#125 Alfie

スティーヴィー・ワンダー回の最後の方にてディオンヌ・ワーウィックの名があがりましたが、
ふと考えてみるとこれ程の大物シンガーについて、そのキャリアや音楽的バックグラウンド等について
意外にもちゃんとした知識を持ち合わせていない事に気付きました。折角ですからこの機会にて、
ディオンヌについて取り上げてみようかと思います。ただし本気で彼女の全キャリアについて
述べると大変な事になるので、あくまでざっくりと、今回と次回だけですが・・・

音楽一家に育ち、自身もその道に進むべくハートフォード大学音楽学部に進学し、在学中から
セッションシンガーとして活動を始めました。転機が訪れたのは62年、ベン・E・キングも
在籍したことで知られるコーラスグループ ザ・ドリフターズのセッションにおいて。
ディオンヌを語る上で欠かせない人物、アメリカを代表するソングライター バート・バカラックの
目に留まりました。バカラックまで語るととんでもないことになるので今回はあくまでディオンヌに
まつわる事柄だけ。バカラックはタイム誌において ”彼女は途方もなく強い面と、ソフトに歌った時は
とても優美な一面も持ち合わせている” とディオンヌについて語っています。
同年秋にバカラック作の「Don’t Make Me Over」でレコードデビュー。ポップスチャート21位・
R&B5位という順調な滑り出しを見せます。
最初のブレイクが翌年における上の「Anyone Who Had a Heart」。初の全米TOP10ヒットと
なり一躍スターダムの仲間入りを果たします。ちなみにこの曲は翌64年、60年代から70年代初頭に
かけてイギリスにおいて絶大な人気を誇った女性シンガー シラ・ブラックのヴァージョンが
100万枚近いセールスを記録し、そちらの方が有名になってしまいました。
64年には初期における彼女の代表曲とも言える「Walk On By」が大ヒット(ポップス6位・
R&B1位)。バカラックによる代表曲の一つとされる本曲は、余りにも多くのシンガーに
カヴァーされていますのでそれらは割愛。

ディオンヌにとって最初のゴールドディスクが言わずと知れた「I Say a Little Prayer」(67年)。
更に言うまでもなくアレサ・フランクリンのヴァージョンも大ヒットを記録する訳ですが、
リリースはディオンヌが9ヵ月程先でした。
”粘り気” の様なものがあるパワフルなアレサ版に対して、ディオンヌ版はアカデミックで洗練された
感があります、聴き比べもまたご一興。当然本曲も数限りないカヴァーが存在します。
上は翌68年のこれまた全米TOP10ヒットである「Do You Know the Way to San Jose
(サン・ホセへの道)」。バカラックは当時かなりボサノヴァに傾倒していたとも言われており、
ほぼ同世代であるボサノヴァの創始者 アントニオ・カルロス・ジョビンをかなり意識していた
のではないでしょうか。北米・南米と海を隔ててはいましたが両人とも大作曲家であるのは同様です。
ラテンフィール(二拍子)の曲ですが、ディオンヌはどんなタイプの曲でも歌いこなしてしまっています。

バカラックの代表曲として挙げられるものの一つとして「Alfie」は鉄板ですが、数えるのがイヤに
なるほど数多くのレコーディングが存在するスタンダードナンバーです。ですが、誰のヴァージョンが
最もポピュラリティーがあるかと問われれば、ディオンヌ版であると言って差し支えないのでは。
本曲について述べると本が一冊書けるのではないかという位に色々あるのですが、三行・・・・・
ではムリですが、なるべく簡潔に。
パラマウントピクチャーズより同名映画の音楽を依頼されていたバカラックとコンビを組んでいた
作詞家 ハル・デヴィッドは、当初その仕事に乗り気ではありませんでした。しかしラフカットを
観せてもらったりしているうちにイメージが湧き本曲が出来上がります。
バカラック達はディオンヌに歌わせるのが良いと考えていましたが、パラマウント側は先にも
触れた、当時イギリスで人気のあったシラ・ブラックを推していました。
色々とあったのですが、65年秋にバカラックが渡英しアビーロードスタジオでレコーディングが
行われました。ちなみにシラ版のプロデュースはジョージ・マーティン。シラは当時マーティンの
秘蔵っ子であったそうです。
シラ版は英でこそヒットしたものの、イギリスのみの映画プロモーション用だったものなので、
正式なテーマ曲という扱いではありませんでした。サウンドトラックに収められたのは、
その後夫婦デュオ ソニー&シェールとして人気を博すシェールのヴァージョンとなります。
ディオンヌは66年のアルバム「Here Where There Is Love」にて既に本曲を収録していましたが、
同アルバムからのシングルカット曲のB面に収められ、その時はあまりヒットしませんでした。
しかし一部のディスクジョッキー達がB面である「アルフィー」をラジオで推す事で世に広まり始め、
決定的だったのが67年4月に行われたアカデミー賞のテレビ中継におけるディオンヌの生歌でした。
それから本シングルはチャートを駆け上がりポップス15位・R&B5位を記録します。
本曲の40以上あるヴァージョンの中でもディオンヌのものが決定版とされています。人によって
感じ方は様々ではあると思いますが、やはりバカラックの楽曲を最も豊かに歌い上げる事が
出来るシンガーの一人がディオンヌに他ならないということではないのでしょうか。

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