#146 Ain’t No Mountain High Enough

マーヴィン・ゲイの最初の結婚相手がモータウンの創業者 ベリー・ゴーディーの姉で
あった事はよく語られる事です。マーヴィンよりも17歳年上の姉さん女房であったアンナと
結婚した事により、マーヴィンのモータウンにおける地位は確固たるものとなります。
勿論それがなくてもゴーディーはマーヴィンのカリスマ性に着目していたのでしょうが、
だから故に妹との結婚を認めた面もあるのかもしれません。
マーヴィンは女性関係に関してかなりの ” フリーダム ” であったそうです(英語はこういう時に
便利ですね。日本語では言えば単に女にだらしない、というだけですから・・・)。
別にマーヴィンの女性問題を取り上げようという訳ではありません。しかし、彼にとって
女性というのは重要なファクターです。別に色恋沙汰だけはなく、音楽上のパートナーという
意味において。前回書き切る事が出来なかった60年代におけるマーヴィンの活動とは、
女性シンガーとの一連のデュエットに関してです。

上は67年のヒット曲である「Your Precious Love」。デュエットの相手はマーヴィンを
語る上では欠かす事が出来ないシンガー タミー・テレルです。60年代のマーヴィンについては
自身のソロとデュエットを並行して捉えなければなりません。

初めての相手は(アッチの方じゃないですよ)メアリー・ウェルズ。当時においてはマーヴィンよりも
格上であったウェルズとコンビを組まされます。上は64年にシングルカットされポップス17位・
R&B2位の大ヒットを記録した「What’s the Matter with You Baby」。本曲が収録された
同年にリリースされた二人のアルバム「Together」についても言える事ですが、全体的に
ソフィスティケートされた音楽です。ウェルズがその路線、つまり白人ウケする方向性で
モータウンから出ていた為だと思われますが、洗練されたスタイルのウェルズにマーヴィンが
追従しているような印象も受け取れます。もっともマーヴィンにしても前回述べた様に初期は
ソフトジャズ志向であったのですからそれほど違和感は感じません。本作はR&Bチャートでは
ランキング圏外でしたがポップスでは42位と健闘。やはりその洗練さからでしょうか。

お次の相方はそれまでマイナーヒットはあったものの一般的には知られていなかったキム・ウェストン。
彼女にとって最初のビッグヒットが上のマーヴィンとの「It Takes Two」(ポップス14位・R&B4位)。
64年には先駆けて二人のデュエットシングル「What Good Am I Without You」をリリースしましたが、
そちらはスマッシュヒットといった結果。かなりブルージーなナンバーでウェルズのそれとは
方向性が違います。66年における二人のアルバム「Take Two」全体に言える事ですが、力強さ・
スピード感・黒人らしい粘り気があります。それでもゴーディーの下から出た作品ですのでポップさは
失われていません。が、今度はポップスでは圏外でありながらもR&Bで24位にチャートインします。

マーヴィンとのデュエットという点においては、先に挙げたタミー・テレルが最も知られる所です。
実はキムの次のお相手として別の女性シンガーがあてがわれていたらしいのですが、同時にタミーも
ブッキングされていたようです。それまで無名であったタミーは録音に対してかなりナーバスに
なっていて、それをマーヴィンが心をほぐしてあげていたという逸話があります。
用意された楽曲は夫婦ソングライティングチーム アシュフォード&シンプソンによる
「Ain’t No Mountain High Enough」、今回のタイトルです。
恥を忍んで白状しますと、やはり二人の掛け合いは絶妙だな、スタジオで一緒に歌ってこその
グルーヴ感・臨場感だな、などと昔は思っていましたが、だいぶ後になって二人の歌が別々に
録られたものだというのを知りました・・・・アレンジ・ディレクションが如何に大事か、ですね …
67年4月に発売された本曲はポップス19位・R&B3位の大ヒット。同年の8月のアルバム「United」も
R&Bチャートで7位と成功を収めます。
私はポップミュージックの分野において、本曲は類まれなる完成度を誇る楽曲だと思っています。
2:20程のあまりにも物足りないと言える短い楽曲ですが、素晴らしい要素が存分に詰め込まれています。よく言われるのがこの時期モータウンのお抱えバンドであったファンク・ブラザーズのベーシスト 
ジェームス・ジェマーソンのプレイ。勿論ジェマーソン以外のプレイヤーも特筆すべきものです。ジャズフュージョンの様な超絶技巧ではありませんが、それぞれが卓越したセッションプレイヤーとしていぶし銀の様な演奏が本曲の屋台骨を支えているのは言わずもがなです。楽曲に関しては一部の隙も無い創りでありますが、
特に1:30過ぎからの三番の転調へ向かうパートは何度聴いても鳥肌が立ちます。
短すぎる、でもその位の物足りなさを味あわせた方がかえって良いのかもしれません(でもやはりもう少し
味わっていたかった・・・・・)。そして言うまでもなく、マーヴィンとタミーのヴォーカルが
秀逸過ぎる事は当たり前の事。つまり、楽曲・アレンジ・演奏・歌の四拍子が全て高い次元で
完成された、数少ないナンバーの一つであるという事です。
アルバムリリースと同時にシングルカットされたのが一番上の「Your Precious Love」ですが、
これも更にポップス5位・R&B2位というビッグヒットになります。

続けて同年末にシングル化された「If I Could Build My Whole World Around You」も
ポップス10位・R&B2位とヒットを記録し勢いはとどまる所を知りません。
本作には上の様なナンバーも収録されています。フランク・シナトラと娘ナンシーのデュエットによる
No.1ヒット「Somethin’ Stupid」。快活なジャンプナンバーからメローな楽曲まで幅広く網羅した
本作は、黒人・白人問わず男女デュエットものにおける名盤の一枚です。

翌68年3月にリリースされた「Ain’t Nothing Like the Real Thing」はマーヴィンのデュエット曲と
しては初のR&BチャートNo.1となります。

続くシングル「You’re All I Need to Get By」もポップス7位・R&B1位の大ヒット。本曲も
アシュフォード&シンプソンのペンによる楽曲で、昇り詰めていくような高揚感は「Ain’t No Mountain High Enough」と共通しています。
これらを収録した同年8月のアルバム「You’re All I Need」もまたR&Bチャートで4位を記録します。

一躍スターダムへと駆け上がったタミーでしたが運命は皮肉なものです。67年に行われたある大学での
コンサートで歌い終わった瞬間にマーヴィンの腕の中へ倒れこみます。その前から片頭痛などの体の不調を
訴えていたタミーでしたが、モータウン側も、そしてタミー本人も折角上向いた来たこの時期に
休む訳にはいかぬと精密検査などは受けなかったそうです。結果的には脳腫瘍と診断が下され、
その後のタミーには複数回にわたる大手術と壮絶なリハビリが待っているのでした。
上記の曲はその合間を縫ってレコーディングされたものです。とても想像が付かない堂々した、
でありながらも20代前半という若さから弾き出されるキラキラとした歌いっぷりには感服します。
下世話な話しですが、二人の間に男女の関係があったのかと言えば、それはなかったらしいです。
マーヴィンにはその気があったと言われていますが、タミーはあくまで音楽上のパートナーと
捉えていたようです。
70年3月、タミーは急逝します。24歳という若さでした。世に知られる様になってからは実質的に
たったアルバム2枚という短い活動でしたが、だからこそ輝いていたのでないかとも思えます。

マーヴィンの落胆ぶりは相当なものだったそうで、ドラッグ・アルコールなどへのめり込む
一因になったと言われています(もっとも元々メンタルの弱い人だったというのもありますが)。
そして有名な話しではありますが、ベトナム戦争から帰還した弟のフランキーの悲惨な戦争体験を
聞くことによって様々な思いを抱きます。ポップスター・エンターテイナーとしての存在、
その音楽性、自身による音楽の社会への関わり方。その様な思索を抱くようになり、
それがポップミュージック史に残る大傑作「ホワッツ・ゴーイン・オン」の制作へと繋がる
訳ですが、その辺りは次回にて。

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