは65年暮れ、上の「Uptight (Everything’s Alright)」が「Fingertips」以来の
大ヒットとなります(ポップスチャート3位・R&B1位)。絵に描いた様な快活なソウルナンバーである
本曲は、ローリング・ストーンズの「サティスファクション」にインスパイアされた曲。アメリカの
ソウル・R&Bに心酔したロンドンの若者たちによる楽曲が本場の黒人少年に影響を与える、
このあたりは誠に興味深いものがあります。

ここから60年代におけるスティーヴィーの快進撃が幕を開けます。70年までにポップスチャートにて、
「アップタイト」を含め10曲のTOP10ヒットを世に送り出す事となりました(60年代って
言っているのになんで70年を含めるの?というのには理由があります、それは次回にて)。
全てがオリジナルという訳ではありませんが、彼のソングライティング能力が萌芽した時期と言えます
(ただしこの時期は全て共同作曲者が付いていました)。そしてゴーディが懸念していた
声変わりという点においても全く問題なく、シンガーとして更なる飛躍を遂げたのです。
上の二つはこの時期において、自作曲でなおかつその歌唱が素晴らしいと私が独断で選んだもの。
「I Was Made to Love Her」(67年、ポップス2位・R&B1位)はチャカ・カーンも
カヴァーしたのは以前取り上げた通り(#105ご参照)。「I’m Wondering」(67年、ポップス12位・R&B4位)はアルバム未収録曲ですが歌声が見事で、「I Was Made・・・」同様にその後の
ヴォーカルスタイルが確立されたものの一つではないかと思っています。

今回のテーマである「My Cherie Amour」(69年、ポップス4位・R&B4位)。本曲はビートルズの
「ミッシェル」に影響を受けて創られた曲、なので仏語の ”Amour” が冠せられたという訳。
ビートルズ、とりわけポール・マッカートニーとは縁が深く、82年の「エボニー・アンド・アイボリー」は
あまりにも有名ですが、二人は60年代半ばには既に会っていたとの事。曲は16歳(66年)の時に既に
書き上げていたらしく(「ミッシェル」の発売直後)、恋人との別れが元になっています。67年中には
ヴォーカル以外のパートが録音され、翌68年1月には歌が録られたそうですが、モータウン側が歌に
問題があるとして一年後の69年1月まで取り直し、ようやくリリースにこぎつけたそうです。67年頃
(17歳)には、その歌唱スタイルはほぼ完成されていたと思うのですが、何が問題であったのかは謎です。
メロディメイカーとしての才能が開花されたこの名曲は、はじめは「I Don’t Know Why」という曲の
B面でした。本曲はモータウンらしくない ”硬派” な曲で、玄人には評価が高いのですが(ストーンズが
後にカヴァー)、一般ウケはしそうにないのですぐに「マイ・シェリー・アモール」をA面として
再発されました。人によっては売れ線、アレンジが古臭いと揶揄する人もいるようですが、そのメロディの
素晴らしさは文句の付けようがなく、スティーヴィーによる傑作の一つと位置づけて良いでしょう。

この他にも、ボブ・ディランのカヴァー「Blowin’ in the Wind(風に吹かれて)」(66年、
ポップス9位・R&B1位)はスティーヴィーが社会的メッセージ、政治観を歌詞へ反映させる契機と
なった作品ですし、バート・バカラックの名作「Alfie」(68年、ポップス66位)はハーモニカによる
インストゥルメンタルであり、イージーリスニング的と敬遠するファンもいますが、そのハーププレイは
素晴らしいもので、一概に否定は出来ない楽曲と私は思っています。
この様に、色々な切り口からスティーヴィーを取り上げると、60年代だけでもまだまだ書き尽くせない
のですが、きりがないのでその辺りは機会があればいずれまた。
次回は71年からのスティーヴィーについてです。

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